◆ 読者の声−12 ◆ 水池さんの声  
さて、素人ながら私的な考えを述べさせてもらいます。
まず、私的に疑問に思うのが明智光秀が世間一般でいう「教養もあって繊細な戦国武将」というイメージが果たして正解かという疑問です。確かに教養、技量(戦略、戦術的なもの)、人柄等、当時の戦国武将としてはトップクラス(No1かの2か)とういのは間違いないと思われます。明智軍団における家臣の統率力、組織の作り方、領国における治世等をみてあきらかでしょう。
しかし、私が勉強不足だとしたら申し訳ありませんが、明智光秀個人の人柄を述べた記録を見たことがありません。(出版されていたら教えていただけますか?)私見で申し訳ないのですが、私たち現代人が思っているほど俗に言う「いい人」ではないように思います。個人的には現代でいう「優秀な官僚+適度な野望(天下を望むまではいたらないが)」をもった人ではなかったかと思います。現代においても過去においても「優秀な政治家=いい人」ではないようにです。
ですから、明智光秀は都会人(それも今でいう東京のトップ官僚)が田舎から出てきた急成長のベンチャー企業の社長(織田信長)にヘッドハンティングされたと思えばわかりやすいかなと考えました。
そのヘッドハンティング時に「一緒に夢を追えるひとだなー」とも考えたでしょう。ですから、あれだけのハードワーク(いくさ)をこなせたのだと思います。また、そのハードワークに対して社長(織田信長)も最大級の報酬にて報いたのだと思います。得てして急成長の時は良いのですが、ある一定のレベルを超えて安定した時、明智光秀のような優秀なタイプはいらなくなります。
これは安定期に入るとトップにいる人がよっぽど度量のある人でなければ優秀な人材を疎んじる傾向にあるからです。そのような場合、大体において「移籍(他社へうつる)もしくは独立」の方向にはしります。
また、織田軍団の中においても最強軍団は明智もしくは羽柴となり他は2ランクはおちたレベルに合ったのだと思います。
ましてや明智光秀は都会でトップの仕事をこなしてきておりいくら強い軍団を持っているとはいえ「羽柴ごときに」というおごりもあったでしょう。
織田軍団もかなり強力な軍団ではあったけれどもそのほかの勢力(毛利、島津、本願寺等)と比べた場合、頭1つでる程度にあったと思います。
実際、本願寺や三好三人衆との戦いにはかなり苦戦していました。
他の大名とと比べ優れているところは補給線がしっかりしており絶え間なく戦う事ができる点です。(これは結構重要です)
ですから、明智光秀本人としては本能寺の変以後もなんとかすれば勝ち続けることができるのでは?と考えたのではないでしょうか。
実際、山崎の合戦では皆様ご承知の通り、数では劣勢であったけれどもかなり善戦しているように見受けられます。

だらだらとした文章で申し訳ありませんが要約しますと以下の通りと考えます。

@:明智光秀本人の性格、人柄に対する記録が見当たらない。
A:明智光秀は「優秀な官僚+適度な野望(天下を望むまではいたらないが)」をもった人であり俗にいう「いい人」ではないと推測される。
B:明智光秀は田舎から出てきた急成長のベンチャー企業の社長(織田信長)にヘッドハンティングされた。
C:明智光秀と織田信長は一緒に夢を追える関係にあった。但し、明智光秀本人は他の人(羽柴秀吉、柴田勝家等)は単なる同僚であり
  あまり関心がない(自分の方がよっぽど優れていると思っているし実際そうであった)
D:織田軍団も強力な軍団ではあったけれどもそのほかの勢力(毛利、島津、本願寺等)と比べた場合、頭1つでる程度。その中でもNo1なので
  自分の軍団が1番強いと考えている(実際そうだったのでしょう)

本能寺の変が起こる前は以上のような状況下と考えられます。
さて、なぜ本能寺の変(織田信長殺害)が起こったか考えますと上記にある状況下を考慮し、以下の事柄が考えられます。

@:織田軍団(政権)が安定期に入り優秀な人材が要らなくなった事(個性の強い人)
A:織田軍団(政権)が安定期に入り必要とする人材の種別がかわってきた(明智光秀は両方股に掛けているような中途半端な人材)
B:明智光秀と織田信長との夢は終焉をむかえつつあった。(創業→守成)
C:織田信長と朝廷(天皇)はもめていた(実力者と既成概念しかもたない人達)
D:織田信長と朝廷(天皇)の実力差がありすぎ朝廷(天皇)が有名無実化となりつつあり朝廷(天皇)としてかなり焦りがあった
E:このような時、うってつけの人材(明智光秀)がたまたまいた

以前、何かの本で読んだことがあるのですが、スパイに必要な人柄は「頭がいい、インテリ、プライドが高い、周囲・組織に不満がある」
というのがうってつけだそうです。(ケネディー暗殺に関わったオズワルドはこれにあてはまるようです)
表面上(見かけ)は仲は悪くない社長(織田信長)と専務(明智光秀)は実のところ考え方がいつのまにか全く違っていたと考えられます。
ですから、廻りから見れば「何で?」となり現代に至るまで大きな謎とされてきたのだと思います。
織田信長本人も明智光秀に囲まれた時「何で?」と思ったはずです。高い給料もやり優秀な人材も付け「何が不満やねん」という感じでしょう。
ですから言ったか言わなかったかわかりませんが「是非に及ばず」という言葉(気持ち)はあながちうそではなかったように思われます。
(ここら辺は男女の恋愛と一緒ですね)

私的な結論を述べさせていただきます。

@:明智光秀本人はあまり必要とされなくなりつつある人物になっていた(明智本人のあせり)
A:織田信長として明智光秀本人の気持ちは気付いていない(織田信長の無頓着)
B:朝廷(天皇)は自分たちの存在が消えつつあり焦っていた
  (HPで書かれてます殲滅作戦がなかったにしても江戸時代の朝廷を見ての通り有名無実化という結果は同じと考えます)
C:朝廷(天皇)は自分たちの身を守る為、たまたまいたうってつけの人物(明智光秀)をたきつけた。
D:明智光秀もここらが潮時かと考え、会社を移籍(主人の鞍替え)を考えた。(朝廷という会社は大きな魅力を感じたと思います)

本能寺の変は朝廷が限りなく黒だと考えますが「だれが黒幕」であるとかいうのではなく1つは社長(織田信長)と専務(明智光秀)の
気持ちのすれ違い、もう1つは全てのタイミングが偶然あってしまったのだと考えます。明智光秀自身もノイローゼや発作的にではなく
「いっちょやってみようか!」というバクチ的な要素が強いように思います。
私は色々考える内に明智光秀は結果的には違えど北条早雲(伊勢宗瑞)ににているのでは?と思いました。
(北条早雲(伊勢宗瑞)も名門伊勢一族の一員として幕府申次衆を行っていたといわれております)

さて、ここで疑問なのは以上のことを考えたときなぜ羽柴秀吉が「中国大返し」ができたかということです。
これは私的見地であり日頃勉強なさっているみなさまには申し訳ありませんが秀吉が3万(推定)全軍を引き連れて高松城攻略にあたっていたとは
かんがえられません。これはHP内にあります投稿を読んだ時「なるほど」と思いましたのは「あんな小城1つに3万もの兵をつれていけば糞で廻りが埋まる」
という点です。推測ですいませんが確かに1万もあれば十分かと思います。また、羽柴秀吉の戦い方をみて本陣は別のもの(大体は羽柴秀長)にまかせ
自分は搦め手または側面攻撃を行うとう手法を用いています。(山崎の合戦も柴田勝家との合戦も同じ手法を用いてます)
ですから、本陣は姫路城かもしくは赤穂のあたりに布陣しており攻撃隊として高松城を攻略していたのでは?と考えられます。
(これは本陣を基点に山陽道と山陰道の2方面攻略を想定していたのではないかと考えます)
これだと高松城攻略部隊全軍を帰さなくても極端なはなし自分(秀吉)本人のみ帰ればよい状況にあります。
ではなぜ本能寺の変をしったか?中国大返しができたか?
推測の域を脱しませんが何かの拍子に安土城で社長(織田信長)と専務(明智光秀)がもめるなり意思の疎通がうまくいってないなと
感じたのではないでしょうか?(そのころの秀吉は常務あたりかな?)
なのでどのような状況においても対応できるような布陣をひいたかと考えます。(ここらへんが秀吉の柔軟さと優秀さを物語っているように思えます)
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