「石 榴」 後 編  


十一月のお題「味」


 石榴が薄闇の中でぱっくりと紅い口を開いている。
足元が暗くならないうちにと坂の上の京極堂を辞したのは、まだ日暮れには間の有る刻限であったが、坂を下ってみると街は既に夕闇の気配を漂わせていた。
 屋敷など無い──と言い切った友人の言葉に、私は自分の記憶への自信を失っていた。もともと坂の上の古本屋への道中にはとりたてて目に付く印などもなく、私の持つ道順の印象は茫漠として曖昧である。何処に何が有るのかなど、何度通っても覚えてはいない。
 場所を間違えているのか。
 それとも夢でも見ていたのか。
 ぼんやりしながら坂を降りた私は、一つ先の緩い坂に行き会う手前の道縁に、来る時と同じく重たげに実を垂らした石榴の木を見たのである。
 ──やはりここだ。
小さな拳程の実の一つを手にとり、周囲を見渡す。
行きは石榴の実に目を奪われて気付かなかったが、勾配の緩い坂の終点から始まる商店の列の間に、背の高い薮椿が林のように密に立ち、石榴はその裏に隠れるように実って居る。実のある季節でなければ、おそらく只の薮にしか見えないであろう。石榴の下の小道の先は鬱蒼と茂った様々の庭木に覆われ、少し先にも数本の石榴の樹が植わっている。その枝先には昼間女性が私に実を採ってくれた際鋏を入れた切り口が、痛々しく残っている。其処まで小道を辿ると、雑多な植木の梢の上に宏壮な庭の奥の巨大な屋根が影に成って、明るい梔子色の空をくっきりと切り抜いていた。
 在るじゃないか。
おそらく出不精な古書店主は、表に面した薮椿の林を眺めてこの庭を普通の雑木林と思い込み、何時も無意識に素通りしているのだろう。
私は漸く安堵し、踵を返して帰路につこうとした。
 背中に、聞き覚えのある落ち着いた声がかけられる。
振り向くと、石榴をくれた婦人が昼間と同じ黒いワンピース姿で小道の先に立っていた。
 似ている。
榎木津が看破した通り、彼女の姿は十九世紀末の英国画家が描いた憂いに沈んだ肖像画を彷佛とさせる。
「あ、あの、」
 咄嗟に適切な言葉が思い浮かばず、気が付くと私はぶら下げていた風呂敷包みを彼女に向かって突き出していた。
必要以上に腰が引けて、我ながら情けない姿勢になる。
「お、お礼です、石榴の──」
 一瞬怪訝そうな表情をした女性は、持ち重りのする不審な荷物に手をかけ、目蓋を伏せて微笑んだ。
「梨ですのね。こんなに沢山。これでは却って御迷惑では」
「い、頂いた石榴がとても美味しかったので、」
 私は無理矢理押し遣る様に女に包みを渡す。焦った声が裏返ったのが気になって、ますます屈み込む様な体勢になる。
梨は帰り際に京極堂の細君が包んでくれた物で、形は不揃いだが味は良い。彼女は初め当惑していた様だったが、ふっと口元を綻ばせ、嬉しそうに言った。
「まあ、そんなにあの石榴がお気に召しまして?では、同じ物で失礼なようですが、もっとお持ち下さいますか」
 私が辞退しようとすると、彼女は哀願する様に言った。
「石榴の樹はまだ何本も有るのです、実はとても食べきれるものではありません。どうかお持ちになって下さい。
御風呂敷もお返ししなければなりませんし」
 そして白い砕石を敷き詰めた小道をずんずんと先へ行ってしまった。私はそのまま辞去しようと思っていたのだが、考えてみたら風呂敷は友人の所有物であり、捨てて行く訳にはいかない。慌てて細かい柴竹の生け垣で仕切った通路に彼女の背中を追う。庭中に植えられた樹々が陽を遮り、空に残る明るさに較べ通路は一足先の黄昏に落ちていた。
「嬉しいですわ──」
 先を行く婦人の黒い髪が風に波打つ。
「貴方は石榴がお好きでしたものね」
 長い黒いスカートが風に翻る。
何だか調子がおかしい。
貴方というのは私の事なのだろうか。
「だから石榴の季節になれば、貴方はきっと私の処に戻って来て下さると信じていました」
 私の処に。
 戻って来ると。
何を言っているのだ。
私はこのひとの事など知らない。
今日迄会った事も無い。
それとも私はまた何か大事な事を忘れているのだろうか。
「嬉しいわ──」
 うれしい、と言いながら少しも声に抑揚が無い。
その抑揚の無い声で、何度もうれしい、うれしい、と繰り返しながら女は生け垣の角をいくつも曲がって行く。
この先にはあの巨大な屋敷が有る。
私はそんな処に行きたくはなかった。
しかし、もう私はこの昏い庭を出る事は叶わない。
もう私は私を待つ人々の元へは帰れないのだ。
私は石榴の透明な実を口にしてしまった。それも、沢山。
──そんな事は実際は起り得ない筈なのに、理不尽な想像が淡く私の脳裏を廻り続ける。
 つ、と先を行く女が歩みを止める。
庭を囲んだ林の樹の間から僅かに射す西日が、白い砂利道の上に点々と淡い朱を落としている。薄闇に慣れた目にはその弱々しい斑が、地の上に燃え立つ小さな炎の様に見える。
 そしてその小道の先から、小石を踏み締める足音が近づいて来るのが聞こえた。
あの屋敷の方角から。
ならば、其れは冥府の王であろう。
女は道の中に背筋を伸ばして立ち、恭しく迎える。
私はその姿を楯にするように、身を縮こませ息を凝らす。
足音が近付く。彩を失った木々がざわざわと揺れる。
 やがて高い植え込みの陰が膨らんで分かれるように黒い影が現れ、ゆっくりと白い小道を踏んでこちらにやって来る。
黒い着物の裾が風に煽られる。
そして、伸びの有る善く通る声が、此方に向け発せられた。
「君は一体何処から迷いこんだんだい、関口君」

「き、京極堂──」
 私は砕けそうになる膝を必死で支え、叫び返した。
「き、君こそ──」
「僕はちゃんと表から来たよ」
 友人は落ち着き払って答えると、微動だにせず立ち尽くしていた黒衣の婦人の正面に立ち、慇懃に声をかけた。
「失礼しました。僕は、御父君に一方ならぬお世話になっている者で、あちらの坂の上で古書店を営んでいる中禅寺と言います。この度は──」
 京極堂は言葉の途中で深々と辞儀をした。
女も静かに腰を折る。
「ああ、石榴を御馳走様でした」
 京極堂はゆったりと落ち着いた口調で女に語りかける。
「昼間貴女に御会いした時、あの男は丁度僕の家に来る途中だったのです。彼は僕の知人で──関口と言います。」
 ゆっくりと彼女が私の方を向く。
「せきぐち──さま」
「そうです。貴女が彼に持たせて下さった石榴を、僕達もお相伴したのですよ。とても美味しい石榴でした」
 女は微笑んだ。
「お気に召して頂けましたか。それでは、どうぞ沢山お持ちになって下さい。今採って参りますので──」
 声に最前と同じ抑揚が戻ってきている。
彼女は軽く身を翻すと、私に会釈をして生け垣の間から横手に回る脇道の方に向かった。京極堂の制止の声も間に合わない。
「いえ、そんなお手数を」
「いいのです──喜んで食べる者も、もう家には居りませんし」
 女は最前と同じ憂いに沈んだ目をちらりと私に遣り、庭のなだらかな勾配を上って行った。

 黒いワンピースが庭木の彼方に消えると、生け垣の陰からするりと高い影が和服の背後に並んだ。京極堂が問う。
「似ていたか?」
「──此れ程顕な猿顔じゃあ無いが、まあ猫背のところとか、愚図愚図した喋り方とか」
 榎木津だ。白い面が淡暮の中で仮面のように蒼く浮かぶ。
「に、似てるって、僕がかい?だ、誰に──」
「あのひとの御主人さ。最近亡くなったそうだ」
 小道の砂利が地の中に吸い込まれて行くような頼り無さが私の足元を掬う。
「じ、じゃあ彼女はその心痛が元で精神に変調を──」
「それほど悪い様子ではなかったがね」
 京極堂は彼女の向かった後を追う様に脇道に歩を進めた。
「だって、彼女は僕に──」

──貴方はきっと私の処に戻って来て下さる──
死の国から。地の底から。
彼女は私の事を死の国から好物の石榴を食べに迷い出た夫だと思ったのではないか。だから、あんな事を。

「関口君。何故真夜中ではなくて夕暮時を、逢魔ケ時と言うのだろうね」
 築山の様に様々な樹木の植えられた 緩やかな坂を上りながら、京極堂は振り向きもせずに私に問う。
「薄暗くなるからなんでもない物をあやかしに見違えるのだろう?真っ暗なら妙な物が在っても却って気付かない」
「そうだな。それに加えて夕暮時が、人間の機能が昼から夜へ切り替わる端境の時間にあたる事も理由の一部だろう」
「人間の機能?」
「日輪は偉大だよ。文明生活を営んで自然に反した生活をしているようでも、人間は矢張り太陽の運行に則して生きている。動物なのだから当然だ」
 坂を上がるにつれ、林の梢から夕陽が再び姿を現す。
「感覚器官にせよ臓器にせよ内分泌器官せよ脳神経にせよ、昼と夜ではそれぞれに働きが異なる。日没と共に眠る訳では無い人間の身体は、昼型から夜型に切り替わる必要が有る訳だが、その引き継ぎが完了するまでの僅かの間に、一部機能の低下に依て不都合が生ずる事が有る」
 昼間と同じ樺茶色の着物が、西日に照らされ赤く燃える様だ。黒い姿に思えたのは薄闇のせいだったのだ。
「端的な例は視力だな。昼間働く目と夜働く目では使用される視細胞が入れ替わる。明るい所から急に暗い所へ入ると、最初は真っ暗だが徐々に目が慣れてくると周りが見える様に成る。その切り替わりの間、目は機能していない。その間、何が見える?」
「何も見えやしないだろう、機能していないのだから」
「榎木津の例を見てごらん。普通の人は視力が落ちても人の記憶などは見えやしないが、自分の脳の抱えている記憶ならば見えるかもしれない」
 咄嗟に目で榎木津の姿を探す。通常ならば目新しい場所でははしゃいで先頭を切る元気な男が、今は私達より数歩遅れてひどく気が進まなげにのろのろと付いて来る。
「それは──何かを思い出すという事か?」
「外部から大量に情報が押し寄せている間は思い出す事の無い光景がね。光は最大量の情報だ。奔流の様な外部情報が停止すると、脳の活動も一瞬低下する。しかし夜型の機能に切り替えるには些か時間が要る、そのあわいに現れるのが」
「魔、か」
「千鶴子が近所で聞いてきた噂だと、あのひとの連れ合いはなんでも愛人宅で心中したとか──あくまで只の噂だが、それに類した事件は在ったのだろう。昼間は周囲の雑事に紛れて薄れているその印象が、光の乏しくなる刻限にはありありと彼女の脳裏に思い描かれるのかもしれない。ダメエジの大きさを危ぶんで、脳はブレーカーを落とし、彼女を苦しめる記憶は表面上隠蔽される」
 思い出すにはあまりに、辛いから。
「彼女は一瞬の間記憶を失っていただけなのだよ。夫が死んだ事を失念し、そばに猫背の石榴の好きな男が居たから、ああ自分の所に戻って来てくれた、と言ったんだろう」

──貴方はきっと私の処に戻って来て下さる──
死の国からではなく、あの女の所から。
あの時、彼女はそう言ったのだ。

「耐え切れない記憶を忘れ我が身を守る事は、君には経験済みだろう。そんなのは誰にでも起き得る事で、彼女は死者が蘇って来るなんて妄想を抱いていた訳じゃない。切り替えが完了して外部からの情報が与えられればまた事情は思い出される。
さっきの場合は僕の声だね。君の名を聞いて、君の顔を見て、矛盾に気付けば瞬時に現実に戻る」
 記憶を失うのは別に異常な事ではないよ、と友人は呟く。
私の事を言っているのかもしれない。

「君達の話は垣越しに聞こえていたよ。取り敢えず彼女は日常生活を送る上では特に不都合が無さそうだ。詳しい事は後で彼女の親爺さんに聞いておくよ」
 それだ。最前、京極堂は彼女に挨拶するとき、父君に世話になっている、と言ったのだ。
「そうだ京極堂、君は何で座敷であんな事を言ったんだ?
屋敷なんて無いなんて、君の知り合いの家なら知らない筈が無いじゃないか!」
 私の大声の抗議に、友人は顔色も変えずに答える。
「屋敷なんて無いよ」
「そんな、それならあそこに見える大邸宅は──」
 あれほど巨大な建物が、存在しないなどという筈は無い。
それともこの男はそんな物は無い、君の気の迷いだとでも言うつもりなのだろうか。
「関口君、君は本の装幀の見分けがつかないばかりか、建物の見分けまでつかないのか?見賜え、どこに家がある」
 家は──本当に無いのだろうか。
私は恐る恐る京極堂が指し示す方向を見る。
話しながら何時の間にかかなりの高さを上って来たらしく、さっき私達の歩いていた小道と植木の数々が、池の中を覗き込む様に影の底に沈んでいるのが見下ろせた。
その小道の続く先に、高い床に廻廊を廻らせた、巨大な木造建築が見える。
あんな屋敷は、有り得ない。

 あれは、寺だ。

下から見た時は屋根の輪郭が空に浮かんでいるのを見上げるだけだったのだが、この角度ならば浮き彫りを施された破風や重たげな垂木が善く見える。
大邸宅の広大な庭と想ったのは、寺院の境内だったのだ。
参詣客のある事が不思議ではない寺だからこそ、私の様な素性の知れぬ男がうろついていても、彼女は不審に思わなかったのだ。
「榎さんがどうしても石榴を持って帰るときかなくてね。近所に石榴を植えている家など知らないが、石榴を沢山植えている寺なら心当たりが在ったから、うちの前の脇道から君の言う緩い方の坂に面している山門に入ったんだ。此処の山門は風格が有って一見の価値があるよ、君も見て行くと善い」
 例の鬼子母神の説話由来という事もあり、また薬効の高い漢方薬として、寺には石榴が良く植えられるのだそうだ。
逆に寺でよく見るので縁起が悪いという印象を持ち、一般では庭木として避ける風習もあるのだという。
「懇意の住職を探していたら、思いがけず君と住職の娘さんに出会ったという訳さ。境内の裏に下の通りに続く道が在るなんて今日迄知らなかったよ。ほら──墓地だ」
 庭の逆方向を見下ろすと、紅葉が疎らに残る桜並木に囲まれてはっきりとは見えないものの、ぼんやりと薄白く広い空間が坂に沿って続いているのが判った。僅かに木の間の西日を受けて、墓石や卒塔婆らしき面がきれぎれに現れる。この墓地の向こう側には京極堂前の馴染みの油土塀が続いている筈だが、距離が在るのと桜並木のせいで、判然とはしなかった。

「帰ろう」
 漸く坂を追い付いて来た榎木津が、出し抜けに言った。
「何言ってるんだい榎さん、折角あの人が石榴を採ってくれるって──」
「石榴なんかいらない。帰ろう」
 何時に無く真剣味を帯びた声である。
不審に思って改めて榎木津の人形の様に整った顔を見ると、白い貌は本物の陶器で作られた物の如く動きを失っていた。
京極堂が片眉を寄せ、囁く様に言う。
「榎さん──あんた、何を見た?」
 榎木津は無言の侭、私達二人の肩を押し遣って墓地の入り口の方を向かせた。

 私達は眼下の光景に、言葉も無く立ち竦んだ。

石榴は人の肉の味がすると言う。
その姿も人の肉を想起させる事が全く無いと言えば、
嘘になる。

 私達の居る場所から少し段を降りたあたりに、桜並木に沿うように石榴の樹が十本程も植えられているのが見下ろせた。
そして今、幾十の、幾百もの石榴の実が、各々の樹の足元に惨たらしく落とされ、敷き詰められた小砂利の上には石榴の紅い果皮と透き通った果実が割れ砕けて飛び散り、淡い奬液の様な果汁が染み込み、西日の名残りにぬらぬらと赤く輝いている。
それは──酸鼻を極める光景と言っても過言では無い。
地獄絵図と言っても外れてはいない。


美しい冥界の妃は畏ろしく妬み深いのだという。
異能の探偵は彼女の記憶に何を見たのだろう。
忘れたかった事というのは、本当は──。

私の記憶の中の人にではなく、
その妹に、きっとこのひとは似ているのだ。
 
枝という枝の果実の首を花鋏で一心に切り落とし続けていた黒衣の女は、私達に気付くとこちらを見上げ、

石榴の様にぱっくりと真っ紅な口を開けて、

──笑った。


─ 石 榴 終 ─


1999年11年



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