耳をすませばと 
近藤喜文監督

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『耳をすませば』は「監督・近藤喜文」だからこそ、美しい話の作品になった。

映画『耳をすませば』は、「監督 近藤喜文」でなければ、ここまで何年経っても多くの人から愛される映画にならなかったでしょう。
近藤喜文監督のアニメ制作中エピソードを、公開当時のインタビュー等よりまとめみました。

このページを読んで、改めて「耳をすませば」を観てみて下さい。きっとまた、新しい発見が見つかるでしょう。

『宮崎駿監督による近藤監督への弔事 』を追加しました。⇒リンク




○耳をすませば 公開前コメント


近藤喜文監督「(阪神淡路大震災や、オウムサリン事件が起きた)こういう時代ですから、やっぱり殺伐としたものよりは、本当に見てすがすがしいものを。
いま思春期の人だけじゃなくて、これからなる人も、昔そうだった人も、憧れを持って見ることができたらいいな」と語っています。
(耳をすませば 公開直前スペシャル19950701より)



○耳をすませば制作にあたって


・昔、近藤監督と宮崎監督が机を並べて仕事をしていた頃に、近藤監督が「少年と少女の爽やかな出会いの話をやってみたい」
 というふうな事を言っていたのを、宮崎監督が心に留めておいてくれた。

・近藤監督自身、「トトロの出ない、となりのトトロみたいなもの」をやりたいとずっと思っていた。

・日本の街をちゃんと描きたい、それにきちんとした大人を出したい。そういう想いがあった。

・ちゃんとした大人を出したいっていうことは、要するに同じ時代を子供と一緒に生きているんだと。
 宮崎監督流に言うと、特別理想化している訳じゃない、その時代を子供と生きたいだけなんだと。



制作手順


・宮崎監督が模造紙にプロット的に書いたものがあり、それをもとにしながら、近藤監督、宮崎監督が十分に話し合い、
 宮崎監督によって、実際の絵コンテ作業にはいっていった。

・絵コンテは、基本的に宮崎監督の思いが非常に詰まっているけど、一個一個に関しては、共感し、いろいろ注文も付け、
 頼みながら描いてもらったものだから、近藤監督も内容的に非常に気に入っている。

・近藤監督の気持ちと違和感のないように、宮崎監督に描いてもらった。



キャラクターデザインと絵コンテ


・キャラクター設計は、近藤監督が基本設計(ラフ)をして、作画監督がまとめていった。

・近藤監督の方法として、まずは原作はコピーし、原作のいろいろなコマに別の角度や表情が出てきたら、その都度コピーして、
 同じキャラごとに1枚の紙に貼ってまとめていった。
 キャラクターらしいということが自分なりにわかったところで、アニメーション用のものを描き起こしていくという方法をとった。

・宮崎さんがラフに描いた絵コンテを、近藤監督がクリーンナップさせて完成していった。
 Bパートの途中くらいまでは、クリーンナップをして、その際に全部キャラクターも近藤監督の絵にしながら描いていった。
 でも、絵コンテが完成する前に、原画が上がってきて、近藤監督は原画チェックにはいった。Bパート途中からは宮崎さんの絵のままになっている。

・その頃には、作画監督がキャラクター表にまとめたものができたので、それにあわせて原画の人がレイアウトを描いていった。



宮崎監督との衝突


制作段階において、宮崎駿監督との衝突がいくつかあった模様です。
大きいものは以下の2つで

・ムーンは映画版で黄色い猫にされた
原作では黒猫で「ムーン(オス)」「ルナ(メス)」が登場。天沢家の飼い猫です。
映画で黄色になったのは、魔女の宅急便で黒猫だったからとか。
近藤監督は原作の黒のままにしたかったが、宮崎監督の黄色案が通った。

・地球屋前で雫がしゃがむシーン、近藤監督と宮崎監督で大幅に揉めたとのこと。
下着が見えないようスカートを手で押さえる演技、これにより雫は『考えてから行動する自意識過剰の子』になった。
だが宮崎監督の雫像は『下着なんか気にせずにさっと座ってしまう、考える前に行動する子』であり、この違いで揉めたとのこと。
結局は近藤監督の方が使われた。

つまり「猫(世界観)」は宮崎監督が押し通ったが、「雫の動き(演出)」は近藤監督が通った、といったところですね。
このあたりが、耳をすませばのバランスにもなっていると思います。



背景について


・美術ついて、準備段階の時に近藤監督、宮崎監督、美術監督で打ち合わせをおこなった。

・東京の街をそのまま描いてもらいたい、電柱なども省かないで欲しい。
 その上で現実よりほんの少しだけ綺麗な町並みを描いて欲しいという要望を行った。
 「雨上がりなんかですと、色が鮮やかになってきれいに見えたりする」
 そういう感触を少し入れてもらえないか。少し懐かしいみたいな感じが出たらいいかなと思ってた。

・日常的な話だから、美術の人は大変だった。
 (演奏前の地球屋に訪れるシーンは)ほとんど夕方から日が沈むまでの全部分単位で描けみたいな話。それを30枚で表現する。



演出チェックについて


アニメーションは、すべてのシーンを人の手で描いていきます。

できあがった絵コンテ(脚本を元に作られた、簡単な絵入りの映画の設計図)を元に、アニメーター職人が 原画(実際に映画で使う絵、動き)、動画(原画と原画の中割)を描いていき、アニメーションは完成されます。

近藤喜文監督は、アニメーター職人達が描いた絵や動き、演出のチェックを行いました。
細かい芝居設計の訂正や表情の修正を行い、原画だけではなく時には動画に至るまで修正を指示したそうです。

「耳をすませば」は、この近藤監督のチェックのすばらしさがあってこそ、成り立った作品だといえるでしょう。

ここでは、その「近藤監督が行ったチェックの内容」を、わかる限り掲載していきます。
--> ※原画担当や監督助手の話をまとめています。

・コンテは宮崎さんだから、大きな部分では宮崎さん的になっているけど、
 ディティールや画面の完成度に関しては、近藤さんの力が大きかった。

・近藤監督のこだわりが「動き」のアニメーターだから、演出としての悩みとは別に、
 アニメーターとしての動きに対する気配りは大変なものだった。

・リアルになりすぎるのをおそれてはいた。でも、絵コンテの要求する内容が、非常にリアルさを要求としているから、
 日常に中のさりげないゆっくりとした動き、微妙な心情表現や自然現象などには、じっくりと手間や枚数をかけざるを得なかった

・近藤さん自身が、全てできたところで判断する。アクションデコーダー(撮影前に動きやタイミングを確認する為に、
 動画、原画の段階でビデオ等に撮影し、コンピューターに取り込んで、モニターで確認する為の専用の機械)
 が上がってからのリテイクもよくあった。

・近藤監督は、常に動かして存在感を出す方。近藤監督を見ていると、本人自身の動きもそう。


・イバラードで、雫が足を踏み出すシーン、3,4回原画で修正指示があった。
 飛び降りる時の足のアップで、足がそのままスッーっと飛び降りるシーン、最初思い切ってぴゅんとジャンプしてた。
 すると、近藤監督が「ないところに足を踏み出すわけだから、ちょっと探るような演技が欲しいな」と修正指示があった。

・近藤さんは結構、原画がやることを尊重してくれる。
 好き勝手にやってメチャクチャになると思いきや、目を通すところはとおしてる。
 絵を直すとき、細かでリアルな表現とか、まんがみたいな表情になったりとか、バランスをみている。全部リアルにしていない。
 かわいいキャラクターで、演技がリアルなんで、ある程度にあうっていうか、いちおうそれっぽくして、表情の方も抑えてるんですけど、
 時々ハメはずしたキャラクターのカットがあったりとか、そういうところはおもしろかった。

・杉村が「お前のこと好きだったんだ」と立つところ、最初は観客から見たら、若干杉村が背を向けてるように最初は描かれていた。
 すると、ちょっと雫が追い込まれているようにみえるわけで、修正が入り、それを直された後では、横向きになっている。
 当初の雫もちょっと正面向いてましたし。

 最初は押しているような感じだったが、近藤監督は淡々とした感じを出そうとした。
 近藤監督のもの、どちらも表情が見えて、観客からみて等価になっている。
 こんなところに近藤さんの視点が出ているのかと思われる。

・杉村の表情、流れとしてフラレルとわかっているところで叫ぶのはみっともないから、男の子としての尊厳を保てるようにと思いこんで描いていた。
 でもかえって中途半端になってしまい、「もう少し表情を厳しく」と近藤監督に言われた。

・杉村が雫の腕を掴んだアップで手から力がスッとぬけていくところ、最初は感情が入りすぎたのか、やり過ぎだと言われ修正が入った。

・杉村の表情、流れとしてフラレルとわかっているところで叫ぶのはみっともないから、男の子としての尊厳を保てるようにと思いこんで描いた。
 でも返って中途半端になってしまって、「もう少し表情を厳しく」と言われた。こんな表情を激しく  出してしまっても大丈夫なものなんだと思っていたのですが、声を担当したのが  今風の元気のいい少年で、男の子のプライドをきちんと持っている。その子の  性格がシーンとうまいこと合っていて、なるほど、とホッとしました。



・宮崎監督の場合、「ここはこうしてほしい」と確固たる自分の意志があって、
 原画が「こういうことですね」と持っていくと「違うんだ」と言われて引き下がるざるえない。

 近藤監督の場合は、原画が「こうじゃないですか」というと、「そうですか、きっとこっちですね」という感じのかけひきがある。
 少しずつ相手とのやりとりの中で、ビジュアルを創り上げていく。

・近藤監督は、スタッフの方からは粘り強い人だったといわれた。
 ドタン場にきて、原画の方が「大丈夫ですよ、これでいきましょう」と言ったことがある。
 (アニメーターが「ここ直したいんですけど」って言っても、監督が「大丈夫大丈夫」っていうのが普通)
 しつこく、しつこく直した。

・近藤監督がアクションレコーダをみているときに、よく原画にチェックにきました。
 そこで、「ああ、ちょっとマズイかなー」なんて注文をつけてくる事が多くて。
 動画まで仕上がったカットをまた原画までさかのぼってある部分を直したりとか、そういうこともあった。

・坂を二人で上るとき、雫が自転車を飛び降りて押す途中ジャンパーが落ちて、それを拾って追いかけていくカット、
 上がった動画を見た時に自分でも雫の動きがゆっくりだなぁと  思った訳です。タイミングが違うというか、フォローのカットなので、雫だけ直すだけではダメなんで大変でした」

・宮崎監督の月島雫像は、「悩んで溜息をつくことはあっても、すぐに現実に立ち向かえる」強い子なんですが、
 近藤監督の場合、特に意識したのかわかりませんが、「一生懸命なにかに向かっていても、悩みがあるとつい手を止めて、
 遠くを見つめて溜め息をついてしまう」といったところのある、等身大の女の子として雫をとらえていたようです。

・宮崎監督の指示を土壇場でやむをえずこっそり覆した事があった。



※参考文献・引用元
映画パンフレット
C・M-CBOX 1995年9月号 出版社:ふゅーじょんぷろだくと
アニメージュ1995年 9月号 出版社:徳間書店
近藤喜文の仕事 動画で表現できること 出版社:スタジオ・ジブリ



まとめてきてわかってきたのですが、近藤監督、アニメに対するすばらしい情熱を持った、とても素敵な方だったんですね…。
本当に、本当に惜しい人を亡くしました。

生前、近藤さんは「子どもたちを励ましてあげられるような作品(灰谷健次郎さんの小説『天の瞳』のような作品世界)」を作りたいと語っていました。
そして宮崎監督は「もうひと仕事、一緒にやろうと持ち掛けて、例によってシブシブ引き受けた矢先の入院」と語っていました。
ほんとうに残念です。

「耳をすませば」。近藤喜文監督の作品として、これからも語り継いでいきます。



その他のコメント


ここで、耳すま公開や初放映時で、印象に残ったコメントを紹介。

小林桂樹(公開直前スペシャル 1995年) 「皆さん必見のアニメーションだと思います。やはりきれいな話というのは、だんだんいろいろな意味で少なくなってますから、
こういうきれいなものをやっぱり作って、こちらが作って皆さんに見てこれはもう絶対必見でございますから。」


水野晴夫(金曜ロードショー 1996年) 「今の少年少女は進学だ塾だ受験だの大変で、世の中の動きに引っ張りまわされてるわけですが、本当に大切なのは、その人間がどう生きたいか何をしたいか、そのことが一番大切なんじゃないでしょうか
そのことをこの映画は純粋な少女の姿を通して、見事に私たちに語ってくれたわけですが、いかがだったでしょうか。いや、映画って本当にいいものですね。それはまたご一緒に楽しみましょう。」


近藤喜文監督は、新潟県五泉市の出身です。


自分両親が新潟県新発田市出身ということもあり、何度か五泉市に足を運びました。
とてもいい場所なんですよ…五頭山のふもと国道290線を抜けて広がる古い町並み。
今は廃線となってしまいましたが、田園を走る蒲原鉄道線に乗り、村松高等学校に通っていたそうです。

近藤喜文監督の生家跡と思われる場所

2014年、新潟で「近藤喜文展」という大規模な展覧会が行われました。
耳をすませばを含め、多くの直筆作品が展示されていました。

この時、五泉市では「耳をすませば」ラッピングバスが走り、
また新潟地方限定ですが、CMでカントリーロードと共に「近藤喜文展」紹介がバンバン流れました。


2014年、新潟で「近藤喜文展」のパンフレットです。


資料本として「近藤喜文の仕事」という本が販売されました。


また2018年、五泉市において「近藤喜文の原点」という、小規模ですが展覧会も行われました。


「近藤喜文の原点」のパンフレットです。




宮崎駿監督による近藤監督への弔事  


近藤喜文氏は1998年1月21日、47歳の若さで亡くなりました。
葬儀では、高畑監督、そして宮崎監督が弔事を述べております。宮崎監督は、耳にすませばについても多く語っております。
こちら、当時のアニメ雑誌に掲載もされました。是非、みなさんにも見てもらいたく、宮崎監督の弔事を引用掲載させていただきます。

弔事


近藤喜文君を送る
僕等は、彼を近(コン)ちゃんと呼んできました。
近ちゃんは、僕が出会った何百人ものアニメーターの中でも、屈指といっていい感じのいい仕事をする、腕の良いアニメーターでした。
若い頃の彼の絵は、のびやかなものへの本物の憬れにかがやいていました。
坂を登り、ついに山のむこうに青い海の広がりを見た時のような、晴れあがった空のようなつきぬけた解放感が、彼の仕事にはありました。
僕は、彼の才能をもっとも深く、正当に評価した人間だという自負を、今も持っています。
彼が20代、僕が30代の頃、机を並べて手を動かしながら、つくりたい映画について語り合ったものでした。
小品でもいい、近ちゃんの持ち味を、彼の持つ憬れの最も発露した作品を、いつか機会があったら実現させよう。当時の状況からすると、とても通りそうにない企画でしたが、フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』のような作品は出来ないものか、その内、きっとやってみせるからなんて、ぼくは勝手に決めたりしました。それなのに、実際に彼のなしとげた仕事の流れから見ると、僕と一緒にやった仕事は脇の方にならざるを得ませんでした。
チャンスもあったのですが、どこか歯車がかみあわない所があったんです。
僕は無類のセッカチで、何本もの一見、全然傾向のちがうものを同時にかかえこんで、状況にあわせて方針を変えていくのに、彼はまた無類のグズで、一度決めたら愚直なまでにその方針を守ろうとするからでした。
それに、船が沈む気配がはっきりしない内に、船を見捨てるのがいつも僕で、近ちゃんは、むしろ船とそこの人々を愛して、船が沈むなら、一緒に沈もうとするような処がありました。

僕等は、かんじんな瞬間に一寸ずつずれてしまって、結局、近ちゃんは職業人(アニメーター)の頂点として、パクさんとの仕事をなしとげました。質の高い、重い仕事を、評価はしつつも、ぼくには一寸違和感がありました。
何をこんがらがって無理をしてるんだ、もっと素直に、自分の憬れを表現すればいいのにって、腹をたてたりもしたのです。
けれど、近ちゃんからすれば、セッカチで強引な宮崎に、これ以上ふりまわされるのはカナワンという気持ちもあったのでしょう。
少しのずれも、年毎に大きくなっていくものです。多少のギクシャクはやむを得ません。それでも、「耳をすませば」を近ちゃんの監督で実現した時は、僕はずい分前の約束をようやく果たした気がしました。
彼もまた、期待にたがわず、よくやったと思います。ずい分心身を酷使したはずですが、泣きごとひとつ言わずに、粘り勝ちにやりとげました。
時代の変化の中で形をかえてはいても、『耳をすませば』は、まぎれもなく、20代と30代の僕等がいつか実現させたいと考えていた作品だったのです。
若い頃の近ちゃんの仕事で忘れられないカットがあります。『未来少年コナン』の時、ヒロインの少女を励まそうと、主人公の少年が笑ってみせるシーンです
。 本人は、長いヒザを折りまげて、動画机にうずくまりながら、追い込みで疲れていて、モーローと仕事をしているのに、その少年の表情は底抜けに明るくて、やさしくて、思いやりにあふれていて、本当にいい絵でした。
だから、病院の集中治療室で管だらけになっている近ちゃんを見ても、その内側に、少しも傷ついていない、本当の近ちゃんがいるんだと思えたから、僕は、こいつはきっと元気になる。
今までにも、何度も肺に穴があいて、入院しなければ死ぬぞと医者にいわれても、鍼できりぬけて、職場にもどって来たんだから、今度もきっと、そうだって・・・・・・。肺に穴があきそうだって苦痛に耐えながら、近ちゃんはエンピツをとめなかったし、どのみち、身を削るのが自分たちの仕事なんだからと、ヨレヨレになっても、この追い込みを乗りこえれば、またひと息ついて喉元すぎればで、また仕事をはじめられると。
僕は決めていたのです。
ガンコで、雪が溶けるのをジーッと待っているような処があって、僕を苛々させてばかり来たのに、今度ばかりは、僕より早くいってしまいました。
もうひと仕事、一緒にやろうともちかけて、例によって彼がシブシブ引き受けた
矢先の入院でした。
残念としかいいようがありません。無念です。

しかし、彼は本当によく耐えました。看護婦さんが、感心するほどだったのです。

 近ちゃん
 山の向こうの青い海に
 晴れあがった空へ
 光や、風や、木や、水や、土と
 ゆるやかにとけあって
 安らかに眠って下さい
 僕は、君のことを忘れません。

宮崎駿

アニメージュ 1998年3月号 出版社:徳間書店 より引用