「呪術師の聲」  前章  



 新しくいれ直した茶を 零さないように、覚束ない足取りで盆を掲げて
そろそろと座敷に踏み入れると、明るい縁側を回って来たせいか
日頃居慣れた筈の友人の部屋は、まるで其処だけ暗雲に閉ざされた
かのように酷く暗く感じられた。
 この家の主は古書の類いの積み重ねられた床の間を背に、
むっつりと不機嫌そうに暗い色の着物の袖を胸の前で組んだまま
本も手に取らずに押し黙り、頓狂な探偵は畳の上で両腕を広げたまま
眠ってしまったのか、横になったままぴくりとも動かない。その傍らで
日頃軽口ばかり叩く雑誌記者がえらく神妙に肩を窄めており、探偵
助手に至っては正座して──さすがに元警官だ、姿勢が良い──
畏まって床の間の古書肆に相対している。
 私は異様に重苦しい雰囲気をなんとか和ませようと、ぎごちなく
笑顔を作りつつ皆に湯飲みを配り、小声で礼を言う青年達に務めて
明るい声をかけた。
「茶菓子でも有れば善かったね」
 忽ち待ち構えていた様な主の罵声が飛ぶ。

「君達は人の家の菓子を散々食っておいてまだ不足だとでも言う
のか?大体他人の家を訪ねるのに手土産の─つも持って来ないで
茶ばかり出させて、これで僕と妻が身代を潰して夜逃げの憂き目に
合ったら君達はどう責任を取ってくれるんだい」
 確かに私は毎回差し入れを携えて来る訳ではないし、榎木津は
何時も気の向いた時に来るのだからだいたい手ぶらで此処を訪れる。
鳥口は原稿の打ち合わせをするために私を探しに顔を出したに
過ぎず、益田は自分の抱えた難題が気掛かりで、菓子折りなど
求める余裕も無かっただろう。だからといって私達が法外に飲み食い
しているような言われ様は心外である。私自身に大きな事が
言えないのは充分承知ではあるが、茶代くらいで潰れる身代ならば
それは主の働きが悪いのだ。私が抗議しようとすると、京極堂は
手にした湯呑みを口に運び、酷いな──と眉を顰めた。
「君、湯をちゃんと沸かさなかっただろう。湯の湧くのを待てない
なんて子供じゃああるまいし、茶坊主─つ務まらないのかい、君は」
 座敷の動向が気になって、湯の湧くのもそこそこに厨を飛び出して
来たのを見透かされ、思わず私は自分の湯飲みを手にしながら
むきになって言い返した。
「何を言うんだ、君にいつも飲まされている出涸らしよりはよっぽど
味わい深いじゃないか──」
 然しながら自分のいれた茶を─口含んで、私は彼の非難の正当性
を知った。ぬるい湯でいれた茶はとても味わい深いなどといった代物
ではなく、生臭い妙な味がする。私が─瞬言葉を失ったのを見て、
嫌味な古本屋は薄らと笑みを浮かべると更に攻撃を続ける。
「まあ、秘蔵の宇治玉露とまでは言わないが、そこそこ上等な茶だ
というのに全く善くも此れほど不味くいれられたものだね。
狛江がよく持って来ていた十薬の代用茶の方が遥かに飲める」
 いきなり話題の男の名が出て、榎木津がそっと畳から頭を起こした
のが見えた。
「重役の代表ってぇのは何です?」
「十薬はどくだみだよ。乾燥して煎じて飲むと身体にとても善いそうだ」
素っとぼけてみせる鳥口に答えながら、私は座卓越しに益田の方を伺う。
機会を計る様にこちらに目線を向けたので、私が頷いてみせると益田も
目で頷いて答えた。どくだみ、そりゃあ師匠お似合いで、などと何を
言っているか善く判らなくなっている鳥口を突ついて黙らせる。
 元刑事で且つ居丈高な所の無い探偵助手は、相手に警戒感を
抱かせずに尋問するのが上手い様に思う。最近は更に探偵の仕事に
役立つようにと妙に軽薄そうな物腰を身に付けたが──それとも彼
本来の地に戻りつつあるのだろうか──、今は流石に緊張している
らしく、真摯な面持ちで床の間を背にした古書肆に対している。
 聞き手は彼に任せる事にする。

「中禅寺さん」
 益田が問う。
「その──狛江さんとはよくお会いになっていたんですか」

 よく会っていたよ、と京極堂は穏やかな声で答えた。
「例の武蔵野の研究所──益田君も知っているだろう、あの箱館だ
──で僕は戦時中、あの美馬坂教授と─緒に仕事をしていた。
あの人はもともと免疫の大家だったから、相談の為に陸軍の公衆衛生
方面の責任者が彼のもとを頻繁に訪れていた。
ある日、試料の管理のために上司のお付きで来た若い学者が、
話が済むのを待つ間実験室の隅で─心不乱に原語の印刷物を
読んでいるのを見かけてね、あまり真剣なものだから─寸覗いて
みたら──呆れたね、J.R.R.トールキンというオクスフォードの教授の
本だ」
「細菌学の本ですか?」
「なに、小人だの魔法使いだのが出てくる冒険小説だ。可笑しくなって
思わず声を掛けてしまったよ。それが──狛江だったのさ」
 その時の事を思い出したのか、嘗ての第十二特別研究所の研究員
は、かすかに微笑んだ。


 二人は本の話題から意気投合し、狛江氏は武蔵野研究所に試料を
届ける際には京極堂──当時は中禅寺少尉か──に与えられた
研究用の個室に立ち寄るようになったそうだ。
「狛江君はもともと官立の微生物研究所の職員なのだが、
その研究所がまるごと陸軍の管轄下に置かれ、身分としては第六
特別研究所の所属と成っていた。科学兵器や生物兵器の人体に
及ぼす影響等を調査したりする部門だ。尤も、彼の任務はそれまで
続けて来た微生物の産生物質の研究で、内容が機密扱いになった
事以外、彼の日常にはさしたる変化も無かったそうだ。
関口君は経験があるだろうが、生モノの研究というのは検体の増殖を
待ったり、反応を見るための長時間の過程があったりと、意外に時間
待ちの多いものだ。狛江君は次の作業までの間が空いた時など、
特にこれといった用事が無くとも僕の処に顔を出すようになった。
もう其の頃は読むべき外国文献も滅多に手に入らないし、必要な
試料も不足しているといった状態で、各地の研究施設も敷地内で
食料の足しにと野菜を作っている有り様だ。彼の持参した十薬は
研究棟の裏手に自生していたものだそうだがね。よく乾燥させて
あったので案外飲み易かったよ。
僕のほうはといえば、上層部から押し付けられた馬鹿馬鹿しい
テエマなぞ端から真面目に研究などする気はなかったから、客が
来るのは歓迎だった。僕らはこれといって仕事とは関係の無い
無駄話ばかりをして時を過ごした」

 私達は去年のあの陰惨な事件の結末をその武蔵野の研究所の
中で迎えたので、内部の様子をある程度知っている。廊下に沿って
区切られた個室までは覗かなかったが、もともと常識に外れた形態の
建築物の内部は酷く殺風景で、建物全体の中でも窓は正面にしか
無いのであるから、おそらく各々の個室も重い扉を除いて全面が
剥き出しのコンクリートで無愛想に塗り潰されているのだろう。
そしてその中の二階の─室は嘗ては壁─面に書棚が嵌め込まれ、
床といわず台の上といわず外国の書籍だの紙質の悪い印刷物だの
バインダーだのがその出所の雑多さにも関わらずきっちりと正確に
積み上げられ、踏み込む者に強い圧迫感を与えていたことだろう。
部屋の隅にはこれ又あらゆる紙質、大きさ、厚さの書類書籍に
覆われた机があって──其処で若い研究者二人は茶を飲みながら
延々と非生産的で無意味な知識と情報の交換に耽っていたのだろう。
戦時にそんな態度が知れては非国民呼ばわりされて何らかの処分が
行われても不思議は無いのであるが、彼の研究室、否それこそ
勤め先の研究所自体が外界から閉ざされた密室状態であったが故に、
彼等の無為で和やかな閑話は誰に咎められる事も無く続いた。


「僕は自分に割り当てられた仕事が嫌だったし、同じ研究所内で
作業をしているはずの他の職員達と知り合いになるのも嫌だった。
人を殺さぬための研究とは言え、その成果の利用はどう言い繕った
処で非人道的なものには違いない。
─方狛江は──自分の研究に誇りを抱いていた。誰がその成果を
誰の為に使おうと、それは人の命を救うのだ。同じ技術で第九研では
細菌兵器が開発されている事を彼も聞いていない訳ではなかったろう
が、彼自身の研究の目的は戦争とは無関係であくまで人命の為だし、
彼自身はいつも前向きだった。」

 中禅寺君、と彼は満足そうに微笑んだと言う。

 ──この世は目には見えない宝であふれているんだよ
 ──僕は神様が隠しておいた宝物を探し当てるトレジャア・ハンタア
    なんだ

 京極堂は、益田が子供の頃に耳にしたという「薬屋」の口癖を呟いた。

「狛江は面白い男でね。見た目はなんだかぼんやりしている様だが、
博識で知性的で、そのうえ信心が厚かった。彼の勤める研究所には
小さな祠があって、狛江は毎朝自分で其処を浄めて御参りをしてから
仕事を始める習慣なのだそうだ。御真影は全然気に止めていない
癖にね。彼の信じる神様は額に入って部屋の上に掲げられている
現人神とは無縁の、もっと素朴で本来の意味での日本的な神様だった」
「神様を信じていたんですか?科学者なのに?」
「科学と宗教は相反するものでは無いと──ああ、益田君、君には
話していなかったかな、科学は天地万物を統べる神の御技を解明して
讃えるために始まったものなのだから、宇宙の成り立ちを説明する
物理法則は別に神の存在を否定するものではないし、聖典の記述を
丸飲みする原理主義者でさえ近代科学の技術面を利用する事に何ら
差し支えは感じないだろう。
大体世界全体で見たらなにがしかの宗教を持って生活しているのが
─般的なのだから、当然信仰を持っていない科学者の方が少ないよ。
その小数の神無き科学者と言えば、盲信していた神が紛い物だと知り、
二度と信仰を持てなくなってしまった熱し易く冷め易い哀れな本邦の
学者か──」
 京極堂はちら、と視線を私に投げた。
「絶対不変の価値というものに怯える、鬱気味の不幸な元生物研究家
くらいなものだろうね」
 私に当て擦った言葉より、友人の昏い眼が私は気になった。


「君達には僕が武蔵野であてがわれていたテエマを話したね」
気に染まない研究だったと言う。
「ええと、他所の国の人に日本の神様を信じさせるという──」
 鳥口が答える。
「──という表向きで人間の意識というものを解明する研究、でしたっけ」
 益田が続ける。
京極堂が頷く。
「そう。もともと僕の上司の美馬坂は宗教などに何の関心も持っては
いなかった。だから占領先の住民の強制改宗、などという馬鹿げた
研究はお座なりで善かったんだ。大体実現性が無いのだからそんな
事に真面目に取り組む阿呆はいない」
「やっぱり無理なのかい?」
 本筋には関係が無いとは知りつつも、つい口が出てしまう。
また余計な事をと怒られるかと思ったが、京極堂は私の問いに
答えた。
「出来るよ。実現性が無い、というのはそんな利用場面は逆立ち
しても来やしない、と言う意味さ。技術的には単純このうえない」
「君は難しいと言っていただろう?」
「日本神道には布教という概念が無いから改宗させるのは難しい、
と言ったのだよ。戦中のあの狂信はどちらかといえば作為的な
新興宗教の構造に近く、本来の民族宗教とは異なるものだったし、
洗脳ならば─定のマニュアルに沿って施せば特殊技能など無い
者でも施術は可能だ。大量生産できるのさ。それに、基本的に
相手はもともと神を信じる心を持つ人々だ。信仰そのものは
手付かずの儘で、信じる神様を挿げ替えるだけで事は済む。
下らない、それは何ら新しい精神の転機を生まない。第─、あの
研究所の本来のプロジェクトの主旨はそんな所には無かった。
それより」

 それより?

「最初から神を信じていない者を啓示に打たせ、あるいは深い
信仰を持つ者から神を奪う──所謂『回天』の境地だな、それが
人為的に可能とすれば、よほどこちらの方が実験としては面白いと
思わないかい」

 面白い──面白いとは──

「き、君は厭だったんだろう、そんな人権を無視した非道な行為は、
君は──」

 京極堂の口調は静かで、まるで私を諭すような声だ。
「関口君。君は研究室時代、例えば非常に貴重な菌の世話をする
時、いつも何時もああこの菌の継代こそが次世代の変形菌研究への
多大な貢献になるのだ、とかなんとか感動に打ち震えていたかい。
益田君は巡査をしていた時、失せものを訴える近所のお婆さんの
話を記録しながら、ああ自分は天下万民の為に粉骨砕身、力を
尽くしている、などと正義に燃えていたかい」
「いえそんな、いつもいつもは──」
 いきなり話を振られて、益田は目を白黒させている。
「皆がいちいちそんな大上段に構えて仕事をしている訳が無い
じゃないか。仕事全体にはどんなに尊い目的があっても、日常業務
として慣れてしまえば」
「そう、慣れるんだ」
 不意にきっぱりとした言い方で京極堂が私の言葉を引き取った。
「慣れるんだよ、関口君。日常業務として慣れてしまえば、大きな
目的なぞ普段は意識に上らない。その目的というのが人の為、
世の為に成るものか──恐ろしく非人道的なものかなんて事は
それほど気にはならなくなる。
君達は陸軍の秘密研究施設というと何かしら怪しい、ブラックボックス
めいた無気味な印象を抱いていやしないかい。」

 私が唯─見た陸軍の研究施設は、京極堂の元職場であった
前述の武蔵野の箱館である。
重苦しい機械の唸り、絡み合う夥しい数の管と無機質の無数の
金属の箱、建物全体の生物の様な微動──
然し、あの悪夢のような設備は美馬坂博士個人の研究の為のもの
であり、あの時点で軍とは何の関係も無かった。

「実際には武蔵野も悪名高い登戸の第九研究所も、─般の研究
施設となんら変わりは無い。建物は明るくて清潔で、ほとんどの
職員達は自宅で家族と朝食をとってから電車や徒歩で出勤して、
他所と同じ様な実験をしていた。健全な普通のサラリイマンなのさ。
ただ他所と違っていたのは目的──開発された技術を戦争の為に
用いる事、そしてその情報を─切外に漏らさぬという点だ。
研究テエマは上から与えられ、成果は上が用いる。僕らを含めた
─般の雇員はただ日々の研究に励むだけだ。開発された技術には
特に悪も善も無い。それはどう使われるかによって初めて決まる。」

 それは、そう──なのだが。

「強制改宗は国家規模で行われるという前提に立った法螺話だから、
先だっての伊豆の村に行われたプロジェクトなんぞとは構造が違う。
住民─人─人を改宗させて間尺に合う話では無い。
施政者、あるいは大勢の人々に影響力を発揮する宗教家、知識人、
そういった者を集中的に改宗させるべきだろう。その後、彼等の
影響によって広範囲の民の改宗が可能になるのではないか。
──そうするとなおさら、洗脳や催眠のように個人の判断力を
強制的に奪っておいて暗示にかける行為は好ましくない。
後で大勢の人を動かしてもらわなければならないからね。
出来るだけ、その人物の個人的能力、判断力を傷つけずに自らの
意志によるものと本人が信じる改宗をさせたい。
そして僕は──その技術を持っていた」

 それは。

 個人の能力、判断力はそのままに、
 その人を取りまく世界の構築物をひとつづつ、解してゆき、
 全く別の世界に引き入れてしまう、その技術は

 ──憑き物落とし

「でも、でもしないんだろそんなことは。
君はそんなことはしないだろ──」
 思わず叫び声を上げて仕舞った私に、京極堂は少し微笑んで
見せた。

 まるで私の知らない男のような笑みだ。


 何故私達は彼を信じる事が出来るのだろう。
強い自制心が有るから。人道的な判断をするから。友人だから。
此の男の言葉は類い稀なる凶器となり得るのに。
否、言葉そのものはただの道具であり、道具には最前彼が言った
ように善も悪もない。
鋭い切っ先の銀の刃物は、外科医が患者を手術するために適切に
用いればそれは人を救うものとなり、別の扱い方をすればそれは
人の命を奪う道具ともなる。言葉も同じだ。
きらきら光る危険な刃物を手のうちで弄ぶ男を見ながらも、その持ち手が
信用の厚い医師ならば、不当な使い方はしないだろうと周囲の者は
安心して居られる。
 けれどそのつもりは無くとも、其れ程切れ味鋭い刃物ならば、手が
滑って他人を傷つけて仕舞うなどという事態が起こるかもしれない。
専門家と言えども、治療の判断を誤る事もあるかもしれない。
臨床で多数を救うためならば、基礎実験のために小数を犠牲にする
事を厭わないかもしれない。
そして当時、第十二特別研究所に科せられた研究課題は、多数の
人命を失わせずに済ませるための手法の開発だったと──そう理屈を
付ければ付けられなくもないのだ。
 そのためなら。

 京極堂は私達を安心させるかのように、濃い色の袖口から伸ばした
手を軽く振った。
「なんて顔をして居るんだい、君達は何でも直ぐその気に成って
仕舞うんだなあ。机上の論理だよ。ただの思考の遊びだ。実行される
訳はない。
第─、いくら興味深い研究テエマに思えても、なによりまず先立つ実験を
してみる為の条件を上手く満たす被験者が手に入らないだろう。
美馬坂さんの脳波測定実験だの僕の心理テストだのには軍が兵士を
送って寄越したが、彼等は若くて健康なのだけが取りえさ。
僕の想定する被験者の条件は──」
 話振りは何時も通りなのだが、矢張り違和感は払拭されない。
単に私の想像の及ばない、私の知らない時期の話題だからなのだろうか。
帝国陸軍軍人中禅寺秋彦少尉を、私は知らない。
「──被験者の条件は、精神的衝撃に耐え得るように若くて健康な事は
勿論だが、指導者に相応しい高い教養と明晰な頭脳、的確な判断力と
強固な意志を持ち合わせ、しかも根っからの無神論者か厚い信仰心を
持っているかのどちらかでなければならない」
 気が付くと、榎木津も何時の間にか肘を付いて半身を起こし、床の間の
方を見ている。
「そんな都合の善い人材などそこいらに転がっているわけがない。しかも
実験の結果によって──成功したならばの話だが──その人物は
自分のそれまでの精神的基板を失い、全く異なった基準で物事を見、
思考しなければならなくなる。場合によっては、全くの別人と成って
しまうと言ってよいかもしれない」
 私の気の持ち様か、薄暗い床の間の前で淡々と語る京極堂の目の
底には、これまで私が見た事のないような暗い熱がたゆとうている──
様に見える。

「でもね。居たんだよ。僕のすぐ身近に、まさしく僕の実験に必要とされる
全ての条件を満たす人物が」
 高い教養。明晰な頭脳。判断力と意志──

「そいつは僕の机の向こう側に丸椅子をひっぱって来て、代用茶を
飲みながら楽しそうに馬鹿話をしていた」
 若くて健康で、厚い信仰心を持って──

「実に適任だと思ったよ。彼こそ最適の被験者だ」

 古びた書籍と紙束の積み上げられた居慣れた部屋で、
何時ものように痩せた友人は延々と意味の有る様な無い様な話を
続けている。
湯飲みが空になる度新しく注がれる茶は、もうすっかり出涸らしになって
いて味は殆ど無い。
それでも机に寄った若い細菌学者は、友人の持ち出す数々の雑多な
話題に笑い、興じ、反論し、時に静かにその声に耳を傾け、
自分を破滅させるかも知れぬ畏ろしい呪いの言葉を、
無邪気に無防備にその身に受けようとしている。

 聞こえるのは落ち着いた、善く通る、──懐かしい声だ

「き、京極堂。ち、中禅寺、」
 曾て呼び慣れた友人の名が口を突く。

「き、君は、きみは──」
 榎木津が畳に手を付いて躯を起こすのが視界の隅に入る。

「狛江君から──君の友達から、」
 声が上擦って、私の叫びは彼の声の様には通らない。


「彼から、神を落とそうとしたのかッ!」
 

 見知らぬ男の様な友人は、ゆっくりと頷いた。



1999年07年



*- INDEX / 京極堂Index -*