「ねえねえ、越前くん、今日ってヒマ?」
「え?」
放課後、部活に向かおうとするリョーマを昇降口で捕まえて、同じクラスの女子生徒が唐突に言った。
「ヒマじゃないよ。部活あるし」
「部活のあとの話よ」
素っ気なく断ろうとするリョーマの行く手を塞ぎながら、その女子生徒は意味ありげな微笑みを浮かべた。
「何人かで集まって七夕パーティーやろうってことになっているの。桜乃も来るから、越前くんも来るでしょう?」
「…………なんで?」
「なんで……って……」
不思議そうに訊ねるリョーマに、女子生徒が苦笑した。
「越前くんと桜乃って付き合っているんでしょ?」
「なにそれ。べつに付き合ってないけど」
きょとんと目を丸くするリョーマの顔を覗き込みながら、その女子生徒はにじり寄ってきた。
「隠さなくてもいいじゃない。もう公認よ。この間だって一緒に駅前を歩いていたの、みんなで見たんだから」
「駅前………ああ、そういえば…」
先週部活のない日に、未だにラケットのメンテナンスの知識がないに等しい桜乃に頼まれて、帰り道だからと一緒にスポーツ用品店に行ったことを思い出した。
「…確かに付き合ったことにはなるか…」
「ほら、やっぱり!」
「は?」
女子生徒は腰に手を当てて、勝ち誇ったようにふんぞり返った。
「じゃ、今日の午後7時半、三丁目の『チビ橋』のところの土手に集合ね!遅れないでね!じゃあ、部活頑張ってね〜」
「え?ちょっ、あのっ」
言いたいことだけを言うと、その女子生徒はさっさと階段を上がっていってしまった。
すると、すぐにその階段の上の方から数人の女子生徒たちが「やった」とか「成功!」と騒ぐ声が聞こえてくる。
リョーマは溜息をついてから、ふと気づいた。
「………三丁目の、土手?」
チビ橋と呼ばれる小さな橋とは少し離れているが、今日は『三丁目の土手』で手塚と逢う約束になっていた。
「まあいっか」
とにかく今は早く部活に出たくて、リョーマはその女子生徒を追いかけてきちんと断ろうとしなかった。
だが、この時その場で断らなかったことを、リョーマは後にほんの少しだけ後悔することになる。





関東大会連覇を目指し、リョーマはもちろん、青学男子テニス部は今、連日ハードな練習を行っている。特にレギュラー陣は、学校で決められている部活動の完 全終了時刻ギリギリまでメニューをこなし、自身を磨き上げていた。
毎日毎日クタクタになるまで練習に没頭しているリョーマは、なかなか手塚に逢う時間が作れない。手塚は手塚で、インターハイに向けて練習がきつくなり、ま た、手塚の性分もあって学業も完璧にこなそうとするため、リョーマとゆっくり過ごす時間を作れないでいるらしかった。
それでも一昨日の土曜日は午後から久しぶりにゆっくり逢うこともできた。
そして、その時に約束したのだ。昨年と同じ日に、同じところで天の川を見よう、と。
「レギュラーはAコートに集合!」
竜崎の鋭い号令がかかり、リョーマは思考を切り替える。
「悪いが、これからちょっと個人的な用があって今日は帰らせてもらう。だが、その代わりに、この後の時間の特別コーチを呼んでおいた。大石!」
「はい」
「大石先輩!」
竜崎に呼ばれて現れた大石の姿に、レギュラーたちはざわめいた。
「お久しぶりっス、大石先輩!」
「元気そうだな、桃」
ニッコリと爽やかに笑う笑顔は中等部にいた頃とちっとも変わらない。少し変わったと言えば、少々髪と背が伸びたくらいか。
「今は大会前の大事な時期だからな。一日でも指導する者がいない状況は良くないと思って、無理を言って大石に来てもらったんだ」
「本当は手塚にも一緒に来てもらいたかったけど、手塚はすでにレギュラー入りしていて、練習が忙しくて来られなかったんだ。残念がっていたよ、すごく」
「手塚部長はもうレギュラー入りっスか!?」
大石の言葉にリョーマ以外のレギュラーたちは驚きつつも納得する。
誇らしげに頷くと、大石は顔を引き締めた。
「昨年経験しているとはいえ、関東大会、そして全国大会は、一筋縄ではいかない相手ばかりだ。全員気を引き締めて練習していこう!」
「ういっス!!」
レギュラー全員が気迫のこもった返事を返す。その様子を見た竜崎は大きく頷くと「じゃあ頼んだよ」と言い残してコートを出て行った。
早速大石流の練習が開始され、リョーマたちはまるで初心に返ったような新鮮な気持ちになった。
「なんか楽しそうだな、越前」
桃城が瞳を輝かせながらリョーマに話しかけてくる。
「桃先輩こそ」
「ああ、なんつーか、時間が戻ったみてぇだなと思って」
「そっスね」
二人は個性的な元レギュラーたちを思い浮かべた。
心配性だがみんなへの信頼と友情の篤かった大石、天才と呼ばれいろいろな意味で恐れられていた不二、いつも元気に飛び回っていた菊丸、データを元に冷静に 熱く戦った乾、人一倍優しいがラケットを持つとパワフルに豹変する意外性を持った河村、そして、その全員の中心に、圧倒的で絶対的な実力と存在感を持つ手 塚がいた。
「でも俺たちは去年よりも強くなっている。そうだろ?越前」
「当然!」
「お前の背も、ちっとは伸びたしな」
ニヤッと笑う桃城に、リョーマはフンと鼻で笑うと「相変わらず桃先輩はオレに勝てないけどね」と反撃した。



「よーし、10分休憩!」
大石の声で一旦練習が止まり、それぞれが休憩に入る。
「越前」
水飲み場で顔を洗っていたリョーマに、大石が声をかけてきた。
「大石先輩」
「また強くなったな、越前。高等部から、合同練習の話が出ているらしいけど、知っているか?」
「え、いえ…」
本当は手塚から話を聞いて知っているが、まだ竜崎の口から聞いていないため、リョーマは知らないフリをする。
「一緒に練習できたら楽しいな。きっと手塚も喜ぶだろうし。……そう言えば越前」
「はい?」
大石の微笑みが深くなったので、リョーマは怪訝そうに大石を見上げた。
「今日知ったんだけど、ついに桜乃ちゃんとつきあい始めたんだって?」
「……………………はぁ!?」
リョーマは盛大に驚いて、持っていたタオルを落としそうになった。
「越前の噂は、高等部にまで聞こえてくるんだよ。高等部に上がってもお前のファンの女子がいるらしいからな」
「はぁ………でも、そのウワサは違うっスよ」
「まあ照れるな。すでに公認なんだろう?よかったな、うんうん」
まるでリョーマの言葉を聞こうとしない大石に溜息をつくと、リョーマはふと訊いてみたいことを口にした。
「手塚先輩は……そのウワサ、知っているんスか?」
「ああ、一緒にいる時にその話を聞かされたから、知っているよ」
「で、なんて言ってました?」
大石はきょとんとリョーマを見ると、ちょっと考え込んだ。
「そう言えば変なこと呟いていたな………また七夕の試練か、とか何とか…」
リョーマは思いきりプッと吹き出した。
「な、なんだよ越前、そんなにおかしなこと言ったか?」
「いえ、なんでもないっス」
小さく肩を揺らしながら、リョーマは「じゃ」と言ってコートに戻ってゆく。残された大石はポカンと口を開けたまま、しばらくそこに立っていた。



「ありがとうございました!」
練習が終わり、大石と挨拶を交わすと部員たちはコートの整備を開始した。
「大石先輩、この後どっかで高等部のテニス部の話、聞かせてくださいよ!」
「うん?ついでに俺におごらせる気か?桃は相変わらずだな」
「違うっスよ!なあ、越前、お前も一緒に来ないか?」
部室に向かうところを呼び止められたリョーマは、肩越しに二人を振り返った。
「…今日は約束があるんで。すみません」
「ちぇー、付き合い悪いぞ、越前」
「いいじゃないか、桃。越前はきっと彼女とデートなんだろう。なあ、越前?」
「彼女???」
驚く桃城を尻目に、リョーマは小さく溜息をつく。
「…………失礼しまーす」
大石相手に本気で訂正するつもりもなく、リョーマはとにかく早く手塚との約束の場所に行きたくて、テキパキと着替え始める。
「ねえ、リョーマくんも七夕パーティー呼ばれたんでしょう?行くよね?」
横で着替え始めたカチローがリョーマに小声で訊ねてきた。
「行かない」
「え?そうなの?なんで?」
視線すら向けずにきっぱりと答えるリョーマに、カチローは目を見開いて聞き返した。
「先約があるから。…行くんだったらみんなに言っといてくれない?」
「ダメだよ、自分で言わなきゃ!」
両手の拳を握りしめて真っ直ぐ見つめてくるカチローに、何か必死なものを感じたリョーマは、短い沈黙の後で溜息を吐いた。
「他に一緒に行く人、いないの?」
カチローは曖昧に頷くと縋るような瞳をリョーマに向ける。
「カツオくんは家族で食事に行くからダメだって。堀尾くんは元から呼ばれるわけないし……他は、知っているけどあんまり話したことがないから…」
「………で、オレに一緒に行って欲しいわけ?」
カクカクと、今度ははっきり何度も頷くカチローに、リョーマはもう一度溜息を吐いた。
「そんなに行きづらいなら行かなきゃいいんじゃない?」
「行きたいんだよ、すごく!………その……ずっと気になっている子も来るって言うから……」
「…………」
リョーマは顔には出さなかったが内心驚いていた。男らしいという言葉と遠くかけ離れたカチローの口から、その手の話題が出るとは思っていなかったのだ。
黙ったままシャツのボタンを止め終わると、リョーマはカチローの方へ向き直る。
「…リョーマくん……やっぱり、だめ……?」
小動物のようなつぶらな瞳で見つめてくるカチローを見て、リョーマは小さく溜息をついた。今日はよく溜息の出る日だなと、ちょっとそんなことを思いなが ら。
「…じゃあ、最初だけ一緒にいるよ。でも途中で抜けるから、その時は協力して」
「え、いいの?うん、わかった、協力するよ!」
ホッとしたように満面の笑みを浮かべるカチローに、リョーマも小さく微笑み返す。
(くにみつにはメールを入れて遅れるって連絡しておこう…)
「じゃ、ちょっとなんか食べない?…ああ、大石先輩と桃先輩におごってもらおうか」
「ええーっ!?そ、それはちょっと…」
リョーマの言葉に慌てて手と首を横に振るカチローに、リョーマは怪訝そうな顔をする。
「まだ外にいるみたいだから、いいんじゃない、べつに」
「あ、待ってよ、リョーマくん…!」
「桃先パーイ、さっきの話、やっぱ行きマース!」
「リョーマくん!!!」
スタスタと行ってしまったリョーマを追いかけて、カチローも大慌てでバッグを掴むと部室から飛び出していった。








「へえ、 じゃあこの後越前と加藤は七夕パーティーなんだな」
「ういっス」
リョーマとカチローと桃城、そして通りがかりに巻き込まれた海堂は大石と一緒に駅前のファミレスに来ていた。
「なんか楽しそうだな。……あ、大石先輩、俺たちも飛び入りで参加ってのはどうです?」
桃城が目を輝かせて大石に話を振る。『お祭り大好き男』の血が騒いでいるようだった。
だがそれまで黙っていた海堂がちょっと大袈裟に溜息を吐いた。
「バカか。下級生たちが緊張しちまって楽しめなくなるじゃねぇか。遠慮ってモンをしらねえのかタコ」
「………んだと、コラ」
「おいおい、勘弁してくれよ、こんなところで」
立ち上がりかけた桃城と海堂は大石の顔を見ると、大人しく席に座り直した。
「あの……」
緊張してほとんど口を開かなかったカチローが、恐る恐る先輩たちの顔を見ながら言葉を発した。
「ん?なんだ加藤。遠慮せずに言ってみろ」
大石の微笑みに少しだけ緊張を解いてカチローも微笑む。
「先輩たちだったら、みんな大歓迎だと思いますよ。今日のメンバーの女の子たち、みんな去年先輩たちのファンだった子ですから」
「去年、かよ…」
面白くなさそうに呟く桃城に、全員が苦笑したが、大石はふいに何か思いついたらしく、いきなり立ち上がった。
「よし、じゃあ、みんなに声をかけてみよう!」
「え?」
呆気にとられて見上げてくる四人に微笑みかけると、大石は「ちょっと電話してくる」と言い残して席を離れていった。
「……みんな、って?」
「まさか…」
「元レギュラーの……」
「みんな……?」
四人は言葉をなくすと、それぞれが胸の中で「そんなにオオゴトにしなくたって……」と呟いた。






大石の急な呼び出しに最初に駆けつけたのは菊丸だった。少し遅れて乾も姿を見せ、ファミレスの一角がささやかな同窓会のような状態になった。
「菊丸先輩、不二先輩は?」
リョーマが菊丸をつついて訊ねると、菊丸が少し間をおいてからニヤ〜っと何か企んでいるような笑みを浮かべた。
「捕まえて来るって言っていたにゃ」
「捕まえる?」
「ふふ〜ん」
すべてを言おうとしない菊丸を軽く睨んでから、リョーマはその企みに気がついた。
「まさか、くに…っ」
「ねえ、リョーマくん、そろそろ行かないと」
カチローがリョーマの肘をクイクイっと引いたのでリョーマはその名を大声で叫ばずにすんだ。
「あ、うん、行こうか」
「いよ〜し、出発にゃぁっ!」
「エージ先輩、相変わらずノリがいいっスね!」
「パーティーだぞぉ、パーティー!あったりまえにゃん!」
以前と変わらずに騒ぎながら先頭を歩く菊丸と桃城に、リョーマは自分でも気づかないうちに小さく微笑んでいた。
(さっき一応メール入れたけど…読んだのかな…くにみつ…)
ファミレスについてすぐ、リョーマはトイレに行くフリをして手塚の携帯にメールを入れておいた。返事がすぐに来ないのはいつものことだが、用件が用件なだ けに、ふと不安がよぎる。
それでも、もしも不二がうまく手塚を「捕まえて」くれるなら、その場でこっそり説明すればいいかもしれない、とリョーマは思う。
「越前、手塚と逢うのは久しぶりなんじゃないのか?」
「え…はぁ」
大石が楽しげにリョーマの肩を叩く。つい一昨日逢ったばかりですとはもちろん言えずに、リョーマは曖昧に返事をした。後ろで乾がクスッと笑ったようだった が、リョーマは気にしないことにする。
「手塚は高等部に入ってますます強くなっているぞ。はっきり言って、先輩たちよりも強いんじゃないかと俺は思っている」
「へえ、そんなにすごいんスか。今年のインターハイはどこでやるんでしたっけ?見に行けるといいんスけど」
本当は全部知っていることを大石に質問していく。その度に乾が後ろで小さく咳払いをした。乾があまりにも咳払いするのを気にしたのか、乾の横にいる海堂が 大石に気づかれないように乾の袖を小さく引っ張り、目で諫めるシーンまであった。
「タカさんが来られないのは寂しいな」
少しして会話が落ち着いた頃、大石がぽつりと言った。
「そっスね」
リョーマも頷く。どうせなら河村にも来てもらって、青学元レギュラー同窓会のように盛り上がりたかった。
都大会で優勝した折、竜崎がリョーマたちレギュラー陣を『かわむらずし』に連れて行ってくれた時も、河村は相変わらず人なつっこい笑顔で迎えてくれた。試 合には必ず応援に来てくれる、青学テニス部の心強いサポーターだ。
「今の時間はちょうど忙しいだろうからなぁ」
「今度、みんなで行きましょうよ、河村先輩の店」
「うん、そうだな」
大石がニッコリと笑った。リョーマも笑いながら、そっと空を見上げた。
(こういう「七夕の再会」もいいかもしれない…)
時と共に少しずつ変わってゆく自分たち。こんなふうに集まって、自分が、そして仲間たちが、少しずつでも前に進んでいることを確認するのもいいかもしれな い、と。
「三丁目って言ったらこの辺だにゃ〜」
先頭を歩いていた菊丸がみんなを振り返って言った。
「もう少し行くとちっちゃな橋があるんです。そこでみんなと待ち合わせているんですけど…」
カチローが薄暗がりに目をこらしながら菊丸の方へ近寄っていく。
「あ、あれだにゃ?結構いるにゃ〜」
「エージ先輩、みやげみやげ!」
「ほいほい!」
菊丸と桃城はいつの間にか途中で買ったらしい大量の花火を抱えていた。
「さすが英二。この辺なら住宅から遠いから、花火で遊んでも住民の迷惑にはならないな」
大石が感心したように言いながら菊丸の方へ走り寄っていった。
「遅いな…不二」
大石の背中を見送り、眼鏡の位置を直しながら乾が呟いた。
「不二先輩も、確かレギュラーの補欠メンバーに入っているんスよね」
海堂が乾を見上げて訊ねると、乾は「ああ」と言って頷いた。
「たぶん、今度の校内試合で二年の先輩と入れ違いにレギュラー入りするんじゃないかな。パワーもだいぶついてきたようだし」
「アンタも、じゃないんスか?」
小さく微笑む海堂に、乾も少し微笑んだように見えた。
リョーマは二人の会話にさりげなく耳を傾け、二人の関係が以前よりも柔らかなものになっていることを心の中で嬉しく思った。
「リョーマくーん、早くーっ!」
カチローが橋の近くでリョーマを呼ぶ。
「不二先輩、もうこっちにいるよー」
「え?」
リョーマはカチローのその一言で、思わず軽く走り出していた。
小さな橋の近く、同級生たちの姿に混じって不二の姿が街灯にぼんやりと照らし出されている。
「結構早めに着いちゃって、三丁目って言うからこの辺を歩いていたら彼らの方に見つけてもらっちゃったんだ」
「加藤くん、不二先輩まで声かけてくれるなんてスゴイ!」
不二の傍に張り付いている女子生徒がカチローを絶賛している。
「お久しぶりっス」
リョーマはちょこんと頭を下げて不二に挨拶してから、不二の周りにざっと目を走らせた。
そんなリョーマを見て、不二がそっと微笑む。
「本当は手塚も連れてくる予定だったんだけど、先約があるからって断られちゃったんだ」
不二が、リョーマにではなく、そこにいるみんなに聞こえるように言った。リョーマがほんの少し眉を寄せて視線を落とす。
「相手の方は遅れて来るみたいだからそれまで一緒にどうかって、僕も言ったんだけど、待つ時間も楽しいからって」
弾かれたようにリョーマが顔を上げる。ふと、目があった不二がニッコリとリョーマに微笑みかけた。
「その相手って、手塚先輩の彼女なんですか?」
不二の傍にいた女子生徒が目を輝かせて不二に尋ねる。不二は「さあ」と首を傾げてみせてから、「でも、」と付け足した。
「待つ時間も楽しいなんて、ちょっとやそっとの想いじゃ言えない台詞だよね。相手のことを考えているだけで楽しいって意味なんだから」
不二の言葉に周辺にいた女子生徒が騒ぎ始める。
「いや〜ん、手塚先輩にラブラブの彼女がいたなんてショック〜」
「でもほら、毎年バレンタインのチョコレートも受け取ってなかったみたいだし、やっぱり大本命がいたってことじゃない?」
「どんな子なんだろうね〜いいな〜手塚先輩みたいな格好いい彼氏がいたら、アタシだってこんなところ来ないよ〜」
リョーマは唇を噛んだ。
自分だって本当は手塚の元へ真っ直ぐに行きたかったのに。今だって、すぐにも手塚の元へ走っていきたいのに。
だが、リョーマは手を強く握りしめながら、その衝動を堪えた。
今、このタイミングでリョーマが走り出してしまったら、手塚のその相手がリョーマであると暴露しているようなことになってしまうからだ。
しだいに男子まで巻き込んで「手塚の本命」の話に花が咲きそうになるのを、桃城の声が一変させた。
「おらおら、話ばっかしてねぇで、夏の夜は短いんだぜ?」
「じゃ〜ん、みんなでやろうと思っていっぱい買ってきたにゃ〜ん!」
桃城の横から、花火を大量に抱えた菊丸も顔を出した。
「わぁっ、すご〜い、私たちが用意したのよりたくさんある!」
「七夕花火大会の始まりにゃ〜ん!」
「僕はちょっとだけお菓子を買ってきたよ」
不二も持っていたコンビニの袋を掲げてみせるとみんなから歓声が上がった。
「但し、各自出したゴミは持ち帰るんだぞ!」
「はぁ〜い!」
大石の一言に全員が笑いながら返事を返した。
「花火、配るにゃ〜ん!」
菊丸がスキップしながら一人一人に花火を配り始めた。
「ほい、おチビも!」
「はぁ…」
リョーマに手渡されたのはネズミ花火だった。
「うまくやるにゃん」
「え?」
菊丸にそっと耳打ちされてリョーマが目を見開く。
「左前方30°ってところか?」
「じゃ、俺は右に投げた方がいいっスか」
乾と海堂もネズミ花火を手にして不穏な会話をしている。
「越前」
桃城がやはりネズミ花火を5,6個持って近づいてきた。
「…なんスか、桃先輩」
「俺も人が好いよな、ったく…」
リョーマの傍まで来た桃城は盛大に溜息を吐いた。
「不二先輩からあんなこと聞いちゃあ、手を貸してやらないわけにはいかねぇな、いかねぇよ」
「?」
「どうせお前のことだから、一旦は断ったくせに加藤に泣きつかれてここに来ちまったんだろう?」
リョーマは何も言わずに真っ直ぐ桃城を見つめた。
「ま、とにかく、お前は素直にチャンスを生かすんだ。俺たちのチームワークをナメんなよ」
リョーマは目を見開いた。周りを見回すと、先輩たちが皆微笑みながら頷いてくれる。
「……ういっス!」
「では、作戦を話すから耳を貸してくれ」
乾が低い声をさらに低くして、話し始める。リョーマ、不二、菊丸、桃城、海堂は頷きながら自分の手の中にあるネズミ花火をそれぞれ確認した。
「…というわけだ。あとは花火の音と煙、そしてこの薄闇が、何とかしてくれるだろう」
「さすが乾、完璧だね」
ニッコリと笑いかける不二に、乾はニヤッと笑ってみせた。
数カ所にセッティングしたろうそくにまず火をつけ、「まだちょっと明るいけど」と言いながら待ちきれない様子でみんなが花火に火をつけ始める。あちこちで 歓声が湧き花火の音が大きくなると、菊丸が隣の不二と頷き合った。
「せーの…っ」
二人は手にしていたネズミ花火に同時に火をつけ、カチローの背後に投げた。
「加藤くん、危ない!」
「えっ?うわぁっ!!!」
不二の声に振り向いたカチローは、自分の足下でシュンシュンと音を立てて回り始めるネズミ花火に驚いて飛び上がった。最初のターゲットはカチローだった。
「うわぁぁっ、なんで二つもあるの!」
「加藤、こっちだ!」
大石がちょっと笑いながらカチローに自分の方へ逃げてくるように言う。しかし、その瞬間、乾の目が光った。
「今だ、海堂、投げろ」
「ういっス」
海堂が持っていたネズミ花火に火をつけ、大石の足下に投げ込む。
「うわっ」
「先輩っ!」
大石の元へ逃げていったカチローも巻き込んで、二人の周りでネズミ花火が勢いよく回り出す。
「どんどん投げろ!」
「ういっス!」
「大石先輩、すんません……」
次々に投げ込まれる花火に、大石はしだいに焦り始めた。
「なんなんだ!こらっ」
「大石、これは反射神経を鍛えるトレーニングになるぞ」
「え?そ、そうか、さすが乾だな」
人の好い大石は乾の言葉に素直に頷くと、真剣な顔で花火を避け始める。
「ほらっ、おチビ!」
「越前、今だぞ」
「手塚によろしくね」
「またゆっくりデータ取らせてくれ」
「さっさと行け」
五人の先輩たちが代わる代わるリョーマにそっと声をかけた。
リョーマは大きく頷くと、自分のネズミ花火三ついっぺんに火をつけて投げ、くるりと身を翻した。
「わっ、バカっ、こっちに投げんじゃねえよ!」
「にゃぁぁぁっ」
「わぁぁぁっ」
「まさかこっちに投げるとはっ!作戦が……っ!」
「さすが越前だねっ」
リョーマの投げたネズミ花火を避ける五人の叫びはしだいに笑い声になり、振り返りもせずに走り去るリョーマを柔らかな瞳で見送った。






リョーマは走った。
待ち合わせの場所は、『チビ橋』からさほど離れていないとはいえ、不二の言葉からすると、もうだいぶ手塚を待たせていることになる。
向こうに大きな橋が見えてくる。その少し手前で、リョーマは足を緩めた。
薄暗がりの中、土手に座る人影がぼんやりと見える。
「くにみつ?」
名を呼んでみると、その人影が動いた。
「…早かったな」
「………」
リョーマは何も言わずにバッグを振り落として走り出すと、その勢いのまま手塚に飛びついた。
「……なんだ、どうした?」
手塚がしっかりと受け止めてくれたのが嬉しくて、リョーマは抱きついたまま小さく笑う。
「くにみつ」
「ん?」
「くにみつ」
「…なんだ?」
手塚がリョーマの背を優しくポンポンと叩いた。
「好き」
言いながら、リョーマが手塚に口づける。
「好き。大好き」
もう一度、リョーマから口づけると、手塚からも優しい口づけが返ってきた。
そうやってしばらく戯れるように口づけてから、リョーマがそっと身体を離した。
「遅れてごめん」
「気にするな」
俯くリョーマに、手塚が優しく微笑みかける。
「見てみろ、リョーマ。星が見えてきた。この分なら今日もきっと、天の川の場所がわかるぞ」
「…そっスね…」
いつの間にか星が目立つようになった夜空を見上げて、リョーマも微笑んだ。そこには昨年と同じように、少しだけ明るい色の空が川の流れのように長く連なる のだろう。
「合宿の時もちょっとだけ見えたよね」
「ああ」
「こんなふうにのんびり眺めていられなかったけどね」
「そうだな」
リョーマは手塚の横に寝転んだ。手塚も同じように寝転んで空を見つめる。
その二人が見つめる夜空に、ピュウという音と共に小さな光が上がっていった。
「あ」
小さな光が一瞬姿を消し、直後にパンッと音がして弾けるように光が飛び散った。その後も二、三回上がったが、それきり静かになった。
「大石先輩がやめさせたのかな」
「だろうな」
住宅地から離れているとはいえ、小さくとも打ち上げ花火の音はかなり響き渡る。たぶん大石が住民に迷惑になるからと、やめさせたのだろう。
「…そういえば……大石先輩と一緒に、『オレのウワサ』聞いたみたいっスね」
「……ああ」
リョーマは身体を起こすと、手塚を覗き込んだ。
「ちょっと心配になった?」
「いや」
チラッと視線をくれただけで、夜空を見つめたまま返事をする手塚に、リョーマは少しだけ頬を膨らませた。
「全然?」
「ああ」
「ふーん」
リョーマは膝を抱えて溜息を吐いた。
「……クラスの女子なんか、オレが否定しても全然信じてくれないし…大石先輩も『よかったな』とか言うし……さっきは竜崎がどこにいたかわかんなかったか ら騒がれなかったけど………卒業するまでオレは竜崎と付き合っていることになっちゃうのかもね」
「………そうだな…」
ぽつんと返された言葉に、リョーマは恨めしげな瞳でチラリと手塚を見た。
「アンタは平気なわけ?」
「…………」
手塚は小さく溜息を吐いた。
「真実でないことに振り回されたくはない」
「……」
「……と、言いたいが」
手塚はリョーマの腕を引いて自分の胸に引き寄せた。
「あまりいい気はしない」
「…素直に『腹が立つ』って言えばいいのに」
胸の上でふて腐れたように小さく呟かれたリョーマの言葉に、手塚は思わず苦笑した。
「ああ、腹が立つ。お前は俺のものなのに、興味本位で流される噂を、俺には止めることができない」
「くにみつ…?」
ふと、顔を上げてリョーマは手塚を見つめた。
「お前は俺のものだ」
「そうだよ」
射抜くような熱い手塚の瞳をリョーマの瞳が受け止め、同じだけの熱さを含めて真っ直ぐ見つめ返す。
「誰にも渡さない」
「うん」
リョーマは微笑むと、伸び上がって手塚に口づけた。そっと唇を離して見つめ合うと、今度は手塚が身体を起こすようにしてリョーマに口づけた。
触れるだけのキスを何度も何度もしてから、手塚がそっと、リョーマの唇を噛む。たまらずにリョーマの唇から漏れた吐息を封じ込めるかのようにもう一度口づ けながら、手塚はそっと体勢を入れ替えた。
「リョーマ…」
唇の隙間で名を囁き、手塚がリョーマにのしかかるようにして深く口づける。
リョーマは手塚の背に回した手で、ギュッと手塚を抱き締めた。






身支度を済ませて土手に腰を下ろし、二人は改めて夜空を見上げた。
もうすっかり暗くなった空に、うっすらと天の川が見えている。
「…去年よりはっきり見えてるっスね」
「ああ、そうだな」
夜空を見上げながら、リョーマがクスッと小さく笑った。
「…なんだ?」
怪訝そうに尋ねる手塚に、リョーマはちょっと小悪魔のような瞳を向けた。
「去年よりアンタすごかったから、来年はどうなっちゃうのかなって」
「………」
手塚は一瞬目を見開くと、「そうだな…」と考え込むようなフリをした。
「来年は、ここではなく、落ち着ける場所で朝まで一緒にいないか?」
「え?」
驚いたように目を見開くリョーマに、手塚は柔らかく微笑んだ。
「夜の別れは切なく感じるからな…それなら朝まで一緒にいればいい」
「……っ」
リョーマは暗がりでもわかるほど、真っ赤に頬を染め上げた。
「べ、べつに、切なくなんか、ないけどっ」
「俺は切ないぞ」
「え?」
頬を染めたまま、リョーマは手塚を凝視した。そんなリョーマにそっと口づけると、手塚は小さく溜息を吐いた。
「夜は闇に包まれて目に見えるものが少なくなる分、感性や感情が豊かになるんだろう。日の高いうちは気を紛らわすこともできるが、夜になるとお前のことば かり考えている」
「くにみつも…?」
手塚はゆっくり頷くと、リョーマの頬にそっと手を添えた。
「せっかくこうして夜に逢えたのに、またお前と離れなくてはならなくなるのが、少し、切ない」
「同じ…だったんだ…」
「ん?」
優しく問い返す手塚に微笑みかけながら、リョーマは頬に触れる手塚の手に自分の手を重ねる。
「さっきから、アンタと離れるのがいやだなって、……ずっと考えてた」
手塚はふっと笑うと、リョーマの頭を抱き寄せた。
「俺の前では何も繕わなくていい。俺も、お前にはすべてを見せているつもりだ」
「…うん」
「逢いたい時は逢いたいと言え。欲しいなら欲しいと言え。俺にできることは、すべて叶えてやる」
手塚の言葉に、リョーマの心が震えた。
返事をしようと思うのに、声すらうまく出せなくて、リョーマはただ頷くしかできない。
黙ったまま身体を預けてくるリョーマを、手塚は愛しげに深く抱き締める。
「俺がこの世で愛するのはただ一人、お前だけだ。だから、お前が俺に望むことはすべて叶えてやりたい」
「くにみつ…」
「愛しているんだ。お前以外は、いらない……」
リョーマは手塚の身体を強く抱き締め返した。
自分も手塚と同じだと言いたい。でも今の自分では、まだまだ手塚の願うことすべてを叶えてやると、口に出して言うことさえできない。
「オレも、アンタだけを愛している……だから…」
手塚国光という男を、自分は心から愛している。だから、
「オレは、もっともっと…いろんな意味で強くなるよ」
「…………」
手塚は目を見開いた。そして、強い瞳で自分を見つめてくるリョーマを、真っ直ぐ見つめ返す。
「アンタを、すごく、愛しているから…」
手塚を愛している、だからこそ、自分が自分の思い描く人間になれるように、日々を過ごして行かねばならないと、リョーマは思う。
「……やはり、去年の俺たちとは、違うようだな」
「え?」
「空の二人に見せつけてやろうと言っただろう。今の俺たちは、去年の俺たちよりも、ずっと前に進んでいる。お前もようやく、本当の意味で、俺たちの未来を 見るようになった」
「あ…」
「お前も俺も、互いを想う気持ちは常に大きくなってきている。だがそれだけでは二人の未来に光は差さない」
リョーマは心の奥の一番大切なところに届く心の耳を傾けて、手塚の言葉を聞く。
「誰に頼らなくとも生きていけるほど強くならなくてはならない。そのために、今、しておかなければならないことを、残さずやり尽くすことが、俺たちの未来 に繋がっているんだ」
「……うん」
リョーマは力強く頷いた。
今まで漠然と『一緒にいたい』とだけ感じていた未来への想いが、この瞬間からはっきりとしたイメージを伴って、自分たちの前に現れた気がした。
「ずっと、一緒に前に進んで行こう、リョーマ」
「ういっス!」
次に空の恋人たちと再会する時には、また一回り成長した自分を見せたいと、二人は思う。



『星祭り』、それは恋人たちが互いへの変わらぬ想いを確認し合う、年に一度の契りの夜。
だが、この日、星祭りの夜は、手塚とリョーマにとっても、互いの未来への想いを確認し合う、大切な記念日になった。




THE END
2004.7.7

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◆◆◆◆◆◆後日談◆◆◆◆◆◆


星祭りの翌日は、やはり快晴だった。
しかし、朝練開始直前の青学テニス部のコートの一角では心なしか雨雲が垂れ込めている。
「リョーマくんがいなくなっちゃってから、昨日は大変だったんだよ」
ストレッチをしているリョーマの元へやってきたカチローがいきなりそう言って話し始めた。
「僕たちがあそこに着いた時、ちょうど小坂田さんと竜崎さんが近くのコンビニまで飲み物とか買い足しにいっていたんだって」
「……ふーん。それで?」
カチローは青ざめると、リョーマの腕を掴んだ。
「僕、本当に、小坂田さんに殺されるかと思った……」
「…………」
カチローの話によると、桜乃たちと入れ違いにリョーマたちが現れたことは仕方がないとしても、自分たちがいない間に「花火大会」が始められてしまい、さら にはちゃんと来ていたはずのリョーマの姿がいきなり消えていたことに、桜乃の親友・小坂田朋香が激怒したらしい。どうやらカチローには朋香から「リョーマ 様を絶対に連れてくるように」という指令が下っていたらしかった。
「おかげで僕が話をしたかった子とはほんのちょっとしか話ができなかったし…ネズミ花火を一生懸命避けていたせいで汗だくになっちゃうし………」
はぁっ、と深く溜息をつくカチローに、ほんの少し申し訳ないとリョーマは思った。朋香の命令が下っていたとはいえ、カチローの想い人が参加していることは 嘘ではなかったらしい。
「でも楽しかったんだからいいじゃねえか、加藤」
そう言いながら近づいてきた桃城がカチローの肩をポンと叩いた。
「それとも全然楽しくなかったか?ん?」
「いえ……楽しかったです」
「だろう?不二先輩のおかげで、あの可愛い子とも話ができたんだしなぁ〜」
桃城の言葉に、カチローは一気に耳まで赤くなった。
「し、失礼しますっ!」
逃げ出すように行ってしまったカチローを見やって、リョーマは小さく溜息を吐いた。
「昨夜は熱かったよなぁ、越前」
「…そっスね」
「打ち上げ花火の音、聞こえたか?」
「はぁ…三回くらい聞こえましたけど」
「あれ、俺が上げたんだよ。そしたら大石先輩に怒られた」
「あ、やっぱり」
笑いながら言う桃城に、リョーマも笑いながら立ち上がった。
「………そういや、さ」
「なんスか?」
桃城が笑顔を消して、内緒話をするようにリョーマに顔を寄せる。
「……不二先輩と菊丸先輩に、会ったか?」
「は?」
きょとんと目を丸くするリョーマを見て、桃城は引きつった笑いを浮かべた。
「やっぱそうか…」
「何なんスか?」
大きく溜息をつくと、桃城は哀れむような瞳をリョーマに向けた。
「打ち上げ花火のあと、しばらくしてから、不二先輩と菊丸先輩が先に帰っていったんだ」
「はぁ」
訝しげに桃城の話に耳を傾けるリョーマは、次に発せられたその言葉に思考回路が停止した。
「そん時に不二先輩が、こっそり『ちょっと手塚と越前に会ってから帰ろうかな』って言ったんだ……」
「……………」
「……………越前?」
「……………」
「まさか……最中だったとか?」
「……………」
「おい?」
目を見開いたまま硬直していたリョーマが、桃城に覗き込まれてやっと我に返った。
「………七夕の、試練……」
「はぁ?」
今度は桃城が怪訝そうな声で問い返した。
「……いや……」
ガックリと脱力したように膝に手をついて大きく息を吐くリョーマに、桃城も頭を掻きながら小さく溜息をついた。
「卒業しても、不二先輩には要注意、ってか?」
「そっスね………たぶん今頃…あの人も固まってるかも………」


     ◆◆◆


手塚が息を吹き返すまでに、数分が経過していた。
「僕たち以外誰も歩いていなくて、本当によかったね」
「………そうだな」
手塚は額を押さえながら、ゆっくりと言葉を返した。
「……今回も携帯に何か残しているんじゃないだろうな?」
「暗かったし、ちょっと遠かったから無理だった。残したかったんだけど」
何でもないことのように言う不二に、手塚の目が一瞬吊り上がった。が、目を閉じて大きく息を吐き出すと、不二を真っ直ぐ見つめて余裕の笑みを浮かべる。
「そうか。携帯を買い換えずにすんでよかったな」
不二は一瞬目を見開くと、「そうだね」と言って楽しげに笑った。そして笑いながら「でも、」と切れ長の目を手塚に向ける。
「本当は、見られてもいいって、どこかで思っていたんじゃない?」
「え…」
「特に、ウワサの彼女、とか…」
「…………」
手塚はすっと目を細めると、何も答えずにラケットを手に取った。
「手塚?」
「……『通りかかった』のがお前たちで本当によかった」
「………」
「おかげで俺は己の人間性を貶めずにすんだようだ」
ガットを整えながら呟かれた手塚の言葉に、不二は小さく目を見開いてから、ゆっくりと瞬きした。
「………欲張りなのかな、僕たちは……」
「そうかもしれない」
ラケットを一振りすると、手塚が強い光を湛えた真っ直ぐな瞳を不二に向けた。
「だが、人には必ず、他人には決して譲れないものがあるはずだ」
「…………」
「あいつだけは、誰にも渡さない。何があっても。……何を、しても。」
切れ長の目を一瞬細めてから、不二は嫣然と微笑んだ。
「いい男になったね、手塚」


     ◆◆◆


その日の夜、リョーマと手塚は電話で前日の件を少しだけ話した。
『まさか今度も落ち込んでないよね?』
「ああ、大丈夫だ」
受話器の向こうで笑いながら言うリョーマに手塚も小さく笑いながら答える。
『今回もなんかリベンジしたいっスよね。…また四人でどっか行く?』
「バカ。そんなことをしても不二は懲りないぞ。放っておけ。それよりリョーマ」
『何?』
ちょっとふて腐れたようなリョーマの声に、手塚が柔らかく目を細める。
「旅行の件だ。行きたいところは思いついたか?」
『あ、まだ……』
そう言いかけて、リョーマは少し黙り込んだ。
「リョーマ?」
『……あのさ、軽井沢、行かない?』
「軽井沢?」
『去年、アンタがドイツに行っている時、立海大と対戦する前に、短期で合宿したっしょ。その時使った宿舎の近くに、大和先輩の知り合いが経営するペンショ ンがあるって言ってたから、そこなんかどうかなって』
手塚はちょっと考えてから「なるほど」と頷いた。
「あそこなら近くにコートもあるし、いいかもしれない。明日、大和先輩に話を聞いてみよう」
『うん!』
弾むようなリョーマの声に、手塚の心も沸き立つ。
「…久しぶりにゆっくり二人だけで過ごせるな」
『そっスね。ずっと一緒だね………ちょっとは寝かせてくれる?』
「…ばか」
手塚は内心、ほんの少しだけ狼狽えた。
そのためだけに旅行に行くわけではないと自分に言い聞かせているが、いざリョーマを目の前にしたら、ちゃんと寝かせてやれる自信が、手塚にはない。
だがとりあえず今はそれを口にせず、旅行の日程をあれこれ楽しくリョーマと語り合う。
「そろそろ寝た方がいいんじゃないか?」
チラッと時計を見た手塚は、知らぬ間にずいぶん長く話していたことに気がついた。
『ホントだ、もうこんな時間?…じゃあ、また明日……大和先輩に話聞いたら、いろいろ教えて』
「ああ。明日、また今日と同じ時間に電話する」
『うん………』
名残惜しげなリョーマの声に、手塚はそっと微笑んだ。
「愛してる、リョーマ」
『……オレも……愛してる、くにみつ。………じゃあ……おやすみ』
「ああ……おやすみ」
少し間があってから通話状態がプツッと切れるまで、手塚は受話器を耳から離さなかった。心に広がるどうしようもない切なさに、目を閉じて深く溜息を吐く。
静かに受話器を置いてから、手塚はゆっくりと立ち上がって窓に歩み寄った。
(空の二人はこんな切なさを抱えたまま一年を過ごすのだな…)
それでも、相手のことだけを想ったまま空で眠ることができるのなら、それはある意味幸せなことかもしれないと手塚は思う。
リョーマへの想いが深くなるに連れて、同じように膨らみ続ける『独占欲』という名の心の闇。その闇がリョーマへの純粋な想いを追い越し、いつか手塚自身を 飲み込んでゆくのではないかと胸が苦しくなる。
(こんな想いを…あいつに話したらなんと言われるのだろう…)
手塚は微かに眉を寄せると、窓枠を握り締めた。
(それでも、俺はあいつしか愛せない……)
たとえ自分の想いの大きさに自分自身が苦しんだとしても、リョーマを手放すことの方がその何倍も、何十倍も、いや、もはや今の自分には考えられないほどの 苦痛が手塚に襲いかかることだろう。そしてそれは、確実に、手塚の心を壊してしまうに違いなかった。
(だったら、俺の選ぶ道はただひとつだ)
手塚はもう一度、夜空を見上げた。
引き返すことができないのなら、ただひたすらに、前へと進むしかない。
そうしていつか、心の闇さえ凌ぐほどの愛し方をしたいと、手塚は強く願う。
永遠に愛を交わし合う天空の恋人たちよりも強い絆を、自分とリョーマで作り上げたい、と。
「まだまだ、だな」
そう呟くと、手塚は小さく微笑んで網戸を閉めた。

天空に横たわる川が、まるで互いを想い合う恋人たちへ贈る夜想曲の調べのように、静かに流れていた。






後日談/THE END






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