言葉だけじゃ足りなくて


「本日の練習は終了する。解散!」
手塚の凛とした声がコート内に響き、部員達がワラワラと散ってゆく。
先日の一件で手塚とリョーマは一応「両想い」であることがお互いに分かってしまった。でも、だからといって今までの生活がいきなり変わるわけでもなく、二人はお互いを意識しながらもそれまでと変化のない日々を過ごしていた。
「おーい、越前、マック寄るか?おごるぜ?」
桃城も何事もなかったかのように相変わらずリョーマを構う。
「セット頼んでいいっスか?」
「おう、スーパーバリューでもいいぜ」
ニカッと笑う桃城を見て、あのときの桃城はやっぱり別人だったのではないかとリョーマは思ってしまう。
この目の前にいる『桃先輩』がリョーマは結構好きだ。
もちろんその『好き』は手塚への『好き』とはかなり違うものではあるが。
だからつい誘いに乗ってしまうのだ。現実問題として部活の後は腹が減る。そこへ「おごる」と言われたら、育ち盛りのお子様はあっさりと食欲を選ぶ。
そう、周りのことなどあまり気にせずに。
「一雨来そうだね」
リョーマの横をすり抜けながら、不二が誰に言うでもなく呟いた。


「運んでやるから席確保しとけよ、越前」
「うぃーっス」
桃城に言われたとおり窓際のカウンター席を確保する。
さすがに練習後は少し疲れもあって、リョーマはどっかりと腰を下ろした。
頬杖をついてぼんやり外を眺めながら、ついさっき見た手塚の背中を思い出す。
(振り向いてもくれなかった)
桃城が聞こえよがしにセットは何がいいとか喋っていたのに、反応して欲しかった人物は全く反応してくれなかった。反応しないどころか視線さえ合わせてくれない。
先日の出来事は夢だったのか、とリョーマには思えてきてしまう。
(本当は頭打って、今植物状態なんじゃ…)
あり得ないところまで思考が及び始めた頃になって、ようやく桃城が二人分のトレーを持って現れた。
「お待ちどーさん」
「あ、ポテト揚げたて」
しんなりしたポテトは『嫌い』まではいかないが、はっきり言ってマズイ。リョーマはちょっとだけ幸せを感じてアツアツのポテトを口に運んだ。
そんなリョーマの様子を見て、桃城がぷっと笑う。
「なんスか?」
「ガキくせー顔」
「オヤジクサイよりはいいっスよ」
「オヤジクサイやつ、嫌いじゃないくせに」
「…」
自分で墓穴を掘った気がして、リョーマは口の中に目一杯チーズバーガーを詰め込んで『今は喋れない』ふうを装った。
「正直言って安心したぜ。もうおまえとこんなふうに話せないかと思ってた」
「…桃先輩はバカじゃないと思うから」
「ああ…もう突然あんなことはしねーよ」
そう言ってリョーマを見ると、桃城はいたずらっ子のようにニヤリと笑った。
「ちゃんと朝晩、溜めねぇように抜いてっから」
「………なにで?」
「今度写真くれよ」
「絶対ヤダ!」
どこまで本気なのか分からないが、声を立てて笑う桃城を見て、リョーマも少し安心していた。
こんな時間も嫌いじゃない。だってこの感じは、自分の部屋でカルピンと過ごす時間に似ている。
「あれ?」
何かを見つけたように桃城が小さく声を上げた。
「どうかしたんスか?」
「いや…人違いかな…でもあり得ないとも言い切れない…」
「………」
どこかの飲料水のCMをまねているらしい桃城を横目で見つつ、最後の一口になったチーズバーガーを口に放り込む。
「ごちそうさまでした」
「おう、俺はちょっと用があるから…また明日な、越前」
「うぃーっス」
形だけ頭を下げて挨拶する。
辺りは言うまでもなく真っ暗になっていた。



翌日。
「荒れてるね」
「眉間のしわが一本増えてない?」
朝練の空気を異様に重くしている原因について、仲良し3年6組ペアがこっそりと会話を交わす。
他の部員もそれを感じ取っているらしく、皆一様に口数少なく黙々とメニューをこなしている。
「なんか空気が重くないっスか、桃先輩」
「気にしない気にしない」
桃城を振り返ったその肩越しに、手塚と目があった気がしてリョーマは頬をほんの少し染めた。
(オレのこと見てくれてた?)
だがそんな甘い雰囲気を吹き飛ばすように手塚が部員に招集をかける。
「今日の放課後だが、竜崎先生が出張のため急遽休みになった。自主トレをする者も、今日はコートが使えないのでそのつもりでいるように。以上、解散」
練習がなくなったと聞いてリョーマは少しがっかりしたが、ふと、良い考えを思いついた。
その考えを伝えようと、当人を目で捜すと、今度こそはっきりと目が合った。
「越前」
「はい」
以前とちっとも変わらずに仏頂面のまま自分の名前を呼ぶ手塚の元へ、リョーマは小走りして近づく。
傍によってじっと見上げると、手塚の表情が一瞬柔らかくなったような気がした。しかしそれは本当に一瞬で、すぐに元通りに、いやむしろいつもより険しい表情で見つめ返される。
「放課後、時間はあるか?」
「うぃっス。オレもちょうど部長に用があったんで」
「…そうか。では部室で待っている」
それだけ言うと、手塚はリョーマに背を向けさっさと歩き出してしまった。
ずいぶん素っ気ないと思いつつも、久しぶりに二人で話ができるのかと思うと、後に続いて部室へ向かうリョーマの足取りは軽くなった。



その日の授業をほとんど上の空で終えると、リョーマは誰よりも早く教室を飛び出していた。
鍵のかかったコートの横を走り抜け、脇目もふらずに部室へ向かう。
部活が休みであっても、たいてい昼休みと放課後は自主トレを希望する人間のために部室の鍵は開いている。他でもない、自主トレを希望するのが手塚や大石といったレギュラー陣であることもその理由の一つではあるが。
今日もまたいつものように鍵の開いている部室のドアを、一応ノックしてからゆっくり開ける。
「やっぱ、まだだよね」
溜息と共に呟いて、しんと静まり返った誰もいない部室にリョーマは足を踏み入れた。
「早かったな」
「うわっ」
誰もいないと思っていたところにいきなり大好きな低めの声が響き、リョーマの心臓は大きな音を立てた。
心臓をバクバクいわせたまま声のした方を向くと、その美声の持ち主は微塵も驚いた様子はなく、腕を組んで壁に寄りかかり、こちらを見ていた。
「部長こそ、早いっスね」
わずかに声を上擦らせてしまったが、リョーマは平静を装った。
「…用があると言っていたな、なんだ?」
「部長の用を先に言ってくださいよ。オレのは後でいいっスから」
「……」
手塚は視線を落とすと、そのまましばらく黙り込んでしまった。
「部長…?」
あまりいい話ではないのかと、さすがにリョーマも気が付いた。途端に不安が心の中に広がり始める。
しかしそんな不安はいっさい表に出さず、むしろ逆に強い瞳で手塚を見つめ返す。
手塚は何かを吹っ切るように一度目を閉じてから、リョーマと同じくらい強い瞳で見つめてきた。
「越前」
「はい」
「……この間のことは、忘れてくれ」
「!」
リョーマは瞳を大きく見開いた。なおも残酷な手塚の言葉は続く。
「青学テニス部の部長と部員。それだけの関係に戻ろう」
「……んで、っスか?……なんでっ!?」
「俺の勝手な都合だ。すまない、越前」
「ちゃんと理由言ってください。じゃないと納得できないっス」
声が震えないように腹に力を入れてそれだけ言うと、リョーマは手塚の答えを待った。
「おまえは悪くない」
手塚はふっと表情を和らげるとゆっくり腕を解いた。
「越前……おまえは桃城と一緒にいるときに自分がどんな表情をしているか知っているか?」
「桃先輩といるとき?」
「あんなにうち解けた表情を、俺には見せたことがない」
手塚は窓の外に目をやると、もう一度腕を組み直した。
「おまえは、憧れと恋を勘違いしただけだ……だから…」
「じゃあ、アンタはどうなの?」
不安と苛立ちが、リョーマの瞳にさらなる強い光を灯らせ口調をきつくする。
「アンタだって、今までとなにも変わらないじゃんか!アンタも勘違いしてるって訳?」
「それは違う、俺は……っ!」
振り返った手塚の目には一瞬、リョーマが泣いているように見えた。
大きな目をさらに大きく見開いて、睨み付けるような、それでいて縋り付くような必死の形相でこちらを見ている。
リョーマのこんな顔を、手塚は今まで見たことがなかった。
いつだって、どんなにピンチの時だって冷静で大人びた表情をして相手を手玉にとって…。
手塚の沈黙をどう受け取ったらいいのか分からないらしく、リョーマの瞳から強い光がみるみる消えてゆく。
「…アンタと一緒の時に桃先輩と一緒の時みたいな顔できないよ……だって、すごいドキドキして…なんか変なコトしたらアンタに嫌われるんじゃないかって思っちゃって…」
「越前…」
「確かに桃先輩と一緒の時は楽しいよ…家で飼ってる猫と遊んでる時みたいに…」
「猫…?」
「でもオレ、桃先輩にキスされたくないし、キスしたいとも思わないし…傍にいても、ふわふわしたいい気持ちにならないし、桃先輩が女の子に騒がれててもなんとも思わないし……それから…えっと…」
「それはつまり」
言いながら手塚はリョーマにゆっくりと近づく。
「俺にはキスされたいし、キスしたいし、傍にいるとふわふわしたいい気持ちになるし、俺が女の子に騒がれると気になる、と言うことなんだな?」
「…………!」
リョーマの顔が真っ赤に染まった。
あの日、バスの中で手塚が唇を掠め盗ったとき以上にうろたえ始めたリョーマに、手塚の瞳が細められる。
「よかった」
手塚はそっとリョーマを抱き寄せた。そのまましっかりと胸に抱き込んでゆく。
リョーマの腕もいつの間にか手塚の背にまわされ、二人は互いを強く抱き締めあった。
しばらくお互いの体温を感じあっているうちに、手塚がそっと溜息をついた。どうしたのかと不安になってリョーマが手塚を見上げると、今まで見たこともない、とびきり優しい目が見下ろしていた。
「あ…」
「何も言うな…」
手塚の冷たい両手がリョーマの顔を包み込み、ゆっくりと唇が重ねられる。
バスの中での掠めるようなそれとは全然違う、本当の『恋人同士のキス』だった。
「リョーマ…」
唇を触れさせたまま手塚が熱く名を呼ぶ。それにつられて少し開いたリョーマの唇へ手塚の唇がさらに深く重ねられる。
手塚の舌がリョーマの舌を探し出し、優しく絡め取る。何度も何度も角度を変えながら深く浅く唇を貪られ、リョーマの意識が霞み始めたその時、部室のドアが軽くノックされた。
「入ってもいい?」
不二の声だった。
「ああ」
手塚がリョーマの身体をそっと離しながらそう応えると、一呼吸おいて不二が入ってきた。
「ごめん、邪魔するつもりはなかったんだけど、もうすぐ他の連中が来るから、知らせておいた方がいいと思って」
「………………すまん」
一瞬どう応えていいやら迷った手塚だが、とりあえず礼を言う。
リョーマはと言えば、頬を紅潮させて息を弾ませている。目の焦点はいまいち合っていない。
「とろけちゃってるね、越前くん………手塚って上手いんだね」
身も蓋もない不二の言い方に目眩を覚えながら、手塚はリョーマの身体をしっかりと支えて言った。
「こいつを送っていく」
「わかった。大石に鍵のこと頼めばいいんだね?」
「ああ、すまない」
「雨降って地固まる、かな?」
不二の、いろいろな感情を含んだ笑顔に見送られ、手塚はリョーマを連れて部室を後にした。
テニス部員以外あまり使わない校舎裏の道を通って校門へ向かう。
「もう少し話をしないか」
まだ足取りのおぼつかないリョーマを支えながら、手塚がそっと声をかける。
バス停を通り過ぎて少し歩いたところに公園があるので、手塚はそこへ行こうと提案した。
リョーマは顔を赤くしたまま、小さく頷いた。



公園に着く頃にはリョーマも平静を取り戻していたが、感情が短時間のうちに激しく上下した反動からか、それとも手塚の傍にいるためか、頭が少しだけぼーっとしていた。
公園と言っても、いわゆるお子様向けの遊具はなく、自然の中でくつろぐための空間がしつらえてある場所だった。
遊歩道の途中にあるベンチに二人は腰を下ろす。
「…俺はまだ…自分のことがよく分かっていないらしい…」
静かに喋り始めた手塚の横顔を、リョーマは黙って見つめる。
「昨夜…桃城と話をした」
「桃先輩と?…あ!」
マックにいたとき、桃城が誰かを見つけたようなことを言っていた。それがきっと手塚のことだったのだろう。
「桃城に、おまえのことを実際はどう思っているのかと聞かれた。他人に話すことではない、と答えなかったんだが…」
手塚は桃城との会話を思い出したのか、膝の上に置いている手をぎゅっと握り込んだ。しかし表情は変わらない。
「アイツははっきり俺に言った…『俺は越前が好きです』とな。保健室でのことは冗談でも何でもないと…」
リョーマは溜息をついた。手塚相手に桃城も度胸がある、とどこか他人事のように感じてしまう。
「宣戦布告された」
「宣戦……って…」
リョーマは少し呆れたようにまた短く溜息をついた。
「桃城は、自分は有利だとも言った。先輩として、越前に一番近いポジションにいるのは自分だと」
「それで?確かにそうだな、とか思っちゃったわけ?」
試合の時のような、ちょっと年下に見えない表情になってリョーマは手塚に言った。
「桃先輩のことは結構好きっスよ。一緒にいるとおもしろいし」
リョーマはすくっと立ち上がって、うん、とひとつノビをした。手塚はそんなリョーマの様子を黙ったまま見つめる。
「…レベルが違うんスよ」
リョーマが小さな声でそう呟き、くるりと振り返る。
「アンタは永久シードなの!」
手塚はほんの少し目を見開いた。
傾きかけた太陽がリョーマの後ろで輝き、手塚は眩しさに目を細めた。だが本当に眩しいのは………
「いつか…おまえは後悔するかもしれないな」
「しないっス」
きっぱり言い切るリョーマに愛しさが募り、手塚は立ち上がってリョーマと向かい合った。
「越前、おまえが好きだ」
「!」
不意を突かれたというように、リョーマの瞳が大きく見開かれた。
「俺は思ったことを口に出すのも、表情に出すのも苦手だ。だからおまえを不安にさせるかもしれない」
手塚は真っ直ぐリョーマの瞳を見つめる。リョーマも瞬きすらせずに強い瞳を受け止める。
「だが、おまえを他の誰にも渡すつもりはないし、触らせるつもりもない」
リョーマの瞳が微かに揺れながら輝きを増してゆく。
「それを覚えておいて欲しい」
「アンタもね。誰も見ないでオレだけ見て。他の誰にも触んないで」
「当然だ」
リョーマの顔が満面の笑みになる。手塚の表情も、きっと彼の母親でさえ見たことがないほど、柔らかだった。
「あ、そうだ部長」
何かを思い出したようにリョーマが手塚の腕を掴んで言った。
「今日、またオレのうちでやらないっスか?自主練!」
「ああ、そうしよう」
「やった!じゃ、早く行きましょう部長!」
瞳をキラキラ輝かせてリョーマが手塚の腕をぐいぐい引っ張る。
「ここからだと次のバス停まで歩いた方が早いか」
「今日はクソ親父もいないから、妨害されずに好きなだけやれるっスよ!」
「その前に、越前」
「?」
なに、と振り仰いだリョーマの顎を捕らえて、手塚は深く唇を重ねた。
数十秒後に解放されたリョーマは大きな瞳をうっすらと潤ませて手塚を睨んだ。
「ずるい…また力が入んないじゃないっスか」
「心配するな。越前の家に着く頃には大丈夫だろう」
うるさい心臓を宥めようと胸に手を当てながら、リョーマは抗議の言葉を呟いている。
「そんなことではまだまだ先へは進めないな」
独り言のように呟いた手塚の言葉をしばらく経ってから理解したリョーマは、静まることのない心臓と上がりっぱなしの体温を持て余しつつ、二人の『先』にどんなことが起こるのか、ほんの少しだけ興味を持った。


                          END
                       2002.2.22 11:38