「不死の海月」 − 前 編−  


 その日、京極堂には先客がいた。
 一年前の丁度同じ日には、京極堂の同業者である宮村氏が
にこやかに座して初対面の私を迎えた。
先生と呼ばれる温和な宮村氏は、いまにも扇子を携えて高座に
上りそうな程和服姿が板に付いていて、いかにも正月らしい
穏やかな空気が座敷に薫っていたものだった。
 それが今年は。

 細君の留守はあらかじめ知っていたので、私は玄関先で一声
かけただけで訪ね慣れた友人の家に遠慮なく上がり込み、
いつもの座敷へ向った。
「おおっ!猿回しの猿が猿回しに連れられずにやって来たぞ!
こいつは春から縁起が佳い!そら、おひねりをあげようッ!」
 障子を開けると、素頓狂な声とともに何か小さな塊が飛んで来た。
思わず両手で受ける。
干し柿だ。
「座敷で物を投げるものではない。ましてや食べ物を投げるなど
以ての外だ。関口君、食べたければ食べても良いが、それは
うちの縁起物だから心して味わい給え。」
 白い粉をふいた干し柿から顔を上げると、襟の広い鮮紅色の
絹のシャツに白いチョッキとズボンという目出たい配色の上機嫌な
探偵と、いつもよりやや上物らしい利休色の着物姿の古書肆が、
特に正月らしい顔付きでもなく定位置に座って居た。
ただ主の背後の見なれた床の間が、少し通常と異なっている。
普段から堆く積まれている古書旧籍の類いがいくぶん片付けられて、
空いた隙間に白木の三宝が押し込まれ、半紙に裏白、鏡餅、
譲り葉や橙等がそれらしく載っている。細君の苦闘の賜物であろう。
これでこそ床の間というものだ、やればできるじゃないか、
と少し感動する。ここの主は神職のくせに、神聖なはずのモノに
対して普段はひどく無頓着なところがあるのだ。
 二人に向かって年始の挨拶をうやむやに済ますと、榎木津が
朱塗りの盃を押し付けて来た。
「飲め!不味いぞ!こいつはすごく不味い!」
 座卓の上には、この家ではこれまで見た事も無い立派な
三つ重ねの盃と酒器が、揃いの蒔絵の台に載っている。
「京極堂、こ、これ、まさか神社の、」
「何を言い出すんだ、君は。いくらなんでもこんな所で三三九度の
盃を流用したりするものか。これは以前、千鶴子が実家から
持って来たものだ。歳経りた器物はいずれ化けて夜行するから、
その前に少しは使って遣ろうと思ったのさ。」
 自らは飲まない主人も、軽く眉を顰めて私に飲めと促す。
「飲め、関君!すっっごく不味いから!」
 嬉しそうに勧める榎木津から盃を受け取り、私はおそるおそる
透き通った液体に口をつけた。
冷たいような清清しい香が口中に広がる。不味くはない。
榎木津のような酒豪からすれば薬臭くて飲めないのだろうが、
私のような不調法者にはかえって酒の香が消されて飲み易い。
「不味くないのか?」
 私の表情を見守っていた榎木津は、不満そうな声を上げる。
「不味く無いよ。お屠蘇じゃないか。これはこういう味なんだよ。」
 私は顔を上げて京極堂に尋ねた。
「君のところでは酒だけを使うのかい?うちは味醂で割るよ。」
ミリンを飲むのか、気持ち悪いなあ、と嫌そうに榎木津が言う。
「それはただの酒ではない。かつて明治帝の大嘗祭に用いる
新穀を作った大嘗田が房州にあるのだが、そこで収穫された米で
醸された酒“壽萬亀”だ。明治神宮に今でも唯一奉納される
由緒正しき酒さ。」
「“ジュマン亀”!!それこそ君にぴったりじゃないか、
もっと飲め亀君!君はこんなヘンな味が好きなのか、変だなあ!
ほらほら。」
 更になみなみと注がれた盃が無理矢理渡される。私は話を
続けて時間を稼がなければならない。
「でも、君のところは別に明治帝とも明治神宮とも何の関係も
無いだろう。」
「うん。実はこれは伊佐間君の土産なんだ。
昨日来て居たんだよ。その重箱の中の甘露煮もそうだ。
彼は年末ずっと仁吉さんの所に居候して、釣り三昧の日々
だったらしい。」
「ああ、あの、鵜原の──。」
 昨年の春の惨劇で幼馴染みを失った仁吉老人の年越しも、
それならば少しは淋しさが紛れた事だろう。
榎木津は田作の巨大化したような正体不明の甘露煮を突つき
廻している。
「これは鯛だな、タイ!それで、海だとこんな変な酒が出来るのか?」
「だから榎さん、お屠蘇は薬を酒や味醂に漬けて作るんだよ。
──ええと、あれは漢方薬かい?」
「屠蘇散だ。蘇は病魔。蘇を屠る散薬で屠蘇散。桂皮、防風、白朮、
桔梗、山椒等を調合したものだ。かっては附子も入っていたのだが、
量を誤ると死ぬからね。
無病息災を祈る屠蘇で命を無くしては元も子も無い。」
「附子って、狂言の“ぶす”?」
 それならば猛毒ではないか。
「そう、鳥兜の根だ。熊でも殺せる。微量ならば強心作用がある
けれどね。」
 正月そうそう物騒な話になってしまった。気味悪そうな私の顔を
見て、古書肆がにやりと笑う。
「それは紀伊国屋の“寿延屠蘇散”だ。今どき附子なんか入って
いやしないよ。基本的には風邪除けと胃腸の薬になる。」
「君は飲んだのか?」
「一度飲んだくらいで効くものでもない。僕は飲んではいないよ。」
 それでは客が毒味をしているようなものではないか。
だいたい屠蘇は一家の健康を祈念して飲むものだろう。尤も彼は
これでも客をもてなしているつもりなのだろうから、文句を言わずに
頂く事にする。
「風邪薬なのか。僕はまた、お屠蘇というのは不老不死の有り難い
仙薬か何かかと思っていたよ。」
 何気なく言ってから、ふっと自分の言葉に気付き血の気が
引いていった。

 半年前。私達はその「不老不死」を巡る大掛かりな空騒ぎに
巻き込まれ、散々な目にあったのだ。私は恐ろしい嫌疑を
かけられて投獄され、友人知人の多くはひたすら引きずり回され、
遂には陰棲していた古本屋が決別したはずの過去の亡霊達と
対峙させられる事態にまでなった。
 私は盃を手にしたまま顔が上げられなくなってしまった。
私の不用意な一言で二人は嫌な事件を思い出してしまっただろう。
どう──したものか。
 この場をなんとか取り繕おうと、私は力をふりしぼって無理に
言葉を継ぐ。
「不老不死の生き物なんて、こ、この世にいるはずがないのにね──」

墓穴である。

「不死の生物なら、居る。」
甘めの伊達巻きを齧っていた京極堂が、はっきりと言った。



1999年01年



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