水に浮かぶ月
金曜の夜8時。
街の中心では「夜はこれから」とばかりに人々が休日前の解放された時間を楽しんでいる頃、リョーマと手塚は二人で古びた寺の門前に佇んでいた。
二人の手には、いつものバッグ。
しかしその中にはラケットとウェア、そして教科書類ではなく、2・3日分の着替えが詰めてあった。
「…ここだな」
「そっスね…」
都内でかなり有名な部類に入るらしいその寺は、あちこち『いたみ』が来ていて、門の上方に書かれている寺の名前すら容易に読むことができない。寺の周囲は鬱蒼とした林があり、住宅地の真ん中にあるとは思えないほど、静けさと荘厳さを醸し出している。
それでも手渡された地図から言って、ここに間違いないと確信した二人は、門の横の小さな木戸を開けて境内に入っていった。
門から本堂まで結構な距離があり、住職の家らしき離れも暗闇の中にうっすらと確認できた。
しかし離れには明かりがついていない。
「こっちだ、リョーマ」
「え、待ってっ…」
暗闇の中、はぐれないようにと、リョーマが咄嗟に手塚のシャツの裾を掴んだ。
そのリョーマの手を手塚がそっとはがして握ってやる。
「あそこまでだぞ」
手塚が示した方に住職の本宅らしき家屋が見えてきた。そこは窓から暖かな光が漏れている。
リョーマは少しホッとして「うん」と頷いた。
「よく来てくださったね。さあ、上がってください」
二人を出迎えたのは優しげな微笑みを湛えた初老の住職だった。
礼儀正しく挨拶をしてから靴を脱いだ二人は、住職の後について奥の座敷へと通される。
座布団を勧められて腰を下ろすと、住職に深々と頭を下げられてしまい、リョーマと手塚もつられて頭を下げた。
「いろいろとお忙しいだろうに、本当に申し訳ない。いや、なに、寺だからと言って修行をさせるわけではないから、楽にしてください」
リョーマと手塚はチラッと顔を見合わせてから「はい」と返事をした。


リョーマが南次郎から唐突な『頼まれごと』をされたのは木曜日の夜だった。
部活から戻り、風呂を済ませたところでいきなり南次郎につかまった。
「なに?腹減ってんだから手短かに…」
「温泉入りたくねえか?」
「は?」
何の脈絡もなく切り出されて、リョーマは目を丸くする。
「小さいが露天風呂だ。しかも離れだぞ?」
「……………胡散臭い」
リョーマは上目遣いで探るように見上げてから、くるりと背を向けた。
「…オプションで『手塚国光つき』なら?」
リョーマはその言葉に勢いよく振り返った。
「部長まで巻き込むなよっ!」
「ふふん」
ニヤニヤとリョーマを覗き込んだ南次郎がリョーマの肩に手を回して、内緒話を持ちかけるように声を潜めて話し始めた。
「知り合いの住職の奥さんがケガしちまってな。たまたま使いで人も出払っちまってて大変なんだそうだ」
「ふーん。………で?」
「手塚と二人で人助けしてこい」
「ヤダ」
リョーマは南次郎の腕を肩からはがすと、きっぱりと言った。
「親父が行けばいいじゃん」
「俺は忙しい」
「……………」
リョーマは呆れ果てて絶句した。
「なぁに、そんなに遠くねえし、明日からの2泊3日ってとこだ。そのくらいなら構わねえだろう?」
「部活あるし」
「朝と夕方の境内の掃除でいいらしいぜ?なのに、ちょっとした温泉はあるし、住職は調理師の免許持ってるくらい料理の腕がいいし、離れだから手塚と二人っきりで………」
「だからっ」
リョーマは頬を赤く染めながら南次郎の言葉を遮った。
「部長の都合だって聞かなきゃならないだろっ!?」
「よし、決まったな」
「な……っ?」
南次郎は冷やかすような人の悪い笑みを浮かべてリョーマを覗き込んだ。
「手塚が断るわけねえだろう?ん〜?」
「なんで?」
「男ってのは、ちーっとばかしムリしてでも頑張りたくなるときがあるんだよ」
「………なにそれ」
オレだって男なんだけど、と散々ぼやきながらも渋々手塚に電話して事情を話すと、短い沈黙の後で手塚はあっさり了承した。
「な?あっさり引き受けただろ?」
南次郎の得意顔を睨み付けながら、リョーマは週末を手塚と一緒に『人助け』のために使うことになった。


「確かお二人は学校のテニス部で活躍されているのでしたね。近くに室内テニスコートがありますから、掃除が終わったら自由に練習に行ってくださって構いませんよ」
その他にも二人はかなりの高待遇を受けることが分かった。
元々料理の好きな住職は、珍しく出かける用事の少ない週末になったこともあって、朝食と夕食は用意してくれると言うことだし、リョーマと手塚には離れを丸々空けてくれ、さらにその離れには小さな露天風呂がついているというのだ。普段は一般向けに離れを観光客などに使わせているのだが、この週末に限っては一組も予約が入っていないのだという。
つまりはリョーマと手塚の貸切なのだ。
リョーマは浮かれてしまいそうなほど嬉しく思ったが、その反面、うますぎる話に警戒心も持っている。
それは手塚も同じようで、リョーマがチラッと視線を向けた時は手塚の眉間に微かにしわが寄っていた。
(なんかあるんじゃ………妙なものが『出る』とか……)
早速離れを案内されながら、リョーマは辺りをキョロキョロと見回した。
暗くてよくは見えないが、境内はかなり広く、これでは確かに一人で掃除するのはつらいものがある、とリョーマは思った。
住職が離れの鍵を取り出し、カチャリと軽やかな音と共にドアが解錠される。
住職がまず中に入り、玄関の明かりをつけた。リョーマと手塚が続いて中に入ろうとした、その時、リョーマは背後に人の気配を感じて振り返った。
横にいた手塚が怪訝な顔をする。
「どうした?」
「……いや………何でもないっス」
リョーマは先程の自分の考えが当たってしまったのではないかと、微かに息を飲んだ。
普段から客室のように扱われている離れは綺麗に掃除が行き届き、狭いがキッチンも設えてある。
住職は明かりをつけながら進み、二人を庭の方へ手招きした。
「あ………」
リョーマは、予想していたのよりも遥かに立派な『露天風呂』を目にして、先程の不安もどこかに吹っ飛んでしまった。
「お好きに使ってください。一応天然温泉ですよ」
「都内でも温泉が出るのですね…」
手塚の言葉に住職は頷くと「運が良かったんですよ」と微笑んだ。
「あの、奥様がお怪我をされたと伺っているのですが…」
手塚の言葉に、住職は少し寂しげな顔をした。
「ええ……境内で転びましてね…足の骨を…。この先の病院に入院させて貰っております」
「そうですか…」
「さあ、夜ももう遅いですから私はこれで。明日からお願い致します」
「はい」
二人が声を揃えて返事をすると、住職はニッコリと微笑んで本宅へと戻っていった。
いきなり静かになった部屋の中、妙に落ち着かなくなってしまった二人は「早速風呂に入らせて貰うか」という手塚の提案で着替えを持って庭に出た。
「なんか、旅行みたいっスね」
「そうだな」
リョーマの言葉に手塚がふっと笑みを零す。
いくら手塚が大人びて見えるとは言え、まだ『中学生』の自分たちは保護者無しに泊まりがけの旅行など許されるはずもない。
だから、いきなり降って湧いたこの状況を利用して二人だけの時間を作ろうと、手塚は考えた。
「ねえ」
服を全て脱ぎ、手塚を振り返ったリョーマが少し照れたように微笑む。
「たまには人助けもいいっスね」
「情けは人のためならず…だな」
手塚も素早く衣服を脱ぎ去り、二人は掛け湯をしてから湯に浸かる。
「はー……気持ちいいっスね!」
「ああ、湯の温度もちょうどいい」
リョーマは滑らかな岩肌に背を預けて、夜空を振り仰いだ。
「綺麗な月が出てる……星はあんまり見えないな……」
「ここもやはり『東京』だからな……今日は夕方から雲も多くなっていたし」
言いながら手塚もリョーマと同じように空を仰ぐ。
隣の家からも、そして道路からも離れているこの場所は、まるで山の奥にいるような錯覚を起こすほど静かだった。
空の月から湯の中に浮かぶ月に視線を移し、ぼんやりと眺めていた手塚は、軽い水音と共にその月がかき消されてしまったので、ゆっくりとリョーマに視線を移した。
「ねえ、今、何か言った?」
「?…いや」
「ふーん……」
リョーマが湯を掻き分けながらゆっくりと手塚に近づいてくる。
「くっついてもいい?」
「………ああ」
言葉通りに、リョーマが手塚に身を寄せて来たので、手塚はそっとリョーマの肩を抱いた。
言うまでもなく、手塚は必死になって欲望を理性で抑え込んでいる。
だがリョーマがさらに身体を擦り寄せ、手塚の肩に頭を乗せてくると、手塚の理性も危うくなってきた。
「…あまり煽ってくれるな……明日の部活ができなくなるぞ」
「うん………なんかさ、いつもと雰囲気違うから……」
「…………」
確かに、と手塚は思った。
場所的なものが大きな原因の一つではあるが、この離れは特に不思議な時間の流れを感じる。
いや、流れているはずの時間が止まっているような気にさえなる。
リョーマもそう感じているのか、心なしか表情が硬くなってきている。
手塚はリョーマの肩を抱く手に力を込めた。
「…?」
「好きだ、リョーマ…」
優しく微笑んでリョーマの額にそっと口づける。
「くにみつ……オレも、アンタが好きだよ……」
堪らずに抱きついてくるリョーマをやわらかく抱き締めて、手塚は加速してゆく鼓動を鎮めようと目を閉じた。

(セヲハヤミ…)

「え?」
手塚が目を開けた。
手塚の声に少し驚いたように、リョーマが目を丸くして見上げてくる。
「…なに?」
「今なにか…………いや、空耳か…………そろそろ上がらないか?」
「…うん」
リョーマと手塚は熱くなりかけた心と身体を何とか落ち着けて、部屋に戻ることにした。
「ちょっとトイレ行って来る」
「ああ」
服を身につけて落ち着いた手塚は布団を敷こうとして立ち上がり、一瞬軽い目眩を感じて柱に手をついた。
(湯あたりしたか……?)
すぐに目眩がおさまったので、手塚は押し入れから布団を出して敷き始めた。
「あ、手伝う!」
戻ってきたリョーマが手塚の持っていた肌掛けを受け取ろうとして傍に行くと、手塚の動きがぴたりと止まった。
「…………?くにみつ?」
手塚の抱えていた肌掛けがパサリと音をたてて下に落ちた。
不審に思ってリョーマが手塚の顔を覗き込むと、その瞳と目があった。
「……と………た」
「え?」
手塚が掠れた小さな声で何かを呟いた。聞き返しながらさらに顔を近づけたリョーマの頬を両手で包み込むと、手塚の瞳が今にも泣きそうに揺れ動いた。
「やっと逢えた……やっと」
「くにみつ…なに……?…うわっ!?」
リョーマの身体がいきなり押し倒され、両腕が布団に縫いつけられた。
「信じていた…必ず逢えると……長き夜を越えて…ようやく我らはひとつになれる…」
「くにみつ?…どう…し………っ、やっ、あ…」
手塚がリョーマのTシャツを捲りあげ、スルリと手を滑り込ませる。
いきなり胸の突起をきつく摘まれて、リョーマの身体がビクリと揺れた。
「や…っ、今日はしないんじゃ……なかった…っ?」
手塚は黙ったまま優しく微笑むとゆっくりした動きでリョーマに口づけてきた。
優しく優しく、壊れ物に触れるように、そっと舌を絡めてくる手塚に応えながら、リョーマは何かがいつもと違うことを感じ取っていた。



翌朝、リョーマは身体中の節々の痛みで目が覚めた。
「つ……っ」
鉛のように重い身体を、歯を食いしばりながら、何とか起こすと、横で眠っている手塚を溜息混じりに見下ろした。
「何だったんだ、昨夜は……」
昨夜の手塚は信じられないほど長時間、リョーマを離さなかった。
今まで何度も手塚と肌を合わせているリョーマだったが、こんなにも長い時間連続して求められたのは初めてだった。
おかげで、未だに異物をくわえ込まされているような感覚が後孔に残っている。身体中には赤い花びらが散らされており、これでは人前で着替えることもできない。
「部活はムリかな……」
もう一度溜息をつき、手塚を見下ろすと、その顔色の悪さが目に付いた。
「…アンタも無理そうだね…」
死んだように眠っている手塚にそっと声を掛けると、リョーマは呻きながら立ち上がり、着替えを持って庭の風呂に向かった。
自分と手塚の精液でべたつく下腹部をきれいに洗い流し、湯に浸かる。
温かな湯の中で次第に節々の痛みも緩和されてゆき、身体が楽になったリョーマは大きな溜息をついた。
(…何とか復活できるかな…)
心地よさに目を閉じていると、部屋の障子がすっと開いた。
「…そこにいたのか…」
手塚が額を手で押さえながら、ふらつく足取りで庭に降りてきた。
「…アンタも入れば?」
「ああ、そうだな…」
溜息をつきながら着替えを持って近くまで来た手塚が、リョーマの肌を見て目を見開いた。
「リョーマ………それは……?」
「アンタがつけたんだよ」
「俺が?」
「…覚えてないんスか?」
手塚は絶句したまま、呆然とリョーマを見つめた。
「昨夜のアンタ、絶対おかしかったっスよ」
「…………」
「とにかく入ったら?」
「…ああ」
手塚も服を脱いで身体を綺麗にすると、湯の中に入ってきた。
「……やっぱり顔色悪いね。部屋の中にいたからそう見えたのかと思ったけど……大丈夫っスか?」
「俺は大丈夫だ…それよりもお前こそ…………すまなかった…無理を…させたんだろう?」
「まあね。でもこの温泉で復活できたみたいっスよ」
クスッと笑ってリョーマがそう言うと、手塚は眉間にきつくしわを刻んで目を逸らした。
「………で、記憶、ないんスか?」
「…………いや……途切れ途切れにはある」
「どういうことっスか?」
責めるでもなく、リョーマは手塚の瞳を真っ直ぐに見つめた。
手塚が言うには、自分の行動を遥か遠くから眺めているような、そんな不可解な状況だったらしい。
だが、心に湧き上がるとてつもない嬉しさ、切なさ、懐かしさ、そしてリョーマへの愛しさだけは『遠くにいる自分』と共有していたのだ、と。
そして、ある一首の和歌が、ずっと手塚の頭の片隅に響いていたのだとも言った。
「和歌?」
「…百人一首の中に納められているものだ。確か崇徳院の詠んだ……」
「なにそれ。誰?」
手塚はリョーマを暫し見つめてから溜息をついた。
「…まあ、崇徳院が絡んでいるわけではなさそうだからな……しかし一体…」
「ねえ」
リョーマがいいことを思いついたように手塚を覗き込んだ。
「アンタは嫌かもしれないけど、こういう『不可解な話』を得意分野にしている人、テニス部の身内にいるじゃん」
「え?」
「とりあえず、掃除してから部活に行くしかないっスね」
「あ、ああ…」
手塚は誰のことか思いつかなかったが、とりあえず楽になってきた身体に安堵しながら、しかし眉間のしわだけは消せずに頷いた。



境内の掃除を済ませ、住職の用意した暖かな朝食を頂戴してから、リョーマと手塚は学校へと向かった。
大会を目前にして土・日も青学テニス部の練習が休みになることはない。
「不二先輩」
「おはよう、越前くん。今日は早いね」
「…はよっス」
目深に被った帽子の下から不二を見つめると、リョーマは小さな溜息をついた。声はかけたものの、やはり、ちょっと言いづらい。
「不二」
リョーマの後ろから手塚が不二に声をかける。
「おはよう手塚」
「練習の後で話がある。いいか?」
「…うん、わかった」
不二は切れ長の目を二人に向けたが、それ以上は何も言わなかった。


「…なるほどね」
昼食休憩の間に、リョーマと手塚は昨夜起こったことを不二に話した。
「それで今日、越前くんの動きにいつものキレがないんだね」
「………まあね」
溜息をつきながらリョーマが肯定した。
学校へ来る道すがら『不可解な話のエキスパート』の心当たりをリョーマから聞かされた手塚は、正直言って気が進まなかったが、これ以上リョーマを傷つけることになる方が許せない事態だった。
「あのお寺…確かに古いけど、妙な噂は聞いたことがないな…」
不二が口元に手を当てて考え込んだ。
「ねえ、不二先輩のお姉さん、こーゆーの得意でしょ?」
「由美子姉さん?…そうだね、知り合いからよくお祓い頼まれてるけど…」
「お祓い……」
そこまで本格的とは思っていなかったリョーマと手塚は顔をひきつらせた。
そんな二人をみてクスッと笑った不二は「でも、」と表情を曇らせた。
「ごめん、今、姉さんいないんだ。昨日の夜から友達と旅行に行っちゃってて……」
「え…」
「……」
リョーマは目を見開いた。なんとタイミングの悪いことか。手塚も俯き加減に溜息をつく。
「僕が行こうか?」
「は?」
唐突な不二の提案に、リョーマがさらに目を見開いた。手塚も驚いて顔を上げる。
そしてリョーマと手塚が同時に考えたことは、
(やっぱり普通の人間じゃないのか……)
だった。
不二は二人をキョトンと見つめると、気が付いたように「ああ、」と言葉を続けた。
「僕にはお祓いとかはできないけど、君たちのチカラになりたいなと思ってね」
ニッコリ微笑む不二に、リョーマと手塚は脱力した。
「…確かに、不二先輩がいてくれると、いろいろ心強いかもね」
ぼそっと呟いたリョーマの言葉に手塚は少しの間考え込んだが、意を決したように不二に向かって言った。
「頼む、不二。俺たちと来てくれ」
一瞬真顔になって二人を見つめた不二は、しっかり頷くとやわらかく微笑んだ。



練習を終えて二人はそのまま不二を連れて寺に戻り、住職には「助っ人」と紹介してから境内の掃除を始める。
そろそろ日も傾き、広い境内が日本の趣を濃く漂わせ始める。
「越前くん」
竹箒を手にしたまま不二がリョーマに声をかける。
「なんスか」
不二を見ずに掃除を続けながらリョーマが返事をする。
「昨夜の手塚は、怖かった?」
「全然」
「そう…」
チラッと見上げた不二がやわらかく微笑んだので、リョーマは溜息をついて掃除の手を止めた。
「怖いんじゃなくて……なんか、すごく切なくなった」
「切なく?」
リョーマは頷くと話を続ける。
「『やっと逢えた』って言ってた。…そんな風に言われたせいかもしれないけど、胸が痛くなるくらい切なくて…何度もヤられて、身体がつらかったけど、拒めなかった」
「やっと逢えた、か………」
不二は離れの方を向いて黙り込んだ。
「…不二先輩?」
不二は振り向くと真顔でリョーマに言った。
「ここの空気は『嫌な感じ』はしない。……でも…」
「でも?」
「放っておくと、手塚も、そしてキミも、危険なことになるかもしれないね」
「!?」
リョーマは息を飲んで不二を見た。
「…とりあえず、そろそろ掃除を終わらせようか」
「……そっスね」
不二の言葉がリョーマの胸に重くのしかかった。
(くにみつが危険に……)
誰であろうと、何であろうと、手塚を傷つけるものは許さない、とリョーマは瞳にきつい光を宿らせた。



夕飯をごちそうになりながら、リョーマは時折手塚を見つめた。
リョーマの視線に気づいた手塚が優しく微笑み返してくれる。
(大丈夫だリョーマ。お前をこれ以上傷つけさせたりしない)
そんな手塚の言葉が、リョーマには聞こえてくるような気がした。
二人と一緒に夕飯に招待された不二は、リョーマと手塚を交互にそっと見やると、さりげなく住職に話しかけた。
「ご住職。このお寺はずいぶん歴史が古そうですね。もしかして古い言い伝えや伝説か何かがあるのではないですか?」
住職はやわらかく微笑むと「いいえ」と首を横に振った。
「まあ、歴史は古うございますが、そんなたいそうな言い伝えなどは………」
そこで言葉を止めた住職を三人の瞳が見つめた。
「伝説というわけではありませんが、戦国時代の切ない恋のお話は聞いておりますよ」
「!」
三人は顔を見合わせると住職に気づかれないように小さく頷いた。
「お聞かせ願えますか?」
「ええ。まあ、書物が残っているわけでもありませんし、小さな墓がひとつ残っているだけなのですが…」
住職の話によると、戦国時代末期、敵に追われてこの寺に逃れ着いた二人の若者がいたという。共に闘って傷を負った二人は当時の住職の厚意により密かに傷を癒していた。しかし、二人のうち一人の若者は若くして大将であったことから、共に逃げてきた若者を守るため、迫ってきた敵の中に自ら飛び込み、捕らえられたという。残された若者は出家し、主人が出家を許されてこの寺へ戻るのを待ち続け、やがて病に命を落としたと言うことだった。
「…崇徳院の歌を…交わし合ったのではないですか…」
黙って住職の話を聞いていた手塚が、呟くように言った言葉に住職は驚いて顔を上げた。
「なぜそれをご存知なのです?」
不二とリョーマもはっとしたように顔を上げた。
「仰るとおり、二人の若者たちは、崇徳院のあの有名な歌を胸に、再会を強く願っていたと伝わっております」
「歌…って……」
リョーマが眉を寄せて手塚と、そして不二を見た。
不二は小さく笑うとスラスラと和歌を一首口にする。
「『瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ』………ですよね?」
住職は深く頷くと話を続けた。
「実は二人の若者は、性別も身分も超えて愛し合っていたと、密かに伝わっております。今は離ればなれになっても、きっといつか逢えるときが来るのだという、あの歌に願いを込めていたと…」
「そう…でしたか…」
俯き加減にそう言った手塚の顔色が気のせいか悪くなってきているように見えて、リョーマは焦燥感に似た苛立ちを感じ始めた。
どうしていいか分からない自分が腹立たしくて膝の上に置いている手を、爪の跡が残りそうなほど強く握りしめる。
その時、ゆらりと手塚が立ち上がった。
「………申し訳ありませんが、先に休ませていただきます…」
「おや、顔色が悪いですね……どうぞゆっくり休んでください」
「失礼します」
部屋を出てゆく手塚を追いかけようとしたリョーマを、不二が腕を掴んで引き留めた。
「ちょっと待って、越前くん」
住職の手前、口論するわけにも行かず、リョーマは不二をきつく睨み付けながら座り直した。
リョーマを宥めるように微笑みかけてから、不二がまた住職に尋ねる。
「それで、その敵に飛び込んでいった大将の方はどうされたのですか?」
「…さあ……。ですがこの寺にはその後、武家や貴族の出家はありませんでしたから……きっと、その大将は出家を許されなかったのでしょうね……」
「じゃあ……」
「ええ、たぶん…………」
その先の言葉をはっきりと口にはしなかったが、住職は悲しげに眉をひそめて溜息をついた。
一瞬、リョーマはますます握った手に力を込めたが、すぐに自らをクールダウンさせるかのように深く息を吐き出した。
「ごちそうさまでした」
リョーマは食べ終わった食器をきちんと重ねて住職に向かってペコリと頭を下げた。
「手塚先輩の様子が気になるんで、オレもあっちに戻ります」
「そうですね、何かあったら遠慮なく私に言ってくださいね」
「はい。おやすみなさい」
「では僕も、失礼します」
不二もリョーマを追いかけるように席を立つ。
「不二先輩」
後からついてくる不二を振り返らずに、リョーマが怒りを抑えた低い声で言う。
「日本って、やな時代があったんだね」
「……うん、そうだね」
人を人とも思わない時代の中、自分たちの純粋な想いを胸に生きた二人の若者。
互いを信じ、自分の気持ちに素直に生きたその若者たちを、心のどこかで少し羨ましいと、不二は思った。
「…越前くん」
離れの前に来て、不二がリョーマに声をかける。
「なんスか」
「きっと今、中にいるのは手塚じゃない」
「わかってる」
リョーマは戸に手をかけて短く息を吐くと、勢いよく開けた。
明かりのついていない部屋の中、庭の方を向いて正座する手塚の姿が、月の光にぼんやりと照らされている。
「ねえ」
リョーマが手塚に声をかける。
手塚はゆっくりと振り向き、リョーマを見て優しく微笑んだ。
「返してくんない?『その人』、オレのなんだけど」
「月がたいそう美麗なれば、こちらに参られよ」
手塚が前日よりもさらに古めかしい口調でリョーマを呼ぶ。
「ヤダね。アンタの傍になんか、行きたくない」
「?」
手塚が不思議そうにリョーマを見る。
「アンタがオレを誰と間違えてんのか知らないけど、『その人』はオレので、オレは『その人』のものなの。アンタのじゃないんだ」
「…………」
手塚が悲しげに眉をひそめる。
「違えはせぬ……違えておるはずもない……何故そのような…」
「ふざけんな」
リョーマの声が低くなる。
「アンタ、自分の好きな人が誰か忘れたわけ?目の前にいるオレってことですませて自己満足してるだけじゃん」
「!?」
「アンタの好きな人は、とっくに別の場所に行ってるよ。そこでアンタが来てくれるのを待っているんだ。なのに、なんでアンタはいつまでもこんな所にいるのさ」
手塚は狼狽えたように立ち上がった。
「そなたは……そなたは………」
「オレは越前リョーマ」
「…あの方は……どこに……」
リョーマは大きく溜息をついた。
「アンタ、まだまだだね」
「………」
「自分の大切な人も探し出せないわけ?そんな程度なら諦めれば?」
手塚は落胆したように項垂れた。
「違えたのか……あの方と…この者を、違えたのか……」
「それは少し違うんじゃないかな」
ずっと黙ってコトの成り行きを見ていた不二がおもむろに口を開いた。手塚がふと顔を上げる。
「あなたが大事な人に抱いていた感情と、手塚の中にあった越前くんへの感情が、きっと合致したんだよ。だから、間違えたというなら、あなたは手塚のことを自分と間違えたんだよ」
「……この者は…手塚と申すのか……」
「手塚国光。オレの一番大切な人だよ」
「……そ…う…であったのか……この者は、そなたを…我が身と同じく……?」
リョーマは強い瞳で手塚を見つめながらしっかりと頷いた。
「アンタの大事な人は、きっと天国にいるよ。アンタも何回か迎えが来たんじゃない?」
「………わからぬ」
「アンタが天国に行きたいと思えば行けるんじゃない?これが最後のチャンスだと思ってさ、探しに行きなよ」
リョーマはゆっくりと手塚に近づいてゆく。
手塚は揺れる瞳でリョーマを見つめてくる。
「アンタがアンタの大事な人のことをどれくらい好きか、オレは知ってるから。大丈夫。見つかると思うよ」
「…そなた……」
「越前リョーマだよ」
手塚はふと微笑むと目を閉じた。
「あの方の元へ……叶うのだろうか…」
「迷うなよ。自分の想いを信じるんだ」
「そう。あっちの世界は全て『想いの強さ』で決まるからね。あなたが逢いたい、あの人のことだけを想って」
不二も堪らずに声をかけた。

(セヲハヤミ…)

「!」
リョーマと不二が顔を見合わせた。
途端に手塚の身体から力が抜け、崩れ落ちる。
リョーマが慌てて手塚の身体を支え、なんとか倒れ込ませずに受け止めた。
「今、なんか聞こえたよね…?」
リョーマが手塚を抱き締めながら不二に尋ねる。
「向こうも、きっと探していたんだね」
「じゃあ…」
「ああ、きっと二人は逢えたんだよ」
リョーマに手を貸して手塚を横たえさせながら、不二がニッコリと微笑んだ。
「ふーん、やるじゃん」
リョーマが宙を見据えて微笑んだ。
「もう離れんなよ」
リョーマの小さな呟きが宙に吸い込まれたように、部屋に静寂が満ちる。
不二は軽く溜息をつくと、リョーマの肩に手を置いた。
「よかったね」
「…サンキュ、不二先輩」
不二は「僕は何もしてないよ」と微笑んだ。




一緒に泊まっていけというリョーマの提案を断って不二が帰っていった。
断った理由は「お邪魔だろうから」だったので、リョーマは尚更ムキになって引き留めたが、軽くかわされてしまった。
まだ手塚は意識を取り戻さない。
このまま手塚が意識を取り戻さないのでは、と不安になって、リョーマは手塚の髪を撫でた。
「オレまで一人にしないでよ……くにみつ……」
頼りなげなリョーマの呟きが聞こえたのか、手塚がうっすらと目を開けた。
「くにみつっ!」
「……リョーマ……?」
額に手を当てながら手塚が身体を起こす。
「俺は……」
「くにみつ!」
リョーマは手塚に抱きついた。
胸に膨らんできていた不安が一気に弾けて心が軽くなる。
「よかった……もう目を覚まさないかと思った…」
手塚はゆっくりとリョーマの背に手を回し、その細い身体をしっかりと抱き締めた。
「もう全部すんだよ……もう大丈夫だから……くにみつ……っ!」
「リョーマ……」
二人はしっかりと互いの身体を抱き締め合った。
手塚の温もりがリョーマの心に染みわたり安心したせいか、今になってリョーマはカタカタと震えだした。
「リョーマ…?」
「貴重な体験だったかもね」
身体は小刻みに震えながらも、口では強がってそんな風に言う。
手塚はそんなリョーマに愛しさを募らせ、一層深く抱き締めた。
「リョーマ……すまなかった」
「アンタのせいじゃないじゃん」
手塚はそっとリョーマの身体を離すと、優しく口づけた。
「…やはり、俺の意識の中に誰かが入り込んでいたようだな…」
「うん……さっき話していた、戦国時代の人みたい」
「ああ。少しだけ意識と記憶を共有したからわかる」
手塚はリョーマの頬を両手で挟むと瞳を揺らした。
先程まで手塚に入り込んでいた名も知らぬ若者の瞳と同じ光を宿していたので、リョーマは一瞬身体を固くする。
「愛する者を失った悲しみというものを、俺は知ってしまった…。あんなにもつらいものなのだな……」
「え…?」
「心が張り裂けるなんて生やさしいものではなかった。つらくて、苦しくて、息もできないほどだった。殺された方がまだましだろう」
リョーマは昨夜手塚に抱かれながら感じた『切なさ』の理由を知った気がした。
「もう二度と、お前を失いたくない……」
「オレはここにいるよ。アンタの傍に、ずっと」
「ああ、そうだった…」
手塚は包み込むようにリョーマの身体を抱き締め直し、安堵したように溜息をついた。
「…くにみつ……身体は平気?」
「まだ少し重いな……だるい」
「…風呂、入ろっか。ゆっくり暖まろうよ」
リョーマの提案に、手塚は笑みを零すと「ああ」と頷いた。




昨夜と同じように着替えを持って庭に降りた二人は、肌に感じる空気が、昨夜とまるで違うことに気づいた。
二人は顔を見合わせて微笑み合うと、服を脱ぎ、掛け湯をしてゆっくりと湯の中に入った。
「…やっと二人っきりっスね」
「そうだな」
苦笑しながら手塚が空を仰いだ。
「リョーマ、見てみろ」
「え?」
言われたようにリョーマが空を仰ぎ、その美しさに息を飲んだ。
「すごい…星があんなに……」
「満天の星……いや、星の海に浮かんでいるようだな…」
「うん、すごい!」
昨夜は見ることの出来なかった無数の星たちが、二人の頭上で煌めいている。
「リョーマ」
「ん?」
星を見たままリョーマが返事をすると、湯がやわらかく揺らめき、延ばされた手塚の腕の中にリョーマが引き寄せられた。
「わ…」
「好きだ…愛している…リョーマ」
「くにみつ…」
二人は見つめ合うと、ゆっくりと唇を寄せ合った。





「……ねえ、今日は一回で終わるつもり?」
荒い息も整わないうちに、リョーマが手塚に挑発的な瞳を向けてくる。
「…大丈夫なのか?」
「全然へーきっスよ」
手塚は小さく笑うと、リョーマから自身を引き抜いた。
「あ…っ」
そのまま、今まで手塚を受け入れていた後孔に湯をかけてとりあえず周りを綺麗にしてやる。
「来い」
「え?」
手塚がリョーマを引き寄せて抱き上げると、そのまま湯の中に深く身を沈めた。
「………もう満足しちゃったわけ?」
「お前は?」
頬を染めて答えに迷っているリョーマに優しく笑いかけ、手塚がそっと口づける。
「インターバルをおこう。一晩中ここでしているわけにもいかないしな」
唇を掠めながらそう囁く手塚に、リョーマは「一晩中する気?」と、ちょっと呆れたような瞳を向ける。
「 …落ち着いたら部屋に戻るぞ」
「…うん」
「リョーマ」
「……なに?」
手塚は、今、自分の胸に満ちている想いを全て言葉にすることができない気がして、何も言わずにリョーマを抱き締めた。
「……今夜のアンタも、なんか変」
「そうか?………いや、そうかもな……」
「でもさ…」
抱き締められながら、リョーマが手塚の肩にそっと手を置いた。
「今夜のアンタ、今までで最高にいい顔してる」
「………そうか……」
そのまま二人はしばらく互いの鼓動を感じ合った。
静かな水面に、月が輝いていた。





翌日、手塚が目を覚ますとリョーマが自分の腕の中で子猫のように丸まっているのに気づいた。
結局風呂から上がって布団に入った二人は、一日でたくさんのことが起きて疲れがあったらしく、そのまま眠ってしまった。
幼さを感じさせるリョーマの寝顔を見つめながら、再び微睡みそうになってきた手塚は、時間が気になって枕元に置いたはずの時計を手探りで探し出した。
「……………っ!?」
時刻を確認した手塚が言葉を失う。
起きなくてはならない時間を大幅にオーバーして、すでに午前中の部活の開始時間にも間に合いそうもない時刻だった。
「リョーマ、起きろっ!おいっ!」
「ん………はよっス……なに?」
「寝坊だ……急いで着替えよう」
テキパキと布団を片づけて制服に着替える手塚をぼんやり見つめながら、リョーマは大きなあくびをした。
「とりあえず、境内の掃除をしなければならんな……こら、モタモタするな」
「はぁ〜い」
緊張の欠片もないリョーマの返事に、手塚がガックリと脱力する。
「…置いてくぞ」
「ヤダ」
「ならば、早く支度しろ」
「はぁ〜い」


どうにかこうにか支度を整えると、二人は境内の掃除を始める。
そこへ住職がニコニコしながら歩いてきた。
「おはようございます、すみません、寝坊してしまいました」
「おはようございます」
手塚とリョーマは住職に向かって頭を下げた。
「ああ、いいんですよ。さっき覗きに行ったら気持ち良くお休みだったので、そのままにしておいたのは私ですから」
「え?」
「………」
手塚の表情がわずかにひきつった。確か自分たちは抱き合うようにして眠っていたはず……。
「あなた方は本当の兄弟のようなんですね。仲がよろしくて、本当に微笑ましいお二人の寝顔でした」
「はぁ……お恥ずかしいです」
「先に朝食をお上がりなさい。掃除はだいたい私がしておきましたから。明日には寺の者も出先から帰りますし。本当にご苦労さまでした」
さすがのリョーマもちょっと恐縮しながら、二人は住職の本宅へ朝食を頂きに上がった。
「そういえば、昨日お話してくださったお墓というのはどこにあるのですか?」
手塚は自分に入り込んだ若者の墓を見てみたいと思った。
リョーマもふと顔を上げて住職を見つめる。
「墓?どなたの墓ですって?」
「昨夜お話くださった戦国時代の若者の………出家してこちらで亡くなったという…」
住職がキョトンとしたまま黙ってしまったので、手塚とリョーマは顔を見合わせた。
「あの……申し訳ありませんが、なんのお話やら私には……戦国時代の若者、ですか?」
「ええ、崇徳院の歌を交わし合いながら主人との再会を願って亡くなったという…」
住職は腕を組んだまま考え込んでしまった。
どうやら本当に、住職にはなんのことだか分からないらしい。
(そんなバカな……)
手塚とリョーマは、そのまま深く追求せずに部活へと向かった。



「ふぅん、あのご住職が、そんなことを…?」
なんとか滑り込みで部活に間に合った二人は、また昼食の休憩時間に不二を呼び出した。
今朝の住職の不可解な様子を不二に話して聞かせると、全て聞き終わってから不二が顎に手を当てて考え込み始めた。
「………そうか……そういうことなんだ…」
「どーゆうことっスか?」
一人で納得しているらしい不二を上目遣いで見上げながら、リョーマが先を促す。
「越前くん、手塚が倒れ込む前、誰かの声が聞こえたよね?」
「え、ああ、そっスね」
「やっぱり相手もあの若者のことをずっと待っていたんだよ」
「え?」
つまり、と、不二は話をし始めた。
愛しい主人が出家を許されて自分の元に戻るのを待ち続け、そのまま願い叶わずに命を落とした若者は、想い人が必ず『寺に戻ってくる』と信じてあの『寺』自体に執着してしまった。だから天に案内してくれるはずの『案内人』の声も聞こえず、傍にいた想い人の声さえ届かなかったのだ。
だが、手塚の中にいたその若者に、リョーマの声は届いた。自分の大切な人の待つ天界へ行けと言う言葉が。
そして若者は「天界へ行きたい」という意志を持った。愛しい想い人の待つ天界へ行きたいと、心から願った。
そうして『寺』の呪縛から解き放たれた若者は、すぐ傍で自分を待っていてくれた想い人を見つけることができ、二人は何百年も経ってやっと再会できたのだ、と。
「なるほどな…あの住職の身体を借りて俺たちに語りかけていたのは、若者を待つ主人の魂だったわけか…」
「たぶんね」
「ふーん…ま、よかったんじゃない、すっぱり解決して」
終わったことには興味がないかのようなリョーマの素っ気ない言葉に、手塚が眉を寄せる。そんな二人を見て不二がクスクスと笑った。
「不二先輩が、このままじゃ二人とも危ないとか言うから、結構焦ったけどね」
「不二…お前、越前にそんなことを言ったのか?」
「だって……」
不二が二人に向けていた切れ長の瞳を楽しそうに細めてから、心底心配していたとでもいうように言った。
「あの若者に手塚が取り憑かれたままでいたら……まあ取り殺されたりはしないだろうけど……でも君たち、一日中愛し合っちゃいそうで。そうしたらいくら君たちでも、身体が持たないでしょ?」
「……………」
「……………」
「あ、英二、食べてすぐ走り回っちゃダメだよ」
絶句した二人を残して不二が菊丸の元へ歩いて行ってしまった。
「…ねえ」
「なんだ」
「不二先輩が一番人騒がせなんじゃない?」
「かもな」
二人は揃って大きな溜息をついた。
それでも、と手塚はふと思う。
大切な想い人をなくす悲しみやつらさ、苦しさを、身を以て知ることができた。だからこそ、自分はリョーマを手放したりしない、と心に強く誓うことができる。
そして、愛する者を守りたいと願う想いは、対等でありたいと願う想いと相反するものなのではなく、愛しいと思う故の自然な、それでいてとても大切な想いであると言うことに、今更ながらに気づくことができた。
「感謝しなくてはならないのかもしれない」
「え、なに?」
「情けは人のためならず、だ」
「?」
キョトンと見つめてくるリョーマが愛しくて思わず抱き締めそうになるが、ここが校内であることを思い出し、手塚はひとつ咳払いをした。
「そろそろ戻るか」
「ういーっス」
「全国へ行くぞ」
「ういっス!」
二人は肩を並べて、緑の鮮やかなテニスコートへと戻っていった。


THE END 
2002.11.18