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      ■1■
       授業終了のチャイムと同時に生徒たちはそれぞれ個人の行動を開始する。 
      すぐに帰宅するもの、友人と戯れているもの、委員会に渋々出席するもの、そして部室へと走っていくもの。 
      リョーマは放課後のカウンター当番のために部活に遅れるとの報告をするため、3年1組を訪れていた。 
      教室を見回すと目当ての人物の姿がない。 
      リョーマを横目で見ながら教室から出ていこうとする男子生徒を捕まえて、リョーマがいつもの調子で言う。 
      「ねえ、手塚先輩知らないっスか?」 
      リョーマの襟元の学年章を見て1年だと気付いたその男子生徒は、あまりにもふてぶてしいリョーマの態度に少々ムッとする。 
      「おまえ、1年生だろ?3年のとこに入って来るんじゃねえよ」 
      「へえ、いつそんな法律決まったわけ?そんなのどうでもいいから教えてよ、手塚先輩は…」 
      「知らねえよ。もう部活に行ったんじゃねえのっ?」 
      「ふーん。どうも。」 
      後ろでブツブツ文句を言い続ける3年の生徒のことは放っておき、リョーマは隣の教室で大石を探す。 
      「おや?どうしたんだ?越前」 
      「あ、…ちーっス」 
      「そうか、今日は当番?」 
      「ういっス」 
      「うんわかったよ、竜崎先生と手塚には言っておくから」 
      大石はいつもの爽やかな笑顔で頷く。 
      しかし、ふとリョーマは思った。 
      ここに大石がいるということは、まだ手塚は部活には行っていないのではないのだろうか。今日は生徒会はないと言っていたはずだ。 
      それとも急な用事が出来たのだろうか? 
      考えを巡らしながらリョーマがあたりに視線を向けていると、その視界に優しげな微笑みを湛えた不二が入ってきた。 
      「こんなところでどうしたの?越前くん」 
      リョーマが不二の後ろに視線を移すと、案の定菊丸が顔を出す。 
      「あれれ?おチビにゃ〜!なになに?手塚に逢いに来たのかにゃ〜?」 
      「…そっスよ」 
      「へっ?」 
      菊丸が一瞬目をまん丸くして固まる。 
      「あはは、英二ったら、何固まってんのさ。越前くんは『部長』に会いに来たんだよ。ね?」 
      「…ういっス」 
      リョーマは溜息をつきながら返事をする。 
      「あ、ほら、噂をすれば、来たよ」 
      不二がリョーマの背後を指さす。 
      その言葉にクルッと振り返ったリョーマは、一瞬、何か違和感を感じて口を噤んだ。 
      (……?) 
      その違和感の原因を確かめようとして、当人をじっと見つめると、訝しげな顔をして真っ直ぐこちらに歩いて来た。 
      「どうした?何を集まっているんだ」 
      「おチビが手塚を探していたにゃ」 
      「………当番か?」 
      「ういっス。昨日言い忘れたんで」 
      「わかった。早く行け」 
      自分を追い払うような言い方に少しムッとしたリョーマは「失礼しますっ!」とつっけんどんに言い放ち、手塚の横をすり抜けようとしたが、手塚に腕を捕まれて引き留められてしまった。 
      「…なんスか?」 
      「終わったら、早く来い」 
      リョーマはまた違和感を感じて少しだけ目を見開いた。だがやはりすぐに消えてしまう違和感を捕まえ損ねてしまう。 
      「………ういーっス」 
      腕を解かれてそのまま階段に向かう途中、ふと振り返ると、手塚たちはバッグを取りにそれぞれの教室に入るところだった。 
      手塚の後ろ姿を一瞬見つめて、リョーマはやはり何かがいつもと違うような気になる。 
      (気のせい……?) 
      それでも待ってくれない時間に押されて、リョーマは階段を下りていった。 
      
  「遅くなりました」 
      さっさと委員会の仕事を終えて、リョーマがコートに入ってくると、すでにレギュラーとそれ以外のメンバーが別れてメニューをこなし始めていた。 
      「ああ、リョーマ、ご苦労さん」 
      顧問の竜崎がリョーマに向かってニッコリ笑いかける。 
      「ちーっス。んじゃ、アップしてきます」 
      「しっかりほぐすんだよ」 
      「ういっス」 
      竜崎と会話を交わしながら、リョーマは目で手塚を探した。 
      レギュラーたちが練習しているコートのフェンス際で、いつものように腕を組んで立っている手塚をすぐに見つける。 
      (…やっぱり気のせいかな) 
      3年の教室の前で感じた違和感を、今は感じない。 
      (さっさとアップしよ) 
      どっちにしろ、もう少し近づいてみないと確信は持てない。 
      とりあえず、リョーマはランニングを始めた。 
       「おー来た来た、越前、待ってたぜ!」 
      「あ、おチビ〜」 
      「委員会ご苦労さん」 
      「お疲れ、越前くん」 
      アップを切り上げてリョーマがレギュラー用のコートに歩いていくと、先輩たちはそれぞれの笑顔で出迎えてくれる。 
      手塚は頷くと、リョーマではなく、乾に声をかける。 
      「よし、全員揃ったな。乾、今日のメニューは」 
      「そうだね、少し越前にも打たせてやってから、前にやったアレをやろうか」 
      「ああ。…ならば越前、俺と打つか」 
      急に声をかけられて驚いたが、それ以上にその言葉にビックリしてリョーマは大きく目を見開いた。 
      「あ……ういっス!お願いします」 
      「よし、入れ」 
      手塚がジャージのままスタスタとコートに入っていく。 
      リョーマは嬉しさを押し殺して反対側のコートに入った。 
      チラッと不二たちの方へ視線を流すと、案の定、ニッコリと微笑まれてしまい、リョーマはほんの少しだけ頬を染めた。 
      手塚が綺麗なフォームでトスを上げサーブを打ってくる。 
      軽く打たれたサーブはリョーマが打ちやすい位置に確実に入ってきた。 
      「…っ?」 
      だがいつものように打ち返したリョーマは、その感触に違和感を感じ取る。直接腕に伝わる感触は、『違和感』が気のせいではないと確信できた。 
      リョーマのリターンをまた軽く打ち返してくる手塚を注意深く観察して、リョーマはその『違和感』の原因に見当がついた。 
      しばらくの間打ち合いを続け、乾の声でボールを止める。 
      「じゃあ、メニューの説明を………」 
      練習メニューの説明を始めようとする乾の前を素通りして、リョーマは手塚の傍に近寄っていった。 
      「…なんだ?」 
      手塚が眉間にしわを寄せてリョーマを見る。 
      「失礼しますっ」 
      リョーマは言い捨てると手塚のジャージを引っ張って強引に屈ませ、その額に手を当てた。 
      「…なにを…っ」 
      「アンタ、バカじゃないの?」 
      溜息をつきながら手塚をバカ呼ばわりするリョーマを、レギュラー全員が呆気にとられて見つめた。 
      「体調管理もプレーヤーとしての大切なポイントだとか言ってなかった?アンタもまだまだだね」 
      そこまで来てレギュラーたちはリョーマの行動の意味がわかった。 
      「手塚、熱があるのか?」 
      「うひゃ〜、全然気付かなかったにゃ」 
      「さすが越前くんだね」 
      レギュラーたちが口々に驚きの声を上げる。 
      リョーマは隣のコートで指導に当たっていた竜崎のもとへ駆け寄って手塚の体調不良を告げる。 
      「ばーさん、部長熱あるんスけど」 
      「おや、そりゃ気付かなかった。手塚、今日はもうあがりな。送ってやろうか?」 
      「いえ」 
      見た目には何も変わらない手塚がきっぱりと言い切る。 
      「大丈夫です。このまま練習が終わるまでいさせてください。」 
      「だが無理は…」 
      いけないから、と、説得を試みた竜崎は、しかし、途中で言葉を呑み込んだ。 
      「…何を言ったところでお前はそこから動かないんだろうね。わかった、でも『見学』だけにしときな。いいね」 
      「…はい」 
      さすがに竜崎の言葉には従うしかない手塚は残念そうに溜息をついた。 
      「手塚、とりあえず、着替えた方がいいよ。汗かいた身体を急に冷やすと余計に悪化しちゃうから」 
      「…わかった。着替えてくる」 
      不二に言われて渋々頷くと、手塚は部室へといつもの歩調で歩いていった。 
      手塚の姿が部室の方へ消えると、リョーマの周りにワラワラとレギュラーたちが集まる。 
      「よくわかったな、越前」 
      「いつもと全然変わらないから、誰も気付かなかったよ」 
      「すごいにゃ〜おチビは」 
      大石を筆頭にあちこちから感心の言葉をかけられたリョーマは、ほんの少しだけ心の中で優越感に浸った。 
      だがそんなリョーマに一人だけ少し違う言葉をかけてくる。 
      「なあ、越前。お前、俺が熱出しても気付いてくれるか?」 
      例によってリョーマに後ろから抱きつきながら、桃城が耳元に囁きかける。 
      リョーマは軽く溜息をつくと桃城の腕をほどきながら言った。 
      「わかるっスよ。だって桃先輩、熱出したら大騒ぎするじゃん」 
      呆れたように言い切られた桃城は頭をかきながら「そりゃねえぜ」と苦笑を浮かべた。 
      そのまま手塚の様子が何も変わらなかったことについて口々に語り合い、少し経ってから練習中だったことをいち早く思い出した乾がレギュラーに声をかける。 
      「ほら、みんな、練習再開するよ!」 
      「で?今日はなんの練習するの?」 
      「うん、今日はこの前やった…」 
      「ねえ」 
      乾の言葉をまたリョーマが遮る。 
      「部長、ちょっと遅くないっスか?オレ、見て来るっス」 
      リョーマの言葉に、全員が一瞬黙る。乾が「じゃあ様子見てきて」と言うが早いか、リョーマは部室に向かって走り出していた。 
      微かに胸騒ぎがした。 
      部室のドアを少し乱暴にノックすると、リョーマは勢い良く中に飛び込んだ。 
      ドアのほぼ正面に置かれたベンチに座り込んでいた手塚とばっちり目が合う。 
      「…どうした?何か用か?」 
      「アンタこそ何やってんスか?着替え終わったんなら早く来てよ。心配するじゃん」 
      手塚が倒れているのではないかと緊張していた心を少し緩めて、リョーマは大きく安堵の溜息をついた。 
      そんなリョーマの様子に、手塚が微かに微笑んだようだった。 
      「すまない」 
      「別に……いいけど」 
      手塚が軽く溜息をつくのを見てリョーマが眉を寄せる。 
      「キツイんスか?」 
      「…立つと目眩がする。さっきまでは平気だったんだが…」 
      リョーマは手塚に歩み寄ると、帽子を取って手塚の額に自分の額をくっつけた。 
      「なにこれ。さっきより熱いじゃん!」 
      リョーマは「ちょっと待ってて」と言い残すと、入ってきた時より更にすごい勢いで部室から飛び出した。 
      コートに戻ったリョーマは真っ直ぐ竜崎のところに駆け寄る。 
      「ばーさん、だめだ、部長すぐ帰らせたい!」 
      「わ…わかったよ、一人じゃ無理そうかい?」 
      リョーマはコクコクと頷く。 
      「オレが…」 
      「君じゃ倒れた手塚を運べないよ」 
      今度は乾にリョーマの言葉が遮られた。 
      無表情のままリョーマと竜崎にゆっくり近づいてきた乾がリョーマの肩にポンと手を置いた。 
      「牛乳飲んでる?」 
      リョーマは乾をきつく睨んだが、乾の言葉にも一理あると思い、目をそらして俯いてしまった。 
      「竜崎先生、手塚を送って帰ります。越前にも同行してもらっていいですか?一人だと荷物とか大変なので」 
      「ああ、構わないよ。リョーマ、頼んでいいかい?」 
      「ういっス…」 
      レギュラーたちにことの次第を告げている乾の後ろで、リョーマはずっと唇をかみしめていた。 
       「病は気からって言うけど、自覚しちゃうと具合悪くなったりするんだよね」 
      帰り道のバスの中で、誰に言うでもなく乾が呟く。 
      「でも今日の手塚の場合は、君が練習をやめさせて正解だったよ」 
      「………」 
      「今だってこんな状態なのに、あのまま練習メニューを消化していっていたら、今頃救急車だったかもね」 
      手塚はぐったりとして目を閉じている。その手塚を見やって、リョーマはこくんと頷いた。 
      「手塚の精神力はすごいね」 
      「そっスね」 
      「さっきまで、いつもと全然変わらなかったんだ」 
      リョーマは意外に思って乾を見上げた。あのデータマンの異名をとる乾が手塚の変化に気付かなかったなんて。 
      自分の手には確かに違和感を伴った感触があったというのに。 
      「…手塚、昨日ガットを張り替えたんだよ」 
      「え?」 
      「だから今までと微妙に打球の感触は違っていたんだ」 
      まるでリョーマの考えを見透かしているかのように淡々と乾が話す。 
      「……そっスか…」 
      リョーマはほんの少しガッカリした。打球の感触で手塚の『異変』に気付いたと思ったのに、それは全く見当違いなものだったのだ。 
      「どうしてわかったんだい?手塚が発熱しているって」 
      「……なんとなく」 
      「なるほど」 
      打球の感触で確信を得たことは見当違いだったにしても、結果的には手塚の異変を察知することが出来たのだ。 
      だがなぜ分かったかと訊かれても、リョーマには明確な理由はわからなかった。 
      ただ「いつもと違う」と、直感的にリョーマの瞳が感じたような気がした。 
      リョーマは手塚を見やると、その顔色の悪さを映すかのように表情を曇らせる。 
      「手塚の家に着いたら、手塚のかかりつけの病院に電話して往診に来てもらおう」 
      「そこまでしなくてもオバサンとか………まさか誰もいないんスか!?」 
      「今はね。夜にはみんな帰って来るみたいだけど」 
      なんでそこまで知ってんの?と突っ込みたくなったリョーマだが、ちょうど降りる予定のバス停に到着したので会話を終わらせた。 
       手塚を部屋に連れていき着替えさせてからベッドに横たえさせる。 
      リョーマに手塚の着替えを手伝うように指示して階下で病院に連絡を取っていた乾が、手塚の部屋に戻ってくるなりふっと笑った気がして、リョーマは乾を見上げた。 
      「医者は?」 
      「すぐ来てくれるって。熱、測った?」 
      答える乾は、もうすでにいつもの無表情になっている。リョーマは今取り出したばかりの体温計を乾に手渡した。 
      「39度3分…かなりあるね…とりあえず水分は取らせた方がいい。手塚がいつも飲んでいるスポーツドリンクなんか最適だよ」 
      「オレ、冷蔵庫から取って来るっス」 
      「頼むよ」 
      リョーマは階下のキッチンに入り、冷蔵庫の中から開封していないスポーツドリンクのペットボトルを見つけだした。 
      それを抱えてコップを手に取り、急いで階段を駆け上がる。 
      部屋に入るなり乾に「もっと静かに」と言われたが、何も答えずにコップにドリンクを注いだ。 
      しかし、その直後、リョーマは考え込んでしまった。 
      (どうやって飲ませるんだ、これ……) 
      眠っているらしい手塚を無理矢理起こして飲ませた方がいいのだろうか。それとも今は寝かせておいた方がいいのか…… 
      コップを手にしたまま考え込んでいるリョーマを見た乾が、今度こそはっきりクスッと笑った。 
      「ちょっと下に行って先生がまだか見てくるから、それ、手塚に飲ませてやって」 
      「え?あ、はぁ……」 
      乾はすくっと立ち上がると階段を滑るように静かに降りていった。 
      「どうすればいいんだ…?」 
      またしてもリョーマが考え込んで手塚の顔を見つめていると、その瞳がうっすらと開いた。 
      「部長…っ」 
      「……越前か……世話をかけてすまない」 
      「何言ってるんスか……ねえ、それより、これ、飲める?」 
      手にしたコップを手塚に見せると「ああ」と言って身体を起こす。 
      リョーマの手からコップを受け取ると、手塚は一気に飲み干した。 
      「…乾は?」 
      飲み終わったコップをリョーマに返しながら手塚が部屋を見回した。 
      「なんか下で先生が来ないか見て来るって」 
      「…そうか」 
      手塚は溜息をつくと、またベッドに横になる。 
      「もういいっスか?飲まなくて…」 
      「あとひとくち…くれるか?」 
      「うん」 
      リョーマは急いでコップに少量のドリンクを注ぐ。 
      「はい」 
      手渡そうとすると手塚は起きあがろうとはせず、少し黙ってから口を開いた。 
      「飲ませてくれ」 
      「…………は?」 
      一度言ったまま手塚は目を閉じてしまった。 
      リョーマはいろいろ考えたが、方法は一つしかないと結論を出して、ドリンクを自分の口に含んだ。 
      コップをおいて、手塚の顔に手を添え、唇を重ねてそっとドリンクを流し込む。 
      手塚が全て飲み込んだのを感じ取って、リョーマが離れようとすると、手塚の腕がリョーマを捕まえた。 
      一瞬驚いた表情をしたリョーマだが、手塚の無言の催促を了承して、そっと唇を重ねる。 
      舌を絡めると、手塚の熱さがリョーマの身体を震わせた。 
      リョーマがゆっくりと手塚の身体を押し返して唇を離す。 
      「オレ、ここにずっといるから」 
      「リョーマ…」 
      その時、部屋の外で咳払いが聞こえて、慌てて二人は身体を離した。 
      「手塚は起きてる?先生がいらっしゃったよ」 
      乾は医者を部屋に通すと、邪魔になるからおいで、とリョーマを手招きした。 
      軽い問診のあと触診をし、聴診器で心音などを調べた医者は「一般的に言うところの風邪だね」と結論を出し、諸注意と2種類の薬を3日分おいて帰っていった。 
      「手塚、何か食べられる?」 
      「…食べた方がいいんだろうな…」 
      言外に食欲のなさを含ませて、手塚が溜息をつく。 
      「軽くね。なんかお菓子でもいいんだけど、なにかあるかな」 
      「あ、さっき冷蔵庫でプリン見かけたんスけど…持ってきてもいい?部長?」 
      他人の家を勝手にあさるのに気が引けるのか、リョーマは手塚の了承を得ようと声をかける。 
      「ああ、頼む越前」 
      「ついでに水もね」 
      「ういっス」 
      リョーマはまた階段を駆け下りると冷蔵庫に飛びついてひったくるようにプリンを取り出す。ついでにミネラルウォーターを取り出してコップに注いだ。 
      プリン用のスプーンを探し出して水の入ったコップと一緒に持っていこうと振り返ると、そこに乾が立っていてリョーマは驚きにコップを落としそうになった。 
      「ビッ………クリした…」 
      「ああ、ごめん。もう帰るから、後は頼んでいい?ちょっと野暮用があってね」 
      「いいっスよ。オバサンが帰ってくるまで部長についてますから」 
      リョーマは当然のことのように頷いた。 
      乾は眼鏡の位置を直すと、ふっと微笑んだ。 
      「なかなか興味深いデータが取れたよ」 
      「え?部長の?」 
      「いや、まあ、テニスには関係なさそうだけどね。じゃあ、あとはよろしく」 
      「ういっス。お疲れさんっした」 
      そのままバッグを担いで乾はあっさりと帰っていってしまった。 
      リョーマはそんな乾の謎の言葉はいつものことだと高をくくって気にせず、急いで階段を駆け上がる。 
      「部長、プリン!」 
      「ああ。………帰ったのか?乾は」 
      「うん。なんか野暮用があるんだって」 
      「…そうか…」 
      手塚はゆっくりと身体を起こすと額に手を当てて顔を顰めた。 
      「頭痛い?」 
      「少しな」 
      リョーマは眉をきつく寄せた。いつもの手塚なら多少の頭痛くらいは大丈夫だと言い切るのに、痛みを認めるなんて、相当にひどい痛みなのだろう。 
      「ちょっと食べて…その後で薬飲んで、早く寝なよ…」 
      「…ああ、そうする」 
      手塚は手渡されたプリンをスプーンですくって口に運び、飲み込んでから溜息をつく。 
      「………味がしない」 
      「でも食べてよ。もう少し」 
      「……………」 
      機械的にプリンをすくって口に運ぶ作業を何度か繰り返して、半分くらいにプリンが減ったところでとうとう手塚がギブアップした。 
      「もう食えん」 
      「とりあえずそのくらいお腹に入れば大丈夫っスね。じゃあ、次、薬」 
      手塚はリョーマから1回分の薬を受け取ると全部まとめて口に放り込み、水で一気に飲み込んでしまった。 
      「………お前は帰らなくていいのか?」 
      ベッドに身体を沈めながら手塚がふと尋ねてくる。 
      「オバサンが帰ってくるまでここにいるよ。さっき家にも電話入れたし」 
      「…………ありがとう」 
      リョーマは手塚に微笑みかけた。いや、微笑みかけようとして少し失敗した。 
      俯いて唇をかみしめてしまったリョーマを不審に思って手塚がその頬にそっと手を伸ばした。 
      「…どうした?」 
      「すごく、…悔しかったっスよ……乾先輩に『君じゃ倒れた手塚を運べない』って言われて…それはそうなんだけど、アンタのことなのに…他のヤツの手を借りなきゃならないなんて……」 
      手塚は一瞬キョトンとして、それからふっとやわらかく微笑んだ。 
      「バカなことで悔しがるな」 
      「………バカになっちゃうんスよ!アンタに関しては!」 
      「リョーマ」 
      いきなり名前を呼ばれてリョーマは頬を染める。さっきまでは乾がいたせいでほとんど『越前』だった。 
      頬を染め、噛み締めていた唇を薄く開いて手塚を見つめると、手塚が軽く息を吐いた。 
      「これ以上、熱を上げさせないでくれ…心拍数も上がってきている」 
      「ご、ごめん、オレ、いない方がいい?人がいると落ち着いて寝られない?」 
      「そう言う意味じゃない…」 
      手塚は手を差し伸べた。リョーマは自然にその手を取る。いつもは冷たい手塚の手がひどく熱くて、リョーマは不安を感じてしまう。 
      「お前がいてくれて、嬉しい」 
      リョーマとは反対に、その手に触れて安心したように手塚は目を閉じると、そのまま静かに眠りに落ちていった。 
      リョーマはまだ顔色の悪い手塚の顔を見つめながら、祈るようにその手に口づけた。 
      自分たちの恋愛は、相手を守るとか包んで欲しいとか、そう言った甘いだけのものではないとリョーマは思っている。 
      常に上を目指し、お互いを高めあいながら共に未来へと進んでいきたいのだ。 
      リョーマのイメージの中では、手塚は誰にも脅かされぬ強い人間のはずだった。 
      常に自尊心とそれを裏付ける実力のもと、リョーマでさえ圧倒されるほどの、あらゆる意味での「強さ」を持った人間。そんなイメージが常にリョーマの中の『手塚国光』にはあったのだ。 
      自分が何かしなくても手塚は大丈夫だと、リョーマは心の中でそう考えていた。 
      だが、こうして弱っている手塚を目の前にすると、自分の持つすべてのエネルギーを与えてやりたいと思ってしまう。 
      (アンタのために…オレができる事ってなんだろう…) 
      全てにおいて、今は手塚の方が勝っているとリョーマは思う。 
      その手塚相手に自分がしてやれることなどあるのだろうか。テニスも勉強も人間的にも、リョーマが手塚に与えてやれるものは何もない気がした。 
      (ねえ、なんでアンタはオレを選んだの?) 
      静かに眠る手塚の顔を見つめて、リョーマは切ない気分になった。
 
  
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