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       「あれ?部長は?」 
      練習開始時間を過ぎてコートに現れたリョーマは、予想していた怒声が飛ばないことを訝しんで誰ともなく聞いてみる。 
      「模擬試験受けるんだって」 
      「よかったね、おチビ」 
      ペアを組んでストレッチをしながら不二と菊丸が応える。 
      「ふーん…先輩達は受けないんっスか?」 
      「だってココ、エスカレートだもん」 
      いつもの微笑みをさらに柔らかくして、不二が菊丸に「ね?」と同意を求める。 
      「手塚と大石は真面目すぎだニャ」 
      「データとるのが好きな乾は分かるけどね」 
      つまり、全国の中で、自分の学力がどの程度なのかを確認するために3人は近くの会場へ模擬試験を受けに行っているらしいのである。 
      「ふーん…」 
      興味なさそうな顔でウォーミングアップを始めようとするリョーマに不二が「ちなみに」と付け加える。 
      「手塚は午後の練習には参加するって。会場すぐそこだしね」 
      「……そうっスか………何すか?不二先輩」 
      クスッと笑われた気がしてリョーマはちらりと睨み返す。 
      「いや、なんか似てるから」 
      「……?」 
      「おーいっ、遅いぞ越前!アップできたか?」 
      「いや、まだっス。今来たんで」 
      誰と似ているのか不二に確認できないまま、リョーマは桃城に促されてアップを開始した。 
       
      抜かりなく用意された練習メニューをこなしながら、リョーマは違和感を感じていた。 
      (へんな感じ…) 
      『違和感』の原因は何となく分かっていたが、それはあくまで『何となく』であって確信できるものではなかった。 
      しかも、それを『原因』と認めるのにはちょっと抵抗があった。 
      「手塚部長がいないと変な感じだよね〜」 
      自分の後ろでボールを拾いながら、カチロー達が小さい声で話しているのがリョーマの耳に入ってきた。 
      (なんだ、みんなそう思っていたんだ) 
      そうして、ふと考える。 
      『手塚がいないせいで違和感を感じている』ことを、どうして自分は認めたくなかったのだろう? 
      きっと部員の誰もが感じていた違和感だった。自分だけではない、当たり前の感情。 
      なのに、なぜ自分はそれを認めるのに、ささやかな抵抗を感じたのだろう… 
      確かにリョーマは手塚に対して、他の先輩達とは違う感情を持っている。それは手塚と交えた一度きりの試合の後に生まれた。 
      中学生とは思えない圧倒的な強さの前に成す術なく敗北したあの日。 
      目の前が真っ白になるほどの、強烈な悔しさと共に湧き上がった対抗心。そしてそれは、リョーマが手塚を一流の「テニスプレーヤー」として認めた瞬間でもあった。 
      あの日以来、片時も手塚との試合を忘れたことはなかった。 
      手塚のフォームも、打ち返す瞬間の感触も、打ち返される球筋も、一つ一つが鮮やかにリョーマの記憶の中に刻まれていて、それを思い起こすたび悔しさに唇を噛んだ。 
      試合の後で、手塚の表情はいつもと変わらなかった。多少息は乱していたが、試合の運びも、結果さえも手塚の思い通りにされたように感じて、リョーマはさらに悔しさを募らせた。 
      (絶対に追い越してやる…!) 
      『いつか』なんて先のことではなく、手塚がリョーマの傍にいるうちに必ず、と心に誓う。 
      きっと手塚はいつか世界へ飛び立つのだろう。自分とは違う道を、もしかしたら歩むかもしれない。将来なんて言葉は、今のリョーマの頭にはない。だから、今、手塚が傍にいるうちに、自分が手塚の傍にいられるうちに、彼を越えたい…と。 
      (いつまでも一緒にいるわけじゃないし…) 
      そう考えた瞬間、リョーマには覚えのない感情がチクリと心を掠めた。 
      (なに、今の…?) 
      知らない、でも本当は知っている。それは認めたくない、認めてしまうのが怖い感情…? 
      自分の感情の正体を掴み損ねてリョーマが一瞬動きを止めた、その時だった。 
      「危ないっ!」 
      誰かが叫んだ。 
      そして次の瞬間、身体ごと吹っ飛ばされたリョーマは意識を失ってしまった。 
       
       
       
      (ねえ) 
      その人の後ろ姿に、声をかけてみた。 
      (ねえ、こっち向いてよ) 
      その人を振り返らせたかった。 
      (ねえってば) 
      その人は少しだけ振り返り、リョーマをちらりと見やると、すぐにまた背を向けてしまった。 
      (何でこっち向いてくれないの?) 
      リョーマの存在などまるで眼中にないというように、その人はどんどん歩いていってしまう。 
      (オレを見てよ、オレのことを…!) 
      次第に小さくなる後ろ姿はきっぱりとリョーマを拒絶している。 
      (どうして…どうしたらこっち向くの?) 
      悔しかった。だがそれよりも悲しかった。 
      自分の存在は、その人にとってどれほどのものなのかはっきり思い知らされた気がした。 
      そしてその人の姿が視界から完全に消えた瞬間、リョーマは切なさにも似た喪失感に包まれた。 
      (アンタがいないと…いやだ……!) 
       
       
      「おチビ!」 
      何の脈絡もなく、その叫びが聞こえてきた。 
      「あ…?」 
      「よかった、軽い脳しんとう起こしただけみたいだね」 
      「大丈夫か、越前?」 
      自分を覗き込む先輩達の顔が次第にはっきりとしてくる。 
      「なんで寝てるんスか、オレ…?」 
      「悪ぃな、俺の下敷きにしちまった」 
      心底すまなそうに桃城が頭を掻きながらリョーマに詫びた。 
      どうやら自分の思考に捕らわれていたリョーマは隣のコートからボールを追いかけてダッシュしてきた桃城と接触し、そのまま倒れ込んで下敷きにされてしまったらしい。その際に脳しんとうを起こして、数十秒間意識を失っていたようだ。 
      「数十秒?」 
      1分も経ってないと言われて、リョーマは溜息をついた。 
      数十秒の間に垣間見た妙な光景が、感情を伴って蘇る。 
      「…どっか痛いニャ?」 
      「痛くないっス」 
      「でも…」 
      菊丸に顔を指さされて、リョーマは自分の目から滴が伝い落ちているのに気が付いた。 
      「…桃先輩のヨダレ?」 
      「アホ」 
      「とりあえず保健室に行こう。今日は活動している部が多いから保健の先生が出てくれてるはずだよ」 
      リョーマは不二の言葉に救われた気がして、そっと、今度は安堵の溜息をついた。 
      「よし、負ぶっていってやるよ」 
      「お詫びってヤツっスか?」 
      「まーな」 
      桃城の申し出を素直に受け、リョーマはその背中にしがみついた。 
      「僕も一緒にいくよ」 
      不二が名乗り出て、保健室に向かおうとしたとき、 
      「不二先パーイ、携帯鳴ってますよー!」 
      ベンチに置いてある不二の携帯を指さして1年が叫んでいた。 
      「先、行ってて桃城くん、後から絶対行くから」 
      『絶対行くから』のところでなぜか不二が開眼モードになったのを見て、リョーマは首を傾げた。桃城の方は、心なしか顔が強ばっている。 
      「不二先輩は怖ぇーよな、マジで」 
      「桃先輩?」 
      「行くぜ」 
      「はあ…」 
      目の前で繰り広げられたやりとりに何となく不穏な空気を感じつつも、リョーマの興味を引くには値せず、思考は先ほど零れた自分の涙の理由に吸い寄せられる。 
      「ねえ、桃先輩」 
      「んー?やっぱどっか痛ぇか?越前」 
      「いや、痛くないっス」 
      何となくタイミングを外して、聞こうと思ったことを呑み込んでしまう。そのまま沈黙しているうちに、保健室の前にたどり着いてしまった。 
      「ちーっす、あれ?先生?……いないみたいだぜ、越前。どうする?とりあえずベッドに横になるか?」 
      「うぃーっス」 
      不二が言っていたとおり、今日は日曜とはいえ活動している部が多いのか、遠くで運動部連中の声が聞こえる。だがその遠い音が、保健室の中の静寂を引き立ててしまう。 
      「少し眠るか?」 
      「あんま、寝たくないんスけど…」 
      さっきの続きを見てしまいそうで、という言葉はもちろん言わなかった。だが桃城は、何かを感じ取っていたらしい。 
      「夢でも見たのか?さっき。泣くほど悲しい夢?」 
      「……見てないっス、そんなの」 
      「誤魔化すなよ」 
      いつになく真剣な瞳で覗き込む桃城にリョーマは一瞬たじろぐが、さっき見た光景を話すつもりはなかった。 
      「涙出るほど重かったんスよ」 
      「俺はお呼びじゃないってか?」 
      「桃先輩、変」 
      何だかいつもの桃城ではない気がして、リョーマはだんだん居心地が悪くなってきた。早く保健室の主が帰ってこないかと、考え始めてしまう。 
      そんなリョ−マの様子に気付いたのか、桃城は視線をリョーマからはずして窓へと歩み寄り、ガラス越しにグラウンドを見やる。 
      「…手塚部長と…なんかあったのか?」 
      瞬時に否定の言葉が出せず、リョーマは少しの間沈黙してしまった。 
      「最近、おまえ、手塚部長のことよく見てるだろ?」 
      「……」 
      リョーマの沈黙を『肯定』と受け取ったのか、桃城は軽く舌打ちをした。 
      「やられた…手塚部長もそうだったのか…」 
      「桃先輩とはもうやったじゃん」 
      「へ?」 
      「試合…途中で止めちゃったけど」 
      「………試合?」 
      なんとも間の抜けた表情で振り返った桃城に、大きな目をさらに大きくしてリョーマはきょとんと見つめ返す。 
      「試合…したのか?手塚部長と?」 
      リョーマは小さく溜息をついて頷いた。 
      「強いっスね、あの人。今のオレじゃ全然届かないっス」 
      さっき見た幻が、リョーマの脳裏を掠める。 
      「きっとあの人はもうオレなんかに興味なくなっちゃったっスよね……あの人全然変わんないし……きっとオレがあんまり弱すぎてつまんないヤツとか思っちゃったんだ……」 
      手許のシーツを軽く握り込んで、リョーマは独り言のように小さな声で呟く。 
      「もっともっと強くなって、あの人の視界に入りたい…オレから目が離せなくなるくらい、強く…なりたい」 
      手塚の興味が自分だけに向いたらどんなに心地いいだろうとリョーマは思った。 
      手塚の瞳にリョーマだけが映り、手塚の唇はリョーマのことだけを熱く語る。そんなことを想像しているうちにリョーマは自分の顔が熱くなってきていることに気が付いた。 
      (なにこれ…顔、熱いし……なんかドキドキしてる……?) 
      そんなリョーマの様子を黙って見ていた桃城が、意を決したように声をかける。 
      「越前…」 
      はっと我に返り、リョーマは桃城を振り返った。その直後、リョーマの視界が青学レギュラージャージに覆われる。 
      リョーマは桃城に抱きしめられていた。 
      「…桃先輩?」 
      「俺じゃダメか?」 
      「なに……」 
      「俺ならいつもおまえの傍にいてやるし……俺だって今よりもっと強くなるぜ?」 
      桃城の言いたいことが全く分からないほど、リョーマも子供ではない。だが、突然の事態に頭が混乱する。 
      「ちょっ…オレ、男なんスけど?」 
      「知ってるよバーカ。性別なんかどうでもいいことなんだよ」 
      「ど、どーでもよくないっス!……うわっ」 
      力任せにベッドに押しつけられ、藻掻こうとするリョーマの腕は桃城に簡単に封じ込められてしまう。 
      「ふ…不二先輩が来るって……言ってたんスけど…」 
      「知らねぇな」 
      リョーマの両腕を左手でまとめ上げると、桃城は空いた右手をリョーマのシャツの中に滑り込ませた。 
      「やっ!」 
      「リョーマ…」 
      桃城の唇がリョーマの唇に触れかけたとき、保健室のドアがものすごい勢いで開かれた。 
      「越前!」 
      リョーマは突然開かれた入口に、思いもよらない人が立っているのを見て大きく目を見開いた。そして次の瞬間、この尋常ではない状況をその人に見られたと気づき、体中の血がひいていく気がした。 
      「桃城、何をしている?」 
      「…見たまんまですよ」 
      「グラウンド30周してこい…」 
      口調は穏やかだが、いつもより数段低くなった声音が、その人の怒りを表しているようだった。 
      桃城は溜息を一つつくと、リョーマに微笑みかけた。 
      「すまねぇ、越前。………グラウンド30周、行ってきます!」 
      入口に立つその人と目を合わさずに桃城は走り出ていった。 
      残されたリョーマは捲れ上がっていたシャツを直すと、いつもの飄々とした自分を演じながらその人に声をかける。 
      「模擬試験じゃなかったんスか?手塚部長」 
      「…………不二が……」 
      「え?」 
      手塚は眉間のしわを一層深くすると、真っ直ぐリョーマの元へ歩いてくる。 
      その勢いのままにリョーマの両肩を掴むと、身をかがめて覗き込んできた。 
      「いきなりおまえが倒れたと聞いた……大丈夫なのか?」 
      「……全然大丈夫っス」 
      その言葉を聞いたとたん、手塚は脱力したように下を向いて深い溜息をついた。 
      「不二のヤツ……午後はずっと走らせてやるっ」 
      「部長……模試は…」 
      「…抜けてきた」 
      リョーマはその手塚の行動の意味をはかりかねて戸惑った。しかし、自分の期待するようなことではないだろうと思い、舞い上がりかけた心を落ち着かせる。 
      「心配させてすみませんでした。練習に戻るっス。部長も模試に…」 
      「いい、もう間に合わん……それより…」 
      リョーマの肩を掴んだ手はそのままに射抜くように視線を合わせる。 
      「今のはどういうことだ?」 
      「先輩と後輩のコミュニケーションっスよ」 
      「……そうか」 
      あっさりと手を離す手塚に、『ああ、やっぱり』とリョーマは思う。 
      (オレなんかに興味ないよね) 
      ここに来たのだって部長としての責任感のために違いない、とリョーマは思った。部長の不在中に怪我人や病人を出してしまったら今後のテニス部の運営に支障が出るかもしれないからだ、と。 
      リョーマは手塚に気付かれないように少しだけ瞳を伏せると、さっき言った台詞をまた口にする。 
      「ホント、心配させてすみませんでした。…練習に戻るっス」 
      手塚本人を目の前にすると、先ほど見た幻影の中で感じた胸の痛みが強烈に蘇る。 
      振り返って欲しくて、自分を見て欲しくて、必死になって追いかけた。追いかけて追いかけて、手を伸ばした時に改めて知らされる手塚との距離。 
      せめて手塚の視界に入りたくて、強い瞳で見つめ続けた。見つめ続けているうちに、コート以外でも手塚を探すようになった。瞳に手塚の姿を映していたいと願うようになった。自分の瞳が、手塚に恋をしたのだとリョーマは思った。 
      そのうちに手塚の声が好きになった。後輩に向かってちょっとした指示を出すときの凛とした声も、自分を含めたレギュラー陣にアドバイスをするときの低めの声も、コーチと話をするときの冷静な声も、どんな声もリョーマには心地よく響いた。きっとどんなに大勢の中で発せられていても手塚の声を聞き分けることができると思った。自分の耳が、手塚の声に恋をしたのだとリョーマは思った。 
      ふとすれ違うときに手塚の香りを感じ取るようになった。その香りを感じると、一瞬大きく胸が鳴った。嗅覚まで、手塚に恋をし始めたとリョーマは思った。 
      そうして気が付けば、リョーマは全身で手塚に恋をしていた。でも心だけは恋などしないとリョーマは思っていた。いや、恋をしたくないと、思っていた。 
      しかし心は、どの器官よりも早く手塚に独占されていたのだ。 
      (ばっかみたい) 
      一番最初に手塚に独占された場所が、一番最後に事実を認めるなんて。 
      それでも、とリョーマは思う。 
      最初に認めようが最後に気付こうが、事態は何ら変わることはないのだ。 
      手塚にとってリョーマは『1年生レギュラーの越前』であり、それ以上でもそれ以下でもない。 
      確かに手塚の方から試合を申し込むことは異例のことのようだったが、それは「身の程を思い知らせる」ためのことであり、先輩として当然と言えば当然のことをしたとも思える。眉間にしわを寄せながらも、実は面倒見のいい、責任感の強い手塚なら尚更だ。 
      (特別視されてるとか、勘違いしたまま有頂天になる気はないしね…) 
      勘違いして有頂天になれればそれも幸せなのかもしれないが、現実に直面したときのダメージが大きすぎる。だからリョーマは期待なんかしない。自分が抱く恋心に気付いたところで、どうにもならない現実はあるものなのだと納得している。恋した相手が悪すぎた。せめて相手の記憶に越前リョーマという人間の存在を鮮やかに刻みつけてやりたいが、それすらも叶うかどうか時々不安がよぎる。 
      (好きになったら負けって言うし) 
      ベッドから足を下ろしながら、リョーマはそっと手塚の横顔を盗み見る。 
      残酷なもので、認めてしまった恋心は本人の意思に関係なく膨れ上がってゆく。ついさっきまでは見つめていたくてたまらなかった手塚の顔が、今は切なさと苦しさで正視できない。たまらずに手塚から目をそらすと、リョーマは心の中で呟く。 
      (ホント、まだまだだね) 
      早くオトナになりたいとリョーマは思った。オトナじゃない自分は、きっと膨れてゆく恋心を持て余してしまうんだろう。 
      だから、最初で最後の反撃をしたくなった。 
      「ねえ」 
      入口に向かって数歩歩いたところで立ち止まり、手塚を振り返らずに尋ねる。 
      「どうして模試、放り投げてきたの?…『部長』だから?」 
      手塚が顔を上げる気配がした。 
      「それとも」 
      リョーマはゆっくりと手塚の方へ身体を向ける。 
      「オレのことが好きなの?」 
      口に出して、虚しさが倍増した。「なーんてね」とすぐに笑って誤魔化そうと思っていたのに上手く笑えなかった。 
      手塚を見ると、眉間のしわがきつく刻まれている。 
      「…10周でいいっスか?」 
      逃げるように踵を返して出ていこうとするリョーマを、手塚の一言が引き留める。 
      「知っていたのか…」 
      「!?」 
      何か、とてつもなく重大な一言を聞いた気がしたリョーマは、しかし、すぐには自分の耳を信じることが出来ず、扉に手をかけたまま動けなくなっていた。 
      それでも数秒経って、何とか動けるようになると、ゆっくり手塚を振り返る。 
      手塚は眉間に深くしわを刻んだまま大きな溜息を吐くと、さっきまでリョーマが寝ていたベッドに腰掛けた。 
      それからしばらくの間、保健室の中には遠くから聞こえてくる生徒達の声だけが微かに響いていた。 
      「ねえ」 
      リョーマが先に沈黙を破った。 
      自分の声が鼓膜にピリッと衝撃を加える。 
      「どういう意味っスか?」 
      手塚がゆっくりとリョーマの方へ視線を移す。 
      「自分でも…今まで気付いていなかったようだ」 
      「……?」 
      いつもと変わらない手塚の仏頂面、に見えたのだが、よく見ると視線が彷徨っている。 
      「一科目が終わったところで変わったことがないかどうか不二に連絡を入れたんだ…そうしたらおまえが…越前が突然倒れて意識不明だと言われて…」 
      リョーマはちらりと、手塚に報告をする不二の笑顔を思い浮かべた。 
      (確かに突然「倒されて」「数十秒間」意識不明になったけど……) 
      「気が付くとここへ向かっていた……不二に、真っ直ぐ保健室に行けと言われて…」 
      そう言えば模試の会場はここからすぐ近くだと不二先輩が言っていたな、とリョーマは思い出した。 
      だからといって、こんなに短時間に来られる距離だったのだろうか?確かに突然入ってきた手塚は珍しく息を乱し、うっすらと汗をかいていたようにも見えた。 
      (全力で走ってきてくれたんだ…) 
      だんだんと、目の前の光景がリョーマの中で現実味を帯びてくる。 
      しかし現実味を帯びてくればくるほど、逆に本当のことには思えなくなってきてしまう。 
      (からかわれているのかも…) 
      「ここに来て…おまえと桃城を見るまでは…自覚がなかったんだが…」 
      「?」 
      「自覚するのが遅かったようだな……おまえと桃城がそう言う関係だとは知らなかった……私情で桃城を走らせるなんて…すぐ止めさせよう」 
      手塚が立ち上がった。リョーマの横をすり抜けてグラウンドに行こうとする。 
      「ちょっと待ってよ!」 
      話がややこしい方向に転がってしまっている。リョーマは慌てて手塚の腕を掴んだ。 
      「勝手にオレと桃先輩をくっつけないでくださいよ!」 
      「…?だが、さっき…」 
      「オレは嫌がっていたの!オレが部長のことばっか考えているから、桃先輩が『部長はやめて俺にしろ』って言って無理矢理……」 
      「…」 
      このときの手塚の表情を、リョーマは一生忘れないと思った。 
       
       
       
       
       
      「やあ、手塚、模試やめちゃったの?」 
      「不二………」 
      コートに入ってきた手塚とリョーマを見つけた不二は、ちょうど打ち合いの切れ目なのか相変わらずの笑顔で歩み寄ってきた。 
      「あ、おチビ〜大丈夫なのニャ?」 
      「うぃーっス」 
      打ち合い途中の菊丸も寄ってくる。他の部員達も寄っては来ないものの、こちらに関心を寄せているのがわかる。 
      「もう大丈夫そうだね、越前くん」 
      「うぃーっス」 
      「よかったね、明日からちゃんと練習に打ち込めるよね?」 
      不二が思いっきり含みを持たせて微笑んだ。 
      「う…うぃーっス」 
      「あ、でも手塚、今日は越前くん大事をとってもう上がらせた方がいいんじゃない?送ってあげたら?」 
      「…そうだな。帰るぞ、越前。着替えろ」 
      リョーマはちょっと抗議の声を上げかけたが、不二にニッコリと微笑みかけられて素直にならざるを得なかった。 
      部室へ向かうリョーマを見送りながら、手塚はゆっくりと腕を組んだ。 
      「不二……いつから気付いていた?」 
      「なんのことだい?」 
      汗を拭きながらにこやかに不二が応える。小さく溜息をつく手塚を見て、不二は言葉を続けた。 
      「僕はね、越前くんを結構気に入っているんだ。寂しそうな顔はさせたくなかっただけ」 
      「……礼を…言った方がいいようだな」 
      「いいよそんなの。………ただね、手塚」 
      不二が一瞬微笑みを消し、切れ長の目を手塚に向ける。 
      「もう泣かせないでね」 
      「……ああ」 
      不二のキツイ眼差しを真正面から受け止めて、手塚は頷いた。 
       
       
       
      「なんか変な感じ」 
      「何がだ?」 
      リョーマと手塚は二人並んでバスの後部座席に座っている。休日の昼間、ほとんど通学用にしか使われていないバスの中には乗客は数えるほどしかいない。 
      「こんな明るいうちから部長とふたりっきりでバスに乗ってるのが」 
      「まあな」 
      緩いカーブにさしかかり、自然と二人の身体が密着する。 
      「なんかヤバイ…」 
      「…何がだ?」 
      「心臓壊れそう」 
      「……そうだな」 
      リョーマは長いカーブにかこつけて手塚の肩に頭を乗せてみる。途端に手塚の身体が強ばるのを感じて、何だか嬉しいような、おかしいような、泣きたくなるような…たくさんの感情の中で目を閉じた。 
      直線コースになってもリョーマは手塚に寄りかかったまま離れようとしなかった。 
      「次、カーブきついぞ」 
      「え…」 
      右折のため、運転手がテキパキとハンドルを回しにかかる。 
      今まで寄りかかっていた方と逆の遠心力がかかり、リョーマの身体が手塚から離れる、と思った瞬間、リョーマの視界が手塚の手で覆われた。その直後にリョーマの唇に触れたやわらかな感触。 
      カーブを曲がりきったバスは、また直線コースに乗って快適なスピードで走り始める。 
      「ぶ…ちょう?」 
      「すまん」 
      手塚の仏頂面の頬が微かに赤くなっている。リョーマの方は耳のあたりまで真っ赤だ。 
      「テクニシャン…」 
      「次で降りるのだったな」 
      「…ういっス」 
      鼓動がうるさくて、リョーマの声が小さくなってしまっていた。 
       
       
      「部長、ちょっとやっていきませんか?」 
      「?」 
      「コートあるんで」 
      「ああ…」 
      何のために早く帰らせたんだ、と言おうとした手塚だったが、リョーマと過ごす時間という誘惑にテニスまでおまけについてきては断れるはずもなく、遠慮なくリョーマの誘いに乗った。 
      一息つく間もなく早速着替えてアップを始める。 
      「ねえ」 
      さっきのしおらしい表情とうって変わってふてぶてしくも見えるリョーマを頼もしく思いながら「何だ?」と聞き返す。 
      「好きになったら負け、って言うからオレはずっとアンタに勝てないと思ったけど、アンタもオレと同じなら、オレが勝てる可能性もあるってことだよね」 
      「……は?」 
      唐突に何を言いだすかと思えば、よく考えれば可愛らしい愛の告白でもある。 
      「言葉の意味が少し違う気がするが…」 
      「え?そうなの?」 
      アップを続けるリョーマの周りに疑問符が飛び交う。 
      「ま、いいや、アンタに勝ちたいってことは変わんないから」 
      「そう簡単に勝たせるつもりはない」 
      眩しそうにリョーマを見つめながら手塚はきっぱりと言った。 
      「じゃ、オレからサーブね」 
      「よし」 
      二人の物語が始まった瞬間だった……… 
                                     END 
                                  2002.2.20/14:12
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