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  夏の割には涼しい風が、色素の薄い髪を揺らす。 
      (今頃あいつは……) 
      バルコニーに置いている長椅子に腰掛け、空を見上げながらそんなことを考えそうになって、その男は自分をあざけるように嘲笑った。 
      「ハッ、ガラじゃねえ……」 
      「お電話です」 
      傍らにいる背の高い後輩に声をかける寸前、執事の声に男は振り向いた。 
      「こんなところまで…誰だ?」 
      執事は申し訳ありませんと一礼しながら電話をかけてきた相手の名を口にした。男は一瞬目を見開いてから、その唇にうっすらと笑みを浮かべる。 
      そうして男はそのままの表情でゆっくりと執事から受話器を受け取り、耳に当てた。 
      「……よう、久しぶり……でもねぇか…」 
      『突然電話して、すまない』 
      「いや、いいさ」 
      男は立ち上がるとバルコニーの手すりに肘をついて小さく笑った。 
      「だが、どういう風の吹き回しだ?お前が俺に電話してくるなんて」 
      『頼みたいことがある』 
      「あぁ?」 
      男は自分の耳を疑った。訝しげに眉を寄せながら庭に設えてあるプールの水面を見つめる。 
      「……ふん、おもしれぇじゃねえか、言ってみろよ」 
      受話器から聞こえる落ち着いた声が話す内容に、男は笑みを消して黙り込んだ。 
      『お前たちにとっても、そんなに悪い話ではないと思うが、どうだ?』 
      男はプールの水面に落としていた瞳を、ふと、空へと向けた。 
      「いいぜ、その話、受けてやる」 
      『…そうか。では、詳しい話は改めて竜崎先生の方から連絡を入れて貰うことにする』 
      「なぁ、手塚」 
      男は強い日差しに手をかざすこともなく、真っ白い雲を見上げた。 
      「越前リョーマは、お前の何だ?」 
      『……お前には関係のないことだ』 
      「……確かに俺には関係ねぇが、越前リョーマに興味はあるぜ」 
      電話の向こうで沈黙する相手の表情を思い浮かべ、男は口の端をゆがめて笑った。 
      「いい機会だ。じっくりとこの目で青学の、いや、お前の大事な切り札を見極めさせて貰おうか」 
      『跡部……』 
      そのまま電話を切ると、跡部はひどく楽しげに小さく笑い始めた。
 
 
 
 
  青学テニス部レギュラーメンバーたちが軽井沢で短期の合宿を始めて数日が過ぎた。 
      その間に全員がテニスの技術や体力だけでなく、精神的にもかなりの成長を遂げていた。 
      そうして、ついに合宿最終日が来た。 
      メンバーたちは合宿の成果を確認するための最後のメニューを午前中にこなし、一息つこうとしたところで午後に練習試合がセッティングされていることを初めて竜崎の口から聞かされた。 
      ざわめくメンバーたちの目の前に、タイミングよくバスが入ってきて止まる。 
      練習試合の相手は、あの氷帝学園だった。 
      リョーマの瞳が、瞬時に、獲物を見つけた獣のように鋭く煌めく。 
      「お前ら、手塚が抜けて何してるかと思えば、こんなところでお遊びか?あぁ?」 
      バスから降り立って開口一番、発せられた跡部の言葉に青学の全員が一瞬ムッとした表情を浮かべる。ただ一人、リョーマだけは見つけた獲物を逃すまいとでも言うような瞳で、表情を変えずに真っ直ぐ跡部を見つめていた。 
      リョーマの視線に気づいた跡部は微かに目を見張る。 
      (こいつ……なんて瞳をしてやがる……) 
      ただ鋭いだけではなく、どこかしなやかな野生の獣を感じさせるその瞳に、跡部は一瞬見惚れた。そして次の瞬間そんな自分に気づき、他人を嘲るようないつもの笑みを、今は自分に対して浮かべる。 
      そうとは知らず、唇をゆがめて笑う跡部を、リョーマは唇を噛み締めながらきつく睨み続けた。
 
  青学メンバーが軽く昼食をとる間、氷帝メンバーはウォーミングアップをすることになり、コートへと入っていった。 
      「それにしてもなんてタイミングのいい…竜崎先生、跡部さんが近くの別荘に来てるって、どこでそんな情報仕入れたんスか?」 
      食事をとりながら、桃城が竜崎に向かって不思議そうに尋ねる。 
      「……月刊プロテニスの井上くんだよ」 
      「ああ、なるほど…」 
      桃城は納得したように頷くと、再び食事に集中した。 
      「越前くん」 
      「……なんスか」 
      珍しく食事の席に着く際、隣に滑り込んできた不二が、そっと肩を寄せるようにしてリョーマに囁いた。 
      「大丈夫?」 
      「……なにが?」 
      「さっきから怖い顔しているから」 
      「……………」 
      リョーマは少し沈黙したあとで、小さく溜息をつきながら「そっスか?」と素っ気なく答えた。 
      「対戦相手を決めるのはくじ引きみたいだけど………いいのが当たるといいね」 
      「………日本では『残り物には福がある』って言うんでしょ?たぶん、オレが最後にくじ引くから、『いいの』が当たるんじゃないっスか?」 
      「なるほど……そうだね」 
      笑いながら頷く不二をチラッと見てから、リョーマはまたひとつ溜息を吐く。 
      (『いいの』が当たらなくても、あの人だけは逃がさないけどね) 
      リョーマは食事を平らげると、食器を持って立ち上がった。
 
 
  休憩時間も終わり、いよいよ青学メンバーと氷帝メンバーとの練習試合が始まった。 
      菊丸と樺地、乾と日吉、大石と宍戸、不二と忍足、河村と鳳、桃城と向日、海堂と芥川、それぞれが練習試合とは思えないほど本気でぶつかり、その結果互いをライバルとして認め合い、新たな友情を築き上げてゆく。 
      そして、予想通り最後にくじを引くことになったリョーマは跡部と同じコートに向かい合って立っていた。 
      試合前の握手すら交わさず、真っ直ぐに見つめてくるリョーマの瞳を受け流し、跡部はいつものように鼻で小さく笑った。 
      「越前、ひとつ確かめたいことがある」 
      「なんスか」 
      上から跡部に見下ろされて、リョーマの目は必然的にきつい上目遣いになる。 
      「お前が手塚の域に達したかどうか、俺が見定めてやる」 
      「……そりゃどうも」 
      そんなことはアンタに確かめて貰わなくて結構、とばかりにリョーマは視線を逸らして溜息を吐く。 
      ただ跡部とは、初めて出会った時からずっと、戦いたいと思っていた。 
      万全の身体ではなかったとはいえ、自分があれほど勝てなかった手塚を破った男だ。公式の場で試合ができないならば、いつか、氷帝学園に押しかけてでも戦いたいと思っていた。 
      正直言って跡部との戦いで手塚が休部に追い込まれた件を水に流したわけでは決してなかったが、リョーマはどこか、もっと本能的なところで、この戦いを望んでいる。 
      強き者と戦いたいのだ、と。
 
  試合は、様子見をする跡部からリョーマが1ゲーム取ったものの、その後は圧倒的に跡部が優勢のまま進んでいった。 
      『破滅への輪舞曲』と銘打たれた跡部の連続スマッシュ攻撃に、リョーマは苦戦を強いられている。 
      「越前、言っとくがここで俺に負けるようじゃ、とうてい立海大には勝てないぜ」 
      ラケットをはじき飛ばされたリョーマが、きつく跡部を睨んだ。だが、背を向けてラケット拾い上げたリョーマはどこか楽しげにニヤリと笑った。 
      「ねえ、そろそろ本気出してもらえないっスか。このくらいじゃ、物足りないんだけど」 
      不敵な笑みを湛えて振り返ったリョーマに、跡部の心の奥で、何かがざわめき立った。 
      「お互いにな」 
      ふっと笑った跡部がやっと口にした言葉はそれだけだった。
  直後、『破滅への輪舞曲』の手応えが変わったように、リョーマには感じられた。 
      それまでの『破滅への輪舞曲』とは、何かが違う。現に、あれほど打ち返せなかった1打目のスマッシュが、何とか打ち返せている。 
      それが自分の実力だと過信するほどリョーマは軽率ではなかった。 
      (どういう気が知らないけど、オレを甘く見ない方がいいよ) 
      力を加減しているというなら、敢えてリョーマはそのチャンスをものにするだけだ。みるみるうちにリョーマはゲームを奪ってゆく。 
      だが、何かを狙っていたように跡部が再び全力でスマッシュを打ってきた。ゲームカウントは6−5になる。 
      「審判」 
      リョーマを一瞥してから跡部は審判役の大石の元へ歩み寄った。 
      「確かタイブレークはナシのルールだったよな」 
      「ああ、そうだが…」 
      怪訝そうに頷く大石が問い返す前に、跡部はリョーマを振り返った。 
      「ってことはよ、越前。次のゲーム、お前が取っても6−6の引き分け止まり。もうお前に勝ち目はねえってことだ」 
      「だから?」 
      いきなり試合を中断され、怪訝そうな口調でリョーマは聞き返した。 
      「無理してまで続ける意味ねえだろ」 
      「言っている意味、わかんないんスけど」 
      「お前の左手首、もう限界のはずだって言ってんだよ」 
      跡部の言葉に、試合の行方を見守っていた青学メンバーたちがざわめいた。それぞれの脳裏に、関東大会氷帝戦の、あの手塚の姿が蘇る。 
      (越前を手塚と同じ目に遭わそうとしたのか…) 
      不二の瞳が、うっすらと開いて跡部を捕らえた。 
      「ふーん、そうだったんだ」 
      しかし、フェンスの外で剣呑な空気を発し始めた先輩たちに視線をやることもなく、リョーマはきょとんとした表情で跡部を見上げた。 
      そんなリョーマに、跡部は蔑むような瞳を向ける。 
      「どうやら底が見えたみたいだな。この辺で勘弁してやるぜ。審判、試合終了だ」 
      「え?いや、しかし……」 
      「樺地、タオルだ」 
      大石の言葉などあっさりと無視して、跡部はさっさとコートの出口に向かって歩き出す。 
      「逃げるんスか?」 
      「あぁん?」 
      扉に手をかけた跡部の背中にリョーマの声が突き刺さる。聞き捨てならないとばかりに、跡部は眉を寄せながら振り向いた。 
      「負けを認めるんならやめてもいいけど?」 
      「何?……やめとけ、てめえの手首がイカれるだけだぜ」 
      戯れ言を聞いたとばかりに鼻で笑う跡部に、リョーマはさらに畳みかけるように不敵に笑う。 
      「それはアンタの方じゃないの?」 
      (ばかな…) 
      一年とは思えないふてぶてしい言動に、跡部はなぜか旧知のライバルの顔を思い浮かべる。 
      (そういうところ、あいつにそっくりだぜ) 
      幼い頃から様々な大会で戦ううち、いつしか跡部がライバルとして認め、ライバルであり続けたいと思うようになった存在。その存在が己の想いを託そうとしているという目の前の一年生に、跡部は何か得体の知れない、今まで味わったことのないような感情が湧き上がるのを感じた。 
      「そこまで言うならやってやるぜ」 
      心の奥深くから、沸き立つような何かがこみ上げてくる。 
      それは、彼の傍に付き従う後輩の、人にはない特性を見出した時の期待感にも似ていた。 
      (違うな……そんな生易しいもんじゃねぇ…) 
      リョーマの瞳に見つめられて感じたものは、もっと複雑で、だけれどもひどく純粋で熱い想い。 
      「越前、リョーマ……」 
      誰にも聞こえないような小さな声で、跡部はその名を口にしてみる。 
      (………おもしれえ…)
  再開された試合は、誰も予想しなかった展開になった。リョーマが跡部を圧倒したのだ。 
      (こいつ……っ) 
      跡部は、越前リョーマという男の中に秘められた無限の可能性を、認めざるをえなかった。 
      結局カウント6−6で、試合は引き分けとなった。 
      「握手」 
      差し出されたリョーマの右手を見つめ、跡部は素直に手を差し出そうとして躊躇った。 
      このまま越前リョーマを認めてしまうのが、なぜだか悔しい気がした。いや、それだけではなく、他の連中と同じように和やかに握手を交わして、簡単に終わりにしてしまいたくなかった。 
      リョーマの中に、跡部景吾という人間の存在を、鮮明に刻みつけたくなった。 
      「まだまだだな、越前、握手はこの次までとっといてやる」 
      きょとんと見上げてくるリョーマの大きな瞳が自分を映し込んでいることに、跡部は満足感を覚える。 
      審判席から飛び降り、リョーマの左手首を案じる大石を横目で見ながら、今度こそ樺地からタオルを受け取ると、跡部はさっさとコートから出て行った。
 
 
  青学と氷帝との練習試合は、両校に大きな収穫をもたらして終了した。 
      バスに乗り込む氷帝メンバーたち一人一人に大石がにこやかに礼を言う。 
      「お前たちなら立海大を倒せる気がするぜ」 
      大石と対戦した宍戸が柔らかく微笑みながら大石の肩を叩いた。 
      「ありがとう。また君たちと戦える日を楽しみにしているよ」 
      「ああ」 
      「そう言えば、跡部くんの別荘って近くだって聞いたんだけど、どの辺にあるんだい?」 
      大石が瞳を輝かせて宍戸にそっと尋ねると、宍戸は困ったように首を傾げた。 
      「地名とかはわからねえんだけど、バスで10分もかからなかったぜ」 
      「そうか」 
      「宍戸さん、早く」 
      宍戸の傍らに立っていた鳳が、柔らかく宍戸の背に触れてバスに乗るように促した。 
      「ああ。じゃな、大石」 
      「ありがとう!」 
      大石はバスから数歩下がるともう一度笑顔で「ありがとう」と繰り返した。 
      そんな大石にチラリと視線を投げたものの、跡部の瞳は先程からリョーマだけを捕らえている。リョーマの視線も跡部に向けられたまま逸らされることはなかった。 
      「ま、せいぜい頑張るんだな」 
      小さく呟いた跡部の言葉が聞こえたかのように、リョーマが微かに笑った。試合前よりも幾分和らいだとはいえ、跡部を捕らえるリョーマの瞳は、相変わらず鋭く、隙がない。 
      「出せ」 
      跡部の一声でバスが発車する。 
      (気に入ったぜ…越前リョーマ) 
      バスの座席で、跡部が楽しげに声もなく笑った。
 
 
  走り去るバスを見送って、リョーマは手塚との約束を思い出していた。 
      (前に、進まなきゃ……) 
      跡部は強かった。 
      もしも、跡部が何かの策略のために途中で手を抜かなければ、試合はあっさりと跡部の勝利で幕を閉じていたかもしれない。 
      立海大の真田とも違うしなやかな動きと、あの見た目からは想像もできないほど鋭く強いショットに、今の自分ではまだまだ敵わない気がする。 
      だが、跡部と戦い終わった今、自分の中で、何かが目を覚ましたような、言葉にはうまく表せないような「熱」がリョーマの中で生まれ始めている。 
      今まで密かに練習していたが最後のところで何かが足りず、未完成なままのショットを、今なら完璧に打てるような気が、リョーマは、した。 
      「大石先輩」 
      傍でずっと何か語りかけてきていた大石を振り仰ぎ、リョーマは今から練習に付き合ってくれるよう頼み込む。 
      (誰にも打ち返せないショットを…オレだけのショットを…完成させなきゃ…) 
      快く承諾してくれた大石に微笑みかけ、リョーマはもう一度、バスが走り去った道の先を睨んだ。 
      (オレは、負けない) 
      かなり傾いた陽の光の中、リョーマと大石は再びコートに戻っていった。
 
  その頃食堂では、夕食を待つ青学メンバーたちの間に跡部への不評が湧き上がっていた。 
      だが竜崎が、その跡部をフォローするように今回の練習試合の経緯について話し始める。 
      「実は今回の練習試合をセッティングしたのは手塚なんだよ」 
      驚くメンバーたちに、竜崎は手塚から突然連絡が入って氷帝学園との練習試合の許可を求められたこと、そしてその段階ですでに相手側の承諾を得ていたことなどを話した。 
      「手塚が……」 
      不二が小さく呟き、微かに眉を寄せた。そしてふと気づいたように、不二は竜崎を見た。 
      「もしかして、大石もそのことを知っていたんですか?」 
      「ああ。詳しいことは昼の休憩の時に話しておいた」 
      「………」 
      竜崎の言葉に小さく溜息を吐き、不二は瞳を伏せた。 
      大石がこの件を知っていたとなると、たぶん公平を装って作られたあの「くじ」は、大石が手塚の意をくんでうまく仕掛けをしたに違いなかった。 
      手塚と跡部がテニスを通じて「幼なじみ」と言ってもいいほど幼い頃からの旧知の仲だというのは不二も知っている。 
      だからこそ、不二は過酷な試合を手塚に課した跡部が許せなかった。たとえそれが容赦のない勝負の世界だと頭ではわかっていても、笑みを浮かべながら手塚を追い込んでいった跡部の表情を思い出すたび、不快感が胸にこみ上げる。 
      (手塚は……跡部のことを…あの試合のことを、どう思っているんだろう…) 
      あの試合のせいで手塚は肩を壊した。そうなるように仕向けた跡部を、手塚は許したというのだろうか。 
      不二は知っている。 
      放課後の練習が終わり、誰もいなくなったテニスコートに一人佇んでいた手塚を。 
      後ろを向いていた彼の表情は見えなかったが、握り締められた拳が、手塚の心情を不二に伝えるには十分だった。 
      あの時、不二は手塚に声を掛けることができなかった。そして、そんな手塚に何もしてやれない自分が、歯痒くてならなかった。 
      だから今日、跡部がリョーマに手塚と同じことを繰り返させようとしていると思った瞬間、激しい怒りが不二を満たした。 
      結果的にはリョーマの左手首にはなんの影響もなく、不二の怒りが跡部に向けられることはなかったが、手塚の後ろ姿を見た時に感じた憤りがぶり返してしまったかのように、やりきれなさが不二を包む。 
      さらにはその行為がリョーマのために企てられたのではないかと聞かされ、不二は手塚の人間性の大きさを改めて思い知らされた気がした。 
      もしも自分が手塚と同じ立場に立たされた時、手塚がしたように自分を陥れた人間に大切な相手を託すことができるだろうか、と不二は思う。 
      (僕には無理かもしれない…) 
      テーブルを挟んで斜め向かいに座る菊丸を、不二はそっと見つめる。 
      (……いや、それとも……) 
      不二はすっと目を細めた。 
      (相手が跡部だったから、なのか……?) 
      たとえ過去に何があったとしても、跡部の実力と性格を知り抜いた上で、彼の心の奥に隠されたテニスへの情熱を信じたというのか。 
      そうして不二はリョーマに視線を向けようとして、そこにリョーマがいないことに気づいた。それとほぼ同時にその場にいたみんながリョーマと大石の姿が見えないことに気づく。 
      「へへ〜ん、さてはテニスコートかな?」 
      楽しげに呟かれた菊丸の言葉にみんなが立ち上がった。
 
  食堂を出てみんながコートに着くと、そこには菊丸の予想通り、大石相手に新技を練習するリョーマの姿があった。 
      見たこともないようなリョーマのスマッシュに、全員が息を飲み、感嘆の声を漏らす。 
      (そうか……) 
      不二は、コートに立つリョーマの姿を見て、先程の疑問にひとつの答えを見つけた。 
      (彼が「越前リョーマだから」なんだね、手塚) 
      確かに手塚は、跡部のことを信頼しているのかもしれない。 
      だがもっとも手塚が信頼しているのは、誰よりも「越前リョーマ」なのだと。 
      たとえ手塚の思惑を外れて跡部が本気でリョーマを潰しにかかったとしても、リョーマならば屈することはないと、手塚は信じていたのだ。 
      「まいったな……」 
      微笑みながら呟いた不二の言葉には、嬉しそうな響きが混じっていた。 
      「俺たちもうかうかしていられないね、不二」 
      河村が不二の言葉をほんの少し誤解して、不二に笑いかけた。 
      「そうだね」 
      リョーマを見つめる不二の瞳が柔らかく細められる。 
      (離ればなれの君たちに、こんなに当てられちゃうとは思わなかったよ、手塚) 
      ふと夜空を見上げた不二は、頭上に美しい天の川を見つけた。この美しい夜空も、きっと今のリョーマは全く目に入っていない。 「そろそろ、止めた方がいいんじゃない?」 笑いながら呟いた不二の言葉に、全員がハッとしたようにそれぞれ自分の腹に手を当てた。 「腹減ったなぁ」 桃城の言葉に全員が頷いた。 そうして、放っておくといつまでも練習を続けそうなリョーマをみんなで宥めて食堂に連れ帰ったのは、夕食の準備がすっかり整ったあとのことだった。
 
 
 
 
 
 
 
  午前中のリハビリを終え、手塚は食事もそこそこに受話器を手に取っていた。 
      「跡部か?」 
      『ああ。今ちょうど風呂から出てきたところだ』 
      手塚は逸る心を宥めようと、ゆっくりと瞬きをした。 
      『お前がいなくなってあたふたしてんじゃねえかと思っていたが、奴ら、どいつもいい顔してやがったぜ』 
      「当然だ。これから立海大との決勝に臨むんだからな」 
      『イヤミのつもりか?あぁ?』 
      跡部はちょっと鼻で笑ってから、穏やかな声でそう言った。 
      『なぁ、手塚』 
      黙ってしまった手塚を気に留めたふうでもなく、跡部は受話器の向こうで何かを思い出したように微かに笑った。 
      『…越前リョーマ、俺は気に入ったぜ』 
      「え?」 
      『ただのクソ生意気なガキかと思ったが、そうでもねえらしい』 
      「………試合は、どうだったんだ?」 
      手塚は一瞬押し黙ったが、跡部の言う「気に入った」の言葉に過敏に反応しないよう気を静めると、落ち着いた声で尋ねた。 
      『ああ、越前との試合は6−6で引き分けだ』 
      「そうか」 
      『だが、もしあのままタイブレークになっていたらどうなってたかわからねえ』 
      素直にリョーマを認めるようなことを話す跡部に内心驚きつつも、手塚はホッと安堵の溜め息を小さく吐く。 
      「……いろいろと無理を言って、すまなかったな、跡部」 
      『早く肩を治してもう一度俺と試合しろ。今度こそ完全にぶっ潰してやるよ』 
      「楽しみにしている。ありがとう」 
      『じゃあな』 
      受話器を置いて、手塚は小さく眉を寄せた。 
      跡部の言うことをいちいち気にしないようにしようと思うのに、リョーマを気に入ったという、あの言葉にはどうしても心がざわつく。 
      テニスプレーヤーとしての資質のことを言ったのだとは思うが、手塚の耳には、それだけには聞こえなかった。 
      (まさか、な…) 
      手塚の心を一瞬不安に似たものがよぎったが、すぐにそれは打ち消した。 
      (少し気分転換でもしよう) 
      大きく溜息を吐いてから、手塚は読みかけの本を読むために自室に戻ることにした。
 
 
 
 
 
 
 
  夕食を終え、風呂も済ませると、青学のメンバーたちは荷物をまとめ始める。とはいえ、旅行に来たわけではないのでまとめるほどの荷物もなく、洗濯を済ませた下着やタオル、ウェアをたたんでバッグに詰め込むのにも、さほど時間はかからなかった。 
      やることのなくなったリョーマは大石に「ちょっと散歩に行ってきます」と告げ、宿舎を出た。 
      昼間の暑さが跡形もなく消え去り、ひんやりとした心地いい空気がリョーマを包む。 
      (短かったけど、結構いろいろあったよな…) 
      ここに来た最初の頃は、正直言って様々なことに不安があった。だが大和と出会ってテニスに対する一番大切なことに改めて気づき、そして不思議な体験を通して手塚の想いを知った。 
      もうずいぶんと長く、ここで時間を過ごしているような気分だった。 
      リョーマはふと気になって宿舎の裏へ回ってみる。しかしそこには「道」はなかった。 
      (そう何回もあんなこと起きないか…) 
      ちょっと期待してしまった自分に苦笑して、リョーマはまた宿舎の正面に向かって歩き始めた。と、唐突にリョーマの携帯が着信を知らせた。 
      (え?もしかしてくにみつ?) 
      淡い期待をして表示を見ると携帯らしき電話番号が表示されている。着信音が鳴り続けているところを見ると、いたずらや所謂「ワン切り」ではないとわかる。 
      「……もしもし?」 
      訝しげに眉を寄せながら電話に出ると、その相手の意外さにリョーマは一瞬言葉をなくした。 
      『俺だ、越前。わかるか?』 
      「………跡部…さん?」 
      『ちょっと出てこねえか?近くまで来てやったんだが』 
      「はぁ?…ってかどうしてオレの携帯の番号知ってるんスか?」 
      リョーマはちょっと目を見開いて呆れたように言った。 
      『そんなもんはちょっと調べさせりゃわかるんだよ』 
      「ちょっとって……」 
      普通は調べてもおいそれとはわからないだろ、と言い返したかったが、相手は「景吾ぼっちゃま」だ。自分とは住む世界が違うのかもしれない、とリョーマは溜息を吐いた。 
      「明日帰るんで…支度で忙しくて無理っス」 
      『ふん?そりゃ残念だな。さっきまで手塚と話していたから、そのことを教えてやろうかと思ったんだが…』 
      リョーマの瞳が微かに、切なく揺れた。 
      「…………今どこっスか?」 
      『お前の後ろ』 
      「え!?」 
      驚いてリョーマが振り返ると、そこには光沢のある生地のブラウスをラフに着こなし、相変わらず人を嘲るように笑う跡部が立っていた。その跡部の少し後方に黒い外国車が見える。どうやら運転手つきでここまで来たらしい。 
      「……今日の練習試合、ウチの部長がセッティングしたって、ホントっスか」 
      「ああ。何日か前にいきなり手塚から連絡が来て持ちかけられた」 
      「ふーん」 
      リョーマは手塚が自分に何も教えてくれなかったことに、少しばかりムッとした。しかし、それは手塚なりに細かな配慮があったのだろうと思い、リョーマは大きな溜め息と共に小さな怒りを吐き出す。 
      「それだけ聞ければ、もうオレはいいっス。じゃ」 
      素っ気なくそれだけ言い、宿舎に向かおうとするリョーマの腕を跡部が掴んだ。 
      「待ちな」 
      「…なんスか」 
      リョーマの瞳が、空にいつの間にか出ていた月の光を映し込んで鋭く光る。 
      跡部は一瞬目を細めるとリョーマの腕を掴んだまま、自嘲気味に笑みを浮かべた。 
      「越前リョーマ」 
      「………なんスか」 
      不快感を表すように、リョーマの声が低くなる。構わずリョーマを引き寄せると、跡部はついっと顔を近づけ、囁くような甘い声でリョーマに言った。 
      「お前、手塚とデキてんのか?」 
      リョーマは否定も肯定もせずに、真っ直ぐ跡部を睨みつけた。 
      「答えないところをみると図星か?あぁ?」 
      「アンタ……部長にも訊いたんスか?それ」 
      少しも視線を逸らすことなく、真っ直ぐ跡部を睨みつけながら、リョーマの声がさらに低くなる。 
      「ああ、訊いたぜ。越前リョーマはお前の何だ、ってな」 
      「なんて言ってました?」 
      「『お前には関係ない』だとよ」 
      瞳の鋭さを残したまま、リョーマがクスッと笑った。 
      「じゃ、オレもそういうことにしときます」 
      「手塚には関係ねえかもしれねえが、お前には関係あんだよ、越前リョーマ」 
      「は?なんで?」 
      訳がわからない、と言うようにリョーマの眉がきつく寄せられる。 
      「手塚とデキていようがいまいが、確かに俺にはどうでもいい。俺と付き合え、越前リョーマ」 
      リョーマは目を見開いた。跡部が言った言葉の意味が、すぐには理解できなかった。 
      「はぁっ!?」 
      少しして盛大に驚いたリョーマに跡部は一瞬ムッとしつつも、すぐに楽しげに笑い出す。 
      その跡部の笑い方を見て、リョーマは自分がからかわれたのだと察した。 
      「アンタの冗談に付き合う気はないっスよ。いい加減、腕、離してくれないっスか」 
      「俺に命令する気か?」 
      「だったらなに?」 
      跡部は容赦なくリョーマの腕を捩り上げた。 
      「あっ、痛っ…」 
      思わずリョーマが小さく叫ぶ。 
      直後、リョーマの瞳にさらなる強い光が宿った。一瞬でも声を上げてしまった自分が許せなくて、悔しげに唇を噛み締めて跡部を睨みつける。 
      「そんなそそる顔すんじゃねえよ」 
      「………」 
      もう一言だって発しないとでも言うかのように唇を強く噛み締めるリョーマの顔を、跡部は笑みを消して魅入った。 
      「……俺は、暴力でモノにするのは趣味じゃねえ。俺は俺のやり方で、お前を落としてやるぜ」 
      リョーマの腕をきつく掴んでいた手を離し、跡部はいつものように傲慢な笑みを浮かべた。 
      「覚悟しときな、越前リョーマ」 
      「………」 
      跡部を睨んだまま何も言わないリョーマに背を向けると、跡部はひらりと手を振って待たせてある車の方へ歩き出した。 
      「………無理っスよ」 
      「あぁ?」 
      吐き出すように呟かれたリョーマの言葉に跡部が足を止める。 
      「オレは、アンタのものには、絶対、ならない」 
      「……わからねえだろ…」 
      「わかるよ」 
      茶化すような口調の跡部の言葉を遮って、リョーマはきっぱりと言った。 
      ゆっくりと跡部が振り返る。 
      「何があっても、オレは誰のモノにもならない。あの人以外は」 
      何も言わず、探るような瞳で跡部はリョーマを見つめた。しかしふいにククッと笑うと、再びリョーマに背を向けて歩き出した。 
      「………おもしれえ」 
      それだけを呟いて、跡部は車に乗り込んだ。 
      「またな、越前リョーマ」 
      「アンタとはコート以外では会いたくないっス」 
      ふて腐れたようなリョーマの言葉に、さもおかしそうに笑いながら跡部は車を出させた。 
      荒れた山道をじゃりじゃり音を立てながら去ってゆく車に、リョーマはベーッと舌を出してみせると、すぐに背を向けて宿舎に戻っていった。
 
 
  宿舎の玄関でリョーマが大きく溜息をついていると、食堂の方から大石が顔を出した。 
      「おかえり。今、誰かと話してなかったかい?越前」 
      「あ、ただの変質者っス」 
      「え?」 
      目を見開く大石の前をスタスタとリョーマが通り過ぎる。しばらくしてから宿舎中に響き渡るような声で大石が叫んだ。 
      「変質者!?た、たいへんだ!竜崎先生、警察に連絡した方がいいでしょうかっ!?」 
      「なんだい、騒がしいね!あいつの冗談を真に受けんじゃないよ!」 
      「じょ……うだん……?」 
      部屋で布団を敷き始めていた桃城と海堂がクスクスと笑う。 
      「で、本当のところ、誰かいたのか?越前」 
      桃城が笑いながらリョーマの肩を抱いてくる。 
      「跡部さん」 
      「…………へ?」 
      「だから氷帝の、跡部さんっスよ」 
      あっさりと答えたリョーマの言葉に一瞬の間をあけて、今度は桃城の声が響き渡った。 
      「はぁぁっ!?なんで跡部さんがっ?」 
      「さあ?」 
      しれっと答えて桃城の手を払い、海堂を手伝い始めるリョーマに桃城は焦ったように追いすがった。 
      「ま、まさかお前、跡部さんに……」 
      「え?」 
      「いや、いい…」 
      なんだなんだと食堂から集まりだした先輩たちをチラッと見てから、桃城は大きな溜息をついた。 
      「跡部が来たって?」 
      いつの間にかリョーマの傍にいた不二がリョーマの腕から布団を受け取りながら、覗き込んできた。 
      「はぁ。運転手つきで」 
      「誘拐されなくてよかったね」 
      「そっスね」 
      口元に反して笑っていない不二の瞳を見つめてから、リョーマはちょっと考え込んだ。 
      確かにあの時、跡部の車に押し込められて連れ去られたりしたら、今頃ただごとではすまない状況になっていただろう。そう考えると、今頃になってリョーマはほんの少し緊張し始める。 
      「不二先輩、あの…」 
      「ん?」 
      リョーマは無性に手塚に逢いたくなった。 
      不可思議なことに詳しい不二なら、あの「未来の手塚」に逢える方法を何か知っているのではないかと、そんな儚い望みがリョーマの胸に湧き上がる。 
      「あ、いや、………なんでもないっス」 
      諦めたように俯き加減でそう言ったリョーマに、不二の目がすっと細められた。 
      「………ちょっとおいで、越前」 
      不二がいきなりリョーマの手を引いて部屋から出た。 
      「大石、悪いけど、越前と話したいことがあるから、先に寝ていて」 
      竜崎に聞こえないように小声で言う不二に、大石は少し戸惑いながらも小さく頷いた。 
      「わかった」 
      リョーマの腕を引いて外に出てゆく不二を見送りながら、大石は困惑した表情を浮かべる。 
      「どったの?大石」 
      「英二……俺は、越前には信頼されていないのかな…」 
      「ないない、そんなこと絶対ないにゃん。信頼してなかったら、さっきの新技練習、大石に相手頼むわけないにゃん?」 
      表裏のない菊丸の言葉と笑顔に、大石はいつもの笑顔を取り戻す。 
      「そうだな。ありがとう、英二。部屋に戻ろう」 
      「最後だしぃ、枕投げしな〜い?」 
      「よし!やろう!」 
      「やり〜!負けないからね〜大石!」 
      「俺もだ!」 
      合宿最後とあって、竜崎もこの夜だけは注意しには来なかった。
 
 
  リョーマの腕を引いて宿舎の外に出た不二は、裏に回って食糧倉庫の方へ真っ直ぐ歩いていった。 
      「不二先輩?何……」 
      訝しげに眉を寄せて自分を見つめてくるリョーマに、不二はニッコリと微笑みかけた。 
      「声が聞きたいんでしょ?電話して、少し話すといいよ」 
      「…………」 
      優しげな不二の言葉にリョーマの瞳が揺れる。しかし、リョーマは小さく笑うと首を横に振った。 
      「…いいっス。まだ、あの人の声を聴くわけにはいかないから…」 
      「どうして?」 
      リョーマは真っ直ぐ不二を見ると、瞳に力を込めた。 
      「立海大に勝って、関東大会優勝してから電話するって決めてるんス」 
      「なるほどね。でも…」 
      不二は微笑みながら自分の携帯電話をリョーマに差し出した。 
      「もう繋げちゃったんだけど」 
      「えっ?」 
      『もしもし?不二か?』 
      差し出された携帯電話から微かに声が聞こえてきただけで、リョーマの心が切なく軋んだ。 
      「決勝に臨むプレーヤーは、メンタル面もケアしておかないとね。手塚もよく言っているだろ?テニスはメンタル面が大きく作用するスポーツだって」 
      「でも…っ」 
      「いいから」 
      不二はリョーマに半ば無理矢理携帯電話を持たせてニッコリ笑った。 
      「………」 
      画面に表示されている「手塚国光」の文字をじっと見つめてから、リョーマはおずおずと端末を耳に当てる。 
      「……もしもし…」 
      『……リョーマか?』 
      少し驚いたような手塚の声がリョーマの耳に届く。リョーマの鼓動が加速していく。 
      「…あ、その、ごめっ…、不二先輩がいきなり、そのっ…」 
      リョーマは動揺した。何を喋ったらいいのか、頭の中が真っ白になってしまって何も思いつかない。 
      『…調子はどうだ?確か今日が合宿の最終日だったと思うが…』 
      「……うん…」 
      手塚の落ち着いた声にリョーマの鼓動も少しずつ落ち着きを取り戻してゆく。 
      「今日、氷帝と練習試合をしたよ」 
      『うん』 
      「その……ありがとうございました。すごく、いい試合させて貰ったっス」 
      『そうか』 
      いきなりかけた電話に『どうかしたのか』と訊ねることもなく、手塚はいつものように静かな口調で話す。 
      「アンタの方は?ラケット解禁になったんでしょ?調子はどうっスか?」 
      『解禁と言っても素振りを軽くしている程度だ。ああ、でも今日は少しだけボールを打たせてもらえた』 
      「そっスか……」 
      『リョーマ』 
      「え…」 
      急にリョーマの名を呼んだ手塚が、電話の向こうで小さく溜息を吐くのが聞こえた。電話などしてはいけなかったのではないかと、リョーマの胸に小さく痛みが走る。 
      『不二が傍にいるのか?』 
      「あ、うん」 
      『ならばかけ直す。ちょっと不二に替わってくれ』 
      「……うん」 
      リョーマは言われたとおりに不二に携帯を差し出して「部長が替われって…」とだけ言った。 
      「もしもし……うん、そうだよ…………そうだね、わかった…………ああ、大丈夫…じゃあね……」 
      通話を終えると、不二はリョーマに向かって優しく微笑む。 
      「携帯、今持っているよね?手塚がすぐかけてくるって。邪魔しちゃってごめんね」 
      「そんなことないっス!あの……っ」 
      不二に礼を言おうとしたリョーマの言葉を遮るように、リョーマの携帯が着信を告げてくる。 
      「本当にすぐかけてきたね。ほら、すぐでないと」 
      笑いながら言う不二に頷いてから、リョーマは急いで通話ボタンを押した。 
      「もしもし」 
      『少し、長くなってもいいか?』 
      先程とは微妙に違う声のトーンで、手塚が優しくリョーマに語りかける。 
      嬉しそうに頬を染めて返事を返すリョーマの背中を、不二がそっと押して食糧倉庫の中に誘導してくれた。 
      「あ、の、不二先輩?」 
      「僕は少し時間を潰してから部屋に戻るけど、適当に言い訳しておくから、ゆっくり話すといいよ」 
      不二は身を屈めてリョーマに顔を近づけると、携帯の向こうの手塚にも聞こえるように「ごゆっくり」と言って微笑んだ。 
      倉庫の中にリョーマを残して不二が静かに戸を閉める。リョーマは小さく息を吐くと、改めて携帯を耳に押し当てた。 
      「不二先輩、行っちゃったっスよ」 
      『今どこにいるんだ?』 
      「宿舎の裏にある食糧倉庫みたいなところ。あの、……くにみつ…」 
      『ん?』 
      不二がいなくなったことでリョーマがいつものように手塚をファーストネームで呼ぶと、手塚の声がさらに柔らかくなった。 
      「いきなり電話して……今、大丈夫だった?リハビリメニューの途中じゃ……」 
      『大丈夫だ。心配はいらない。ちょうど部屋で休憩していたところだ』 
      「そっスか…」 
      ホッと安堵の声を漏らすリョーマに、電話の向こうで手塚が小さく笑う。 
      『お互い、ちょっとしたご褒美のようだな。お前の声が聴けて嬉しい』 
      「オレも……今すごく、アンタの声が聴きたかったから……嬉しいっス」 
      本当は優勝するまで電話しないつもりだったんだけど、と言いながら、リョーマは他愛のないことをぽつりぽつりと話す。手塚も小さく相槌を打ちながら、時折自分の近況を少しだけ話した。 
      静かな優しい時間が二人の間に流れてゆく。 
      こうして手塚と話ができて、リョーマは心から嬉しいと感じた。だが、欲しかったものを得てしまうと、もっと、もっとと欲が出てしまうのは仕方のないことなのだろうか。 
      「くにみつ…」 
      『ん?』 
      そう言ったまま口を噤んでしまったリョーマに、手塚が「なんだ?」と優しく語りかける。その声にまた切なさがこみ上げ、リョーマは小さな溜息を吐いた。 
      決して「逢いたい」などと言うつもりは、リョーマにはない。 
      それは手塚も同じで、その一言だけは、二人の間で、暗黙のうちに禁句になっているようだった。 
      「オレの夢、見る?」 
      もっと他に言いたいことがあるはずなのに、リョーマがやっと口にしたのはそんな台詞だった。 
      『ああ。今朝も見たぞ』 
      「ホント?どんなの?」 
      手塚は短い沈黙の後で、言いづらそうに小さく笑った。 
      『あまりお前に聞かせたくない内容なんだが』 
      「ヤラシイの?」 
      『……まあな』 
      リョーマがクスッと笑う。 
      「……今夜はアンタの声が聴けたから、オレもアンタの夢、見られるかな…」 
      『俺のことだけ考えて眠れば見られるだろう』 
      「アンタのことなんか、いっつも考えてるよ。知ってるくせに」 
      返事をせずに、手塚は吐息だけで笑った。 
      「…それに……こんな風に、アンタの声だけ聴いていたって、全部思い出せる。アンタの表情とか、仕草とか、匂いとか…」 
      言いながらリョーマは目を閉じて自分の身体が記憶している『手塚国光』をすべて思い出してゆく。 
      自分を見つめる優しく熱い瞳、しなやかに抱き締めてくれる腕の感触、耳にかかる吐息、手塚の胸に顔を埋めた時に嗅ぐ柑橘系のコロンの香り。そして、甘いその囁きは、いつだってリョーマの官能をくすぐるのだ。 
      『リョーマ』 
      「……っ」 
      現実に耳元で囁かれて、リョーマの身体がピクッと反応してしまった。 
      「なんスか?」 
      上擦りそうになる声を必死に押し隠して、リョーマは平静を装った。 
      『………今日、跡部に……何か言われたか?』 
      「え……っ」 
      思い切り反応してしまった自分に、リョーマは内心「しまった」と舌打ちした。手塚には余計な心配をさせたくなかったのに、これでは「何か言われた」と言ったも同然だ。 
      電話の向こうで少しの間手塚が押し黙った。 
      「くにみつ…?」 
      『………大丈夫、か?』 
      「え?」 
      リョーマは、手塚が何に対して「大丈夫か」と聞いたのかがわからず、答えに詰まった。だがそれきり黙ってしまった手塚に、跡部が自分に言った言葉を、手塚はもう知っているのだとリョーマは確信した。 
      そしてその自分の確信に間違いがないのなら、たったひとつの揺るぎようのない想いだけは伝えなければ、と思った。 
      「オレは、アンタのものだよ」 
      『…』 
      手塚が小さく息を飲むような気配が、リョーマの耳に微かに届く。 
      「アンタはオレの全部を知ってる。オレの心も、身体も、アンタの知らない場所なんてどこにもない」 
      リョーマは甘い吐息を手塚に聞こえるように、熱く零した。 
      「そして、オレの心の中は、全部アンタに繋がってる。オレのカラダは、アンタだけを覚えてる」 
      今度は手塚が、甘い溜息を吐いた。 
      『……だから、俺だけのものだと?』 
      「アンタだけのものだよ」 
      『……触れたい』 
      「触れてよ」 
      『無茶を言う』 
      リョーマは目を閉じて小さく笑った。 
      「オレはさっきからアンタを感じてるよ。アンタの声だけで、イけそう…」 
      『バカ』 
      手塚の声が、リョーマへの愛しさで掠れた。 
      「くにみつ…」 
      リョーマの唇が、切なさに震える。 
      『…俺もお前のすべてを覚えている。お前が自分でも見たことのない場所だって、鮮明に思い出せる』 
      「…えっち」 
      二人の鼓動がシンクロするように加速を始めた。 
      『お前が俺のものだというなら、お前が俺の代わりに触れて、今どうなっているのか教えてくれ…』 
      「……ん……どこ?」 
      『服の中に手を入れて…胸に…』 
      リョーマは言われたとおりに自分の体操服の裾から右手を差し入れ、肌に触れた。 
      「ん……」 
      『もう、堅くなっているな?』 
      「うん…」 
      『指先で触れて、爪を立てて』 
      リョーマは自分の左胸の突起に指先で触れ、潰すように押してみてから、言われた通りに爪を立てる。 
      「あっ!」 
      途端に、その突起から体中に電流が走った。それが心地よくて何度も引っ掻いてみる。 
      「あっ、あ、んっ」 
      『摘んでみろ』 
      また言われた通りに蕾をキュッと摘み上げた途端、リョーマは息を飲んだ。引っ掻いた時よりも鮮明に、電流が身体を駆け抜ける。 
      「あっ、やっ」 
      『リョーマ……』 
      手塚の声が熱を帯びる。 
      「………」 
      だがリョーマは溜息を吐くと、うっすらと目を開けて窓辺に向かい、壁に寄りかかるようにして座り込んだ。 
      『…リョーマ?』 
      「……やっぱ、アンタじゃないとダメっスよ……全然足りない…」 
      がっかりしたようなリョーマの声に手塚が甘い溜息をついてから微かに笑う。 
      『…そうでないと困る』 
      リョーマも小さく微笑った。いや、微笑ったつもりだったが、実際には瞳を伏せて唇の端をほんの少し上げただけだった。 
      切なさが、リョーマの胸を埋め尽くす。 
      『リョーマ』 
      「……なんスか?」 
      『立海大を倒したら、報告に来い』 
      「え?」 
      リョーマはパチッと音がしそうなほど勢いよく大きな瞳を開けた。 
      「……行っても、いいの?」 
      『立海大を倒したら、だぞ?』 
      「うん」 
      リョーマはすくっと立ち上がった。 
      「倒すよ、立海大。そして胸を張って、アンタに全国への切符を渡しに行くんだ」 
      『ああ。待っている』 
      「その時は…」 
      『ん?』 
      頬を染めて、リョーマが一呼吸おいた。 
      「アンタの手で、触って」 
      『…ああ』 
      今度は手塚が、何かを堪えるように、一呼吸おく。 
      『来る時は飛行機の中で、充分寝ておけ』 
      自分の傍では一切寝かさないから、と言われた気がして、リョーマはさらに頬を染め直しながら嬉しそうに微笑んだ。 
      「ういっス」 
      『もう休んだ方がいい。付き合わせてすまなかった』 
      「ううん。アンタの声が聴けて、新しい約束もできたから、オレはもっと頑張れる」 
      『そうか』 
      手塚の柔らかな微笑みが、リョーマには見えるような気がした。 
      「じゃあ、もう寝るから………おやすみ、くにみつ」 
      『おやすみ、リョーマ』 
      少しの沈黙の後で、手塚の方が先に電話を切った。 
      いつも、なかなか電話を切ることができずに、もう少しもう少しと長引かせてしまう自分たちにしては珍しいことかもしれなかった。 
      だがそれが今の手塚が自分にしてくれる、最大級の思いやりだと言うことを、リョーマはわかっている。 
      (ちゃんとコンディションを維持して、絶対勝つから) 
      リョーマは手にした携帯をキュッと握り締めた。 
      「くにみつ…大好き…」 
      そっと携帯に唇を押し当ててから、リョーマは倉庫の扉を開けて外に出た。 
      「!」 
      その扉のすぐ横に、腕を組んで壁に寄りかかっている不二を見つけて、リョーマは叫び声さえ上げられないほど驚いた。 
      「あれ?もう終わったの?」 
      「………なんで…ここに?」 
      不二はニッコリ笑うと「時間潰してただけだけど?」と小さくのびをした。 
      「てっきり色っぽいこと始めるかと思ったのに」 
      「………はぁっ!?」 
      「じゃあ、近々、逢う約束ができたってことかな」 
      どうしてこの人はこんなにも鋭いんだろう、とリョーマはほんのりと頬を染めて不二を見つめた。顔を見たら、素直に礼を言おうと思っていたことなど、すっかり忘れて。 
      「戻ろうか」 
      「ういっス」 
      二人は肩を並べて宿舎の玄関へと向かう。 
      「不二先輩」 
      「ん?なんだい?」 
      玄関の扉に不二が手をかけたところで、リョーマが呟くように呼び止めた。 
      「絶対、優勝、しましょう」 
      不二は目を見開いた。伏し目がちだったリョーマの瞳が、しだいに強さと激しさを宿しながら、ゆっくりと不二を捕らえる。 
      手塚に逢いたいから、だけじゃない。 
      リョーマの胸の中を、様々な想いがよぎってゆく。多くの人に支えられている、とリョーマは感じていた。 
      身近にいる先輩たちはもちろん、学校に無理を言って自分たちを連れ出し、この合宿でずっと指導してくれた竜崎や、補習を受けることを厭わずに、自分たちの身の回りの世話をすることを快諾してくれた同級生のみんな、そして、わざわざ自分たちのために時間を割いて練習試合を受けてくれた氷帝の連中にさえ、感謝の思いが募る。 
      テニスプレーヤーとして一番大切なことに気づかせてくれた大和も、さらには、あまり認めたくはないが、自分のレベルアップへのきっかけをくれた跡部も、「今ここにいる自分」が存るために、大きな力を貸してくれたのだ。 
      だから、その人たちに感謝の言葉を贈る代わりに、絶対に、立海大に負けてはならない、とリョーマは思う。 
      だが、立海大に、そして真田に勝ちたいと思う、衝動にも似た熱い想いの根源は、彼らへの感謝の思いだけでもなかった。 
      何よりも自分自身が、誰にも負けたくないと、闘志を滾らせている。この合宿に来て、今までよりもさらにその思いが強くなった。 
      テニスが好きで好きで、愛しているからこそ、テニスでは誰にも負けたくはないのだ、と。 
      少しの間、黙ってリョーマを見つめていた不二が、何も言わず大きく頷いた。 
      不二の中でも、何かが目を覚まそうとしている。
 
 
 
 
  いよいよ決戦の日がやってくる。 
      そして、その戦いの場でいくつもの奇跡が起こることを、今はまだ、誰も知らない………
 
 
 
  
      
      THE END
  
      NEXT!→Side:KUNIMITSU    
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