「神の薬屋」本文 (中)
「そ、それって」
「まんまじゃないっすかっ!」
私が言うより早く、私の隣に座って居た編集者が身を乗り出して叫んだ。
「そう…なんですってね、」
少年時代の出来事を話していた青年は、勢いに押されて畳に後ろ手を突く。
「それでっ!それからどうなったんです、まさか、」
「攫われて国家警察神奈川県本部に入れられたのかい。
君達、少し静かにして益田君の話の続きを聞いたらどうだ。」
不機嫌そうな部屋の主の声が響く。
まるで自分が叱られたかのように語り手-益田龍一は身を縮めた。
「続きといっても、これでおしまいなんです。流石に気味が悪くなって、大叔母の
うちに帰って布団をかぶって寝直したんだと思います。よく覚えていないんですけ
ど…。別に追っ掛けられたりはしませんでした。
そのあと午後になってこわごわ雑木林を覗きに行ったんですが、
もう誰もいなくて、別に変なところもありませんでした。
でも、枯葉を上からかぶせて隠してあった
けど、確かに穴を掘って埋め戻した跡がいくつも残っていました。
土の色が新しいから見ればわかります。」
その日のうちに彼は母親とともに街中の自宅に戻り、以後十数年間この奇妙な
出来事を一度も思い出しもしなかったのだという。
その年の暮れ日本は太平洋戦争に突入し、益田少年の日常も戦時の
狂騒に飲み込まれていった。
「でも君、それって…」
「ええ、だから僕も先日、逗子の事件の牧師さんの話を教えてもらって思い出した
んです。そういえば、僕もそんなもの見たっけなあ、って。」
一年近くも前の「逗子の事件」そのものについては、益田も神奈川で警察官を
していた時 に聞いていたのではある。しかし「本筋」とは関係のない個人の物語に
関しては、最近まで知る機会がなかったのだ。
「逗子よりそれ、あっちのほうじゃないですか!
一柳さんが伊豆で話してくれた“薬屋に攫われた”村上さんの身の上、
そっちにそっくりっすよっ!」
興奮している雑誌記者は、「逗子の事件」のほうには関係していない。
一方私は、彼等の活躍した「伊豆の事件」のときには囚われの身でいた。
後になって事件の内容を説明してもらったが、長らく現実感を失っていた私に
とってそれは、はるか遠い他所での出来事にしか思えなかった。
「そう、僕も鳥口くんと一緒に伊豆で一柳さんの話を聞いていたとき、“あれ?”
と思ったんです。何か、覚えのあるような話だなと。
それに考えてみたら、その前事務所で佐伯布由さんに村の話を聞いていた時も?
なんだか、見た事も無いはずの山村の情景が、次から次へ懐かしいように
浮かぶんです。本当はそう言う景色を昔見た事があったんですね。」
そして、忘れてしまった。
神域を掘る妖しの神官共を見た少年は、邪教に踏み惑う聖職者となった。
不老不死の仙薬を求める謎の薬屋に出会った少年は、遠い都会に攫われた。
彼は。よく無事で。
いや、それとも。
「それで思い出してしまったら、やっぱり気になるんでこうして、」
坂の上の古書店までやって来て、主人にその解釈を説いて欲しいと言う。
憑かれた-というほどではないにせよ、なにか自分を納得させてくれる言葉を
求めて、客の多くはこの坂を登る。
年代的には彼の見た白い「薬屋」達は、「伊豆の事件」のとき暗躍した自称
「薬屋」達とは別もののはずだ。
「うん。それで、その神社の名前は?」
着物の袖を組んだまま、床の間の前に座った古書肆が尋ねる。
「それが、その…、あの…、」
益田はなぜか蛇に睨まれた蛙のごとくじわじわと固まった。
「すいませんっ!」
「待った待った京極堂、そんなの知らなくて当然だよ、子供だったんだから。
責めるなよ、」
「そうですよ師匠、僕なんざ昼食った定食屋の名前すら覚えてませんよ。」
あわててとりなす私達を見て、京極堂は憮然とした。
「君達は僕が何も言わないうちから、なんで益田君を庇うんだ。
僕が彼を叱ると思ったのか。益田君もなぜ謝る。」
「叱るじゃないか、いつも。」
「僕が君を叱るのは、君が当然知っているべき事を知らないからだ。
益田君が知らなくて当然の事を知らなくても、僕は別に怒らないよ。」
結局、私を怒っている。
でも、神社が判らないといくら中禅寺さんでも無理ですよねえ、と益田が
申し訳なさそうに呟く。大叔母という人はとうに亡くなり、母君に村の名を
尋ねたものの、調べてみる、と言ったまま忘れられてしまったらしい。
うちしおれた青年が気の毒なので、私はつい心にもない慰めを言った。
「悩む事ないよ益田君。案外神社なんか関係ない、何でも無い事だったの
かもしれない。ほら、みんなで筍を掘っていたとか。」
「先生、筍は竹薮でなきゃ採れませんよ。雑木林なんでしょ、そこ?」
「そうなの?」
「竹は根っこみたいなものを土の中にのばして殖えてくんです。蕨はもっと
あったかくなってからですし、芋、栗、茸は秋でしょう。松茸は手入れをした
赤松林にしか生えません。」
ぼかぁ田舎で育ってますからね、食い物の時季と場所なら詳しいです、
と体力勝負の記者は胸を張った。肩を落としていた益田も話に乗って来る。
「茸ってたしか薬になるんですよね、猿の腰掛けとか。でも、土を掘って
茸採りはしないかなあ。」
「西洋には松露という土の中に生える茸があるそうだ。その香芳醇にして
味深く、究極の珍味として珍重される。仏蘭西では松露掘りには嗅覚の
優れた豚を用いる。」
「豚!ほんとすか?」
「豚いた?」
「いいえ、でも白豚だったら気がつかなかったかも。」
益田は必死に靄の中の光景に豚の姿を蘇らせようとした。
「それで、師匠、その珍味の茸は薬になるんですか?」
「聞いた事はないな。」
薬じゃないんですか?と益田は落胆する。
「がっかりすることはない。土中の仙薬は多いよ。
漢方で有名な“とうちゅうかそう”という生薬を知っているかい。」
「土中火葬?」
「冬虫夏草、と書く。“本草綱目拾遺”に夏は草となり、冬は虫となり、
足が六本あって蚕に似ている、とある。夏に採らないと冬には再び
虫に戻るそうだ。」
「そんな奇天列な。」
「漢方薬局で売っているよ。薬味は甘、薬性は平、服せば肺・腎を益し、
精髄を補う。」
「あ、見た事がある。なにか虫の幼虫みたいな固まりから茎が長く伸びて
いるやつだろう?」
本当にそういう奇態なモノはある。ただし、植物に変身する仙虫などではない。
「あれは確か子嚢菌類が土の中の虫に寄生したものじゃなかったかい。」
「そうだ。フユムシナツクサタケというキノコが蝙蝠蛾の幼虫に寄生したものだ。
強壮・鎮咳作用があり、病後の虚脱、肺結核などに効果がある。」
「うへえ」
そんなもの飲むんですかぁ、と血みどろの猟奇事件を飯の種にしている
雑誌記者が情けない声をあげた。元捜査一課の刑事に至っては自分の前の
湯のみをおそるおそる覗き込んでいる。とうに空だ。
そんな高価いもの君達に振る舞う訳ないだろ、と主が笑う。
「それで、中禅寺さん、その茸は春先にも採れるんでしょうか。」
「採れないだろうな、“夏草”というんだから。第一、日本にはないよ。」
じゃあ、やっぱり違いますね、と益田は俯く。ああ、違うみたいだね、と
京極堂は指で顎をなぞりながら、何か思い出そうとしているようだ。
1998年11年
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