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       それは土曜の夜、一本の電話からすべてが始まった。 
      『すまない、明日なんだが…急用ができた。予定はキャンセルしたい』 
      ひどく言いづらそうに、電話の向こうの手塚の声が濁る。 
      「何かあったんスか?」 
      『…親戚の子を預かることになったんだ…だから…』 
      「親戚の子?」 
      事情をよく聞いてみると、どうやらその子の母親が婦人病を患って入院してしまったらしい。どうしても手術が必要で、その間、父親だけでは子どもの面倒を見ることが出来ず、手塚の家を頼ってきたようだ。 
      「ふーん、そういうことならしかたないっスね」 
      すんなり納得したリョーマの言葉に、手塚は受話器の向こうで安堵の溜息をつく。 
      「オレがアンタの家に行けばいいんじゃないの?」 
      『………それは…そうなんだが…』 
      なぜか言い淀む手塚に、リョーマの神経が苛立ってくる。 
      リョーマはとても楽しみにしていたのだ。部活以外で手塚と一緒に過ごせる時間を。 
      そう、手塚を独占できる時間を。 
      「アンタがイヤなら行かないけど」 
      『嫌なわけがないだろう……ただ……結構あしらいが難しい子なんだ…』 
      「オレ、一応中学生なんスけど。小さい子いじめたりなんてしないっスよ」 
      手塚は一瞬沈黙した後、小さく溜息をついたようだった。 
      『わかった…こっちに、来てくれるか?』 
      「うん」 
      時間の確認をしてからリョーマは受話器を置いた。 
      手塚と一緒に過ごせる、その期待感だけがリョーマの心の中を支配していた。
 
 
  翌日、時間通りにリョーマは手塚の家の前に立っていた。 
      玄関の呼び鈴を押すが返事がない。 
      「お邪魔します」 
      言いながら玄関の戸を開けると、そこにウサギのぬいぐるみを抱えた4歳くらいの女の子が立っていた。 
      (…これが預かるって言っていた子?) 
      リョーマが女の子をジッと見つめた。 
      女の子もリョーマをジッと見つめ返した。 
      「ども。」 
      リョーマがニコリともせずにそう言うと、女の子はくるりとリョーマに背を向けた。 
      「国光!ドロボー!」 
      リビングの方に向かって大声で物騒なことを叫ぶ。 
      「な……っ!?」 
      いきなりの行動に、流石のリョーマも少しビックリした。 
      「ドロボーじゃないよ。遊びに来たんだ」 
      少女はゆっくりと振り返ると、頭のてっぺんからつま先まで、吟味するようにリョーマを眺めた。 
      「あなたもテニスする人?」 
      「まあね」 
      「そう。でも国光には勝てないでしょ?」 
      「………今はね」 
      少女は勝ち誇ったような顔をした。 
      「当然ね!あたしの国光は誰にも負けないもの」 
      「…………あたしの…くにみつ……?」 
      リョーマは目を丸くした。 
      「国光が家に呼ぶくらいだから、あなたも結構できる人かもしれないけど、強そうには見えないわね」 
      「………」 
      目の前にいる少女の年齢が、一瞬、リョーマには判別不能になった。 
      溜息をひとつつくと、心の中で「相手にしたらダメだ」と自分に言い聞かせる。 
      そこへ手塚がやっと姿を現した。 
      「ああ、来ていたのか越前。上がって構わないぞ」 
      「ちーっス」 
      「真唯子、もうすぐ焼き上がる」 
      「流石、手際がいいわね、国光。私とケッコンするのはやっぱりあなたしかいないわ」 
      そう言うと真唯子と呼ばれた少女はスタスタとキッチンに向かって歩き出す。 
      「まいこ…って言うんだ、あの子」 
      「ああ。ずいぶん大人びているだろう?」 
      「…っていうか、何アレ?」 
      手塚はリョーマを見つめると苦笑した。 
      「すまない」 
      「…別に。アンタが謝ることじゃないっスよ」 
      リョーマは大きく溜息を吐くと、靴を脱いで手塚家に上がった。
 
  「…オバサンたちは…見舞い?」 
      「ああ」 
      「国光、後1分よ」 
      背伸びしてオーブンを覗き込みながら少女が手塚を振り返らずに言った。 
      「あまり近づくな。火傷するぞ」 
      「大丈夫よ。あなたのハナヨメになるまではケガなんてしないわ」 
      リョーマは思わず吹き出した。外見とあまりに違う話し方に、どうしても違和感が募る。 
      「…あなた、お名前はなんて言うの?人の会話を聞いて笑うなんて失礼だわ」 
      「ふーん。いきなり人をドロボー扱いするのは失礼じゃないんだ?」 
      少女がギッとリョーマを睨んだ。 
      「越前」 
      手塚が目でリョーマを制する。リョーマは溜息をついた。 
      「オレは越前リョーマ。よろしく」 
      「ふぅん。えちぜんりょーま、ね。覚えてあげるわ」 
      「そりゃどーも」 
      リョーマと少女の間に、目に見えない険悪な何かが流れ始めた。 
       リビングに出来たてのクッキーを運ぶと、少女がそれぞれに席を指定する。 
      「えちぜんりょーまはそっち。国光とあたしはこっち」 
      言われたとおりにリョーマと手塚が腰を下ろすと、少女が手塚に身体を擦り寄せる。 
      「国光、大好き」 
      「………ありがとう」 
      少女はニッコリと手塚を見上げ、クッキーを手渡す。 
      「はい、国光」 
      「…ああ」 
      頬杖をつきながらその光景を眺めていたリョーマは、今日何度目かの溜息をついた。 
      子どもの一人や二人、家にいても構わないと、リョーマは思っていた。だが、実際にここに来てみると、手塚はほとんどこの少女にかかりっきりになっている。 
      しかも少女はリョーマのことを明らかに敵視し、ことあるごとに無視しようとする。 
      (花嫁候補、か…) 
      自分は手塚の恋人だが花嫁にはなれない。かといって、リョーマは手塚の『花嫁』になりたいわけでは決してなかったが、それでもこの小さな少女に根本的なところで負けているような気がして居心地が悪くなってきた。 
      (やっぱり来なければ良かった…) 
      ぼんやりと手塚と少女を視界に捕らえながら、リョーマはここに来るまで胸一杯に抱えていた期待感が、音をたてて崩れていくような錯覚を起こした。 
      ただ手塚と同じ時を過ごしたいだけだった。 
      何もしなくても、どこに出かけなくても、傍にいて、互いを感じていられればそれだけでリョーマはいいと思っていた。 
      なのに、今、手塚が遠い。 
      リョーマがいたたまれずに帰ろうと口を開けかけたその時、電話のベルが鳴り響いた。 
      「……」 
      手塚が立ち上がり、電話の応対をする。 
      その後ろ姿を眺めていたリョーマは、自分の横顔に突き刺さる視線を感じて振り返った。 
      「…えちぜんりょーま、いつまでここにいるの?」 
      「べつに」 
      リョーマは少女を見ずに返事をした。 
      「そっちこそいつまでここにいるの?」 
      「………っ」 
      一瞬、少女の顔が悲しげに歪んだ気がして、リョーマは正面から少女の顔を見た。 
      「…お父さんが、迎えに来るまでよ」 
      リョーマの胸に、言ってはならないことを言ってしまったという小さな罪悪感が生まれる。 
      「………大変だね。寂しくない?」 
      少女は驚いたようにリョーマを見つめた。リョーマの口からそんな優しい言葉が聞けるとは思っていなかったらしい。 
      「…ここには国光がいるわ。国光がいてくれれば、あたしは寂しいなんて言わない」 
      「すごいね」 
      リョーマは心からこの少女に敬意を払った。こんな小さな身体で、オトナの都合を受け入れている。 
      自分の周りにはいつも父か母がいたから、リョーマにはわからない感覚かもしれなかった。 
      「そんなにくにみつが好き?」 
      リョーマは少女の目を見て尋ねる。 
      少女はリョーマの目を強い瞳で見つめ返し、頷いた。 
      「どこがいいわけ?あの人笑わないでしょ。怖くない?」 
      「国光の心はあったかいの。そこら辺のヘラヘラしている男の子よりずっといいわ!」 
      「ふーん」 
      リョーマは少女の顔を覗き込むと、優しく微笑んだ。 
      「それが分かるなんて、やるじゃん、真唯子」 
      少女の表情がみるみる明るくなる。 
      「国光の良さが分かるのは私だけだと思っていたわ。えちぜんりょーま、あなたも大したものね」 
      「まあね」 
      二人はクスクスと笑いあった。 
      「でも、国光は私の旦那様になるの。えちぜんりょーまにはあげないわよ」 
      「ふーん」 
      リョーマは身体を起こすと、少女を見下ろすように言った。 
      「まだまだだね」 
      ちょうど手塚が戻ってくるのを視界の隅に捕らえたリョーマは、すっと立ち上がり、手塚が腰を下ろす前に「ねえ」と呼び止めた。 
      「ん?」 
      手塚の振り向きざま、素早く首に腕をまわすと、リョーマは手塚に口づける。 
      「あああっ!」 
      少女が目を見開いて立ち上がった。 
      リョーマは見せつけるようにわざと音をたてて唇を離す。 
      「越前っ!」 
      間近で怒られて、リョーマの身体が一瞬ビクッと震えた。 
      「真唯子の前で、何を考えている!」 
      「…………」 
      リョーマは手塚をきつく睨むと、そのまま何も言わずに玄関に向けて歩き出した。 
      「りょ……越前!待て、どこへ……っ」 
      「帰る」 
      さっさと靴を履き、玄関の戸を開けて追いかけてきた手塚を振り返る。 
      「じゃ、部長、また明日」 
      「越前…っ」 
      そのまま手塚を見ずに戸を閉めると、リョーマは駆けだした。 
      (何が子どもはいじめない、だ。……こんなのいじめじゃんか) 
      小さな少女に嫉妬した。 
      そんな自分が、リョーマは情けなかった。 
      
 
 
  翌日の朝練に手塚は姿を見せなかった。 
      「家の都合らしいんだ」 
      連絡をもらったという大石が手塚のいない理由を部室で着替えながら簡単に説明する。 
      「なんでも親戚の方が入院されて、手塚のお母さんが2〜3日病院に泊まり込んで世話をするらしい」 
      「なんか、子供を預かるとか聞いたけど?」 
      不二の言葉に大石が頷く。 
      「仕事があって面倒をちゃんと見られないからしばらく預かって欲しい、ってその子の父親から頼まれたらしいんだ」 
      「その子、可哀想だにゃ…」 
      菊丸が小さく呟いた言葉に全員が押し黙った。 
      リョーマも昨日の、あの勝ち気な瞳を思い出す。 
      (強がっていたのかも…) 
      リョーマはますます罪悪感を感じた。 
      そして、少女を傷つけることをした自分を、手塚はひどく怒っているだろうと思うと胸が痛くなった。 
      「どうかしたの?」 
      不二がリョーマを覗き込む。 
      「別に」 
      リョーマは帽子を目深に被り直すと、コートに出ていった。 
      (オレはしばらく逢わない方がいい、か…) 
      部活という接点はあるものの、普段の学校生活では滅多に逢うことの出来ない手塚に、休日も逢わずにいようとリョーマは心に決める。 
      休日に手塚と逢うということはすなわち、あの少女とも顔を合わせなくてはならなくなるからだ。 
      そう決めたからには、徹底的にしないとならない、と思う。 
      少しでも手塚に触れてしまったら、きっと何もかも我慢できなくなる。 少女の気持ちなど無視して、手塚を取り上げてしまうかもしれない。 
      「桃先輩、アップしません?」 
      「おう、いいぜ!」 
      リョーマは桃城と打ち合いを始めながら、どうしても漏れそうになる溜息を何度もかみ殺した。 
      心が、ひどく重かった。 
      
  その日以来、リョーマはまともに手塚と逢うことはなかった。 
      部活に出ていても、リョーマは手塚に必要以上に近づかないように自制した。 そして、何日か過ぎた放課後、いつものように練習は始まる。 
      手塚が生徒会の用事で遅れると言うのを聞いてリョーマは少しホッとする。 
      逢いたい人が『いなくて逢えない』のと『いるのに近寄れない』のとでは天と地ほどの差がある。 
      「越前くん、もしかして最近、手塚とまともに逢ってないんじゃない?」 
      不二がリョーマにそっと声をかける。 
      「別に。いつものことっスよ」 
      軽く睨み付けるように不二に視線を向けると、リョーマは素っ気なく言い放った。 
      「…そう?でも手塚は…」 
      「レギュラーはAコートに集合!」 
      大石の言葉に不二が言いかけた言葉を呑み込む。 
      ラケットを担いだ恰好でAコートに向かうリョーマの後ろ姿を、不二は無言で見つめた。 
      「そんな顔してると、手塚になっちゃうぞ〜、不二!」 
      菊丸が不二の顔を覗き込みながらニマッと笑う。 
      「英二…」 
      「眉間にしわ〜」 
      「………寄ってる?」 
      「うん」 
      「ヤバイね」 
      「ヤバイぞぉ」 
      二人は顔を見合わせてクスクス笑う。 
      「ほらほらみんな行っちゃったよ、不二、遅いと怒られる!」 
      「うん」 
      不二は菊丸に手を引かれて歩き出す。 
      手塚とリョーマ、どちらか一方が菊丸のように無邪気な性格だったらコトは簡単なのに、と不二がそっと苦笑する。 
      (でも、無邪気な手塚って………) 
      想像して思わず不二が吹き出す。菊丸が怪訝そうに振り返った。 
      「なになに?なんか思い出しちゃった?」 
      「いや……手塚ってどんな顔して小さい子の相手しているのかなって思って」 
      菊丸は足を止めて考え込んだ。 
      「行こう、不二!」 
      「…え?」 
      菊丸は瞳を輝かせると、不二にこっそり耳打ちし始めた。 
      
  しばらくして手塚が姿を現した。 
      「ちーっス!」 
      部員が声を揃えて挨拶する。 
      手塚は頷くと、大石と乾の所に行き練習の状況を聞く。いつもの情景。 
      リョーマは手塚がコートに入ってきたのをいち早く見つけたが、すぐに目を逸らして見てない振りをした。 
      部員たちが挨拶を口にするのを聞いて初めて手塚に気付いたように、小さな声で遅れて「ちーっス」と言ってみる。 
      練習状況の確認を終えた手塚がコートに視線を移す。目が合ってしまいそうになって、慌ててリョーマは桃城を振り仰いだ。 
      「ん?なんだ越前」 
      「…………」 
      振り返ったはいいものの、リョーマは話すことを思いつかずに黙り込んでしまう。 
      「…もしかして、もう腹減った?」 
      桃城が声を潜めてこっそり話す。 
      「え、あぁ……そっスね」 
      「帰りに寄るか?マック」 
      「いーっスね。桃先輩の奢りってコトで」 
      「あぁ?またかよ」 
      頭を掻きながら、それでもどこか嬉しそうに桃城が声を上げた。 
      (見てるだろうな…) 
      リョーマはきっと手塚がこちらをさりげなく見つめているだろうと思い、そっと肩越しに振り返ってみる。 
      (え…?) 
      振り返った先にあるはずだった手塚のきつい視線が、全く別の方向へ向けられている。と、いうより手塚はこちらに背を向け、全く見ていないらしかった。 
      「ふーん」 
      リョーマの瞳が剣呑な輝きを放つ。 
      ここのところ、そう『あの日』以来手塚はずっと、自分を見てくれない。 
      まるで、リョーマがテニス部に入って間もない頃のように、『ただの部長』として自分に接する。なのに時折、何か言いたげに静かに自分を見つめる手塚の視線を感じる。 
      ひどく焦らされているようで、リョーマはだんだんと苛立ってきた。 
      今までの殊勝な想いが急速に別のものとすり替わってゆく。 
      「どうした?越前」 
      「別に。部活終わったらすぐ行きましょう!マックでもどこでも!」 
      「ふん?じゃあ、俺ン家に来るか?」 
      桃城がニヤッと笑いながらリョーマを見下ろした。 
      「いーっスよ」 
      「へえ、じゃあ、マックで食ったら俺ン家な」 
      「ういっス」 
      リョーマは深く考えずに了承した。 
      数時間後、それがとんでもないことに発展するとは思いもせずに… 
      
  その後も全く手塚と会話せずに練習を終えたリョーマは、いつもの通りにコートの片づけにかかる。 
      今日はトンボが他の一年に取られて余りがなかったので、ボールのカゴを片づけることにした。 
      「手伝ってやろうか?」 
      「サンキュ、桃先輩」 
      リョーマが抱えていたボールのカゴをひとつ持ちながら桃城が鼻歌混じりに並んで歩く。 
      リョーマは視界の隅に手塚を捕らえた気がしてそちらを向くと、また手塚はこちらに背を向けていた。 
      大石と竜崎とで何やら話をしている。 
      リョーマはイラついたように荒っぽく溜息をつくと歩調を早める。 
      「おいおい、そんなに慌てるなよ越前」 
      「腹減ったから」 
      不機嫌そうに言い捨てるリョーマを見て桃城が笑った。 
      「それだけか?…ま、いいけどな」 
      呟くように言った桃城の言葉はリョーマの耳には届いていなかった。 
      
  一方、リョーマに背を向けていた手塚は話を終えるとコート整備をしている一年に視線を走らせる。 
      今日もリョーマと一言も言葉を交わしていない。もう何日まともに話をしていなかっただろう、と密かに眉を寄せる。 
      確かにリョーマを遠ざけているのは自分だが、それには手塚なりの理由があった。だがそんな理由をリョーマが知る由もない。 
      「手塚」 
      「ん?二人揃ってどうした?」 
      不二と菊丸がニコニコと微笑みながら手塚に声をかけてきた。 
      「これから手塚の家に行ってもいい?」 
      「…?」 
      手塚が怪訝そうに眉をひそめる。 
      「キミの家で預かっているって言う子に会ってみたいんだけど、ダメかな」 
      「手塚一人じゃいろいろ大変にゃ?」 
      「…………構わんが…ならば一緒に夕飯を食っていくか?」 
      「いいの?」 
      「晩ご飯〜!俺も手伝うにゃ!」 
      手塚は頷くと、もう一度コートを見回した。もうほとんど整備も終わり、コートに残っていた一年部員も担当の仕事を終えた者から帰り支度を始めているようだった。 
      「越前くんなら、ボール片づけてたよ」 
      「……そうか……いや、用があるわけではないんだ」 
      「誘わなくていいの?」 
      「………」 
      不二の問いかけに答えないまま、手塚は溜息をつくと二人に「上がろう」と言って部室に向かって歩き始めた。 
      部室で着替えを終え、三人で出口に向かったところへリョーマと桃城が入ってきた。 
      手塚とリョーマは、そこで久しぶりに正面から目を合わせる。 
      「………」 
      「………」 
      少しの間、黙って見つめ合っていた二人だが、先に目を逸らしたのは手塚の方だった。 
      「ご苦労」 
      「…お疲れっした」 
      互いの目を見ずに短い言葉を交わす。 
      そのまま背を向ける二人に、不二と菊丸と桃城の三人は、それぞれ違う表情をする。 
      「お疲れっした〜!」 
      上機嫌で挨拶する桃城を見て不二が「お疲れ」と短く応える。菊丸はニコニコと桃城とハイタッチして「また明日にゃ〜」と笑いかけた。 
      部室を出たところで不二が菊丸にそっと何かを耳打ちする。頷いた菊丸は、急に何かを思い出したように、少し大袈裟に声を上げた。 
      「あ〜、ごめん手塚、忘れモン!ちびっと待っててにゃ〜」 
      部室に戻ってゆく菊丸を見送ってから、不二が手塚を振り返った。 
      「越前くんと何かあったでしょ」 
      「…不二には関係ない」 
      不二はきつい瞳を手塚に向けた。 
      「前に言ったはずだよ。僕は越前くんを結構気に入っているってね。あんな顔させて平気なの?」 
      「………」 
      手塚は一瞬不二を睨み付けたが、すぐに視線を逸らした。 
      「…理由を聞き出すために俺の家に来ると言ったのか」 
      「そうじゃないけど」 
      そこまで言ったところで菊丸が部室から出てきた。 
      「おまたへ〜!」 
      不二が表情を和らげる。 
      「忘れ物はバッチリ?」 
      「へへへーっ、ブイブイビ〜!」 
      不二はニッコリ頷くと「じゃ、行こうよ手塚」とやわらかく声をかけた。 
      「ああ」 
      手塚はそれだけ言うと部室に背を向けて歩き出す。 
      不二と菊丸も手塚の後に続いて歩き出しながら何事か小声で話をしていた。 
      
 
  「ごちそうさんっした」 
      「おう。…相変わらず容赦なく食うなお前」 
      「育ち盛りですんで」 
      リョーマが素っ気なくそう言うと、桃城は「食べた分育ってねえみたいだぜ?」と言いながらリョーマの頭を軽くポンポン叩いた。 
      「うちのメンバーがみんな背、高すぎるんスよ」 
      確かに青学レギュラー陣(と、プラス一名)はプレーが超中学生級なら身長も同じくハイレベルである。 
      「そりゃ言えてるな」 
      桃城がうんうんと頷くと、リョーマはムッとしたままそっぽを向いた。 
      「さーて!」 
      だが桃城がいきなり声を大きくしたのでリョーマは一瞬ビックリして桃城を振り仰いだ。 
      「行くか、越前、俺ン家!」 
      「ああ…ういーっス」 
      リョーマはそんな約束もしたっけな、と思い出し、桃城について行くことにした。 
      
  「お邪魔しまーす」 
      「おう上がれ上がれ、汚ねぇけどな」 
      「お兄ちゃんお帰り〜!」 
      ドタドタとけたたましい音をさせて桃城の弟妹が廊下を走ってくる。 
      ずいぶん弟妹に慕われているんだな、とリョーマが思った次の瞬間、弟が桃城に頭突きを食らわす。 
      「のわっ!」 
      「俺の部屋からソフト勝手に持っていっただろ!?」 
      「あぁ?知らねーよ、机の下とか良く探したか?」 
      「!…も一回探す!」 
      「お兄ちゃん!洗濯物ちゃんと出しとけってお母さんが怒っていたよ!ついでに私までいろいろ言われちゃうんだからちゃんとしてよね!」 
      「へいへい」 
      現れたときと同様にドタドタと走り去ってゆく二人を呆然と見送りながら、リョーマがぼそっと呟く。 
      「桃先輩……お疲れ様っス…」 
      「ははは…」 
      一応台所の母親に挨拶をしてから階段を上がって桃城の部屋に向かう。部屋のドアを開けた途端目に飛び込んできた光景に、リョーマは唖然となった。 
      「桃先輩……足の踏み場が…ないっス」 
      「あー、悪ぃ悪ぃ、ちょい待ってろ。スペース作るから」 
      床が見えないほどに散らばったMDやCDやゲームのソフト、そしてテニスから漫画まである様々な雑誌を種類に関係なく手に取った順に積み上げて部屋の隅に押しやり、脱ぎっぱなしの服をまとめてその上に放り投げる。 
      そんな荒っぽい桃城の片づけ方に笑いを堪えながらリョーマはふと、あまりに違う手塚の部屋を思い起こす。 
      いつ、どんなに突然訪れても決して乱れていることのない手塚の部屋。 
      きっともう、目を閉じて入っても、リョーマはどこに何があるか思い出せる。 
      そしてそんな手塚の部屋に入っていきなり抱き締められたことが何度もあった。 
      そう言えば以前、靴下を片方なくしたこともあったが、あの靴下は結局見つかったのだろうか、などと思い出しているうち、リョーマの心が切なく軋み始めた。 
      どうして手塚はあの日以来、自分を見ていてくれないのだろう。 
      どうしてあの日のことを、言葉にして怒ってくれないんだろう。 
      どうして…どうして………! 
      「おい」 
      リョーマが驚いたように顔を上げると、桃城の顔が間近にあった。 
      「もう入ってもいいぜ」 
      「…うん」 
      「なんか飲みモン持ってくるから、その辺に座っとけ」 
      「ういっス」 
      とりあえず広いスペースのできた部屋に入り窓際に行くと、リョーマはベッドに寄りかかるようにして床に座った。 
      一人になると、やはり溜息が漏れ出てしまう。 
      どんなに振り払おうとしても、浮かんでくるのは手塚のことばかり。 
      確かにあの日、悪かったのは自分だ。小さな少女相手に、対抗心を燃やしてしまったことは認める。 
      もしも手塚があの日のことをちゃんと怒ってくれたなら、素直に謝るつもりもあった。それなのに、手塚は何も言わずに自分を視界から締め出すかのような振る舞いをする。 
      それほど怒っているのだろうか。 
      だが今日、部室で彼とすれ違ったときに感じた気配は、自分に対して怒りを持っているというものではなかった気がする。 
      こんな時、感情が表情に出てこない手塚を恨めしく思う。 
      ただ一つはっきりとしているのは、こんな状況になっても、自分は手塚が好きで好きでたまらないと言うことだけだった。 
      (くにみつ……) 
      今頃何をしているのだろう。 
      あの少女のために夕飯の支度をしているのだろうか。 
      手塚にまとわりつく少女の、勝ち誇ったような顔を思い出し、リョーマの胸がキリリと痛んだ。 
      悔しさと切なさと自分に対する情けなさがごっちゃになって、ひどく息苦しい。 
      喘ぐように大きく息を吸い込み、一気に吐き出した。それでもまだおさまらない。 
      「……くそっ」 
      「気にいらねぇな…」 
      リョーマが呟いて唇をかみしめた、その時、ドアに寄りかかった桃城が硬質な声でそう言った。 
      「…桃先輩…?」 
      桃城はゆっくり部屋に入ると、リョーマから視線を外さずに、後ろ手にドアを閉めた。 
      無言のままリョーマに近づき、手に持っていた缶ジュースを差し出すと、リョーマの傍に腰を下ろす。 
      「サンキュ」 
      リョーマが礼を言ってジュースを受け取る。 
      「越前」 
      「なんスか」 
      心の中の微かな動揺を隠して、リョーマがいつものように返事をする。 
      「お前、さっきからずっと『あの人』のこと考えてるだろ」 
      「べつに」 
      「嘘つけ」 
      渡されたジュースの缶を開封するでもなく手の上で転がして弄ぶリョーマを探るように見つめると、桃城は普段と少し違う低めの声で呟く。 
      「苦しくてたまりません、って顔してやがるぜ」 
      「気のせいっしょ」 
      桃城はプルタブを引っ張って封を切ると、ゴクゴクッと一気に半分程まで喉の奥に流し込んだ。 
      「…越前」 
      「…なんスか」 
      リョーマが桃城に視線を合わせると、抉るように見つめてくる瞳とぶつかった。 
      リョーマの中で、何かが小さく警鐘を鳴らし始める。 
      「お前、『あの人』とはどういう関係だ?」 
      「…なんのこと…」 
      「どこまでいった?」 
      シラを切ろうとするリョーマの言葉など聞かないつもりなのか、桃城が畳みかけるように言葉を続ける。 
      「もうヤったのか?」 
      「………っ」 
      答える代わりに頬を染めてしまったリョーマを見て、桃城は舌打ちした。 
      「…くっそぅ……意外に早かったな……」 
      リョーマは桃城を睨み付けた。 
      「なんスか、それ」 
      「まんまだよ。もっとカタブツかと思ってた」 
      溜息混じりにそう言うと、桃城は残りの半分を一気に飲み干した。 
      大袈裟に息を吐いてから、もう一度リョーマを見つめてくる。 
      だがその瞳は先程までのものとはうって変わってやわらかなものだった。 
      「いっぺん聞いてみたかったんだよなーそこんとこ。で、王子様は何を悩んでいるんだ?」 
      「は?」 
      リョーマは拍子抜けしたような声を出してしまい、慌てて桃城から目を逸らした。 
      「お前、最近ずっと変だっただろ?お前が変だとこっちも調子出ねぇんだよ」 
      頭をクシャクシャと掻き回されて、リョーマは緊張していた心を緩めた。 
      「べつに…桃先輩に言っても仕方ないし…」 
      「おいおい、そりゃねぇだろ」 
      いつものように頭を掻きながら桃城が苦笑する。 
      「だが越前、お前がここに来たってコトを『あの人』が知ったらどうなるんかねぇ?」 
      桃城の瞳が、一瞬先程の光を帯びた。 
      「え…?」 
      思ってもみなかったことを言われて、リョーマは目を丸くする。 
      「『あの人』は俺がお前のことをただの後輩としてじゃなく好きだってのを知っているんだぜ?」 
      「………」 
      「当然、何かあったって疑うよなぁ?」 
      「あ……」 
      「お前、今、ヤケ起こしてるしな」 
      一言一言、言いながらにじり寄ってくる桃城から逃れるように身体をずらそうとするが、リョーマの後ろのベッドが逃げ道を完全に塞いでしまっていた。 
      「諦めろよ越前。力じゃ俺には勝てねえだろ?ケガするぜ?」 
      リョーマの瞳が大きく見開かれた。 
      
 
 
  「こんばんは、僕は不二周助。よろしくね」 
      「俺は菊丸英二!『菊ちゃん』でいいからね!よろしくにゃ!」 
      小さな少女の目線に合わせて屈み込んだ不二と菊丸が、それぞれに自己紹介する。 
      二人の笑顔に包まれて、少女の頬がほんのり染まった。 
      「あ……あたしは真唯子。仲良くしてあげてもいいわよ」 
      「ありがとう、真唯子ちゃん」 
      不二がとびきり優しげに微笑むと、少女の頬はますます赤みを帯びた。 
      「かっわいいウサちゃんだね。俺の部屋にはこーんなでっかいクマがいるよ」 
      菊丸が少女の腕の中のぬいぐるみを見ながら「こーんな」と両手を大きく広げ、人なつっこく笑う。 
      少女の瞳がキラキラと輝いた。 
      「あなた達もテニス、上手なんでしょ?」 
      「手塚ほどじゃないけどね」 
      「うんうん、手塚は凄すぎだからにゃ〜」 
      大好きな手塚のことを褒められて、少女は上機嫌になる。 
      「国光、ステキなお友達ね!」 
      「……まあな」 
      三人の様子を少し離れたところから見つめていた手塚は、不二と菊丸の『天使の微笑みダブルス』の威力に感心していた。 
      「夕飯の支度をしてくる」 
      「あ、手伝うよ」 
      「いや、お前たちは真唯子の相手をしてやってくれ」 
      手塚はそう言うと、青いデニム生地のエプロンをつけてキッチンに入っていった。 
      それを黙って見送った不二が視線を少女に戻すと、改めて優しく微笑みかけた。 
      「真唯子ちゃんは、手塚が好きなの?」 
      「ケッコンするの」 
      「……そうか……」 
      不二がちょっと寂しげな顔をしたので、少女はどうしたのかと見つめた。 
      「残念だなぁ………そっか…手塚がいいんだ……」 
      「え?」 
      「俺も残念だにゃ〜…」 
      「え……?」 
      少女は先程から顔を赤くしたまま、輝く瞳で二人を交互に見る。 
      「どうして残念なの?」 
      「だって、真唯子ちゃんこんなに可愛いのに……もう手塚に決めちゃってるなんて……」 
      「!?」 
      寂しそうに微笑む不二の顔を見て、少女の顔がまた一段と赤くなった。 
      「べ、……別に決めちゃってないわ。今のところ国光が一番目なだけなの」 
      「じゃあ、僕を二番目にしてくれる?」 
      「あ、ズルイぞ不二〜!じゃあじゃあ、俺は三番目ね!」 
      不二と菊丸が嬉しそうに順位を競うので、少女の機嫌はますます良くなる。 
      「いいわよ、二番目は不二さんで、三番目は菊ちゃんね」 
      すっかり少女が気を許してきたのを感じ取ると、不二はスッと立ち上がった。 
      「ちょっと待っててね」 
      少女に気付かれないように菊丸に目で合図を送ると、菊丸もそっとVサインを送って寄こす。 
      立ち上がった不二はそのままキッチンへと入っていった。 
      「手伝おうか?手塚」 
      「いや、そんなに大したものは作らん。大丈夫だ」 
      不二を振り返らずに手塚はそう言うと、綺麗に切り分けた材料を鍋に移した。 
      「今頃、越前くんがどうしてるか、気にならない?」 
      「…………」 
      無言のまま、その話題を拒む背中に向かって不二が言葉を続ける。 
      「もう手遅れかな……チャンスはモノにするヤツだからね、桃は…」 
      手塚が手を止めて振り向く。 
      「…どういうことだ?」 
      「桃が越前くんを『お持ち帰り』するって言っていたんだって。英二がさっき部室で聞き出してくれたんだ」 
      「!」 
      「手塚が真唯子ちゃんばかり構うからこんな事になるんだよ。越前くんは絶対に自分を裏切らないとでも思っているのかい?」 
      手塚は不二を睨み付けた。 
      「…越前は桃城の家にいるのか?」 
      「たぶんね」 
      手塚はエプロンを脱ぎ捨てた。 
      「行くの?散々無視していたくせに」 
      不二の切れ長の瞳が冷たく手塚を見る。 
      「…そうじゃない…っ!俺は………っ」 
      言いかけた言葉を呑み込んで、手塚はキッチンを飛び出した。 
      「真唯子を頼む!」 
      言いながら大股で玄関に向かい、その勢いのまま外へ出てゆく。 
      「?…国光はどうしたの?」 
      「大切なものを忘れて来ちゃったんだ。取り返しに行ったんだよ」 
      「大切なもの?」 
      不二が微笑んで頷いた。 
      「世界で一番、大切で、大事なものだよ」 
      「真唯子より?」 
      優しげに微笑む不二と菊丸を見て、少女は唇を噛み締めた。 
      
 
 
  「で、オレをどーする気?桃先輩」 
      「この状況でそう訊くか?フツー」 
      後ろに下がることをベッドに阻まれたリョーマは、しかし、怯える様子はなく、強気な笑みさえ浮かべて、正面から桃城を睨み返した。 
      「好きだぜ、その瞳………ったく、マジで理性飛びそう」 
      「ふーん、まだ飛んでないんだ」 
      「飛んでたらお前、今頃ベッドの上で俺に服破かれてるぜ?」 
      「………」 
      さすがのリョーマも桃城の直接的な言い方に、一瞬身体が強ばる。 
      だがリョーマの瞳に宿る強い光はさらに鋭く輝き、まるで臨戦態勢に入った、ネコ化の肉食獣のそれを思わせた。 
      桃城はクッと笑うと、素早い動作でリョーマのおでこにチュッと音をたててキスをした。 
      大きく溜息を吐きながら身体を離す桃城を見て、リョーマは少しだけ身体の力を抜く。 
      「今ヤれるかよ…いつ部屋に弟たちが入ってくるかわかんねえのに」 
      「あ……」 
      「それに、たぶんそろそろかかってくるぜ、デ・ン・ワ」 
      「え?」 
      桃城が苦笑する。と、ほぼ同時に下の階で電話のベルが鳴った。 
      「ほーら、来なすった!」 
      すぐに桃城の母親が階段の下で呼ぶ声が聞こえる。 
      「武ーっ、電話!テニス部の先輩だって!」 
      「あいよ〜!」 
      大声で返事をして立ち上がると、桃城はリョーマを振り返ってニカッと笑う。 
      「スリル満点だっただろ?」 
      「……まあね」 
      「ったーく、強がりやがって、可愛くねえな、可愛くねえよ」 
      そう言い残して桃城が部屋を出てゆくと、リョーマは今度こそ全身から力を抜き、ズルズルと崩れていった。 
      (オレってバカ…?) 
      桃城が見かけによらず紳士で良かった、と心底リョーマは思った。 
      そしてそれと同時に、桃城の誘いの意味を深く考えないで、軽率な行動をしたことをひどく後悔した。 
      (電話って……まさか、くにみつ?) 
      リョーマはバッグを担ぐと、様子を伺うように階段をゆっくり下りていった。 
      電話で話す桃城の声が聞こえてくる。 
      「そ−っスか、わかりました。………ういっス、………失礼します」 
      受話器を置き、溜息をついている桃城の背中に、リョーマは話しかけづらそうに声をかける。 
      「桃先輩…」 
      「おう越前、『あの人』が迎えに来るってよ。よかったな」 
      「今の電話は…」 
      「ああ、青学No.2の天才から。スッゲー怖い声だったぜ」 
      身震いしながら桃城が言うのを見て、リョーマは苦笑した。 
      「帰るのか?、越前」 
      リョーマはこくんと頷く。 
      「女の子じゃあるまいし…迎えに来てもらって帰るのもヤだから」 
      桃城は声を立てて笑った。 
      「そりゃそーだ。でもそこまで送らせろよ」 
      「……」 
      リョーマは困ったように少し笑うと、玄関で靴を履いて外に出た。 
      道路に足を踏み出したところでこちらに向かって走ってくる足音に気付く。 
      「…………部長……」 
      傍まで走ってきた手塚が、息を乱しながらリョーマと対峙する。 
      「どうしたんスか?そんなに慌てちゃって」 
      言葉はいつも通りに生意気だが、不敵に笑おうとしたリョーマの表情は強ばってうまく笑えなかった。 
      「…リョーマ」 
      息を整えようと、大きく深呼吸してから手塚がリョーマの名前を呼んだ。 
      それだけでリョーマの心の中に熱いものがこみ上げてくる。 
      「早かったっスね、手塚部長」 
      桃城が玄関から出てくる。 
      手塚はチラッと桃城に視線を走らせたが、返事はせずにリョーマの腕を取った。 
      「帰るぞ」 
      「………」 
      黙ったままでいるリョーマの腕をひいて手塚が歩き出す。 
      「じゃーな、越前、今日は楽しかったぜ!」 
      桃城を振り返ってペコリと頭を下げながら、リョーマは手塚に引かれるまま歩いていった。 
      
 
 
  手塚が作りかけていた料理を不二と菊丸が適当に完成させると、少女を囲んで食事を始めることにした。 
      自分を置いて手塚が出ていってしまったことに初めは大きなショックを受けていた少女も、不二と菊丸の豊富な話題にいつしか引き込まれ、目を輝かせて二人と楽しい時間を過ごしていた。 
      途中、何かのタイミングを計っていたように突然電話をかけに立った不二が戻ってくると、ちょうどそこへ、手塚の祖父・国一が夕方からの頼まれごとを終えて帰宅した。 
      「国光はどうした?」 
      部屋を見回して手塚がいないことに気付いた国一が怪訝そうに二人を見た。 
      「あ、えーと、ああ、あのっ」 
      菊丸が狼狽えて言い淀むのを制して、不二が「実は」と話し始める。 
      「大きな悩みを抱えている一年生がいまして、僕達ではどうしてあげることもできないので、手塚くんがその悩みを聞いてあげに行きました。でも真唯子ちゃんを連れて行くわけにもいかないし、かと言ってここに一人にしておくわけにもいかなくて、それで僕達が手塚くんの代わりに真唯子ちゃんのお相手をすることにしたんです。差し出がましいことをして、申し訳ありません」 
      不二がまことしやかに一気に話すと、申し訳なさそうに頭を下げる。菊丸も一緒に頭を下げてみた。 
      それを見た国一は心底感心したように頷いた。 
      「さすが国光。人の上に立つ者は下の者への思いやりを忘れてはいかん。それに君たちのなんという礼儀正しさ。類は友を呼ぶ、か。我が孫ながら、誉れ高き男よ」 
      笑いを堪えている菊丸を肘でつつきながら、不二がこっそり「全部が嘘でもないでしょ?」と微笑んだ。 
       「国光の大切な忘れ物って、『えちぜんりょーま』なの?」 
      風呂へ向かった国一の姿が消えると、少女が不二の袖を引っ張った。 
      「越前くんに会ったことあるの?」 
      「…うん」 
      「そっか……うん、そうだよ。越前くんは、手塚にとって宝物なんだ」 
      「宝物…」 
      少女は片時も離さずに抱き締めているウサギのぬいぐるみを見た。 
      「…じゃあ本当はいつも一緒にいて、誰にも触らせたくないのね」 
      不二は黙って少女を見つめた。 
      「国光の宝物は『えちぜんりょーま』、あたしの宝物はこの子………じゃああたしも、誰かの宝物なの?」 
      「決まっているでしょ?真唯子ちゃんのお父さんと、」 
      「お母さんにゃ!」 
      不二と菊丸の本物の笑顔に、少女は大きな瞳をみるみる潤ませてゆく。 
      「お母さん……っ、真唯子のこと嫌いになっちゃったのかと思ってた……」 
      「そんなこと絶対ないよ。きっと真唯子ちゃんのお母さんも、真唯子ちゃんに会いたくてたまらなくて、だから今、一生懸命に頑張っているんだよ」 
      やわらかな不二の言葉に頷いた少女の目から大粒の涙がこぼれた。 
      「へーきへーき、大丈夫!すぐ良くなってお迎えに来てくれるよ!真唯子ちゃんのお母さん」 
      「うん!」 
      少女は、年相応の笑顔をやっと浮かべることができた。 
      「…でもさ、不二、あの二人…大丈夫かにゃー…」 
      心配そうに呟く菊丸をチラッと見やり、不二はクスッと楽しげに笑った。 
      「…不二?」 
      「大丈夫だよ。ねえ、英二、うちの部室の鍵、だいたいいつも大石が管理してるのはなんでだと思う?」 
      「副部長だから」 
      「じゃあ、どうして部長は管理しないの?」 
      「ありゃ?そーいえばそーにゃ???」 
      不二は思い切り含みのある微笑みを浮かべた。 
      「越前くん、壊されないといいけど」 
      不二の言おうとしていることが何となく分かった菊丸は、少女を横目で見ながら狼狽える。 
      「ふ……不二っ」 
      「宝物なのに、国光は『えちぜんりょーま』を壊しちゃうの?どうして?」 
      「あわわっ、不二が変なこと言うから…!」 
      不二は切れ長の瞳を真っ直ぐ少女に向けてから優しげに細め、ふっと笑いかけた。 
      「大事すぎて、自分の手で壊したくなるときもあるんだよ……真唯子ちゃんも大きくなったら分かると思うけどね」 
      「ふぅん」 
      「不二〜」 
      菊丸の動揺を余所に、不二が窓から見える月を仰いだ。 
      風のない、静かな夜だった。
 
 
 
  「ねえ」 
      「…………」 
      「ねえ!…どこ行くんスか?」 
      自身の家とは違う方向へ、見慣れた道を手塚が無言のままリョーマを引っ張ってゆく。 
      まさかと思い、リョーマは行く先を尋ねるが、先程から手塚は何も喋ってくれない。 
      (でもこのままこの道を進むと……) 
      数時間前までいた、見慣れた建物が見えてきた。 
      「なんで学校なんか……っ」 
      手塚は迷いもせずに裏門の方へ回り、利用する者のほとんどいない小さな通用口を通り抜ける。 
      「なんで開いてんの?」 
      そのリョーマの問いかけにも答えずに、手塚はテニスコートの横を抜け、部室の前で足を止めた。 
      チャリ、っと音をさせて、手塚が取り出したキーホルダーから、ひとつの鍵を選び出す。 
      微かな月明かりを頼りに鍵穴にその鍵を差し込むと、カチャッと音がして簡単にドアが開く。 
      「…なんで鍵持ってんの?」 
      手塚はまだ無言のまま、リョーマの腕を引っ張って部室の中に乱暴に引き入れると、今開けたばかりの鍵を後ろ手にロックした。 
      リョーマはバッグを肩から下ろすと、溜息をついて手塚を睨み付けた。 
      「なんか喋ってよ」 
      「なぜ桃城について行った?」 
      リョーマは目を見開いた。どう説明すればいいのか分からずに手塚から目を逸らす。 
      手塚がリョーマにゆっくりと近づいてゆく。 
      「なぜ答えない?」 
      「……うまく、言えない…」 
      「俺の目を見ろ」 
      リョーマは顔を上げて手塚を見た。 
      窓から差し込む月明かりに照らされて、手塚の瞳が鋭く光っている。 
      リョーマは心のどこかで、そんな瞳を綺麗だと感じつつ、だが、身体の方は微かな恐怖に竦み上がった。 
      「何か………されたか?」 
      リョーマは首を横に振る。 
      「どこか、触られたか?」 
      もう一度リョーマは首を横に振る。 
      手塚の手がリョーマの肩に置かれた。リョーマの身体がビクッと揺れる。 
      強い力で肩を掴まれ、乱暴に引き寄せられた。 
      まるで何年も逢っていなかった恋人を抱き締めるように、手塚の腕がリョーマの細い身体を軋ませる。 
      「…くにみつ……苦し…っ」 
      「黙ってろ」 
      手塚の唇が、そっとリョーマの髪に触れる。 
      手塚の指が、リョーマの髪を撫でる。 
      「リョーマ…」 
      呻くようにリョーマの名を呼びながら、再びきつく抱き締めてくる。 
      強く強く抱き締められて、リョーマは手塚の切なさが心に流れ込んでくるような気がした。 
      切なくて、苦しくて、胸が痛くてたまらない。 
      リョーマは堪えきれなくなって手塚に思い切りしがみついた。 
      「………くにみつ…ごめん……っ」 
      リョーマが小さな声で呟くと、手塚は何度も何度もリョーマの髪を撫でた。 
      そっと、リョーマの顔を覗き込むようにして額をすりあわせると、手塚の唇がリョーマの唇を掠めては離れてゆく。 
      リョーマが手塚の唇を捕らえようと追いかけると、手塚が食らいつくかのように口づけてきた。 
      「んんっ」 
      いつにも増して激しく唇を貪られ、リョーマはうまく呼吸することができずに手塚から逃れようと藻掻く。 
      唇を逸らしてやっと酸素を取り込むと、すぐにまた手塚の唇に捕らえられてしまう。 
      次第に朦朧としてくる意識の中で、リョーマは自分の身体がゆっくりとベンチに倒されてゆくのを感じていた。 
       シャツのボタンをもどかしげにすべて外し終えると、手塚はリョーマの滑らかな肌に手を這わせる。 
      ずっと歩いていたせいか手塚の手がいつもよりも熱くて、リョーマの身体がビクッと揺れた。 
      「部室でするのはイヤじゃなかったんスか?」 
      手塚の手の動きに身体を震わせながらリョーマが小さく笑った。 
      「今日だけだ」 
      そう呟きながらリョーマの胸にある小さな突起を口に含む。 
      「あ……っ」 
      いきなりきつく吸い上げられてリョーマが甘い声を漏らす。 
      ふいに手塚が顔を上げてリョーマを見つめて来た。リョーマはその気配に気付いて手塚を見つめ返す。 
      「嫉妬に狂った男は見苦しいか?」 
      手塚が苦しげにリョーマへ問いかける。 
      リョーマはゆっくりと首を横に振った。 
      「最初に嫉妬したのはオレの方じゃん」 
      「……そうでもないぞ」 
      「え?」 
      手塚はリョーマの頬を撫で、その手を再び胸に移動させる。そのまま脇腹まで手を滑らされて、リョーマは微かに身体を捩った。 
      「真唯子が、お前を気に入ってしまうかと思った…」 
      「は?」 
      手塚の口から意外な言葉を聞いたリョーマはしばらく何も言えなかった。 
      「そんなわけないじゃん……あの子はアンタとケッコンする気で……」 
      「そうだな…いらん心配だった」 
      手塚の唇がリョーマの頬に落とされる。 
      「ねえ……ああ言う気が強い子、好き?」 
      「…俺にはお前くらい強くないと物足らない」 
      「なにそれ」 
      リョーマがクスッと笑うと手塚がまたジッと見つめてくる。 
      「……なに?」 
      見つめたまま何も言わなくなってしまった手塚を不審に思って、リョーマが問いかける。 
      「誰かを本気で好きになると言うのは……甘い感情だけではないのだな」 
      「…え?」 
      「お前が奪われるかもしれないと考えて…………気が狂いそうになった」 
      「…」 
      呻くように吐き出された手塚の言葉に、リョーマは目を見開いた。 
      手塚がリョーマに覆い被さり、きつく抱き締めてくる。 
      「くにみつ……」 
      「不可能だと分かっているのに…お前を独占したいと思ってしまう…」 
      「オレだって、アンタのこと独り占めしたい…でも、できないっスよね…アンタ『部長サマ』だし、おまけに『生徒会長サマ』もやってるし」 
      言葉を遮るように手塚がリョーマに口づける。リョーマも手塚を抱き締めながら、それに応えた。 
      「最近は…桃城だけじゃなくお前が他の誰かと話しているだけで、冷静さをなくしそうになる」 
      「だからオレのこと見ないようにしていたの?」 
      「ああ……ただでさえそうなのに、真唯子のことで日曜が潰れたからな……」 
      「オレに触ったら、我慢できなくなりそうだった?」 
      「………」 
      手塚は言葉では答えずに、もう一度リョーマに熱く口づける。 
      「オレも同じだったよ……アンタと目があっただけでヤバかったから…」 
      唇の隙間からリョーマがそう呟くと、手塚の理性の最後の糸が切れたかのように、激しく舌を絡め取られた。
    
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