「石 榴」 前 編  


十一月のお題「味」


 石榴が座卓の上でぱっくりと紅い口を開いている。
と言っても、此の家の飼猫がそんな不作法をしている訳では無い。卓上に有るのは私がこの坂の上の友人宅に向かう途上で見かけ、見事に実っているのを分けて貰った本物の果物である。猫の方は居合わせた先客が面白がって紅い果実と並べて口を開けさせようとしたので、厭がって何処かに逃げて仕舞った。
「しかし、見も知らぬ人にこんなに果物を貰うなんて、君は余程物欲しげな様子をしていたのだね」
 床の間を背に座ったこの家の主は、樺茶色の着物の袂に果汁が飛ぶのを気にしながら、赤い果皮を手で割るのに渾身の力を込めてでもいるかような酷い顰め面をしている。
「縁先に丸まって家の人に『ちょうだい』の格好をして見せたんだろうっ!目に見える様だぞ」
 猫に逃げられ手持ち無沙汰になった先客──榎木津は、染みのある皮の中から深紅の硝子の様な果肉が整然と並んで現れるのを物珍しげに覗き込みながら、私に向かって叫んだ。
「猿回しの猿じゃあるまいし──食べたかったんじゃ無い、綺麗だから感心して眺めていたら、絵に描くようにって採ってくれたんだよ」
 実際は、口をあけて惚けていたらいきなり「お好きですか」と声をかけられ、無言でがくがく頷いてしまったのだ。
画題にこんなに沢山要る訳ないじゃあないか、と眉間に皺を寄せたまま、座敷の主──京極堂が苦笑する。
「君みたいな得体の知れない男に庭先をうろうろされたら迷惑だから、さっさとくれてやって追っ払いたかったのさ」
「そっ、そんな感じじゃなかったよ」
 声をかけてきたのは洋装の婦人だった。その場で黒い洋服に包まれた腕を伸ばし、手にしていた花鋏で私の両の手の平が一杯になるまで、幾つも果実を採ってくれたのだ。
鬱蒼と茂った樹に覆われた庭のずっと奥には、巨大な屋根が秋の日射しに鈍く輝いていた。
「酸っぱいッ──なんだこれ、汁ばッかりじゃないかっ!」
 縁側できらきら光る果肉を陽に翳して遊んでいた榎木津が奇声を上げる。どうやら丸のまま齧ってみたらしい。
「そうかな、甘いよ。榎さんは石榴食べた事無いのかい?」
 私はばらばらになった小さな紅玉のような粒を摘みながら首を傾げる。果実は一瞬で濃厚な味わいの汁になり、小さな種だけが口中に残る。実という程の物は無い。
「なァい!なんだか変な味だなあ、ちょっと渋いし」
 口を尖らせる友人の方を見もせずに、黙々と食べ続けていた古書肆が暗い顔で呟く。
「石榴は人の肉の味がする」
 絶句して気味悪げにまじまじと見つめる私達に気が付き、友人は不思議そうに顔を上げた。
「なんだ、君達は知らないのか?以前鬼子母神の話はしただろう。五百人の子供を持ちながら、毎日他人の赤子を喰っていた神様だよ」
 聞いた話だ。もう一年以上前の事になる。
「覚えているよ。懲らしめるためにお釈迦様が子供の一人を隠して、子を亡くした親の悲しみを悟らせたんだろう?」
 鬼子母神の物語を、私が忘れる訳は無い。拝観こそしなかったが、私はその鬼子母神の祀られた雑司ヶ谷の法明寺へ赴いた事が有る。 
「そうだ。その後お釈迦様は石榴の実を鬼子母神に渡して、赤子が喰いたくなったらこの実を喰え、石榴は人の肉の味がするから──と言ったのだ。だから鬼子母神の像は必ず石榴を手にしている」

 ──寺を囲む雑木林から曲がった小道の先には、大きな石造りの病院が有る。反対側は──広大な墓地だ。

 「本当の処は仏教伝来以前から石榴は鬼子母神の前身、訶梨帝母のシムボルだったのではないのかな。古代ペルシャ以来薬効に優れ種の数の多い石榴は、世界中で豊穣と母性の象徴とされて──どうしたんだい関口君?」
 私は座卓に両肘を付いて、漸く身体を支えていた。
私の内で、あの暗い雑司ヶ谷の森がざわざわと鳴る。
私の深い所に眠っていた単色の面影が、音も無くするすると意識の表面に浮き上がり、ついさっき石榴をくれた黒い服の人の姿に重なろうとしている。
あのひとは──

「似てないッ!ちっとも似ていないじゃないか!」
 耳許で、ひどく大きな声が頓狂に響いた。
はっとして顔を上げると、榎木津が自信有り気に笑う。
「似てないよ」
 そうだ。少しも似ていやしないじゃないか。
あのひとには、似ていない。
京雛のような淡い顔立の人の面影は、浮き上がって来た時と同じように──音も無く深い淵に沈んで行った。


そういえば君に見せるものがあった、と言い置いて席を立っていた古書肆は、直ぐに新聞のタブロイド版ほどもある大きな厚手の本を捧げるように抱えて戻った。
「また妖怪画かい?」
「何を言っているんだ、君は洋書と和書の装幀の区別もつけられないのか?」
 言われて見れば確かに、日に焼けてそそけ立った布貼りの表紙の上には題字の一部に残った押箔が輝き、辛うじて『Gallery』という文字が読み取れる。図録か、画集のようだ。「西洋妖怪大図鑑だなっ、僕にも見せろ!」
「違うったら。先日関口君が、ミレイの絵が見たいと言ったのだよ」
「ああ、あの皆が畑で居眠りしているみたいな絵か」
 榎木津は詰らなそうに鼻を鳴らした。どうやら農夫達が夕方の礼拝をしている名画『晩鐘』の事を言っているらしい。
「僕はそんな事──」
 不審を口にする私に構わず、京極堂は果汁の散った会津塗りの卓の上を布巾で丁寧に拭い、重い本を据えた。
「君に慎ましい農村生活の画を見せて労働の充足をテエマにした話を書かせようなどと誰も思いやしないよ。仏蘭西バルビゾン派の画家ではなくて英ラファエル前派、ジョン・エヴァレット・ミレイだ。君はこのあいだ漱石の『草枕』のモチーフとなったオフェリヤ姫の絵が見たいと騒いでいたじゃあないか」
 そういえば、そんな話もしたようだ。『草枕』は水面に浮いて歌を口ずさむオフェリヤのイメエジが全編に投影され、技巧的ではあるが、えも言われぬ美を醸し出す佳品である。
「ミレイの絵自体がシェイクスピアの戯曲を元に描かれているものだから、そこから得られた感興をまた文学に置き直すというのもなんだか妙に入り組み過ぎている話だが、まあ君も大文豪の顰に習って名画からインスピレイションの一つも引き出してみ賜え。上手くいったら小説の一つにでも化けるやもしれない。ああ、扱いには注意してくれ、背表紙が解れている」
「漱石はテムズ河畔のテイト・ギャラリーで実物のオフェリア姫に拝謁しているんだ。短編の一つや二つ浮かんで当然だよ」 今のうちから作品の出来ない言い訳を口にしながら、私はどっかりと目前に据えられた分解寸前の画集を恐る恐る捲った。演劇の舞台の様に細密に小道具が描き込まれた重厚な油彩絵画が目に付く。いずれもなにがしかの物語や象徴的な意味あいが存在すると思われるが、西洋文学に疎い私には見当もつかない。幾頁か進むと、不意にひどく暗い色調の画面が目に飛び込み、私の手を止めた。
 闇に溶け込む様な黒い衣装の女性の肖像画である。
漆黒に波打つ豊かな髪、蒼い光沢を宿す緩やかな衣服の襞、
悲しみにうち沈む眼差し、きつく捩り上げた手に有る珠だけが赤い。おそらく原画は暗い中にも豊かな彩が息衝いているのであろうが、古惚けた印刷製版ではその画面の暗さばかりが目につく。
否──印刷のせいばかりではない。明るく描かれているのは壁にあたった小さな四角い光と女性の肌ばかりである。この光が窓からのものだとすれば、彼女は囚われの身なのではないだろうか。
「似てるな」
 いきなり榎木津の声が耳許でしたので私は飛び上がった。
遠慮の無い男は何時の間にか私の傍らから首を伸ばして、熱心に美しい肖像に見入っていた。
「ああ、ロセッティかい──似てるって、だれに?」
 京極堂も卓の反対側から覗き込んで尋く。
「あ、うん、そうだね。その──僕に石榴をくれた人だよ。
そっくりという訳じゃないけど、髪の感じとか黒い服とか」
 何よりも──憂いに満ちた瞳が似ている。
さっき会った時は印象的な目だと思っただけの事だったのだが。
「──どういう人なんだろう」
 私の横で榎木津がすっと目を細めた。
「この絵描きの友達のモリスとかいう人の奥さんだな。旦那が死んで喪に服しているんだ。」
「え、榎さん、まさか絵の記憶まで──」
 私は驚いて身を起こした。榎木津は他人の記憶を見るという特異にして胡乱な能力を有している。それは、私達身近の者達にとっては周知の事実であった。しかしそれは、人が実際に目で見た光景にのみ有効な筈である。
まさか古い絵画の図柄を見ただけで、その由来まで──
狼狽える私に、異能の探偵は重々しく告げる。
「関君、手」
「て、手?」
 真剣な表情の榎木津に、思わず片手を差し出す。
なんだか犬の芸のような形だ。
「そっちじゃない。反対」
 慌てて本の上に載せたままの手に目を遣る。
榎木津は端正な顔を顰めて不機嫌そうに言った。
「どけてくれないと邪魔で読めないじゃないか」
「読むって──」
 解説を、読んでいたのだ。
なんのことはない。視力の悪い榎木津からすれば、古い本の細かな英文の文字は思いきり目を細めないと見えないに違いない。あまりの馬鹿らしさに脱力して顔を上げると、卓の反対側で京極堂がそっと口元に懐紙を当てているのが見えた。
口に残った石榴の種を取る振りをして、笑っているのだ。
少し気分を損ねた私は、腹いせにこの陰険な友人に態と難問をぶつけた。
「Proserpina──プロセルピナって、この人の名前かな。
変わった題名だ」
「ああ、ギリシャ神話の女神ペルセポネーのローマ名だな。
たぶん神話のエピソードに則した絵だね」
 何気なく答える友人が憎らしい。しかし言われてみれば、
女性の流れる様な衣装と言い、画面隅の香炉といい、神話を題材にした場面と聞けば頷ける。
「香炉は女神の神性を象徴しているんだろう。
関口君はギリシャ神話は判るかい」
「オリュンポスの神々の名前くらいなら」
 それでも、子供の絵物語程度の知識である。
「なら、デーメテールは知っているだろう」
「ええと、豊穣と生産の女神だね」
「そう、ペルセポネーはその大地母神デーメテールの娘だ。
黄道十二星座のうちの乙女座は、彼女だという話もある。
ある時、世界の三分の一を支配する神が、彼女を妻にしたいと申し出た」
「玉の輿だなあ」
「なにを呑気な事を言っているんだ。
いいかい、その大神ってのはハデスだぜ」
 ハデス──聞き覚えは有るのだが、咄嗟に何の神だかが思い出せない。考え込んでいると、京極堂がヒントをくれた。
「ローマ名なら判るかい。プルートーンだ」
 そ、それは。
「冥界の王じゃないか!」
「そうだよ。世界は地上をゼウス、海をポセイドン、地下をハデスがそれぞれ分担して支配している。地下を治めるハデスは同時に死者の国の神なのだ。デーメテールは勿論そんな陰気な所に娘をやれるものかと断わった」
 当然だ。
「しかしハデスは諦めなかった。
そして花嫁を強奪する事に成功した」
「強奪?どうやって」
「それこそシェイクスピアの有名な詩にもあるだろう、おおプロセルピナよ、汝がハデスの馬車から落とした花々が欲しい」「燕も来ぬに水仙花、の冬物語の花較べの歌かい。
そんなくだり有ったかな」
「君の言うのは上田敏の訳だね。日本では出典に馴染みが無いから端折ったのだろう」
「そんな女学校の授業みたいな事はいいから、続きを聞かせロッ!」
 榎木津が横になったままの姿勢で喚いた。途中から畳に寝そべってしまったので、飽きて眠ったのだと思っていたが、ずっと聞いていたのだ。京極堂は眉を軽く一度上げ、話を続けた。
「ペルセポネーが乙女達と野に花摘みに出た時、突然大地が割れて四頭の漆黒の馬の引く冥府の王の金の馬車が現れ、脅える娘を地の底に引きずり込んだのさ」
「凄いな!地底から飛び出す魔王の馬車か!それから?」
 ほとんど紙芝居に熱中する子供である。
「それからが大変だ。娘を失った母親は悲嘆に暮れて、洞窟に籠ってしまった。豊穣の女神が職場放棄をしたのだから、地上の作物は全て枯れ、花は咲かず、生き物も仔を産まなくなった。地上の生きとし生けるものの生産が止まったのだ」
「一大事じゃないか!」
「一大事だよ。これには神々も弱り果てて、ハデスに花嫁を母の元に返してやれ、と談判した。しかしハデスは奸計を廻らしてペルセポネーを地上に戻れない様にした」
 京極堂は其処で言葉を止め、自身が冥府の王であるかのようににやりと凄惨な笑みを浮かべた。
私は背中にうそ寒さを感じながらも続きを促す。
「どう──したんだい」
「冥界の食物を口にした者は二度と地上では暮らせない。
しかしハデスに計られて、ペルセポネーは冥界の食べ物を食べてしまった」
「冥界の食物」
 友人は暗い笑みを浮かべたまま、低い声で言う。
「君はもうそれを口にしているよ。それもとんでもなく沢山食べてしまった。関口君、君はもう地上には戻れない身体なのだ。榎さん、あんたもですよ。」
 さすがの榎木津も、大きな目を丸く見開いてきょとんとしている。
「判らないかな。その絵にも描かれているだろう」
 女神が手にしている紅い珠──
「石榴の実──」
「そう、ペルセポネーは石榴を四粒、口にしてしまっていたのだ。冥界の食物を食べてしまった以上、母の元に戻って地上で暮らす事は最早叶わない」
「四粒?たった四粒?そんなの、だって石榴なんて汁ばかりじゃないか、食べたうちにも入りゃしないよ。そんな事で地上に戻れないなんてあんまりだ──」
 私は自分が冥界に攫われたような淋しさを感じて、不憫な若い女神に代って必死になって抗弁した。
「汁ばかりだろうが、量が少なかろうが、掟は掟だ。しかしまあ、このまま放っておいては地上の者がいずれ餓え渇えて全て地下の者になってしまう。それはさすがに冥府の神も困るだろう。結局妥協案が採択された。娘は一年のうち三分の二は母の元で暮らして良い。だが、残りの四ヶ月は──」
 話の先が読めて来た。後は私が引き取る。
「判ったよ、娘が地上に戻ると大地母神が喜んで地上に花が咲き満ちる。娘が地下の国で妃として暮らさなければならない間は、母神は悲しんで全ての作物が枯れ果てる」
「そう、こうして冬が生まれた、と此れはそういう話さ──
どっとはらい」
 榎木津が畳の上で大きく伸びをした。


「この絵は死者の国に無理矢理連れて来られたペルセポネーが地上を思って嘆いている図なんだね。とても悲しそうだ」
 私が今聞いたばかりの物語の思い入れを込めて美しい絵を眺めて感慨に耽っていると、偏屈な古本屋が皮肉な口調で横槍を入れた。
「しかし冥界の妃としてのペルセポネーはなかなか畏ろしい一面もあったようだよ。夫のハデスと懇ろになったメンタという妖精を踏み殺した、という話も有る」
 私は驚いて絵の中の佳人を見る。こころなしか、憂いの表情の中にも暗い情念の炎のような剛さが、そういえば感じられなくもない。尤もそれは西洋的な陰の深い面差しが、気の弱い私にそんな印象を与えるだけなのかもしれないが。
「まあ神話説話は様々な時代、地方の物語の寄せ集めだから、登場人物の性格に一貫性のないのは常の事だがね。ハデスはメンタを哀れんで、香りの佳い薄荷草に変えてやったという。
植物由来譚の一つだな」
 私は古代人の想像力の豊かさに羨望の吐息をついた。
いきなり、盆の上の石榴の殻を端からひっくり返していた榎木津が、肘で私の脇腹を突つく。
「もう無いぞ!関君、またそのプロペラなんとかさんの処に行って、もっと冥界の食べ物を貰って来い」
 酸いだの変な味だの汁ばかりだの言っていたくせに、榎木津は汁気の多い石榴がすっかり気に入ったらしい。
「厭だよ、榎さんが自分で貰ってくれば善いだろう。
坂の下の大きなお屋敷だからすぐ判るよ」
「何処だって?」
 背後に積んだ本の山に手を伸ばしかけていた京極堂が、坂下の町が水没して只一軒取り残された様な仏頂面を振り向けて、私に問うた。
「ほら、ええとこの坂より一つ手前に緩い坂があるだろう、
小さな商店なんかが並んでいる──そこのちょっと手前だよ」
「君は何か勘違いしているよ。その辺には君の言う様に小店ばかりで、そんなお屋敷なんか無い」
「そんなはずはないよ、僕は確かに──」
 友人は私に言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
「関口君、屋敷なんか無いのだよ」

 甘くて酸い石榴の味が、口中にじっ、と蘇る。




1999年11年



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