九遠寺涼子の白い花  


半ば開いた窓から、あのひとのほの白い顔がのぞいている。
汚れた硝子の向こうの薄闇の中、いつもの少し困ったような面持ちで静かに俯いている。
その少し奥には、口元をきつく吊り上げて笑う、白い顔。
その上にもまた一つ。
あのひとの好きだった白い花が、こちらをのぞいている。

「君が植えたのか。」
向かい合って座る友人の表情は、薄闇に沈む部屋の中でもう定かには解らない。
ただ、いつものよく通る声が、ひどく硬く聞こえる。

「ああ、いやあれはね、その、あれが‥」
私はしどろもどろになる。
「つ、妻が。妻の知人が、綺麗な花が咲くからって…
あ、はじめは鉢植えだったんだよ。鉢をもらって、で、
どんどん大きくなって、根がね、根が鉢いっぱいになってしまって、だから、だから 」

私が、植えた。


関口君的妄想に浸りたい皆様。
ひとつ“あのひと” −久遠寺涼子−の白い花、「ダチュラ」をお手元においてみませんか。
げ。ダチュラって、あの麻酔・幻覚作用のあるっていう毒草じゃないか、そんなオソロしいものを、と思うでしょ。
実はダチュラはただいま園芸愛好家の間で大ブレイク、大きい異国風の花が人気で、おたくのご近所の園芸店や
ホームセンター等に、ずらっと苗が並んでいるはず。
もっとも、さすがに「ダチュラ」や「チョウセンアサガオ」等とは呼んでいません。
「エンゼルトランペット」(英名:Angel's Trumpet)、15センチばかりの漏斗状の花はまさしく優美なトランペット、なんと美しい名、しかしこれはとても不吉な名前なのでは。
「天使の喇叭」といえば、エーコ 「薔薇の名前」のモチーフにもなった、「ヨハネの黙示録」。7人の天使が順にラッパを吹くと、恐ろしい災厄 が次々と地上に降り注ぎます。
エンゼルトランペットは終末の響きを奏でるのです。

「エンゼルトランペット」は数あるダチュラの中でも一般的な園芸種ですが、気になるのはどこのお店でも特に注意書きをしていない事です。野生種程ではないにせよアルカロイドを含んでいるはず−と思っていたら、あーっ、そーらやったあ。
北関東のとあるホームセンターが、あろう事か食用ハーブ「ボリジ」と間違えて「ダチュラ」を売ってしまい、その葉を
サラダにして食べた夫婦が中毒、幸い命に別状はなかったそうですが。お子さんのいるお宅ではご注意を。
気違い茄子、Mad Apple。ご承知の通り、ダチュラの薬効成分アトロピン、スコポラミン等のアルカロイドは、強い麻酔・幻覚
作用をもたらします。同じ様な薬効成分のある植物は伝説の魔草「マンドラゴラ」、魔女の薬草「ヒヨス」「ベラドンナ」、日本原産の「ハシリドコロ」等があげられます。おそらく久遠寺医院の薬草園にはハシリドコロ等も植えられていたのでしょうが、涼子さんは好きではなかったのでしょう。

ハシリドコロは有名なベラドンナと同等に扱われます。ベラドンナとはラテン語で「美しい淑女」。アトロピンには散瞳作用(瞳孔を大き
く開く)があり、女性の目を黒々美しく見せるため、といわれます。
眼科で眼底検査をした事はありませんか?硫酸アトロピンを点眼して、瞳孔を開ききり“瞳の奥”を調べるのですが、瞳孔が再び閉じるまでのまぶしいコト、思いっきり吸血鬼の気分が味わえます。鏡を見ると自分の顔ながら慄然とする、瞳にぽっかりと開いた無限の空洞。
「日本人の瞳はもともと黒いじゃないか」と思われる方もいるでしょうが、ほとんどの人の虹彩の色は茶色です。知人の中には虹彩もまっ黒な人や、明るい灰色の虹彩を持つ人もいますが、特に「榎木津礼二朗」のように目が大きくて虹彩の色の淡い人の場合、瞳孔の大きさはてきめん表情に影響を与えます。彼の場合、対象を“見る”時、光による情報を集めている訳ではないので、普通の人とは瞳孔の動きが異なっているのでしょう。(普通はあるモノを注視すると無意識に瞳孔が開きます。)
榎木津の人間離れした瞳の印象は、そんなところにも理由があるのかもしれません。

さて、ダチュラの主成分もアトロピンですので、瞳孔散大をひきおこします。ダチュラの投与によって生まれ、学生時代の関口君の前に現れた久遠寺「涼子」は、ぽっかりと深い淵のような黒い瞳だったのではないでしょうか。そしてその暗い淵に転がり込んでしまった関口君は、−まるで「狂い」のように走り続け−その後、忌まわしい体験を忘れ去ってしまいます。
「これを誤って食べると狂走して止まらず、故にハシリドコロという」
(平賀源内著:「物類品質」)
激しい錯乱、興奮、意識障害。“涼子”は知らない“学生さん”にも中庭の目立たない草を与えて「遊んで」みたのでしょうか。
憶測です。そんな事はなかったのかもしれません。

半ば開いたままの窓の外はもうすっかり暗くなり、重なり合っていた白い顔も見えなくなった。深い闇の中に座った友人の、何か言いたげな気配が、私の方に重い圧力となって寄せてくるような気がする。
私は体を固くし、じっと息を詰めてその瞬間に耐え抜こうと待ち構える。

「君、」声が、した。
「なぜ電灯をつけないんだい。」

END


1998年07月



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