「不死の海月」 −後 編−  


ふしの、せいぶつ。

京極堂の発声は常に明瞭である。
聞き違えるということは、まず無い。
それでも私は一瞬の間の後、聞き直さずにはいられなかった。
「いるって、なにが?」
「だから、不死の生物だ。」
最前と同じ調子で京極堂が答える。
直後、榎木津の大音声が座卓の上の小鉢の類を揺るがした。
「いるのか!!死なないイキモノがっ!見たい、それは見たいぞッ」
「ほ、ほんとうかい京極堂、本当にそんな生物が、こ、こ、この世に、」
 生物は、いずれ死ぬから「生物」なのではないか。
そんな、常識を踏み外した生き物が本当に──
「正月早々喧しいぞ、君たちは。関口君、飲み終ったのならその盃を
卓の上に置きたまえ。上等の塗り物に脂をべたべた
つけるんじゃあない。」
 私は握り締めていた盃をやっと離し、もどかしくも話の続きを促す。
「そ、それはどんな生物だい。細菌か、植物か、あ、珪藻類かな、
まさか動物──」
「動物だよ。腔腸動物。クラゲの一種でベニクラゲという。」
 クラゲ──
水母──海月──くらげ?
「わはははっ、やっぱりクラゲかっ!そいつは目出たい、萬年生きる
亀よりずうっと目出たい!!干してそこの床の間に飾ろう!」
干しても水をかけたら元に戻るのか、と榎木津は目を輝かせながら
身を乗り出す。
「水母の体の九割九分は水だ。干したら消える。」
「嘘だ!中華料理で干したクラゲ食べるじゃないか。」
 種類が違う。
「干涸びたり傷付いたりしたらいかに紅海月でも死ぬよ。僕も詳しい
事は解らないが、その水母は成長して年老いたら、また若返って
成長を繰り返すのだそうだ。」
 え。ええっ?
「そ、それは同じ個体がかい?」
「同じ個体がだ。クラゲの一生を知っているかい?初め幼いクラゲは
海底の岩にくっ付いて植物のように過ごす。やがて成長すると
ぱらりと剥がれて、大海原に漂いだすのだ。そして子孫を残し、
体が老いてくると、海底に向かって静かに沈んで行く──」
 そこで普通ならば他の生物達等によって体が分解され、
永遠の虚無へと還って行く。
それが、万物不偏に訪れる死だ。
「しかし、この特異なクラゲは海底に着くとまた幼い体に戻って岩に
くっ付いて、また同じ成長の道筋を辿るのだ。不老ではないが、
永遠に生を繰り返す、不死の生物だ。」
 それは──それはまるで、老いた体を自ら祭壇の火に投じて
灰の中から新しい体に蘇るという、伝説の──
「そう、エジプトの霊鳥フェニックスのようなものだね。これからは
不死鳥のごとく蘇る、ではなくてベニクラゲのごとく蘇る、と言うと善い。」
語感が美しくない。いや、それより。
「そ、それって、不死かい?」
「体の構成物は同じものを使っている。繁殖ではない。古い体の成分が
新しい体を作るのさ。生物としては死んでいないだろう?」
「で、でも、記憶とか──」
 滔々と語っていた京極堂が片眉を上げて私を睨む。
「水母の記憶とは何だ?知覚はあっても水母に意識はないだろう。
ましてやいまわの際の老水母が、ああ、とんだ女にひっかかって今回の
儂の水母生はさんざんだったわい、なんて回顧すると思うのかい?」
 思う訳が無い。
私が聞きたかったのは「個」の存在だ。
水母だからといって皆同じではないのだから、その「個性」はどうなるのか。
「記憶」と言ってしまったのは、内側からの「個」の識別手段の事だ。
京極堂は少し目を細めてみせる。私の言いたいことは分かっているのだ。
「じゃあ、仮に君がベニクラゲ体質の不死男だったとしよう。
君は今、暗く苦しく空虚な長い人生の終焉を迎え、ひっそりと淋しく
横たわっている──」
 意を汲んでくれたのは善いが、形容詞は不必要だと思う。
「──君の老いさらばえた体の細胞のひとつひとつが変性を始め、
幼若化し、不必要な部分は剥がれ落ち、同じ構成物を再利用して
今新しい体が出来上がる────」
「わぁ、猿赤子だ。」
 何を想像したものか、榎木津が嬉しそうにうふふ、と笑う。
「さあ、できたてのほやほやの君だ。この君はその前の関口巽と
同じ人かい?」
「だから──記憶が」
「記憶は無い。」
 無い?
「皮膚も骨も筋肉も臓器も、みんな幼若化していくのに神経だけ
古いものが残るはずがない。人の意識や記憶はその多くを脳内に
張り巡らされた神経細胞の連絡網に依存する。これは本来の身体の
構造とは無関係に構築されていくものだから、体が初期の状態に
戻ればまっさきに御破算になる。僕達のことも、雪絵さんの事も、
売れなかった君の本の事も、新しい君は覚えちゃいない。
まっさらだ。だいたいその前に、老いた君の脳にそれらの事柄が
残っているかどうかすら疑わしいだろう。」

それは、私では──ない。

「記憶が無ければそれは君ではないのかい。若返らずとも、
今の君が記憶を失ったらそれは君ではないのかい。
逆に、君の記憶と意識さえあればその身体など無くとも
君は君だと言えるのかい──」
 京極堂の声がひどく暗鬱に聞こえる。
それは、幾度も繰り返された問いだ。
陰惨な思い出と結びついた問いだ。
私は彼と目を合さずに、かっての彼自身の言葉で反駁する。
「君は──以前、脳だけ取り出しても無意味だと、魂と身体は
不可分だと、自分で言っていたじゃないか──」
 あの、暗い道を突き進んでしまった天才科学者に。
京極堂の声は、いっそう低く、囁くばかりになる。
「言葉は相手によって使い分けるものさ。あれは、あの人の
ための言葉だ。
君はどう思うのだ。君自身がどう思うのかを言ってみ給え。
君が今でもその頼り無い、果敢ない君の記憶と意識だけが君自身の
存在の証しだと思っているのなら──」

 
私は、──いや、そうではない。
危うく返答する前に、私はこの問いの向けられた先──というより、
この問いによって引き出される私の答えの向けられた先に気が付いた。
冷たい汗が滲んでくるような気がした。
これは、私にではなく、彼が彼自身に向けた問いなのかも知れない。
 森羅万象を手中にする知識に依って、京極堂の存在の大部分は
成り立っている。
その知識と言葉を失う事は、他の人の場合はいざ知らず、彼自身に
とっては死に等しい事であろう。
 だが、彼は自分自身でそれを口にする事は出来ない。
 なぜなら、「精神の死」がその個人の死に当たると認めてしまえば、
「肉体の死」を与えることを厭って精神を操作する技術を手にした
彼等は──曾て武蔵野の研究所に所属していた研究員達は──

 やはり、ひとごろしになってしまうのではないか。

 いけない。
答えては、いけない。

 いや、彼は何もそんな事を私に尋ねていはしない。
私は何も、そんな事を彼に尋ねられている訳ではない。
私達はただ正月の座敷で座興に、縁起の良い珍しいクラゲの話を
していただけではないか。

 酔っている。
私は今、飲み慣れぬ正月の酒で、酔っているのだ。

 顔を見れば良い。
彼はきっといつもの仏頂面で──けれどけして不機嫌ではなく、
ただ例によって難解な話題でまた私をやり込めようとしているだけで、
いつも嵌められている私は自己防衛の為の屁理屈を絞りだしたに
過ぎないのだと──
顔を見れば、解るのに。


「ぼ、僕にはわからないよ──」
 笑おうとしてみる。
泣き出しそうになる。
たぶん、私は泣き上戸なのだ。


「新しい体は何も憶えていないのか?」
 ふいに榎木津の声が割って入る。
「そうだ。」
 少し不審そうに京極堂が答える。
「でも大きくなったら同じ顔になるんだろう?」
「だいたいね。」
 それじゃあ、と言いながら榎木津が大きい方の盃を卓に置くのが
視界の隅に映る。静かだと思ったら、不味いと言っていた屠蘇を
飲んでいたのだ。
「いずれ、猿と呼ばれる運命は変わらないじゃないか。やっぱり
猿君は永遠に猿なんだな。僕は何度生まれ変わってもやっぱり
僕だぞ、いいだろう!」
 機嫌良く更に盃に注ごうとするが、すでに酒器は空らしい。
「京極!味の付いて無い酒はないのか!」
「神殿にならある。」
 面倒臭そうに主が答える。
それは御神酒だろう。
さすがにどちらも、立ち上がって取りにいこうとはしない。
「僕は君達の事なんか憶えてなくても全然困らないぞ。
何にも憶えて無いほうが、いろいろややこしくなくて気持ちが好い!
新しい神に仕えたければ来てもいいが、僕は憶えてナイからな!
でもきっと間違いなく僕は僕だ!」
 晴れ晴れと捲し立てているが、なんだかよく判らない。
おそらく榎木津も酔っているのだ。
これしきのアルコホルでこの男が酔うはずはないから、屠蘇の薬効に
当たったのだろう。意味も無く、くすくす笑い続けている。 
 彼からは、京極堂の表情が見えている筈だ。
私は少し、安心する。 
 二人の方に顔を向けようとしたが、視界がひどくぐらぐらしてもう目を
開いていられない。失礼して少し畳の上に横にならせてもらうことにする。
 昏い海の底へ、疲れ果てた身体が沈んで行くような心持ちになる。 
やがて。

光の射さない水の底で、私の古い体の細胞のひとつひとつがゆっくりと
変性し──

ただでさえあやふやな記憶と、境界の不鮮明な意識がだんだんと
溶け出してゆき──

それは私が最も恐れていた瞬間のはずなのに、

今は──不思議なくらいにそれがとても心地好く安らかに感じられる。

 私の最後の存在が闇に消えようとする刹那、榎木津の声が
遠く聞こえた。
──だから、そんなに怖い顔をするな。

──元来こんな顔でね、と苦笑する京極堂の声も
微かに聞こえたような気がする。



 私が深海の眠りから再び蘇ったのは、京極堂の細君と私の妻とが
打ち揃って賑やかに初詣から戻って来た夕暮れ時のことだった。 
 彼女たちが座敷に入ったとき、そこには屍のような姿の私と榎木津と
おまけに猫が、討ち死にしたようにごろごろと畳の上に横たわって
いたという。そしてその傍らにはこの家の主人が、野晒しに回向する
雲水の如く本を片手に陰気に座っていたのだそうだ。
索漠とした光景だったに違いない。
 明治神宮は大層な人出でとても疲れたと言いながらも、晴れ着を
着飾った女性二人は華やいで大変満足そうである。
 一方の私は頭がぼうっとして、前後の事もよく憶えてはいなかった。
健康を守るための屠蘇を飲んだはずなのに、体がひどく重くて、
生まれ変わったような気分はまったくしない。
 畳の跡を顔に刻んだ私とねぼけまなこに寝癖髪の榎木津が、
それぞれ御婦人達になんとも締まらない新年の挨拶をする。

 旧年中はいろいろと御迷惑をお掛け致しました。
本年もどうか宜しくお願い致します。

「今年もか。」
傍らの古書肆が、本から顔をあげもせずに溜め息のように呟いた。


──不死の海月・終──



1999年01年



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