薔薇十字探偵社・2
窓から吹き込んだ風が、ようやくのことで、こもった濃密な潮の臭いを薄めた。
益田が探偵の机上に目をやると、三角錐の陰に転がっている銀白色の塊に気が付いた。
「和寅さん、これは?」
「あ、それ。それぁ総一郎さんが持って来たんです。『乙姫の涙』ってぇ南洋真珠」
「なんよーしんじゅ?」
「なんだ、知らないのか、益田君。御前樣は戦前から南方へ出てらっしゃった。で、パラオに在った南洋庁の肝いりで、真珠も積極的に扱ってらしたんですよう。その頃の、まあ記念の品ですわ。あっちの白蝶貝ですか、その真珠は国内の阿古屋貝真珠より随分と大っきいんです。過ぎ去りし南海の思い出ってところですか。行方不明になる直前も、金庫から引っ張り出して御覧になってたとか」
それは3センチほども有ろうかと云う、とびきり大粒の真珠だった。銘のとおり、涙の滴の形をしている。
「で、その南洋真珠がまたどうして?」
「御前樣のお気に入りでね、それ。なんだか現地で少し離れた島へ渡ったんですと。もちろん、目的は虫ですがね。その島の王族から貰ったらしいんだが」
「へえ、やっぱり大した物好きだァ」
「御前がですか? それともその王族が? 確かそのお礼とかで、その王族の娘さんを日本本土で教育受けられるように計らったんじゃなかったかなあ。南洋定期航路を飛んでた大日本航空の飛行艇も手配して──もう十三、四年も前だな。慥しか、その娘さんもそれと対になった同じ様な南洋真珠を持ってる筈です。あの戦争でどうにかなってなければ、ね」
益田は唇をとがらせて、神妙な顔つきで指先の真珠をためつすがめつ眺めている。
「『乙姫の涙』ですって? するとあのひとは浦島太郎だな。亀だし」
「なんです、『亀だし』って。亀は総一郎さんですって」
「親子で似た様なもんでしょうが。にしても、まさか今になって玉手箱開けちゃったんじゃぁ──」
黙り込む二人をよそに、窓からの風が紗のカアテンを穏やかに翻している──。
*「ただいま」
「遅かったじゃないですか、和寅さん」
「仕方ないじゃないか。総一郎樣にもう一度話を聞くったって、なにしろ落ち着いてらっしゃるから」
「落ち着いてるって云うんですか、そういうの」
「あんまりごちゃごちゃ文句つけると、教えてあげないよ、聞いて来た話」
「あ、意地悪だなあ、それは意地悪だ。横暴ってもんです」
「何が? やれやれ、それにしても長い話でしたよ」
榎木津幹麿の失踪、それを聞いた榎木津礼二郎が探偵事務所を飛びだしてしばらく。
二人でああだこうだ考えていても、埒が明かないと思った安和と益田は、相談の上で再び榎木津家の長男、総一郎に話を聞くことにした。安和が出かけ、益田は事務所の留守居役と決めた。
そして今、安和が事務所に帰って来たところである。
「この『乙姫の涙』ですか、これも関係あるんですかね、今回の件に」
益田は真珠がやけに気になるようだった。
「それも聞いて来た。やっぱり、関係が有るようです」
自分でこまめにお茶を淹れながら安和が答えた。ようやく椅子に座って益田と向かいあい、熱い緑茶を一口すすって、語り始める。
「やっぱりパラオなんですよ、益田君。内南洋なんです」
「パラオ? おじさん、南洋に行っちゃったんですか?」
「なに云ってるんですよう、昔の話ですって。それに、今度のおじさんってのは御前樣のことかい」
「ちゃんと順序善く話してくれないと、皆目分りませんね、和寅さん」
「これだから。いいかい、じゃあ最初から。途中で混ぜっ返さないで下さいよ」
総一郎によれば、戦前、パラオ南洋庁からの話もあって、榎木津子爵の事業は南洋真珠も手広く扱っていた。博物学的趣味の旺盛な人物ゆえ、南洋の珍しい生き物達、虫や甲殻類にも子爵は強い興味を示した。小さいながら河豚並の猛毒をもつ、美しい紋様の浮き出る蛸もお気に入りだったらしい。
その当時のパラオと日本の関係はと云えば、これは至って良好、いくつかの流行歌にも唄われたほどで、南十字星の輝く空の下、椰子の葉陰の浪漫を思って多くの人々が行き来もしていたと云う。
「そうか。おじさんのことだから、酋長の娘さんとどうにかなっちゃったとか」
「なんです、どうにかなるって。君、想像力が貧困じゃないのか。王族の奥方、そのひとが重病になったんですと。現地では治せない。それで、御前樣が飛行艇を特別に仕立てて、本土の病院まで運ばせて手術を受けさせた。奥方は病も癒えて島に帰り、御亭主の王族からお礼に贈られたのが、一族に代々伝わるその『乙姫の涙』なんだそうです。そして王族御夫婦のたっての希望で、幼い娘さんの教育を日本本土で受けられるように、これまた御前樣が計らった、そういう事です。今は昔、古き善き時代の物語ですか」
南洋庁に勤務する役人、マリアナの深海調査や海図測量などに携わる海軍関係者、そしてパラオ熱帯生物研究所には、多くの優秀な学者達もその学究的ときめきの日々を送っていたと云う。
まさに南海の楽園。しかし人類は誕生以来、楽園からは必ず追放される運命にある。それまで独逸領だった南洋諸島が日本の委任統治領になって22年後、太平洋戦争がはじまった。そして平和だったパラオにも、やがて戦の波がひたひたと迫って来る。1944年、昭和19年の秋、米軍によるフィリピン奪回の前段階としてのパラオ戦がはじまった。
「益田君は『ペリリュー島』って覚えてるかい?」
「僕ぁ覚えてませんよ。和寅さんよか若いんですから」
「英霊も浮かばれないね。いいかい、玉砕の島だよ。パラオに有る、日本軍玉砕の島なんだ」
ペリリュー島守備隊1万2千。対する米上陸軍4万2千。これが絨毯爆撃と嵐のような艦砲射撃のあとに
島へ上陸した。洞窟陣地に拠る守備隊と米軍の苛烈な闘いは、73日間続き、最後の突撃を敢行できた
兵力はわずかに五十数名。そして、壊滅する。
「ところが、それで終わりじゃなかったんですと。さすがに総一郎樣も軍の関係でよく御存知でした」
「だって玉砕、壊滅したんでしょう? おしまいじゃないですか」
「島の西側にね、居たんだよ、30人くらいの日本軍残存部隊が。連絡が途絶えていて、皆目状況が掴めなかったんだ。だから、ずっとゲリラ戦で抵抗を続けた」
「早く降参すればいいじゃないですか。勝てる見込みなんてないでしょうに」
「それができれば苦労はないですって、全く。そのゲリラ戦、いつまで続いたと思います?」
「いつまでって、そりゃあ当然、いくら続いたって、敗戦の20年夏まででしょうに」
「これだから。いいかい、ペリリューの、パラオでの最後の戦闘は、22年の4月まで続いたんだ」
「──もうとっくに終戦になってるのに──そりゃあ──そりゃあ悲惨だ」
「そう、悲惨だよ。そしてこの『乙姫の涙』の元の持ち主は、そのペリリュー島のひとらしいって」
「じゃあその、おじさんゆかりのパラオの王族さんも戦争で──?」
「そりゃあ分らない。分らないけれど、とにかく島はまっ平らになるほどめちゃくちゃな戦争だった。
本土に来てた娘さんも、敗戦のどさくさで行方不明になってるんだと」
「そこまでは分りました。でも、それとおじさんの失踪がどう絡むんです?」
「君はタコ焼き買いに出てたな。総一郎樣がここでも話してた、その御前樣に怪しげな代物を売りに来た男。
その男が云った『るりゑの大神』とかが気になるんだ、とね」
「『るりゑ』? どっかで聞いたなあ。それ、最近何かで聞きましたよ」
「そう。僕も覚えがあります。そして、パラオの辺りじゃ、海の神樣がいらっしゃる家のことを大昔から
『ル リヱ』と称ぶらしいんですよう」
──「薔薇十字探偵社・2」作・やまい
関口家書斎・雪絵
閉め切った書斎の襖を開けた時、雪絵は何故か潮の匂いを感じた。暑い夏の日、曇天の浜辺に立つと絡み付くように離れないあの嫌な潮の匂いだ。
一瞬だけ眉を顰め、雪絵は文机の前の窓を開ける。感じた潮の匂いはあっという間に消えてしまったけれども、そう感じさせた空気が夫のいる部屋に満ちているということに何だか嫌な感じがしたからだ。
最も今日は蒸している上、そよとも風の吹かない嫌な天候の日である。窓を開けても風は入らず気休め程度にしかならない。
それでも僅かに起こった空気の動きに気づいたのか、文机に突っ伏していた夫が軽く身じろぎした。
「タツさん?」
声をかけただけでは反応がなかったので、雪絵は軽く夫を揺り動かした。
「タツさん、風邪をひきますよ?」
起こされた夫は例によって自分がどこにいるかすぐには分からないらしい。顔を上げてぼんやりと前を眺めていたが、横にいる雪絵に気づいたのかはっとこちらを向く。ようやく目が醒めたのかと雪絵は思ったのだが、その目には恐怖の色が浮かべられ眉は忌わし気に寄せられていた。
まだ寝ぼけているのかしら、と雪絵が思った刹那、夫の顔というか全身から力が抜け、ほっとした様な残念な様な口調で「ああ、雪絵か」と言った。
「そうですよ。どうしたんです、また何か変な夢でも見てらっしゃったんですか?」
それじゃあ僕がいつも変な夢を見ているみたいじゃあないかと、憮然とする夫に「あらちがうんですか?」と雪絵は笑った。
ここ数日夫は様子がおかしかった。夜中に何度も飛び起きるし、話し掛けてもほとんど心ここにあらずという風情である。
今日もどこかに電話をかけたっきり食事もとらずに部屋に閉じこもっていたので心配していたのだが、うたた寝をしたせいか幾分元気になったようだ。胸をなでおろして雪絵は明るい声を出しす。
「すごい汗ですよ。お風呂にでも行って来たらどうです?その間に夕食の準備をしておきますから。」
たまには大きなお風呂で贅沢にざあっとお湯をあふれさせるのが気持ち良いんじゃありませんか、という雪絵の言葉に夫はなぜか怯んだ様なそぶりを見せた。
銭湯の何が怖いと言うのだろう。
雪絵はちょっと不思議に思ったが、さあさあと夫を促すと支度を整え夫を送りだした。せっかく少し元気になったのだし、外出でもした方が気晴らしになるだろう。
「タツさんの好物を拵えておきますからね。」
背を丸め、曇天の下を行く夫を笑顔で見送り、雪絵は台所で夕御飯の支度を始めた。しかし、とんとんと軽快に立てられていた包丁の音は次第に鈍くなり、そして途切れる。手を止め何処ともない所を見詰め、雪絵は思いを巡らせている。
先ほど夫を怯えさせていたものは何だったのだろう。
あのまま送りだしてしまって良かったのだろうか。
不吉な未来を考えたくなくて、自分は感じた不安を無理に打ち消したのではないだろうか。先ほどの自分ははしゃぎ過ぎていた気がする。
書斎の襖を開けた時の不安が雪絵の身に蘇ってくる。雪絵が手にしていた包丁をきつく握った時、玄関から訪いを告げる声がした。
「関口先生は御在宅でしょうか。」
何時のまにか射していた薄日を背景に玄関に立つ少年は、こざっぱりとした服装をしてにこにこと笑っていた。
どちら様でしょうかと問う雪絵に、
「ああ、これは失礼致しました。」
と、礼儀正しく名乗りを上げ、雪絵には聞き覚えのない出版社の名前を上げる。
人好きのしそうな笑顔といい、歳の割には確りした態度といい不快を感じる要素は何もないはずなのに、その少年を見ていると何か薄ら寒い感じがする。
そう、もの慣れし過ぎている感じなのだ。
この少年は初々しく子供らしく自分を装っている様な感じがする。我知らず堅くなった声音で、夫は出かけていると雪絵は告げた。
「そうですか。」
にべもない雪絵の言葉に、どうしようかなあと少年は小首を傾げている。
その目がつと、雪絵とあった。
いかにも弱り切ったという表情とは裏腹に、その目は愉悦に満ちていた。
雪絵は少年に感じていた違和感の原因を悟った。目だ。少年は巧みに善良者を装っているけれども、目だけが装い切れていない。純粋そうなその態度と裏腹なものが、その瞳ににじみ出て来ている。相手の喉元に刃先をあて、これからどうしようかと楽しむならず者の様に。
急に、また潮の匂いを感じた。とても嫌な予感がする。
自分を抱き締めるように、左肘を押さえた雪絵を見て少年が笑いの形に口を歪めた。
「どちらに行かれたのか分かります?」
雪絵は答えない。
少年は天使の様な微笑を浮かべた。
勝ち誇るように。
そしてこう告げた。
「乙姫の涙はあなたにこそお似合いなのかもしれませんね。」
翌日、雪絵は眩暈坂を登った。
──「関口家書斎・雪絵」作・さや
京極堂座敷・木場1
「そうか―――」
和装の男は湯呑を置いて腕を組んだ。
「彼等は、今度はそんなふうに名乗っているのか」
「今度? どういう意味だよ」
木場が尋ねると、
「警察の内偵は、どのあたりまで進んでいるんだい、旦那」
と逆に訊き返された。
こちらを見つめる中禅寺の陰気な表情は、木場がこの座敷に入ったときからほとんど変わりがない。襖を開けると顔を上げて「やあ」といい、座布団と茶を勧めてくれたので、機嫌はそれほど悪くないらしい。こう見えて、大声をあげて笑ったりすることもあるのだから、単に顔の筋肉が長年の習慣によって、この形に固まってしまっているだけなのかも知れぬ。つまるところ、この男の万年化した凶相には相対するほうが馴れるしかないのだが、力で押しまくるように見えて(無論場合によってはそうなるが)実はそうでもない木場にはそれが少し難しい。関口辺りは、その点、実に的確にこの渋面の裏を読み取る。付き合いの長さと力関係の問題なのだろうと木場は勝手に思っている。
「まだ進行中だし極秘だから詳しくは云えねぇが、今売りこみ中の新興宗教としちゃあ大人しいもんらしいぜ」
「派手な街頭勧誘もせず、活動はあくまで地味。金銭の要求も無し。信者は太陰の満ち欠けと共に開かれる集会に揃って出かけ、家に戻ると不気味な呪文を唱え続ける、というわけかい」
「何だよ、知ってるんなら―――」
木場がぶっきらぼうに云いかけると、和装の男はゆっくり首を振った。
「これは旦那が云う『るりゑ教団』の話では無いよ。もっと古い記録に有る宗教団体の描写だ」
「まぁた古い記録かよ。おまえさんに訊くとどんな話でも抹香臭く、黴臭くなるな」
木場がうんざりしたように言うのを、中禅寺は顎を擦りながらじっと見ている。
その口元が僅かに笑っているのに、木場は気づいた。人によっては怒り出すかもしれない台詞だったが、目の前の男には違う方向に作用したらしい。
「そうだな。旦那は、常世虫というものを知っているかい」
「床屋の虫?」
「トコヨだよ。国造りの手伝いを終えた少彦名神が去った海の彼方の国さ。彼の世のことだとも、大陸のことだとも云う。とにかく、此処では無い何処かだね」
「トコヨの虫」
木場は繰り返して、咄嗟に夜の寝床に出没する南京虫を想像した。
いやそんなはずはないと直ぐに打ち消す。中禅寺が得意の大風呂敷を広げるときに
そんな卑近な例を出すわけはない。
「千数百年前の宗教でね。橘の樹に付く緑色の小さな芋虫、これを神として崇めた奇特な連中が居たんだ。『こは常世の神なり。この神に祭らば、富と寿とを致さむ』と称してね。随分大騒ぎに成ったらしいが、結局はそれを快く思わなかった或る豪族に滅ぼされてしまった」
「けっ。インチキ連中が並べる御託は変わらねぇな」
「何せご神体が、四寸足らずの揚羽蝶の幼虫だからね。信じる方がどうかしている。事実を述べているというより、養蚕技術の利権を争った事実を粉飾したものと解釈されることもあるくらいだよ。だが、新興宗教の話としては酷く真っ当だ。
理由は今も旦那が云った通り―――『富と寿』が餌だからだ」
「昔っから人心を惑わすネタは変わらねぇって事だな」
「万葉集の一節が現代人の心を打つのと同じで、欲望の論理も此の何千年かは全く変わらない。人間は何時でも人間で、其れ以上にも以下にもならない。慈悲に溢れた行いも、鬼畜の如き振舞いも、人間の生得の属性から発するものに他ならない。
直立し、脊髄神経の末端が異常なほどに肥大し、前肢が対向した指を得て、本能よりも後天的な学習で生きるようになった畸形的哺乳類の末路というわけだ」
「末路じゃなくて進化って云わねぇか、普通はよ」
木場が異議を唱えると、
中禅寺は、今度こそはっきりと唇を歪めた。
しかめッ面の時よりも少しやつれて見えた。
「つまり僕が云いたいのは―――普通の人間なら此の宗教には引っ掛からないという事だよ、旦那」
中禅寺は言葉を続けた。
「お潤さんの死んだ知合いは、普通の人間だったのかい?」
「普通の人間?」
木場が顔をしかめる。中禅寺の言葉の真意が測れなかったからだ。
「その娘の稼業が真っ当だったかどうかってことか?」
「仕事や性格はどうでも善いんだよ。そうだな、解りやすいのは外見だが」
「顔か? お潤の奴ぁ…そうだな、何も云ってなかったぞ」
木場が思い出しながらそう応えると、中禅寺は頷いた。
「死んだということは、そうなんだろうな。あの数学者もそうだった」
「そうなんだろうってのはどういう意味だ?」
「人間が関わるべきではないものに偶々巻き込まれてしまったと云うことさ」
「るりゑ教団か。だが証拠が―――」
「いや、教団そのものは関係無い。彼等は人間には興味が無いんだ」
「解んねぇぞ、全然。人間以外ってことは、犬猫対象の宗教なのか?」
木場の質問は、またしても中禅寺の神経の一端をくすぐったらしい。彼は笑った。
「彼等は普通の人間には全くアピイルしない教義を掲げている。富も長寿も約束しない。信者は餌で釣られる前に自主的に集まってくる。非常に純粋な狂信者の一団なのだよ。お潤さんのところに現れた男の話を、旦那も聞いたんだろう?」
木場はいかつい顔の造作を真中に寄せてとびきりの渋面をつくった。
「おお。べらべら喋りやがるからつい聴いちまったが…
なんてェか、物凄く厭な感じだったな。
手前ェが唱えてる事を信じ切ったあの顔付きがな―――」
若い男の目は、誰も知らないおぞましい何かを知った者の、
怖気を奮うような優越と恍惚を映していた。
見るだけでひとを不快にする笑顔は世に偏在するし、
それに接する機会も多い木場だが、その経験に照らしても、
猫目洞の男が発散していた「何か」はかなり強力なものだったと思う。
あれにいちばん善く似た目つきは、
或る一件で捕らえた犯人の取り調べをした時に見た。
買った街娼の首を締めては性的快楽を得ていた細身の青年だった。
力が余って殺した女は二人。その為だけに殺した女が三人。
(止められないんですよ、刑事さん。そりゃあ、もう。)
鼻先に付いた鶏の血を舐め取る狐のように目を細めて、
男はにいと嗤った。
脳裡に焼きついた優越感に満ちたその表情を拭い去りたくて、
その晩はかなり酒を飲んだのを覚えている。
「―――あの教義を聴いて、団体に入りたいと思うかい」
世にも厭わしい提案を聞いたかのように木場は怯んだ。
「いや。絶対ェ断る」
中禅寺は、ふっ、と溜息とも笑いともつかない息を洩らした。
「それでこそ旦那だ。彼らにしても、
現職警官の信者は入れたくないだろうしね」
「警官お断りかよ。するってぇと」
木場が眉を上げる。
「やっぱり何かこそこそ後ろ暗ェことやってるのか」
「その辺りは警察の担当だろう」
「知ってるなら教えろよ」
「―――」
中禅寺は懐手をして、無表情に木場を見返した。
応えないのは多分確証が無いからだ。
木場は訊き方を変えることにした。
目の前の男から情報を引き出すのは難攻不落の雪山に挑むようなもので、
登る前にきちんとした登攀路を確保しなければ必ず失敗する。
詭弁の雪崩に押し流されて終わりだ。
「さっき、『今度はその名前か』とかごちゃごちゃ云ってただろ。
ありゃあ何なんだ?」
「そのままの意味だよ」
「つまり、あの団体は随分昔っから有るのか」
「ふん。一介の民間人である僕などから情報を得るよりは
所属先の内部資料を当たった方が善い」
中禅寺はじらすように、幾分意地悪い眼つきで木場を観察しながら、
「と云いたいところだが、多分警察では、
全くの新参団体扱いをしているのだろうね。どうだい?」
「ああ」
木場は頷くしかない。
「無理も無い。あの教団絡みの事件が起きたのは半世紀も前だ。
舞台になったのも日本ではあったものの、此の東京では無い」
「本当に同じ教団なのかよ」
「信仰というものは生物のようなものでね。
乱暴に云ってしまえば、細胞たる構成員が完全に変わっても、
背骨を成す教義と祭祀方式が全く変わらなければ
同一の教団と呼んで差し支えないと思うよ。
彼らがその頃何と自称していたかは不明だ。
僕が知っているのは為政者側の文書に記された簡単な名前のみ。
―――Kopffusserと、彼等は呼ばれていたようだよ」
「コップ吹き? なんだそりゃ」
木場は、情けない表情になった。
「日本の公式資料に残ってるのに何で横文字なんだよ」
「当時、その地域はまだ日本に成ったばかりでね。
今のはその辺りを治めていた前の為政者の言葉だよ。概ねの意味は」
中禅寺は、木場を見据えた。
「『蛸』だ」
木場は、調査書の、教団の尊崇の対象は海底でまどろむ蛸に似た水神である、と書かれていた箇所を思い出した。
「それは、奴等の崇める神様が蛸だからか?」
「原義は『頭足類』だね。学術的にあの仲間を総称する言葉だ。彼らの神が蛸か烏賊かは外形や教義からは明確では無い。だからそんなふうに曖昧に呼んだのだろう。独逸の律儀な国民性を感じるね」
「独逸だあ? さっきは日本の話だって云ってたじゃねえか」
「当時は独逸領だったのだよ。その後に日本の統治下に入った。そう云えば、旦那にもどのあたりかは解るだろう」
木場は鼻を鳴らした。
「もったいつけてねぇでさっさと話せよ」
中禅寺は庭にちらと視線を投げた。外は暗く、風雨は更に酷くなってきていた。
「その方が善いかも知れないね。時間は余り無いようだ」
──「京極堂座敷・木場1」作・狛犬
喫茶店
小さな窓から射す日射しが充満する煙草の煙に昏い光を揺らめかせ、混み合った店内は昼間だというのに深い海の底を思わせた。
「住み慣れた土地を離れて別の土地で暮らすとき、よく、水に馴染む、とか水が合わない、という言い方をするでしょう」
テーブルを挟んだ相手の短い髪に横合いから午後の陽が当たって、暗い水の中でそこだけ小さな魚の群れが踊っているように輝いている。
「私、子供の頃京都で暮らしていたんです」
家族に縁の薄い娘は、七歳で知人の家に預けられたのだと聞く。
「お酒でもお豆腐でも、水が味を決めると言いますでしょう。お義姉さんの実家は老舗の和菓子屋さんで、とても良い井戸があったんです。馴染みのお客さんはお菓子だけじゃなくて、お茶を立てる水もお店の井戸から貰っていってました。お菓子やお茶以外に、その井戸の水を使って炊いた御飯やお味噌汁なんかも、とっても美味しいんです」
娘──中禅寺敦子はどんな話題であっても、いつも真剣な面持ちで話す。
「東京は──私、とても気にいっているんですよ。上京した初日から、ここは私に合っている、と思いました」
確かに、颯爽としてさっぱりとした気性の敦子には、情緒纏綿として伝統的な古都よりも、人間関係が淡白で機能的なこの都会が性に合うのだろう。
「でも、蛇口を捻って出て来る水が京都のおうちのとは全然違ってて、それだけが凄く心細かった。ちょっと妙な理屈なんですけど、人体の60%は水で出来ている訳でしょう。私達が飲んだ水がそのまま自分の身体の細胞に入ってしまう訳ではないのでしょうけれど、これまでの自分の身体の半分以上を作っていた水が、全部この味気ない水道の水に入れ代わってしまうのかと思ったらなんだかとても」
なんだかとても──
大きな黒い瞳がじっと見詰める。
「ですから、その宗教団体が売り出している『万病に効く聖水』というものが、まったくのインチキだとはいちがいには言えないと思うんです」
向かい合った大きな瞳に見入ってしまっていた鳥口は、いきなり現実に引き戻された。
大体、敦子の勤め先近くの煙臭い喫茶店で二人が落ち合ったのは、それぞれが取材している事件にまつわる諸々の情報交換のためであったのだ。
ここしばらく鳥口の勤め先の雑誌、「實録犯罪」は休刊中である。とはいえ、まだ廃刊と決まった訳でもない。使えそうなネタがあればすかさず仕込んでおくのが、絶滅危惧種となりつつあるカストリ雑誌記者の心意気と言う物であろう。
中禅寺の座敷で聞いた怪奇窮まりない数学者の死の話をあちこちに取材しているうちに、耳聡い記者は彼の男がある宗教団体に入信していたらしい、という噂を聞き付けた。
神国ニッポンが敗戦で消滅して以来その身代わりのように大量に発生した、有象無象の新しい神の一つであろうか。
けれど。
彼らが帰依しているのが、蛸のような奇怪な姿の海産生物と聞いた時、
──鳥口の背筋を悪寒が走った。
実際に調査を始めて見ると、この謎の宗教団体は想像以上に広く東京中に流布しているようだった。意味不明の経を唱え、無気味な姿の本尊を拝む怪しげな宗教は、不思議に人々の熱狂を誘うものらしい。神秘の力を持つ謎の教祖という人物も評判を呼び、当初ささやかに行われていた集会には次第次第に大勢の信者が詰め掛けるようになったと言う。
その謎の団体の名は──
「るりゑ教団」
その、傍から見れば一見悪魔崇拝的な印象すら与える教団に何故それほどまでに信者が集まるのかと言えば、彼らには他所の新興宗教団体よりはるかに人気の高い「売りモノ」があったからである。
それが最前から敦子が話題にしていた「水」だ。
「るりゑ教団」の奉ずる神は、太古より深い海の底に棲む海神なのだと言う。
神の息吹を受けてその神殿より沸き上がる奇跡の海水が「竜宮水」なるものである。
畏れ多くも有り難いこの水を日々身体に用いれば身体を浄め、飲用に用いれば精神を浄め、あらゆる疾患疾病の治療に効果がある──ばかりか、ゆくゆくは不老長寿まで齎すという。
怪しい。如何にも怪しい。
しかし、巷に良くある胡散臭い宗教のように信者を嚇して法外な祈祷料をふんだくるだの馬鹿高いお札を売り付けるだの、そういったあからさまに阿漕な商売は「るりゑ教団」はしない。
「竜宮水」なるのも高価なものではなく、望めば誰でも入手出来るところが人気を呼んでいる。霊験あらたかな聖水にしてはお手軽だが、なにしろ一升瓶一本入りで、今鳥口が飲んでいる冷製珈琲一杯よりも安い。
本当に功徳があるとすれば、姿の醜さなど問題では無い、偉い神様である。
「しかし万病に効くと言われたって、塩水なんかそんなに飲めやァしませんよ」
海水ばかりをがぶがぶがぶがぶと。
先日目にした怪異な光景が眼前に蘇って、鳥口は思わず唾液を飲み下す。
「少し高価いけれど塩味のしない『竜宮真水』というものもあるのだそうです。そっちだったら普通に飲用や料理に使えば一日2リットルくらいは身体に取り込めるでしょう」
高価と言っても同量の上等な酒とそれほど変わらない程度だ。
この値ごろ感が人気の秘密なのだろう。
それで万病が癒せるならば安いものだ。
しかし。先の敦子の言葉のせいか、鳥口の脳裏には竜宮水を摂取する事によって、身体の細胞が次々と暗い緑色に濁った水に満たされて行く厭なイメエジが浮かんだ。
すっかり水が入れ代わった身体は以前とは構造が変わってしまって。
ある晩。
半月より膨らんだ月の出ている晩だ。
男の身体の内側からこれまで取り込んだ海水がとめどなく溢れ出し、部屋を水浸しにして、そのうえ逃れられぬその大量の海水で自らが溺れ──
これではまるで関口の小説だ。どうも長い付き合いであの作家の陰鬱が伝染ったらしい。鳥口は忌わしい妄想を振り払い、自分の常態の明るい声を出す。
「いくらなんでも不老長寿は嘘でしょう?」
「それはそうなんですけど、身体の調子が良くなる、くらいの事だったら海の神様の霊験かどうかは兎に角、実際に効果がある可能性だってあるんですよ」
そうでなければ単なる暗示効果だけでこれほどの人気を博す事は難しい。口コミだけでここまで来るには信者を納得させる『何か』が実際にあるのではないか、と敦子は明快に言う。
「例えば、温泉だって見た目はただの水ですけどちゃんと身体に効果のある成分を含んでいるでしょう。逆に、速効性はあるけれど長期的に見たら害を与える物質が含まれている恐れだってあるし。私、『竜宮水』が人体に及ぼす影響をきちんと調べてみたいんです」
敦子は、不可思議な事象を科学的に解明する啓蒙雑誌「稀譚月報」の記者なのだ。
確かに「竜宮水」の人体における有用性が分析できれば、それは話題にもなるし、結果によっては社会貢献にもなるであろう。
しかし、敦子のこの「竜宮水」に対する関心は単にそれだけのものではないのではないか、と、先夜彼女と異様な道行きを伴にした鳥口は踏んでいる。
あの、数学者の遺体の異常な状況を目にしているのに──否、目にしたからこそ、この有能な女性記者は信者達とは別の意味で、深海の水の「神秘の力」に心奪われてしまったのかもしれない。
やはり──いくら彼女が望んだ事とはいえ、あんなモノを見に行く事など絶対に止めさせるべきだった、と鳥口は今更ながら後悔する。
この、好奇心に大きな瞳を輝かせてどこにでも飛び込んでしまう娘は、その為に危険な状況に自分の身を置いてしまった事が一度や二度ではない。
そして情けない事に、鳥口は身近で危険に晒される彼女を一度も護れた試しがないのである。
兄ゆずりの明晰さにもかかわらず、敦子は自分の身体というものに対する自覚に決定的に欠けているのだ。自分の躯をぞんざいに扱う点においては鳥口も引けを取らないが、彼の場合は頑丈に出来ているからかまわないと思っている。敦子の華奢な身体などは、簡単に壊れてしまいそうで見ていてはらはらする。
今も、「水」の不思議にばかり気をとられて衝き進んでるうちに、やがて此の世界の物とは全く異質で邪悪なモノに抜き差しならぬ程接近し過ぎてしまうのではないか、と鳥口は気が気でない。
敦子が一人で暮らす広い借り家に、ある夜海鳴りと共に海水が押し寄せて来たら
──否、そんな事はあり得ない。そんな非論理的な現象を彼女は決して受け入れまい。
「敦子さん、あの教団にはあんまり近付かないほうが良い──です」
鳥口は漸くそれだけを口にする。
敏腕女性記者は大真面目な表情で答える。
「大丈夫、私が調べたいのは教団の教義や組織ではなくて『竜宮水』だけですから」
そんな理屈を聞き分けてくれるような相手だろうか。
腕時計に目を落として少し驚いた表情を作った敦子は、グラスに残った水に少し口をつけ、眉を顰めた。
それから顔をこちらに向けて、「京都のおうちの水が飲みたい」と、少し笑う。
鳥口がぼんやりしている間に少年のような風貌の娘はきびきびと席を立ち、じゃあ何か解ったら連絡しますから、と会釈して、ほとんど小走りになって出版社に戻って行った。
神田から東京駅は近い。
敦子が自分の珈琲代をきちんと載せていったテーブルで、鳥口は思う。
これからすぐに特急で京都に行って、
中禅寺千鶴子の実家の菓子店で訳を話して水を分けて貰って、
今夜のうちに夜行で戻って、
明朝一番に敦子の所に行って水を、
彼女が飲みたがっていた京都の水を届けたら──
敦子は何と言うだろう。
何を考えている。
鳥口は、グラスに残った水を一息にあおった。
水は、温くて不味かった。
──「喫茶店」作・ナルシア
京極堂座敷・木場2
独逸の統治領であった太平洋上の南洋群島が、第一次大戦後に締結されたヴェルサイユ条約により国際連盟の委任統治区域として正式に日本の支配下に入ったのは、大正八年のことだった。
「臨時防備隊条例が発布されてわが国の軍政が始まったのはそれに先立つ五年前だが、何千年も前から
あの辺りの島々に暮らしていた住民にして見れば、西班牙、独逸に続いて、暴戻な僭主の肩の上の首が
すげ変わった程度の認識だったのだろう。大正十一年にはパラオのコロールに南洋庁が設置されて、僕たちが善く知る南洋群島統治形式の基礎が固まった。後のいわゆる大東亜省南洋庁だ」
「今更聞きたくねえ話だな」
激烈を極めた南方戦線を思い出したか、木場が唇を歪める。
中禅寺の双眸に冷徹とさえいえる光が浮いた。
「聞きたくないのなら、此処で止めても僕は構わないが」
「いや―――続けてくれ」
「僕がこれからする話は、日本統治とそれに引き続く先の大戦には直接の関わりは無い。身構えないで聞いてくれたまえ」
「―――」
「独逸が米西戦争に破れた西班牙から、あの島々―――より正確にはマリアナ・カロリン両群島を買い取ったのは、明治三十二年だ。独逸は西班牙側に約千六百万マルクを支払い、条約の発効から半年ほどで一帯は全て独逸の領地となった。その十年後に、かれらは国営事業として、パラオ群島南端のアンガウルで燐鉱採掘を開始した」
「アンガウルってのはあの…」
「ああ。一万人以上の守備隊が玉砕したペリリュ−の西南に位置する、小さな島だよ。大戦末期にはペリリュ−同様激戦区になった」
中禅寺の冷静な言葉と木場が南の戦場で見た地獄の間には慄然とするほど大きな乖離がある。
所詮、外地での地獄行を体験していない者には、其れは単なる数字に基づく情報でしかないのかと木場は少し白けてから、いや違うな、と思い直した。
各々配置された場所は違っても、そして即物的な危険に晒される実際の戦闘には参加していなかったにしても、目の前の男も彼なりの戦いをくぐり抜けてきた筈だった。
木場と関口が南方の緑の地獄で逃げ惑っている間に、内地でも日本人ひとりひとりが戦っていた。密林で狙い撃たれるのと、例えば空襲が引き起こした火災で火炙りにされるのと、何れが偉い死に方なのかと言えば―――どちらでもない。
くだらねえ、と木場は断じる。死に方に優劣など無い。生き残れば、それで勝ちだ。
復員直後は自分の生還に疑問を感じた時期もあったが、仕事にかまけているうちにそんな厭世的な気分は何処かにすっ飛んでしまった。こうして、当たり前のような顔をして此の座敷に上がりこんで、冷えた茶を飲んでいられるのも、生きているからだ。日本は戦争に負けたが木場は勝ったのだ。それでいい。中禅寺の顔を見ながら、木場は、南方という語にまつわりつく厭な記憶を一時的にせよ決然と追い払った。
腕組みをしている古書肆と真っ向から視線を合わせる。
「で、そのアンガウルで何が有ったってんだ?」
「或る事件が起きて、其れが教団を刺激したんだ。その一件が無ければ、僕も、彼等のことなど知る由も無かったのだがね」
「おまえさんはどうやってそんな事件を知ったんだ?」
「南洋の研究所で書かれた或る科学論文からだよ。それを書いた研究者は、軍部による群島占領時の記録から事件を見つけたらしい。参考文献に各島の懲役人の罪状再審査記録―――独逸から日本が群島を引き継いだときの審査記録が挙げられていたよ」
「論文と南洋の神様と古本屋か。珍妙な三題噺が出来そうだな」
「そうかね。似たような取り合わせで、関口君は随分と陰惨な三題噺を考え付いたようだったよ」
中禅寺の微笑が酷薄なものになった。
木場は目をしばたたいた。
「なんでぇ、あの作家先生まで関係してんのか?」
「彼は古代の呪術師と同じ体質でね。興味の対象は我身に召還しないと気が済まないのだよ」
木場は、かつての上官の気弱な顔を思い浮かべた。
「…慥かに、ありゃあ一種の体質かもな」
「憑いたものに己が手綱を渡してしまう者には、召還術を行う資格は無いのだがね」
中禅寺はさも厭そうに云ってから、ため息を吐いた。眉間の皺が深くなって、不愉快そうに見えた。
「少し話を戻そう。燐鉱の話をしていたのだね」
「ああ。アンガウルの燐鉱だ」
木場は頷いた。燐鉱ならば知っている。畑に撒く肥料になる燐鉱石を掘る処だ。
臭い肥料だが、作物には欠かせない有機栄養の塊なのだとどこかで昔習った。木場がそう云うと、
「何で出来ているかまで習ったかい?」と来た。
習ったんだろうが忘れた、と木場は後ろ頭を撫でながらあっさり応えた。
「あれは何百年何千年も降り積もった海鳥の糞が主成分でね。それが島の基盤を成す珊瑚礁石灰岩の上に積もって、多量の降雨の影響を受けて化学変化を起こしたものなのだよ。アンガウルをはじめ、南洋群島で良質の燐鉱が採れるのは、そのためだ」
「天然の古い肥溜めを掘ってるんだな、つまりは」
中禅寺は微笑った。
「製糖業が軌道に乗るまでは、南洋庁の主たる財源を賄っていた一大事業だがね、まあ平たく云えばそういうことだ」
茶を一口飲んで、彼は続けた。
「その燐鉱で、或る労働者が見つけたものが騒ぎの発端になったんだよ」
──「京極堂座敷・木場2」作・狛犬
京極堂座敷・益田
襖を開けると厳つい眉を上げた鬼瓦のような四角い顔が目の前にあった。
益田龍一は襖に手をかけたまま、思わずその場にぺたんと座り込こむ。
「何をしているんだい益田君、入りたまえ」
鬼瓦の奥からこれまた恐ろしく不機嫌そうな主の声がかかる。
「は、はい」
益田はずるずると畳の上を這う様にして雨に湿った身体を座敷に運んだ。
恐ろしくて腰が抜けた訳ではない。
安堵したのだ。
自分が強い不安に包まれていた事に気付き、益田は今更ながら驚く。
畳に手をついた格好のまま、座卓の下を覗く。
濡れそぼった前髪から雫が畳の上に落ちる。
猫が寝て居る。
「何やってんだ、お前」
つられて覗き込んだ木場が不思議そうに言う。
「榎さんは来ていないよ。君はそんなに効率の悪い調査をしているのかい。
榎さんを探しに態々ここに来るくらいならば電話で確認すれば済む事だろう」
「そう言うな、現場百遍は捜査の基本だ、なあ。
自分の足で行き自分の目で見なきゃ判らねえ事もあるのさ。
でもあの莫迦は確かに居ねぇぜ」
益田は顔をあげて二人を交互に見る。
「あの」
「何だい」
えのきづさんが──
「榎木津さんが失踪しました」
「何時もの事じゃねぇか」
「いえその、そっちの榎木津さんじゃなくて。いやそっちもいないんですが、
そうじゃなくてお父さんのほうです──榎木津幹麿氏」
二人揃って益田の方に向き直る。
「榎木津元子爵が?」
「そ、そうです──これ」
益田は上着の隠しに手を入れ、小さな物をつかみ出した。
中禅寺が掌を開く。
ぽとり、と白く光る物が中禅寺の手の中に落ちる。
涙の形をしている。
「これは」
「それが事務所の机の上に」
「白蝶貝のバロック真珠だね。素晴しいものじゃないか」
「それから──これ」
小脇に抱えて来た濡れた紙箱を畳の上に押しやると、
手の塞がった主に替わって木場が受け取った。
「開けていいのかい」
「気をつけて下さい、あの」
「何を気をつけるンでぇ。また妙な生き物かなんかか?逃げるのか?」
「いえ、逃げないとは思いますが」
──動くかもしれない
「ええと、臭いますんで」
「臭い?」
かっちりとした造りの紙蓋が取られる。榎木津の靴箱の一つを借用したのだ。
出掛けに益田が慌てて幾重にも包んだ新聞紙を、太い指が慎重に剥いで行く。
その下の布を捲ると、不意に湿った磯の臭いが周囲に満ちた。
「こいつは」
木場が低く唸り声を洩らす。
探偵は捨てろ、と言いおいたのだが、益田はどうにも気がかりで
結局屑篭から再び拾い上げてしまったのだ。
あの不気味極まりない異形の像を。
「それを、幹麿氏のところに売りに来た男がいたんです」
発端から、益田は一気加勢に話し始める。
「それで──」
語り終って冷めた茶を一気飲みする益田に、
組んだ腕を和服の袖に入れたまま中禅寺が声をかける。
「どうしたいんだい」
「どうって」
それが判らないから益田はここに来ているのだ。
「どうしましょう」
中禅寺は眉を顰めて素っ気無く言う。
「どうもしなくていいよ」
そんな。
「おい」
益田が答えるより先に、木場が甲高い声を張り上げた。
「いいのかよ京極、さっきから聞いていりゃあ、こりゃお前、さっきまでお前さんが俺に話していた連中が祭っている南方の妙竹林な神さんじゃあねぇのか?」
この迫力のある刑事は、益田が話している間中思い当たる事があるのか、幾度も妙な声を上げていたのだ。どうやら益田の話は益田が訪れる前に二人がしていた内容に関わりがあるものだったらしい。
「だったら放っちゃあおけねぇぜ。なんせ分っているだけで連中に関わった人間がもう二人死んでいる」
「し、死にましたか」
それは不味かろう。
「おう。どう見ても普通じゃねぇ格好でな。まるで」
「旦那。それはまた別の話だよ」
中禅寺が勢い込む刑事に水をさす。
「心配ない。連中は榎木津元子爵には危害を加えないよ。
彼程の傑物が自らの意志で赴いたんだ、僕達の出る幕ではない。
素人が下手に巻き込まれると後が面倒になる」
「でも」
「榎さんも行ったのだろう。大丈夫だ」
取りつく島がない。
言葉の接げなくなった木場は、凶悪な顔でやたらと煙草をふかし始めた。
表の雨音が、さあさあと耳につく。
その時、失礼します──と静かな声がかかり、背後の襖が少し開いて中禅寺の細君が顔を覗かせた。
「あの、」
目顔で亭主に合図したらしい。
「ちょっと失礼するよ」
中禅寺は立ち上がると座敷を出ていった。
残された益田は木場から自分が来る以前に二人で話していた内容を聞いた。
一致する。それは気味が悪くなるくらいの符合だった。
濡れた身体が冷えたばかりではなく、益田は背筋が寒くなってきた。
「木場さん」
「あん?」
「中禅寺さんはいつも言いますよね。この世には──」
不思議な事など、何もないのだと。
ならば益田が見たと思った──あれは何だったのだ。
ならば何故人界の事とも思えぬ異様な事件が続くのだ。
「僕は、やっぱり中禅寺さんに」
襖が開く。
中禅寺は最前と異なる非道く重苦しい表情をしていた。
「旦那」
声も低い。
「おう」
「例の連中の集会所のような場所は挙がっているのかい」
「ああ、大方の所は各署でも把握している。
問い合わせれば様子もすぐ分るぜ」
煙草を挟んだ指で、刑事は点々と東京各地を示してみせる。
主な集会所の位置が頭に入っているらしい。
「悪いが早急に調べて欲しい。現在妙な動きを起こしている場所があれば、僕に知らせてくれないか」
「お安い御用だがよ。お前さん、関わりになる気はなかったんじゃ」
「──関口君が失踪した」
木場の指の動きが止まる。
「彼の場合は元子爵とは違って自分の意志ではなく、拉致された可能性が高い。益田君」
「は、はい」
鋭い声に益田は跳ね起きる。
「君には調査をいくつか頼みたい。情報が必要だ、
僕もとにかく急いで調べ物を済ませて行く」
「行くのか」
「今回の事は僕にも責任がある。やはりあんな事を彼に聞かせるべきではなかったのだ、彼はあまりにHPLに近すぎる。僕は──」
腰を浮かせかけた益田の位置から中禅寺が開いた襖の奥に、寄り添って立つ二人の女性の姿が見えた。なんだか遠くて、非道く儚い。
「──とにかく、急ごう」
中禅寺の細君に肩を抱かれた白い顔が、こちらに向けて深く頭を下げる。
益田は──なんだかとても哀しくなった。
──「京極堂座敷・益田」作・ナルシア
洞窟
暗黒が吠える。
みつしりと押し詰まったとりどりの年代服装体格の男女の群れが、
洞窟の底で絶叫し、咆哮し、号泣する。
洞窟はいくつもの随道や溝が歪み錯綜し、彼らの声は狂おしく反響し、
陰陰と共鳴し、滅滅と啜り泣くかのようである。
其の叫喚の渦の底にあるのは一体の像である。
ぬらぬらとした表面に踊る松明の火の色がふしだらに紅い。
私は恍惚としてその奇怪な像に見入っている。
──あなたも、皆といっしょに
傍らの少年が私に声をかけた。
そういえば彼とはずっと一緒だったような気がする。
──皆と一緒に祈りの唄を
これは唄なのか。
この人々は何かに祈っているのか。
でも私には唄えない。祈る事も出来ない。
──唄いたいのでしょう、皆と一緒に
唄いたいのだろうか、私は。
私は問い掛けるように傍らの少年の顔を見る。
灯の乏しい洞窟の中で彼の顔は大人達の陰になっている。
──あなたは羨ましかったんだ
そうだ。彼はそう言ったのだ。
透き通るような無垢な顔で。
そして私の腕を取ったのだ。
そうして、私は此処に居る。
──さあ、何を躊躇っているのです。
あなたは皆と一緒になるためにここまで来たのではありませんか
しかし私は。
──簡単ですよ、さあ僕の後に続けて
ふんぐるいむぐるうなふくとうるうるるゐゑうがふなぐるふたぐん
ああその言葉は。
捩じれ重なった周囲の人々の熱狂の声が一塊の叫びとなって洞窟に木霊する。
ふんぐるいむぐるうなふくとうるうるるゐゑうがふなぐるふたぐん
戦慄が身を這う。
しかしその忌まわしさとは裏腹に、ねっとりと黒い呼び掛けが
甘いうねりとなって私の心を揺さぶる。
そうだ。
私も一緒に。
讃えよう我らが神を。
私も祈りに遅れまいと口を開く。
その時。
きゅらきゅらきゅらががががが
巨大な生物の鳴き声のような不気味な軋み声が地底から響く。
その名状し難い陰気な声は壁にぽっかり開いた穴の一つから
こちらに近付いてくるようであった。
今や人々は両腕を振り上げ全身をくねらし声を振り絞り、
祈りは最高潮に達している。
彼らの祈りは届いたのか。
彼らの望んだものは彼らの前にその姿を顕わすのか。
それは私が望んでいたものと同じなのだろうか。
そして。
松明の煙りと人いきれで霞む壁穴の奥に
巨大な漆黒の陰が現れた。
ゆらゆらと息づく様に巨大な影が膨らみ、縮む。
小山のような胴体の上に小さな頭部が載っているようだ。
きゅるきゅるきゅる。
悲痛な声と共に頭部に付いた長い腕のようなものが廻る。
これは。
これがこの人々の望んだものか。
これが私の請い願ったものか。
なんという禍々しさなのだろう。
なんという力強さなのだろう。
私はこれが何かやはり知っているような気がする。
私はずっとずっと昔──
この世のものとも思えぬ生き物の胴体の中程にいきなり強い二つの光芒が閃いた。
余りの眩さに多くの者は叫び声を上げ、光に打たれその場にひれ伏す。
私はそれでも目を閉じる事が出来ず、目を覆った指の隙間から見つめる。
これから一体何が起こると言うのだ。
それは脆い人間の身で耐え得る事なのだろうか。
「神の登場──」
白い光を浴びた少年が、喉を傾けてさも可笑しそうに笑った。
──「洞窟」作・ナルシア 原案・やまい
「竜宮の呼び声」解決篇・乞うご期待!
2001年4月初出・2004年6月編集