背中合わせ




「グラウンド20周だ」
いきなり言い渡された「部長命令」。
険悪な空気を吹っ掛けてきたのは二年の先輩の方なのに、それぞれの言い分も聞かず、有無を言わせず、ただ押しつけられた罰。
(いるよね、こういうふうに権力振りかざすヤツ)
リョーマはムッとしながらも、無駄な抵抗はせずに走り始めた。
コートを出る時にチラッと目をやったが、その「部長様」は背を向けたまま、こちらには全くの無関心。それどころか、今までのやりとりすらなかったように部員達に練習の指示を与えている。
「なんかムカツク」
青学テニス部新入部員・越前リョーマにとって、部長・手塚国光の第一印象は最悪だった。




***



翌日。
なぜだか一緒にいるようになった堀尾と名乗るクラスメイトと、同じテニス部新入部員と言っていた二人が昼休みにリョーマの傍でテニス部の話をし始めた。話の中心になるのはやはり憧れのレギュラー陣のことで、情報だけには長けている堀尾が、自分のことのように威張りながら個性的な先輩達の情報を披露してゆく。
「でも、なんと言ってもすごいのは部長の手塚先輩だよな〜」
「え、そんなにすごいの?」
おかっぱ頭の細っこいのが身を乗り出す。
「実力は全国レベル!このハイレベルな青学の中でも群を抜いて突出した実力の持ち主なんだ」
「そうなんだー!早くプレーしているところを見てみたいね!」
おかっぱ頭が横にいる丸坊主と瞳を輝かせながら両手を握り締めている。
リョーマは溜息をついた。
聞きたくもない話題を大音響で聞かされ、食後のまったり感なんかとっくに吹き飛ばされてしまっている。
(屋上にでも行ってみようかな)
そう思いついて何も言わずに席を立つと、三人の視線が一斉にリョーマに集まった。
「どこに行くの?リョーマくん」
おかっぱがきょとんと見つめてくるのへ「トイレ」と素っ気なく言い放ってリョーマは背を向けた。




とりあえず宣言通りトイレで用を済ませたあと、その足でリョーマは屋上に向かった。
鍵でもかかっていたら引き返そうと思っていたが、ノブを回してみると『立ち入り禁止』の札がかかっている割には鍵がかかっていなかった。
「案外不用心」
誰に言うでもなく呟いてから、重い扉をそっと押し開けた。ギギギッと嫌な音が響いたあと、目の前がさぁっと空色に染まる。
(気持ちいい)
リョーマは深呼吸した。屋上にきてよかった、と思う。ここにはうるさい人間も、鬱陶しい視線も、せせこましい時間も、何もない。
ただ、青い空が頭上に広がっているだけだ。
「あ…」
しかしリョーマは、頭上に向けていた視線を下ろした途端、そこには自分一人だけではないことに気がついた。
先客がいた。
しかも、できれば会いたくない、リョーマのよく知った人物。
「部長……」
手塚は柵に寄りかかるようにして座り、文庫本を手にしてリョーマを見ていた。たぶん、リョーマがドアを押して入ってきた時から見ていたのだろう。
「ちーっス」
「ああ」
それだけ言うと、また手塚は文庫本に視線を落とした。
リョーマは引き返そうかと悩んだが、なぜだかそれもシャクなので、そのまま手塚のいるのとは反対側の手摺へ足を運んだ。
柵から下を見るとグラウンドに出て思い思いの昼休みを過ごす生徒達の姿が小さく見える。少しだけそれをボンヤリと見つめてから、リョーマはまた頭上に視線を向けた。
空が青く澄んでいる。リョーマはまた深呼吸した。
やっぱり気持ちよかった。
背を向けた先にいるだろう存在のことは、この際、無視することにした。




しばらくすると予鈴がなった。
いっそのことここで昼寝でもして授業をサボろうか、などと、空を見ていたらそんな誘惑に駆られた。
だが、そんなリョーマの心を読んでいるかのように、背を向けたまま無視し続けていた存在から声がかかった。
「…授業に出ないのか?」
「………出ますよ」
背を向けたまま、リョーマは返事を返した。
「……今年、一年を担当している数学の宮野という教師は本鈴がなった段階で席に着いていないと遅刻扱いにするぞ。注意した方がいい」
「ういーっス」
鬱陶しげに返事をしておいてリョーマはハタと思い出した。確か次は数学だ。バッと、勢いよく振り返ると、そこにはもう手塚の姿はなかった。
「やばっ」
リョーマはドアに向けて走り出した。
本鈴がなる直前に教室に飛び込んだが、教卓の前にはすでに教師の姿があった。その教師は本鈴が鳴り終わると同時に出席を取り始め、席に着いていなかったものは容赦なく遅刻扱いにしていった。
リョーマは出席番号が早いので、手塚の言葉にダッシュで戻ってこなければ、間違いなく遅刻扱いになるところだった。
(べつに…礼を言うつもりはないけど……助かった、かな……)
リョーマは背中越しに同じ空間を共有していた存在を思い浮かべた。
(何であんなところで本なんか読んでいたんだろ……一人で…)
あの手の堅物人間は、本を読むなら図書室にでも行きそうなのに、とリョーマは首を傾げる。そういえば、突然現れたであろうリョーマを、少し驚いたような瞳で見ていた。
(いつもは、あの場所を独り占めしていたってワケか……)
なんだかちょっと普通の優等生とは違うのかもしれないと、ほんの少しだけリョーマはそう思った。
(また明日も行ってみようかな)
学校の中で空に一番近いあの場所が気持ちよかった。だから、明日も行こうと思う。
背中越しにあった、あの存在に会いたいわけではないのだと、リョーマは言い訳のように、繰り返し胸の中で呟いていた。






20041022