「呪術師の聲」 後章   


「関口君の言う通りだ」
「僕は──狛江の信ずる神を、僕の言葉一つで試みに奪い取ろうとした」

 居慣れた馴染み深い座敷が、氷で閉ざされた檻の様に感じられる。
 座敷の主はそれきり言葉を続けようとしない。
 座敷に居る誰も何も言わない。
 身動きすらしない。
 何の音もない。


「それで」
 不意に思いがけぬ方角から沈黙が破られる。
 榎木津だ。
「やったのか」


「やらないよ──」
 京極堂は苦い表情で笑った。

 安堵の溜め息が漏れる。
京極堂は穏やかな声で続けた。
「そんな馬鹿な考えはほんの一瞬脳裏に浮かんだだけで、僕はすぐさまそんな妄想
は捨てた。僕達はいつものようにひとしきり無駄話をし、その後狛江は実験を続け
に自分の研究所に帰って行った。
──それから間もなく都心への空襲から逃れるため、陸軍研究施設の多くは関東近
県にそれぞれ疎開した。
其れ以来、僕は一度も狛江には会っていない。
何処でどうしているのかも知らない」

「だったら、何でもないじゃないか」
 榎木津が呆れた様に言う。
「別におまえは何もイケナイ事はしていないじゃないか。あんまり怖い顔をするか
ら何事かと思って、サルトリカマが怯えているぞ、可哀相に」
「何でも無くはない。一瞬、僕は──」
「それこそ『とうりゃんせ』だったんですよぅ、」
 鳥口の大声につられて、やっと私もかすかな声を出す事が出来る。
「そりゃ、通り物だろう」
 通り物はほんの短い刹那訪れる、衝動を抑えられない一瞬の魔だ。
「そうそう、前に師匠が言っていたそのトリモノ、それに当る所までもいっちゃあ
いない、師匠はそいつの姿をちらっと見ただけですよ」
「ありがとう鳥口君、」
 京極堂は、少し微笑んだ。
「そう、君の言うように、あれは通り物だったかもしれない。
でもね、そのときのその化け物はその瞬間を過ぎて行ったらもうそれまで、という
淡白な奴じゃない。そいつは僕に纏わり付いて、隙有らば襲い掛かろうと狙ってい
る──厄介な奴だ」
「その後も、同じ様な場面が有ったのですか」
 意外に冷静な益田の声が問う。
「いや──そんな事は後にも先にもその一回だけだったよ」
「それだったら──」
 言いさして、私は言葉を失った。
まだだ。
まだ話は終っていないのだ。
京極堂の眼は未だ周囲に居る私達に向けられていない。
何か未だ強く過去に引かれる物が残って居るのだ。
自らの内の過去を見据えた儘、彼は淡々と続ける。

「けれどその考えが頭に思い浮かんだ瞬間、
僕は──自分の内にそれまで経験した事の無い、強い歓びを覚えた」

「え?」
 今──よろこびと──言ったのか?

京極堂は呆然としている私達に静かに問う。
「これまでの話の中で君達は、僕が狛江君に対して害意を持つ何らかの理由を見付
けたかい。あるいは僕が彼を嫌っている様な印象を持ったかい」
 それは──ない。これまでの彼の話振りからは狛江氏に対する敵意のような物は
微塵も感じられなかった。むしろその口調はとても──
「僕は彼を憎む理由など何一つ無かった。実際あの牢獄のように退屈な建物の中で、
僕はあの無邪気な男が暇潰しにやって来るのを心待ちにしていたと言っても善い。
それなのに僕はあんな事を──いや、」
 京極堂は長い指を額に這わせた。やや俯けた貌が指の間で陰になる。
「恐ろしいのは妙な考えを起こした事では無いんだ。危険な考えが思い浮かぶのは
鳥口君が言うように通り物だ、誰にでも起こるし思い付いた本人が悪い訳でもない。
大概の場合は実行される事など無いし、そんな事を思った事すら普通は忘れてし
まう。
けれどその時の僕は、その馬鹿げた考えにはっきりと快美感を持った。
それは──」
 顔に翳した手の陰から、口元だけが見える。

「──忘れ難い程のものだった」

 薄い唇の端が笑むように上がった。
 慄然とした。

「何が其れ程快かったのだろう。
一人の将来を嘱望された、有能な科学者の生涯を狂わせる事が?
自分が善く知った、優秀で善良な人物を思いのままに操る事が?
何故だかは全く判らない。
僕は自分が他人を傷つける事を快いと感じる類いの人間だとは信じてはいない。ま
あ、その傾向が全く無いとまでは言い切らないがね」
 確かに、その傾向が全く無いとは言い切れない。
「兎も角、其の時僕は狛江の精神に手を出す様な事はしなかった。一度目は何事も
無くやり過ごす事が出来た。けれど──再びあの快美を味わう為に、同じ様な思い
付きを実行に移さないという絶対的の自信は無かった。所謂ロオレライの唄聲さ」
「ロオレライ──」
「関口君は原語の歌詞を知っているだろう。ああ、此処で歌う必要は無いよ。要す
るに──理性を失わせる誘惑の声だ」
 ロオレライ。独逸國ライン河の急流の岩場に棲む、魔性の物。
美しい乙女の声で舟人を惑わし、操船を誤らせ、岩礁に打ち付け人の命を奪う──
水怪だ。
「そんな唄聲が事有る毎に聞こえて来たら僕はどう成って仕舞うだろう。
しかし誘惑に負けて施術を試みるような事は絶対に出来ない。
他人の人生を操る事を愉しいと思うようになったら──」
 京極堂は不意に指を離して顔を上げた。
目の下に隈が濃く現れている。声は思いがけず、剛く通った。

「それでは──あいつと同じになってしまう。
それだけは、死んでも厭だ」

 榎木津は庭の方を向いている。
思い出したくない顔から、眼を逸らしたのだろう。
外は酷く白っぽく明るく、今が昼なのだか夕が近いのか判らなかった。

「──僕はね、忘れる事にしたよ」
 ややあって、再び静かな声がする。
「あの甘美を記憶に留めていると、それを想起して何時かその誘惑に負ける時が来
るかも知れない。普段の自分を保って居られれば其んなものには惑わされない自信
はあるけれど、時代は徐々に切迫し、僕達を取り巻く環境は頗る不安定に成って行
くだろう。正常な判断力など、何かの契機で失くしてしまわないとも限らない。だ
から取り敢えず、一瞬の不穏な思い付きと其れに伴う愉悦、其れさえ忘れられれば
僕は此れ迄通りの僕で居られる、余計な唄聲に心が乱される事も無いのではないか、
とね。そう思って──」

わすれてしまえわすれてしまえわすれてしまえ──

「僕は自分に強い暗示をかけた。生贄に狛江を使うという思い付きを忘れさせた。
それに附随して喚起された感覚を忘れさせた。その試みは成功した。そして──」
 京極堂は正面の益田に顔を向けた。
「ついさっき益田君が神社での経験を話してくれるまで、僕はあれ程親しくしてい
た男の事を一度も思い出しはしなかった」

──わすれてしまえわすれてしまえ、わすれてしまえ。

「暗示が──効き過ぎたんですね」
「彼の事まで忘れてしまうつもりは無かったのだ。思い出せたのは君のお陰だよ。
狛江君の口癖がきっかけだった」

──この世は目には見えない宝であふれているんだよ

 かちっ──。
益田の口から出たこの言葉が、箱の蓋を開く鍵だったのだ。
この言葉を耳にした時、京極堂は自分の記憶の底に忘れ去られた箱が有る事に気付
いた。私達が謎の薬屋について見当はずれの推論を喧しく並べ立てている隣で、彼
は実に暫く振りに箱の蓋を開き中を覗き込んでいたのだ。
さわさわと昏い箱の中で何かが波立つ。

 私は改めて友人の窶れた貌を眺めた。
途中京極堂が席を立ち、長らく戻ってこなかったのは、私達に見せる為の古い資料
を引っ張り出すのに手間取っていたからなどでは無い。如何にも出番の無さそうな、
まさしく無用に見える旧物でも、彼ならば独自の分類法と驚異的な記憶力によっ
て、実に手際善く短時間で引き出す業を得ている。憶えてさえいれば、引き出すの
に手間は無い。其れなのに時間がかかっていたのは、憶えていなかったから──彼
自らが記憶を封じていたからだったのだ。

 あの時京極堂は一人座敷の喧噪を離れ、天井まで古書を積み上げた書棚の前の薄
暗がりに膝を突いて──着物の前膝が酷く汚れていた──自らが昔箱に詰めて閉ざ
した記憶の闇を凝視していたのではないだろうか。

過去の匣の中にみつしりと詰まったまま、
にこにこと懐かしい友人が彼に笑いかける。
暗い熱を眼差しの中に堪えた嘗ての己自身が、
ゆらゆらと影のように眼前に立つ。
匣の中から沸き上がり押し寄せるのは過去の聲、
朗々と、渺渺と、
例え再び蓋を閉ざそうと、蘇った聲を消す事はもう叶わぬ。
耳は塞ぐ事は出来ないのだから。


「全部思い出せたのですか?」
 疲労の跡を残す古書肆に、益田が未だ少し警官らしさの感じられる、労る様な声
を掛けた。
「ああ、うん──そうだね、大体思い出したよ。
いや、何故狛江を実験に使おうなどと思ったのかは矢張り判らない。おそらく初め
から理由なぞ無かったのだろうな。単に条件が揃っている事に気が付いた勢いで一一」

「薬屋だから」
「何だって?」
 皆が一斉にこちらに顔を振り向ける。
 しかし思いがけず口を突いて出た言葉に、一番驚いたのは私自身だった。
「何だい関口君。薬屋が何だって?」
「あ、いやその──」
 確たる考えがあった訳では無い。只これまでの話から、研究所での狛江氏と京極
堂の姿に漠然としたイメエジを抱いただけである。それは何の根拠も無い、無責任
な作家の妄想だ。それが全く無意識に口に出てしまったのだ。
 狛江氏は益田少年と出会った時白衣姿だったという。他所の研究施設に出向く道
中まで白衣を着てはいないだろうが、微生物学者である彼は白衣を着用している機
会が多かっただろう。それが彼個人の印象となる程度には。
一方の京極堂──中禅寺は文系出身だ。実際に生物や薬品などに触れる事は無いの
で、白衣を着る必要は無い。いくらなんでも和服という事はあるまいが、学生時代
や現在私達が見慣れている姿と同じく、やはり暗めの色味の衣装が彼の存在にはし
っくりくる。

 白い薬屋と、黒い拝み屋。

私の抱いた二人のイメエジは、そんな単純で相対する図柄だったのだ。

「その、狛江君は微生物から薬を創る薬屋なんだろう。君は言葉で災いを祓う拝み
屋だ。君達二人は元は同じ、」
 深い考えも無く私の口だけが動く。本当に、単なる思いつきなのだ。
「薬屋も拝み屋も、共に太古には──病や悪霊を退治て人の苦しみを癒す、呪術師
だったのだろう」
「あ、白魔術と黒魔術──」
 山中の女学院で、魔道に傾倒した少女を説得したという知識を連想したのだろう。
益田が小さく叫ぶ。
「白魔術は自然科学、理の明らかな医術と成って──それ以外の魔術は隠秘学とし
ての黒魔術にと、以前中禅寺さんは」

「だから何だい」
 引き攣るように益田が言葉を止めた。
「確かに薬品も祈祷も昔は同じまじないの技だった。
だから──僕ら二人は共に太古の呪術師の末裔ながら、片や陽の当る現代医療の晴
れ舞台で華々しく活躍し、片や原理原則が顕かで無いが故如何わしいと日陰に追い
やられた、その積年の恨みが無意識にでも僕の心底に有った──とでも言いたいの
かい君達は」
 京極堂は皮肉めかして殊更大仰に言う。私は感心して大きく頷いた。
「ああ──成る程、そこまでは考えていなかったよ」
「馬鹿か、君は。益田君まで馬鹿が伝染ってどうする。流石に妄想小説の大家関口
先生、インスピレイションに富んでいる、極めて独創的だと誉めたいが、ここは矢
張り馬鹿と評する他は無い」
 私は何時から妄想小説の大家に成ったのだろう。
「曖昧で茫漠とした関口君の自己ならいざしらず、僕自身の輪郭はもっと現実的で
コンパクトだ、一緒にしないで呉れ賜えよ。拡散し膨張した自己イメエジに支配さ
れるようならば、僕はとっくに──」
 口煩い友人は大きく嘆息すると、俯いて指を頭に当て、髪を掻き乱す。
「ああもう、序でに君達はこう思っているのだろう。
狛江は神に忠実な敬虔な男だった。清廉で求道的な白い神の使徒だ。
それに対する僕の方は」
 白い神の使徒に対する黒い──

再び反射的に思い掛けない言葉が私の口を突く。尤も、普段だって熟慮の末話して
いる訳では無いのだ。だから大抵は後悔する。
「き、京極堂、僕は君の事を悪魔の様だと思う事は善く有るけれど──」
 鳥口が口を丸く開けたまま固まってしまっている。

「──実際に君を本物の悪魔だと思った事はないよ」

 一瞬髪を掻く手を止めた京極堂は、次の瞬間片眉を大きく上げ、
其れを聞いて安心したよ──と、言った。

 安心ついでに喉が乾いた、一つ君達に今度は旨い茶を振る舞おう、と座敷の主は
今度は自身で身軽く厨に立って行った。調子はもう可成り普段に近くなっている。
 
 凄まじい重力を放っていた主が席を立つと、全身の激しい疲労感に襲われて、私
達は糸が切れたようにどっと姿勢を崩した。
さすがは先生、コツを心得たもんですねぇ、と鳥口が頻りに感心しているが、何の
事だか判らない。
 それにしても榎木津は、京極堂が狛江氏に神落としを試みたかどうか、よくあの
場で尋けたものである。私達では永久に切り出せなかったであろう。
腕を後ろ手に畳に突いて、うン、と背中を反らせていた榎木津にそう言うと、探偵
はその姿勢のまま首をこちらに仰け反らせて私に答えた。
「あの眼鏡はずっと笑っていたからね」
 なんの事はない。この異能の男は京極堂が実際には一度も狛江氏を苦しめてはい
なかった事を知っていたのである。拍子抜けする私達に、榎木津は気軽な調子で続
ける。
「京極も何もあれ程真剣に気にする事は無いのに。友達に意地悪を思い付いて、で
も結局何もしなかったんだろう。小学生じゃあるまいし、今頃いちいち反省を垂れ
る事はない」
 生来の陽性な性格の故か、恵まれた家庭環境によるものか、或いは──特異な能
力に依て課せられた負担が重過ぎて、常人の拘泥わる微細な部分を切り捨てねば立
ち行かぬのか──榎木津は人が鬱屈し一つ事に屈託し続ける事を潔よしとしない。
苦悩も苦難も放り捨てて、この活力に溢れた男は常に前進する。
「僕なら思った事はその場で実行するから反省は無いぞ!反省するような事は初め
からしないのだ。猿君を叩きたいと思ったら、迷わずその場で──」
 畳に腕を突いた体勢から一動作で流れるように、長い腕が前置きも無く私の方に
振られる。私は座卓に伏して間一髪避け、卓沿いに躙って身を遠ざける。おおさす
がは猿、よくぞ躱した、と榎木津は上機嫌だが、私が素早い訳では無く、手が飛ん
で来る呼吸が判っているのだ。伊達に付き合いが長い訳ではない。肘を着けた卓の
表面に積った古冊子のほこりがざらついて、微かに古く物悲しい匂いがする。

 一度語った記憶というものは、それまで自分の中にあったものとは別の物になっ
てしまうという事を、私はこれまでの経験から知っている。語った言葉そのものが
新たな記憶となり、それ以前の形のない思いが特定の形を取らされるのだ。観測す
る事によって、世界は形質を獲得する。そしてそれは可塑性を持たない。だから持
て余す記憶を片付けるには、其れを外に出して形を与えてやれば善い。
 私の場合はそれが私が小説を書く理由の大部を占めている。私の体内に渦巻く記
憶がどれ程我が身を苛み苦しめた体験であっても、一旦私の身体を通して言葉に置
き換える作業を経る事によって、それは現実そのものではなくなってしまう。それ
が私の折り合いの着かない過去に対する解決策であり、追い詰められた精神の逃げ
道である。もしかしたら京極堂も今回この手法を試みたのかもしれない。彼の表現
手段は文章や絵画ではない、語る事だ。それは或は憑き物落としの一手法と言える
のかもしれない。
 ただこの理屈は、他人の記憶を加工されないそのままで視る事が出来るうえに、
過去に拘泥わらない質の榎木津には実感し難いだろう。私は肘に付いたほこりを擦
りながら、ごく平易な見解だけを述べた。

「皆が榎さんの様に自分の行為に自信がある訳じゃ無いんだよ。本人にしたら凄く
厭だったんだ。京極堂ですら、やっぱり重荷になっている事は話してしまって気を
楽にしたかったんだろう、当たり前だよ人間だもの。あれだって憑き物落としみた
いなもんだろう、辛い思いが僕達に話す事で少しでも晴れるなら善いじゃないか一
一」

「君達に話した訳ではないよ」
 唐突に冷ややかな声が響く。
座敷の一同は再び凍り付いた。
やや薄くなった外の光を背にして、盆を手にした死に神の様な陰気な影が敷き居に
浮かび上がっている。
「僕は『益田君に話している』と言っただろう。益田君が僕の忘れていた人の事を
思い出させてくれたから、その事を説明して礼を言っていたのだ。それだけの事だ
よ。君達は偶々近くに居て僕らの話が聞こえてしまっただけじゃあないか。僕は懺
悔などしない、と最初に言った筈だよ」
 湯気の立つ湯飲みを盆ごと座卓に載せて、主は自分の定位置に戻り床の間に積み
上げてある和閉じの古書を一冊手にした。
「益田君への話も済んだのだから、それを飲んだら皆帰ってくれないか。だいたい
君達は此処に何をしに来ていたんだい、いい加減日も傾いて来た」
 実際時計を見ると思った以上に時間が経っていたので、私は急かされるまま慌て
て湯飲みを口に運んだ。
 熱い。
京極堂の新しく洩れた茶は、これまでになく飛び上がる程熱かった。
見回すと、益田も口に火傷でもしたのか、呆然とした表情で湯呑みを手にしている。
榎木津は最初から茶が熱いのを知っていたようで、まだ自分の分の湯飲みに手を
出してはいない。鳥口は委細構わずこの高温の液体を勢いよく喉に流し込んでいる。
どういう口腔の造りになっているのだろう。大体佳い茶は低めの温度の湯でゆっ
くり煎じて味わうものだから、この口も付けられない様な熱い茶は、さっき私が出
したぬるい茶に対する当て付けに違いない。
 床の間の方を睨むと、京極堂が済ました顔で本を眺めながら湯飲みを口に運ぶと
ころだった。
そして急に酷く顔を顰め、離した自分の湯飲みをまじまじと見詰める。
やはり熱かったのだ。
そして私が視ている事に気が付くと、例の天下一品の仏頂面のまま、にやりと笑っ
て見せた。

ああ。

何時もの京極堂だ。

私は熱い茶に息を吹き掛けて冷ます振りをして、
浮かんで来る安堵の笑みを誤魔化そうとした。





1999年07年



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