「華鬼」 前 編   


 花の季節が来る。
人々は皆心も漫ろに浮かれ騒めき、街を埋める花を見上げ、
その美麗を称え潔さに感銘し、眺め歌い酔う事だろう。
私は光を閉ざした暗い部屋の中で、その禍々しい狂乱が
過ぎるのを、息を詰めて耐えている。
人々の声は聞こえない。宴の音曲もここからは遠い。
ただ、無数の花の開く音が、私の周囲を押し包む。

「君は──桜が怖いのかい」
暗闇の中で友人が私にそう言った。

そうだ。
私はあの花がおそろしい。畏ろしくてたまらない。
君は、君は畏ろしくはないのか。
あの花は──あの臈たけた白い花木は。


                *

 はじまりは二日前だ。
数日の間家に籠り切りで書いていた小原稿が、私には
珍しく期限よりやや早めに仕上がったので、散歩を兼ねて
自分で神田の出版社に届けに行った帰りの事である。
いたく恐縮する編集長の元を辞した後、仕事を終えた
解放感も手伝って、なにかしら浮き立つ様な心持ちで
私は神田川沿いを歩いていた。僅かな間に世間はすっかり
春めいて、暖かな日射しが凝り固まっていた身体を心地好く
解してゆく。私は和やかな気分で散策を楽しんだ。
 少し行くと、緑色の神田川の水面に映える真っ白な光の
塊が目に入った。とっさの距離感が掴めないほど明るい。
あらためて目の焦点を会わせると、それは日当たりの加減
なのか、他の樹に先駆けて満開となった桜の樹であった。
今も麗らかな陽を受けて、桜色というよりは白に近いほどに
輝いて見える。私は近くまで寄って見上げ、ごく素朴に
賛嘆した。
 川面が風で波立つ。
咲き揃ったばかりの若い花々は少々の風では揺るがない。
その時も散った花弁は僅かなものであった。数枚の花びらが
くるくると回るのを目で追っていると、突然私は、故知らぬ
胸苦しさを覚えた。ふいの事に訝る私の視界の中で、花弁が
雪の様に滲む。目を擦ってみた私は愕然とした。
私は、私は──泪を流している。
往来での覚えの無い泪に私はただ狼狽し、逃げるように
人目のない路地に滑り込んだ。

 理由が無い訳ではない。私の内には、満開の桜の鮮烈な
印象がある。
まさに一年前、降るしきる桜吹雪の中私は──私達は、
桜の化身のようなたおやかな婦人にあい見みえた。
しかしその桜の婦人は、間もなく非業の最期を遂げたのだ。
私は、その事件に無関係ではない。それどころか──。
私はその事件で受けた己の精神的な傷を癒すために、
そのときの桜の印象までも心の奥底に押し込めていたのだ
ろうか。自覚はない。感慨すらも無かった。ただ、満開の
桜を見た瞬間、私の意志とは別に私の身体だけが激しい
動揺を示したのだ。これと似た感触は、以前にもあった。
あの、暑い夏の日にも。
その後私がどうやって家まで辿り付いたのか、はっきりとは
憶えていない。

 翌日、私は資料として借りていた本を友人に返すために、
昼近くに家を出た。少しその友人と話したい事もあった。
薄曇りの柔らかな空の下、私の家の前から最初の角にあたる
宅の塀越しに、七分ばかりに開いた桜がほんのり紅らんでいる。
私は前日の動揺を思い出さぬよう、努めて気を鎮めながら
桜の傍らを過ぎようとした。
しかし、その瞬間を待ち構えてでもいたかのように、私は再び
身体に違和感を覚えた。それは微かなものであったが、まるで
桜樹から何かが私に覆い被さってきたかのようだ。それは
本当に幽かな、淡い、蜘蛛の糸の様な何物かではあったのだが。
 私は慌てて自宅にとって返し、動悸が治まるのをひたすら待った。

 気の迷い、であろうとは思う。桜の連想から神経が過敏になって
いるに過ぎない。私は臆病な自分を嗤うと、午後遅くあらためて
表に出てみた。
通りに立って見はるかすと、重く垂れ込めた雲の下に角の家の桜が
白っぽく浮かぶ。午前よりもいくぶん花が開いているようだ。
近付く程に一つ一つの花が音を立てて、私の目の前でみるみる
開いていくような気がする。
私の足はそれ以上は進まなかった。

 夜半には雨になった。
風混じりの雨が、汚れた硝子窓を叩いている。
その音を聞くともなしに聞きながら、私は寝床の中で目を開いて
いた。樹木は魂が宿るという。齢重ねし古木は怪を成すという。
私は桜樹に祟られてしまったのだろうか。
馬鹿げている。私が何をしたと云うのだろう。私は桜に恨まれる
様な事はした覚えは無い。もちろん私は、自分が桜の精の類いに
祟られたなどと心底考えている訳では無い。日本人は古来より
この花に特別の思い入れを持って、花の時期になるとそれこそ
とり憑かれたようにもの狂おしく騒めき、浮き足立つが、私個人
としては咲けば綺麗だ、といった通り一辺倒の感想しか持って
いない。文学を志す者としては失格かもしれないが、戦争中に
無理矢理かの花のごとくあれと言い聞かされてきた反発もあって、
無意識に特別な思い入れを拒んでいるのかも知れない。事実、
戦時の記憶ゆえにこの花を憎む者達も世間には多い。私の友人の
部下であった若い刑事などは、その苛烈な経験を思い出させる
花など見たくもないと、心の底では思っているかもしれない。
 私の、この「桜の祟り」は純粋に私個人の心理的なものだと思う。
やはり私の心が、あの事件を思い起こす事を無意識下で恐れて
いるのだろう。
祟るというなら、私が記憶の底に沈めたあの婦人の面影が祟って
いるのだ。
呪うというのなら、私の心が私自身の怯懦を呪っているのだ。
何故。祟るなら私などではなく、貴女を手にかけたその男に
祟るがよい。
呪うならば、貴女を生贄に選んだかの男を呪うがよい。
恨むならば、貴女の秘密を知ったあの男を恨むがよい。
何故私だけが苦しむのか。
尤も、あの男共のもとに化けて出てみたところで、倍返しの目に
合うだけだろうと思うと、少し可笑しかった。
結局、自分の心が生み出した幽鬼の類に付け入られる程、
私自身が弱いのだ。

 風が少し強くなってきた。
雨戸を閉めなかった事を意識の隅で後悔しながら、私は闇を
仰視する。
私が生きているあの婦人に合ったのは、一度限りの事である。
桜の海に囲まれた館で紅茶を振る舞われ、和やかに僅かな言葉を
交わした。
けれど。
あのときの友人と彼女との話を共に知る事により、おそらく私は
この世で二番目に彼女を善く知る者となってしまった。
その戦慄すべき彼女の真実を、私達は世間には秘した。親しい
友人達にも語らなかった。そのことによって私は、自分では予想
だにしなかった事だが、彼女にとって共犯者的な──この世で
二番目に「親密」な存在と成った、と言える。
なぜ、友人は私が同行するのを許したのだろう。
なぜ私にあの秘密を聞かせたのだろう。
そのせいで、私はあの人を知ってしまった。
そのせいで、私はあんな信じられないようなおそろしいことを。
私は山中であの女を縊り、木に吊るし──違う。あれは私が
やった事ではない。やったのはもうひとりのわたしだ。
私はただそれを見ていただけなのだ。
そして私は──違う、違う違う違う。
私は酷く混乱している。やっと私はあの崩壊した意識から脱して、
元の自分を取り戻したというのに。取り戻した元の私というのは
どれだろう。先輩の使いで、あのひとの所に手紙を届けに行った
学生が、もとのわたしなのではないだろうか。だとしたらやはり
その細い白い頸にこの手をかけるのがほんとうのわたしだ。
私は──ああ、やはり、混乱している。
 窓をかすかに叩く音がする。
雨に濡れた桜の花びらが、風に煽られて硝子を打つのだ。
はたはた。はたはた。
間をおいて、しのびやかに、音は続く。
闇の中から白い腕が伸びて、白い十の指先がそっと硝子を打つ。
腕はさかさまに吊るされた白い女のからだからのびている。
おどろに垂れた濡れ髪が風の中で大きく揺れる。
白い花びらのような指先が硝子を叩く。
はたはた。はたはた。
雨戸を閉めておくべきだった、と私は後悔する。

 恐ろしい煩悶の一夜が過ぎた。
けれど、明け方近くになって周囲が明るくなってくると、片隅に
追いやられていた私の理性も流石に意識の表層に戻って来た。
馬鹿馬鹿しい。怖い話を思い出して眠れなかった子供の頃と同じだ。
私はすでにあの事件の影響から完全に回復し、恙無く日常を送って
来たではないか。詰まらぬ事を思い過ごすのは止して、今日こそは
友人に本を返しに出かけよう。
ゆうべの風雨で枯葉等の張り付いた窓を勢い良く開け、私は朝日の
射し込む雨あがりの庭を見た。

隣家の低い塀との間の黒い地面の上に、しっとりと濡れた白い首が
落ちている。

私は雨戸を閉ざした。


 もとより首なぞ落ちている訳がない。次の瞬間、首は雨を含んで
重くなった一叢の桜の花枝の姿に戻った。昨夜の風で折れた桜の
房を、寝不足の朦朧とした目が見間違えたのだ。
 けれど私はもう外を窺う気力がなかった。
おそらく雨あがりの温気に東京中の桜は次々と開き始めるだろう。
こうして私が家中の戸を閉ざして暗がりに座っている間にも、
穏やかな春の日射しの中で遠くの桜が、近くの桜が、角の家の桜が、
隣の家の桜までが、悉く咲き開き、白い眩い花雲がひしひしと私の
家の周囲を埋め尽くして行くだろう。そして日が長けるにつれ、
今度は──桜吹雪が。町中を覆い尽くし桜樹から遠く離れたところ
にも吹き寄せる
あの桜色の花弁が、閉ざした雨戸の隙間からも忍び入り、
私の上に降り積もり、容赦なく私を──

怪訝そうな妻に、私は少し加減が悪いから、とだけ告げた。
春先の風邪は長引きますから大事になさって、と云い置いて妻は
出掛けた。

 暫くして──、いや、もう余程経っていたのかも知れない。
だとしたら昼頃だろうか、静まり返っていた表が俄に騒々しくなった。
嫌な予感がした。
玄関戸が柱に当って跳ね返るほど勢い良く開けられ、同時に聞き
慣れた大声が私の名を呼ばわる。
「居るんだろう!居留守を使っても無駄だぞ、靴があるじゃないかっ!
君は何足も靴を揃える程の甲斐性はないから、木を伝って出掛けたので
なければきっと家の中だな!」
いつにも増して力の入った素頓狂な声だ。きっと近所中の人々は、
何故私が木を伝って出掛けるのかと訝っている事だろう。
「外は暖かくて気持ちが佳いぞ!こんな日に家に籠っているなんて
勿体無い、供を申し付けるから有り難く──」
廊下を渡って来た大声が、襖を開けた。明け放してきた玄関から射す
淡い光に、彼の明るい色の髪がふわりと浮き上がる。
「ああ、どうしたんだ?随分昏い──」
晴れやかな声が、途絶えた。

私は再び胸苦しさを感じていた。
春の日射しを浴びて昂然と立つ長身白皙のこの男は、さながら咲き
誇る桜樹に値するだろう。私は今、桜には近付けない。──苦しい。
「悪いけど──今日は、」
私は漸く掠れる声で断わった。
いつもなら無理にも私を連れ回そうとする友人は、立ち竦んだまま
私の奥の室内を凝視している。
やがて彼は低く、私の名を呼んだ。
「関口──、」
この男が私の名を正確に呼ぶ事は滅多に無い。
私が答えずにいると、彼はふいに身を翻して出て行ってしまった。

 私は開き放しにされた襖を静かに閉じ、再び闇に座した。
明るい往来から急にこの雨戸の閉ざされた部屋に入ると、襖を開けても
中は真っ暗に見えたことだろう。
そしてその暗闇の中。
私の頭上いっぱいに爛漫と咲き誇る桜の大樹と
高く吊るされた女の白い姿を、
まざまざと彼は──榎木津は、目にしたに違いない。








「読者への挑戦」

さて、関口君に憑いたものは何だったのでしょう。
見事彼の憑き物を落として下さった方は、お名前を「華鬼・中編」
あるいは「後編」内で使わせていただくか、あとがきでコメントを
紹介させて頂きます。御了承下さい。
〆切りは中編UP前の今月19日(金)まで、
「ちょっとそこまで猫やまで」コメントコーナーにお願いします。
それでは皆様奮って関口君の憑き物を落としてやって下さいませ。
                            ナルシア


1999年03年



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