◆ 読者の声−3 ◆ 堀川さんの声
 本能寺の変の原因ですが、光秀―秀吉ラインで何らかの密約があったと考えるのが一番自然な気がしております。「中国大返し」は偶然で起こることはまず、ありえません。真田さんもおっしゃっていたように、明らかに怪しい行動です。何に書いてあったかは忘れましたが、毛利への明智軍の使者が秀吉の陣に迷い込んで云々…というのは常識的に起こることではないと思われます。これは‘秀吉への使者‘と考えたほうが自然ではないでしょうか。予めわかっていれば、「中国大返し」はたやすい事です。(といっても行軍する兵士にはたまったものではないでしょうけど)、秀吉がとんとん拍子に織田家の後継者となってしまったので後世の我々からすると見落としがちな事ですが当時は丹羽、柴田といった宿老の持つ権力は大きかったのではないでしょうか。
 
 つまり、信長ひとり(信忠もでした)を殺したところで、跡目争いに勝ち残るためには協力者が必要だったということです。光秀にしたところで、まさか大坂の丹羽軍団が崩壊してしまうとは夢にも思っていなかったでしょう。光秀・秀吉は最終的には争わなければならないとしてもそれまでの協力体制を考えていなかっといえるでしょうか。

 光秀・秀吉の読みとしては、連合してまず丹羽を叩き、次いで南下してくる柴田を叩いて、最終的に決勝戦を明智・羽柴で行おうとしたのではないでしょうか。(これを仮にシード戦略とでも呼びましょうか)

 徳川に関しては京都で討ち取ろうとしていたとみていますが、確証はありません。(茶屋四郎次郎が教えなければ危なかったのでは、というのが理由になると考えてはいますが)もしくは柴田の前にもう一戦するつもりだったのかもしれません。家康は国許にいるほうがあからさまに有利でしたから。(当然、徳川もシード戦略に入っていたのかも知れないという可能性はあります)

 さて、シード戦略の証明ですが、これは羽柴軍の進軍速度から思いつきました。毛利の追撃を逃れるといった理由もあったでしょうが、当初は恐ろしい勢いで進んでいたにもかかわらず、姫路で休息をとってからは、おそろしくゆったりとした行軍を行っています。(疲労を残さないという目的にしても遅いです)これまでの進軍速度からみるとウソみたいに遅いです。
 つまり、どこかにウソがあるのです。
 A…本能寺の変の前に秀吉はすでに「中国大返し」をはじめていた。か
 B…姫路から、様子見を行って戦略の転換をおこなっていた。かです。
 この当時の進軍速度には詳しくないのでえらそうなことは言えないのですが、このどちらかが起こったとみるのが自然ではないでしょうか。
 Aであれ、Bであれ光秀・秀吉の間になんらかの密約がないと起こり得ないと考えるのですがいかがなものでしょうか?
 当然、最終的には両者の間で決勝戦を行うので、固い同盟関係ではなかったでしょうが。
なにかそういう要素があったのではないでしょうか。
 
 もう、五年ほど前に考えた事なのでポツポツと記憶が抜けております。突っ込みは歓迎致します。
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