真白な顔が私の目の前にある。
ぱっちりと開いた大きな眼の、
けれどその瞳は明るい鳶色をしている。

ああ、綺麗だ。

その透き通った色に見蕩れていると、

ぼかっ。
頭頂部に衝撃を感じた。
「痛…」
「あ、起きた。」
 目の前の白い顔がにこっ、と笑う。
「前から思ってたんだが、君のその目を開けたまま眠る技便利だな。
どうやるのか教えろ。」
「え、榎さん、だって前は、」
 目を開けたまま寝られてもそんなのちっとも偉く無いぞ。
学生時代、先輩は私によくそう言った。
それはそうなのだ。たとえ講議中に堂々と机に突っ伏そうが、盛大な鼾を掻いて
いようが、帝王榎木津に注意できる教官など居なかったのだから。
「コイツが煩いんだ。依頼人の前で寝ると。」
口を尖らせてコイツを指す。ますだくんだ。なんでここに。

 …急速に思考の焦点が戻って来る。
そうだった。彼の子供の時の不可解な経験について納得できる解釈を得ようと、
京極堂の座敷で皆であれこれ思い付きを言い合っていたのだった。
「聞いて下さいよ関口さん、」
 探偵助手が懇願するような目を私に向ける。
「立て札立てて探偵が熟睡してちゃあ依頼人に悪いから、って言ったら榎木津
さん、例の三角錐の二面に“探偵(覚醒中)”、“探偵(睡眠中)”
って書いちゃって 、」
「もう一面は?」
「“探偵(外出中)”」
「いいじゃないか。どうせ依頼人の無意味な長話は君が聞くのだから、僕は後ろで
寝ていようが出掛けようが。見つかるといけないんなら、目を開けたまま寝れば
分らない。関君、教えろッ!」
「無理だよ榎さん、」
 益田の様子も眼の光も、いつもと変わらない。彼は私よりもはるかに正常だ。
さっきは呆然としている姿を見たせいで、私の気の迷いで妙な疑いを持って
しまったのだろう。
「なにが無理だ!僕に不可能はないぞ。」
「そうじゃなくて、あんたみたいに眼の大きな人が無理に目蓋を閉じずに眠ったり
すると、眼球が乾いて」
 私は袖口で自分の目の周りを拭った。
「…泪が止まらなくなるんだ。止めたほうがいい。」
 ふうん、と榎木津は詰まらなそうに言った。


「師匠遅いっすねえ。饅頭でも買いにいっちゃったのかなあ。」
僕に言ってくれればひとっ走り行って来るのに、と鳥口が廊下の向こうを伺い
ながら言う。
茶の替りも出ないのに、それは絶対ないだろう。
「榎木津さんじゃないんだから奥で寝てる、ってことも無いでしょうし、」
「僕だったら隠れたりしないで堂々とここで寝るぞッ。姑息に目を開けて寝たり
するもんか!」
「あのう、関口さん。」
 益田が自分の上司(?)を見限って、真剣な面持ちでこちらを向く。
「薬になる土ってあるんでしょうか。」
 まだ、やる気だ。気押されて私は思わず口から出任せを答えてしまう。
「さ、さあ…、そのまま粉薬のように飲むのは無理としても、その中の成分を抽出
して使うんだったら…カ、カルシウムとか珪素、燐、金属、」
「金属というと、」
「きん!金だ!金ですね!」
「トリちゃん、トリちゃん、金なら光るから分るよ。あの土は光ってないから金は
無しー。」
ええー、金がいいなあ、と惜しそうに鳥口が言う。
「イリジウム、白金、水銀、鉛…」
 土の成分なんか知らないので、うぞうぞとうろ覚えの周期表の一部なぞを挙げて
みる。
「ラドン、ラジウム、…えーと、ウラン」
ウラン。まさか。

「なんだ君等は、期末試験前の教室を思い出すな。」
 両手いっぱいにテスト用紙−ではなくて、古い紙束を抱えた元教師が入り口に
立っていた。黒っぽい着物の膝や胸が、ほこりで白くなっている。
「残念ながら君達のヤマははずれたよ。向こうで鳥口君の大声が聞こえたから正解
が出たと思ったのに、だんだん見当はずれの方へ行くじゃあないか。」
「え、僕が当たり?何て言いましたっけか?」
「中禅寺さんが饅頭買いに行ったって。」
いかないよ、そんなもの、と言いながら変色した紙束を卓の上に載せる。細かい塵
が卓上に飛び散り、私は慌てて空の湯呑みを避難させた。
「ちょっとやそっとでは崩れないように詰めてあったから、引っ張り出すのに骨が
折れたよ。そっちは君が見てくれ。一応君の領分だ。」
 京極堂は重なった束の一部を私の前に寄越した。どうやら、薄い冊子の山らしい。
触ると崩れそうな一冊を手に取り、口走ってしまう。
「なんだいこれ。ここまできたらもう古本屋の領分じゃないだろう。」
「なんの領分です?」
「屑屋。」
 表紙に発行年が印刷されている。昭和22年11月。思ったほど古くはない。
紙質が極端に悪いので保存に向かなかったのだ。
「こいつに関しては体裁より載せられた情報に価値があるのさ。
文句を言わずに探せ。」
 とても古書を売り物にしている者とも思えない発言をしながら、
それでもプロらしく丁寧に頁を剥いでいく。弾力がないので捲れないのだ。
「探すって何を?」
「古い号の中に簡単な年表が載っていた筈だ。戦後直ぐのものだ。」
 益田、鳥口両名は一緒に一冊の表紙を覗き込んでいるのだが、二人とも目が
泳いでいる。見慣れぬ単語ばかりで読めないのだろう。私も同様である。
 榎木津は 覗きにも来ない。面倒臭いことは嫌なのだ。

 これは。
変色した紙の上の活字を流離っていた私の目が、見覚えのある語に止まった。
この古冊子は、とある学会の会報だったのだ。
 はっとして目をあげると、古書肆が少し笑ってみせた。

「あった、昭和20年です。表ってこれっすか?」
 鳥口が粉を散らしながら一冊を引き抜く。
 それだそれだ、と手渡された冊子を引き寄せると、京極堂はさっと目を走らせて
−やっぱりそうだ、と満足そうに云った。
「やっぱりって、何が、」
「益田君。」
 はい、と呼ばれた益田は生徒のように背筋を伸ばす。

「君の見た白い薬屋達の正体だが、結論から言うと−」
 判ったのだろうか。
 たったあれだけの、夢のような話で。
 京極堂の声の調子はいつもの世間話をしている時と変わらない。

「彼等は帝国陸軍研究所に関係していた科学者集団だ。
僕は彼等を知っている。」



「茸の話はミスディレクションだったね。」
 絶句している一同を前に、京極堂は朗らかに言った。
「十二研ではないが、当時茸から抽出した幻覚誘発物質を研究をしていたチームが
あった。もともとアメリカ先住民族が宗教的体験を得るために用いていた物質だか
ら、僕等の研究室とは縁が深かった所だ。初め僕は彼等の事を思い浮かべた。
−しかし、どうも様子が一致しない。」
 茸なら、やはり秋だろう。
「益田少年が白い薬屋に聞いた、“この世は目には見えない宝であふれている”と
言う言葉−実は僕も聞き覚えがあったのだ。それも研究所時代の事だ。
それがおかしな事に誰の言葉だか、どうしても思い出せなかった。
−変だろう?」
「変ですね、記憶の鬼の師匠にしちゃ。」
 記憶の鬼は苦笑して、私の方を見た。
「君はどうして思い付かなかったんだい。茸、と言えばいやでも君の専門だった
粘菌を連想するだろう。そこまでくれば正解は目の前じゃないか。専門外とはいえ
君が一番近い分野に居たんだから。同じように野外採取に行くだろうに。」
 言い訳をするようだが、私自身は研究者時代にフィールドワークなどした事が
無い。先人達の採取した貴重な株の継代及び培養観察が私の主な課題だった。
 私はもう二度と、森を彷徨うのは厭なのだ。

「榎木津が土だというからやっと気がついた。年代が曖昧なので、この表で確認
しようと思ってね。」
 変色した雑誌の頁を傍らの二人に向ける。
「どれです?あ、表か。1928、碧素発見。へきそ?」
「戦中は敵性語だから言い換えていたんだ。ねえ、関口君。」
「青黴が産生するから碧素と言ったんだよ。
1928年、英国のフレミング博士は溶血性連鎖球菌を培養したシャーレに異変を
見つけた。博士のずぼらで培地に黴を生やしてしまったんだけれど。」
 突然耳慣れない用語を連発されて二人ともきょとんとしている。
「溶連菌は人体にとって毒性の強い病原菌なんだ。ところがその菌が、カビの周囲
だけ溶けて消えている。黴が菌を殺す物質を出していたんだ。」
 それが、と京極堂があとをひきとる。
「ペニシリンの発見だ。1940年やっと治療実験に成功。昭和十五年だ。戦中時
の英国首相ウィンストン・チャーチルの肺炎を見事治し、その効果を世間に
知らしめた。益田君、」
 年表を目で追っていた益田が顔をあげる。
「帝国陸軍はこのペニシリンに関する情報をいち早く得、我が国への導入のために
総力を尽くした。産、軍、学、一体となって碧素の共同研究を行ったのだ。」
「ペニシリンって、薬でしょう?なんで陸軍が?」
「聞いた事がある。士官連中の内緒話だったが?」

 一同が振り向く。
榎木津が、いつものようにだらしない姿勢で−しかしいつにも似ない厳しい貌を
している。
この貌は、昔の彼の艦上での顔なのだろう。
「−適軍は“死なない兵士”を持っている。当方に勝ち目は無い、と。」

…死なない兵士
「死なないんですか?」
「死ぬよ。殺せば死ぬ。でも、負傷したくらいでは死なない。」

…負傷したくらいで
「そりゃ怪我したくらいじゃ普通死なないでしょ。」

「死ぬんだよっ!」
 若い二人が驚いて私を見る。
「ぜ、前線の兵士達は、栄養状態が悪くて抵抗力が無い。衛生状態も劣悪ですぐに
感染症を起こす。傷がもとで敗血症でも起こしたら、治療薬など当然無い。前線で
負傷したら、死ぬんだ。」

 南方の島での最後の作戦前−私は負傷した部下を全員後方へ下がらせた。
まだ戦える、と言い張る者も上官命令で追い遣った。
私達がやられても彼等だけは生き残れる、それを僅かな心の拠り所にでも
したかったのだろうか。はっきりと自覚していた訳ではなかった。
 けれど−熱帯の島での敵は目には見えないのだ。酷い高温と湿気、更に大柄な
敵兵ですら樹木に隠れられるのだから、碌な防備も無しで虫や−ましてや病原菌など
防げる訳がない。
 密林の中の敗走の後、私は漸くその恐ろしい伏兵を知ったのだった。
 そして。

 書き並べられた名前の列。
長い名簿を見つめて立ち竦む私に、担当官が低く言った。
「碧素があれば。」

 私は、一人を残して、全ての部下だった者達を失った。




 真白な顔が私の目の前にある。

 その瞳は明るい鳶色をしている。

 なぜ、私を見るのだろう。
今の私の後ろには、数十もの血の気の失せた蒼白い顔が並んでいるはずなのに。
そんなもの誰も見たくはないだろうに。
 なぜ、榎木津は目をそらそうとはしないのだろう。

 遠く、淡々とした声がする。
「オリジナルのペニシリン産生菌を手に入れることは戦争時不可能に近い。
碧素製造は上手くゆかなかった。怪我人が死んだのは君のせいではない。」
−ゆっくりと床の間の方に目の焦点を合わせると、友人は紙面に目を落としたまま
説明を続けている。

「負傷した兵士を治す事が可能なら、それは則ち訓練した兵士を何倍にも増やすの
と同じ事だろう。陸軍は破壊兵器の開発以上に碧素に期待していたのだ。元菌がな
いからあきらめろ、という訳にはいかない。
そこで−ペニシリンに匹敵する効果を持つ新しい“抗生物質産生菌”を国内で
探し出すプロジェクトが行われた。」
「日本中のカビを集めるんですか?」
「うへえ…」
「“抗生物質”とは微生物の分泌する、他の微生物の生育を妨げる物質の事だ。
抗生物質産生菌は真菌−カビだね−、だけとは限らない。どんな微生物が
“あたり”菌かは調べてみるまで分らないのだ。
そこで陸軍は専門の研究機関と協力し、広汎な微生物を対象とする審査
(スクリーニング)を行った。とりあえず各機関に保管されている菌類をかたっぱしから
調べたのだが、はかばかしい結果は得られていない。保管されていた例の伊豆の
物件のサンプルもそのとき再調査され、精査の結果効力は薄いとされたんだ。
それと並行して、未発見の菌類の調査も行われている。」
 京極堂は再び年表の上の活字を指で示した。
「此処、−終戦の年にアメリカで凄い抗生物質が見つかっているが、これは放線
菌という菌が作る。」
「すとれぷとまいしん。って、これ、ストマイのこってすか?あの結核の薬の。」
「放線菌!」
 京極堂が私の声に頷く。
 つながった。
「抗生物質の確認には長い時間がかかる。菌そのものの採取はもっと以前から
試みられていただろう。その情報が例えばドイツのコッホ研究所や留学生達から
伝えられていた可能性は大きい。そうではないとしても、日本では食品部門で
放線菌の研究は進んでいた。」
 私は裏返った大声をあげる。
「益田君、放線菌はね、通常土壌中に存在するんだよ。つ、土の中だ。」

 益田はふりかえって私を見、次に京極堂に向き直った。口が開いている。
「じゃあ、僕の見たのは」

「彼自身が言ったとおり、彼等は命を保つ力を持つ“目に見えない宝”を探す薬屋
だったのさ。神様が人間を創ったと云うのなら、土の中の小さな生き物達もまた
神様が創っておいたものだろう。
彼達の採取した土の中には、もしかしたら強力な薬剤産生菌が含まれていたかも
しれない。君は宝探しの現場を見たのだ。」


 落ちた。

ずっと忘れていた。
だから、もともとそれほど強く囚われていた訳では無い、
そう本人は言っていた。
それでも今の益田の清々しい顔は、憑き物が落ちたときの人々の表情に似ている。

並んで畏まっていた鳥口も明るい声をあげる。
「キン違いでしたか。惜しいなあ。」
私はちょっと薬屋達に不平を言う。
「それにしても、なぜ彼等は神社なんて罰当たりな所掘っていたんだ、紛らわしい。」
「紛らわせたのは君じゃないか、勝手にあやしい宗教にしてしまって。
サンプルは別にどこの土でも良かったんだよ。君達は田舎ならどこを掘ってもいいと
思っているだろ。未開の地じゃああるまいし、農村ならそこはやっぱり誰かの
土地だ。勝手に人の畑を掘ったら、そこの持ち主が鍬を振り回して追っ掛けてくる。」
「ああ、言いますね。エデンで靴をはかず。」
 それは「瓜田(かでん)に靴を入れず」だろう。
間違ってはいるが、ちょっと小説の題名に良いかもしれないなどと思う。
「人や家畜は雑菌の固まりだから、人手に触れていない、耕された事の無い土地を
選んだのかもしれないね。放線菌が駆逐されずに残っているから。」
 私の言葉に京極堂は頷いてみせた。
「そうだろうね。それに狛犬はけっこう験を担ぐんだ。神社なら神の加護があって
良い結果が得られると思ったのかもしれない。」
「こ…狛犬?」
「ああ、例の薬屋、本名は狛江というのだがね、僕等は“狛犬”と呼んでいた。
優秀な研究者の癖に神頼みでね。やっぱり神社にいたか。
まあ−当時は特にそういう時勢だった。」
 本当に知り合いだったのだ。
−陸軍研究所時代の。

「それにしても言い回しが抽象的すぎないか?いったい何掘ってるのかってよけい
疑うじゃないか。」
「だから一応軍事機密扱いだったんだろう。
第九研なんかじゃ全く同じ技術を使って細菌兵器を造っていた訳だし。
でも、相手が少年だし、兵器ではないから安心して少し詳しく話してしまったのかも
しれない。
当時抗生物質なんて概念は一般にはまだないからね、しかも子供だ。
説明に苦労したんだな。もともと気宇壮大で話がまとまらない男だからなおさらだ。
でも、ちゃんと聞いていたら納得するまできちんと説明してくれたかもしれなかったね。」
 じゃあ、逃げちゃって悪い事しましたね、と益田が気の毒そうに言った。
「逃げるよ。どう見ても変だもの。それに、チームによっては本当の軍事機密を
見られて、目撃者を拘束した部所もある。」
 逃げるのが正しいよ、と元陸軍研究所員は真顔で呟いた。

「で、結局宝の薬は見付からなかったのか。」
 榎木津は常態に戻って、袖がほこりまみれになるのもかまわず卓の上に腕を
組んで聞く。私は例の古雑誌を引き寄せて積み重ねた。
「うーん、まだ判らないよ。さっき京極堂が言ってたみたいに新しい抗生物質の
確定には何年もかかるんだから。まだ審査中かもしれない。」
 冊子の裏には発行元が示されている。「ペニシリン学術協議会」。
現「日本抗生物質学術協議会」の、終戦直後の発足時の名称だ。
「戦後、米国のメルク社の技術指導によって日本はやっとペニシリンの生産に成功
した。しかし本邦はもともと微生物の発酵技術にかけちゃ年季が入っているからね。
いまでは大量に国内生産ができるようになった。」
「発酵って、日本酒とか醤油とか、」
「納豆とか、漬け物とか。」
 糖分を乳酸菌発酵させる過程なら私は詳しい。昨年漬け物の発酵に関する専門書
を読んだのだ。
「あの本はもう無いよ、売れたから。新しく塩辛の熟成に関する本を仕入れたけど 、
読むかい。」
 私は聞こえなかったふりをして、話を戻した。
「その狛犬氏が研究を続けていれば、いずれ国内からも新しい宝を掘りだせるかも
しれないね。」
「続けているよ、きっと、」
 京極堂はふ、と言葉を切って益田の方に体を向けた。

「益田君、僕は君に礼を言わなければならない。」
 え、と益田が怪訝そうな顔をする。
「君が思い出させてくれなければ、僕には一生忘れ続けている事があったのだ。
偶然だが、思い出させてくれて−」

「ありがとう。」



「神の薬屋」解決編 終り




1998年11年



*- INDEX / 京極堂Index -*