シンデレラをさがせ!


    温もり    

<最終話>




こんなにも愛おしい朝を迎えたことがあっただろうかと、リョーマは思った。
部屋の中を照らしていた月光はいつの間にか温かな日光に変わり、自分の身体はしっかりと手塚の腕に抱き締められている。
いつ眠りについたのか記憶はないが、窓の外が闇色よりも少し明るくなり始めたのを見た記憶はある。
「……起きたのか?」
掠れた甘い声にそっと尋ねられ、リョーマはゆっくりと頷いた。
「…どこか、痛いところはないか?」
言いながら、手塚は優しくリョーマの髪に口づける。
「のど」
掠れた声でリョーマがそれだけ言うと、手塚は小さく苦笑した。
「水、飲むか?」
「まだいい」
起き上がりかけた手塚の肩越しに、自分が昨夜手塚から受け取って床に落としたままのペットボトルが目に入ったが、リョーマは慌てて手塚にしがみつく。
「もう少し、このままがいい」
渇ききった喉を潤すよりも、今は、手塚に包まれていたい。
甘えるようにリョーマがそう言って手塚を見遣ると、手塚は柔らかく微笑んでリョーマを抱き締め直した。
「リョーマ…」
「ん……?」
聞き返すが、手塚はまた微笑んだだけで何も言わない。
リョーマもクスッと小さく笑って、手塚の胸に頬を擦り寄せた。
昨夜はあれだけ艶めいた音に満ちていた部屋が、今はとても穏やかに、静かに時を流す。
それでも触れ合う肌と肌に、甘い温もりがじわりと広がり始めている。
「…あのさ…」
「ん?」
リョーマが呟くように口を開くと、手塚が先を促すように優しくリョーマの髪を撫でた。
「……昨日の朝練の前に、大石先輩と、話、してたでしょ?」
「……ああ…」
「あの時、大石先輩に、『お前たちはきっと、噂されているような爛れた関係じゃなくて、もっと綺麗で、強くて、深い絆なんだろうな』って言われたんだ」
「………」
リョーマが、黙り込んだ手塚をゆっくり見上げる。
「オレは、綺麗じゃなくてもいいし、爛れててもいいよ。国光のこと、好きな気持ちはもうどうしようもないから……」
「リョーマ…」
「だって、オレは嬉しかった。国光とひとつになれて……すごく、気持ちよかったし、幸せになれた。だから……」
リョーマの言葉を遮るように、手塚が微笑みながらリョーマの額に口づける。
「俺たちは間違ったことをしているわけじゃない」
「国光……」
「愛し合う者同士が相手のすべてを愛してなにが悪い?相手の心も身体も愛せない愛など、ただの思い違いだ」
「………」
手塚はもう一度リョーマの額に口づけ、その瞼にも唇で触れる。
「俺はお前を愛することを、誰にも、何にも、恥じたりしない。後ろめたさもない。………ただ、今の俺はまだ無力だから、俺たちの関係が公になったことで傷つく人たちを、護る術がない」
「……うん…」
「だがいつかは周りに宣言するつもりだ。俺は誰よりも越前リョーマを愛しているのだ、と」
「国光…」
「嫌か?」
「イヤじゃない」
リョーマは微笑んで手塚の胸に顔を埋める。
「オレだって宣言したい。アンタは……手塚国光は、オレだけのものなんだって!」
「リョーマ…」
「オレと結婚して、国光」
「え?」
「形式とか何でもいいから、今すぐじゃなくてもいいから、いつか、オレと結婚して!」
真剣な瞳で手塚を見つめると、手塚は短く沈黙したあとでふわりと笑った。
「喜んで」
「国光!」
歓喜と感動が込み上げて来て、リョーマは噛み付くように手塚に口づけた。
「ん…」
「……ばか…っ」
唇の隙間でそう呟いた手塚が、いきなり体勢を入れ替え、リョーマを組み敷いた。
「え…?」
「お前のシンデレラはケダモノだと言っただろう?迂闊に煽るな」
「ぁ……」
ドキドキと加速し出したのは、どちらの鼓動か。
「まだ日は昇ったばかりだ。皆寝ている」
「ぁ、んっ」
肌を弄られ、性器を擦り付けられてリョーマは悶える。
「部活……練習できなくなっちゃう…」
「煽ったのはお前だ」
「あ……ぁんっ」
赤い跡の残る肌に新たな刻印を施され、リョーマは熱い吐息を零しながら、小さく微笑んだ。
「やっぱ最強シンデレラ」
リョーマの呟きに、手塚も小さく微笑む。
「それはお前だ」
クスクスと笑い合って額をすり寄せ、やがてしっとりと口づける。
「ホントにするの?」
「嫌なのか?」
手塚が小さく苦笑すると、リョーマの胸が痛んだ。
「違…っ…、あの……ホントに、オバサンたち、寝てる?」
「……たとえ起きていても、ここは向こうの寝室とはかなり離れているから声は聞こえない」
「……うん……じゃあ……しよ?」
手塚がふわりと微笑んでリョーマに口づける。
「…愛してる、リョーマ」
「オレも……国光のこと、愛しちゃった」
はにかんでリョーマがそう言うと、手塚はさらに笑みを深くしてもう一度リョーマに口づける。今度は深く、甘く、激しく。
「ぁ……」
「たまらない」
「んっ」
窓から徐々に日の光が差し込み始める。
手塚に揺さぶられながら、リョーマはうっとりと目を細めた。
(新しい世界が……キラキラしてる……)
「国光……好き…っ」
「リョーマ…っ」
二人で迎える新しい朝は、煌めきながら始まった。












午後になり、リョーマは重い身体をなんとか動かして、手塚と共に部活に参加していた。
「越前」
短い休憩に入り、予想通り不二に声をかけられてリョーマはそっと溜息を吐いた。
「解決したみたいだね?」
「……なんでそう思うんスか?」
「だって、越前の動きがいつもより鈍いから、昨夜、オオカミさんに食べられちゃったのかな、って思って」
「なっ」
迂闊にもリョーマは頬を真っ赤に染めてしまい、不二の言葉を認めたようなことになってしまった。
「ふぅん、やっぱり?」
「………」
少し悔しくて不二を小さく睨むと、不二はいつものように笑いながらリョーマの頭を優しく撫でた。
「……あの日、僕と乾も空港にいたのは、もう話したね?」
「え?…ぁ、はい」
「半分は君に対する興味もあったけど、半分は、手塚のことが本当に心配だった」
「え…」
「午前中の部活で、手塚がベンチに座ったまま立てなくなってね。乾と僕とで保健室に運んで熱を測ったら三十九度。本人は大丈夫だって頑に言い張っていたけど、絶対に途中で倒れると思った」
リョーマは愕然として不二を見つめた。
昨夜手塚は、自分は治りかけだったから平気だと言っていたが、それは全くの嘘だったことになる。
(そういえば、あの時の国光の手、あったかかった…)
熱が出ていたリョーマが『温かい』と感じるほど、手塚の身体も発熱していたということだ。
「手塚がそこまで無理をしてでも逢いたい子っていうから興味があったけど、その相手も具合が悪そうで、心配が二倍になったよ」
「………」
「でもね、どうしても手塚は、僕たちには一緒に来て欲しくないみたいだから、あとからそっとついていって見守ってたんだ」
リョーマは小さく目を見開いた。
(だから乾先輩は、「よく見えなかった」って言ったのか…)
「そうしたら手塚、君の前ではシャンとしてて、君を抱き上げて、しっかりした足取りでトイレに連れて行ったり………愛の力は偉大だなって感心しちゃった」
「あ、愛…って…」
リョーマはまた迂闊に頬を染めてしまい、不二に微笑まれてしまった。
「手塚が、どれだけ君のことを大切に想っているかがよくわかってね……手塚の恋が成就するように、僕たちは一切口を出しちゃいけないと思ったんだ」
「だから、乾先輩の行動に気をつけていたんスか?」
「うん。乾って、結構他人のことには無頓着だから、あっさり何もかもバラして、せっかくの手塚の初恋を滅茶苦茶にしそうだったから」
「………そ…だったんスか…」
不二は自分たちの関係を楽しんで見ているわけではなかったのかと、リョーマは心の中で少し反省した。
(悪い人じゃあ、ないんだ)
「……でも、君がコロンの香りに惑わされるとは思っていなくて、予想外に楽しめたかな」
「………は?」
「あ、練習再開するみたいだね。じゃ、またね」
ニッコリと微笑み、不二はクルリとリョーマに背を向けて歩いて行ってしまった。
(やっぱ……腹黒……?)
リョーマは深い溜息をひとつ吐いて、不二のあとを追いかけるように、Aコートへと向かった。






動きの鈍い身体をなんとか動かしているうちに漸く練習が終わり、リョーマはコート整備を始めた。そこへ、桃城が軽い足取りでやって来た。
「越前」
「なんスか?」
いつものようにリョーマが返事を返すと、いつもとは少し違う桃城の笑顔を向けられた。
「…部室で待ってるから、ちょっと時間くれよ」
「………ういーっス」
帽子をかぶり直す振りをして、リョーマは笑みが零れてしまう口元を隠す。
桃城の様子からして、『いい話』なのだろう。
「じゃ、あとでな」
「ういっス」
部室に向かう桃城を見送っていると、その視線の先にいた手塚と目が合った。
(ぁ……なんか怒ってる)
他の人間には「いつも通り」に見えるかもしれない手塚の表情も、リョーマの目にははっきりと、その不機嫌さがわかった。
リョーマはさりげなくブラシを引きずって手塚の方へ歩いて行き、「部長」と声をかける。
「なんだ」
幾分低めの声で手塚が答える。
「桃先輩にちょっと頼み事したんだけど、そのことで桃先輩から報告があるって。アンタも一緒に聞いて欲しいんだけど、いい?」
小さな声で手短に話すと、手塚は一瞬目を見開いてから、黙って頷いた。
「じゃ、部長、またあとで」
「ああ」
リョーマが帽子を取ってペコリと頭を下げ、顔を上げ際にニッと笑ってみせると、手塚は一瞬目を丸くしてから、小さく苦笑した。



リョーマがコート整備を終えて部室に戻りゆっくり着替えていると、目論見通り部室に残るのが桃城と自分と、そして手塚だけになった。
「桃先輩、いいっスよ」
「え、いいのか?」
桃城が目で手塚を示すと、リョーマはクスッと小さく笑って頷いた。
「あ〜、まぁ、そうだよな。『二人の』関係することだし?」
桃城が楽しげに言うと、手塚が座っていた椅子をずらして振り返った。
手塚と目が合い、桃城は一瞬顔を引きつらせる。
「で、どうなったんスか?桃先輩」
「あ、ああ」
桃城は苦笑すると、ひとつ息を吐いてから口を開いた。
「まず、噂を流し始めた三年生を特定できた。生徒会室の手前に写真部の部室があるだろ?そこで昼休みも活動している先輩だった」
「ふーん」
黙って話を聞いている手塚が頷くリョーマをチラリと見遣り、小さく眉を寄せる。
「その先輩はゴシップ大好きらしくてさ、それとなく、『ソーユーの』が好きな女子たちに噂を流したみたいだ」
「?」
手塚が怪訝そうに、さらにきつく眉を寄せるのを見て、リョーマが補足する。
「今時の女子って、『禁断の愛』が好きらしいっス」
「……」
手塚が目を丸くしてから、小さく苦笑する。
「それで?」
「ああ、その先輩、結構えげつない噂とか流すの好きみたいで、今までもいろいろ嫌な思いした人がいるらしいんだ。だから、ちょっと、噂を逆流させてみた」
「逆流?」
リョーマと手塚が目を見開く。
「今までその先輩がいろいろ噂を流したのは、自分のことを隠すためだった!…みたいな?」
「あー……」
コクコクと頷いてリョーマは納得した。手塚はまだ怪訝そうにしている。
「写真部顧問の数学の先生、いるだろ?生徒に思いっきり嫌われてる先生。あれとアヤシイことになってるって、ことにしてみた」
「うわ…」
リョーマが苦笑すると、手塚も溜息を吐いた。
「ま、これで、『噂を流された側の人間』が、いかに嫌な思いをするかがわかるんじゃないっスかね?」
桃城がチラリと手塚を見遣ると、手塚はもう一度溜息を吐いてから、口を開いた。
「……噂の元がお前だとはバレないのか?」
「ああ、それは大丈夫っス。不二先輩とかも手を貸してくれたんで」
「不二?」
「不二先輩が?」
驚く手塚とリョーマを交互に見て、桃城はニカッと笑った。
「不二先輩が味方なら、百人力、いや、千人力、っスよ?」
手塚とリョーマは顔を引きつらせ、同時に深い溜息を吐く。
「………噂よりも厄介なヤツに頼んだものだ」
「あとが怖そうっスね」
ぼそぼそと二人で呟き合うと、桃城が笑った。
「大丈夫っスよ。今回、部長と越前の噂が流れて、一番怒っていたのは不二先輩なんスから」
「え?」
「不二が?」
目を見開く二人に、桃城は笑顔で頷く。
「僕の友人たちを傷つけるのは許せないね、って。そりゃもう、怖かったっスよ」
意外なことを聞かされて、リョーマは言葉を失くした。
「怒らせると怖いっスけど、本当はいい人っスよね、不二先輩」
「………そうだな」
手塚が溜息を吐き、だが小さく微笑みながらそう言った。
「これで、部長と越前の噂は立ち消えになるだろうし、あの写真部の先輩もこれで懲りるだろうし、一石二鳥っスね」
「ありがと、桃先輩」
「いいってことよ。可愛い後輩と、我がテニス部の部長のためだからな」
胸を張ってそう言いのける桃城に、小さく微笑みながら手塚も礼を言う。
「気を遣わせて悪かったな、桃城。ありがとう」
「う、あ、い、いえっ、べつに、そんな、大げさなことじゃ…」
手塚の微笑みに驚いたのか、しどろもどろになる桃城を見て、リョーマはムッと唇を尖らせる。
「……じゃ、じゃあ、俺はもう帰ります。越前、部長と帰るんだろ?じゃあな」
「ういっス。ありがと、桃先輩」
「ああ、また明日な」
ポンポンとリョーマの頭を軽く叩いてから、桃城は「失礼しまーす」と言って部室から出て行った。
残されたリョーマと手塚は、暫く黙り込んでから、二人同時に小さく溜息を吐く。
「……本当はあまり褒められたやり方ではないが、『目には目を』か…」
「………」
呟く手塚に、リョーマは黙ったまま近づいてゆく。
「?…どうした?リョーマ?」
リョーマはムッとしたまま、手塚の背中に抱きついた。
「リョーマ?」
「………オレ以外の人に笑いかけちゃダメ」
「え…?」
さらにギュッと強くしがみつきながら、リョーマは感情を押し殺したような声で囁く。
「アンタ……笑うとスゴイ綺麗なんだから……オレ以外に、笑顔見せちゃダメ」
「………」
そのままリョーマが黙り込むと、手塚も暫し黙り込んでから、クスッと笑った。
「笑わないでよ」
「すまない」
「独占欲、オレも強いみたい」
「ああ。俺は嬉しい」
「嬉しい?」
リョーマが身体を離すと、手塚はリョーマを振り仰いで微笑んだ。
「俺はお前だけのものなんだと思える」
「………うん」
リョーマは手塚の前に回り込み、跨がるようにして手塚の膝の上に座る。
「大好き」
「ああ。俺もお前が好きだ」
「ここでスル?」
「ばか」
甘く囁き合い、しっとりと口づけを交わす。
「……国光に触ってると、気持ちいい」
「ああ……俺も、お前に触れていると心地いい…」
微笑み合い、ゆっくりと抱き締め合う。
「……ね、訊いてもいい?」
「ん?」
手塚に抱きついたまま、リョーマはその耳元で話す。
「オレに、眼鏡をどうしても返さなきゃならなくなった理由って、なに?」
「………」
「国光?」
手塚は暫く沈黙してから、静かに告げた。
「あの眼鏡が、『形見』になってしまったからだ」
「カタミ?」
「お前の大好きだったお爺さんは…お前と俺が出逢った日の夜に、亡くなられた」
「…………え?」
リョーマは、ゆっくりと手塚から身体を離した。
「なに?それ……どういう、こと?」
「長く心臓を患っていらっしゃったそうだ。お前も覚えていたんだろう?眼鏡をもらった日、お爺さんがベッドで寝ていたと」
「ぁ……」
リョーマが目を見開く。
「……夜遅くにリッキーから電話があって……お前を置いて先に帰ってしまったことを気にしていた。家族が呼びに来て、お爺さんの最期をみんなで看取ったそうだ」
「そ……な……っ」
「最期は苦しまず、とても安らかに、眠るように逝かれたそうだ」
見開いたリョーマの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「……お爺さんは、本当にお前のことが大好きだったそうだ。毎日毎日、リョーマは来ないのかと、お前が遊びにくるのを心待ちにしていたらしい」
「……」
唇を噛み締めてリョーマはポロポロと涙を零す。
そっと、手塚が涙を拭ってやっても、あとからあとから綺麗な雫は零れ落ちた。
「たぶんお爺さんは自分の死期を悟っていたのだろう。それに、二日後にはお前が引っ越してしまうことを知って、お爺さんはお前に眼鏡を渡したんだ。自分を忘れないで欲しい、と。そんな大切なものを、俺がもらったままにしておくことは、出来なかった」
「………っ」
リョーマはギュッと目を閉じ、手塚にしがみついた。
「オレも……ホントに、大好きだった……自分の、お爺ちゃんみたいで……大好きだった……っ」
「そうか」
手塚が優しくリョーマの背中を撫でる。
暫くそのまま泣き続けたリョーマがやがて落ち着いて来ると、手塚はそっとリョーマの身体を離し、涙でグチャグチャになったリョーマの顔を覗き込んだ。
「リョーマ」
「………」
「こうは考えられないだろうか。お前の大好きなお爺さんは、最期に、俺とお前を結びつけてくれたんだと」
「……ぇ…」
手塚が優しく、リョーマの頬を両手で包む。
「お前のことが大好きだったお爺さんは、お前に幸せになって欲しいと思って、俺と出逢わせてくれたのではないだろうか」
「ぁ……」
手塚がそっとリョーマの額に自分の額を擦り寄せる。
「俺は、お前の大好きなお爺さんから、お前を託された気がしている。幸せにしてやってくれ、と」
「国光…」
「俺は、必ずお前を幸せにする。もちろん、お爺さんの想いを引き継ぐためだけじゃなく、それが、俺の幸せでもあるからだ」
真っ直ぐに、手塚の瞳がリョーマの濡れた瞳を捉える。
「俺は、お前を独りにしたりしない。ずっと一緒にいる」
「………うん…」
「だから、もう、泣くな」
「ん……」
リョーマは頷き、新たな涙を零しながら微笑んだ。
「泣くなと言っている」
手塚は小さく苦笑し、リョーマの涙を唇で掬い取る。
「国光」
「ん?」
「大好き」
「ああ」
強く引き寄せられ、リョーマはしっかりと手塚に抱き締められた。
優しい手塚の温もりに、リョーマは新たな涙を零す。
鮮明に覚えているわけではないけれど、あの頃の自分は、確かにあの老人のことが大好きだったし、微かに覚えているシーンも、みんなの笑顔に包まれていた。
(そうか……だからあの眼鏡に触れたとき、あったかい感じがしたんだ…)
見た目はゴツい黒縁眼鏡なのに、それを手にした途端広がったあの安らぎの意味が、今なら分かる気がした。
「……お爺ちゃん……魔法使いだったのかな……」
「ん?」
そっと呟かれたリョーマの言葉に、手塚は優しく聞き返す。
「魔法使い?」
「だって……」
リョーマは手塚に身体を預けて目を閉じる。
「シンデレラの物語の中で、魔法使いはいろいろなものを魔法で変化させてシンデレラに与えるけど、たったひとつだけ、ガラスの靴だけは、魔法使いが用意したものでしょ?」
「あぁ…」
「十二時になって、綺麗なドレスとかアクセサリーとかカボチャの馬車とか、全部なくなっちゃったけど、唯一、ガラスの靴だけは消えなかった」
リョーマはそっと手塚から身体を離し、泣き腫らした目で手塚を見つめた。
「消えなかったガラスの靴のおかげで、王子サマとシンデレラは再会できて、幸せになれた」
「……ああ…そうだな」
手塚が微笑んで頷くと、リョーマの瞳からまた涙が溢れてきた。
「お爺ちゃんのおかげで、オレは、国光に逢えたんだ…っ」
涙を零しながら微笑み、リョーマはそっと手塚に口づけた。
「オレ、国光に逢えて幸せだよ。すっごい、幸せ…」
「俺もだ、リョーマ。お前に出逢えて、こうしてお前が腕の中にいること以上の幸せなんてない」
「うん」
リョーマは微笑み、手の甲で涙を拭った。
「お爺ちゃん……オレが笑うとお爺ちゃんも笑ってくれたんだ。だから、お爺ちゃんのことで泣くのは、もうやめる」
「リョーマ…」
ニッコリと笑い、リョーマは手塚の膝から降りて立ち上がった。
「教えてくれてアリガト、国光」
「……あぁ」
手塚もゆっくりと立ち上がる。
「帰るか」
「日誌は?」
「明日でいいそうだ」
「うん、じゃ、帰ろう」
バッグを担ぎ上げ、微笑むリョーマに手塚も柔らかく微笑みかける。
「……ところでリョーマ、お前、忘れ物していないか?」
「忘れ物?」
きょとんと目を丸くするリョーマに、手塚は小さく苦笑した。
「眼鏡」
「眼鏡?………あっ!」
「俺の部屋に置いたままだろう?」
「ヤバ……今から取りに行ってもいい?」
「ああ」
「…それで、その……」
「ん?」
モゴモゴと口籠るリョーマを見て、手塚がクスクスと笑い出す。
「じゃあ、『ついでに』俺の部屋で少しゆっくりして行くか?」
「うん!」
嬉しそうに瞳を輝かせるリョーマに、手塚がさらに笑みを深くする。
「ぁ…べ、べつに、わざと忘れたんじゃないからね!た、たまたまホントに……」
「わかったわかった。ほら、帰るぞ」
リョーマの頭を優しく引き寄せ、手塚はドアに向かう。だがふと足を止めて、じっとリョーマを見下ろした。
「……なに?」
「俺も忘れ物だ」
「え……」
怪訝そうに目を見開くリョーマの顎を引き上げ、手塚は素早くリョーマに口づけた。
「ん!」
そのまま暫くリョーマの唇を深く味わい、ゆっくりと離れる。
「………」
「…家まで保たないからな。補給させてもらった」
「………ばかっ」
頬を真っ赤に染めてリョーマは小さく抗議する。
そんなリョーマの額に軽く口づけ、手塚は笑いながらドアを開けた。
「…なあ、リョーマ……いつか、またアメリカに行くことがあったら、リッキーに案内を頼んで、一緒にお爺さんの墓参りをしないか?」
「うん……」
部室の鍵を閉めながら言う手塚に、リョーマは力なく頷く。
「でもオレ、リッキーが今どこにいるかわかんないよ」
「大丈夫だ。俺が知っている」
「ぁ、そっか…」
「それにいつか、俺たちはコートの上でもリッキーに再会することになると思うぞ?」
「え……?」
手塚はリョーマを見下ろし、ふわりと笑った。
「リッキーの本当の名前は、『リチャード・スタンリー』だ。聞いたことくらいあるだろう?」
「それって、前に全米オープンジュニアで優勝した……え?……リッキーって……」
「リッキーは愛称だ。何度かお前とニアミスを繰り返していたらしいぞ?」
「マジっ?」
リョーマは暫く愕然とし、大きく溜息を吐いて肩を落とした。
だが。
「……笑っているのか?」
俯いたリョーマの肩がフルフルと揺れるのを見て、手塚は小さく笑う。
「……うん。楽しみが増えたなーって思って」
ゆっくりと顔を上げたリョーマが、コートに立った時のような、生意気な笑みを浮かべていた。
「リッキーには一度も勝ったことがないから、次に会った時には、やっと倒せるよ」
強気なリョーマの言葉に、手塚はクッと笑う。
「今のお前ではまだまだリッキーには勝てない。もっと強くなることだ」
「大丈夫。オレはまだまだ上に行くんだから。そうしていつか、アンタもリッキーも、全部追い越して、一番上に立つ」
「頼もしいことだが、そう簡単には抜かせない」
「全国大会が終わったら、また試合してね、『部長』?」
「ああ、いいだろう。楽しみにしている」
互いに強い光を宿した瞳で暫し見つめ合い、やがて同時にふわりと微笑む。
「行こう」
「うん」
さりげなく身体を触れさせ合いながら、二人は歩き出す。
「ねえ、お腹空いた」
「マック寄るか?」
「いいの?」
「ああ、夕飯までにはまだ少し時間があるからな」
「…また誰もいないといいな」
ぼそりと呟かれたリョーマの言葉に、手塚が小さく苦笑する。
「また襲われたいのか?」
「べ…、べつに…………襲われてもいいけど……」
「ばか」
手塚に頭を引き寄せられ、掠めるように髪にキスされる。
「ダメだよ。大石先輩が、人目は避けた方がいいって!」
「…………確かにな」
手塚が大きく溜息を吐いてリョーマを離す。
「せっかく桃城や不二が骨を折ってくれたのを、無駄にするわけにはいかない、か」
「そうだよ。もう外でしなくたって、オレは、アンタのものなんだから…いつでも、出来るでしょ?」
「………」
上目遣いで見つめてくるリョーマをじっと見つめ返し、手塚はまた溜息を吐く。
「な、なに?」
「いや………今までよりもさらにきついな」
「え?」
「お前の甘さを味わってしまったから……さらに抑えが利かなくなった」
「………」
(ぁ……もしかして前にセクハラがきついって言ったのは、我慢できなくなりそうだったから……?)
今更ながらにあの時の手塚の心情がわかってしまい、リョーマは心の中で苦笑する。
「じゃあ……寄り道しないで、アンタの家に直行しようよ」
リョーマが頬を赤く染めてぼそりと呟くと、手塚は暫し黙り込み、小さく溜息を吐いてから、リョーマの肩を抱いて早足で歩き出した。
「く、国光?」
「また母さんにエボ鯛でもリクエストするか?」
「は?」
「家に着いてからリクエストすれば、一時間くらいは…」
大真面目な顔でそんなことを言い出した手塚を見上げ、リョーマはぷっと吹き出した。
手塚はクスクス笑うリョーマをチラリと見遣り、ムッと唇を引き結ぶ。
「さ、さすがに、二日続けては、変でしょ?」
「………そうだな」
「でも、旬を外した魚とかなら、大きなスーパー行かないと、売ってないんでしょ?」
「………」
手塚がまたチラリとリョーマを見遣り、クスッと笑う。
「旬を外した魚、か…」
「秋刀魚?」
「いや、秋刀魚はそろそろ出始めているぞ。冷凍物もあるしな」
「うーんと…じゃあ、鰹!」
「太刀魚」
「トビウオ!」
「シイラ」
「え?なにそれ?」
きょとんと目を丸くするリョーマに手塚が笑い出す。
優しい風が二人の髪を揺らし、二人の足下から長く伸びた影が、時折そっと寄り添い合った。





いくつもの出会いがあり、いくつもの別れがある。
出会いと別れを繰り返し、強い心と、それを支える強い絆を、人は少しずつ育んでゆく。
その中で、記憶に残るほど大切な出会いを、人はいくつ経験できるだろうか。
奇跡のような再会の瞬間を、人はいくつ迎えることが出来るだろうか。

出逢いは偶然。
しかし『偶然』は、いくつも重なれば『運命』と名が変わる。
最初は『偶然』かもしれなかった二人の出逢いも、時を重ね、想いを重ね、それは確かな『運命』へと進化した。
だがこの先の運命は偶然の重なりで決まるものではなく、自分の力で、より光満ちる世界へと切り開いてゆくものだ。
シンデレラとの再会を諦めなかった二人は、そのことに、きっともう気づいている。


記憶に残る出逢いと、奇跡のような再会を果たした二人。
彼らそれぞれの物語は今やっとひとつとなり、終わることのない幸せな恋愛物語を、二人の手で、綴り始めた。






長い長いお付き合いありがとうございました!
一言ご感想いただければありがたいです!!!
また、次作もぜひお付き合いください!

                                                                
    

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そしてこのあとに続く言葉をどうぞお聞かせください…
10000字まで一度に送れます(妖笑)
もちろん、押してくださるだけでも次回への励みになりますのでよろしくお願い致します!

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20080919

























 
























 
 
 







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