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  立海大附属中との全国大会決勝が雨で延期となり、突然与えられた時間を有効に使うために、青学男子テニス部レギュラーメンバーは短期集中強化合宿を行うことになった。 
      マイクロバスで高速を走り、周りの景色に緑が多くなる頃には、少しだけ開けてある窓から入ってくる風の温度がずいぶんと下がったようにも感じる。 
      窓枠に肘をついて外を眺めていたリョーマは、小さく溜息を吐いてから、先程まで読んでいた文庫本をもう一度読むことにする。 
      「あっれ〜、おチビ、それ四つ葉のクローバーじゃん!どこで見つけたにゃん?」 
      隣の席に座っている菊丸が、リョーマの手元を覗き込んで感心したような声を上げる。 
      「え…あー……忘れたっス」 
      「忘れたぁ?」 
      呆れたようにそう言って触ろうと手を伸ばしてくる菊丸から、リョーマはさりげなくその『栞』を遠ざける。 
      「見せろよ〜おチビ〜!」 
      「ヤダ。」 
      「ケチ!おチビにはおやつ分けてやんない!」 
      「……べつに…いいっス」 
      溜息混じりにそう言うと、リョーマは文庫本を閉じてしまった。 
      手塚が送ってきた四つ葉のクローバーを貼り付けた紙片を、リョーマはいつも持ち歩くようになっていた。 
      以前手塚に薦められはしたものの全く読む気のなかった文庫本まで購入し、栞のようにその紙片を挟み込んで特別なお守りのように大切にしている。いくら菊丸といえども、安易に触れさせたくはなかった。 
      「あれ、おかしいな」 
      ふいに、少し離れた席に座っていた不二の声がリョーマの耳に入った。 
      「どしたの、不二?」 
      菊丸が背もたれに顎を乗せるようにして不二に問いかける。 
      「ん?いや、越前くんのことをトランプで占ってみていたんだけど…」 
      「なんでオレのこと占うんスか!」 
      顔を引きつらせてリョーマも菊丸と同じようにして不二の方を向いた。 
      「ジョーカーは抜いておいたはずなんだけど……あ、でも、別に悪い結果じゃあないと思うよ。そのジョーカーによって、何かキミに変化が起こるかもしれないけど」 
      「……変化……?」 
      「それって、もしかしておチビがものすご〜く強くなっちゃうとか、ものすご〜く素直ないい子になっちゃうとか、そう言うのかにゃ?」 
      「さあね、どうだろう」 
      困ったように、不二が曖昧な微笑みを浮かべる。 
      「……とりあえず、参考にさせてもらいまーす」 
      目を輝かせて不二の占いを鵜呑みにしている風な菊丸を横目でチラリと見やってから、リョーマは溜息と共に正面を向いて座り直した。 
      「気にしなくていいよ越前くん。姉さんの占いみたいには当たらないから」 
      「ういーっス」 
      窓枠に頬杖をついて、リョーマがもとから関心などないというような返事をする。そんなリョーマにはお構いなしに、菊丸が身を乗り出した。 
      「不二ぃ、次は俺のこと占って!」 
      「うん、いいよ」 
      ニッコリと菊丸に笑いかけながら、不二は抜き取ったジョーカーをカードケースにしまい込んだ。
 
 
  顧問の竜崎が知人から借りたという「宿舎」に到着したのは十時少し前だった。 
      都内から三時間もかからずに、自然に囲まれた空気の綺麗な場所に辿り着けたことにリョーマはほんの少し驚いた。胸一杯に空気を吸い込むと、都会とは全く違う爽快感を感じる。 
      「ふーん、結構いい場所っスね」 
      空を見上げたリョーマは都会とは違うその色に手塚からのメールを思い出した。 
      手塚が今一人で治療とリハビリに挑んでいるドイツの空の色は、どこか東京とは違う色をしていると書いてあった。 
      (東京とは違う空の色、か…) 
      もしかしたらこんな色なのではないかと想いを馳せるリョーマの思考は、竜崎の凛とした声で現実に引き戻された。 
      「さあ、荷物を片づけたら、早速練習開始だよ!」 
      「ういーっス!」 
      決勝戦で戦う立海大附属中に勝てる確率は相当低いと、乾が呟いていた。だから、この数日間で、立海大附属中に対抗できるだけの実力をつけなければならない。 
      「関東大会優勝して、胸を張って手塚に全国大会への切符を手渡そう!」 
      大石の言葉に、全員が頷く。 
      唇をひき結んで、リョーマはバッグを担ぎ直した。 
      リョーマは久しぶりに「敵わないかもしれない」という相手に出会った。立海大附属中の副将・真田である。実力の差を、思い切り見せつけられた気がした。 
      (まだまだ、だね……) 
      だがリョーマは、今は「実力の差」とはあまり考えていない。雨の中とはいえ、まともに戦えさえしなかった自分の不甲斐なさに屈辱すら感じたが、冷静になって考えてみると、まだまだ自分の身体にも鍛え直す余地があると気づいた。一週間もないような時間で、どれだけ自分の体力を上げられるかはわからない。だがやれるだけのことを、やれると思った以上にやり尽くそうと、リョーマは決めた。 
      それに、とリョーマは思う。 
      正直言って手塚にはまだ、今の自分では勝てないと思う。しかし、真田にはあと一歩で勝てる気がする。そう思わせる二人の違いがなんなのかはわからないが、今までリョーマの直感が外れたことはさほど多くはない。 
      しかし、それもこれも、すべてこの合宿にかかっている。この合宿中に成果を上げることができなければ、真田に勝利することはもちろん、立海大附属中に勝つことなど出来はしない。 
      リョーマはポケットに入っている文庫本にそっと触れた。 
      (アンタと戦うまで、オレはもう誰にも、絶対負けない!) 
      「おい越前、どうした、早く来いよ」 
      「ういっス!」 
      桃城に呼ばれて、リョーマは顔を上げた。 
      「お、気合い入ってんな、越前。いい目してるぜ」 
      「べつに。いつもと変わんないっスよ」 
      桃城に向かって不敵に笑ってみせると、リョーマは宿舎の中に入っていった。
 
 
  竜崎の課したトレーニングメニューはリョーマが想像していたものとはだいぶ違った。 
      いきなりラケットを封印され、基礎的なトレーニングをメインに進められている。 
      (いくら基礎が大事って言っても……時間ないのに筋トレばっかでいいのかな……) 
      「焦っちゃダメだよ、越前くん」 
      「え…」 
      山道のランニング中、不二がそっと声をかけてきた。 
      「べつに……焦ってないっス」 
      「そうかい?…ならいいけど」 
      ニッコリと不二に微笑まれて、リョーマはばつが悪そうに口をへの字に曲げた。 
      不二には否定したものの、微かな焦燥感に苛まれていることはリョーマ自身自覚している。 
      (…もしかしたら、アンタも今、こんな気持ちでいるの…?) 
      リョーマは木々の合間に覗く青空を見上げた。 
      きっと手塚は、愚痴の一つも零さずに、ただ前だけを見つめて自分の身体と戦っているのだろう。そう思うと、少しだけリョーマの心が冷静さを取り戻す。 
      「ホレホレ、リョーマ、ペースが落ちてるよ!」 
      いつの間にか真後ろにいた竜崎がリョーマに向かって檄を飛ばしてくる。 
      「げっ、ういーっス!」 
      「走り込みを甘く見るんじゃないよ!足腰鍛えなきゃお前より大柄な連中のパワーには対抗できないんだからねぇ」 
      「…そんなの言われなくったってわかってる…」 
      ボソッと呟くリョーマに竜崎は目をつり上げてメガホンを向ける。 
      「返事は?」 
      「ういーっス!」 
      リョーマは竜崎から逃げるようにスピードを上げた。とほぼ同時に竜崎の携帯が鳴る。 
      「はい……ああ、もう着いたのかい?じゃあ明日は朝から頼めるかねぇ…ん、わかった、よろしく頼むよ…それで明日は……」 
      スピードを上げて竜崎から距離をとろうとするリョーマの耳に入ってきた会話はそれだけだったが、竜崎が誰かに何かを頼もうとしていることだけはわかった。 
      (まさか親父じゃないだろうな…) 
      あり得そうな話だが、あの面倒くさがり屋の南次郎が青学のコーチを引き受けるはずがないとリョーマは思い直した。 
      (ま、どうでもいいけど) 
      リョーマは改めて前方に視線を定めると、まずは目の前の不二を追い抜こうと思考を切り替えた。
 
 
  一日の練習を終え、リョーマたちは大浴場で汗を流すことにした。 
      建物の見た目からは想像していなかった風呂の大きさに、一同は歓声を上げる。 
      「すっげー広い!」 
      「おお〜、泳げそうにゃん!」 
      目を輝かせる菊丸に不二がボソッと何かを囁くと、菊丸の頬がポッと赤くなった。 
      不二の台詞をだいたい想像できてしまったリョーマは溜息を吐いて「お風呂セット」を手に取った。 
      「菊丸先輩も大変っスね、いろいろ」 
      「おチビだって、手塚がいたらきっと大変だったにゃん」 
      唇を尖らせながら声を潜めてぼやく菊丸に、リョーマはもう一度小さく溜息を吐いた。 
      「そうそう、あの人、視線だけでもスゴイっスからね」 
      「えっ!?」 
      菊丸の顔がまた真っ赤になった。 
      「お、おチビ???それってどういう……」 
      「な・い・しょ」 
      ニヤッと笑うリョーマに菊丸の頬がぷぅっと膨らむ。 
      「なんだよぅ、おチビのくせに!」 
      「わぁっ、ギブギブ、菊丸先輩っ、早く入りましょうよ!」 
      菊丸にヘッドロックをかまされて、リョーマは慌てて降参する。菊丸はリョーマを解放すると、頬を膨らませたままチラリとリョーマを睨んだ。 
      「おチビ、俺の背中流せよ!もう!」 
      「ういーっス」 
      笑いながらリョーマが風呂場に入ると、すでにそこは戦場と化していた。 
      「そこは俺が座ろうと思っていたんだよ、マムシ!あっちに座れよ!」 
      「うっせぇタコ!お前があっちに行け!」 
      「…んだとコラァ!」 
      「やるか!」 
      一触即発の二人に、慌てて大石が止めに入る。 
      「やめろ、二人とも!グラウンド……じゃなかった、もう一度山道のランニング、行かせるぞ!」 
      桃城と海堂は二人揃って「ゲッ」というと、渋々隣り合わせに腰を下ろした。 
      その後も何かと騒ぎを起こす二人から離れて、リョーマは逃げ込むように浴槽に身体を沈めた。 
      「なーんか、あの二人、夢の中でも喧嘩していそうっスね」 
      呆れたように呟くリョーマの言葉に、不二がクスッと笑った。 
      「確かにね。まあ、ライバルがいるっていうことは喜ばしいことなんだろうけど」 
      苦笑する不二に、リョーマは前から思っていたことをひとつ訊いてみたくなった。 
      「不二先輩のライバルって、やっぱ、部長っスか?」 
      真っ直ぐなリョーマの問いかけに、不二は困ったように微笑んだ。 
      「うーん……どうだろう……あんまり『誰かに勝ちたい』とか思ったことってないから…」 
      「ふーん……でも部長をライバルだと思っている人って……たくさんいそうっスね…」 
      「キミもその一人、なんじゃないの?」 
      「………まだまだっスよ。あの人、バケモノだから。オレ、まだ人間だし」 
      ふて腐れたように言うリョーマに小さく微笑むと、不二はそっと湯を掬い上げた。 
      「テニス以外の手塚のライバルは、今のところはいないみたいだけど……これから現れないとも限らないよね…」 
      「テニス以外のライバルって…?」 
      「誰かとキミを取り合うとか」 
      「なにそれ」 
      リョーマは微かに眉を寄せると、不二を軽く睨んだ。 
      「オレはモノじゃないっスよ」 
      「モノじゃないから、厄介なこともあると思うけど?」 
      「意味わかんないっス」 
      「バスの中ではああ言ったけど、やっぱり『ジョーカー』には気をつけた方がいいよ」 
      胡散臭そうな視線を不二にチラッと投げてから、リョーマはゆっくりと立ち上がった。 
      「お先に失礼しまーす」 
      「湯冷めしないようにね」 
      「ういっス」 
      リョーマを見送って、不二は小さく溜息を吐いた。 
      「不二はホントにおチビのことが可愛いんだにゃ」 
      いつの間にか隣に来ていた菊丸が、不二の顔を覗き込んだ。 
      答えずに不二が微笑むと、菊丸もニッコリと微笑んだ。 
      「出ようか、英二」 
      「にゃ?じゃああと一周だけ泳いでくるにゃん!」 
      「泳ぐって……」 
      さっさと「泳ぎに」行ってしまった菊丸を見やりながら、不二はまた溜息をついた。 
      「ジョーカー、……か…」 
      不二の表情から、一瞬だけ微笑みが消えた。
 
 
 
  翌朝、『新鮮なミルク調達命令』が下され、桃城と海堂、そしてリョーマは近くの牧場まで朝早くからお使いに行くことになった。 
      「めんどくせえな、朝から牧場まで牛乳買いに行くなんてよぉ」 
      ブツブツとぼやく桃城を「文句言うんじゃねぇ」と海堂が窘めると、ただでさえ不機嫌な桃城の目がさらにつり上がった。 
      「なんだとぉ!」 
      また始まった、とリョーマが溜息をついて前方に目をやると、道をふさぐように一頭の牛がこちらを睨んで立っていた。 
      「牛だ……なんでこんなところに牛が…」 
      「なんかあれって、怒ってないっスか?」 
      よく見れば、鼻息が荒く、目が血走っている。どうやら興奮状態にあるようだった。 
      「どういうことだ?」 
      「もしかして、越前の赤パン目当てだったりして?」 
      さらに鼻息の荒くなる牛を見て、桃城の顔が引きつった。 
      「マジかよ、逃げようぜ!」 
      「そんな必要ありません」 
      笑い声とともに、いきなりのっそりと現れた人物に向かって、三人は訝しげな視線を向けた。 
      「牛は赤いモノ見ると興奮すると誤解されがちですが、真実ではありません」 
      誰にともなく話しかけてきた男は薄いパープルグレーのポロシャツにサマーセーターを肩から羽織り、度の入っているらしいサングラスと、額にはバンダナを着けている。さらにうっすらと無精ひげまで生やし、どこからどう見ても「不審人物」だった。 
      「何なんスか?この人」 
      「あんまりかかわらない方が良さそうだな」 
      「アブないヤツに違いない」 
      三人のひそひそ話が聞こえたのか聞こえないのか、その人物はゆっくりと近づいてくる。 
      「おや、信じていませんね。ならば真実をご覧に入れましょう」 
      ちょっと離れてください、と言いながらリョーマたちと牛の間に立ちはだかると、その男は肩に羽織っていたサマーセーターを手に取り、わさわさと上下に揺らし始めた。 
      「どうです?実際には目の前にちらつくモノに反応するんです」 
      「う、おい、まずくねぇか?」 
      揺らされるサマーセーターの向こうで、牛の様子がどんどん危険な様相を呈し始める。 
      「理解できましたか?じゃあ私は失礼します」 
      自分の話を立証できたことに満足したのか、男はさっさと背を向けて、脇の小道に入っていってしまった。 
      「残された俺たちはどうなるんだ!?」 
      途端に牛の凶暴な目が三人を捕らえ、ついにもの凄い勢いで突進してきた。 
      「うわー、に、逃げろ!」 
      「何なんスか、あの人は!」 
      「んなこと、俺が知るかーっ!」 
      「今度会ったらただじゃおかねぇ!」 
      叫びながら逃げ回る三人を、牛は執拗に追いかけてくる。 
      どうにかして牛をやり過ごして牧場に行き、牛乳を調達して戻る頃には、三人は疲れ果て、ヨレヨレな状態になっていた。 
      「じゃ、ここに牛乳置いとくから」 
      グッタリした様子でキッチンに牛乳を届け、リョーマは朝食の用意ができるまで、少し気分を晴らそうとポケットに手をやった。 
      「え………、あれ?」 
      ポケットの中にあるはずのものがなかった。 
      今朝は確かにあったのだ。手塚にもらったクローバーを挟んだ文庫本が。 
      うっかり部屋に置いておくと菊丸に悪さをされそうだと心配になったので、リョーマは体操服のハーフパンツのポケットに、文庫本を突っ込んで牛乳を仕入れに出かけたはずだった。 
      「ない……落とした?」 
      リョーマは「あッ」と小さく声を上げた。先程、牛に追い回されていた時に落としたに違いなかった。 
      「……」 
      キュッと唇を噛むと、リョーマは文庫本を探しに行こうと外へ向かう。 
      「どこ行くの?越前くん」 
      扉を開けたところで不二に呼び止められ、リョーマはゆっくりと振り向いた。 
      「ちょっと…そこまで」 
      「落とし物でもした?」 
      「や……そーゆーわけじゃ…ないんスけど……」 
      視線を逸らして口籠もるリョーマに、不二は怪訝そうに首を傾げた。 
      「でも、もう朝食の用意ができるから、あとにした方がいいんじゃない?」 
      「…………ういっス……」 
      リョーマは俯いて唇を噛むと、それ以上何も言わずに食堂へ入っていった。
 
 
  朝食のあと、ミーティングを開くことになっているため、リョーマたちは食堂で竜崎を待っていた。 
      大石たちに今朝の一件を話す桃城の横で、リョーマは顔には出さないものの、早く自由時間にならないかとずっと苛ついている。 
      そこにやっと竜崎が姿を現した。どうやらみんなより先に朝食を済ませた竜崎は車でどこかに出かけていたらしい。 
      「みんな注目しておくれ。今日はアタシの代わりに特別コーチが来てくれたよ。さあ、入っとくれ」 
      (コーチ?) 
      怪訝な顔をする一同の視線の先に一人の若い男が現れた。 
      「大和です。よろしく」 
      「あ、さっきの…」 
      現れた人物を横目でチラと見やったリョーマは、すぐにそれが先程会った妙な「ウンチク男」であることに気がついた。リョーマに続いてそれに気づいた桃城や海堂も立ち上がって文句を言おうとしたが、一斉に立ち上がった三年生がこれまた一斉に最敬礼をして「お久しぶりです!大和部長!」と挨拶するのを聞いて唖然とした。 
      (大和部長?) 
      リョーマが微かに眉を寄せる。一度だけ聞いたことのある名だと思った。 
      (確か、くにみつが……) 
      そのリョーマの考えを代弁するかのように、堀尾が得意げに、瞳を輝かせながら大和のことを「手塚部長も尊敬するカリスマ部長だ」と声高に説明する。桃城と海堂は、今朝の一件も一瞬で忘れてしまったように、逆に自分たちの態度を謝る始末だ。 
      だがリョーマにしてみれば、大和のせいであの牛に追いかけられることになり、そのせいで手塚からもらった大切な四つ葉のクローバーをどこかに落としてしまったのだ。伝説の部長と聞かされても、あっさり水に流せるはずもない。 
      コート整備に行くという堀尾たちに、訳のわからない蘊蓄をもっともらしく聞かせる大和を、リョーマは面白くなさそうに睨んだ。訳もわからずに感心している桃城の大和への賛辞に小さく「どこが…」と口を尖らせる。 
      (訳わかんないハナシして、訳わかんないコトして、丸め込まれているだけじゃないか……) 
      完全に機嫌の悪くなったリョーマを逆撫でするように、大和がさらに突拍子もない提案を言い始める。 
      「そうだ、こんな日は山へ山菜でも摘みに行きませんか?」 
      「山菜、ですか?」 
      「山ですから海草は無理でしょう?」 
      「…はい、…仰るとおりです」 
      困ったように頷く大石はまだしも、竜崎までもが「行ってこい」と許可を出してしまった。 
      (冗談じゃない、こんな時になんで山菜なんか…っ!) 
      リョーマは思いきり眉を寄せると、きつく大和を睨んだ。
 
 
  気の進まないリョーマは、半ば無理矢理「山菜採り」に参加させられることになった。 
      前日は苦しいながらも充実した気分で走り抜けた山道を、今日は苛立ちとともに重苦しく歩いている。 
      「あーあ、全く、あの人何しに来たんスかね」 
      大和の言動に戸惑っているような大石を追い越す際に、リョーマはわざと、聞こえよがしに溜息をついてやる。 
      (あんなヤツが青学テニス部のカリスマ部長だなんて、オレは認めない) 
      リョーマがムッとしたまま歩いていくと、しばらくして少し開けたゼンマイの群生地に出た。 
      ゼンマイについての蘊蓄を述べ、さらには摘み取る際の姿勢や方法まで指示しておきながら、結局は「時期が遅すぎた」と語る大和に対して、リョーマの怒りは爆発寸前まで来ていた。 
      「練習すっぽかしてこんなところまで来て、訳わかんないんスけど」 
      「お、おい、越前!」 
      リョーマにしては珍しい、怒りを抑えたような低い声で呟かれた言葉に、大石が慌ててリョーマを窘めようとするが、怒りの矛先である大和はまるで気にしていないように、穏やかな微笑みを浮かべながらリョーマを見た。 
      「安心したまえ、越前リョーマくん」 
      「は?」 
      「ゼンマイはいかんともしがたいが、マガリダケなら今が旬です」 
      「そーゆー問題じゃないっス」 
      うまくかわされた気がして、リョーマはますますムッとするが、ふと、自分はまだ大和にフルネームを名乗っていなかったことを思い出す。 
      (なんでオレの名前知ってるんだ、この人……) 
      「煮てよし、蒸してよし、ほっくり甘いマガリダケ。いやぁ、楽しみ楽しみ!さあ皆さん、摘んでください!」 
      「は、はい!」 
      大和の号令で一斉にマガリダケ採りが開始される。リョーマは裏切られたような気分になって、マガリダケを摘むことに夢中になる先輩たちから視線を外した。 
      「あーあ」 
      盛大に溜息を吐いて、少し離れた木の根元に腰を下ろす。 
      (アンタがいたら…こんなことにならないのに……) 
      一瞬よぎった自分の弱気な考えに、リョーマはきつく眉を寄せた。 
      「くにみつ…」 
      吐息のような微かな声で、リョーマは愛しいその名を口にした。途端に切なさがこみ上げ、リョーマは苦しさを紛らわすように空を見上げる。 
      (アンタと繋がっている空……) 
      この空で繋がる遙かな異国の地で、リョーマの想い人は自分たちの未来のために独り、全力で戦っている。なのに今、自分はラケットすら手にできないまま、貴重な時間を無駄にしている。 
      リョーマの揺れる瞳は、あまりの悔しさに涙さえ滲んできた。だが、近づいてくる人の気配に、リョーマはさりげなくキャップを深く被り直して表情を隠す。 
      「越前くんはタケノコ嫌いですか?」 
      大和が数本のタケノコを手に、リョーマの傍らまで来てのんきに話しかけてきた。 
      「………」 
      答えないリョーマに小さく笑うと、大和は背後に目をやり、感嘆の声を漏らす。 
      「おお?こんなところにも顔を出していたとは。どれどれいただきますか…お?おわっ……」 
      珍しく動揺したような大和の声に驚いて目を向けると、そのリョーマの視線の先で大和の身体が崖から消えていった。 
      「っ!……マジっ?」 
      慌てて四つんばいのまま覗き込んで下を見ようとしたリョーマは、まさか手元の土が崩れるとは予想できず、反射的に身体を起こしたものの、重力に逆らえずに崖の下に滑り落ちてしまった。 
      不幸中の幸いか、別段どこにも怪我した様子もなく立ち上がったリョーマは、溜息をつきながら顔や身体の土を払い落とした。 
      「案外、付き合いがいいんですね」 
      大和の方も怪我はないらしく、動じた様子もないまま、またあの穏やかな微笑みでリョーマの隣に立つ。 
      「いやぁ、お互い不運でした。しかし案ずることはありません、幸運は必ず不運のあとにやってきます」 
      「はぁ?」 
      リョーマは思いきり眉をひそめた。今朝から、そう、大和に出会ってから、いいことなんか一つも起きていない。「アンタの存在自体が不運なんだ」と叫んでやりたいのを何とか堪えて、溜め息で怒りをやりすごす。 
      だが次の瞬間発せられた大和の言葉に、リョーマの怒りはかき消された。 
      「さて、大声出して、助けを呼びましょうか」 
      「いや……あの……」 
      すぐにも大声を出しそうな大和を、焦ったようにリョーマが制する。怪訝そうに「…どうしました?」と訊ねてくる大和に、リョーマは言いづらそうに口籠もった。 
      「その…っ、みっともないっスから。二人して崖から転がり落ちたなんて」 
      ほんのりと頬を染めて呟かれたリョーマの言葉に、大和はふわりと微笑んだ。 
      「そのプライドには敬服します。密やかなプライドは己の精錬に繋がりますからね。そうですか。君はそうやって独りで戦ってきたんだね」 
      最後の言葉に、リョーマはなぜか、時折頭を撫でてくれた手塚の優しい手を思い出してしまった。 
      独りで戦っている自覚など、今までリョーマにはなかった。単に独りでいる方が楽だったのだ。だが、独りでいるためには、常に自分が優位にいなくてはならない。自分の弱みや情けない姿を、周りに見せるわけにはいかなかった。だから無意識のうちに強がった。どんなに苦しくても、平気なフリをした。いや、平気なんだと、思おうとしていた。 
      そんな、自分でも意識しなかった「殻」を壊してくれたのが手塚だった。 
      手塚の前ではテニスでも、プライベートでも、すべてをさらけ出し、本当の「越前リョーマ」でいられた。 
      (なんで……こんなヤツの言葉で…くにみつのこと……) 
      俯いてしまったリョーマに、大和は柔らかく言葉をかける。 
      「それではそっとみんなのところへ戻りましょうか。助けを呼ばない分、その道は険しいでしょうが、これはあなたが選択した道ですから」 
      言外にこの先の障害に音を上げるなと言われた気がして、リョーマは再びムッとした。 
      しかし、自分に構わずに助けを求めることもできるだろうに、そうしなかった大和の真意を測りかねて、リョーマの不機嫌な表情は困惑したそれへと徐々に変わってきている。 
      「……わけ、わかんねぇ……」 
      わからないのは大和の言動と、先程の自分の感覚。 
      目の前の男と手塚とでは月とスッポンほども違うのに、なぜ、一瞬といえども、安心感を得てしまったのか。 
      リョーマは唇を噛むと、大和の背中を睨みつけた。
 
  上へ登れるような場所を探して、崖づたいに歩いていくうち、リョーマと大和はどんどん鬱蒼とした山の奥へ入ってきてしまった。 
      深くなる木々の緑に比例するように、ますます重くなるリョーマの気分などお構いなしに、なにやら楽しそうに前を歩く男が、リョーマにはひどく恨めしい。 
      「私と君は、孤高の遭難者です。なりきりましょう!」 
      普段のリョーマなら聞き流すか、余裕で笑い飛ばせるそんな言葉も、今だけは鬱陶しくてたまらない。 
      「そんな気になれないっス。暑いし喉渇いたし」 
      だが、八つ当たりをするようにきつく言い返してみても、大和の余裕を奪うことはできない。 
      「さあ、まだまだ道のりは長いですよ。美しい自然も、立ちはだかる困難も、丸ごと楽しんで進みましょう!」 
      リョーマはまた溜息をついた。 
      (なんでこんなコトになったんだろ…) 
      この合宿へは、覚悟を決めて挑んだはずだった。この合宿で成果を上げられなければ、立海大附属中に勝利することなどできはしない、と。 
      なのに、なぜ自分は今、こんなところをのんびり歩いているのか。 
      リョーマは立ち止まって空を仰ぐ。 
      手塚が旅立ってしまってから、リョーマはよく空を見上げるようになった。手塚を想って、手塚も時折見上げているだろう空を、自分も見つめたくなるのだ。 
      「……く……しょう…っ」 
      小さく小さく呟かれたリョーマの言葉に、大和がそっと、肩越しに振り返った。 
      空を見上げたまま、リョーマは硬く握りしめた両拳を微かに震わせている。 
      「……越前くん」 
      「……なんスか」 
      リョーマはチラッと大和を一瞥してからそっぽを向いた。 
      「そのまま、動かないでください」 
      「はぁ?」 
      今までの微笑みを消し、真っ直ぐリョーマを見据えて、大和が近づいてくる。 
      「な…に…」 
      今までと違う大和の様子に、リョーマは小さく一歩下がろうとした、その時、 
      「危ない!」 
      「!」 
      いきなり大和に腕を引かれ、リョーマは大和に飛び込むような形で抱き締められた。 
      「なにす…っ」 
      だが抱き締められると思ったのは間違いで、大和はそのままリョーマを自分の後ろに回し、その身体全体でリョーマを何かから庇った。 
      「先輩…?」 
      「蛇です。目を逸らすと襲ってきますから、私に合わせてそのまま後退ってください」 
      「ヘビ…っ?」 
      リョーマも聞いたことがある。獲物を狙うヘビは、獲物の一瞬の隙をついて襲ってくるのだと。本当は動かない方がいいのだろうが、逃げるのなら目を合わせて威嚇したままゆっくりと距離を取り、すぐには飛びかかれないところまで下がってから逃げるのがいいらしい。本当にそれが正しいのかは定かではないが。 
      ゆっくりゆっくり、大和に合わせて後退っていき、2メートルほど下がったところで、大和が「走りましょう!」と叫んだ。 
      「こっちです、越前くん」 
      「えっ」 
      大和に腕を掴まれて、少し下り坂になっている方へ向かう。 
      数十メートル走ったところで、大和は徐々に減速して立ち止まった。 
      「いやぁ、驚きました。まさか本当に蛇が出るとは」 
      楽しそうに笑いながら大和が言う。 
      「今のって……毒ヘビ?」 
      「いえ、あれはシマヘビの一種でしょう。攻撃的な性格ですが毒はありません」 
      「なっ…」 
      だったらなんでこんな必死になって逃げさせるのか、と怒鳴ろうとして、リョーマは自分の腕がまだ大和に掴まれたままなことに気づく。 
      「…腕、放してくれませんか」 
      「そうですね、私の質問に一つ、答えてくれたら放しましょう」 
      キツイ瞳で大和を見上げたリョーマは、大和の腕を振り解こうと試みるが、ガッチリ掴まれた腕は少しも解放される気配がない。 
      (ヤワく見えるけど、結構身体は鍛えてあるのか) 
      妙なことに感心しつつも、リョーマは大和をさらに睨みつけた。 
      「…なんスか?」 
      「君にとって、テニスとはなんですか?」 
      「え?」 
      色の付いたレンズの向こう側から、大和の真っ直ぐな視線がリョーマを捕らえる。 
      「大切な人とテニスと、どちらかを選べといわれたら、君はどちらを選びますか?」 
      リョーマは短い沈黙の後で、瞳のキツさを緩めないまま、くっと笑った。 
      「質問は一つじゃなかったんスか?」 
      「ああ、そうでした。でも答えて頂けると、私の気が済むのですが」 
      「………」 
      大和の欲求を晴らしてやる義理は自分にはないが、二つの質問の答えは明確なので、答えてやろうとリョーマは思う。 
      「オレにとってテニスは『絆』、大切な人とどっちかを選べと言われたら、オレは両方選ぶ。……終わり。」 
      「詮索するつもりはありませんが、補足説明を求めます。『絆』とはどういう意味ですか?」 
      リョーマは小さく溜息を吐いた。 
      「……オレが生きていくために、つまり前に進むために、必要なものっていう意味っスよ」 
      「なるほど。それから二つ目の質問は、どちらかを選べと言ったはずです。両方というのはルール違反です」 
      「オレにとってテニスと大切な人はセットなんスよ。別々じゃないものを片方だけ選べと言われても困るんスけど」 
      さらに強い輝きを湛えて真っ直ぐ向けられるリョーマの瞳に、大和は微かに目を見張る。 
      「……そうですか」 
      溜息を吐くようにそう言うと、大和はリョーマの腕を解放した。 
      「私は以前、どちらかを選ばなくてはならなくなり、結局はテニスを選びました。そのことに後悔はしていませんが……そうですか……越前くんは、素晴らしい相手と恋をしているのですね」 
      「……なんで『恋』してるって思うんスか?大切な相手ってのは家族かもしれないじゃないっスか」 
      眼鏡の位置を直しながら、大和がふっと笑った。 
      「大切な人、と聞かれた場合に答えるのはたいてい家族でない場合が多いのです。大切なもの、と言った場合は家族と答える人が多いのですが」 
      「ふーん」 
      「さらに言うなら、君の大切な人はテニスをする人のようですね。そうでなければ『セットだから』ではなく『選べないから』と言うはずです」 
      リョーマは微かに頬を染めて口をへの字に曲げた。 
      大和はそんなリョーマに柔らかく微笑みかけると、「さあ先に進みましょう」と言ってまた歩き出した。 
      (先輩はテニスを選んだんだ…) 
      先程チラリと口走った大和の言葉を思い出し、リョーマはその時の大和の心情を考えて切なくなった。 
      好きな人とテニスを天秤にかけなければならないなんて、何かよほどのことがあったのかもしれないが、大和が選んだテニスとは、きっと「青学でのテニス」だったのだろうとリョーマにも容易に推測できる。 
      青学でのテニス、つまりは青学テニス部の全国大会出場、そしてさらには全国制覇の夢。今となっては手塚に引き継がれ、そしてリョーマにも託されつつある、熱い想い。その夢を成し遂げるために、大和は「テニス」を選んだ。 
      リョーマはふと大和の背中を見つめた。 
      (選ばれなかった相手の人は、そのあと、どうしたんだろう……) 
      口を噤んでリョーマが俯くと、大和は前を向いたままリョーマに話しかける。 
      「越前くん、知っていますか?」 
      「は?」 
      「野生の熊はよく人を襲うと思われていますが、むやみに襲ってくるわけではありません。だから人間の存在を知らしめしながら森へ入れば、ああ、例えばラジオを鳴らしながらとか、鈴を鳴らしながらとか、そうすれば熊の方で人間を避けてくれるそうです」 
      何となく重かった雰囲気が、大和のその言葉でまた元通りになる。少し前のリョーマだったら、また始まった、と言って顔を顰めていただろうが、なぜか今は、何となく大和の訳のわからない蘊蓄を聞いているのも悪くないと思える。 
      「…そっスか。だから先輩はさっきからずっと喋っているんスね」 
      「正解です。あいにく私たちはラジオも鈴も持っていませんからね。ならば自分たちで喋るしかないでしょう。ですが君はあまり喋る質ではないようですし、そうなると私が何か喋らなくてはならないということになります。喋らずとも歌を唄うという手段も有効ですが、残念なことに私は歌が得意ではありません。歌と言えば、知っていますか?先頃、人体の研究を行う専門の学会の発表で………」 
      熊の話を皮切りに、どんどんいろいろな話へと派生しながら喋り続ける大和に、リョーマはこっそりと笑みを零した。 
      (くにみつとは正反対だな、この人。放っておくと何時間でも喋りそう) 
      そうして大和の話を聞きながらしばらく歩いていくと、急に大和の足が止まった。 
      「こっちです」 
      大和の後についてゆくと、突然目の前がパッと開けた。川に行き着いたのである。 
      スラックスの裾を捲り上げもせずにザブザブと川の中に入っていきながら「水を飲みなさい」と促す大和に従って、リョーマも川の中に入り、その澄んだ流れを手の平で掬い上げた。 
      (綺麗な水……) 
      リョーマが両手で掬い上げた川の水はとても冷たく透き通っていて、真上にある太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。リョーマはそっと唇を寄せて、太陽の光ごとその水を飲み干した。 
      途端に渇いていた喉が潤され、体中に澄んだ清流のような爽やかさが広がってゆく。そしてそれと同時に、リョーマの中でくすぶっていた大和への憤りも綺麗に洗い流されていったような気がした。 
      「先輩も水分とった方がいいっスよ。オレの百倍喋ってたし」 
      リョーマは自分でも気づかないまま、大和に微笑みかけていた。大和の目が眼鏡の奥で柔らかく細められる。 
      「…そうします」 
      そうしてしばらく川の中で思う存分喉を潤し、頭から水を被り、満足して川から上がる頃には二人ともかなり着衣を濡らしてしまっていた。 
      「今なら日も高いですし、服を脱いで岩の上に干しておけば、風邪をひかないですみます」 
      「そっスね。あ、あそこ、ちょうど平らな岩があるっスよ」 
      リョーマは十数メートル下流にある大きな岩を指さした。 
      「なるほど、なかなかいい場所です。ではあそこで一休みしましょう」 
      リョーマの見つけた大きな岩の周辺は川が急に深くなっており、また岩自体も川から少し高さがあるため川の中からは行くことができず、一旦森の中へ戻ってから改めてその岩のところに出ることにした。 
      辿り着いてみれば、そこは思ったよりもさらに大きな岩で、リョーマと大和が大の字になって寝そべったとしても充分有り余るほどの広さがあった。 
      「さあ早速服を脱いで乾かしましょう。太陽光で暖まった岩の上にいれば寒さは感じないでしょうからね」 
      「ういっス」 
      「青学のウェアは吸湿性と速乾性に優れた素材ですから、きっとすぐに乾きます。私の服も思ったほど濡れていなかったのは幸いです。ズポンも裾の方を濡らしただけなので問題はなさそうですね」 
      自分の服を岩の上に広げ終わると、二人は岩の上に仰向けになった。風のない空に、真っ白い雲がひとつだけポッカリと浮いている。 
      「越前くん」 
      「なんスか」 
      白い雲を眺めながら、大和が今までとは少し違うトーンの声でリョーマの名を呼んだ。リョーマも雲を見つめたまま返事をする。 
      「君の好きな人は、どんな人ですか?」 
      「は?」 
      大和はその質問をした理由を言わない。それどころか、それきり黙ってしまったので、リョーマは大和の真意を測れぬままに、仕方なさそうに溜息を吐いた。 
      「…最初はどっちかって言うと嫌いなタイプだったっス。何考えてんのかわかんないし、無口だし、笑わないし、怒鳴らないけどすぐ怒るし。なのに、みんなに慕われてて、頼られてて、頭良くて、テニスなんかメチャクチャうまくて………すっごくムカついてた」 
      立て続けに喋っていた大和が黙って自分の話を聞いてくれるのがなんだか恥ずかしいような気になったが、リョーマは言葉を選びながらその先を続ける。 
      「でも、その人はオレのことをすごくよく見ていてくれて、オレが自分でも気づかないうちに入り込んでた迷路から助け出してくれたような……本当にスケールのデカイ人だったんス」 
      リョーマは目を閉じて、手塚の顔を思い浮かべる。 
      「いつも仏頂面してて、愛想がなくて、眉間にしわ寄ってるけど………あの人と出逢えたからオレは生まれ変わったし…あの人がいるから………」 
      本当の愛を知った、とまでは言えなくて、リョーマはほんのりと頬を染めて言葉を飲み込んだ。 
      だがそこまで話しても大和の反応がないので、リョーマは訝しく思い、身体を起こして大和の方を見る。 
      「先輩?」 
      そっと近づいてみると、大和が静かな寝息を立てているのが聞こえた。 
      目を見開いて唖然としてしまったリョーマは、しかし、ひどく可笑しくなってきて、肩を揺らして笑い始めた。 
      (やっぱ、わけわかんない) 
      そう思いながらも、リョーマは腹が立たない。むしろ大和と過ごす時間が楽しくさえなってきた。 
      「先輩、寝ちゃうと風邪ひくっスよ」 
      笑いながら言うリョーマの声で、大和は目を覚ました。 
      「ん、ああ、すみません、眠ってしまいましたか……話の途中でしたね。夕べは眠れなかったもので…申し訳ありません」 
      「眠れないほど、みんなに会うのが楽しみだったんスか?」 
      冗談めかして訊ねるリョーマに一度真顔で視線を向けてから身体を起こすと、大和はもう一度リョーマの方を向いてクスッと笑った。 
      「確かに皆さんに会うのも楽しみでしたが、眠れなかった理由としては不正解です」 
      「家のベッドじゃないと眠れないとか」 
      「違います」 
      ニッコリと否定する大和の態度に、リョーマはだんだん意地でも大和が眠れなかった理由を当ててやりたくなってきた。 
      「じゃあ…」 
      「君のことを考えていました」 
      「……………はぁっ!?」 
      リョーマはすぐには反応できず、口をポッカリ開けてしばらくしてから我に返った。 
      「なんスか、それ」 
      「君に会ってみたかったんです。よく話を聞かされていたので」 
      「え、部長から?」 
      「竜崎先生からです」 
      「ああ………そっスか…」 
      咄嗟に手塚から聞いているのかと言ってしまい、リョーマはほんのりと頬を染めながら、今の自分の一言で手塚との関係が大和にバレやしないかと内心動揺した。 
      「手塚くんは…」 
      「えっ?」 
      「…ドイツで治療とリハビリに頑張っているのでしたね…何か連絡はありましたか?」 
      いきなり手塚の名前を出されてさらに動揺しそうになるが、リョーマは自分を落ち着かせて冷静に答えようとする。 
      「試合前とかに、励ましのメールが来るっス。大石先輩の携帯に」 
      できるだけ普通に、大和の目を見ながらリョーマは答える。 
      「そうですか。………越前くん」 
      「は……」 
      ジッと見つめられて、リョーマはドキッとした。何か自分は変なことを言っただろうか、と。 
      「どうやら服が乾いたようですよ」 
      「へ?…あ、ああ、そっスね」 
      岩の上に広げて乾かしていたウェアに触れ、確かに乾いていると確認すると、リョーマはさっさと身につけ始める。 
      「もう少しこのままでいたかったのですが、そういうわけにもいきませんね」 
      呟くように言った大和の言葉に首を傾げながら、リョーマはジャージのファスナーを閉めた。 
      「さて」 
      大和はそう言って立ち上がると、すぐ近くにある木に巻き付いている長い蔓のようなものに手をかけた。
 
  休息の続きと、食糧確保のために、大和は蔓を使って釣り具を作り、川にそっと、木の釣り針を垂らした。釣れるわけがないと呟くリョーマに、釣りは何も考えずにいられる有意義な時間だと、大和は微笑む。 
      「大事を成すには考えないことです。理想の実現は頭で考えず、イメージするに限ります。考えすぎは楽しむ余裕を奪って焦りを生み、焦りは実力の妨げとなる。それが一番怖い。釣れる魚も釣れなくなりますよ」 
      大和が意図したのかはわからないが、リョーマはその言葉を自分に当てはめて考える。さっきまでの自分は、立海大との試合のことばかり考え、はっきり言って焦っていた。それではいけないと思えば思うほど、二重の焦りに苛まれていった。 
      そうしてリョーマはふと思う。 
      大和は手塚とは正反対だと思っていたが、実はそうではないのかもしれない、と。 
      違うのはその表現方法だけで、あまり言葉にせず態度でみんなを引っ張っていく手塚に対し、大和は柔らかく諭すように、相手にわからせ、気づかせるのだと。それはもしかしたら些細な違いで、部員や、レギュラーたちに注がれる想いは、きっと同じほど暖かで強い。 
      (「部長」……か……) 
      リョーマの心の奥に、ふわりと暖かな想いが灯される。大和という人間を、もっと知ってみたくなった。 
      「越前くん」 
      「…っあ?…っ、なんスか?」 
      突然、大和に真顔で見つめられて、リョーマはなぜか慌ててしまった。 
      「引いてます」 
      「え?…あっ!…ウソっ、エサもないのに?」 
      大和は優しく首を横に振った。理屈じゃない、と。 
      「さあ、ロブをあげるイメージです」 
      言われたとおりに、優しく、丁寧に枝を引き上げると、信じられないことに立派な川魚が上がってきた。 
      太陽の光に輝く水しぶきよりも、リョーマの笑顔が眩しく輝いた。そんなリョーマを、大和も微笑みながら眩しげに見つめる。 
      「…なるほど…」 
      「え?」 
      何かを納得したように頷く大和を、リョーマは訝しげに見つめた。そのリョーマの視線の先で大和の方も木の蔓がツンツンと動いている。 
      「先輩のも引いてるっスよ」 
      「お…」 
      大和も無事に釣り上げ、木の釣り針から魚を外す。ふとリョーマの方を見ると釣り針から魚が外れずに悪戦苦闘している。 
      「…手伝いましょうか?」 
      「いいっス」 
      リョーマは大和の手元を見て、あっさり魚を外すのに成功していることに対抗心を燃やす。それでもどうしても外すことができずに溜息をついていると、大和の手がすっと伸びてきた。 
      「貸してください」 
      「………」 
      いつの間にか間近まで来ていた大和へリョーマが素直に魚を差し出すと、大和はリョーマのすぐ隣に腰を下ろしていともあっさりと木針を抜いてみせた。 
      「さあ、この調子でもう少し釣りましょうか」 
      微笑む大和に、リョーマは自分の不器用さが恥ずかしくなり、小さく「ういっス」と答えるしかできなかった。 
      「……本当に君は……」 
      言いかけて大和が言葉を飲み込み、しかしリョーマに向かってニッコリと微笑んだ。 
      「なんスか?」 
      「いえ、このまま君と野宿でもしたい気分になってきました」 
      「川魚と水だけじゃ、夕飯にならないっスよ。それに退屈だし」 
      大袈裟に溜息を吐きながらそう言ったあとで、リョーマは楽しそうに笑った。きっと大和のことだから、野宿なんてことになったら一晩中話しているに違いないと、想像したら可笑しくなったのだ。 
      「退屈はさせませんよ」 
      「何の話、聞かせてくれるんスか?」 
      ちょっとだけ茶化すように言ってリョーマが大和を覗き込むと、微笑んだままリョーマを見つめていた大和がすっと顔を近づけてきた。 
      「退屈させない手段は、ただ喋ることだけじゃありませんよ」 
      「え…」 
      「静かな闇の中で、薪の明かりだけの状況は非常にムードもあります。試してみますか?」 
      大和の瞳がレンズの奥ですっと細められる。リョーマの鼓動が、ほんの少しだけ加速した。 
      「な、にを……」 
      やっとそれだけ口にすると、リョーマは大和から目を逸らした。 
      「怪談です」 
      「………は?」 
      「キライですか?怪談」 
      目を見開いて数秒硬直したリョーマは、小さく息を吐き出すと「やっぱ話するんじゃないっスか」と言って呆れたように大和を見た。 
      「そうですね」 
      楽しそうに声を立てて大和が笑う。つられたようにリョーマも微笑んだ。
 
  幸運にも釣れた数匹の魚を焼きながら、大和はリョーマを見ずに静かに口を開く。 
      「怖いですか?立海大は」 
      「え…」 
      唐突な大和の言葉に内心驚いて、リョーマは大和の顔を見つめる。 
      「立海大附属中、強敵です。確かに理屈では勝てない相手でしょうね」 
      わかってはいたが、認めなくなかったことをはっきりと言葉にされ、リョーマは僅かに視線を落とした。 
      「しかし、君たちには負けていないものがあります。テニスが好きだという気持ちです。違いますか?」 
      「まぁ……そっスね」 
      「強くありたい、優勝したい、誰もしもがこの煙と同じく果てしない高みを目指しています。ところが、こうして煙の立ち上る先ばかりに目を奪われていると、息が詰まると思いませんか?そんなときは目線を変えて、テニスを楽しんでみませんか?テニスが好きだという気持ちこそ、何にもまして最強だと、私は信じています」 
      大和の言葉を聞きながら、ああ、と、リョーマは悟った。 
      (この人は、本当にテニスを愛しているんだ…) 
      勝ち負けではない、とは言わない。だが、勝敗の結果に辿り着くまでの行程すら楽しめるほど、この男はテニスを愛しているのだ、と。 
      リョーマの胸に、熱い何かがこみ上げてきた。こんな想いを、リョーマは少し忘れかけていたような気がする。 
      物心着く頃にはすでにラケットを握っていたリョーマは、テニスを「好きだから」始めたのではなかったように思う。ただ人より少し早くテニスを始めて、父親の影響で人よりも強くなれた。だからこそ、いつか、父親をテニスで超えたいと思うようになってしまった。 
      だが、今は違うはずだ。自分は南次郎を倒すためだけにテニスを続けているのではない。そう思うリョーマの瞳に、揺らめくような輝きが満ちてゆく。 
      「越前くん。立海大は、怖いですか?」 
      ふっと笑うリョーマ。 
      しかし、その大和の問いに答える前に、背後の木々の間から大石の声が響いた。 
      「大和部長!ご無事ですかっ?」 
      リョーマに向かってそっと「残念ですが、野宿の夢は消えましたね」と囁いてから、大和はわらわらと現れたみんなを振り向いてのんきに笑ってみせる。 
      「いいところに来ました。焼き魚が食べ頃ですよ」 
      リョーマは微かに微笑みながら大和を見つめた。そんなリョーマを見た不二の表情が、一瞬曇った。
 
 
 
 
  一緒に夕飯を、と言うみんなの誘いを断り、大和は竜崎の車で滞在している近くのペンションへと帰っていった。 
      夕飯までの短い自由時間に外に出ると、リョーマは今日の大和とのやりとりを思い出して小さく微笑む。 
      (結局わけわかんなかったけど……) 
      それでもリョーマは、大和と過ごした時間は無駄じゃなかったと思える。 
      「アンタが尊敬してるってのが、なんか、わかった気がする」 
      夕空を見上げて、リョーマが空の向こうの手塚にそっと語りかけた。 
      「越前くん」 
      いきなり背後から声をかけられ、リョーマは驚いて振り返る。 
      「不二先輩」 
      不二は「やあ」と言っていつもの微笑みを浮かべると、リョーマの隣に立った。 
      「大和先輩と話してみて、どうだった?」 
      「…………あの人…すごくテニスのこと、愛してるっスね」 
      柔らかな口調で、リョーマが呟くように言うのを、不二は黙って見つめる。 
      「あんな風に、純粋にテニスのこと愛してる人って、あんま、いないっスよね」 
      「……そうだね」 
      空を見つめたまま珍しく他人のことを語るリョーマの横顔を、不二は返事をしながらも探るように見つめ続ける。 
      「なんか……今まで会ったことがないタイプって言うか……うまく、言えないっスけど……」 
      「やめておいた方がいいよ、あの人は」 
      「え?」 
      思ってもみなかった言葉を聞かされて、リョーマは不思議そうに不二を見た。 
      「どういう意味っスか、不二先輩?」 
      「………あの人とは、深く関わらない方がいい」 
      真顔でそう言ってから、不二は「まあ、君には手塚がいるから大丈夫だろうけどね」と付け加えていつものように微笑んだ。 
      「ところで越前くん、今朝、何か外に用があったんじゃなかった?」 
      「………あっ」 
      リョーマは目を見開くと、口元を手で押さえた。 
      (どうしよう…そうだ、あの本、探さないと……) 
      「不二先輩、オレっ……」 
      「あー、いたいた、リョーマくんと不二先輩!今、竜崎先生から連絡があって、あと10分くらいで戻るから、すぐ夕飯にしようって」 
      カチローはそれだけ伝えるとエプロンを着けながらキッチンの方へ走ってゆく。 
      「…と、いうことらしいけど?」 
      「………っ」 
      またしても落とした本を探しに行けなくなり、リョーマは唇を噛んだ。 
      だがそれよりもショックだったのは、不二に言われるまで、自分がその大事なことを忘れていたという事実だった。 
      ついさっきまで、リョーマは今日会った大和のことばかり考えていたのだ。それも「楽しかった」という感情を伴って。 
      「越前くん?」 
      黙ってしまったリョーマを心配するように、不二がリョーマの肩に手を置いて覗き込んでくる。 
      「いや、べつに……なんでもないっス」 
      リョーマは不二の視線を避けるように「行きましょう」と言いながら食堂の方へ向かう。 
      誰かのことを考えて、こんなにも楽しい気分になったことは、今まで手塚以外にはなかった。大和という存在が、自分の中でかなり大きな存在になっているのかもしれないと思い、リョーマは微かに動揺する。 
      そしてふと、大和といる時に安心感を感じてしまったことを思い出した。その感覚は、手塚と一緒にいる時のものに、とてもよく似ていた。 
      自分は大和に惹かれ始めているのだろうか。そんな考えがリョーマの心を揺さぶる。 
      もちろんリョーマは、大和を恋愛の対象として見ているつもりは毛頭ない。それでも自分自身の感覚が、頭では分析のできない、大和への不思議な感情を伝えてくる。 
      (アンタがここにいてくれたら、こんな…) 
      また弱気な考えに陥りそうになって、リョーマは唇を噛んだ。とりあえず、自分には、まずしなければならないことがある。 
      (みんなが寝たあとで探そう…) 
      幸い今夜は月も出ている。都会では気づかなかったが、月明かりというのは結構明るい。誰にも邪魔されないためにも、リョーマは夜になってから、落とした本を探しに行こうと決心した。
 
 
 
  
      To be continued…
 
  
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