「呪術師の聲 −まじないしのこえ−」 序章  


──僕は君に礼を言わなければならない。
 そう中禅寺は言った。

 ──君が思い出させてくれなければ、僕には一生忘れ続けている事が
あったのだ。

 そして常日頃気難し気に見える古書肆は、静かに感謝の言葉を述べた。

 益田龍一は、困惑した。
益田は今日、子供の頃に自身が遭遇した不可思議な出来事の解釈を
求めて、この坂の上の古書店の主を訪れた。居合わせた数人の馴染み客も
訝る不思議を、主はあっさりと説明してみせた。判ってみれば何の事は無い、
益田の出会った男とその目的とする処を、中禅寺は以前から知っていたので
ある。それは純然たる偶然に他ならない。
それでも、気にかかっていた事柄をすっきりと解決して貰ったのだから、本来
礼を言うのはこちらである。中禅寺が何に対して自分に感謝しているのか、
若い探偵助手には見当も付かなかった。

「思い出したって、何をだい?」
 返答に困っている益田を見かねたのか、単なる何時もの好奇心からか、
傍らの小説家が横合いから尋ねる。
「君には関係ない」
 中禅寺は付き合いの長い友人──本人は単なる知人だと言い張っている
──を横目で睨んだ後、視線を直ぐ益田に戻した。
「僕は、益田君に話している。君は黙っていたまえ」
 益田は、ますます困惑した。
元刑事であり探偵助手である益田は、これまでにも何度か中禅寺の元を
訪れている。それはこの博識な古書肆の意見を求めるためか、あるいは──
稀代の陰陽師を切り札として呼び出すためか──いずれにしても、こちらから
「求める」姿勢であり、「請う」立場であった。
しかし今のこれは、如何なるポジションであるのか。
率直に言ってよほどの切羽詰まった状態で無い限り、中禅寺の話を己一人
で受け止める自信が益田には未だ無い。大変な神経の集中を強いられる
からである。必要とあれば相手に対して懇切丁寧に、執拗なばかりに説明を
施す中禅寺だが──それは当然で、相手に理解させられなければ彼の呪は
全く効果が発揮されないのだ──、普段の仲間うちでの打ち解けた会話等
でも、殆ど益田などの許容量を遥かに超えた、また縁もゆかりも無さそうな
凄まじい情報の氾濫を起こすのは常の事である。
そのような主の長口舌に対し、榎木津のように碌に聞かないか、鳥口のように
惚けるか、木場の様に必要な事だけ聞きに来てすぐ去るか──付き合いの
一番浅い益田は、この座敷を訪れる客としての自分の取るべき態度を
いまだに決めかねている。最近外交的にとり始めた「考えの浅い軽薄な
若者」の気楽なポォズは、今更中禅寺には通用しない。
その点関口は──益田は傍らの頼りなげな小説家をそっと見る──常に
罵言を浴びせられながらも、話の中の理解し難い点は問い、難しい時には
補足し、時には対等に言い返し、怒涛のような友人の講釈を同席した他の者
にもかなり理解しやすく咀嚼して見せ、悉く吸収してしまう。何時も一方的に
言い負かされている印象はあるのだが、実際にはこんな離れ業が出来る
のは、益田の知る範囲においては関口しか居ない。
そういった意味でこの全く実戦的ではない、うだつのあがらぬ作家が饒舌な
古書肆の傍らに居ると、益田はなんともいえず気が楽になるのだった。
 だから、間に関口という緩衝を介しないまま直接的にこの主の多弁に
対さなければならない状況というのは、歳若い益田にとって正直荷が
重かった。

 その時突然、恰も何か答えなければと内心焦っている青年の窮地を救う
かのごとく、一同の囲む座卓の一方が勢い善く跳ね上がった。
ほこりと共に積み上げられた大量の古い冊子が畳に崩れ落ちる。一同は
慌てて転がる空の湯呑みを受け止めた。
驚愕する衆生を見下ろし、そこに長身の探偵の大声が高みから響く。
「よし!皆、喉が乾いただろう、今回は僕がじきじきに茶をいれてきてやろう、
特別だぞ──」
それまでだらしなく座卓にもたれていた榎木津が、急に立ち上がろうと卓の
端に体重をかけた結果の惨事の様である。
「あ、いや榎さん、僕がやるよ。あんた茶筒の在り処判らないだろう」
部屋を出ようとする榎木津の足に縋るように、関口も慌てて立とうとする。
「僕に判らないコトなどあるものかッ、」
「あああっ、お二人は座ってて下さい、お茶なら僕が──」
遅れじと身体を起こした鳥口はしかし、座卓でしたたか向こう脛を打ちつけて、
前のめりになったまま後の言葉が続かなくなった。

「騒々しい、座らないか!」
 主の大音声が、障子の桟を震わさんばかりに響き渡る。
立ち騒いでいた三人は、へたりこむようにほこりの舞い立つ畳の上に腰を
落とした。全体何が起こったのかまるで理解出来ないまま、益田もまた声も
無く成り行きを見守る。
脛を抱え込んだ鳥口の呻き声と関口の咳き込む声が、静まり返った座敷に
きれぎれに聞こえる。間の悪い小説家は、舞い散ったほこりをまともに
吸い込んでしまったらしい。
「けど京極──」
 気不味い沈黙の後、榎木津が珍しく控えめな声を出した。
「──話すんだろ?その、」
 薄く目を細めている。
「箱に居た時の事を」

 漸く益田は彼等のとった突然の行動の意味を悟った。
三人とも、この場から逃げ出す積りだったのだ。
これから語られるであろう過去の物語を、聞きたくなかったのだ。
 「箱」の──武蔵野の医学研究所の事は、相模湖で起きた怪奇な事件との
繋がりが深かったため、当然国家警察神奈川県本部の刑事だった益田も
聞き知っている。
其処は戦時中陸軍の特別研究施設であり、中禅寺はそこで働いていた
のだと──これは刑事を辞めてから聞いた話である。
そして益田が自分の古い体験を語る事によって引き出した、中禅寺が
「忘れていた事」というのは、その頃に関わる事柄の様だ。
楽しい話ではないのかもしれない。
自分を含めて彼等も皆逃げ遅れたのだと、益田は密かに嘆息した。

「なんだい君達は、僕が益田君に世にも恐ろしい僕の過去の悪行を語って
聞かせるとでも思ったのかい」
 不機嫌である。眉間の皺が、薄い本なら挟めそうな程に深い──などと
益田は凶悪な面相の古本屋の額に目を遣ってぼんやり考える。
「僕は懺悔は嫌いだよ。聞かされる相手が神様か特殊な訓練を受けた
聖職者ならまだしも、一般の人間に自分の罪深さを語るなど、
してはならない事だろう。語る方は自分の重荷を吐き出す事で救われる
かもしれないさ。救済のための装置としては効果的だ。けれど、聞かされる
方はたまったもんじゃない。何を好き好んで人の苦痛を背負い込まなけりゃ
ならない?僕は絶対に神父なんぞには成りたくないね」
「君はもともと神職じゃないか。今更カトリックに用はないだろう」
 よくもこんな険悪な様子の相手に茶々を入れられるものだ、と益田は妙な
尊敬を関口に対して抱く。自分なら今の一睨みで此の場に昏倒しても
不思議ではない。
「関口君。君はそんなに『蒐集者』に成りたいのか?」
「何だい。あれは神主の話だったじゃないか、其れで無くとも君は昔っから
人の話を聞いてやるのが」
「煩いなあ、だから僕が懺悔を聞くとか聞かないとかという話ではなくて、
僕自身は懺悔などしない、と言っているのだよ。君達が僕の陸軍時代に
対してどんな事を想像しているかは大体見当が付くが、僕には君達に態々
話す事など特に無い。
関口君、君が茶をいれ替えてきてくれ。其の儘夜まで台所に居て呉れて
構わないよ」
 関口は一瞬何か言い返そうとした様だったが、思い直したように背を
屈めて何か口の中で呟きながら各人の湯飲みを集め始めた。咳き込んだ
ので茶が飲みたいのだろう。しかも益田がここを訪れてからは皆ずっと
喋り通しだったので、全員喉が乾いているのも事実だ。古書店主はやや
声を和らげて、一人で話続ける。
「心配は要らないよ、実際には僕はそんなに大それた事をしでかした
覚えは無いし、第一まだひょっとしたら前途が有るかもしれない若者に
人生を歪めてしまうような嫌な話は聞かせるつもりはない。」
 ひょっとしたら、は余分な気もするが、前途有る若者というのは自分の
事なのだろうかと思って、益田は慌てて顔を床の間の主の方に向ける。
「もし僕が実際に人の道に外れた酷い所業を行っていたとしても、他人
なんぞに聞かせるものか。聞かされた人が迷惑するだけじゃあないか。
語らずに済ませられるものならば、語らずに済ませるのが一番善い。
そうは思わないかい益田君」
 中禅寺は──笑っている。
ただ、感情が表面に現れ難い質の男の真情は判らない。
大分見慣れて来たお陰で、普段ならこの愛想の無い古書肆の機嫌の
善し悪しくらいは益田にも判別出来るようになったのだが、それでも未だ
意図的に感情を抑えられてしまうと、自分等には見分けが付かないに
違いないと思う。
果たしてこの男は楽しんでいるのか怒っているのか、──哀しんで
いるのか。
 益田は関口を振り返ったが、彼はもうすでに空いた湯飲みを持って
厨に向かったのだろう、座敷の中には姿が無かった。

 不意に、心細くなる。
伊豆の事件の際、益田達は中禅寺を信じ切れなかった。
説明を拒み、じっと行動を起こさずにいる中禅寺に苛立ち、逆らい、
僅かに──疑った。
姿を消していた榎木津が戻って来て、友人の置かれた苦境を説明
するまで、彼等は空回りを続け、結果中禅寺を苦しめた。
何故、自分は最も信ずべき人を信じ得なかったのか、と鳥口などは
己を責めた。
仕方が無かったのだ、と益田は思う。
あの時は。
関口が、居なかったのだから。

関口がもしあの場に居れば、おそらく事の真相は知らずとも長い
付き合いの友人の異常に気付き、心配そうに彼等に語った事だろう。

 ──京極堂はなんだか変だね
 ──なにかとても、辛そうだ

 それだけで、自分達はきっとあの人の事を信じる事が出来たのに。
そう思った。

 自分と鳥口は、中禅寺という男の人間性を疑ってはいない。
もし又何か大事が起こっても、今度は躊躇せず彼の言葉を信じ、
従おうと決めている。
けれど、彼の過去までは。
あの狂気の時代、極めて特殊な環境に居た若い中禅寺少尉の事
までは、信じきれるだろうか。

「そのメガネは同僚だったのか」
 物思いに耽っていた益田は、榎木津の声で我に帰った。
「所属が違うので同僚ではないが、そうだな──」
 榎木津が中禅寺の背後に見ているのは、益田が子供の頃に
出会った男だろう。軽く落とした目蓋の下の明るい鳶色の瞳は、
硝子玉のように固定して動かない。
「──友人かな」
 榎木津は少し眉を寄せている。忘れられていた男の意味を考えて
いるのかもしれない。意味は榎木津にも見えないから、考えるしかない。

やがて小さく鼻を鳴らすと、榎木津は頭上に両手を伸ばして畳の上に
寝転がってしまった。最前座卓から滑り落ちた冊子の一冊が、脇腹の
下敷きになったが意に介さない。鳥口が冊子を引き抜こうとしたが、
榎木津が動こうとしないので、無理に力を加えると傷んだ紙が破れ
そうになる。
「うへぇ大将、ちっと寄って下さいよぅ」
榎木津は伸ばした長い腕を円を描くように態々横に広げて、踏ん張った。
「イヤダ!僕は此処で寝ると決めたのだ。一歩も譲らないぞ」
「一寸で善いですから、ほらぁ、師匠が睨んでる」

だが。 
中禅寺は騒ぎ立てる二人の方を見ていはしなかった。
その事に気付いて、益田は覚悟を決めた。

 ──今、中禅寺さんは僕に話そうとしている。

 頼ってはいけない。榎木津にも、関口にも。
何が語られるのかは判らない。
人並み外れた記憶力を誇る中禅寺が忘れていたくらいの事なのだから、
案外本当に下らない事なのかもしれない。
自分達はあらぬ妄想を巡らせて、きっと勝手に過去の恐ろしいイメェジを
抱いているのだ。
話を聞く事なら、自分にだって出来る。

 益田は目に掛かる前髪を払い除けて、真直ぐ中禅寺を見返す。

 それでも。

 少し、怖い。




1999年07年



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