◆ 読者の声−5 ◆ 黒崎さんの声
『光秀謀反』というけど、あの時代には『チャンスがあったら謀反』は当たり前で、光秀は、ただ『チャンス』があったからやったんではないの?ということです。もうひとつは、「歴史書」に書いてあることを,本当に信じていいの?歴史書を記録するのは常に生き残った勝者なんだよ、ということです。

そもそも、下剋上の戦国時代には,儒教的な道徳がどれくらいあったのでしょう。主人に忠実に仕えるという道徳は、そもそも、江戸以降に徳川が、それまでの感覚を必死になって変えるために、日本中に広めたものではないのかな。その感覚で,江戸以降の人間が、戦国・安土桃山時代を見ていいのでしょうか。武士は二君に仕えずとか、武士道の忠誠心の部分なんて、安定を求めた徳川の意向がぷんぷんします。

本能寺の変の『怨恨説』は,歴史家によって、ほとんど決定的に否定されているものです。これは,論外として、本能寺の変は,光秀が、当時の下剋上の常識にのっとって、チャンスがあったから,当然のようにやったのではないでしょうか。

ただ、単独犯でない可能性があります。多分,秀吉との(どっちが言い出したかはわかりませんが)連携プレーではないかと思います。そして、結局は秀吉にはめられて実際に手を汚した光秀は、復讐の大義名分を掲げた秀吉に殺されたのです。犯罪ドラマでは,おなじみの手ですね。(実際、秀吉の,中国大返しの手際のよさは予測してなくてはできない速さです。)

明智光秀は,結局は敗者です。山崎の戦以後,それを記録にとどめたのは勝者である秀吉かそれ以後の徳川の世代でしょう。勝者が敗者を記録するとき、自分に都合のよいように書くのは、歴史上、いろいろな例があり、敗者の立場で書いた歴史書はないのです。こうして,光秀は悪人として葬られることになったのでは?そして徳川が必死に広めた江戸時代の儒教感覚からは、主人を討つ悪人として。それには十分な理由が必要なので,怨恨説が生まれ、実際の共犯、秀吉は敵を取った善玉として歴史に残ったのではと,考えています。

思いつくまま,書き述べました。それでは。
★ 本能寺の変のメニューページへ ★ 

 ★ TOPのページへ ★  ★ 読者の声のページへ ★