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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 126
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■■ 今回は「徳川家光」を勉強します!
■■

三重:佳代、ついに江戸幕府の大切な5人の将軍を覚えたよ。
佳代:本当?
三重:本当よ!えーと、まず初代の「家康」でしょ。それから3代の「家光」
   そして、5代の「綱吉」に8代の「吉宗」、最後に15代の「慶喜」ね。
佳代:すごいじゃない。
三重:そうよ。もう、完璧。でも、佳代は、全部知っているんでしょ。
佳代:そうね。でも、なんとなく覚えただけだから。
藤原:その5人がわかっていればいいよ。
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:三重ちゃんも、いつの間に成長しているんだね。
三重:へへへ、まあね・・・\(^o^)\
藤原:とにかく、大切な将軍をしっかり覚えておいて、後で少しずつ付け足
   していけばいい。
佳代:そうですね。わたしだって、その5人の将軍以外は、名前しか知りま
   せん。
藤原:それでいいよ。ところで、今日は、家光をやるのかな?
三重:ハイ、お願いします。
藤原:わかったよ。3代将軍の家光は、1604年に江戸城で生まれた。
三重:すると、家康が征夷大将軍になってからですね。
藤原:そう。しかも、家康や、2代将軍の秀忠とは違い、江戸城で生まれて
   いる。
佳代:つまり、生まれながらの将軍ということですね。
藤原:そうなんだ。その点が、家康や秀忠とは違う。家康は、最終的に勝者
   になったけれども、天下を同じ土俵で争っていた大名がたくさんいる
   わけだ。
佳代:なるほど、そういう意味では、秀忠も同じですね。
藤原:うん、たまたま、天下を取った家康の息子というだけで、彼もまた、
   天下取りゲームのプレーヤーに過ぎなかった。しかし、家光は違う。
三重:そうですね。実際に天下を取った家に生まれたわけですから。
藤原:だから、よくエピソードとして伝えられるのは、家光が「自分は生ま
   れながらの将軍である!」と大見得を切ったということ。
佳代:実際、事実だから仕方ないですね。
藤原:うん、こういうものは、反論できないからね。
佳代:しかし、家光が将軍になるのに苦労しました。
三重:えっ、どうして?生まれながらの将軍なんでしょ。
佳代:そうだけど、ライバルがいたのよ。
三重:ライバル?
藤原:そう、弟の忠長だ。
三重:どうして弟がライバルなのですか?
藤原:そうだね。家光の母が、忠長をかわいがっていた。実際、いろいろ問
   題が多かった家光よりも、忠長の方がいいと父の秀忠も考えたことが
   あったようだ。
三重:えっ、両親ともにですか?
藤原:そう。だから、ピンチだったわけだ。
佳代:それを救ったのが乳母の春日局(かすがのつぼね)です。
藤原:そう、家光の育ての親とも言える、春日局が家康に訴え、家光が後継
   者ということで決着したんだ。
三重:なるほど、家康が言ったのでは逆らえませんね。
藤原:もちろんだ。その後、弟の忠長は、悲運な運命をたどることになるん
   だけど、それはまた機会があったら話そう。
佳代:ハイ。それで、家光の時代は、幕府の制度がたくさんできました。
藤原:そうだったね。有名なところでは、参勤交代を制度化したことがあげ
   られる。
三重:大名行列ですね。
藤原:そうだね。大名は、1年おきに領地を江戸を行ったり来たりする。そ
   して、妻や子は、江戸に住まわせる。
三重:なんか、やな制度ですね。
藤原:そうだね。すると、大名たちの経済的負担は大きなものになる。
佳代:そうやって、大名の力をそいでいったのですね。
藤原:そういうこと。それから、農民に対しても、厳しいお触れを出してい
   る。
佳代:知っています。慶安の御触書です。農民は、米を食うなとか茶を飲む
   なとか。
藤原:そうだね。あまり米を食ってしまうと年貢をさしだす際に影響がある
   し、贅沢をいましめた。
佳代:いわゆる、農民は生かさず殺さずということですね。
藤原:そういうこと。それから、対外的にも大きな動きがあった。
佳代:鎖国の完成です。
藤原:そう、そのきっかけとなった大きな乱があったね。
佳代:ハイ、島原の乱です。
藤原:これは、前に82号でやったから、そちらを読んでもらうとして、この
   乱が、鎖国を急いだきっかけになったことは確かだろう。
佳代:そうですね。島原の乱が、1637年ですし、ポルトガル船の来航を禁止
   したのが、1639年です。
藤原:そのとおり。このように、家光の時代に幕府の制度を整えたことが、
   長い江戸幕府の歴史を作ったといえる。そういう意味では、家光は、
   江戸幕府にとって、ものすごく重要な将軍だったと言える。
佳代:本当ですね。先生、今日はありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
□□

・人物名:徳川家光(とくがわいえみつ)
・時 代:江戸時代(1604〜1651年)
・性 別:男
・地 位:征夷大将軍(江戸3代将軍)
・業 績:参勤交代を制度化、鎖国を完成させる
・その他:島原の乱を鎮圧、慶安の御触書を出す


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 127
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■■ 今回は「徳川綱吉」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代、徳川綱吉は、何であんなに犬を大切にしたの?
佳代:そうねぇ。確か、綱吉は、戌年(いぬどし)生まれだったから、犬を大
   切にしろって言われたみたいよ。
三重:えっ!戌年だから?何、それ?
佳代:なんでも、後継ぎがいなかったから、綱吉の母が心配して、どうした
   ら生まれるかって、ある僧に尋ねたらしいの。
三重:へぇ〜、それで、その僧に言われたのね。
藤原:おう、なかなかよく知っているね。
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:今日は綱吉だね。
三重:ハイ、お願いします。
藤原:うん、綱吉は、今も話題に出ていたように、犬を大切にしたので犬公
   方と呼ばれていた。
三重:動物を大切にすることはいいことですよね。
藤原:そうだね。でも、限度というものがあるからね。
佳代:それが、悪名高き、生類憐れみの令ですね。
藤原:そのとおり。そして、現在でも、綱吉といえば、生類憐れみの令を出
   した、とんでもない悪将軍というイメージがある。
三重:ハイ。わたしも嫌いです。
藤原:でもね、綱吉は、悪い面ばかり強調されているけど、実際は、学問を
   好んだ、これまでとはちょっと違った感じの将軍だった。
佳代:そうですね。湯島に聖堂を建てました。
藤原:うん、彼は、儒学、それも朱子学を重んじた。そして、自分で講義を
   することもあったぐらいだ
三重:えっ、将軍が講義をしたのですか。
藤原:そうらしい。それだけ、学問好きということだね。
佳代:でも、生類憐れみの令だけでなく、貨幣の質を落としたことでも有名
   です。
藤原:そうだね。最近は、元禄バブルなんて呼ぶことがある。
三重:ああ、元禄文化の元禄ですね。
藤原:そう、綱吉の時代は、元禄時代で、文化の花咲いた時期でもあった。
   ちょうど、バブルの時代のように華やかだったけど、ぜいたくな暮ら
   しや、寺を造る費用などがかさみ、幕府の財政は苦しくなっていった。
佳代:何か、今の日本に似ていますね。
藤原:まあね。ある面では似ているといえるだろう。そこで、綱吉は、金の
   含有量を落とした貨幣を作らせたわけだ。
佳代:でも、それで貨幣の値打ちが下がりました。
藤原:そうだね。その分、物価が上がることになる。だから、綱吉の評判は
   地に落ち、綱吉の死を知って大いに喜んだと伝えられている。
三重:やはり、悪いイメージしかありませんね。
藤原:でも、この時代は、ある意味、江戸時代の全盛期ともいえるし、その
   辺は、もっと研究する必要があると思う。とにかく、家康以来続いて
   きた江戸幕府も大きな曲がり角を迎えていたことは間違いないだろう
   ね。
佳代:わかりました。先生、今日はありがとうございました。

□□
□□ 人物データファイル
□□

・人物名:徳川綱吉(とくがわつなよし)
・時 代:江戸時代(1646〜1709年)
・性 別:男
・地 位:征夷大将軍(江戸幕府5代将軍)
・業 績:湯島に聖堂を作る
・その他:生類憐れみの令(1685年)を出す
     貨幣の質を落とす
     元禄文化が栄える


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 128
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■■ 今回は「新井白石」を勉強します!
■■

三重:綱吉、正、享、田、寛、天〜。(注意:巻末参照)
佳代:三重、ついに覚えたのね。
三重:もちろんよ。この前、綱吉をやったから、これからは、しょうきょう
   たかんてんにつながると思って復習したのよ。
藤原:おう、頑張っているね。
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:三重ちゃんも、着実に勉強しているね。
三重:ハイ。大丈夫です。
藤原:それじゃあ、今日は、その「正」にあたる正徳の治を行った新井白石
   を勉強しよう。
三重:お願いします。
藤原:新井白石は、生まれたのは江戸だけど、上総国(かずさのくに)、つま
   り、今の千葉県の久留里藩(くるりはん)に仕えていた武士の子として
   生まれた。
三重:武士の子ですか?
藤原:そうなんだ。しかし、父が浪人することになる。
佳代:それは大変ですね。
藤原:うん、新井家は、本当に大変なことになったわけだ。そこで、白石も
   江戸で寺子屋を開いて、子どもたちに読み書きなどを教えて苦しくな
   った生活を支えた。
三重:えー、そんな過去があったのですか!
藤原:そうなんだ。白石は、小さいころから学問に優れ、その素質も期待さ
   れていたんだけど、そんな状態になってしまった。しかし、30歳をす
   ぎてから、状況が一変する。
佳代:どんな風にですか?
藤原:まず、朱子学者の木下順庵の弟子になったことだ。
三重:そこで、いい成績を収めたのですね。
藤原:そう。いい成績というよりも、弟子の中でトップと言われるほどだっ
   た。そして、順庵のすすめで、甲府の藩主、徳川綱豊(つなとよ)に学
   者として使えるようになったんだ。
佳代:あっ、徳川綱豊って、6代将軍「徳川家宣(いえのぶ)」のことじゃな
   いですか?
藤原:そのとおり。知名度は低い将軍だけど、なかなかの人物だったらしい
   ね。5代将軍、綱吉には、後継者がいなかったので、家光の孫である
   綱豊が、綱吉の養子になって、6代将軍になったということだ。
佳代:それで、白石も中央に進出できたのですね。
藤原:そう。家宣に信頼されていたので、将軍側近の学者として政治にも参
   加した。そして、彼の行った政策を「正徳の治」と呼んでいるわけだ。
三重:なるほどわかりました。新井白石といえば、綱吉時代の質の悪い貨幣
   を元に戻したことでも知られています。
藤原:おう、よく覚えていたね。
三重:ハイ、今日に備えて復習してきましたから \(^o^)\
藤原:よろしい。白石は、財政を建て直すため、貨幣の質を戻し、貨幣自体
   の信用を取り戻すようにした。
佳代:物価の安定を図ったのですね。
藤原:そういうこと。経済っていうのは生き物だから、質の悪い貨幣が出回
   って、インフレが進んでしまった。それを止めようとしたわけだ。
佳代:さらに、白石は、長崎貿易の制限をしました。
藤原:そうだったね。これによって、金・銀が海外に流失するのを防いだわ
   けだ。更に、朝鮮通信使の費用を節約させるなど、財政再建に努力す
   ることになる。
佳代:しかし、家宣は、わずか3年で死んでしまいます。その後を継いだ、
   家宣の子ども家継(いえつぐ)も、わずか8歳で死んでしまいます。
藤原:おお、よく知っているね。そして、後で勉強する8代将軍吉宗の時代
   になる。
三重:吉宗にも仕えたのですか?
藤原:いや、吉宗になったら、用済みということで政治から遠ざけられた。
   その辺は、さすがにシビアだね。
三重:すると、その後はどうなったのですか?
藤原:その後は、学者に戻り、多くの本を書いた。国語の入試問題にも出た
   ことのある「折たく柴の記」とか、歴史書「読史余論」などが有名だ。
   また、鎖国の時代だったけど、世界にも目を向けていて、イタリア人
   宣教師から聞いた話をまとめた「西洋紀聞」など、洋楽のさきがけと
   なった著書もある。
佳代:なるほど、向上心が強い人だったようですね。先生、今日はありがと
   うございました。

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□□ 人物データファイル
□□

・人物名:新井白石(あらいはくせき)
・時 代:江戸時代(1657〜1725年)
・性 別:男
・地 位:儒学者
・業 績:正徳の治(しょうとくのち)と呼ばれる改革を行う
     (貨幣の質を戻す、長崎貿易の制限など)
・その他:著書多数
     折たく柴の記(おりたくしばのき)
     読史余論(とくしよろん)、西洋紀聞(せいようきぶん)など

(注意) 綱吉、正、享、田、寛、天〜

 これは、「つなよししょうきょうたかんてん」と一気に読んで覚えてしま
 います。5代将軍徳川綱吉以降の大きな政治の流れです。

 詳しくは、28号をお読みください。


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 129
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■■ 今回は「近松門左衛門」を勉強します!
■■

三重:元禄文化は、松井千佳〜♪(注意:巻末参照、85号初出)
佳代:あれっ?三重、そんな歌あったの?
三重:そうねぇ。覚えるために作ったのよ。作詞、藤原先生、作曲、山形
   三重でね。
藤原:おう、三重ちゃんが作曲ねぇ。
三重:あっ、先生、こんばんは。
藤原:なかなかいい曲だよ。
三重:先生、からかわないでくださいよ。たったの1小節じゃないですか。
藤原:まあね。しかも、どこかで聞いたことがあるような曲だね(笑)
三重:えっ!やっぱりですか。まあいいじゃないですか。
藤原:すると、今日は、松井千佳をやるのかな?
三重:いえ、松井千佳、つまり、松尾芭蕉、井原西鶴、近松門左衛門の三
   人のうち、近松門左衛門をお願いします。
藤原:わかったよ。門左衛門だね。
佳代:門左衛門も確か武士の子でしたね。
藤原:おう、本当によく知っているね、佳代ちゃんは。
佳代:ハイ。テレビで見た記憶が。
藤原:やはり、お父さんが歴史好きなのが功を奏しているね。確かに門左
   衛門は、武士の子だった。しかし、父が浪人した。
三重:え!それじゃあ、先週やった新井白石と同じじゃないですか。
藤原:そうなんだ。この時代、結構多いんだよね。大名の取り潰しが多か
   ったから。そして、京都にやってきた門左衛門は、貴族に仕えるこ
   とになったんだ。
佳代:貴族ですか!
藤原:うん、それがよかったのかな。貴族の家で、中国や日本の古い本を
   勉強した。そして、劇作家を目指すことになる。
佳代:それで、歌舞伎の台本を書いたり浄瑠璃作者になったりしたのです
   ね。
藤原:そういうこと。しかも、それが大評判となり、一躍、浄瑠璃作者と
   して知られるようになったというわけだ。
三重:門左衛門と言えば、心中物が多いですね。
藤原:うん、代表作として「曽根崎心中」とか「心中天網島」なんていう
   のがあるね。
佳代:「国性爺合戦」も有名ですね。
藤原:そうだね。こちらは、時代物の名作だ。中国の出来事をもとにして
   作ったものだけど、連続17ヶ月上演の記録を作った。
三重:今で言うと、「千と千尋の神隠し」みたいなものですか?
藤原:まあね。内容は別として、当時、圧倒的に支持されたものであるこ
   とは間違いないね。
佳代:しかし、心中物は禁止されてしまいます。
藤原:うん、吉宗の時代だね。実際に、心中が増えてしまったので、幕府
   は、これを禁止することになる。
三重:なるほど、今でも、有名人が自殺したりすると、後追いのような自
   殺をする人がいるのと同じですね。
藤原:そうなんだ。門左衛門は、禁止された翌年死ぬことになる。でも、
   彼の名は、永遠に残ることになった。
佳代:本当ですね。わたしたちだって知っています。浄瑠璃は見たことが
   ありませんが、一度見てみたいと思います。
藤原:そう、機会があったら見てね。
佳代:わかりました。先生、今日はありがとうございました。尚、みなさ
   んにお知らせです。このメルマガは、今年は、今回でおしまいです。
   ご愛読ありがとうございました。来年は、1月11日より再開します。
   これからもよろしくお願いします。それでは、よいお年を!

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□□ 人物データファイル
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・人物名:近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)
・時 代:江戸時代(1653〜1724年)
・性 別:男
・地 位:浄瑠璃作者
・著 書:曽根崎心中(そねざきしんじゅう)
     心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)
     国性爺合戦(こくせんやかっせん)

*注:松井千佳 【松】尾芭蕉、【井】原西鶴、【近】松門左衛門の頭文字
   を取ったもの。元禄文化の代表的な人物。


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■  ■ 大場佳代の            
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■  ■     楽しくヒストリー 130
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■■ 今回は「松尾芭蕉」を勉強します!
■■

三重:ねぇ、佳代。松尾芭蕉って、忍者だったの?
佳代:ああ、そういう噂はあるわね。奥の細道は、スパイとして、あちこち
   調べに回ったとか。
三重:ホントなのかなぁ・・・。
藤原:その辺は定かではないよ。
三重:あっ!先生、こんばんは。
藤原:確かに、松尾芭蕉は、忍者で有名な伊賀の出身だ。それに、奥の細道
   で歩いたところは、外様大名の領地ばかりだし、1日50キロも歩いて
   いるところもある。その辺から、忍者説が出ているようだね。
佳代:確かに、あってもおかしくないですね。何かを隠れ蓑として、スパイ
   をするって、よくある話しですし。
藤原:うん、たとえば、山伏に化けて諸国を回るとか、いろいろあるから、
   俳句を隠れ蓑にして、諸国を探索するって話は面白そうだけど、とり
   あえず、それはそれとして、今回は、俳人としての松尾芭蕉を勉強し
   よう。
三重:わかりました。お願いします。
藤原:まず、さっきも言ったように、松尾芭蕉は、伊賀上野に生まれた。そ
   して、19歳のときに、学問好きの藤堂家に仕えることになる。
佳代:藤堂家ですか?
藤原:そう。しかし、主人が死んでしまい、芭蕉は京都にいき、俳句の修行
   を積むことになる。
三重:え!京都なのですか?芭蕉というと、江戸って雰囲気がありますが。
藤原:うん。実際、京都で数年過ごした後、江戸に向かっている。そして、
   苦しいながらもがんばっていたわけだ。そして、何人かの弟子を持つ
   ようになり生活ができるようになった。
佳代:そうなんですか。厳しいですね。やっぱり。
藤原:うん、そうだね。今でいう芸能人みたいなものだからね。簡単にはい
   かないよ。
三重:それで、どうして、あんな長い旅に出たのですか?
藤原:そうだね。芭蕉は、江戸で流行っていた、面白みのある俳句よりも、
   旅や自然に本当の姿を求めたんじゃないかな?実際、芭蕉の登場で、
   俳句は芸術性を増していくわけだからね。
佳代:そうですね。確かに、自然を詠んだ句が多いです。
藤原:有名なのは、「五月雨を集めて早し最上川」とか「閑かさや岩にしみ
   いる蝉の声」などだね。
三重:私は、「古池や蛙とびこむ水の音」しか知りません。
藤原:そうだね。その句がいちばん有名かもしれない。どちらにしても、芭
   蕉独自の俳句の世界が展開されている。
佳代:有名な「奥の細道」は、俳句を入れながら旅の記録を書いた紀行文と
   いうことですね。
藤原:そう。弟子の曽良(そら)を連れて、江戸から東北を回って、大垣まで
   の長い旅の記録だ。奥の細道は、国語でも勉強すると思うから、その
   辺を頭に入れておいてね。
佳代:ハイ。そして、最後の旅で、有名な句を読みます。
藤原:そうだね。「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」いわゆる、百点満点
   といわれる句だ。大阪に入った芭蕉が病気になり、最後に詠んだ句と
   しても有名だね。
佳代:わかりました。先生、今日はありがとうございました。

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□□ 人物データファイル
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・人物名:松尾芭蕉(まつおばしょう)
・時 代:江戸時代(1644〜1694年)
・性 別:男
・地 位:俳人
・業 績:俳句を芸術的地位に引き上げる
     元禄文化の代表的な人物
・著 書:「奥の細道」「笈の小文(おいのこぶみ)」
     「野ざらし紀行」など

※ 注意 芭蕉の時代は、俳句という言葉はなく、俳諧と呼ばれていま
     した。俳句という言葉は、明治時代「正岡子規」が作ったと
     言われています。


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