◆ 読者の声−1 ◆ 森田丹波守さんの声
さて信長と光秀の関係ですが、これは他の家臣とは全く異なるものであったのは間違いないと思います。他の家臣は信長の命に従うのに汲々としているのみで天下国家の事を語れる人物は居なかったように思います。光秀は明智軍記等によると諸国を回国した後、築城法・砲術・軍法なども会得したと言いますからその意味でも得難い人材ではあったわけです。加えて正妻御濃の方こと帰蝶とは兄弟とも言えるほどの仲の従兄妹だったということですから道三亡き今嫁方の一族としても遇したのではないでしょうか。また土岐明智といえば美濃守護土岐家よりも土岐宗家に近い血筋でありそのことは美濃や諸国の旧家の掌握に充分役だった事でしょう。また織田家家臣で朝廷関係に詳しいもの京都制圧初期には光秀と日乗くらいしか居なかった事も重要でしょう。このために他の家臣とは別格に扱ったのでしょうか。

比叡攻めのあと宿老の柴田勝家や佐久間盛信、お気に入りの羽柴秀吉などをも差し置き城代ではなく近江坂本の城持ち大名として抜擢したのも元亀の信長包囲網寸断における光秀の活躍(特に勅命による朝倉、浅井との和睦:これは信長のプライドとして自分から言出せなかったでしょうから光秀の専断によるものと思えますが)に対しての褒美の意味も有りましょうが京に近く比叡を押さえる要地を与えたのはそれだけ光秀を信じていた事の証ではないかと思います。そして丹波切り取り自由として光秀に与えたのも同じ理由からでしょう。有名な佐久間への折檻状にも秀吉をさしおき光秀のことを第一としている事からも窺えます。

また天正九年の左義長・御馬揃の差配を光秀がおこなったのも信頼する家臣だからでしょう。確かに光秀と信長は性格の不一致があったでしょう。そういう意味で今に伝えられる怨恨説の原形の幾つかはあった事と思えますが、それが即ち決起の原因とは成り得ないと思います。もしそれを原因とするのであれば現代でも同様な事は少なからず行われていることでしょうから暗殺・殺人が日常茶飯事ということになってしまいます。

さてそういうところで怨恨説の是非を検討するとまず有名な「八上城の母見殺し」「丹波近江の召し上げと石見・出雲の給付」と言うのが有ります。「八上城の母見殺し」については当時八上城は落城寸前でわざわざ人質をだすいわれが無い。に加えて別説では逆に城兵が波多野兄弟を捕まえて自らの命乞いをしたとも伝えられます。また八上城落城後すぐに光秀は連歌興行を行っています。普通の人間の精神状態からして母親(またはそれに準じる人)を見殺しにしてしまった後に遊興しようとおもうでしょうか?特に普通の戦国武将よりも繊細な心を持っていたといわれる光秀が。「丹波近江の召し上げと石見・出雲の給付」についてはありえたかもしれません。しかし巷間に伝えられるように即時没収はありえないと思われます。もしそうだとすれば一体どの軍を用いて敵地の攻略を行えと言うのでしょうか。一部その根拠として丹波国衆に出された信孝の徴兵状が挙げられますがこれは単に信孝の兵だけでは四国遠征軍に足りなかったためそのころどことも戦争状態に無かった光秀旗下の丹波国衆を借り受けようとしたものだと思います(このころまだ光秀の中国出兵は決まってなかった)。またもしこ のような命令を出したとすれば即時城受取り奉行が坂本・亀山他の各城に現れるのが当然なのにその記録も気配も無い。またこういう命令を出されれば相手が激昂してしまうかもしれない(普通は頭にきますよね)ことは想像に難くない。だからその時点で明智軍の武装解除をしなければおかしいのにその気配も無い。また信長自身が軽身で京に上った事からしてこのようなことがなかった証明です。もし本当にこのような命令が出されたのであればそれは信長自身が耄碌していて自業自得としかいいようが有りません。但しこのような命令が出されたのは事実かもしれません。ただし即時召し上げでなく新領確保後ですが。それはありえる事です。信長から見れば一国二郡から二国への格上げだと言う意識があったのかもしれません。もしこの説をとるとこの時期信長はすでに光秀を身近に必要とはしていないと言う事になります。それよりも「武将」としての光秀を買っていたと言う事になります。必要とするのであれば現在の丹波・近江に置いておくほうが都合がいいのですから。ただこの件は事実無根とは言いかねない面が有ります。

もともと光秀はその与えられた姓・官名「惟任日向守」からも九州攻めの先鋒を「羽柴筑前守秀吉」「惟住長秀」とともに予定されていた事が窺えます。とすればこの「石見・出雲の給付」についても九州攻めまでの中間処置であったとも窺えます。ただ九州までも制圧した後に光秀をどう扱おうとしていたのかは不明です。そのまま九州に領地を与えるのか、大坂(このころには安土から移っているはずです)に呼び戻すのか。天正十年の光秀は秀吉より下位に位置づけられていたようでなんとも言えません。長宗我部の件、毛利攻めの件いずれも秀吉のほうを立てています。光秀がこの件で「かねがね遺恨あり」としたとも思えます。

だらだら書きましたが要は「信長は光秀を必要としていた。但しそれは初期・中期の事でそのころは自分と同じ視点から天下の事を見れるものとして家臣と言うよりパートナーのように光秀の事をおもっていた。しかし、信玄・謙信らの上洛前の死亡などによって自らの強運を自覚していらいの信長はそれ以前ほど光秀を必要としなくなっていた。それよりも犬のように自らの意に添う秀吉の方をかわいがっていた。そして自らを「神」と称するようになった信長についていけなくなった光秀は同じ危惧を抱いた朝廷とともに信長殺害に走った。」と思います。
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