●一九七二年、香港から来日し、十七歳でたとたどたどしい日本語で『ひなげしの花』を歌ってデビュー。
●その後カナダの大学へ留学、マネージャーと結婚。
●一九八七年十一月に長男和平君を出産。
●十九八八年二月九日、『なるほど!ザ・ワールド』子連れで初出勤。
●三月十五日、育児雑誌『ピーアンド』に「ママはオマエを自分の手で育てたいので、オマエを連れて仕事に行きます。オマエとママにとっては、ただ、毎日の楽しいおでかけなのよね」と書く。
●同月二十日、超ベテラン歌手の淡谷のり子が『おはよう!ナイスディ』で「芸人は夢を売る商売なのに、楽屋に子どもを連れて来たりすると芸が所帯じみてよくない」と発言。
●四月二十八日、『サンデー毎日』の「電気じかけのペーパームーン」で評論家の中野翠がアグネス批判。
●六月十七日、『週刊朝日』が「講演料一七〇万円・アグネス先生キタルで、学園緊張。響く『ひなげしの花』今日も総勢六人」と報道。
●同月二十四日、『週刊朝日』が訂正記事。
●七月九日、作家の林真理子が『週刊文春』の「今日も思い出し笑い」でアグネス批判。
●九月十一日、アグネスが『中央公論』の「アグネスバッシングなんかに負けない」で反論。
●一九八九年二月十九日、アグネスが参議院で参考人として意見を述べ る。
●四月十日、林真理子が『文藝春秋』の「いい加減にしてよアグネス」で反論。
●五月十六日、平安女学院短大教授の上野千鶴子が『朝日新聞』の「論壇」で「働く女が失ってきたもの」を書きアグネス擁護。
●同月十九日、コピーライターの竹内好美が『朝日ジャーナル』の「『会社に託児所』を要求しない働く女の論理」で両派を批判。
●六月七日、作家の冥王まさ子が、『群像』の「『子連れアグネス』をめぐって」で新たな視点を提示。

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1.電気じかけのペーパームーン
  中野 翠(評論家)







 私は喫茶店に子どもを連れてくる母親というのに、なみなみならぬ嫌悪感を抱いている。
 私はタバコが好きだが、すぐそばに子どもがいる所でタバコを喫うほどの度胸はない。ガマンする。耳元で泣きわめかれても、子どもは泣くものと承知しているので、文句はいえない。ガマンする。母親とチラッとでも目が合ったら、「おや、かわいいお子さんですこと」的な微笑の一つも返さなければ人非人に思われるんじゃないかという強迫観念にも襲われる。
  私にしてみれば、つかのまのくつろぎを求めて入った喫茶店だ。お金払って、他人にそこまでサービスしなくてはならないいわれはない。
 喫茶店は大人の場所なんだ。不健康であって構わない場所なんだ。大人は不健康でなければくつろげないことだってあるんだ。子どもを連れてくるほうがまちがっている!……と怒りを燃やしつつ、小心の私は何もいえず、すごすごと別の喫茶店へと避難する。
 アグネス・チャンがテレビ局の楽屋に赤ん坊を連れてきて育児をしているという記事を読んだとき、ハッキリいって、私は「喫茶店に子どもを連れてくる母親とたいして変わらない」と思った。
 彼女は、楽屋は空気がきたないからという理由で、空気清浄機まで持参しているそうだ。私は、そばにいあわせて、タバコを喫えず、「かわいい」のひとこともいわなければならないテレビ関係者の人たちに同情した。
 ところが!その後のマスコミを見ると、これは美談らしいのである。快挙らしいのである。驚いた。さらに、アグネスが「職場に(テレビ局に)託児所ができて、みんな赤ちゃんを連れてくるようになるといいな」といい出し、それを何か進歩的な思想のように取り上げているのには、もっと驚いた。
 アグネスは本気で「職場に託児所を」と考えるのなら、それをテレビ局に望む前に、まず自分の会社(最近、夫を社長にして独立した)で実現してみたらどうか。託児室を設け、すすんで子どもを抱えた女性を社員として雇う努力をしてみたらどうか。芸能人というのは特殊な職業だが、世間的基準で見れば、テレビ局にとって彼女はいちおう「出入り業者」という立場なのだからね。
 少なくとも、「もし自分の会社だったら……」と視点を変えて考てみることはムダではない。そうやって「職場に託児所を」という思想の現実性や正当性を試してみることはムダではない。
 彼女の発言が、そういうきびしさの中から生まれたものなら、私は(大人の世界をたいせつにしたい私としては、同意できないが)、一つの主義主張として注目したいと思う。
 けれど、彼女の発言にはそういうきびしさは、感じられない。「私、むずかしいことは何もわからないの。そういうことは、私以外の誰かが考えればいいの。ただ、私は世の中がこうだったらラクできていいなぁと思ってるの」というノリで発言しているとしか思えない。
 このノリだったら、誰だって清く、正しく、美しいことがいえる。ただ、大人は恥ずかしくて口にできないだけだ。
 べつにアグネスの個人攻撃をするつもりはない。私が不思議でたまらないのは、マスコミが彼女を働く女のオピニオン・リーダーか何かのように美化し、祭り上げていることだ。恥ずかしい。
 中でも朝日新聞は、アグネスに対して妙に好意的だ。同じことを松田聖子がやったとしたら、どうだろう。断言するが、完全に黙殺したはずだ。
 それでようやく私はさとったのだった.「子ども」は、今や聖域の中のイキモノなのだ。今や「子ども」は「平和」「健康」と並んで、現代日本の三大神様───けっして相対化されることのない絶対的正義になっていたのだと。

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2.アグネス・バッシングなんかに負けない
  アグネス・チャン(タレント)






 事の始まりは、私が昨年十一月に生まれた長男の和平を仕事場に連れて行くようになってからです。自分の手で子供を育てたい。母乳をあたえたい。そういう自然な気持ちから、今年二月の仕事復帰の日から和平と一緒に動くようになりました。そのことをマスコミが取り上げ、「子連れ仕事人」と呼ばれるようになり、思いがけない賛否両論が起こったのです。
 それでも、最初のうちは、あくまで私たち親子と仕事の現場の人たちとの間の問題でした。その点、仕事先の人たちはこちらが恐縮するほどによく理解してくれて、和平がいることを面倒臭がるどころか、むしろ来ることを楽しみにしてくれるほどでした。それが、芸能界の先輩から「所帯じみてて貧乏臭い」「芸のためにならない」と注意されたことがきっかけで、子連れが正しいか間違いかという議論に発展していったのです。
 しかし、子連れ仕事に反対する人たちも、私たちのやり方にいろいろ不満はあったのでしょうが、私たちが具体的に「子連れ」でトラブルを起すこともなかったので、正面から批判することはありませんでした。
 なぜ急に、みんながアグネス・バッシング(叩き)を始めたんだろう。私なりに考えてみました。一連の記事を読んでみると、二つの原因があるように感じました。
 ひとつは私が芸能人なのか、文化人なのか身分不明であることのようです。「ひなげしの花」でデビューした女の子が、いつのまにか大学講師までやっている。どうなってるんだ。いったい彼女にどんな資格があるんだ。
 この疑問に関して、私も実は明確には答えられません。香港という複雑なバックグラウンドを持つ土地に生れ育ち、十七歳で来日。日本、カナダ、中国、アフリカの人々とかかわって来たことが、世の中の興味を引いたのかも知れません。自分の目で見たもの、耳で聞いたこと、それを歌や話を通じて与えられた場所で精一杯表現していくのが私の仕事です。世の中の苦しみを正しくつたえ、自分よりめぐまれない人たちを愛そうと訴えていきたいのです。この「愛」と「平和」のテーマを臆面もなく口に出してしまうので「女子どもの正論」と言われてしまうのかもしれません。
  たしかに平和な世界をつくることはむずかしく、人を愛することも簡単ではありません。でも心をこめてメッセージを送り続けていれば、きっと力になってくれる人たちがあらわれると私は信じています。一人の声では何もできないけれど、賛同してくれる人がふえれば、一つの社会現象にもなるのです。この姿勢はたとえある一部の人たちの気分を害したとしても、続けていく義務があると思っています。それが中国やアフリカ、アメリカの現状を見てきた私の責任でもあると思っています。
  私は身分不明で、肩書きの付けにくい人物かもしれません。でも肩書きがなくたってかまいません。はっきりとメッセージが伝われば、エネルギーは無駄ではないのです。時には歌、時には話、そしてエッセイを書くことも、大学で教えることも、すべて私のメッセージです。正論には男、女、子供、大人の区別はないはすです。私は人類のための正論はひとつしかないと思っています。表現は幼いところがあるかもしれませんが、意気込みは一人前だと思っています。もっともっと形にしていくためにがんばるつもりです。
 アグネス・バッシングのもう一つの原因は、私の子育て法にあるようです。
 私は和平が一歳半になるまでは、一緒に仕事に連れて行きます。子供は一歳半まではBABY、そのあとはBOYだと私は考えています。中国では「三歳定八十」といい、日本では「三つ子の魂百まで」といいますが、私は子供の一生にとつて一番大切なのは、乳児期から、この一歳半までだと信じています。だから、完全にオッパイから離れて一人で歩けるようになり、片言で話せるようになるまでは出来るだけ一緒にいてやりたいのです。同じ年頃の仲間づくりをしたくなる頃までは、私は和平を自分の目の届くところで見守ってやりたいのです。
 私は香港人のせいか、結婚して子供が生まれても、働くのは当り前と考えていました。仕事をやめるかどうかよりも、どうやって両立させるかだけが、私にとっての問題でした。人に預けっぱなしにしたくないので、考えたすえに子連れ仕事が始まったのです。決して楽ではないが、やりがいのあることです。
 子育ては人それぞれです。私は自分の子育てが百パーセント正しいとは思っていません。模索しながらも、精一杯努力した結果が今の姿になったのです。できるだけ他人に迷惑はかけないように注意していますし、これからも気をつけたいと思います。ひとつの実験だと思って、見ていただけれは幸いです。

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3.いい加減にしてよアグネス
   林 真理子(作家)






 この種の人間に、おそらく何を言っても通じるはずはないのだ。
 著作や発言からすると、アグネス・チャンという人は、善意と愛を信じるやさしい女性なのであろう。世界中の人々はみんないい人たちばかりで、みんながコミュニケーションをきちんと持ちさえすれば、必ず平和はやってくるといろんなところで言っておられる。それはまさに新興宗教と同じだ。口あたりのいいスローガンで、人々を祈伏しようとする。「神を信じますか」と、街頭で話しかけてくる人間を言いまかすことが不可能なように、この愛と平和の申し子の女性に、何を言ってもすべてが徒労に終わるであろう。
 こういう鈍感さ(私はあえてそう言う)に、うち勝つものは何もないのだ。たとえば、例の子連れ出勤問題にしても、彼女は無邪気にこう言っておられる。
「仕事先の人たちはこちらが恐縮するほどによく理解してくれて、和平がいることを面倒臭がるどころか、むしろ楽しみにしてくれるほどでした」
「子どもを連れていったことで、職場の雰囲気がなごやかになりました」
 という発言も、何度か見聞きした。こういう感想しか持てない人間に、「仕事場で子連れは是か非か」などという議論をふっかけてもぽかんとされるだけであろう。
 私は小説を書いているぐらいだから、人の心の裏をよむことに、たけているところがある。もし私が子どもを出産し、出版社や講演会に連れていったら、たいていの人がちやほやしてくれるに違いない。また連れてきてくださいね、と愛想のひとつも言うだろう。しかし私は、その表情から、全く別の感情をすばやく察することができる。他人の子どもというものに、すべての人が愛情や好意を持ちはしないというところから「迷惑」や「社会生活」という議論はスタートするのだ。
 私はこの原稿で、卑怯な手段であるところの伝聞や噂話はいっさいしないことにする。しかし、ひとつだけ言わせてもらうと、私の知り合いに、アグネスとかかわった人たちが何人かいる。テレビや雑誌の仕事に従事する彼らが、本当に嬉々として和平ちゃんをあやしていたか、来てもらって心から喜んでいたかというのは、おおいに疑問の残るところだ。
  「いやぁ、ケガでもされたらどうしようかと、気が気じゃなかったよ」
 という、ある人の言葉は、もしかしたら反対に、私への迎合かもしれぬ。が、人間というのはこうしたひとすじ縄ではいかないものだということは、ある程度の大人なら誰しもが知っていることだ。「みんなが喜んでくれている」という単純さは、ふつうの人はまず持たない。
 しかしその単純さを武器に、宗教めいたことをしてしまうところが、アグネスという人物の不思議さでもあるのだ。
 ふつうの大人、ふつうの芸能人が口にすれば、せせら笑われるか、偽善とののしられるであろう言葉が、いつまでも少女のような容姿を持つ女性から、たどたどしい日本語で語られると、ある人々は許してしまう。許すどころではない。あたかも素晴らしい啓示のようにもてはやすのだ。
 アグネス・チャンという人は、実に巧みに二つの世界を生きている人である。テレビの中では頭のいい社会意識にめざめた女性、新聞や雑誌に出る時は、愛らしいタレントの表情になる。この二つの世界は相乗効果をあげ、どちらも彼女に利益をもたらしているようだ。
 カナダ留学後、何年かパッとしなかったアグネスが再び脚光を浴びるようになったのは、ローマ法王に会える論文入賞であり、北京のコンサートであったと記憶している。ここで彼女は「世界平和を訴える知的タレント」ということで売り出してきた。マネージャー氏と結婚する時は、わざわざ香港、日本で二回の式をあげ、「国際結婚をし、ふたつの文化を手にした人」という演出をした。この、中国と日本というふたつの祖国は、その後の彼女の切り札となる。
 ある時は、中国人として、日本人の贖罪意識をつつき、ある時は「和平には半分日本人の血が混じっています」と、日本人しての連帯を口にする。また我々日本人がいちばん弱い「国際人」という言葉も、彼女は巧みに使った。
 少女の頃から「アメリカでは」「ヨーロッパでは」という言葉を吹き込まれて育ってきた日本の女は、同時にかの国の女の厳しさも学べと強いられたところがある。常に前向きに生き、キャリアを積もうと切磋琢磨している欧米の女性に比べ、あなたたち日本の女は甘ったれていると、いろんな人がいろんな場所で書いてきた。そこで突然もたらされた知識が、アグネス・チャンの、
「中国では、お母さんが赤ちゃんを職場に連れてくるのは当然です」
 というやつだ。そんなことができたら、どんなにラクチンであろう。そんな素敵なことが許されたらどんなにいいだろうかと、一部の女が思ったとしても不思議ではない。いや、一部どころではない、赤ん坊をかかえて働いているすべての女はそう考えただろう。しかし、ふつうの女だったら、「ちょっと待てよ」と思う。この世の中には、要求できること、要求できないことも確かに存在しているのではないか。地域の保育所をもっと完備せよ、零歳児保育を充実させろというのは、当然要求すべきことだろう。しかし、自分の子どもを職場に抱えていって、仕事の合い間におっぱいをあたえ、また自分の席に戻ってくるというのは、働く人間としての自負心が許さない。それはあまりにも甘ったれた夢物語だと思う。
 が、そういうふうには考えない女たちもいただろう。そういう女たちにマスコミが、「国際人」アグネスのイメージを提供した。そして子連れうんぬんの話はますます信憑性を持ってきたわけである。単なる野放図な欲望に、知的な、革新的ないろどりがあたえられたのだ。
 もう一度問いたい。「国際人」というのはいったい何なのだろうか。世界を駆け足でめぐって、その中から自分に都合のいい事実だけをピックアップすることなのだろうか。それとも国籍をいくつも持てば、それで国際人なのか。あるいは語学ができることなのか。日本においては「国際人」ということが、そのまま商売になる。そして純朴な人々は、「国際人」の言うことに耳を傾ける。彼らの言うことを信じる。私がアグネス・チャンに言いたいのはそこなのだ。
 最後に締めくくりを、曾野綾子さんのこの文章でさせていただきたい。いまから二年ちょっと前、アグネスはエチオピアの難民キャンプを訪ねた。その時見たものを、彼女はまた例の調子で書いたわけだ。
「私が出会った人はみんな礼儀正しかった。いい人たちばっかりだった。無表情で感謝の心がないと書いた曾野綾子さんは、いったい何を見てきたんですか」
 曾野さんの文章から、「私が外国の紀行文を書く時のルールは、たった一つです。それはある日、私がそこにいた時、こうだった、と書くだけです。それがその国の普遍的な状況だと言う言い方は、私はしないことにしています。私は学者ではないので、普遍化ができないのです。しかし私は、自分の目に映ったことをあなたから違うと言われると『ああそうですね、違っていました』と言うわけにもいきません。あなたは私の書いたものが、自分の見聞きしたものと違う、と非難しておいでですが、私は違うほうが当然だと思います。僅かな時の差、運命に似て出会う人々が違うこと、それを見る人の心や眼や、それらすべてが違うのですから、見えるものが違うのも当然でしょう。しかし『どこそこの人は皆いい人です』という式の言い分は、あなたがおっしゃる分には少しもかまわないのですが、大人は少し困ります。なぜなら、そういうことはこの世にないからです」

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4.せっかく楽しみにしていた論争が、
こんな形でチョンになるの






 いい加減にしてよアグネス!どうしてあんたみたいな特権的な女が、女の代表になったつもりでモノを言うのよ。だいたい職場に子どもを連れてくるなんて非常識じゃない。それにあの幼稚な平和論! なーにが国際人! 世の中甘くみるんじゃないわよ。ったくもう。
 とくれば、もちろんこの罵声の主は林真理子に決まっている。
 この一年、「子連れアグネス」に向かって、ことあるごとに砲撃を繰り返してきた林真理子の最後の総攻撃ともいうべき一文、「いい加減にしてよアグネス」が文芸春秋五月号に載っている。
 さてさて、この総攻撃にアグネス・チャンがどう対応するか、お楽しみはこれからだ。さすがのアグネスも、今回は白旗を掲げるかと思いきや、アグネスもさるもの、一旦退却すると見せかけで、林真理子を自陣深く誘い込み、一気に包囲せん滅してしまったのである。
 戦い終わったいま、海ゆかば林真理子の屍、山ゆかば中野翠の屍のありさまなのだ。合掌。
 包囲せん滅作戦は、4月22日の「アグネス子育て奮戦記」の放映でもって決行されたのだが、その戦略のあざやかさには舌を巻いた。
 番組冒頭でアグネスは「批判はむしろ励みになった」と軽くいなしておき、最後に「和平も一歳半になったので、はじめの計画通り子連れ出勤はもうおしまい。仕事場にはもう連れていきません」と宣言して、林真理子を封じ込めてしまったのだ。
 これでは林真理子も振り上げたこぶしのおろし場所に困る。彼女の逆上ぶりには眉をひそめていた私も、なんだか林真理子がかわいそうになってきた。
 せめて、真正面からぶつかってやれよォ、ズルいぞアグネス、などと、遅すぎる声援を林真理子に送りたくなるのだ。
 しかし、アグネス・チャンは徹底してズルだった。ズルというより、巧妙だった。孫子や毛沢東を生んだお国柄、ケンカのしかたなら、アグネスに一日の長があるのは当り前か。
 まず、アグネスは徹底して「ひとりの一所懸命なおかあさん」戦法で、全国五千万の母親及び母親予備軍を味方につけて林真理子を包囲した。
 林真理子がいくら「あんたなんかフツーの女じゃない」とノドをからして叫んでも、天ハ母親ノ上ニモ下ニモ母親ヲ作ラズ。それぞれ立場や子育て論は異なっていても、項張る母親、あふれる母子愛ということでは、日立て百万円ベビーシッターつきのアグネスも、時給五百円のパートのオバサンもおなじだとアピールしてみせた。
 これは効くよ。
 人は母子というだけで、パンダやネコやワニにすら感激できるものなのだ。ましてテレビ局でわずか十分の休憩時間にさえわが子に駆け寄り、おっぱいを飲ませるアグネスのけなげさに共感できない人間は、それだけで立派に「コワイ女」の三角帽子だ。
 ここまでみて、ああ林真理子の三面は楚歌になってしまったと思った。コマーシャルが終われば、残りの一面も楚歌になるだろうなと考えたら、ますます林真理子がかわいそうになった。
 果たして、コマーシャルのあとアグネスは「子連れ出勤の可能性と方法」という魅力的なテーマを持ち出して、残る一面を完全にふさいだのだ。つまり、香港や中国の保育環境や日本の企業内保育の出勤を夢みる母親たちをアジリはじめたのである。
 五千万人の母親がアグネスの側に回ったことは、同じ数だけの父親も林真理子の敵になったということになる。
 林真理子は、アグネスに突きつけた批判に対して、一言の弁解も反論も受け取らないまま、気がついたら一億人の敵のまん中に立たされていたのだ。

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5.働く女が失ってきたもの  上野 千鶴子(当時 平安女学院短期大学助教授)






 林真理子さんは月刊誌の中で、大へん冷静な正論を書いている。「子連れ出勤」が「許されたらどんなにいいだろう……。しかし、仕事の合い間におっぱいを与え、また自分の席に戻ってくるというのは働く人間としての自負心が許さない」。彼女の「正論」は、プロの職業人として「許されないこと」という「正論」である。歯を食いしばって、職場で男たちと肩を並べてきた女の例の「正論」である。この「正論」から見れば、アグネスさんのやっていることは「甘ったれ」た非常識、横紙破りにちがいない。
 だが、こういう「正論」で、女たちはこれまで何を失ってきただろうか。「正論」はしばしば抑圧的な働きをする。ルールを守れ、と叫ぶのは、ルールに従うことで利点を得る人たちである。女たちはルールを無視して横紙破りをやるほかに、自分の言い分を通すことができなかった。女たちが要求してきたのは、「仕事も子どもも」「有給の育児休暇を」「託児室つきのコンサートを」と、どれも前例にない非常識だった。
 アグネスさんは、山口百恵さんのように「結婚退職」も、松田聖子さんのように「育児休業」もしなかった。それはアグネス一家が「共稼ぎ」だから当然、という見方もあるが、昔から「共稼ぎ」の芸能人家庭は、お手伝いさんを雇って子育てを切り抜けてきた。庶民には手の届かないベビーシッターも、アグネスさんの収入ならいくらでも調達できるはずである。
 だがアグネスさんはそれをやらなかった。周囲がどぎもを抜かれる中で、芸能界で初の「子連れ出勤」という「非常識」をやってのけた。もちろんアグネスさんという「特権階級」と「ふつうの女たち」とを同列に論じることはできない。だがアグネスさんが世に示して見せたのは、「働く母親」の背後には子どもがいること、子どもはほっておいては育たないこと、その子どもをみる人がだれもいなければ、連れ歩いてでも面倒をみるほかない、さし迫った必要に「ふつうの女たち」がせまられていることである。
 いったい男たちが「子連れ出勤」せずにすんでいるのは、だれのおかげであろうか。男たちも「働く父親」である。いったん父子家庭になれば、彼らもただちに女たちと同じ状況に追いこまれる。働く父親も働く母親も、あたかも子どもがないかのように職業人の顔でやりすごす。その背後で、子育てがタダではすまないことを、アグネスさんの「子連れ出勤」は目に見えるものにしてくれた。
 アグネスさんの代わりに、こんな「代理戦争」を買って出るのは、かえって彼女には迷惑かもしれない。だが、女による女の「子連れ出勤」批判を、高見の見物して喜んでいるのはいったいだれであろうか。この「代理戦争」の本当の相手は、もっと手ごわい敵かもしれないのである。

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6.「子連れアグネス」をめぐって  冥王 まさ子(作家)






 子連れ出勤ができないのは働く人間としての自負心が許さないからではなく、仕事にさしつかえないとしても世間が許さないからだということは、仕事をもつ母親なら誰でも知っている。働く人間の自負心とは仕事の内容で勝負することだ、ぐらいは職業をもつ人間の「常識」である。他人のプロ意識を云々する前に自分がはたしてすぐれた仕事をしているか問うのも働く人間の自負心である。それはともかく、子連れ出勤をめぐってアグネスさんの言動が目に余るとして紙面批判する人たちは職業意識よりも重要な認識を欠いているのだ。つまり、その批判はたとえば、「みんなが我慢しているときに自分だけ勝手なことをするのはずるい」という、校則違反をめぐるある中学生の投書と軌を一にしており、それは規制が上野さんがいう通り「抑圧的に働いて」いる社会においてのみ「正論」なのだ、という認識である。その「正論」がどれほど抑圧された人から吐かれたのかは知らないが、子連れ出勤が「許されたらどんなにいいだろう」とあるのはけっして慨嘆ではなく、許してやるものか、の意を含んでいるのは明白で、つまるところ特権的例外を特権的に排除しよう、ということにすぎないのだ.
 アグネス批判の批判を買って出た上野さんはフェミニストの戦略で例外的なアグネスさんを「働く母親」としてあえて一般化し、それを擁護論の支えにした。それはそれで立派だ。アグネスさんを突破口にしてそこへ女の集団をなだれ込ませることができればそれに越したことはない。例外が例外でなくなることはたしかに「進歩」の一様相である。その結果働く母親たちがこぞって乳のみ児を職場に連れて行くようになるのも悪くないし、父親がそうするようになるものいい。
 とりあえずわたしは「アレルギー戦士」の立場から子連れアグネスを擁護する。もしすぐれた社会を想定することができるとすれば、それは一人一人が例外的すなわちユニークな存在でありうる社会である。ユニークな存在を許さない社会では、ユニークであるためには山をも動かすほどの信念がいる。アグネスさんはユニークな強者だから生きのびるだろう。それではユニークな弱者はどうなるのか。日本人は自分もなりうるような一般的弱者を許容するが、例外的であることを選ぶ弱者には俄然排除の論理を適用する。今のところアレルギーを起こせるほどユニークな弱者はつぶれてしまうよりほかなく、それがいやなら集団に順応し、集団そのものになるよりほかはない。それを徹底指導しているのが学校教育だ。そういう悪循環のただ中でユニークな一匹よりユニークではなくなってしまった九十九匹の運命がこの頃気になってしかたがない。

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7.『会社に託児所』を要求しない働く女の論理  竹内 好美(コピーライター)






 アグネスが和平くんをスタジオに連れて行っているという話題を初めて耳にした時、大多数の働く女性は、好意的に受けとめたことと思う。
 その時の平均的な心理は「やっぱり母親って赤ん坊とは一刻も離れがたいものだからね。アグネスのような仕事なら、それができるわけだから、大いにやるべきよね。そういう人が一人でも増えてくるのは、また別の側面から働く女性をバックアップすることになるだろうし……」というあたりだったろう。
 その後、登場したアグネス批判に対して、働く女性たちからの反論がまったく出なかった理由は、林さんのヒステリックな論調に嫌気がさしていたこともある。が、それ以上に論争の中心が「仕事場で子連れは是か非か」という、働く女性の側からすればおよそリアリティーのないテーマに終始することになってしまったからなのだ。
 労働者としての私たちは、もちろん仕事場に子連れで行くことを企業に要求できるが、それを要求する気はない。実に簡単なことだ。赤ん坊を抱いて道を歩く時、私は小学生がこぐ自転車すら怖い。行き帰りで数百段になるだろう階段の昇り降りが怖い。踏切りを渡る途中で降りて来る遮断機が怖い。赤ん坊の顔にかかるタバコの煙が怖い。電車の中にうようよいる病原菌が怖い。
 怖いものだらけで朝晩五〇分ずつの通勤時間。赤ん坊と自分に降りかかってくる緊張と疲労。こりゃどう考えたって、家の近くの保育所に預けるんがラクチンに決まっている。
 こういうごくごくあたり前の正論がまったく出てこないで、いつまでも感情論が展開されているところに、現実の働く女性たちは、自分の実感との大きなギャップを感じてしまう。
 もう一つ、私たちが「職場に託児所を」と要求しない大きな理由がある。
 結婚した途端に、働く女性たちは職場で自分たちが働くことのネックになっている「男性社会」の出先機関が家庭内に出現したことを知る。愛し合って結婚したはずなのに、恋愛中はフィフティーフィフティーの立場だったはずなのに、夕食をつくるのは自分。クリーナーをかけるのも自分。洗濯物を干すのも自分。ふとんを敷くのも自分という事実に直面する。その間、男は当然のように新聞を一面から順にゆっくり読み進む。
 なぜ? 私、新聞取ってくる人。彼、新聞読む人。この完全なる分業制。なんだこれは、家庭内職場にほかならないではないか。
 夫を自分の味方に改造するために、女は毎日毎日話し続ける。話して通じなければ、すねる。ふくれる。泣く。わめく。怒りを爆発させる。そんな戦いのあげくに、やっとシブシブ男たちは洗濯物をたたみ始める。
 おそらく、大多数の働く女性たちが、この段階で挫折し、ちょうど大きさが目立ってきたお腹を抱えて、子育てに専念するのも、女の幸せの一つの形かもしれないと思い始めるのだ。
 でなければ、男があくまでも家事労働から逃げるなら、すべて自分一人で引き受けるしかない、と悲愴な覚悟をしてしまう女性。仕事は続けていこう。だが毎日帰りが遅い夫をアテにすることはできない。仕事も、家事も、育児も、自分だけを頼りにやっていこうと決意した女性。
 「職場に託児所を」と要求するのは、このタイプのスーパーウーマンなのだ。
 職場に託児所があれば、保育園へのお迎え時間に戦々恐々とする必要がない。少々のことなら、残業もできる。子供になにかあった時、すぐに駆けつけられる。だが、母親の職場に子供がいるという状況は、実は、父親が子育てを完全に拒否していることにほかならない。子供の送り迎えは連日まったく母親一人に任される。父親がわざわざ母親の職場へ子供を迎えに来るケースはほとんどないだろう。先程述べた子連れ通勤の肉体的、精神的な負担がすべて母親の肩にかかってくる。
  「職場に託児所を」という要求を女性たちが掲げて行動し、仮にその要求が実現されたとしよう。
 それでは、今まで男性社会を都合よく根底から支えていた良妻賢母たちが仕事を持ったことにしかならない。男性社会の一方的な論理に文句も言わず忍従してきた女性が、家庭と仕事の両方の場で更なる忍従を強いられるという結果しか得られないのだ。
 働く女性が、今しなければならないことは、働く良妻賢母になることではない。
 私たちは働く。家計の半分を引き受ける。だから、家事と育児も半分ずつ。もちろん、保育園の送り迎えも半分ずつ。一番身近な存在である一人の男性に要求することなのだ。生産性のみを追求する男性社会で、子育てというハンディを背負った女性の生産性は〇・五程度にしかカウントされない。確かに、家事と育児のすべてをこなしていれば、それはいたし方ない。だが、その負担が半分になればどうだろうか。私たちは、もっと評価される働き手になるはずだ。
 一方男性たちは、家事と育児に手を染めることによって、薄っぺらな仕事人間から厚みを持った生活人に生まれ変わる。少々生産性が下がっても、そこから得られる充足感ははかり知れない。
 こうして、男性社会の構成員を、働く女性一人が一人ずつ引っペがしていくこと。それが「婦人問題」と、男性たちに一言のもとに片づけられている私たちの事情を、男性も含めた人間たちの問題として提起することになる。ほんの少しずつだが、男性社会の壁に穴をあけ、仕事と家庭生活が無理なく両立できる世の中を生み出す力につながっていく。
 私たち、働く女性は、歴史的には「悪妻」と呼ばれ、侮蔑の対象とされてきた女性として生きていこう。そういった意味では、私たちは旧態依然の良妻賢母を演じるアグネスをも支持しない。だからといって、林さんに勝ち誇っでもらっては困る。「私には守らなくてはならない大人の世界というものがあるのだ」という林さん。その独断が、女性、子供、その他の、男性社会における弱者たちを疎外するためのキャッチフレーズにいつでも転じ得ることに、あなたは気づいていないのだろうか。

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8.男女雇用均等法で何が変わるか






1 男女雇用機会均等法とはどのような法律なのか?


 「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保の促進」が、男女雇用機会均等法の在り方について、しばしば論点となります。
 均等法の基本的理念は、女子労働者は経済や社会の発展に大きく貢献し、かつ、次代を担う者の生育について重要な役割を持つ者であるため、女子労働者が母性を尊重されつつ、性別により差別されることなくその能力を有効に発揮して充実した職業生活を営み、職業生活と家庭生活との調和が図れるようにすることです。
 今までの男女雇用機会均等法や女性労働者に関する労働基準法は、女性を保護するという観点に立って考えられてきていましたが、これからは、その保護も女性差別の一種だと考える動きの中で、女性蔑視はもちろん、逆に女性だけの優遇も改められることとなりました。
 今回の主な均等法改正点は、次のとおりです。
1)募集・採用時や、配置・昇に関して、労働者が女性だということを理由に、男性と差別的な取扱いをしてはいけない。
2)定年・解雇・・退職について、次のことが全面的に禁止れて いる。
 *定年及び解雇についての差別的取扱い
 *結婚、妊娠、出産を理由とする退職制度の設定
 *結婚、妊娠、出産したこと、又は労働基準法の規定による  産前産後休業の取得を理由とする解雇
3)女性の少ない職場に女性のみを新たに配置したり、女性のみ に教育訓練を受けさせ、管理職に登用する場合には、改正均 等法違反にはならない。
4)事業主は、職場において性的言動によって女性労働者が労働 条件で不利益を受けたり、働く環境が害されることがないよ う、雇用管理上必要な配慮をしなければいけない。
5)改正前にあった、次の、管理監督者、専門技術者を除く満18 歳以上の女性についての「女子保護」規程を撤廃する。
 a)一週間について6時間、1年について150時間を超えて  時間外労働をさせてはいけない。
 b)休日に労働させてはならない。
 c)午後10時から午前5時までの間において労働させてはなら  ない。
6)事業主は、男女を問わず、育児や家族介護を行う労働者が請 求してきた場合には、事業の正常な運営を妨げる場合を除い て、深夜に労働させてはいけない。



2 均等法の改正はどのような影響を与えるのだろうか?


 労働基準法において、女性労働者の時間外・休日・深夜の就業が規制されていたため、残業をし、休日出勤をしている男性労働者が同期の女性労働者より、高地位に就くことは当然であるとの考えが定着していました。ところが、今回の均等法改正に伴い、労働基準法のこれらの規定は解消されるため、もはや、女性労働者の昇進を妨げていたこうした企業側の主張も解消されることになるでしょう。
 このように、男女差別待遇が解消され、女性にとって働きやすい環境を確保したと思われる改正均等法も、実際には、問題を多く含んでいます。
 女性が一生仕事をしていきたいと考えていても、出産、育児等の期間はどうしても仕事を継続することはできない場合が多いため、能力を持ち、キャリアを積んできた女性労働者であっても、出産を機に退職しなければならず、その後の職場復帰は難しいとされています。一方、多くの企業は、女性労働者は結婚や出産を機に退職する場合が多く、たとえ彼女らを教育しても、男性労働者と同様の労働はさせられないため、男女格差はやむを得ないと考えています。
 そのギャップを埋めていく方法の一つとして、女性の職場復帰の推進が考えられます。最近、終身雇用制度、年功序列制度の在り方について論議し、能力主義、年俸制の導入についても検討を始めた企業が増えています。従って、今後は、転職や女性の職場復帰も、活発化しうるのではないかと思います。こうした方法は、企業側にとっても、実際に能力のある女性労働者の労働力を再活用できる上で、大きなメリットが生じると考えます。
 他方、女性の職場復帰を妨げるもう一つの要因として、育児・介護の負担があります。実際は、家庭の中で、育児や高齢者の両親等を介護する仕事は、主に、女性が負担するという傾向が多分にあります。改正均等法の掲げる男女平等な労働環境を目指すにあたっては、こうした暗黙の不平等を真剣に受け止め、こうした育児、介護の負担も男女平等に負うという姿勢が必要でしょう。そのために、今まで、育児・介護は女性の仕事だと思いこんでいた男性も意識を改革し、他方、企業も、男性労働者の育児・介護に対し、考慮していく労働環境を作っていくべきなのではないでしょうか。



3 今回の改正により、どうなるか


 今回の均等法改正に伴い、「一方の性のみを示す職種名」での募集が原則として禁止されるので、「カメラマン」は「撮影スタッフ」に、「スチュワーデス」は「客室乗務員、フライトアテンダント」に、「看護婦」は「看護婦、看護士」になります。そして、労働省は、次に挙げる職業に関してはこれらの適用を除外するとしています。
 a)俳優、モデル等、芸術・芸能分野で、一方の性でなければ  ならない職業、
 b)守衛、警備員等、防犯上、男性が必要な職業、
 c)宗教(神父、巫女)、風紀上(女性更衣室係員、エステテ  ィシャン)、
 その他業務の性質上(ホスト、ホステス、レースクィーン)、一方の性に従事させる必要性がある職業、このように、職種名から女性のみ、男性のみの職種と解される名前は適用除外の職種以外はすべて変更されることになります。こうした配慮はもちろん必要ですが、本当にこうした政策が本質的な平等を保障していることになるのでしょうか?
 本質的な平等とは、男女に関係なく、その個人の持つ能力を存分に発揮できる労働環境ではないかと考えます。
 男性労働者は、結婚、子供の誕生に係わらず、継続して、一定の年齢まで働くという形態がほぼ一般的です。ところが、女性労働者の場合には、2つの形態があるように思います。
 つまり、結婚、出産を機に、退職したあと、育児に専念し、仕事はパートタイム労働者等として、家庭の家計の足しに就労したいと考える女性労働者と、出産と育児を経て、一定期間の休業の後、再び、自分の能力、経験を発揮して、働きたいと思っている女性労働者がいます。
 こうした異なる労働形態を希望する女性労働者は、今回の均等法改正に対してもそれぞれ異なる意見を持っています。前者の場合、時間外・休日労働、深夜業の就業等、今まで禁止されていたことにより、家事と仕事が両立していたと考え、改正均等法、改正労働基準法により、長時間の就業が強いられたり、あるいは、その要件を受け入れられない女性労働者はパートタイム労働者としても職場復帰できないのではないかとの不安を持っています。他方、後者の場合、男性労働者と同様の就労ができるようになったおかげで、昇進、昇格の妨げの一つが解消されたと評価しています。
 このように、現実には女性労働者とひとまとめにしても、家庭重視型女性労働者と労働重視型女性労働者の各々の立場によって労働に対する意識が違うことも認識しておく必要があるでしょう。



4.最後に


 現在、少子化が進行していますが、その原因の一つは、現在の労働環境にあると思われます。つまり、一度、結婚や出産のために職場から退いたならば、もう二度と、同じ労働環境で就労することはできず、自分の結婚や出産前の就労経験や能力が、結婚・出産を機に、埋もれてしまうことを多くの女性労働者は懸念しているのです。また、子供を預ける託児所も十分普及していない上に、安心して預けられる場所も確保できないのが現状です。
 こうした問題を回避するために、託児所を充実させるだけでなく、成長過程における重要な幼児期に心の教育ができる専門家が配置されている保育所等も充実させることが必要でしょう。また、そうした専門家の配置は、労働環境の向上の面からだけでなく、雇用を生み出すことにもなります。現在でも、各地で少しずつこうした保育所が充実してきていますが、今後、さらに、この取り組みが重要になってくるでしょう。
 さらに、本質的な観点から、男女平等の労働環境を整備するためには、男性労働者にも、育児休暇がより容易に活用できる環境を整えたり、企業内に保育システム設置するなど、行政・企業の育児を考えた対策も行っていくべきでしょう。
 ある学説では、母性保護を除く女性のみ保護規定の解消は、今日において避け得ない選択肢であったことは認めつつ、実際には、多くの女性が男性の約六倍の家事労働を担い、法制度上はともあれ現実の男性の働き方がきわめて長時間化している現状では、「女性のみ保護規定」こそが、家庭をもちつつ働く女性にとって、依るべき支えであったことは、否定できない現実があることを指摘しています。この双方を実現するためには、「女性を男性なみに扱う」のではなく、「男性を女性なみに扱う」ようにするべきだとする説です。
 このように、より良い労働環境作りを検討する際、育児問題を含めた教育システムと働く女性の連結を充実させることが今後より重要になってくるでしょう。また、こうした動向は、働く女性労働者にとってだけではなく、企業側にしても、能力のある労働力を確保するという点で、能力主義化しつつある現状に即していると考えます。
 最後に、女性労働者の職場復帰の壁となっていた育児問題をも考慮した取り組みをしていく中で、男性労働者や企業のこれまでの女性労働者に対する発想が転換されていくことを期待しつつ、同時に、女性労働者自身も、労働に対する認識を高めていく必要があるでしょう。

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