「蜘蛛の巣館探訪・完結編」  


この指輪。
この石はたまたま私の誕生石でした。
そして、私の血の継がった本当の祖母にあたる人の唯一の形見だといって、
祖母 私の母を育ててくれた人 が、私にくれたのです。
私も、詳しい事は知りません。
祖母は、戦後の東京で、家族もなく一人で生んだ赤ん坊をかかえて
困っていた女性を気の毒に思い、その子をしばらく預かって育てる約束を
したのだそうです。女性はとても感謝して、自分の名前と国許の住所を記し、
ただ一つ供出せずに持っていた指輪を祖母に渡しました。
指輪の石は、彼女の名前に因んだ色なのだそうです。
彼女はお金に困っていた訳ではなく、ただ“居場所が無い”と言ったそうです。
あの戦争で居場所を失った人は大勢居ますが、彼女の場合ははじめから、
無かったのだと。
そして彼女は祖母に、きっと自分の新しい居場所をつくって、それから必ず
赤ちゃんを迎えに来るからと、固く約束をして
美しいひとだったそうです。まだとても若く見えたそうです。

そして後に祖母は彼女の名前を新聞に見つけ、その運命を知ったのです。
祖母はその時、自分の事を実の母親と信じてすくすくと育つ可愛らしい少女を、
生涯自分の娘として育てていくことを決心したのでした。
この事は、祖母と祖父、そして私の三人しか知らない事です。

血がつながっていようといまいと、私にとっての祖母はこの祖母で、母を
生んだひとの事などは私の生活にとって全く関係のない事でした。

たまたま手にしたあの本に彼女の名前を見つけるまでは。

蜘蛛の子供がどうやって遠方に散って行くか御存知ですか。
ある種のクモは空を飛んで行くのです。
春か秋、風のあまり強くない日に、子グモは木や柵の上などの高い所に登り、
糸を紡いで薄いパラシュートをつくります。やがて風に吹き上げられて空中高く
舞い上った子グモ達は生れた土地を離れ、住み易い環境を目指します。
きらきら日に輝く薄い布が何百万も空中を舞い、そして地上に降(ふ)るのです。

けれど、まれには着地する時に他のクモの張った巣にかかる不運な子グモも
いることでしょう。
また、巣の主がとっくに去り、打ち捨てられていた破れ網にひっかかる間抜け
た子グモもいることでしょう。

あの本を読んだ直後から、私はここで暮らしはじめました。

私は。墓守りをしている訳ではありません。守るべき墓も、神像も、もうここには
無いのです。

全く同一の遺伝形質を持つクローン同士ですら、それぞれは別の個体です。
ましてや、遺伝子のたかだか四分の一を譲り受けたのみで、時代も場所も、
生活環境の全く異なる人間との間に、それほど強い結びつきが存在するとは
思えません。
家族(ファミリー)内の因習は、特殊な遺伝形質を必要とする場合を除いて、
環境・教育等の後天的な要因、コミュニケーションによって伝えられるものです。
つまり、他人で充分なのです。
現に、織作の血筋など、あの家の中ではとっくに絶えていたではありませんか。
唯一五百子刀自の血をひく柴田勇治氏にしても、織作の家系などに何の意味も
感じていないのです。
私の意志は、とうに亡くなった会った事もない先祖などには左右されません。
それが理(ことわり)ではありませんか。
血が呼ぶ、などという事は無いのです。それは理に合いません。
理に反しているというのに。

私は何故こんな所にいるのでしょうか。

理に反する事を何と言うのか、御存知でしたら、教えていただけますか。

情?まさか…。

さあ、急がないと、今日は曇りがちですから、すぐに暗くなってしまいます。
もう湾内の街の方は暮れてしまったようです。光が残っているのは、この
岬の先端だけです。
お戻りになる前に、もう一度はじめから館の全体を見ておきましょう。

ええ、もちろん。あなたは御自分の居場所へお帰りにならなくては
いけません。

それとも。私をここから連れ出して下さるとでもおっしゃるのですか。

ほら、こちらです。早く早く、もう時間がありません。
坂の登り口からはじめますよ。
勾配のきつい坂道を登って、まばらな林を抜けると、
坂の上にほら

満開の桜。

岬に茂っていた緑の樹々は、今は全て桜色の花で岬を覆ってしまっています。
一本道を辿ると、行手に黒い塀と黒い門、その内に続く桜の園。
その奥の黒い館、背景の空と桜の樹々は溶け合って、その中にただ館の影
のみが見分けられるようです。
扉を開き、白い壁と黒い柱の繊細に交差する館の内へ入りましょう。
ホールを抜け、螺旋階段下の廊下を通って、突きあたりの右の黒い扉です。
大きな窓から滲む白い光、壁いっぱいの書棚、広い書斎の出入口を開くと。

桜が。ただひたすらに降りしきる雪のような桜の花びらが。
静かに、ただひたすらに舞い降りています。

その向こうには桜の樹々が打ち重なり、ずうっと奥まで続く桜の森のようです。
小さな岬の上なのに、ずうっと水平線の果てまで続くようです。

海からの風が一閃、花びらを波立たせ、渦巻かせ、私達を包み、翻る帯の
ように海に流れ出し、
雲間から横合いに射す最後の夕陽が幾もの花びらを輝かせます。

夕闇に落ちた街からこちらを望むと、
岬の先端だけがきらきら光を放って見えることでしょう。

私達はその光のただ中に居て、空も海も、いえ、この世界全ては桜の中に
消え去り、お互いを見失なう程に花びらは舞い散り、

まるで遠い昔に見た光景のように…。
ああ、あなたも、この光景に覚えがあるのですね。

おそらく。あなたにこの光景をお見せしたくて私はここに居たのです。



1998年08月



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