
映画『耳をすませば』は、監督が「近藤喜文」さん、製作プロデューサー・脚本・絵コンテが「宮崎駿」さんというスタッフ構成で制作されました。
近藤喜文さんは、宮崎監督・高畑勲監督を支える日本屈指のアニメーターでしたが、1998年、47歳という若さでこの世を去りました。
そんな近藤喜文さんってどんな人?という方にもわかりやすく、近藤監督と宮崎監督について、解説していきます。
近藤喜文さんは、宮崎監督・高畑勲監督を支える日本屈指のアニメーターでしたが、1998年、47歳という若さでこの世を去りました。
そんな近藤喜文さんってどんな人?という方にもわかりやすく、近藤監督と宮崎監督について、解説していきます。

1950年、新潟県五泉市に生まれた近藤喜文さんは、幼い頃から絵が好きな少年でした。
高校では美術部に入り、卒業後は上京。最初は漫画家を目指しますが、自分には合わないと感じ、アニメーターの道へ進みます。
1968年Aプロダクション(現シンエイ動画、今はドラえもん等製作)に入社し、『巨人の星』『ルパン三世』『ど根性ガエル』などの動画を担当。その才能はめきめきと頭角を現します。
そんなある日、映画『太陽の王子ホルスの大冒険』という作品に出会い、「こんな映画をつくってみたい」と心を動かされます。
この作品の監督が高畑勲さん、場面設計が宮崎駿さんでした――
高校では美術部に入り、卒業後は上京。最初は漫画家を目指しますが、自分には合わないと感じ、アニメーターの道へ進みます。
1968年Aプロダクション(現シンエイ動画、今はドラえもん等製作)に入社し、『巨人の星』『ルパン三世』『ど根性ガエル』などの動画を担当。その才能はめきめきと頭角を現します。
そんなある日、映画『太陽の王子ホルスの大冒険』という作品に出会い、「こんな映画をつくってみたい」と心を動かされます。
この作品の監督が高畑勲さん、場面設計が宮崎駿さんでした――
1971年、宮崎氏・高畑氏は東映動画を退社し、新規アニメ作成のためAプロダクションに入りましたがうまくいかず(長くつ下のピッピの頓挫)、TVアニメ『ルパン三世』の再構成に参加することになります。
これが、近藤氏と宮崎氏の運命の出会いとなります。
「まさか、こんなに早く、この人たちと仕事できるとは!」――
1973年の『パンダコパンダ』では、高畑勲が演出、宮崎駿が脚本、そして近藤喜文が原画として名を連ねました。
この時点で、宮崎さんはすでに近藤さんのことを「この人は特別だ」と、その才能を見抜いていたといいます。
これが、近藤氏と宮崎氏の運命の出会いとなります。
「まさか、こんなに早く、この人たちと仕事できるとは!」――
1973年の『パンダコパンダ』では、高畑勲が演出、宮崎駿が脚本、そして近藤喜文が原画として名を連ねました。
この時点で、宮崎さんはすでに近藤さんのことを「この人は特別だ」と、その才能を見抜いていたといいます。


その後、1973年、宮崎さんと高畑さんは、『アルプスの少女ハイジ』の製作のため、ズイヨー映像(のちの日本アニメーション、今はちびまる子ちゃん等製作)に移籍します。
そして1978年には『未来少年コナン』で宮崎さんが初監督を務め、この時に近藤さんは作画監督補佐として参加、大活躍します。
横で見ていた高畑さんも近藤さんの才能に魅入られ、1979年の『赤毛のアン』では、近藤さんがキャラクターデザインを担当。
この頃、近藤さんは、宮崎さんと机を並べながら「少年と少女の爽やかな出会いの話をやってみたい」と語ったそうです。
そして1978年には『未来少年コナン』で宮崎さんが初監督を務め、この時に近藤さんは作画監督補佐として参加、大活躍します。
横で見ていた高畑さんも近藤さんの才能に魅入られ、1979年の『赤毛のアン』では、近藤さんがキャラクターデザインを担当。
この頃、近藤さんは、宮崎さんと机を並べながら「少年と少女の爽やかな出会いの話をやってみたい」と語ったそうです。
その後、宮崎さんは『ルパン三世 カリオストロの城』の制作に伴い、近藤さんとは一度離れることになります。
宮崎さんが次に手がけた『名探偵ホームズ』や『リトル・ニモ』に参加しては、また別れるという状況が続きました。
その後1984年、宮崎さんは『風の谷のナウシカ』の成功を経て、スタジオジブリを設立します。
宮崎さんが次に手がけた『名探偵ホームズ』や『リトル・ニモ』に参加しては、また別れるという状況が続きました。
その後1984年、宮崎さんは『風の谷のナウシカ』の成功を経て、スタジオジブリを設立します。
そして1988年、いよいよ近藤さんがスタジオジブリに参加します。
このとき、宮崎監督(となりのトトロ)と高畑監督(火垂るの墓)の間で、近藤さんをめぐる“取り合い”が起こりました。
「近藤さんがいなければ、監督を降りる」とまで語った宮崎監督。
しかし最終的には、絵を描けない高畑監督のもとで、『火垂るの墓』の作画監督を務めることになります。
宮崎監督はのちに、「夢の中でコンちゃんを殴ったよ」と語ったといいます。
その後も、宮崎さんは近藤さんといっしょにやりたがっていましたが、宮崎・高畑作品を交互に作っていく中で、どうしても高畑作品の順番になっていました。
宮崎さんは、この流れを断ち切るべく、ある企画を立ち上げます。
このとき、宮崎監督(となりのトトロ)と高畑監督(火垂るの墓)の間で、近藤さんをめぐる“取り合い”が起こりました。
「近藤さんがいなければ、監督を降りる」とまで語った宮崎監督。
しかし最終的には、絵を描けない高畑監督のもとで、『火垂るの墓』の作画監督を務めることになります。
宮崎監督はのちに、「夢の中でコンちゃんを殴ったよ」と語ったといいます。
その後も、宮崎さんは近藤さんといっしょにやりたがっていましたが、宮崎・高畑作品を交互に作っていく中で、どうしても高畑作品の順番になっていました。
宮崎さんは、この流れを断ち切るべく、ある企画を立ち上げます。


1993年、宮崎監督は近藤さんの監督デビュー作として『耳をすませば』の企画を立ち上げます。
舞台のモデルは、二人が過ごした日本アニメーションがある聖蹟桜ヶ丘。まるで1970年代の約束が果たされたような作品となりました。
制作中には衝突もあったそうですが、だからこそ、あの素晴らしい作品が生まれたのでしょう。
少年少女の爽やかな出会い――それだけでなく、主人公の苦悩や成長を、見事な演出で丁寧に描き出しています。
都内を舞台にしながらも、どこか幻想的に映る風景や、井上直久さんが手がけた不思議な世界観と見事に融合し、 唯一無二の作品に仕上がりました。
映画は大ヒット!
近藤喜文さんはその後『もののけ姫』では作画監督の一人を務め、金曜ロードショーのオープニングを製作しながら、次回作への期待も高まっていきました。
しかし…もともと体の弱かった近藤さんはこのころから入退院を繰り返していました。
舞台のモデルは、二人が過ごした日本アニメーションがある聖蹟桜ヶ丘。まるで1970年代の約束が果たされたような作品となりました。
制作中には衝突もあったそうですが、だからこそ、あの素晴らしい作品が生まれたのでしょう。
少年少女の爽やかな出会い――それだけでなく、主人公の苦悩や成長を、見事な演出で丁寧に描き出しています。
都内を舞台にしながらも、どこか幻想的に映る風景や、井上直久さんが手がけた不思議な世界観と見事に融合し、 唯一無二の作品に仕上がりました。
映画は大ヒット!
近藤喜文さんはその後『もののけ姫』では作画監督の一人を務め、金曜ロードショーのオープニングを製作しながら、次回作への期待も高まっていきました。
しかし…もともと体の弱かった近藤さんはこのころから入退院を繰り返していました。
そして――1998年、近藤喜文さんは病に倒れ、帰らぬ人となります。47歳でした。
宮崎監督は「もう一仕事しようと声をかけた矢先だった」と語っています。
ここで、宮崎駿さんの、弔辞を掲載させてください
宮崎監督は「もう一仕事しようと声をかけた矢先だった」と語っています。
ここで、宮崎駿さんの、弔辞を掲載させてください
■アニメージュ 1998年3月号続(徳間書店) より引用
弔辞
近藤喜文君を送る
僕等は、彼を近(コン)ちゃんと呼んできました。
近ちゃんは、僕が出会った何百人ものアニメーターの中でも、屈指といっていい感じのいい仕事をする、腕の良いアニメーターでした。
若い頃の彼の絵は、のびやかなものへの本物の憬れにかがやいていました。
坂を登り、ついに山のむこうに青い海の広がりを見た時のような、晴れあがった空のようなつきぬけた解放感が、彼の仕事にはありました。
僕は、彼の才能をもっとも深く、正当に評価した人間だという自負を、今も持っています。
彼が20代、僕が30代の頃、机を並べて手を動かしながら、つくりたい映画について語り合ったものでした。
小品でもいい、近ちゃんの持ち味を、彼の持つ憬れの最も発露した作品を、いつか機会があったら実現させよう。
当時の状況からすると、とても通りそうにない企画でしたが、フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』 のような作品は出来ないものか、その内、きっとやってみせるからなんて、ぼくは勝手に決めたりしました。それなのに、実際に彼のなしとげた仕事の流れから見ると、僕と一緒にやった仕事は脇の方にならざるを得ませんでした。 チャンスもあったのですが、どこか歯車がかみあわない所があったんです。
僕は無類のセッカチで、何本もの一見、全然傾向のちがうものを同時にかかえこんで、状況にあわせて方針を変えていくのに、彼はまた無類のグズで、一度決めたら愚直なまでにその方針を守ろうとするからでした。
それに、船が沈む気配がはっきりしない内に、船を見捨てるのがいつも僕で、近ちゃんは、むしろ船とそこの人々を愛して、船が沈むなら、一緒に沈もうとするような処がありました。
僕等は、かんじんな瞬間に一寸ずつずれてしまって、結局、近ちゃんは職業人(アニメーター)の頂点として、パクさんとの仕事をなしとげました。質の高い、重い仕事を、評価はしつつも、ぼくには一寸違和感がありました。
何をこんがらがって無理をしてるんだ、もっと素直に、自分の憬れを表現すればいいのにって、腹をたてたりもしたのです。
けれど、近ちゃんからすれば、セッカチで強引な宮崎に、これ以上ふりまわされるのはカナワンという気持ちもあったのでしょう。
少しのずれも、年毎に大きくなっていくものです。多少のギクシャクはやむを得ません。それでも、「耳をすませば」を近ちゃんの監督で実現した時は、僕はずい分前の約束をようやく果たした気がしました。
彼もまた、期待にたがわず、よくやったと思います。ずい分心身を酷使したはずですが、泣きごとひとつ言わずに、粘り勝ちにやりとげました。
時代の変化の中で形をかえてはいても、『耳をすませば』は、まぎれもなく、20代と30代の僕等がいつか実現させたいと考えていた作品だったのです。
若い頃の近ちゃんの仕事で忘れられないカットがあります。『未来少年コナン』の時、ヒロインの少女を励まそうと、主人公の少年が笑ってみせるシーンです。
本人は、長いヒザを折りまげて、動画机にうずくまりながら、追い込みで疲れていて、モーローと仕事をしているのに、その少年の表情は底抜けに明るくて、やさしくて、思いやりにあふれていて、本当にいい絵でした。
だから、病院の集中治療室で管だらけになっている近ちゃんを見ても、その内側に、少しも傷ついていない、本当の近ちゃんがいるんだと思えたから、僕は、こいつはきっと元気になる。
今までにも、何度も肺に穴があいて、入院しなければ死ぬぞと医者にいわれても、鍼できりぬけて、職場にもどって来たんだから、今度もきっと、そうだって……。肺に穴があきそうだって苦痛に耐えながら、近ちゃんはエンピツをとめなかったし、どのみち、身を削るのが自分たちの仕事なんだからと、ヨレヨレになっても、この追い込みを乗りこえれば、またひと息ついて喉元すぎればで、また仕事をはじめられると。
僕は決めていたのです。
ガンコで、雪が溶けるのをジーッと待っているような処があって、僕を苛々させてばかり来たのに、今度ばかりは、僕より早くいってしまいました。
もうひと仕事、一緒にやろうともちかけて、例によって彼がシブシブ引き受けた矢先の入院でした。
残念としかいいようがありません。無念です。
しかし、彼は本当によく耐えました。看護婦さんが、感心するほどだったのです。
近ちゃん
山の向こうの青い海に
晴れあがった空へ
光や、風や、木や、水や、土と
ゆるやかにとけあって
安らかに眠って下さい
僕は、君のことを忘れません。
宮崎駿
※「トムは真夜中の庭で」は、フィリッパ・ピアスによる児童小説。ピアスは、1920年、イギリス生まれ。主な作品に「ハヤ号セイ川をいく」「まぼろしの小さい犬」などがある。
近藤さんが生きていれば、この時の宮崎監督の次の作品にあたる『千と千尋の神隠し』の作画監督を任され、違う『千と千尋』になっていたかもしれません。
また、次回作には灰谷健次郎の小説『天の瞳』のような作品を構想していたともいい、素晴らしい児童映画ができていたでしょう。
スタジオジブリには、次の作品の構想案として、大きな木にのぼる、楽しそうな沢山の子供たちの絵が残されたといいます。
もし生きていたら、日本のアニメーションの歴史は大きく変わっていたはずです。
特に児童向け作品で歴史的な素晴らしい作品が生まれていたのではないかと思います。
本当に悔しい……未来が、少しつまらなくなってしまいましたね。
参考
テレビ特番「もののけ姫が家に来る」19980705放送近藤喜文さん追悼映像
近藤さんのいた風景 高畑・宮崎作品研究所 編
ジブリの教科書3 となりのトトロ
ジブリの教科書9 耳をすませば
CM-CBOX
また、次回作には灰谷健次郎の小説『天の瞳』のような作品を構想していたともいい、素晴らしい児童映画ができていたでしょう。
スタジオジブリには、次の作品の構想案として、大きな木にのぼる、楽しそうな沢山の子供たちの絵が残されたといいます。
もし生きていたら、日本のアニメーションの歴史は大きく変わっていたはずです。
特に児童向け作品で歴史的な素晴らしい作品が生まれていたのではないかと思います。
本当に悔しい……未来が、少しつまらなくなってしまいましたね。
参考
テレビ特番「もののけ姫が家に来る」19980705放送近藤喜文さん追悼映像
近藤さんのいた風景 高畑・宮崎作品研究所 編
ジブリの教科書3 となりのトトロ
ジブリの教科書9 耳をすませば
CM-CBOX
2023年、「ぼくたちはどう生きるか」が公開されました。
耳をすませばファンとしては、耳すまのセルフオマージュらしきところが多く、大変うれしかったです。
(本を読み涙を流すシーン、落ちてきた塔や産屋に向かう洞窟が、雫の夢の中(イバラード)に似ている、など)
そして、観ているときからふと思いました。
このヒロイン「ヒミ」ちゃんは、近藤喜文さんのことではないか…と。
その後、NHKの特番で「大叔父=高畑勲さん、キリコ=保田さん、アオサギ=鈴木P、眞人」がモデルだと名言され、また、この特番では、高畑さんは宮崎さんではなく近藤さんを必要としていた、と悔しがるイラストも出てきて、ますますこの考えは深まりました。
保田さんと近藤さんも、Aプロダクションの頃から仕事をしており、日アニ時代、そしてジブリ時代と、長く一緒に作品を手がけていますね。
(ただし、映像では使用人のおじいさん=近藤喜文さんという紹介もされていました)
ヒミちゃんのモデルが誰かは、公式には言明されていません。第一、ヒミは女性ですし、大人になったヒサコは宮崎さんのお母さんがモデルだとも言われています。
ただ……耳をすませばファンだからでしょうか、なんとなく、そう思いました。
もちろん、これはあくまで自分の考えです。
ただ、近藤喜文さんについては、まだあまり知られていないのが現状です。
そこで、宮崎監督と近藤喜文さんの歴史をまとめてみました。いかがだったでしょうか。
耳をすませばファンとしては、耳すまのセルフオマージュらしきところが多く、大変うれしかったです。
(本を読み涙を流すシーン、落ちてきた塔や産屋に向かう洞窟が、雫の夢の中(イバラード)に似ている、など)
そして、観ているときからふと思いました。
このヒロイン「ヒミ」ちゃんは、近藤喜文さんのことではないか…と。
「すごい能力を持った若い人で、大叔父の作った世界(イバラードっぽい)の秩序を任されている」
「若くして、眞人(宮崎駿本人?)と別れる」
「若くして、眞人(宮崎駿本人?)と別れる」
その後、NHKの特番で「大叔父=高畑勲さん、キリコ=保田さん、アオサギ=鈴木P、眞人」がモデルだと名言され、また、この特番では、高畑さんは宮崎さんではなく近藤さんを必要としていた、と悔しがるイラストも出てきて、ますますこの考えは深まりました。
「大叔父(=高畑勲)の血(精神)を受け継いだもの → 眞人とヒミ」
「キリコ(=保田さん)とヒミは仲がいい」
「キリコ(=保田さん)とヒミは仲がいい」
保田さんと近藤さんも、Aプロダクションの頃から仕事をしており、日アニ時代、そしてジブリ時代と、長く一緒に作品を手がけていますね。
(ただし、映像では使用人のおじいさん=近藤喜文さんという紹介もされていました)
ヒミちゃんのモデルが誰かは、公式には言明されていません。第一、ヒミは女性ですし、大人になったヒサコは宮崎さんのお母さんがモデルだとも言われています。
ただ……耳をすませばファンだからでしょうか、なんとなく、そう思いました。
もちろん、これはあくまで自分の考えです。
ただ、近藤喜文さんについては、まだあまり知られていないのが現状です。
そこで、宮崎監督と近藤喜文さんの歴史をまとめてみました。いかがだったでしょうか。
僕たちはどう生きるか、各キャラクターのモデルについて
雑誌、SWITCH 2023年9月号では、「すべてのキャラクターにモデルがいる」とも言明してます。 NHKの特番「宮﨑駿と青サギと」で、キャラクターと実際の人物を交互に映すシーンがあり、以下がモデルである可能性があります。SWITCHとの解説もあわせ、以下にまとめました。
眞人 宮崎駿のなりたかったもうひとりの自分
インコ大王 宮崎駿
青サギ 鈴木敏夫
キリコ 保田道世(東映時代から宮崎、高畑両監督をささえ、Aプロからは近藤監督も支えている色彩設定)
大叔父 高畑勲
使用人のじい 近藤喜文(耳をすませばの監督)
インコ 笑顔のかわいいジブリスタッフ?
眞人の父 宮崎駿氏の父
眞人の母 宮崎駿氏の母
※使用人のじい→眞人に小刀の研ぎ方を教える
この映像の時、宮崎さんは「どれほど自分のつっかえ棒になってくれてたんだろう」とも語っています。
改めて――
『ぼくたちはどう生きるか』は、
自分にはこんなテーマが込められているように感じられます。
「人生では時折、自分にものすごい影響を与える物(本など)や人と出会う。
それは大切にするべきだ。
いつか、別れがきてしまうのだから。」
そんな想いが、この作品全体に流れている気がしています。
宮崎さんは、多くの仕事仲間(アニメーター)を失ってきました。
近藤喜文さん、飯田馬之介(ラピュタ設定)さん、二木真希子(動物や植物の名人)さん、保田道世さん、山本二三(ラピュタ背景等・公開後)さん、そして高畑勲さん…
そんな宮崎さんからの想いが、つまっているのではないでしょうか。
※このページに掲載している似顔絵イラストは、ファンアートとして作成したものです。
敬意を込めてご紹介させていただいております。
『ぼくたちはどう生きるか』は、
自分にはこんなテーマが込められているように感じられます。
「人生では時折、自分にものすごい影響を与える物(本など)や人と出会う。
それは大切にするべきだ。
いつか、別れがきてしまうのだから。」
そんな想いが、この作品全体に流れている気がしています。
宮崎さんは、多くの仕事仲間(アニメーター)を失ってきました。
近藤喜文さん、飯田馬之介(ラピュタ設定)さん、二木真希子(動物や植物の名人)さん、保田道世さん、山本二三(ラピュタ背景等・公開後)さん、そして高畑勲さん…
そんな宮崎さんからの想いが、つまっているのではないでしょうか。
※このページに掲載している似顔絵イラストは、ファンアートとして作成したものです。
敬意を込めてご紹介させていただいております。