◆ 読者の声−4 ◆ かんこんさんの声
 こんちは〜 かんこんです。
ついに出来ましたねこのコーナー(って前からあるか^^;)。ご苦労様でした。

 それじゃ早速私の考えを述べさせていただきますね。

 掲示板のほうでも少しお話ししましたけど、私はいちいち歴史史料とかを引っぱり出して自分の考えを考証するとか、そんなことはやってないです。私の知らない事実があってそれが私の考えとあわないということがあると思いますがその点はご了承下さいね。あくまで趣味の範囲ということで(^^;

 本能寺から遡ること10年、1570年の状況をまず考えてみましょう。この年は「同盟」というものに関して信長の考え方を大きく変えたと思います。原因は無論浅井長政の裏切りです。自分の見込んだ男に裏切られたその怒りは半端ではなかったでしょう。

 「なかぬなら ころしてしまえ ほととぎす」が示すように信長は一言でいえば非常に短気だったと思われます。しかし、私はもう一歩踏み込んで信長は「狂って」いた、と考えます。幼少時代の彼の経験を考えれば理解できなくもありません。弟の信行は嫡男でないのをいいことに母土田御前とと共に暮らしているのに信長は生まれて間もなく母から引き離されている。その母は信長を嫌って信行の擁立を画策、あわよくば殺害してしまおうと考えている。そんな中で信長は自身の絶対的優位の確保を最低条件として確保していたかったのではないでしょうか。これは現在でいうところの虐待でしょう。今だろうが昔だろうがこういう親の無情が子供に与える影響は変わらないのでは?前述の「狂った」とはそういう意味でのものです。

 少々脱線してしまいましたが、要するに浅井の裏切りは信長の絶対的優位を大きく崩させる要因になったと思います。そしてその対応に苦慮しているところへ足利義昭が信長の干渉を嫌ってその打倒を図り、周辺諸大名に書状を連発、信長包囲網を作ることに成功します。参加した大名は浅井、朝倉、本願寺、そして武田。信長の最大のピンチの一つです。こんな羽目にあうことになってしまったのは何故か?そうだ、長政だ、全て長政が悪いんだ。くそぅ、絶対ゆるさんぞ・・・なんて思ったのでは。

 結局信長は(運良く)このピンチを切り抜けますが、信長はそれで終わらなかった。同盟していた長政が己に与えた災禍を拡大解釈し始めた。「他の「同盟者」もあてにならぬ、いつ自分の首をしめるか分からない」
というわけで同盟者長政の所行はもうひとつの同盟者家康に飛び火したと思われます。信長は家康性格とその忠勤を理解してはいたでしょうが、そんなことを理屈で考えられないほど信長の怒りは大きかったと考えられる。信長は家康を試そうとした。いや、すでに潰してしまおうと考えていたかも知れない。

 第一の仕打ちは1572年三方ヶ原の戦い。信長が寄越した援兵は3000。信玄麾下の精鋭25000に対するにはあまりに少ない数で、家康にはさぞ辛かったことでしょう(当時の信長の状況ではこれが精一杯だったかも知れませんが、包囲網最大の勢力である武田信玄に立ち向かう家康に対してやるべきこととは思えません)。 

 第2の仕打ちは1575年の長篠の戦い。当初信長はこの合戦に援軍を贈るきはなかったようで「信玄入道なき今、援軍を送るほどのことはあるまい」と家康に伝えています。結局信長は重い腰を上げていますが、家康の堪忍袋の尾はこの時点でどうだったのでしょう?

 第3の仕打ちは1579年の信康切腹事件(これは家康としても願ったりだったかもしれませんが)。

 家康としても危機感を募らせていたことでしょう。信長だけは何とかしておかなければならない。そう思ったとしても何ら疑問は感じ得ません。

 本能寺の変勃発時、信長は堺にいましたが、家康が黒幕だとするとこの点が一番の急所になろうかと思われます。私の推測としては、要するに家康は光秀と具体的に「おまえがやってくれれば援助する」とかそういった打ち合わせのようなものは一切行っていなかったのではないかと考えます。光秀をけしかけるような何らかの行動はとっていたと思いますが。光秀は光秀で考えるところはあったのでしょう。けしかけられたはいいが操り人形になるのはゴメンだ、と。家康を人質にでも取るつもりだったのかも知れません。それで三河衆の動きを押さえると。私の家康黒幕説というのはこのくらいのレベルでの話です。おそらく目的はこの時点では信長ひとりだったと思いますから。

 ご意見、ご批判お待ちしております。
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