◆ 読者の声−14 ◆ しげさんの声  
光秀は信長にとって右腕として足回りを固める有力武将だったと思われます。
朝廷工作、武田攻め、毛利攻めと自分の身の回りに置き一番密接に行動を共にしている部下だったと思われます。なにかことがあれば光秀の軍勢が信長を警護し、攻めれば随行する一番信任の厚い部下だったことでしょう。信長の気性から叱咤はあったでしょうが、それが直接的な要因ではないと思います。
光秀が信長の方針についていけなくなった要因は、家康の接待役を免除され、今後の方針を信長と話あった夜のことでした。
信長は、朝廷へ征夷大将軍の位を貰うために強烈な働きかけをしていたのではと思われます。当時鞍に移ったとはいえ、足利幕府は存在していた状態で、朝廷としても信長が天下人として絶対だとはまだ思えない時期だったのでしょう。信長も武田家を滅ぼしはしましたが、これから上杉、毛利、長宗我部、北条と大大名を征伐するのに、まだ征夷大将軍などの絶対的地位は提示できなかったのでしょう。提示するにしても毛利、長宗我部も軍門に下るくらい圧倒的な状況になったらと考えていたのではないでしょうか。逆に信長は毛利と戦う以上、長宗我部から背後を狙われないように両面作戦を強いられていますから、余裕は無かったと思います。信長としても皆平伏す状況を作りたかったのでしょう。特に信長の方針は融和協調ではなく、完全征伐を謳っていましたので特に不安があったものと想像します。本能寺の数年前に朝廷へ対し威嚇の馬揃えを行ったり、国師号を拝領した大通智勝国師快川紹喜和尚を焼き殺してしまったのも朝廷へいうことを聞かなければこうなるという明確な威嚇です。
6/4に光秀の軍勢を京都に集めるのも結論を迫る朝廷への最後通牒、というよりもっと殲滅的なことを企画していたのではと考えます。これで毛利攻めの前に強引に織田幕府を立ち上げようといった気があったのだと思います。
激烈な方針が接待役解除とともに、信長から光秀は聞かされます。
「6/3夜本能寺にお前の軍勢をつれて来い!これで朝廷がいうことを聞かなければ、快川紹喜和尚と同じ目に合わせるまで、世間に悟られない様に本能寺に軍勢を集めよ、そこで俺は征夷大将軍になり、その名の元、毛利に攻め込む」といったかどうかは分かりませんが近いやり取りがあったのではと思われます。光秀にとって信じられない内容だったことでしょう。信長から足蹴にされたという逸話も、これを勇めたのではと想像します。ただ必要以上に勇めれば自分自身が疑われますので、光秀は一旦素直にいうことを聞いて帰宅したと思われます。
帰宅後光秀は悩みます。織田家は大丈夫かと。。。。流石に快川紹喜和尚を焼き殺してしまったような事をしはしないだろうか。。。。そこで光秀は閃きます。京都には、自分の軍勢1万3千が信長の命令で本能寺に布陣する。幸い息子の信忠もいる。ここで2人を亡き者にしてしまえば、織田家は終わる。信長はそれほどの軍勢は同行していない。織田家武将は各戦線で簡単には戻ってこれない。よし!これは確実に暗殺できる。
その後足利義昭を中心とした政権を早々に立てれば、自分はその政権の中枢に入り、毛利、上杉、長宗我部、北条らも足利幕府の号令であれば矛を収め協力するだろう。。。。
光秀は部下の明智秀満に相談します。一旦は諌められますが、思いが強く他の部下にも相談を持ちかけます。同じく諌められますが、明智秀満は他の人間に話をしたならもう事が漏れるかもしれない、止めることはできなくなったとして、行動に移します。
上杉、毛利、長宗我部、北条へ向け手紙を出します。「自分が6/4本能寺で信長親子を亡き者にする。足利幕府のために馳走せよ」と(これは上杉家に残っています。おそらく他大名にも同様の手紙を送っていると思われます)光秀は信長暗殺に出かけます。
信長は朝廷への工作の一環として大茶会を開き自分の自慢の茶器を見せて自分の偉大さを誇示し、征夷大将軍への任官を示唆します。これで答えが出なければ光秀の軍勢で朝廷に言うことを聞かせるまで、と。。。。
6/4早朝光秀の軍勢は予定通り、本能寺に布陣します。そしておそらく長宗我部との関係で辛酸をなめた斎藤利三や明智秀満など数人で「信長への到着の報告」などと言いながらどやどや本能寺の信長の部屋に押し入り、一気に殺してしまいました。
おそらく光秀の連れている軍勢も何がおきているか、想像できていないうちに事が済んでいる状態だったのではと想像します。信長公記でも信長は朝顔を洗っていたら、外で喧嘩をしている様子を聞いて何事かと思ったら森蘭丸が光秀謀反を知らせるといったなんとも、包囲されて攻められているというのとはかけ離れた情景説明です。
その何人かに討ち取られ信長は殺されてしまうのでしょう。一般的に本能寺の変を描いたドラマでは光秀の軍勢が烈火の如く攻め入るシーンがありますが、状況証拠からして無理があると考えます。
情報が公にならないうちに信忠が宿泊している妙覚寺にも押し入り、一気に親子共々暗殺し、本能寺の変として成功します。光秀はここから一ヶ月くらいの時間の間に足利義昭、朝廷への工作を行い、新しい足利幕府の名の元、主要大名を仲間に引き入れ新しい枠組みを推し進める予定だったと思います。
しかし、光秀にとって予定していない事態が起きます。それは毛利に送った本能寺の変を予告する手紙が5月後半に毛利ではなく、秀吉に渡ってしまったことです。
ここで話を5/末に戻し、秀吉の立場で話しを進めます。今まで秀吉は信長から毛利と本軍決戦するように仕向けろと命令されていました。局地戦での勝利は意味がない為、時間をかけて攻めていました。なぜなら毛利本軍を引っ張り出し、織田、毛利本軍決戦という形を作り毛利の基盤弱体化させるという作戦なのでしょうか。
秀吉の三木城、高松城の戦いを見ているとそうとしか思えません。秀吉の兵糧攻めや、高松城での水攻めはこういった理由から織田軍が毛利本軍を引っ張り出すのが目的の作戦だったと思われます。やっとその有利な体勢で毛利本軍を引張り出し、信長が来るのを待つばかりと思ったら、光秀からとんでもない手紙が舞い込みます。
秀吉はこの毛利宛の手紙を見て驚いたことでしょう。光秀の考えが一気に理解でき、それに対する自分の立場(義昭、光秀の政権での自分の立場)を理解したことと思います。毛利と早く同盟しておかないと大変なことになる。こんな手紙を出してくる光秀なら失敗はしまい。そう思った秀吉は、本能寺の変の前に毛利との講和を独断で進めます。裏切り者のレッテルを貼ったまま殺してしまわないと自分の将来が無い。
もしかすると毛利には利でつって本当のことを打ち明け協力を得たのかもしれません。
これで毛利との講和の話が出来すぎという部分も説明がつきます。
秀吉は5月末から主軍の引き上げ準備を始めます。山崎の合戦では毛利の旗印を一緒
に持っていたなんて話は辻褄が合う流れになります。
秀吉は事前に本能寺の変があることを知ることが出来た結果、当時では想像できない時間で毛利と講和し、姫路城に戻ることができました。秀吉はもしも本能寺の変が失敗に終わっても、手紙を証拠にあわてて戻ってきたともいえますし、成功していれば光秀を主君の仇として征伐できます。勝手に講和する理由も立つわけです。
その証拠に姫路城からの行軍は非常にゆったりとしています。本能寺の変がうまくいったか情報を確認しながら行軍していたのでしょう。迂闊なことは言えませんが、もしかすると5月時点から細川藤孝・忠興などには働きかけていたかもしれません。
近衛前久は光秀のために朝廷工作をしていたのでしょう。まだ朝廷工作を仕切れていないところで、秀吉と相対すことになります。山崎の合戦はご存知のとおりです。
これで光秀の本能寺の変は失敗に終」わります。結局近隣大名に送った予告状が秀吉の手に渡ったことで計画を潰されたと考えれば、情報漏洩が問題だったということですから、光秀と誰かが事前にことを進めるという作戦は非常に危険を伴いますし、この時代に相手をどこまで信じれるか大きな疑問です。私は光秀単独説をとっています。ただ近衛前久を経由して足利義昭とコンタクトしていたというのは無いとはいえませんが、この人たちと蜜月で相談していれば当然怪しまれますので、基本的には光秀単独で、本能寺の変終了後話を持ちかけているというのが実情だと思われます。
光秀を討伐した秀吉は早速、大義名分を作り上げるように画策をはじめます。信長が朝廷に対し行おうとした内容の隠蔽、光秀の謀反として世間に印象つけます。そして自分が仇をうったヒーローであることも。。。更に本能寺の変を自分が知ったのは事変からから2日後だったと。。。。
近衛前久も光秀に協力したことで、追及を受け逃げるはめになります。ここから秀吉の戦略構想は、織田家の再復興に注力します。ただ自分の言いなりになる信雄、三法師を擁立し、自分が政権の中枢を担います。
柴田勝家は中途半端で足利義昭や、毛利に助けを求めているあたり秀吉に押されているとは言いながら、光秀と変わらない政治戦略構想になってしまっています。
秀吉は、織田家の最有力の武将として、また得意の人垂らしで、信長時代とは違った融和策で毛利、上杉、長宗我部などと講和していきます。織田家のイメージが一新したことで無用な戦争を避け、主要大名も同盟関係を結んでいきます。織田家内でのライバルとなる柴田、滝川については自分が織田家最高職に納まるためにも徹底的に滅ぼす必要があったわけです。そこに思うように行かなかったのが徳川家康でした。
織田信孝と家康、さらにバックに北条を付け巨大な反勢力で対抗してきてしまいます。
秀吉からすると家康も邪魔でしょうから、柴田勝家同様に信孝、家康から戦争を仕掛けさせ、一気に殲滅してしまおうと思ったのでしょう。家康も完全に織田家の相続争いに乗り遅れた状況を打破するために一戦でも負けない戦をして見せ、その後の政治をしやすくするという戦略だったと思います。秀吉は意外に難戦している状況に無理に家康を相手にし戦争が長期化する不利を悟り、融和策を持って仲間に引き入れます。秀吉は全面的に信用していないでしょうが、家康はちゃっかり豊臣家の重要な職責を担います。周りの脅威がなくなったところで九州平定戦線に出向きます。ここで足利義昭と和解し、更に近衛前久を許す条件で朝廷に働きかけ関白任官を勝ち取り
ます。これで名実ともに、織田家より格上となり、天下人となったわけです。
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