光の指す場所 〜Side:KUNIMITSU


微かに残った理性が、電話を終わらせた。
久しぶりに聴いたリョーマの声は、前と変わらず、自分の恋情を揺さぶってきた。



最初、ディスプレイに表示された「不二周助」の名に、手塚は何事が起きたのかと、ほんの少し心を緊張させた。
だが電話に出たのはリョーマだった。
思いがけず耳に飛び込んできた愛しい恋人の声を、しかし、手塚はそのまま素直に喜んで聴くことはできなかった。
(何か、あったのか…?)
リョーマは絶対に、たとえ何があっても、自分のことでは電話などかけてくるはずがないのを手塚は知っている。表示されたのが不二の名前であったことからも、リョーマが自分の意志で電話してきたのではないことが伺えた。
案の定、電話に「出させられた」リョーマは、どこかしどろもどろで、話したいことがまとまっていないようだった。
手塚は落ち着いて話をしながらも、不二が傍にいるのではリョーマが本当に話したいことを話せないのではないかと思い、不二にリョーマと二人きりにしてくれるよう頼んだ。
そう、手塚には「思い当たるフシ」があったのだ。
(跡部…か…)
リョーマの声音から、取り返しのつかないことをされたわけではないと言うのはわかる。
だが、ほんのりと漂う不安定な何かが、リョーマの中にある。
それはたぶん他の誰にもわからないような微かな気配で、たとえばひどく晴れた日にふと感じる雨の匂いにも似ていた。
リョーマに関して、自分以外でそれに気づけるのは、おそらく不二くらいなものだろう。
その不二がリョーマに電話をかけさせると言うことは、大事ではないにしろ、リョーマに何かがあったということだ。
先程の電話で、跡部はリョーマを気に入ったと言っていた。その時にふとよぎった不安に似た何かが、現実で形を成そうとしているのだろうか。
そうやって、リョーマと話しながら様々な考えを巡らしていた手塚の思考は、しかし、リョーマの一言で、すべてが吹き飛ばされてしまった。
『オレは、アンタのものだよ』
遥か彼方の地から、揺るぎなく、真っ直ぐ見つめてくるリョーマの瞳が、自分を射抜くのを手塚は感じた。
『アンタはオレの全部を知ってる。オレの心も、身体も、アンタの知らない場所なんてどこにもない』
確かにそうだ、と手塚は思った。リョーマの心は彼の父親と匹敵するほどに、そしてリョーマの身体は彼の母親さえ知らないことまで、自分はすべて知っている。
電話の向こうで、リョーマが甘い吐息を吐く。
『そして、オレの心の中は、全部アンタに繋がってる。オレのカラダは、アンタだけを覚えてる』
真っ直ぐなリョーマの言葉に、自分が彼を奪い尽くす、あの幸せで狂おしい時間を、手塚は思い出してしまった。堪らずに、手塚の唇が熱い吐息を零す。
「……だから、俺だけのものだと?」
自分の身体の熱さを悟られないように、手塚は平静を装った。だがリョーマの言葉は、手塚を煽り続ける。
『アンタだけのものだよ』
「……触れたい」
思わず口にしてしまった本音を笑わずに、リョーマも「触れてよ」と言った。
「無茶を言う」
手塚は苦笑した。
こんなに近くに彼の声を感じるのに、そっとその頬に触れることさえ許されない。
手塚は初めて、二人の間の距離を恨めしく思った。
ドイツに来ることを、自分の選んだ道を、手塚は後悔などしていない。それは未来を見据えれば自分にはどうしても必要なことであり、避けられない道だとも思っている。
だがこうしてリョーマとの物理的な距離を感じさせられると、どうしようもない飢餓感が湧き上がる。
そんな手塚の心情をさらに煽るように、リョーマがいつもの挑発を仕掛けてくる。
『オレはさっきからアンタを感じてるよ。アンタの声だけで、イけそう…』
「バカ」
眩暈すら感じさせるようなリョーマの言葉に、手塚の声が微かに掠れる。飢餓感が、身体の水分までも奪ったかのように、唇が乾く。
『くにみつ…』
切なげに名を呼ばれて、堪らずに手塚は目をきつく閉じた。
「…俺もお前のすべてを覚えている。お前が自分でも見たことのない場所だって、鮮明に思い出せる」
『…えっち』
はにかんで、上目遣いになるリョーマの表情が目に浮かぶ。
もっと、リョーマの甘い声が、無性に聴きたくなる。
「お前が俺のものだというなら、お前が俺の代わりに触れて、今どうなっているのか教えてくれ…」
笑われるかと思いながら手塚が呟いた言葉に、リョーマが素直に応じてくれた。
手塚がいつもリョーマの肌に触れて最初に触れる胸の突起を、リョーマ自身の指でまさぐらせてみる。
その先端に触れさせ、爪を立てさせる。
『あっ、あ、んっ』
小さく上がるリョーマの声に、手塚の身体が反応を始める。
「摘んでみろ」
『あっ、やっ』
手塚は、自分の記憶という映写機でリョーマの痴態を映し出しているかのように、瞬きもせずに部屋の白い壁を見つめる。全身の熱が、手塚の中心に集まり始めた。
「リョーマ……」
だが、手塚が欲望を含んだ声でリョーマの名を呼ぶと、リョーマの小さな嬌声がすぅっとおさまってしまった。それどころか小さく溜息まで吐かれてしまう。
「…リョーマ?」
『……やっぱ、アンタじゃないとダメっスよ……全然足りない…』
溜め息混じりにそう呟かれて、手塚は複雑な心境になった。
もっとリョーマの声が聴きたかった。もっと乱れさせて、「あの時」のような甘く自分を求める声を上げさせたかった。
だが自分の指ではダメなのだとリョーマは言う。手塚でないと、感じないのだと。
その言葉に、手塚はリョーマの身体が自分だけを受け入れてくれているのだと強く感じた。
嬉しくないはずがない。それでも、おさまりきれない欲望が、手塚の声に熱を孕ませる。
「…そうでないと困る」
きっとリョーマは切なげに小さく微笑んでいるだろう。もしかしたら、リョーマも本当は、身体に湧き上がる熱をもてあましているのかもしれない。
これ以上先に進めば進むほど、そのあとで反動のように押し寄せる虚脱感を、恐れているのかもしれなかった。
「リョーマ」
『……なんスか?』
手塚は顔を上げた。
今のリョーマに必要なことは、自分への想いを煽ることではない。
「立海大を倒したら、報告に来い」
『え?』
二人を包んでいた甘やかな空気が変わる。
『……行っても、いいの?』
少し遠慮がちに言うリョーマの声に、手塚は微笑んだ。
逢いたいのだ。リョーマは自分に。そして何よりも自分がリョーマに。
だが今の時点では、自分はまだドイツを離れることができない。ならば、リョーマに動いて貰うしかない。
「立海大を倒したら、だぞ?」
リョーマへの条件は、自分自身に出す条件でもある。
そうすることで、少しでも浅ましい自分への戒めになれば、と手塚は思った。
『倒すよ、立海大。そして胸を張って、アンタに全国への切符を渡しに行くんだ』
「ああ。待っている」
人が変わったように、リョーマの声に力が宿る。
この声が、この声こそ、「越前リョーマ」だと、手塚は思う。
『その時は…』
だがもう一度リョーマの声に艶が混じった。
『アンタの手で、触って』
手塚は小さく目を見開いた。
耳元に囁かれたリョーマの言葉は、どんな甘い誘惑よりも激しく、手塚を揺さぶった。
「…ああ」
治まりかけていた熱が、再び手塚を浸食する。
「来る時は飛行機の中で、充分寝ておけ」
この手の届くところにリョーマがいるならば、決して離しはしない。
常にこの瞳にリョーマの姿を映し、体中に備わる感覚のすべてでリョーマに触れ、片時も離れることなく、傍にいよう。
できることならば、夜は深く身体を繋げたまま身も心も解け合わせ、朝の光がタイムリミットを告げるまで、一緒にいたい。
『ういっス』
ほんのりと甘く掠れた声で、リョーマが返事をしてくれる。
手塚の激しい想いを秘めた静かな言葉を、リョーマは理解してくれたようだった。
「もう休んだ方がいい。付き合わせてすまなかった」
時計を見て、手塚はリョーマに聞こえないように溜息をついた。もう「計算」しなくても、手塚はすぐに日本の時計の針が今どこを指しているのかわかるようになってしまった。
本当はもっと声を聴いていたい。だがこれ以上遅くまで付き合わせるわけにはいかない。
『ううん。アンタの声が聴けて、新しい約束もできたから、オレはもっと頑張れる』
「そうか」
手塚は柔らかく微笑んだ。
『じゃあ、もう寝るから………おやすみ、くにみつ』
「おやすみ、リョーマ」
手塚はそっと目を閉じ、心の中でリョーマに口づける。溢れてきそうになる恋情をどうにか抑え込んで、リョーマと繋がっている時間を静かに終わらせた。
「リョーマ…」
繋がりが途切れた途端、恋情が溢れ出した。リョーマへの愛しさで、胸が灼けつくように息苦しくなる。
ドイツに来てから、手塚は自分でも気づかぬうちに、リョーマへの恋情を抑え込んでいた。
リョーマと一緒に、遠い先の未来まで時間を共有するためには、今、手塚はここにいる必要がある。だから、激しい恋情も、飢餓感も、欲望さえも心の奥底にある扉の向こうに隠して日々を送ってきた。
だが、扉のカギが、ふいに壊されてしまった。
────くにみつ…
自分を呼ぶ、リョーマの切ない声が、耳の奥に蘇る。
────アンタの手で、触って
手塚の唇から熱い吐息が零れた。
全身の熱が、急速に身体の一点に集まり始める。
「……っ」
手塚は眼鏡を外し服を脱ぎ捨てると、部屋に備え付けてあるシャワーブースに向かった。


コックを捻って頭から水を被ったが、肩のことを考えて低めの温水に切り替えた。
────アンタの声だけで、イけそう…
手塚は壁に両手をついた。
見下ろす先にある欲望が、おさまるべき鞘を求めて脈打っている。
「…」
手塚は大きく溜息を吐くと、諦めたように欲望に左手を伸ばした。
   









「くっ、ああ……っ」
手塚の喘ぎ声がシャワーの音に吸い込まれた。
荒い呼吸を繰り返しながら壁に背を預けると、手塚はゆっくりと瞳を開いた。
「………」
目に映るのはオフホワイトのシャワーブースの壁。ふと視線を足下に落とせば、自分が吐き出した白い濁りが、シャワーの湯に散らされながら排水溝に流れていった。
手塚は大きく息を吐いた。
「……リョーマ…」
愛しいその名を口に出して呟き、もう一度溜息を吐いてから自嘲気味に小さく微笑む。
────やっぱ、アンタじゃないとダメっスよ……全然足りない…
先程の電話での、リョーマの言葉が胸に蘇る。
「本当に、足りないな…」
生理的な欲望なら独りでも処理することはできる。
だが精神的な欲望まで満たすことはできない。
それが自慰行為とSEXとの違いなんだと、手塚は今更ながら身を以てわかった気がした。



シャワーブースから出て着替え終えた頃、手塚の携帯にメールが入った。
日本では真夜中にあたる時間に、誰からだろうかと眼鏡を着けてから不審そうに画面を見る。
「…リョーマ?」
メールはリョーマからだった。
(まだ起きていたのか?)
微かに眉を寄せながらメールを開くと、短い文章が現れた。

    『今、くにみつの夢見た。内容はそっちに行った時に話す!』

手塚はポカンとした顔でしばらくその文章を見つめていた。
(今……?)
そうして携帯を折りたたんでからほんのりと微笑んだ。
「想いは、届いたようだな……」
手塚は窓辺に立って、空を見上げた。
物理的にはどんなに遠く離れていようとも、この想いには距離などないのだ。そう、この空のように、自分とリョーマの心はいつだって繋がっている。
ふいに部屋の内線電話が鳴った。
「はい、手塚です」
『今日の検査結果と明日のメニューの確認をしましょう。準備ができたらカウンセリングルームにいらっしゃい』
「わかりました」
手塚は電話を置くと、もう一度空を見つめた。
(今は、アイツはアイツのやるべきことを、そして俺は俺のやるべきことをやり遂げるしかない)
今の状況を感傷的に過ごす気はない。
リョーマとの未来のために選んだ道は、確実に光へと向かっているのだ。
「待っている、リョーマ」
リョーマが自分の元へやってくる日を。
そして、自分がリョーマの元へ戻る日を待っていてほしい。
手塚は瞳に強い光を宿しながら空にそっと微笑みかけ、ウェアを着込むと部屋を出て行った。


窓から差し込む光が、まるで未来からの祝福のように、部屋の中を明るく照らしていた。




THE END
2004.9.10



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