「竜宮の呼び声」 謎篇・前編   

この作品は、2001年に贋作「京極クトゥルー」小説として、
大勢の皆さんの御協力を頂いて書き継がれた大型連載リレー小説です。


或る浜辺近く

『浜辺を散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。
ただ娘とともにこの路をぶらぶら歩いて思いつき次第に右し左すれば
砂や海風の中にさえに私達を満足させるものがある。

あるいはその路が私達を妙なところに導く。
それは松林の奥の古い墓地で砂に半ば埋もれた苔むす墓が四つ五つ並んで
その前に少しばかりの空地があって、その横の方に浜防風の小さな白い花なども
咲いていることもあろう。
頭の上の空で海猫が鳴いていたら私はさらに幸福である。

もし汀の方へ下りてゆくと、今まで見えた広い景色がことごとく
砂丘の向こうに隠れてしまって、小さな入り江の陰に出るだろう。

もし君、何かの必要で道を尋ねたく思わば、入り江の真ん中にいる漁夫にききたまえ。
漁夫が四十以上の人であったら、大声をあげて尋ねて見たまえ、驚いてこちらを向き、
大声で教えてくれるだろう。
もし少女であったら近づいて小声でききたまえ。
もし若者であったら、麦藁帽を取って慇懃に問いたまえ。鷹揚に教えてくれるだろう。
怒ってはならない。これが■■■近在の若者の癖であるから。

そして行くべき道がわかったなら、迷わずに行きたまえ。深き者どもと■■■■■が、
■■■■で私達を待ち続けているのだから』


「──で、この詩みたいなものを、あんたに渡した?」
山下刑事は紙片をひらひらさせつつ、神経質そうに首筋を拭いながら、
その初老の漁師に訊ねた。
紙片に記された文章の一部は、濡れて文字が滲んでしまっていた。
「へえ。そうなんですよ、旦那。あっしは学がねぇもンですから善く分かりやせんが」
「その後、男はどうしたって?」
「へえ。ずっとこう、小脇に匣を抱えてまして。へえ。
その匣に向かって話しかけるンでさあ」
「匣に、かね?」
「へえ。さも嬉しそうにね。どうにも気味が悪くなっちまって──」
「どう話しかけてたか覚えているかね?」
「そう、こうっと──『かれらが』」
「『かれらが』?」
「へえ。『かれらがまっているよ』」
「待っている?」
「そう聞こえましたです。へえ。『さあ、いこう』とも。
何しろ長いこと着たまんまみてぇな汚れた服装で、眼だけが光ってるような男で。
へえ。それが旦那、にやりと口元を緩めながら──」
「それで、男は──」
「それっきりでさあ。へえ。匣の中じゃかさかさと、なんだか乾いた音が──。
へえ。もう夕暮れ時で嬶も待ってるし何より気味が悪くて──」
「最後に男をみたのは?」
「振り返ってみたんですがね、そのときゃあ足下を打ち寄せる波に洗わせて、
もちろんその匣を抱えたまんまでぼんやりと歩いて行きましたです。はい」
山下は大きな溜息をついた。
「それじゃあ民宿から出てる無銭宿泊の手掛かりにはならんな。やれやれ。
もういいぞ、帰ってくれ」
「ああ、そうだ、旦那。その時、浜風にのって聞こえたんだかどうだか──」
「ん? 何がだ?」
「いや、男の声がね、たしか『かなこ』とかなんとか。それと『くるぅ』、いや違うな。
『くとう』だったか──」
「とにかく御苦労。また何か思い出したら連絡してくれ」
漁夫が部屋から出ていくと、山下は調書を閉じて、不機嫌そうにまた大きな溜息をついた。

──「或る浜辺近く」作・やまい


古書肆店先


 万巻の書が吠える。
堆く積み上げられたとりどりの年代色合い紙質厚み大きさの紙の束が、四方の壁となって絶叫し、咆哮し、号泣する。
其の叫喚の渦の底にあるのは一冊の古書である。
否、その書が在るのが古書肆の店内であり、その書を手にしているのが古書店主であるからそれは古書らしく思われるだけで、何の変哲も無い薄っぺらい紙束は他所で目にしたらたかだか古惚けた只のノートとしか思えまい。
しかしこの書の異質が古今の和書漢籍を積み上げたこの店の書物全てを揺さぶり畏れさせ震撼させる。
──書物が叫ぶ訳は無い。
妄想である。
そんな妄想を抱かせるのは店主がこの冊子に向ける並外れた集中力のせいである。常の眉間の皺を九層倍にも増して店主は汚れた紙面を凝視している。
その圧倒的な精神の収斂によって、彼の身体の延長とも言えるこの店の書籍全てが、激しく鳴動するように感じるのだ。

店主が、す──と息を抜いた。
呼吸すら停めていたのか。
周囲を取り巻いていた声なき叫びが一時に沈黙し、空気が平静に戻る。
「どう思う」
 見計らったように、静かな声がかかる。
帳場の向いで椅子に足を形良く組んだ男の発したものである。
「非道い保存状態ですね。到底売り物にはならない」
 冗談めかして答えながらも、和装の店主は件の古書から未だその目を離そうとしない。
「店に置いて貰おうなんて思ってないよ」
 柔らかい仕立てのスーツを身に着けた紳士、倫敦堂主人山内銃児は明るく言った。
「傷みは激しいが、紙そのものはそう古いものではないですね」
 帳場に座した店主、京極堂主人はかさついた頁を慎重に捲る。
「まあ、こと『このモノ』に関しては古いも新しいも関係ないからねえ」
「そこがやっかいなところですね。昨日書かれたものでも本物ならば
本物なのだし」
 何を言っているのだか、書痴同士の会話は私にはさっぱり判らない。
「それはどういう事だい?最近書かれたものなら偽書なんだろう?」
 たまらず口を挟んだ私に、京極堂は漸く顔を上げてこちらを見た。
「ああ、吃驚するじゃないか。何だ関口君、君、居たのかい」
 毎度の失敬な挨拶だが、今のは本当に驚いた様子だ。
余程この倫敦堂経由の出物に熱中していたのだろう。
「居たのか、はないだろう。山内さんが見えた時、僕に『骨休め』の札をかけさせたのを忘れたのかい。茶だって僕が淹れて来たんだ。ほら、そこ」
 電話で来意は通じていたらしい。待ち構えていて座敷に上がる事を勧める主人に、横須賀から訪れた身なりの善い来客は、此処が善いからと断わって帳場横の椅子にかけたのだった。

 私が勝手知ったる奥から茶を運んで来た時、既に京極堂は一冊の書物に没頭していた。帳場に茶碗を置きながら私も横合いから覗いて見る。
変色した頁の上、細かく小刻みな線、曲線、図形と思しきもの。
反復連鎖する図像、唐突な強調、インクの掠れ、滲み。
これは──文字だろうか?
均整の取れた間隔で丹念に記されている様は、やはり古代文字の一種なのであろう。手書きの写本のようだ。しかし私自身はこの異様な記号に似たものを他に思いつく事が出来ない。
本の後半には羅馬字系統のやや見慣れた形の文字がびっしりと書き連ねられている。前半の古代文字の解説の様でもあるが、こちらの文字は現代の物に似通っているとは言っても言語そのものに馴染みがなく、読めない事は結局前半と同様であった。こと書物に関しては該博な知識を持つ友人の顔をそっと伺うと、こちらは日頃から不健康な顔色が一層悪くなって見える。
読んでいる訳ではなかろう。読めるものではない。只管睨み付けている。
何か言うに言われぬ異質さに、私は店内の本達が非難の叫びをあげる様に感じた。否、本ではない。私の心の奥底が、この得体の知れぬ執拗な文字に嫌悪を抱いていたのである。
向いの倫敦堂主人に目を遣ると、飴色の光が小振りな眼鏡に反射してその表情は伺えない。

 京極堂は漸く傍らの茶碗に気付くと、冷めた茶を珍しく一息に飲んだ。


「例えばだね、君の売れなかった小説『目眩』が君の没後三十年くらいして物好きな出版人によって奇跡的に復刊されたとする。著者はもうとっくに死んでいるし、初版の時とは版形も装幀も違っている。それならば新しい版の『目眩』はニセモノかい?」
 いきなり何の話かと思えば、京極堂は私の問うた『偽書』の説明を始めたらしい。山内さんの前で「売れなかった」は余計である。
「そんなの、僕が書いたものと内容が全く同じならそれは本物じゃないか。
でも、君達が商売にしているような古書は現代の大量出版物とは事情が違うのだろう?工芸品なんかと同じで、その時代に作られてこその価値を見るものじゃあないのかい」
「君の本が大量に出版されたかどうかはかなり疑問のある所だが、それはこの際問わない事としよう。山内さんのような真正コレクターならば本そのもののオリジナル性を重視するところだろうけれど、僕は書物は主に情報源として扱っているからね、内容さえ善ければ情報媒体の形態はそれ程問わない」
「嘘つけ、矢鱈うるさいじゃないか。構成とか割り付けとか装幀とか」
「好みだよ、別に善いじゃあないか」
 京極堂は煩さそうに手を振った。
「ただその情報源が明らかだ、と言う点でオリジナルを直接見る事は大切だ。引き写しを重ねていると途中で虚偽や誤植が紛れ込んでいても見分けがつかなくなるからね。それ以外の点では正確なコピーはオリジナルと同じだ、斐紙に金泥で記されてしかるべき有り難い経文が洟紙に記されていても経そのものの有り難さが減じるものではない」
 引き合いに出すに事欠いて何も洟紙に経を書く必要は無いと思うが、経文はこの場合適切な比喩かもしれない。
「分ったよ、これの場合はこの汚い本自体が昔書かれたものかどうかが問題なのではなくて、ここに書かれているこの変梃な文字の意味するものが重要だと言いたいんだろう、全く回りくどいなあ」
「それで、京極君?」
 上手い間合いで山内氏が声をかける。
話の長い男は暗い表情で首を横に振り、本題に戻った。
「生憎今これを見た限りではニセモノだとも断言出来ない、としか言い様がありませんね。僕は全くの門外漢なのですし。お役に立てなくて申し訳ありませんが」
「これ関係の専門家なんかが日本に居たらかえって怖いよ。今、ミスカトニック大学に写真を送って問い合わせているけど、そっちも可成り時間がかかりそうだしねえ」
 そうでしょうね、と前髪を掻き上げて京極堂が頷く。
「差し障りがなければ──いや、あるのかな?これの入手経路等も教えて頂けませんか?出所が判れば少しは手掛かりになるかもしれませんし──電話ではあまり説明出来ない、というお話でしたが」
 山内氏は小振りな眼鏡を指で支えて苦笑する。
「差し障りが無くはないんだけどね。警察に口止めされているからあんまり具体的な事は言えないんだけど。君には無理を聞いてもらっているのだからまあ、いいか」
「警察?」
「一応これも証拠物件なんだよね。許可──というか警察から依頼されて、事件との関連性を僕が調べているんだけど、ちょっとこれはねえ」
 その諜報部員のような外見に劣らず、山内氏はその立場も一筋縄ではゆかぬ訳ありな人なのだそうだ。
「証拠物件──」
「何があったんですか」
 厭そうに眉を顰める京極堂に構わず、私は勢い込んで身を乗り出す。
「それは僕が知りたいなあ」
 倫敦堂主人はゆっくりと足を組み換えた。


 一週間程前、◯◯区のアパートの自室で男が死んでいるのが発見されたと言う。そんな事件があった事など、私の記憶には全く無い。
「病死ではなかったのですか?ごく小さな記事でしたが」
 活字の鬼はさすがに見逃していなかったようだ。
「新聞には詳細を載せなかったようだよ。不審な点が多いので遺族も警察も表沙汰にしたくなかったみたいだから」
「不審な──点」
 
 その日、アパートの管理人は憤激した一人の婦人の訪問を受けた。
彼女はそのアパートの一室の住人の姓を名乗り、部屋の鍵が開かないと訴えて来たのだ。管理人がその住人は一人暮らしの筈だがというと、別居中の夫を訪ねて来て、応答が無いので合い鍵を使ったが、扉が開かないので錠を換えたのだろうと言う。アパートの住人は管理人に許可無く錠を付け替えるのは禁じられたいるからそんな事はないはずだと言うと、彼女は今度は男が自分の訪問を厭って違う鍵を渡したに違いない、と怒り心頭に達した様子で騒ぎ出した。その剣幕に押されて、管理人はしぶしぶ万能鍵を手に男の部屋の前に立った。鍵を回すと、ふと──海の香りがしたという。
鍵はなんなく回った。しかし扉は開かない。
何度回しても、いっかな扉は開かなかった。

管理人は、何やらただならぬものを感じたという。

やがて管理人は近所の交番から駆け付けた巡査とともに強行手段に訴えた。
開かぬのも道理、打ち壊された扉は内側から頑丈な板を打ちつけられていた。めりめりと板が割れる音が響くと同時に、奥からどろりと重い磯の臭いが表に流れて来たと言う。

 男は部屋の中に居た。
当然である、扉を釘付けにして自らを部屋に閉じ込めていたのだから。
ただ、その姿は当然あるべき姿からは程遠いものだった。

男は。
ぬらぬらとした異臭を放つ液体に全身を濡らして横たわり、
驚愕とも苦悶ともつかぬ悍ましい表情を顔面に刻み、
大都会のまん中のアパートの一室で、
──溺死していた。

「できし?」
 唐突に出た単語が一瞬、聞き取れない。
語り手は横にした掌を腹から首元まで水平に上げて見せる。
「──肺の中は水で一杯だったそうだよ」
 水に溺れて死んでいた、という事か。
「だけどね、そのアパートは風呂も炊事場も共同だから部屋の中に水道設備は無い。うっかり足を滑らせてどぼん、とかそんな事はあり得ない訳ね」
「遺体の周辺にバケツ等は」
 京極堂の問いに山内氏が微笑む。
「そりゃ洗面器一杯の水でも水死する事はできるけれど、少なくとも自殺は無理じゃない?水に顔を漬けてそのまま死ぬまで顔を上げないなんて、それほど意志の強い人間はそうそういないだろうなあ。ああ、睡眠薬を飲んでいたら出来るかな」
「それで人が入って来て邪魔されないように扉を釘付けにしておいたんですか?それ程追い詰められていたなんて、なんだか気の毒だな」
「心底気の毒そうな言い方するね、関口さんて。でも彼は自殺なんかしないよ」
 彼は。山内氏は死者を知っているような口振りである。
「自殺じゃないって、でも──密室だったんでしょう?」
 山内氏は私を正面から見て、にっこりした。
「ああ、確かに扉は内側から釘付けされていたと言ったね。
でも窓は開いていた」
 気が抜けて前にのめりそうになる。
そういえば奥から風が吹いて来たという話ではないか。
「なんだ、じゃ、犯人は窓から」
「10メートル下の人通りの多い往来に飛び下りたの?」
「10メートル」
 それは飛び下りたら無事では済まないだろう。
「男が死んでいたのは地上4階建てのアパートの最上階だったんだ。
しかも彼の肺に詰っていたのは」
 山内氏は淡々と言葉を継ぐ。
「海水だった」

 海水?
何だ──それは。
不意にぐにゃりと視界が歪むような気がした。
それは、何か酷く異様な状況なのではないだろうか。
外部に通じる扉を自らの手で固く閉ざし、しかし何処へも行けぬ窓を開け放って、天空の高みで恐ろしい形相で溺れて死んだ男。
私の理解の範囲では今の話全体に整合性を持たせる事は到底出来ない。
そんな不可解な場面でなくとも、ただでさえ海は厭わしいものなのに。
海は。海の中には。
──ぬるぬるした生命のスープが、やがてどろどろと固まって。
水に触れないだけでは駄目なのだ。海を遠ざけても駄目なのだ。
繁華な町の中にいても、地上10メートルの高みに逃げていても、
扉を固く閉ざしても、逃れる事は出来ないのだ。
緩んだ理性の継ぎ目から忘れ去っていた理不尽な感情が溢れ出しそうになり、私は慌てて横目で友人を見る。
頼みの京極堂は目を細め顎を拳に埋めて微動だにしない。
押し黙ってしまった私達を交互に眺め、山内氏は楽しげに語り続けている。
「変だよね。変でしょう?このケースは変則的ではあるけれどロックドルームに分類していいのかな。しかもこんな意味ありげなアイテムまで死体の傍らに転がっていたんだから」
 染みだらけの汚れた写本。
では──この染みは。

どろどろどろどろ。
海鳴りが聞こえる。
こんな中野の坂の上の古本屋で海の音など聞こえるものか。
これは本の声だ、店中の古書が吠えているのだ。
だから拒否したのだ、だから非難したのだ、
こんな忌まわしいモノを我々の住む世界に持ち込む事を。
──書物が叫ぶ訳は無い。
これは只私の体内を血液が流れる音だ。
どろどろどろどろ。
塩辛い太古の名残りの液体が私の中に押し寄せる。

「それにしても僕らのところに連中が訪ねてきたら困っちゃうよね、
店中の本がべとべとになって売り物にならなくなるよ。
御用の際は自宅にお回り下さい、と張り紙しておくかなあ、
ああ、でも京極君とこはどっちにしろ家中本だらけだし」
 京極堂は眉を顰めて押し黙ったまま、未だ何も言わない。
私は朗らかな調子で話し続ける山内氏に空ろな視線を戻す。

濃い色の硝子の奥の倫敦堂の瞳は──少しも笑っていなかった。

──「古書肆店先」作・ナルシア

里村医院


「もしもし。うん。結果が出た。海水による溺死、急性呼吸不全。
所見は肺の鬱血水腫、右心系拡大と諸臓器鬱血。少し大きめの胃潰瘍の他に潜在性の疾患は無し。まあ最後の脳浮腫くらいはあるけどね。うん。循環系にも急死の原因は無いよ。死後硬直がちょっと釈然としないくらいに強くて、なかなか緩まなかったけどね。そう。あの表情のまま。凄いお面相。ま、頭皮めくったから、ちょっとは治ったけどね。外傷は無し。
え?注射痕なんて無いよ。だから、直接死因は紛れもなく溺水によるんだってば。そう。おぼれたの。
で、注目の肺の中に有ったのは、間違いなく海水。真水じゃない分、かえって肺実質の障害は少なめだよ。うん。海水。
え?何云ってるの、しょっぱいからとかぢゃないってば。いくら僕でも舐めないよ。微生物だって。そう。プランクトンの種類をね、顕微鏡で確認したから。法医学の常識でしょ。

は?あー、違うってば。僕だって細かい種類までは知らないよ。だから、国立博物館の──。そう。餅は餅屋。ところがね──。そう。彼も、ちょっとおかしいって。
海水由来のプランクトンには間違いがないけれど、あまり見ないヤツだって。
そう。なんだか随分深海にいる種類らしいんだなぁ、それが。そう。でね、もっと
変なのは、その種は、今ぢゃ古い化石に含まれてる種類のと形態学的にそっくりだって。
そう。まるで太古の海水みたいだって彼も首を捻ってたよ。え?三葉虫?何云ってるの。
あれはもっとデカイってば。うん──」

──「里村医院」作・やまい


京極堂座敷

「死んだ男は、数学者だったそうだね、鳥口君」
唐突に話を振られた鳥口は一瞬ぽかんとして、
それから慌てて手元の資料をばさばさと繰った。
「ええと、大学の教官でですねえ、幾何学を教えてたそうで。
三十七歳、独身。学級肌の真面目な男で、
勤務態度には何ら問題は無かったし、
学生との間に何か問題を起こした事も無いと
大学側は云ってましたよう。講義は退屈で、
あんまりそういう意味での評判は善くなかったっすけど」
「趣味については調べたのかい?」
「大学の同僚連中に当たってみましたが、
これといった趣味は無かったらしいっす。
柱時計の振子みたいに、大学と大学の直ぐそばのアパートの間を
行ったり来たりで、怪しい連中との付き合いも無し、
女出入りも皆無。ただ―――」
「週末毎の古本屋通いは欠かさなかった?」
「はあ。倫敦堂さんの常連さんだったそうで。
でも、そういうのは趣味って云えるんでしょうかねえ」
「赤線地帯に通うのを純粋な趣味と豪語する輩だって居るよ。
何を持って趣味と称するかは人それぞれだ。
因みに、西洋では愛書趣味は、随分古くから有閑階級の嗜みとして
認められていたのだよ、鳥口君。
黴臭い本であれ不気味な虫であれ、蒐集者には唯一無二の宝となる。
それに、財力と熱意を併せ持つ愛好家が居てくれなければ―――
君達みたいに、茶を飲んで油を売るばかりで
一冊も買わない客相手では僕らの商売は上がったりだよ、全く」
「でも、そんなに入れあげてたわりには、結局
アパートから見つかった古本は、死体の傍に有った
それだけだったらしいっすよ」
そう云う鳥口のぎこちない視線の動かし方は、
座卓の上に無造作に投げ出されている問題の古書を
見ないようにするためのものだ。中禅寺は素っ気無く頷いた。
「それはあの時点で彼が所持していたのが、
この写本だけだったというだけの事だよ」
「なあ―――京極堂」
関口が苛立たしげに口をはさんだ。
「倫敦堂さんからどんな話を聞いてるんだ。
いい加減に教えてくれよ」
「聞かせても善いが、君に解るかな関口君」
「―――」
「ストイケイア、カザン帝國大学紀要、補遺・空間絶対科学。
以上が何を意味するか答えられたら、先を続けても善い。どうかな?」
意地悪い微笑を向けられて、関口は頬を強張らせた。
「…『ストイケイア』ぐらいなら、僕だって知ってるよ。
ギリシャ数学の泰斗ユークリッドが書いた幾何学公理の本だろう」
「うへぇ、先生お見事」
鳥口が感心というよりは吃驚したように呟き、
懐で腕組みしていた中禅寺は俯いてくっくっと笑った。
「上手く切り抜けたもんだな、関口君」
「『ストイケイア』が、殺人と何の関わりがあるっていうんだ?」
「今のは、死んだ学者が探していた、つまり山内君が依頼を受けた稀覯書の名だよ。
『ストイケイア』は、英題elements、所謂『幾何学原論』だね。
関口君の云う通り、アレクサンドリアのエウクレイデスが書いた
幾何学の最初にして最大の幾何学公理の集大成だ。
カザン帝國大学紀要には『幾何学の起源について』という論文が
連載されていたらしい。ロシアの数学者ロバチェフスキィの手になる
ものだが、無論、本邦語訳は無い。
『空間絶対科学』はハンガリイの数学者の論文。
もう一冊は、リーマンの『幾何学の基礎にある仮説について』
だったかな。何れもかなり珍しいものだそうだよ。
特にカザン帝國大学紀要などは、ロシア革命のどさくさに紛れて
現物は既に失われたとも云われているらしい」
「あのう、珍しいってことは、高価いってことですよね」
「ああ。だが、そのうちの一冊でも本当に手に入るのなら、
悪魔に魂を売っても善いと被害者は云っていたそうだよ」
「はあ、本と引き換えに魂を…。そいつは熱心ですね。
若い時の苦労は魂を売ってでも買えってのは
聞いたことありますけど」
「…君なら絶対に売らないだろうね、鳥口君」
関口が疲れた様に口元だけで笑い、鳥口は元気善く頷いた。
「勿論ですよう。さっきのユークリッドって名前は
僕も知ってますけど、随分昔の学者じゃあなかったんすか?
本なんか残ってるんですかい?」
「彼が生きた時代から二千年近く経った後世、
十五世紀のヴェネツィアで出た初版だそうだよ。
プトレマイオス朝のエジプトには出版技術は無いからね。
他の本は、だいたいが十八世紀から十九世紀にかけて
出版された初版らしい」
「じゃあ―――」
関口が思いつめた視線を卓上に注ぎながら呟いた。
「どうしてなんだ。
自分の専門の、数学関係の稀覯書蒐集を趣味にしてたのに、
なんでこんな如何わしい写本を―――」
「鍵は『非ユークリッド』という語の中に有る。
君達は―――本当に聞く覚悟があるのかい」
中禅寺の声が低く、響いた。
関口が顔を上げ、中禅寺の視線を何とか捉えた。
「勿論だよ、京極堂。殺人犯の手がかりは、その本の中にあるんだろう?」
「殺人犯か」
ふん、と中禅寺は憎々しく嗤った。
目は変わらず関口に据えられて、不吉なまでの苛烈さで光っている。
鳥口は背筋が寒くなるような予感を覚えて、我知らず口を開いていた。
「あのぅ、師匠―――」
じろりと睨まれて、鳥口は身体を竦ませた。
自分でも何を云いたかったのかわからないまま、問いは舌の上で消えた。
「いつもの探偵ごっこを期待しているようだが、
これは、そんな生易しい話ではない。
君達は、自分が何に首を突っ込もうとしているのか知らないのだ」
関口は、鋭い言葉を浴びて蒼褪めたようだった。
「…別に首を突っ込みたいわけじゃあ無いよ。
唯、被害者に何が起きたのかを知りたいだけだ」
「そして愚にも付かない付け焼刃の原稿を書き上げるというわけかい。
雑司が谷の一件の時、僕の忠告を無視してどんな目に遭ったのか
綺麗さっぱり忘れてしまったのかね、君は。
鳥口君には悪いが、今回の仕事は止めたまえ。家で寝ていた方が君の為だ」
「君の―――指図は受けないよ」
「ああ、君はまだ善い。雪絵さんに何か有ったらどうするんだ?」
関口は今度こそはっきりと顔の色を喪った。
「ゆ、雪絵に?」
「これは、そういう話なのだよ。
君の、その恨みがましい顔付きからすると、
僕がまたはったりをかけて必要以上に脅しつけていると思っているのだろうが―――
あの学者の惨い死様から、何も学ばなかったのかね。
あんなことは自分の身には絶対起きないとたかを括っているのなら、
それははっきり云って間違いだ」
関口は抗弁できずに唇を噛んでいる。
座敷の空気が張り詰めていた。
鳥口は、正座した膝の上で両手を強く握る。
「しかし―――」
座卓の上の古書を睨みつけて、中禅寺が呟いた。
「此処で僕が口を噤んで君達を座敷から叩き出せば、あの時と同じ事が起きるだろう。
君達が暴走した上に神保町の探偵でも絡んだら、全く碌な事にならない」
中禅寺は苦々しげに云いながら、煙草盆を引き寄せた。
取り出して咥えた煙草に火を付けながら、
「これから僕が話す事を原稿にはしないと約束出来るかい。
君だってこちらの大先生と同じ位危ない立場に有るのを
自覚して欲しいね、鳥口君」
念を押すように呼ばれて、鳥口は文字通り数センチ飛び上がった。
「は、はあ。多分何とか出来ると思います」
「何とか出来なければ君の命は風前の灯火だよ。無論冗談事では無い。
関口君。聞けば―――帰って来られないかも知れない。それでも、善いのかい」
「帰って来られないって―――どういう意味だい、京極堂」
「知るだけなら害は無い、と思っているのなら大間違いだということだよ」
「うへぇ、き、聞いただけで死ぬなんて事があるんすかッ」
狼狽した鳥口を、中禅寺は眉根を寄せて一瞥した。
「マンドラゴラを引き抜く訳じゃあ無いんだよ、鳥口君。
実は、山内君からこの写本を受け取った直後、築地から電話を貰ってね」
「築地って、あの、君の師匠から?」
「ああ。長々と沙翁の戯曲の講釈を聞かされたよ。
智恵有る者が愚行を演ずるは智恵の名折れ、だそうだ。『十二夜』だったかな」
「それはつまり、こうして僕達にその話をすることが愚行だと云うのか?」
「流石に察しが善いな。
『狂人と戀人、詩人は汎て想像力の塊とでも云うべき輩。
茫漠たる地獄に収まらぬほどの数多の悪魔を視る者、是即ち狂人也』」
「師匠…全然解らないっすよう」
鳥口が絶望的な口調で呟いても、中禅寺は殆ど表情を動かさない。
「『詩人の眼は精妙にして狂える霊感の内に巡り、
天上より地上、地上より天上に視線を走らせ、
想像力にて知られざる物の姿を生み出すにつれ、
彼の筆は、是等非在のものどもに明らかなる形を与え、
触れえぬ空しい器に棲処と名を与える』。
別の戯曲の登場人物の台詞だそうだよ―――ふん、まるで関口君のようじゃないか。
尤も詩人というには余りに君の発想と文体は俗物に過ぎるかな」
関口は酷く顔を顰めたが、もう何も云わなかった。
中禅寺の話は触覚を失った蟻のように迷走するのが常だ。
最後まで通して聴かなければ、どこに落ち着くのか聞き手には絶対に解らない。
全てを引き出すには忍耐するしか無かった。
その覚悟を見て取ったのか、古書肆は煙を吐き出して僅かに嗤った。
「これからする話に出てくる男は、関口君よりも更に今の形容に相応しい。
狂人と詩人の中間に在って悪魔を幻視し有りえざるものに名を与えた。
其れが彼の功績であり、また罪だったのだよ」
「ええっ、じゃあそいつが―――」
「無論、犯人では無い。せっかちだね、君は」
すみませんと鳥口が萎れ返り、中禅寺は溜息をついた。
「まあ善い。兎に角、僕は警告した。後は何が起ころうと君達自身の責任だ」
とうとう始まるのだ。関口は身を固くした。

「先ずは、そうだな、幾何―――平面幾何なら君達も中学校で必ず学んでいる筈だし、 使った教本は『ストイケイア』の殆ど引き写しの様なものだから、訊いてみる事としようか。
エウクレイデスが編んだ幾何学を構成しているのは公理と呼ばれる概念だが、この『公理』とは何かね?」

「そ、それは、」
関口は軽く吃った。答えが解らなかったのでは無く、緊張のためだ。
「数学の問題を解く上で常識とされている説明の事だろう」
「では常識とされている、というのは?」
「皆が知っていて、当然だと思ってる事っすよね」
「当然という語は、道理に照らしてそれが当たり前である、と云う意味だ。
道理とは、天地神明の理と云う如く物事がおしなべて従う理。
日月は東から西へ運行し、水は高きから低きに流れる。
乱暴に云えば、公理も、『ストイケイア』が司る幾何の世界ではこれらの事象と同格に扱われる。
曰く『理由を述べることなく真である認める陳述』。少しは思い出したかな」
「…聴かされるたんびに腹が鳴ったのを思い出しましたよう」
戦時中に学生時代を過ごした鳥口が正直な感想を吐いた。
「この絶対的公理の存在と、これらを用いて予め美しく築き上げられた無謬の伽藍故に、
ユークリッド幾何学は二千年の長きに渡って西欧世界の数学の規範で在り続けたのだよ。
我が国には、中国を通じて江戸時代に『幾何原本』として流入し、
西欧に足並を揃えようとした明治の御世からは、
洋算として代数と共に初等教育に加えられ、結果として和算を衰退させる形になった。
しかし、前世紀になってとうとうその威光に疑問を投げかける学者達が出たのだ。
しかも―――」
「ああ、そうか、非ユークリッド幾何学か―――」
ぼんやりと洩らしたのは関口だった。
「ほう」
中禅寺が頬を歪める、そのやり方で、関口は自分が仕掛けられた罠を踏み破った事を悟った。
うろたえて鳥口を見遣れば、浮かべた表情は中禅寺とは異なるものの既に彼の発言を待つ態勢だ。
「あ、いや、僕の方は善いから、続きを―――」
「いやいや。有り難く拝聴するよ」
「―――」
自分が躊躇すればするほど話が淀んでしまうのも解っていた。
これで中禅寺の気が変わればいつ何時追い立てを食らうか解らない。
不必要な言葉を零した己に対する苛立ちを込めて、関口は中禅寺を睨み返しながら、ぶっきらぼうに言葉を継いだ。
「さっきの稀覯書の著者達は皆、非ユークリッド幾何学の発見者だろう。
ロバチェフスキィの名前で思い出したよ。第五公準を否定するやり方は忘れたけれど―――」
「せっ、先生、話の腰を折って済みませんが、第五公準ってのは?」
関口が何か云うより早く、中禅寺が口を開いた。
「公理の原語はアキシオマータ、公準はアイテーマタと云う。
アリストテレスに拠れば、公理は先ほども云ったように絶対的真実、公準は証明無しで使っても善い事実と定義される。
だが、今では余り厳密な区別は付けられていないのだよ。
公準の一から四までは実に単純だが、五番目はユークリッド幾何学のアキレウスの踵の様なものでね。
では関口君。先を続けてくれたまえ」
「彼等が平行線公理をどうやって否定したかは僕も憶えていない…というか、解らないよ。
数学は専門じゃ無いから、だからこれ以上の説明は出来ない。
解ったのは、死んだ数学者が興味を示していたのが非ユークリッド幾何学の文献だったという一点だけだ」
「ふむ。まあまあだな。しかし、まだ足りない」
「だから、大人しく君の話を聴くと云ってるんじゃないかッ」
「それが大人しく他人の話を聴く態度かね」
興奮のせいか、かえって青褪めていく関口と悠然たる中禅寺を見比べていた鳥口が、恐る恐る片手を挙げた。
「あのう。闊達な意見交換中、度々済みませんが」
「何だね鳥口君」
「その…『非ユークリッド幾何学』って何なんすか?
難しい数学だってのだけは解るんですけど。師匠も何かさっきおっしゃってましたよねえ」
「あれがものの数十秒で説明出来るようなら僕はこんなところに座っていないよ、鳥口君」
「師匠なら何でも説明出来ちゃいそうですけど」
「馬鹿云っちゃいけない。
発見者の一人ハンガリーのボーヤイは父親から『平行線定理にだけは手を出すな』と警告されていたそうだよ。
そんなものにのめり込めば自分のように人生を棒に振ることになるから、とね。
彼はそれでも成功したから善いが、そうで無い人間も多い。
高等数学では何人もの優秀な研究者が長年考えて漸く証明される命題も多いのだ。
数学は実に精緻で端正だが非生産的なものでね。
何処かの探偵に似ていると云えない事も―――否、あれはとても精緻とは言い難いか。
同じ非生産的作業ならば僕は読書を選ぶね。
計算にうつつを抜かす趣味は無い。さて、関口君の指摘だが」
「―――」
「肝要な点が二つ抜けているよ。
まず一つは、非ユークリッド幾何学の発見者が複数である事。
もう一つは、そいつも―――」
中禅寺は座卓上の写本にあごをしゃくった。
「数学の文献であると云う点だ」

「これが?数学の文献っすか?」
「だって―――」
「それは、この本のどこにも数字や数式が無いからかい?」
中禅寺が揶揄するように云うと、
鳥口と関口は古びた写本を恨めしげに見遣った。
もう一度手に取ってみたいが触れるのも怖い気がして、
どうにも手が出せないのだ。
「英語で云う『計算』calculationと云う語は、
『小石』を意味する羅典語caluculsから生まれた。
其の頃の計算方法に何が使われていたか善く解るだろう。
計算は遥かな過去から人間の営為に欠かせないものだった。
しかし、数の概念をあらわす文字は、違う。
系統立てて表記できる数字を持つ民族は慥かに多いが、
計算を知っている民族が全て数字を使っているかというと、そうでは無い」
「つまり…其処には数字に拠らない数式が載っているという事か」
「そうとも云えるし、そうでは無いとも云える。
君達は、僕がさっき説明した公理の定義を憶えているかな?」
「お日様が昇ったり沈んだりするのとおんなじような絶対の理屈、でしたっけ」
「そうだ。自明と認められる少数の事実を公理と称し、
それらを使って現象を説明し、又は特殊を導き出す―――
数学のみならず様々な科学大系がこの手法に倣って編まれたが、
規範を築いたのは『ストイケイア』なのだよ」
「それと数字の無い数学文献の話がどう関わってくるんだい?」
「ふん。君達が読んだ平面幾何の公理は、何を使って記されていた?数字かね?」
あっ、と鳥口が小さく声を洩らした。
「そう、言葉だ。プラトンのアカデメイアの門には
『幾何を知らざる者入るべからず』と掲げられていたそうだ。
幾何学は、哲学を学ぶ為に必要な論理学の訓練に取り入れられていた
歴史を持つ。『同じものに等しいものはまた互いに等しい』で始まる
公理を見れば解るように、つまり、旧い時代の数学は言葉に拠る
論証の学問だったのだよ。
本来、数字、数式、そして各種の平面図は所謂直観を得るための、
或いは説明を簡便にする為の補助に過ぎなかった」
「じゃあ、ここに書かれているのは皆、数学的な公理の文字説明なのか?」
関口の問いには答えず、中禅寺は徐に手を伸ばして、古書を手に取った。
「関口君。さっきの非ユークリッド幾何学の発見者の名を
もう一度挙げてくれないか」
「ロバチェフスキィ、ボーヤイ…、リーマン」
「彼等は皆夫々独自に非ユークリッド幾何学を発見した。
第五公準の論証は十六世紀あたりからの流行でね。
さっき関口君が云った平行線公理というのは、
第五公準に対してビザンチンの学者が付けた屁理屈で、
実際は補助公理と呼ばれている。
問題の第五公準の内容は、一直線が二直線に交わり、
同じ側の内角の和を二直角よりも小さくするならば、
この二直線は限りなく延長されると―――鳥口君、続けた方が善いかね?」
居心地悪そうに腹の辺りを擦り始めた鳥口に、中禅寺が意地悪く訊ねた。
「あ、いえ、すみません、やっぱりいいっす、
ちょっと条件反射で―――腹が」
「僕の話を理解する為に非ユークリッド幾何学を理解する必要は無いよ。
関口君のせいで些か話がずれてしまっただけだ」
「京極堂、君もさっき、それが鍵だと云ったじゃないか」
「そんなことは云っていないよ」
中禅寺は目を伏せて古書の頁を捲り続けている。
「いや、僕は聴いたよ。非ユークリッド幾何学の中に鍵が有ると、君は―――」
「君の五感は本当に怪しいな。
僕は、『非ユークリッド』としか云っていない」
関口は、うう、とも、ああ、とも聞こえる声を出した。
「それと、―――どう、違うんだ」
「ふん。もう少し君が敷いてくれた道に則って話を続けようか。
ロバチェフスキィがカザン帝國大学紀要に論文を発表したのは1829年。
実際に完成させたのは数年前らしい。
ボーヤイが『絶対空間科学』を父の著作の補遺として発表したのは
1823年。ガウスは1821年。リーマンは1854年。それぞれが独自に発見した。
皆が同じ公理について考え続け、似たような時期に結論を出した。
興味深い現象とは思わないかね?」
「共同研究じゃないんすか?」
「違う。ボーヤイの父はガウスの同級生で、
リーマンはガウスの弟子だが、研究それ自体は別だ」
「彼等に似たような着想をもたらすような何か発表があったとか?」
「それは有ったかも知れないね。
しかしここで僕が云いたいのは―――この写本も同様にして書かれたに違いない、という事だよ」
「はぁ?」
「君は…この写本が非ユークリッド幾何学を
証明しているものだと云うのか」
「内容の話では無いよ。成立過程だ」
中禅寺の声の温度が、不意に低くなった。
恰も座敷の明るさまで減じたように感じられて、関口は僅かに震えた。
「さっきも云っただろう。
或る連中が同じ『公理』について考えつづけた結果として、
この写本も生まれたのだよ」
隣で、鳥口が頭を上下させるようにして唾を飲んだのが解った。関口は、何とか口を開いた。
「同じ公理…って、それは―――」
中禅寺は漸く顔を上げた。

「In his house in R'lyeh dead Cthulhu waits dreaming.
―――それが、この写本が証明しようとしている公理だ」


それは簡単な英語だったようだが、意味不明の固有名詞に気を取られた関口には殆ど意味が解らなかった。
しかも、中禅寺は聴衆から何らかの反応が有るとは最初から思っていなかったらしく、
直ぐに言葉を継いだ。
「ルルイエの彼の館にて死せるクトゥルゥ夢見のうちに待つ、とでも訳そうか。
最も善く知られた英語の表現だ。
この写本の場合は、見ての通りもっと旧い言語で書かれて居るが」
関口は身震いした。
「それは、一体どういう意味なんだ、京極堂。
それが公理というのは比喩なのかい、それとも―――」
「この写本には、血を同じくする兄弟とも云うべき書物が
多数存在している。非ユークリッド幾何学の一派と同じで、
色々な連中が独自に『公理』に取り組んだ、その結果だ」
中禅寺は手元の本に再び目を落とした。
「他の本はどうあれ、この本に於いては公理―――或いは命題に対して
所謂『数学的』な検証が試みられている。
公理を論証する為には空間と角度の問題を解く必要が有るのだよ」
「君は、真逆―――それを読んだのか?」
関口が恐る恐る訊ねると、中禅寺は、馬鹿な事を、と笑った。
「羅典語が辞書無しで自在に読めたら善いと思ったことは有るが、
これを読みたいとは思わないね」
「読んでいないのなら何故内容を知ってるんだ」
「売文家にはぴんと来ないかも知れないが、商品知識の研鑚は商売の基本だよ。
僕のところは和書や古典漢籍が専門だが、
何処でどういう掘り出し物に出会うか解らないのがこの業界でね
―――とはいえ本来なら幾ら金を積まれても、この類の品は引き取りたく無いんだが、
山内君の生死が掛かっていると有っては断れなかった」
「生死が掛かっている?」
「倫敦堂は死んだ男が出入りしていた古本屋として
知れ渡ってしまった―――連中の手が伸びないとも限らない」
最後の呟きはかろうじて関口の耳には届いたが、
まさに質問を発しようとしていた鳥口には聞こえなかったらしい。
「あの、さっきの『瑠璃の家』とか『くとり』ってのは、
何なんですかい。さとりの化け物の仲間とか」
「英語の表記に忠実に発音するとクトゥルゥだよ。
他にも数多の名前が有るが、ややこしい話がさらにややこしくなるからね」

クトゥルゥ。

関口は、落ち付かない様子で身じろぎした。
その耳慣れない響きは、じっとり湿った手で肌を撫で回すような不快な感覚をもたらした。
「そのクトゥルゥというのは―――」
「神だ」中禅寺は即答した。
鳥口は混乱した表情を浮かべた。
「神って、神様仏様の…?数学の公理のネタが、神様なんすか?」
「彼は―――否、其れと云うべきかも知れないが、
長い間ルルイエと称する海底神殿に眠っている。
先ほどの文はそれを詠ったものだ」
「クトゥルゥ、ルルイエ…聞いた事の無い名前だね。
どこの神話の神様なんだ?」
関口の問いに、中禅寺は小さく首を振った。
「既存の神話には所属していないよ」
「しかし、神として知られているからには―――どこかの国で崇められているんだろう?」
「いいや」
中禅寺の微笑が、陰惨な影を帯びたと思ったのは気のせいだったろうか。
「クトゥルゥは、地上の人間が崇める神では無いのだよ、関口君。
そして彼自身も人間に対しては何の興味も慈悲も示さない。
そういう存在は『神』ではなく別の名で呼ばれるべきなのだろうが、
この写本を書いた連中にとっては、紛う事無く神の中の神なのだ」
「それは、つまり―――」
中禅寺の言葉から透けて見える不吉な事実から、
関口は気持ちを逸らそうとした。
地上の人間が誰も知らない神とは―――
人間以外の何かが崇める神ということに他ならないではないか。
「んじゃ、さっきの話とつなげると、
神様が公理で、それを証明しようって事ですか―――」
「もう一度、公理の定義を思い出してみたまえ」
関口は絶望的な気分でそれを思い起こした。
公理とは、絶対的な事実だ。
『理由を述べることなく真である認める陳述』。
「写本を書いた連中にとっては神の実在が絶対的な真実なのだよ。
そして残念ながらそれは正しい。クトゥルゥは―――実在する神だ」
云いきってから、中禅寺はにやりと笑って顎を擦った。
座敷に満ちていた見えない圧力の様なものがふっと緩む。
「どうだい、鳥口君。呆れる程破天荒な話だろう―――まだ聞く気はあるかね?」
「―――」
鳥口は口を開きかけたが、また閉じた。
中禅寺の凝視に耐えられず、面を僅かに伏せる。
すぐには答えられなかった。
聞きたい聞きたくないで云うなら、聞きたくない―――
否、聞くべき話ではないと理性が悲鳴を上げていた。
話が出鱈目だからではない。その逆だった。
実在する神。
亜細亜のどこかで生神として選ばれた幼い少女を崇める宗教があるのは知っていたが、
中禅寺が云う「クトゥルゥ」がそういう常識的な意味で実在する訳では無いのだと、心の何処かで理解しかけていた。
犯罪を扱う俗悪雑誌の記者として、
新興宗教の教祖から正真正銘の葦原将軍弐号まで、
仕事柄「神様関係」の手合いとは付き合い馴れている鳥口である。
話の中に潜むものを嗅ぎ分けられなければ、そもそもこの仕事はこなせない。
そう云う記者の勘から云っても、この「神」の話は一笑に付す事が出来なかった。
彼の身上である陽気で健康的な好奇心をも凍り付かせてしまう、薄ら寒い真実の匂い。
それは、中禅寺が手にしている写本から漂ってきているようだった。
こんなに厭な気分に襲われる理由は、自分でも解っていた。
あの数学者の無残な屍体の周りには、大きな水溜まりがいくつも出来ており、
塩分を含んだ其の水は、血臭とあいまって、なんとも云えない臭いを放っていたという。
アパートの所在地は東京の真中。
捜査陣も、現場に何故これほど大量の海水が残っていたのかと首を捻っていた―――
鳥口が調査時に聴きこんだ、新聞には載らなかった話だ。
海底神殿で眠りにつく神。
神と呼ばれるにふさわしい強大な能力を秘めているにも関わらず、
人間に対して興味も慈悲も示さないのならば、それは神では無い。
中禅寺の云うとおり、もっと違う名で呼ばれるべき存在だ。
例えば―――怪物、と。
「鳥口君……顔色が悪いな」
不安気な関口の声に、鳥口は弾かれたように顔を上げた。
「あ、いえ、何でも無いっす」
「ふむ。鳥口君にも何か思い当たる節が有るようだね。
さっきも云ったが、僕の話とその写本の事は口外無用だ。
それは絶対に守ってくれなければ困る」
鳥口は大きく、関口は気弱に頷いた。
「さて。古来、数学は宗教や権力と密接に結びついていた。
中南米に栄えた古代マヤ文明の神官達が、天体の運行と暦に関しては
現代と同じくらい精密な計測術と計算法を持っていたのは
君達も聴いたことが有るだろう。
エジプトでは大河ナイルが氾濫する度に測量が行なわれて、
それに応じて租税が定められたのが幾何の始まりだそうだ。
エウクレイデスの先達とも云えるフェニキアのタレスは、
エジプトで数学を学んだのだよ」
「宗教と数学か―――それなら、ゲマトリアや魔方陣は?」
「あれは数字そのものやその結びつきに魔力を見出すものだから、少々種類が違う。
いま僕が云っているのは、王権支配や宗教儀式に援用された純粋な数学のことだ。
例えば、シュルバスートラと呼ばれた古代印度の幾何学もそのひとつでね。
神を祀る祭壇を適切な形に築く為に発達した数学だ。
この中には、記号に拠らず言葉で説明されたピタゴラスの定理が
含まれているそうだよ」
中禅寺は、写本を座卓に置いた。
「おそらくこれもその同工異曲と云って善い。
この写本は、エウクレイデスが見出した、云うなれば
此の世の幾何学に支配される地上に本来有り得ざる角度を成立させ、
公理の論証―――即ちクトゥルゥの実在とその復活に
適切な空間を確保する為に書かれたのだよ」
「それが―――」
「『非ユークリッド』という言葉の意味だ。
彼の数学者は、既知のユークリッド幾何学とも非ユークリッド幾何学とも違う、
真に異なる種類の数学の存在を知り、それを論証しようとしたが故に死んだ可能性が有る。
僕の話が非現実的に過ぎると笑うのなら―――笑いたまえ。
だが、クトゥルゥが実在しないという証拠もまた無いのだよ」

果たして其れは、本当に数学と云えるのだろうか。
関口は自問する。
中禅寺が幾何学の用語を巧みに用いて説明したのは、
数式に代えて言葉で特殊な条件を作り上げ、
其の条件下で「神」を顕在化させるということだ。
海底に眠る神を崇め、その顕在を望むものたち―――
彼らは一体何者なのだろうか。

「因みに『非ユークリッド』なる語は僕の独創では無い」
気づくと、中禅寺がまた喋って居た。
「或る外国の作家―――詩人と狂人のあわいに位置し、
輝かしい夢想境を望みつつ、黒い深淵の恐怖に食い尽くされた
或る男の作品に登場する言葉なのだよ」
「あ、さっき師匠が云っていた、悪魔をどっさり見た御仁っすね」
中禅寺は唇を横に引くようにして、嘲笑う狼に似た表情を浮かべた。
「名はハワード・フィリップ・ラヴクラフト。米国の作家でね。
そこの大先生と同じく、大衆幻想小説の書き手ということになっている。
彼は意図せずして作品の中で『公理』を論証し、
此の世に在ってはならない非在のものに名と姿を与えた」
「非在の―――」
関口が繰り返す。実在する非在。
それは、一体どんな形をしているのだろう。
「さっきの英文も、ラヴクラフトに拠るものだ。
彼が書く話には頻繁にクトゥルゥの名が登場する。
クトゥルゥが眠るルルイエの神殿についても、
『非ユークリッド式の有り得ざる角度を以って聳え立つ』と描写していてね。
偶々海面に浮上した其れを見た者が、正気を失って死ぬという話さえ有る」
「その作家はクトゥルゥの信奉者だったっんすか?」
「いや。違う。だから、彼が知られざる神クトゥルゥと、
その眷族の知識をどこから得たかは解らない。
だがその小説を見れば、かなりの知識を持っていたことは解る」
「その作家は、今も生きているのか?」
「いや。二十年程前に病死したよ。癌だったそうだ」
中禅寺は関口を見つめた。
強い警告の光が細められた眸に宿っていた。
「本当のところは―――解らないがね」
──「京極堂座敷」(A case of death caused by Non-Euclidean Geometry)
作・狛犬


保存庫

ぎじぎじぎじぎじ──ぎじぎじぎじぎじ──。
冷たく暗い部屋の中で、幽かな音が不規則に断続しながら続いていた。
天井が高いその部屋の照明は、深更ゆえに落されている。
その闇の中に磨硝子の窓から鈍く淡く届く青白い水銀灯の明かり。
ぎじぎじぎじぎじ──ぐしゅぐしゅ──ぎじぎじ──。
その時、遠くから複数の足音が、廊下を近付いてきた。やがて部屋の前に達して、扉の鍵が廻される。白けた蛍光灯の光が、軽く瞬いてともった。

「先生、本当に善いんですか? 責任とって下さいよ」
「だから、僕が構わないって云ってるでしょ」
「でも里村先生──」
里村の顔を不安げに上眼使いで見る男は監察院の当直職員であろう。
不健康な顔色で、さらに寝不足らしい。彼らの背後にはさらに二人の人影があった。
「済みません、先生。私が勝手なことを云って」
「だって敦子さん、僕らがその遺体の関係者の手掛かりを掴んでるかも知れないんすから。
うへえ」
短髪で少年のような印象の或る若い女性と、写真機を抱えた青年だった。監察院の職員に睨まれた青年は少々たじろいでいる。
「そう。あのね、この中禅寺さんと鳥口君が取材した事件がね、この遺体に関係有るかも知れないんだよ。君だって、事件が一刻も早く解決したほうが善いでしょ?」
「ですが先生。こんな夜中に、しかも民間人に保管中の遺体を見せるなんて──」
「なんだ、僕だって民間人じゃないの。さ、収納庫開けて」
「いや、先生は嘱託で──はあ。知りませんよ、もう」
諦めた表情で、溜息とともに保管庫の扉に手がかかった。それは遺体保存室の片側の壁面に、大きなモザイクが嵌め込まれたように並ぶ十あまりの四角い扉の一つである。
「さあ、お立ち会い。ちょっと潮の臭いがするからね」
「はい。もう臭ってますけど」
里村に云われた二人は、今更のように腕で鼻の辺りを覆った。金属が擦れあう厭な音とともに引き出されたステンレスの長い収納台。その上に、厚いカヴァを被って遺体が横たわっている。
一段と、どろりと腐った海産物を思わせる不健康な潮の臭いが強まった。
「じゃ、見せて」
「はあ」
同じく鼻を覆った職員が半ば投げ遣りに紺色のカヴァを開いた。その時──。

「う、うへえ!」
「なんなの、これ?!」
「こりゃあいったい──」
異口同音に驚愕を伝える声。そこに有るべき遺体は、その外形を保っていなかった。ほんの半日前に司法解剖を終え、この低温保管庫に戻されたのである。なんの外形的変化も無いのが当然である。
だがしかし──。遺体のあるべき空間には、無数の異形の蟲達が、ぞわぞわと蠢いていた。いや、善く眼を凝らせば、その蠢く連中の下に、人間の骨格と身体の残滓らしきものが見える。少なくとも、里村の眼にはそう見えた。当直職員は、顎を開いたまま呆然としている。
そして何より見るものをして驚愕なさしめたのは、その厭わしい生物達であった。何種類かが混ざっているようで、頭蓋骨に纏わりつく数匹は、船虫の様な蟲体に黒い複眼が幾つか見え、細かな多数の脚を動かしながら、自らの頭部から伸びる柔軟な口吻、それを虚ろな眼窩や鼻腔と思しき骨の開口部に長々と突込んで動かしていた。その口吻に死者の頭髪が幾筋か絡んでもつれている。遺体の腹部に貼り付いた連中はさらに蟲体が大きく、手指の様に分枝した顎で、既にあらかた失われた臓物を抱え込むようにして啜っている。その不浄な柔らかさを感じさせる妙に明るい黄色の胴は、いやらしくぶよぶよと膨らんでいた。他にも形も定かではない磯巾着を思わせる原色のものや、体節が無数にある脚のある蚯蚓の様なものも。云う迄もなく、どうやら連中が遺体を喰い尽くしてしまったらしい。
屍汁が保存台からぽたり、ぽたりと床へ垂れだしている。一瞬、生物達の無数の冷たい複眼と触角が、いっせいに生者達の方へ注意を向けた気配。

「早く、そこ閉める!」
里村がみかけによらず機敏な動作で遺体カヴァを戻した。言葉を失った当直職員が、ぎくしゃくした変な動きで保管庫へ台を押し戻すと、眼を瞑りながら扉を硬く閉ざした。
「すぐに国立博物館の──そう。電話して来てもらって。もう我々の領分じゃ無いよ。君達も残念だったね。これじゃあ遺体の実見もなにもないでしょ。ああ酷かった。はじめてだよ、こんなの。遺体が瓦斯壊疽を起す菌で急激に腐敗したことはあるけど、くっついてきた蟲にやられるなんて無いよね。ん? 鳥口君、腰が抜けちゃったか? 敦子くんは大丈夫? あっちの部屋で休みなさい。君、早く案内してあげて──」
さすがの里村医師も、動揺を隠せずに普段より遥かに多弁になっていた──。

──「保存庫」作・やまい


関口家書斎

ーああ、そう言えばみんなでぞろぞろ行ったなあ。そう言えば栄螺を喰った。

あれは、もう何年前のことだろう。海に行った時の事だ。

あの時も、何かざわざわとした妙な感じに襲われた。
分かっている。私は本当は分かっているのだ。知っているのだ。

ーでも、君はとっくに答えを知っているさー

分かっている、分かっているから、そう何度も言わないでくれ。
友人の言葉は容赦なく私の神経を追い立てる。



京極堂の話を聞いてからと言うもの、海水をたっぷり肺に取り込んで死んでいた男の事が、頭から離れなくなっていた。

密室の中の水死体。

私は頭の中で想像を膨らませる。
逢った事もない男の事を考える。

少し灼けた畳、小さなのぞき窓のような穴の開いた障子、廊下に設置された蛇口からは錆び付いた水滴が、不規則なリズムを刻みながら落ちて行く。


ぴちょん

ぴちゃん
 

その男は天井を見上げている。
口からは、煙草のヤニのついた歯と弛緩しきった白茶けた舌、そして『水』が見える。
その水はゆっくりと口腔内で渦を巻いている。白い波が打ち寄せている。
海水なのだ。

口の中の海水に何かが見える。歯ではない。
歯に似ているが違う。
四角い形がかろうじて見える。私は海水の中に目を凝らす。
中には魚が泳いでいる。銀の鱗が光るのが見えた。潮が渦を巻いている。

もっと、もっと深く、
潜って。
その深海には、



神殿があった。



もう、もう止めろ!


気が付くと、私は文机に手をつき、はあはあと肩で息をついていた。



妻の顔がいつもよりも白い気がする。


多分、いや、確実に私のせいだろう。
この頃の私は、夜中に必ず脂汗を流して飛び起きる。
大丈夫か、という問い掛けになんでもない、気にするな、といつも判で押したような返事しか返ってこないのだから、気に病むのも無理はない。

叫ばないだけマシなのだろうが、凄い勢いで飛び起きるものだから、隣に寝ている雪絵にしてみればたまったものではないだろう。
寝不足と心労が溜まっているのだ。
分かってはいるが、どうしてやることもできぬ。

この頃、決まって同じ夢を見る。
水が喉に詰まり、息苦しくて目が覚めるのだ。
勿論、それは夢の中の出来事なのだ。分かってはいるが、あの五感を伴った夢は、私に現実と夢の境を曖昧にしていく。
喉には塩辛い味が残っている。

自分ですら、どうしてよいか分からないのである。

あれ程京極堂に警告されたにも関わらず、話を聞いてしまった自分の責任なのだ。そして、こんな時頼りになるのは、あの男しかいなかった。

この、私の馬鹿げた幻想を聞いてもらおう。あの男なら、この私の夢と現実のバランスの崩れた世界に、あの滑らかすぎるほどの弁舌を持って秩序を与えてくれるだろう。
私は学生時代からの習慣に従い、彼に私の世界を構築してもらう事にした。



いつもなら、連絡もなしに京極堂へと赴くのだが、今日に限って何故か電話をした。あの出不精が出かけていることなど、年に数えるほどしかない。
呼び出し音が途切れる。
「はい、中禅寺でございます。」
「あ、千鶴さん。関口ですが…。」
吃ってから名乗る。この電話と言うものには、何時までたっても慣れない。
「京極堂は…」
「申し訳ありません。今日、倫敦堂さんの所に出かけてしまったんですの。帰りは明日になるとかで…。」

倫敦堂に?
あんなに嫌がっていたくせに、やはり重い腰を上げたのか?
それとも、上げざるを得なかったのだろうか。

「いつも碌に外に出ない人が、急いで出て行ったんですの。何か急ぎの用でもございましたか?」
申し訳なげに聞いてくる細君の言葉。

急いで出て行った。あの男が?
なにが、何があったというのだ。

あの『本』の事かー?


遠くで、物凄く遠くで、電話口で私を呼ぶ千鶴子さんの声が聞こえた。


私の脳裏にはあの染みだらけの汚れた写本の映像が結んでいるだけだった。


非ユークリッド幾何学、ストイケイア、公理、昨日の京極堂の講義の断片のみがふと甦る。
しかし、肝心のものの名前が出てこない。
最初はか行で始まるのではなかったろうか。
良く思い出せない。


しどろもどろで挨拶をして、電話を切った。
それから、自室に閉じこもった。
雪絵が食事だと言っていたが、いらない、と部屋から出なかった。
今は誰にも会いたくなかった。
文机に寄りかかり、あごに手をついて見るともなしに外を眺める。


暗い空だ。
あの海水の方が明るく見える。
私は額にしわを寄せる。
『あの』とはどの海水のことだ?
首を傾げる、ーと視界に何かが入った。




隣に男が座っていた。


青白い頬、きつく結ばれた唇、些か長めの髪、高い頬骨、薄い眉に銀縁の眼鏡、その奥には、
鈍い光を湛えた一重の眼が体を傾げて、こちらを覗きこんでいた。


会った事など無論ないが、この男が誰なのか私には分かっていた。

そう、私は本当は分かっている。知っている。

彼の手は膝に置かれている。

男は言葉を紡ぎ出した。

「あの海底には何があるか知ってゐますか?」

私は答えない。

「僕はあの海底にあるものを見てからといふもの、
他のことが考えられなくなったのです。」

………

「歪んだ空間、暗がりに浮かぶ、今にも崩れ落ちんとする白い大理石。
そこに群がる深海魚達。僕はうつとりとそれを眺めたものです。」

膝に置かれた手に陰が差している。

「いつしか、見るだけでは物足りなくなったんだ。」

今、君は微笑ったのだろう。

「ほんの少し、ほんの少しのつもりだったんだがね、手を差し出したら」

急に鼻につく潮の臭い。

もう、話すのをやめてくれ。

「こうなってしまつた。」

笑い声。

男の顔を見ると、

口腔から、塩水が溢れ出していた。


ざーざーざー


男は口から海水を溢れ出させたまま、笑顔で私に話し掛けた。

「うだやまじいんだおう?」

うらやましいんだろう?

「ぎぎぼぼぐをいっひょらー」

君も僕と一緒だー


そう、私は怖かっただけではない。

そして、私が本当に恐れていたのは、その感情。

本当は、そうだ、私は、本当は、行きたくてたまらなかったのだ。

あの海の底にー

あの揺らめく巨大な建造物の中に。

入りたくて仕方がなかったのだ。

男が吐き出す海水の臭いが、私の鼻を再度刺激した。

いらつきを隠さず睨み付けると、彼は、


にやり


と嘲笑って、又、口からざああ、と海水を吐き出した。


何とおしゃべりな水死体なのだー


私は、真横から匂う生臭い海水の臭いを嗅ぎつつ、眉を顰めてそう思った。

──「関口家書斎」(雄弁な水死体)作・魚骨


都内某所

「ですがね、今川さん。今云ったように、私はもう精神分析はしたくないのです」
「でもあなたくらいしか、相談できる相手を思いつかないのです」
「やれやれ。じゃあ兎に角、聞くだけ聞きましょうか、そのお話を」
降旗のやつれたような容貌の中で、眼だけがぎょろりと動いた。対する今川も、
眼だけが光を帯びている。だが今日の彼は、その顔に困惑したような表情を浮かべていた。
「申し訳ないのです、降旗さん。話は戦時中に遡るのです。僕は駆逐艦に乗っていたのです」
「はあ、そうでしたか。私は上海に在った軍の医療施設でしたがね。それで?」
「ソロモン諸島の辺りだったか、それともフィリピンの海峡だったか──」
「ふむ。よく覚えていないと?」
「そうなのです。どうしても正確な場所が思い出せないのです」
今川雅澄は伊佐間一成や榎木津礼二郎と同じく、海軍で艦に乗っていた。その当時の
話である。太平洋の戦場の真っ只中、闇に包まれた南溟で彼が眼にしたもの、それが
どうやら今に至るまで、この異相の骨董屋の心に重く尾を引いているらしい。
「いいから話して御覧なさい。精神科医の──もっとも私は元精神科医だが──
治療上の重要な行為は、まず話を聞くことですからね。さあ、分らないところや思い出せない
部分は省略してもらって構いませんよ」
「はい」
そして今川は語りだした。

当時、潜水艦と航空機を大量に動員した米海軍に太平洋上の島々への物資輸送手段を阻止され、日本は潜水艦による輸送や夜間、駆逐艦などの高速艦艇による微々たる補給でしのいでいた。
今川らの乗る駆逐艦も、そういった任務について、補給物資を詰め込んだドラム缶を満載して島影を縫うようにひたひたと進んでいた。そんな島々に身を潜めた間諜によってか、はたまた電波兵器により知られるものか、大方は行程のどこかで敵魚雷艇などとの交戦があった。
その夜も、味方側四隻の駆逐艦と、敵魚雷艇約十隻との間に激しい接近戦があった。
折角運んできたドラム缶を海に投棄して、一気に加速した味方四隻は、敵の魚雷をかわして
激しく波を蹴立てながら次々に主砲と機関砲で魚雷艇を撃破していった。
今川の乗る船の後続艦などは、1隻を体当たりで乗りきって沈めたほどである。
味方側では最後尾の1隻が、推進器と舵を破壊されて航行不能となり大破して沈みつつある。
そして夜半を過ぎ、遅い月が赤く水平線に顔を出すと、残った魚雷艇は再び島影へと姿を消した。
海上には散乱したドラム缶、こぼれた補給品、そして沈んだ船の乗員達が、重油に塗れて苦しみながら浮遊物に掴まり、或いは既に力尽きて息絶え、それぞれに黒い海面に漂っていた。

漂流中の味方兵を拾い上げるべく、艦は微速で進んで行く。
その時、海面の捜索をしていた今川は、ふと或ることに気が付いた。
漂流物と違って、漂流者はその生死に関わらず、皆が同じ方向へと流されていく。
島々の間であるし、海流が複雑なことも理解できるが、それにしても人間だけが選ばれたように流されていくとはどういうことか。数十人が流されていくその行く手には──
「その行く手には、何が在ったのですか?」
「そこなのです。それが問題なのです」
「伊佐間さんや、榎木津さんは見てないと?」
「ええ。榎木津さんは戦闘が終わると、直ぐに士官室で眠り込んでしまうのです。起きないのです。
伊佐間君は、かすり傷の手当てで、医務室に降りた後だったのです」

漂流する両軍の兵と遺体が流されていく先に、低い月の赤い光を映してなお、どろりと濁ったような、周囲の海とはどこか違う海面があった。よくよく見れば、其処には海草がうねうねと長い髪のように海面迄達していて、波一つたたずべったりとしている。流される漂流者を追って、艦が舳先を向けたその時。
その海面が浮いたと云う。
「浮いた、のですか?海面が?」
「そうとしか云いようが無いのです。そこらの海面全体が、もわっと持ち上がったのです」

怨みを呑んで溺れた女の髪のような海草をまつわらせ、持ち上がった海面はそのまま不可思議な構造を海上に表した。それは吸い寄せた人間を巻き込んで、重く濃い潮の臭いを放ちながら、浮上したのだった。突然のことに、艦上の誰もが言葉を失い、あらゆる作業が止まってしまった。
艦も惰性で進んで行く。
「その『もの』の様子は覚えていますか?」
「なんと云うか──まるで巨大な動物の臓物で作られた神殿みたいなものだったのです。それが、夜光虫か海蛍の燐光を放って、瘴気に包まれながら赤い月光を背に浴びてぐにゃぐにゃと──」
「──ぐにゃぐにゃ?」
「どう云えば分って貰えるのでしょう。こう、手で触るとそのままずぶずぶ崩れそうな──」
「まるで腐ったような?」
「ええ。でも生きているのです」
「生きている?『神殿』ではないのですか?」
「死体を──いえ、まだ生きてる漂流者も──悲鳴が──喰ったのです」
「それは何か鯨のような生き物では──」
「違います、違います。あれは生きているけれど死んでいるのです。ああ、分りません」
「落ち着いて。では、それからのことを話して下さい」
みれば今川の額にじっとりと汗が浮かんでいる。顔色が良く無かった。

恐ろしいことに、艦上のかなり多くの兵が、その『神殿』を見ながら陶然としていたのだと云う。
今川自身、心の奥底になにか惹き付けられるものを感じて、視線を逸らすことが出来なかった。
その『神殿』の表面には、蝦蛄や海老、蟹と云った甲殻類や名も知れぬ不快な多足生物が、よくよくみればみっしりと貼り付いてじくじく蠢いていた。その中央、一際隆起した部分は、なにかの顔のような造作がみえる。何か見てはいけないもの顔。
「それは何だったのでしょう」
「分りません。でもとても──」
「とても?」
「とても──神々しいものだと思えたのです。その時は」
「神々しい?」
「後から思い出して、嘔気が止まらなくなったのですが」

結局、今川は意識を失ったらしい。薄れ行く中で脳の奥深いところに低く響いた声のようなものがあったと云う。

「声?」
「そうなのです。しばらく経ってから思い出したのです。多分声だと思うのですが──」
「で、その声は、なんと?」
「意味は無いと思うのですが。『くとぅるうるるいえ』とか『だごん』とか──」
「それだけですか?」
「もっと聞こえたようにも思うのですが、分りません。ただ、声が嗤っていたような気がするのです」
「──嗤って?」
「はい。ぐちゃぐちゃ何かが潰れる音と、『神殿』の嗤う声が重なって響いていたように思うのです──」

今川が気が付くと、艦は他の二隻とともに再び静々と海面を滑っていた。先ほどの禍々しい巨大な『神殿』は、もう何処にも見えはしなかった。無事に基地に帰還して、その後から聞いた話では、起きだした榎木津中尉が独断で戦隊に帰還命令を出したらしい。そのことを榎木津に尋ねても沈黙が帰って来たのみだった。また漂流していた兵員は誰一人救助されなかったばかりか、 不思議なことに、戦闘では無事だった筈の乗員も十数名が『戦闘中行方不明』として名簿から抹消されていたし、艦の戦闘詳報にもあの魚雷艇との遭遇戦以降の出来事は一切が記録されていなかった。

「あれは──あれは何だったのでしょう」
「さて、困りましたね。それは夢ではないのですね?」
「あなたも最初はただの夢だと思っていたのでは無かったのですか、あの一件を?」
「それはそうですが──で、今になってどうしてまた?──」
「それが──或る人が先日、僕の店に持ち込んだ物があるのです」
「ははあ。それが記憶を呼び覚ます切掛になったと?」
「そうなのです。これがその像なのですが」
今川が傍らの包みを解くと、そこには黒っぽく艶のない不可思議な像があった。およそ均衡とは無縁の造形で、何時のものとも知れぬ古さを纏っている。降旗が手に取ると、思いもかけずねっとりと濃い潮の臭いが漂った。不快な、それでいて何処か惹き付けられる造形であった。

「あの『神殿』にあったあの顔、それがこの像と同じだったと思うのです」
さらにしつこく絡みつくような潮の臭いが、部屋の隅々まで充満した。何処かで、何かが嗤っている。
──「都内某所」作・やまい



2001年4月初出・2004年6月編集



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