◆ 読者の声−6 ◆ 天陽さんの声
私は信長を桁外れの天才に位置づけ、下の考えを導きました。

まず、前提に置いておきたいのが、あくまで仮説であって、何の裏付けもないことです。
それをふまえた上で、信長の思想・理想から述べます。

信長の路線を一般に「天下布武」と言い表してますが、実体と目的が何であったかは明確にされていません。私は信長の行った非情なまでの殲滅作戦から、彼が天皇を越えた「神」になろうとしていた説を採っています。なぜなら、信長の理想が神を必要としたからです。その理想とは、ずばり民主合議制の国家、現代とさほど差異ないシステムです。なぜか権威を維持してきた天皇を排除し、朝廷という一族世襲による行政を壊し、武士という武力によって世を変える存在を否定し、大名という派閥の根元をなくす。すべての無駄を省く。無駄とは、戦に他ならない。武器を取らない争いは結構だが、戦は無駄で無益なものと考え、戦をなくすことが天下人の使命と義務と考えたのでしょう。

現状を変えるために、さまざまなものを否定せねばならない。最終的に明治新政府の「四民平等」の如く、華族・士族などの実だけを取り除いた身分統制を行い、各層から代表を選出しての政府をつくる。この場合問題になってくるのは自分の斬新すぎる理想論に異論を唱えるものたち、そのため徹底的に敵対者を虐殺し、時には力ある家臣を追放して、将来にそなえたのでしょう。

もう一つの問題が、民主合議制が成ってしまうと、織田家という求心力が失われること。初期の段階では多くの織田関係者が参画するだろうが、しだいに薄れていくことは明らかで、信長はこれによって再び世が乱れることを懸念する。そこで、みずからを神格化して遺し、永久の求心力にしようと考えたのでしょう。これは一種の信仰にあたりますから、同じ信仰で成り立つ本願寺勢力を駆逐していった理由にもなります。

以上が信長の「天下布武」路線だと、私は位置づけています。

その上で明智光秀の話に入ります。まず、両者はかなりの信頼関係にあったはずです。これは森田丹波守さんと同じ理由です。で、天正10年ですが、「天下布武」路線に目途が立った年です。長年、苦しめられた武田家を亡ぼし、上野まで版図が伸びました。柴田勝家率いる北陸方面軍が越中まで制圧し、この戦略の中に関東方面軍を率いる滝川一益との壮大な連携が見られます。北条家は一応の盟友にあり、上杉家の春日山城が攻撃を受けるのは1,2年内だったはずです。西の毛利にも王手をかけています。毛利は全軍をあげて備中高松で羽柴秀吉と対峙しており、この間隙に明智光秀の織田最強軍団が留守同然の山陰道を突き進み、本拠の安芸を衝けば片がつきます。本拠を攻略すれば、武田滅亡と同じ状況に陥るはずです。毛利家はすでに和平の方針を打ち出し、秀吉もこれに応じるような態度を採っているので、戦意なき毛利軍が光秀に抵抗することはできないでしょう。四国には神戸信孝・丹羽長秀らが上陸予定ですし、中国との兼ね合いで、やはり1,2年内に制圧できると見られます。したがって、天正10年5月に光秀を送り出せば、「天下布武」路線は目途が立つのです。

信長が民主合議制の理想を思い始めたのは上洛を果たしたあたりと考えられます。それから天正10年まで、信長は多忙に多忙を重ね、苦慮に苦慮を積み上げ、窮地も幾度か体験して、突っ走ってきた観があります。甲州討伐から凱旋し、果たして意気揚々だったか。私は、ホッと一息というのが本音だったと思います。その中で、突っ走ってきた十数年を振り返り、これから進もうとする改革に向け数年先を見たはずです。この時、偉大な革命家の脳裏に浮かんだものは何だったか。敵対者を討ち滅ぼした見返りに、己の家臣たちは大きくなった。佐久間信盛のように放逐するには無理があるものもでてきた。その代表格が徳川家康である。彼らは天下一統後、しかるべき所領を与えられ部将ではなく、大名としての将来を夢見ているにちがいない。そして、目を九州・奥州に向ければ未だ戦乱が日常の世界が広がっている。

信長はふと思った。「おれはこの時代に生まれるべきではなかった」

日本が生んだもっとも先見性に富んだ天才だったがゆえに、みずからの存在を否定する結論に至ったのではないだろうか。自分の理想は早すぎるのではないかと漠然と思い、光秀以外の誰も付いてこれないのではないかと考える。

そして、信長はもっとも信頼する家臣の光秀に命じた。

「惟任、余を討て」と。
★ 本能寺の変のメニューページへ ★ 

 
★ TOPのページへ ★  ★ 読者の声のページへ ★