  
        空の蒼 
          
        
  
 
 
 翌日、リョーマより先に目覚めた手塚は、腕の中で眠るリョーマを見つめ、幸せを噛み締めていた。 
一晩中溶け合い続けた身体には心地よい怠さが残り、リョーマの身体に残る赤い花びらがさらに情事の記憶を呼び覚ます。 
リョーマの身体をそっと引き寄せ、その髪に顔を埋めて甘い薫りを胸いっぱいに吸い込む。 
相変わらずリョーマは花のような薫りがしていて、特に髪は薫りが濃い気がした。 
(俺だけが感じる、お前の薫り…) 
他の誰も、リョーマの花のような薫りを話題にした者はいない。 
これだけ甘く印象的な薫りに他の誰も気づかないのは妙だとは思うが、手塚だけが感じ取っているなら、それはそれで満足感がある。 
(お前の薫りだから、感じ取れるのかもしれないな…) 
他の者にとっては微かな薫りでも、手塚にとっては深く想う相手の薫りだからこそ、はっきりと感じ取れるのかもしれない。 
そう思うと尚更、リョーマの薫りに酔う自分が誇らしくさえ思えてくる。 
(いや……俺は最初にリョーマの薫りを感じて、その存在に気づいたんだ。だとしたら、この出逢いは、必然的な偶然だったのか……) 
時にはそれを、人は「運命的な出逢い」と呼ぶ。 
そんな感慨に耽りながらリョーマの髪を撫でていると、当の本人が、ゆっくりと覚醒を始めた。 
「ん……クニミツ……?」 
「…もう少し寝ていていいぞ。まだ時間がある」 
少し早めにセットしたアラームが鳴るまでまだかなり時間がある。 
ひどく掠れたリョーマの声を聞いて、ただでさえ身も心も疲労していたであろうリョーマを容赦なく一晩中貪り尽くしてしまったことを、手塚はほんの少しだけ後悔した。 
だがリョーマは、ゆっくりとした瞬きを何度か繰り返してから、大きな瞳で手塚を見つめてきた。 
「おはよ、クニミツ」 
「おはよう、リョーマ」 
ふわりと微笑むリョーマの額にチュッと音をさせて口づけると、リョーマがお返しとばかりに手塚の唇に触れるだけのキスをしてくる。 
そのままバードキスを繰り返し、二人でクスクスと笑い合う。 
「…身体は大丈夫か?どこか痛むところは…?」 
「へーき。それよりクニミツこそ、肘、大丈夫?」 
「ああ」 
そう言えば湿布をせずにリョーマとのSEXに夢中になってしまったなと、内心では苦笑しつつ、表面は平然と答えてみせた。 
(だが、昨日の違和感は…) 
昨夜、男に抑えつけられた時に感じた肩の違和感が気になる。今はもうあの時の違和感は跡形もなく消えているが、長く肘の故障を抱えていたことが原因となって、肩に何らかの負担をかけているのかもしれないと、一瞬だけ、手塚は表情を曇らせた。 
(今後の試合で、影響が出なければいいが…) 
胸を掠めた小さな不安を隠すようにリョーマを抱き締めると、リョーマは何かを感じ取ったらしく、笑みを消して手塚の瞳を見上げてきた。 
「……オレ、クニミツのこと大好きだけど、クニミツのテニスも、好きだよ」 
「え…」 
「絶対、また試合しよう、クニミツ」 
「………」 
言外に、次にリョーマと戦うまでに身体の不調をすべて治せと言われた気がした。 
「…そうだな……全国が終わったら……また、真剣に戦おう」 
「うん」 
リョーマが真っ直ぐ手塚の瞳を見つめながら、コクリと頷く。 
「じゃ、ゆびきりしようよ、クニミツ」 
「ゆびきり?」 
「大事な約束を破らないように」 
手塚は小さく目を見開いてからクスッと笑みを零し、リョーマが差し出す小指に自分の小指を絡ませた。 
「ゆーびきーりげーんまーん…」 
リョーマが時折声を掠れさせながら、どこか楽しげに最後まで歌い上げる。 
「ゆーび、きった」 
満足げにリョーマが微笑む。そんなリョーマを見つめて、手塚も微笑んだ。 
「……あのさ……前に、『ゆびきりしたことある』って言ったじゃん。今思い出したけど、母さんとゆびきりしたのは、アイツがいなくなった次の日だったと思う」 
リョーマが言う『アイツ』というのは、黒川氏によって生み出された『彼』のことだ。 
「母さんがオレをギュッと抱き締めてから『約束して』って言ったんだ」 
遠い記憶を辿るように、リョーマが伏し目がちに瞳を揺らす。 
「『昨日まで一緒にいた子のことを誰かに訊かれても、知らないって言おうね』って。それでオレ、誰にも言わないようにしようって思っていたら、いつの間にか、記憶自体に鍵がかかっちゃったんだと思う」 
「…そうだったのか…」 
もしかしたら、リョーマの母親は遠くない未来に、『彼』を連れ去った機関がリョーマに対しても何らかの接触をしてくると思っていたのかもしれない。その時のことを思って、リョーマに口止めをしたのだろう。 
(いや、あるいは…) 
南次郎と同じ遺伝子を持つ『彼』の行動を予想し、いつか『彼』が機関を抜け出した時に、『彼』の行動の枷にならないようにと、すでに予防線を張っていたのかもしれない。 
昨日初めて彼女と話をしたが、彼女はとても聡明で、思慮深い女性だと感じた。 
なにしろあの南次郎を射止めたほどの女性だ。瞬時に先々のことまで考えを巡らせていたとしても、おかしくはない。 
「ねえ、クニミツ」 
リョーマが手塚の腕をすり抜けて、肘で身体を支えながら手塚の瞳を覗き込む。 
「黒川さんの口から、オレがクローンじゃないって聞いても、クニミツ、あんまり驚かなかったでしょ?……なんで?」 
「……クローン人間というものが存在すると言うこと自体に疑問を持っていたせいもあるが、……あの少し前に、お前が『どこに連れて行かれるのか』と不安がっていただろう。だから、クローン云々と言うより、彼らが探している『実験体』は、まずお前じゃないと思った」 
手塚の言葉の意味がよく理解できないらしく、リョーマが眉を寄せて首を傾げる。 
「彼らは『連れ戻す』と言っているのに、お前はその場所を『知らない』のなら、お前はその場所にはいなかった、つまり、お前は研究所に閉じこめられて育ったわけではないと、思ったんだ」 
「ぁ……そっか…」 
リョーマは今初めてそのことに気づいたらしく、目を丸くして感心したようだった。 
「それに、初めてお前の口からクローンの話を聞いた時も、疑問点はいくつかあった」 
「え?」 
「まずお前の身長から言って特に『成長が早い』とは思えなかった。中1男子の標準的な身長だったからな。むしろ小さいくらいだろう」 
「ぁ……」 
「それに、新聞に書いてあったように『逃げ出した』という割には、南次郎さんは友人たちにアメリカを出ることを知らせていたのだろう?普通に考えて、逃亡者は、潜伏先や移動手段などは誰にも連絡などしない」 
「そ……っか…」 
「黒川さんと何年も会っていないということも疑問のひとつだった。少なくとも黒川さんは、数ヶ月前まで『実験体』と一緒にいたのだから」 
そこまで淡々と説明してやると、リョーマは急に口を噤んで、ガバッと身体を起こした。 
「リョーマ?」 
「……そこまでわかっていたんなら、どうしてオレにも話してくれなかったわけ?」 
大きな瞳を潤ませてリョーマが詰る。 
手塚は一瞬目を見開き、身体を起こしてリョーマと向き合った。 
「……すまない……ただの推測に過ぎなかったから、お前に話して混乱させるのは避けたかったんだ」 
「………」 
「それに、俺はお前がクローンであっても、そうでなくても、俺の一生をかけてお前を愛すると決めていた。だから、………いや、お前の気持ちを考えれば、早く話してやった方がよかったのかもしれないな。すまなかった」 
真摯に頭を下げると、リョーマが小さく溜息を吐いて手塚を抱き締めてきた。 
「べつにオレは怒ってるわけじゃないよ……でもこれからは、なんでもいいから全部オレに話して。どんなに些細なことでも、全部。オレも、クニミツだけには、全部話すから」 
「ああ。わかった」 
顔を上げてリョーマを真っ直ぐ見つめると、リョーマが嬉しそうに笑った。 
「また約束が増えたね」 
「そうだな」 
手塚も微笑んでやると、リョーマもまた笑う。 
だがふと、リョーマが眉を寄せて「いてて」と呟いた。 
「どうした?」 
「ん……やっぱ、ちょっと、腰が痛いかも……」 
頬を真っ赤に染めて、恥ずかしそうにモゴモゴと小さな声で言うリョーマに、手塚の頬も微かに色づく。 
「すまない」 
「べつに…クニミツだけのせいじゃないし………それと、シャワー、浴びたい」 
「ああ……そうだな、今から浴びに行こう」 
「ん」 
アラームのセットを解除してからベッドを降り、とりあえず下穿きを身につけて手早く着替えとバスタオルを用意していると、リョーマが背後で溜息を零した。 
そんなにつらいのかと思い、手塚が振り返ると、頬を真っ赤にしたリョーマと目が合った。 
「つらいのか?」 
「ううん。違う。……クニミツ、格好いいなーって、思ってただけ」 
「………」 
うっとりしているように瞳を細めて告げられ、手塚は暫し沈黙してから甘い吐息を零した。 
「ばか……今俺を煽ると、二人とも学校へ行けなくなるぞ」 
「うん……」 
わかっているとでも言いたげに頷きながら、リョーマの瞳は未だ熱っぽく手塚に向けられている。 
「…………っ」 
手塚は手にしていたバスタオルと着替えを放り出すと、真っ直ぐリョーマの元へ行き、驚くリョーマを押し倒してのし掛かった。 
「クニミツ……?」 
「十五分だけ付き合え」 
「え、あっ」 
少し乱暴にアラームをセットし直し、手塚はリョーマに深く口づける。 
「んっ」 
リョーマが手塚の首に腕を回し、口づけに応えながらその指先を手塚の髪にそっと絡めてくる。 
息もできないほど互いの唇を貪り合い、加速してゆく鼓動を感じながら、二人はまた心と身体を溶け合わせていった。 
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
 
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「余裕で間に合うね。もっとゆっくりしてもよかったかも」 
まだ早朝と呼べる時間、リョーマの家への道を二人で並んで歩きながら、リョーマが唇を尖らせる。 
「これでギリギリだ。…まだ今は走れないだろう?」 
「………」 
さらに唇を尖らせて、リョーマが空を見上げる。 
「……いい天気になりそう」 
日が昇りかけた蒼い空の色に瞳を輝かせてリョーマが微笑む。 
「ねえ、クニミツ、空ってどうして青いんだろう」 
「え…」 
手塚は一瞬考え込み、リョーマが見つめる空を一緒に見上げてみる。 
リョーマが、科学的な答えを欲していないのはわかる。だがどう答えたものかと考えを巡らしていると、リョーマがクスッと笑った。 
「クニミツって、空みたいだよね」 
「え?」 
空を見つめたまま、唐突に言うリョーマに手塚は視線を移す。 
「大きくって、広くて、深くて、まだまだオレには手が届かなくて………でも、いつ見上げても、そこに居てくれる…」 
「………」 
「それに、すごく綺麗な色」 
空に向かってリョーマが両手を伸ばす。 
「いつか……届くかな……」 
「俺が空なら、お前は白い飛行機雲だ」 
「飛行機雲?」 
リョーマが不思議そうな瞳をして手塚を見る。 
「初めてお前と話をした時、お前は、くすんだ色をしていた俺の心から綺麗に濁りを拭ってくれたんだ。そうして、本来の蒼色を取り戻した俺の心に、真っ白い飛行機雲が一直線に描かれていった」 
「それが、オレ?」 
「ああ」 
リョーマはふわりと微笑んで、また視線を空に向ける。 
「オレ、好きだよ、飛行機雲。真っ青な空に真っ直ぐに引かれたホワイトラインって、綺麗だよね」 
「ああ」 
「でも、飛行機雲って、バックが青いから引き立つんだよ」 
「え…?」 
「クニミツがいてくれて、オレは初めて生きるんだってこと」 
「リョーマ…」 
「オレはもう、クニミツがいないと、生きていけない」 
いつの間にかリョーマが真っ直ぐに手塚を見つめていた。 
その瞳はどこまでも澄み渡り、迷いがなく、そして、その奥に強く輝く焔が見えた。 
決して媚びているのではなく、手塚と共に在ることで、自分はより一層輝くのだと、切ないほど真剣に訴えかけてくる。 
「…だが空は、蒼いだけじゃないぞ」 
「え?」 
真っ直ぐ向けられるリョーマの強い視線が眩しくて、目を逸らすように、手塚はまた空を見上げる。 
「空は色を変える。蒼いだけではいられないかもしれない」 
自分は変わらずにそこに在るつもりでいても、リョーマから見た自分は変わっていくように見えるかもしれない。 
色を変え、遷ろう空の真っ只中を、飛行機雲だけは変わらず、真っ白いまま、己の前方へとひたすら突き進む。 
(いつかお前は、俺の手の届かない彼方へと、去って行ってしまうのかもしれない……) 
「変わらないよ」 
「え…?」 
きっぱりと告げられたリョーマの言葉に、手塚は小さく目を見開く。 
「変わらない…?」 
「例えば、空に浮かぶ雲や薄い霞が太陽の光に染まって空が色を変えたように見えても、そのずっと先にある高い高い本当の空の色は、何があっても変わらない」 
「………」 
「クニミツは一番高いところの空の蒼色なんだよ」 
「一番高い…空の蒼……」 
リョーマがニッコリと微笑みながらしっかりと頷く。 
「そして、その一番高い空の蒼が、一番オレを…飛行機雲を、真っ白く輝かせてくれるんだ」 
揺るぎない瞳が手塚を捉え、手塚の心を震わせる。 
まるで、人がこの世に生まれるずっと前から変わらない真理を説くように話すリョーマは、手塚には、どこか神々しくさえ見えた。 
出逢って間もない頃のリョーマは、己の出生に悩んでいたせいか、まるでガラスで出来た繊細な花のように儚くひっそりと生きていたように思える。 
だが、今、手塚の目の前にいるリョーマは、自らそのガラスで出来た花びらを脱ぎ落とし、新たに美しい蕾を芽吹かせ、今まさに力強く花開こうとしている大輪の花のようだった。 
(お前を変えたのは、俺だと自負していいか?) 
ガラスで出来た飾り物の花が、生まれ変わり、本来あるべき姿を取り戻せたのは、手塚国光という人間と出逢ったからだと。 
それほどまでに信頼され、愛されているのなら、手塚も湧き上がりかけた心の迷いをすべて消し去ることが出来る。 
「………そうだな……俺たちは、最上の一対なのかもしれない」 
誰も手の届かない、高い高い天空で互いを高め合う一対。 
「うん」 
凛としたリョーマの瞳が、ふわりと柔らかく細められる。 
「だからずっと、傍にいて、クニミツ」 
「ああ。俺も、もうお前無しでは生きていけない」 
立ち止まり、見つめ合い、口づけの代わりにそっと指を絡め合う。 
「行こう」 
「うん」 
愛の言葉を囁く代わりに、甘く視線を絡めて、二人はまたゆっくりと歩き出す。 
「いつか、戦えるかな…アイツと……」 
「テニスへの情熱が変わらない限り、いつかどこかのコートで会うかもしれないな」 
リョーマも、そして『彼』も。 
テニスというスポーツで、繋がっているはずだから。 
そうしてコートで再会し、戦う二人を最後まで見届けてやりたいと、手塚は思う。 
頭上に広がる、この蒼い空のように…… 
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
 
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
        
        
         
 
都大会を終えた数日後。 
手塚のもとに、新しい英字新聞が届けられた。 
だがその新聞を持ってきたのは手塚の父ではなく。 
「見て!クニミツ!」 
何気なく南次郎から手渡された英字新聞の見出しを見て驚いたらしいリョーマは、手塚を待たせている自分の部屋へノックもせずに飛び込んできた。 
「ほら、これ、黒川さんが…!」 
「え…?」 
リョーマから新聞を受け取り、記事を読んでみると、そこには驚くような内容が記されてあった。 
「データねつ造…?」 
「ずっと行方不明だった黒川さんが突然現れて、いきなり記者会見を開いて、科学雑誌の記者や大手の新聞記者たちの前で暴露したんだって書いてある」 
のんびり英訳をする気になれず、リョーマに詳しい内容を問うと、リョーマは自分を落ち着けるように深呼吸してから新聞を手にとって説明してくれた。 
「つまり、黒川さんが今まで学会で発表してきたクローン技術についてのレポートは、ほとんどがデータをねつ造したもので、本当は自分の研究は、最近発表された狼のクローン技術にさえ追いついていなかったって言ったんだって」 
リョーマの説明を聞いて、手塚は驚きに目を見開いた。 
だが。 
「……それで、黒川さんは学会を追放されたのか?」 
「うん…そうなるだろうって書いてある」 
「………なるほど……それが、黒川さんの辿り着いた『答え』なのか…」 
「え……」 
「黒川さんは、自分の地位も名誉も未来も、すべてを投げ出して『彼』を護ったんだ」 
新聞に載せられた黒川の写真を見つめながら、手塚は切なさを感じた。 
「自分の研究はデタラメだったと自ら公言することで、世間から『彼』の存在を隠し通すつもりなんだろう」 
「そんなこと……でも、研究所の連中は誤魔化せないんじゃ……」 
「そうだろうな。それでも、黒川さんは、こうすることでしか『彼』を護れないと思ったんだろう」 
リョーマが大きく目を見開いて瞳を揺らす。 
「黒川さんは……どうなるんだろう……」 
「わからない。だが、黒川さん自身に研究を続ける意志がなくなったと判断されれば、お払い箱になるかもしれないな」 
「自由になるってこと?」 
「いや」 
手塚はきつく眉を寄せて溜息を吐いた。 
「情報が漏れないように、一生監視付きの生活を送らなければならないだろう」 
「………それじゃぁ、アイツと会えないじゃんか…」 
「………それも、覚悟のうちだったんだろうな」 
「そんな…」 
リョーマが唇を噛み締めて俯く。 
そこへ、コンコンコン、と軽快なノックの音が聞こえた。 
「おーい、青少年ズ。お手紙よーん」 
重い空気の中、恐ろしく不似合いな声で言いながら南次郎が入ってくる。 
「手紙?」 
「エアメール」 
「?」 
南次郎から封筒を受け取ると、差出人を確認してリョーマは首を傾げた。 
「誰これ。知らないんだけど?」 
南次郎に突き返そうとすると、南次郎がやれやれと言ったふうに溜息を吐いた。 
「いいから開けてみろよ。差出人は、ほれ、アイツだ。あの角刈りマッチョ」 
「はぁ?」 
顔を顰めながら渋々封を切ると、中からもうひとつ封筒が出てきた。 
「あ」 
差出人を確認して、リョーマが大きく目を見開いた。 
「黒川さん…?」 
リョーマは手塚と顔を見合わせてから急いで封を切って手紙を取り出した。 
         
『リョーマくんへ 
元気にしていますか? 
この手紙を君が手にする頃、僕はすでに自由に動けないことになっていると思うが、心配はしないで欲しい。 
今まで研究ばかりしていたから、この際ゆっくりと、隠居生活を送るつもりでのんびり暮らしていこうと思う。 
事前に許可をもらえば外出も面会も出来るようだから、いつか、南次郎と一緒に遊びにおいで。 
それじゃあ、また。 
君の大切な友達にもよろしく。 黒川貴徳』 
         
手塚と一緒に手紙を読んでいたリョーマは眉を寄せて深い溜息を吐き、だが、最後に添えられた追伸を見て、瞳を輝かせた。 
         
『追伸 
いつかリョーマくんとコートで会いたいと、彼が言っていました』 
         
「黒川さん、ちゃんとアイツと会えたんだ……よかった……」 
手紙を抱き締めるように胸に当て、リョーマがホッと息を吐く。 
「どうやらあのマッチョが、なんだかんだで貴徳に手を貸してやったみたいだ。カタブツかと思ったが、案外いいヤツだったみたいだな」 
南次郎の言う『マッチョ』とは、たぶんあの晩、黒川を捉えに来ていた男たちのリーダーのことだろう。 
もしかしたら、傍ですべてを聞いていた彼が、黒川の語った真実に心を動かされたのかもしれない。 
「ま、そーゆーことだから、あんまり悩むなよ、青少年ズ。ハゲるぜ?」 
ふふんと鼻で笑って、南次郎は部屋を出て行った。 
「なんか……負けた気分」 
ボソッと呟かれたリョーマの言葉を怪訝に思って手塚が視線を向けると、リョーマが唇を尖らせていた。 
「いつも親父は最初から何でも知ってるみたいで……くそ……ムカツク」 
「お前よりたくさんのことを経験しているのだから仕方がないだろう」 
「………でもムカツク」 
ますます唇を尖らせるリョーマが可愛らしく見えてしまい、手塚は堪らずに膨らんだ頬に口づける。 
「ク、クニミツ…っ」 
「ん?」 
リョーマが頬を真っ赤に染めてドアの方を指さす。手塚はその意を理解して、そっとドアに近づき、勢いよくドアを開けた。 
「あ」 
「……」 
「やっぱ、いた」 
ドアに耳を寄せていたのだろう南次郎が、そのままのポーズで視線だけを手塚に向けた。 
「なんだ、つまらねぇな」 
ちっと舌打ちして南次郎が背を向けかけ、だがクルリと振り返って手塚に耳打ちした。 
「ほい、手塚、プレゼント」 
「え?」 
南次郎はいきなり手塚の手を取り、その手の平に四角く平べったいものをギュッと押し込んで握り込ませ、ニッコリ微笑んだ。 
「んじゃな」 
鼻歌交じりに階段を下りてゆく南次郎を呆然と見送り、手塚はふと思い出したように手の平の中のものを確認した。 
「!!!?」 
「………どうかした?クニミツ」 
「ぁ………いや………その………」 
リョーマに背を向けたまま言葉に詰まる手塚を不審に思ったらしいリョーマが、立ち上がって手塚の手元を覗き込んでくる。 
「……げ」 
手塚が握り込まされたのは、可愛らしい水玉柄のビニールパックに入ったコンドーム。 
「あンのバカクソ親父………絶対いつか泣かしてやる…っ!」 
「………」 
わざわざこんなものを用意している南次郎に苦笑しつつ、部屋の中に戻ると、リョーマの頬がますます膨れあがっていた。 
「あのバカ親父の遺伝子を半分でも受け継いでるかと思うと、すごくヤな感じ」 
「………」 
「………クニミツ?」 
笑いを堪えているのをリョーマに見つかってしまった。 
「いや…」 
小さく睨んでくるリョーマを見て、手塚はひどく幸せな気持ちになった。 
(これからはもう、あんな寂しげな瞳を見ないですむんだな…) 
出逢ってからずっと、時折リョーマの瞳に浮かんでいた暗い光が、今はもう見ることはない。 
リョーマの本当の笑顔を取り戻せたことが、手塚は嬉しくてならないのだ。 
「まだ笑ってる」 
そんな手塚の想いに気づかないリョーマは、ますます機嫌を傾けて頬を膨らませる。 
「リョーマ」 
「………なに」 
「テニス、しないか?」 
「………」 
微笑みながら言うと、リョーマの表情がふっと綻んだ。 
「うん」 
大きな瞳が煌めき、口元が柔らかな弧を描く。 
「テニスしよう、クニミツ」 
傍に置いていたラケットを掴んでリョーマが立ち上がる。手塚もラケットを手にとって立ち上がると、すぐにリョーマに手を引かれた。 
二人で階段を駆け下り、玄関から飛び出して、同時に深呼吸した。 
見上げれば、突き抜けるような蒼い空。 
世界がこの空で繋がっているように、今まで出会った人々や、これから出会う人々ともテニスで繋がっているのだと、手塚は思う。 
「リョーマ、テニスが好きか?」 
隣に立つリョーマに問うと、リョーマは手塚に視線を向けて、ふっと微笑んだ。 
「クニミツと同じくらい、好きだよ」 
大輪の花が、輝きながら綻ぶ。 
         
 
ずっとリョーマが囚われていた心の闇を同じように抱えているだろうもう一人のGlassFlower。 
『彼』も今、この空のどこかで、ひっそりと咲いているのだろう。 
だが、いつか。 
儚く脆い花びらを脱ぎ落とし、こんなふうに華やかに微笑む日が、『彼』にもきっと来ることだろう。 
リョーマが自分と出逢えたように、リョーマと同じ『命の記憶』を持つ彼の人にも、すべてを覆すような出逢いが訪れますように。 
祈りに似た願いを蒼い空に放ち、手塚は、リョーマと共に歩き始めた。 
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
 
         
         
         
         
         
         
         
         
         
そうして月日は流れ、熱い全国大会を戦い抜いた青学テニス部には、短い夏休みが与えられていた。 
「竜崎先生、昨日、先生宛にエアメールが届いてましたよ」 
「エアメール?」 
夏休みも終わりかけた頃、日直として出勤してきた竜崎に、陸上部の顧問をしている教師が声を掛けた。 
「学校宛の住所だったんで、書類に紛れそうになっているのを見つけて先生の机に置いておきましたから」 
礼を言ってから竜崎は首を捻る。 
「はて、外国に知り合いなんていたかねぇ?」 
南次郎は今は日本にいるし、と呟きながら自分の机の上を見ると、確かに自分宛のエアメールが置いてあった。 
「桜吹雪彦麿?」 
大仰な名前の差出人にも心当たりはないが、とりあえず竜崎は封を切って中の手紙に目を通した。 
「招待状……?」 
手紙の全文に目を通し、竜崎は少し考え込んでからニヤッと笑った。 
「ふん……面白いことになりそうだねぇ」 
         
         
夏の終わりと言うにはまだきつい日差しが朝から降り注ぐ、そんなある日。 
一通のエアメールが、新しい物語の始まりを告げた……… 
         
         
         
 
         
         
         
         
         
         
        
完 
         
         
 
         
        
         
        
        
         
         
 
        
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        20070504 
         
         
        
        
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