ゆたかに生きる 現代語短歌ガイダンス


 五七五七七、みそひともじ、
五句三十一音詩、
あるいは短歌とも和歌とも狂歌とも呼ばれてきた、
その歴史に日本語の歴史を重ねたときの、
正統にして標準的な歌のガイダンス。
短歌再生の道しるべ。
 
ゆたかにいきる 現代語短歌ガイダンスi

はじめに
  目次
第1章 五句三十一音詩の歴史
  第2章 現代語短歌と待遇表現
  第3章 現代語による表現の可能性を探る
  第4章 歌の周辺

144頁。定価1,050円(本体価格1,000円)

ブイツーソリューション



 ゆたかにいきる 現代語短歌ガイダンス
はじめに
  本書は歌、五七五七七、みそひともじ、五句三十一音詩、あるいは短歌とも和歌とも狂歌とも呼ばれてきた、その歴史に日本語の歴史を重ねたときの、正統にして標準的な歌の案内書といえます。その裏付けとなる論拠を三つだけ示しておきましょう。
 まず文語とは何か、について『日本文法大辞典』(明治書院)の記述です。

  平安時代中期の文章(当時としては話しことばを写したもの)が一種の完成を示し、鎌倉時代以後、話しことばの変化にかかわらず、文章には平安時代中期の語法を基礎とした表現をとるようになって、明治中期まで及んだ。この、平安時代中期の語法に、その後の若干の語法の変化をとり入れ、さらに若干の奈良語法をも含めた語体系を、明治以後の現代語を「口語」というのに対して、文語というのである。

 次に平凡社ライブラリーの『日本語の歴史4 移りゆく古代語』の「第三章 古典語の周辺」の「三 散文の世界に照明をあてる」の記述です。

  平安時代の散文ことに和文は、言文一致であったということである(平安時代の散文  に女流の手になる物語や日記のみならず、男性のがわにみられる漢文や変体漢文の日  記・記録をもふくめて、一様にこれを言文一致とみることにはなお異論があろう。い  まそれについてくわしく述べる余裕がない)。

 さいごに歌人で学者、歌言葉の専門家として著名な安田純生に登場してもらいます。「文語体と口語体」(「白珠」平成二十二年七月号)からの引用です。

  もともと文語は平安時代の日常語なのですから、その時代の和歌は、特有の歌語を交えることはあっても、また、音数律に合わせて表現するという、日常語にない特殊性はあっても、基本的には言文一致歌でありました。万葉時代でも、おおよそは、そういえます。

 安田純生には『現代短歌のことば』(邑書林)、『現代短歌用語考』(邑書林)、『歌ことば事情』(邑書林)の著書があります。抄出した「文語体と口語体」以後も「雅言をもてよむべきなり」(「白珠」平成二十二年九月号)、「旧派和歌からの出発」(同、平成二十三年一月号)、「雅言と俗言の論」(同、二月号)があります。
 『現代語短歌ガイダンス』は安田純生に負うところが大きい一冊です。ただ私はドンキホーテ型かもわかりませんが一つのこだわりがあります。つまり雅俗という言葉は使わないということです。『万葉集』に雅俗はありません。雅俗は『万葉集』の短歌に代わって登場する和歌の世界の概念です。私は歌あるいは五七五七七また三十一文字ないし五句三十一音詩という全体を俯瞰する立場を選択するものであって、その一部分である和歌の土俵で相撲を取る気はないということです。
 全体の見取り図を要約すれば『万葉集』の時代に私たちは固有の文字を持ちませんでした。言文の文を欠いた時代ですから、その五七五七七は言語体です。平仮名の生まれた『古今和歌集』の時代は言文一致体です。言文が二途に分かれる十四世紀以後は文語体の和歌に対して、すべてがそうだというのではありませんが、言語体すなわち現代語としての伝統は狂歌に引き継がれます。ここで再び安田純生にしたがえば「文語文法などというときの文語は、文章語の意味ではない。紛らわしいのですけれど、文語という言葉が使われ始めたときは、書き言葉、つまり文章語の文体だからというので、その言葉を文語と名付けたのです」(「文語体と口語体」)ということになります。明治に入って散文の世界では言文一致運動が成果を上げていきます。これに比較するとき百年という周回遅れながら漸く言文一致体すなわち現代語短歌への動きが加速している、というのが現在の状況です。
 なお文語体と現代語の混交体が取りざたされることが多いようですが、これは言文が二途に分かれた頃から見られる現象で、今に始まったことではありません。
 本書としてはアンデルセンの童話に擬えておくことにします。

  『現代語短歌ガイダンス』はつぎはぎを「みにくいアヒルの子」と定義する
 目  次
 
   はじめに  3
第一章 五句三十一音詩の歴史
 一、万葉集は言語体、往時の現代語であった  14
 二、古今和歌集は言文一致体であった  16
 三、貴族階級の没落と短冊の発生  18
 四、言文二途の十四世紀~阿仏尼とその子どもたち~  21
 五、狂歌の言語体、和歌の文語体  26
 六、逆風の近代~現代語短歌という小さなあかり~  33
 七、原点回帰~短歌再生の道しるべ~  38
第二章 現代語短歌と待遇表現
 一、人代名詞  44
 二、文末処理  52
第三章 現代語による表現の可能性を探る
 一、話し言葉  56
 二、書き言葉  58
 三、方言  60
 四、句切れ、無句切れ  63
 五、句またがり、句割れ  66
 六、字余り(音余り)  69
 七、字足らず(音足らず)  72
 八、破調  74
 九、掛詞、押韻  76
 十、リフレイン、対句  80
 十一、挿入  82
 十二、倒置法  84
 十三、名詞(固有名詞、普通名詞)  87
 十四、漢字  92
 十五、カタカナ  95
 十六、ひらがな  97
 十七、蟹行文字(かいこうもんじ)  100
 十八、記号  102
 十九、数字  105
 二十、比喩、見立て  108
 二十一、オノマトペ(擬音語・擬声語・擬態語)  111
 二十二、仮想奇想空想幻想妄想  114
 二十三、呪文呪禁呪言となえごと  116
 二十四、回文  120
 二十五、枕詞  122
 二十六、序詞  126
第四章 歌の周辺
 一、歌の起源~大野晋~  130
 二、音律ということ~坂野信彦~  132
 三、正統と異端~茂吉と文明~  136
 四、自分史と短歌~橋本義夫と色川大吉~  140
第一章 五句三十一音詩の歴史 

    一、万葉集は言語体、往時の現代語であった

 『万葉集』では五七五七七が単独で登場するときは歌と表記されます。長歌とセットで登場するときは短歌と表記されます。和歌ではないのです。
 『万葉集』の時代、私たちは固有の文字を持っていませんでした。『万葉集』は万葉仮名で書かれています。万葉仮名とは日本語を表記するために漢字の音や訓を借りてきたものです。言文でいえば文を欠いていますから言語体です。当然ながら往時の現代語であったでしょう。都の言葉があれば東歌という方言もあるわけです。
 『万葉集』の字余りには法則があります。『日本古典文学大辞典』(岩波書店)で「字余り」を引くと佐竹昭広が「伝統的歌学の印象批評に対して、従来とは全く異なる角度から、『字余り』を貫く語学的法則の存在を指摘したのは本居宣長であった」と述べ「『字余り』の句中には必ず単独の母音音節『あ』『い』『う』『お』のいずれかが含まれているという画期的な宣長の発見」について解説しています。
 具体的には、どういうことなのでしょう。坂野信彦の『古代和歌にみる字余りの原理』(ブイツーソリューション)を開いてみましょう。

     あふみのうみゆふなみちどりながなけばこころもしのにいにしへおもほゆ                               (柿本人麻呂)
   初句(第一句)の「あふみのうみ」と結句(第五句)の「いにしへおもほゆ」は、  どちらも一字ずつ超過している。ふつうに読めば超過したぶんだけ音も増える。それ  を表現上の技巧として感心するむきもあるが、古代にあっては音が増えるという感覚  はほとんどなかっただろう。これらの句は、その中途のどこかに「あ・い・う・え・  お」のいずれかの単独の母音(母音音節)をふくんでいる。そのことによって、それ  ぞれほぼ一音ぶん音が縮められたとみられるのである。
   このことは、万葉集では、たとえば「おもふ」と「もふ」、「といふ」と「とふ」、  「のうへ」と「のへ」のように、字余り表記と脱落表記とが混在する現象によって推  定することができる。

 また「字余り句は原則として句中に単独母音をふくむ。このことからすれば、古代のうたびとたちはきわめて厳格に五音・七音の音数規定をまもっていたことになる」とも述べています。佐竹と坂野の間で「え」の有無がありますが、学問の世界のことですから、実作者として気にすることはないでしょう。ただ五七五七七について当時の日本語の性格からくる字余りの法則があったことは記憶しておいてほしいと思います。
 第四章の「三、正統と異端」で再び話題に取り上げるつもりです。

   二、古今和歌集は言文一致体であった

 安田純生の「文語と〈文語〉」(『現代短歌のことば』)によると「貫之の生きていた時代では、書きことばと話しことばとの間に、まったく同じとまではいえないにしても、それほど大きな違いはなかった」といいます。これに対して私たちが短歌を作るときの文語は「文を書くときの語」だというのです。したがって、

  (略)、文語には二つの種類があることになる。一つは、貫之の生きていた時代すなわち平安時代の言語体系を意味する文語であり、もう一つは、その言語体系を志向した言語を意味する文語である。二種ともに文語と呼んでいたのでは、どうもややこしい。前者の文語と区別して後者を文語体と呼んでもいいが、さしあたり、後者をヤマカッコ付きの〈文語〉とし、前者を単に文語として、以下を述べていきたい。
   〈文語〉が成立したのは、日常生活のなかの言語がどんどん変化して文語の体系が崩れていくにもかかわらず、和歌を詠んだり文章を書くときには、古い時代の言語体系にのっとっていこうとしたためである。〈文語〉は、本来、文語に一致しているのが理想であった。しかし、文語と日常語との差が大きくなればなるほど、文語と一致した〈文語〉を書くのは困難になる。文語と日常語との差が大きくなれば、文語についての正しい知識を得るのが難しいうえ、文語を使っているつもりでも、日常語が折々に顔を出して似て非なることばになりがちである。その結果、〈文語〉は、時代がたつにつれて変化していく。

 ところが「もういっぽうの文語は変わりようがない。それは、古い時代の言語体系である文語は、いわば閉じられた存在だからである」というのです。そして、

  室町時代や江戸時代の〈文語〉には、誤用が頻出する。平安時代の文語と室町・江戸  時代の〈文語〉を同一視し、〈文語〉を証拠にして正しい文語であると主張したりす  るのは、いささか問題がある。〈文語〉が文語であることが、〈文語〉によって証明さ  れたりはしない。

ということになるのです。この〈文語〉に加えて近代詩歌語が問題を複雑にしているのですが、これは「七、原点回帰~短歌再生の道しるべ~」で触れることにします。

   三、貴族階級の没落と短冊の発生

 こんにち短冊にふくらませる私たちのイメージと往時の短冊発生の時代背景には大きな落差があります。和歌文学会編『和歌文学の世界・第四集』(笠間書院)に収録されている春名好重の「短冊の成立と書式」によれば「貴族階級が栄えていた平安時代及び鎌倉時代の初めまでは、作文会の漢詩、和歌会の和歌は檀紙の懐紙に書いた。しかし、平安時代の末以後、貴族階級が衰運に傾くと、檀紙のかわりに杉原紙を用いてもよいことになった」、さらに「承久の乱の後、貴族階級はいっそう衰えた。そのため『はれ』の場合はやはり檀紙あるいは杉原紙の懐紙を用いたが、『け』の場合には杉原紙を切って短冊を作り、短冊に書くようになった」。したがって「中世の短冊は、懐紙のかわりに用いられたのであり、また、倹約のために用いられたのであるから、白紙がそのまま用いられた。そして、裏打ちをしないばかりでなく、装飾も施さなかった」といいます。多賀博は『短冊覚え書』(朝日新聞社)の中で短冊を作り出したのは藤原為世(一二五一~一三三八)だというのが通説だといっています。また美術的に最も優美な短冊は桃山期のもの、次いで元禄期のものだといいます。なお元禄短冊の模様は貧乏な公卿の内職であったそうです。悲惨なのは戦国時代の後奈良天皇(一四九六~一五五七)で「帝はお手許が苦しいままに御製の宸筆短冊をひそかに市中でお売りになったと伝えられる」とあります。
 また短冊の書き方も往時のそれとでは随分と違っています。昔は「三つ折り半字がかり」といって短冊を三等分に折ります。その上部三分の一の折れ目から右に上句、左に下句ですが、初句と四句の頭字の高さは揃えたものです。上部三分の一は歌題が占めるスペースです。近代短歌の時代になって題詠が行われなくなると、歌人はそのまま上に移動させることによって空白を埋めました。ところが誰の発案なのか、右の上句だけを移動させる人がいて、その書式が巷間に流布してしまいます。
 もし、その功罪を問われるならば「百害あって一利なし」です。
 歌には初句切れの歌があり、二句切れの歌があり、三句切れの歌があり、四句切れの歌があり、句切れのない歌があります。句またがりの歌があり、句割れの歌があります。歌風をいえば『万葉集』の「ますらおぶり」に対して平安遷都以後の「たおやめぶり」があり、換言するなら前者の五七調があり、後者の七五調があるわけです。
 非短歌界において定着した短冊の書式に対して、専門歌人の立場から異議を唱えるのは遅きに失した感もありますが、そうもいっておられません。なぜなら上句、下句とは『新古今和歌集』の時代の用語ですし、それと関係なく「一行目を折り返して二行目に移る、その際の一字目を一行目の頭字と同じ高さに揃える」という要請は「第三章 現代語による表現の可能性を探る」その豊かさを担保するものだからです。
 歴史のある書法としての散らし書きとは別に考える必要があります。

   四、言文二途の十四世紀~阿仏尼とその子どもたち~

 平凡社ライブラリーの『日本語の歴史4 移りゆく古代語』の「第三章 古典語の周辺」の「三 散文の世界に照明をあてる」に「言文二途に開ける」の小見出しがあります。前後を省略しますが、そこには「《徒然草》の時代に、文語と口語とのあいだに境界線があったこと、さらには、いつの時代にもあるはずのその境界線が越えがたい壁になってゆく過程」また「そういう時代として、亀井は室町時代を考え、そこに古代語のたそがれと、いまだほのぐらい近代語の曙(あけぼの)とをみる」とあります。亀井とは三人の編集委員の一人である亀井孝です。また『徒然草』は一三三〇年から三一年頃の成立、室町時代は一三三六年から一五七三年です。なお日本語の歴史では中世以前のことばを古代語、以後のことばを近代語といいます。
 この節ではプレ狂歌の時代として阿仏尼と二人の子どもの事績を追います。
 阿仏尼(?~一二八三)は藤原為家(一一九八~一二七五)の後妻で冷泉為相(一二六三~一三二八)と為守(一二六五~一三二八)の生母です。為家の没後、その長男である二条家の藤原為氏(一二二二~一二八六)と播磨国細川庄(兵庫県三木市細川町)の相続を争って訴訟のために鎌倉へ下向します。そのときの記録が『十六夜日記』です。石澤一志は夫木和歌抄研究会編『夫木和歌抄 編纂と享受』(風間書房)の中で「阿仏・為相が、為氏・為世と訴訟中(弘安二年〈一二七九〉~正和二年〈一三一三〉)、(略)、為相相伝の歌書類の多くは、阿仏尼の東下に従って携行され、以来、基本的には関東にあったのではなかろうか」と推測しています。また『夫木和歌抄』の撰者について「為相の門弟と目される勝間田長清が撰者であると見ることに異論はない。しかしながら、その『長清』が為相から撰集作業の依頼を受け、資料集めから撰歌までの全てを行ったわけではなかろう。資料の提供はもちろん、その撰歌についても、基本的には為相の意向が反映したもの、つまり、為相監修で、実質的な作業者、その意味での『撰者』が、勝間田長清であった、と考えたい」としています。こうして阿仏尼の東下は稀代の類題和歌集誕生につながります。成立は延慶三(一三一〇)年頃、収録歌数一万七千余首、遠江勝間田(現静岡県牧之原市)の豪族勝間田長清の撰というのも異色ですが、その作品も多岐にわたっています。

  春の日のなぐさめがたきつれづれにいくたびけふもひるねしつらん                                  藤原経家
  いもと我ねやのかざとにひるねして日たかき夏のかげをすぐさん                                  曽禰好忠

 対照的な昼寝の歌です。一首目の題は「遅日」、二句「慰めがたき」もそうですが、四句「幾たびも」ですから木の芽時で心身不調なのでしょう。二首目の題は「夏雑」、初句「妹」は奥さん、古女房といった趣きでしょうか。二句の「かざと(風戸)」は風の吹き込んでくる戸口、句またがりの「夏の陰」は夏の涼しい物陰、したがって二句の「寝屋」は正味の寝室というふうに解釈する必要はないかも知れません。

  こさふかばくもりもぞする道のくのえぞには見せじ秋のよの月                                    西行
  わが恋は海驢(みち)のねながれさめやらぬゆめなりながらたえやはてなん                                  藤原家良

 一首目の題は「月」。初句の「こさ」は蝦夷の人の吐く息、またその息によって起こるという霧をいいます。だから月は「見せじ」(見せたくない)というのでしょう。二首目の題は「夢」。二句「みち」はアシカの古名、「寝流れ」は水面を寝たまま流れて行くこと、あなたへの恋心が残ったままで私は死んでいくのだろうか、そんなふうに解釈してみました。勅撰和歌集に採られるような素材とは思われません。

  牛の子にふまるな庭のかたつぶり角のあればとて身をばたのみそ                                  寂蓮法師
  草村にむさとな鳴きそ轡虫野飼ひの馬のはむ事もあり                             『古今夷曲集』浄治

 一首目の題は「蝸牛」。気持ちは「角があるといっても、また向こうは子牛だといっても本当の牛だから、蝸牛よ、勘違いしてはいけないよ」となります。二首目は一六六六年に刊行された狂歌集の作品です。二句「むさ」(無作)は何もしないこと、またそのさまをいいます。右の「踏まれるなよ」に対して左の「鳴くなよ」、右の「蝸牛」の「牛」に対して左の「轡虫」の「轡」(手綱をつけるため馬の口にかませる金具)の構造が同じです。また右の結句と左の二句、右の二句と左の結句の対応にも注目されます。
 『夫木和歌抄』と俳諧連歌の関係は周知の事実ですが、このような狂歌との親近感も見逃せません。為相の弟、為守の法号は暁月坊といいます。鎌倉にいることが多く、狂歌の祖として多くの逸話を伝えています。京都と異なる磁場の地において、阿仏尼と二人の子どもは五句三十一音詩史のターニング・ポイントに立っていたのです。

   五、狂歌の言語体、和歌の文語体

 いよいよ狂歌の時代です。しかし狂歌とは何でしょう。ここから始めます。おさらいになりますが、固有の文字を持たない時代の『万葉集』は言語体でした。平仮名の生まれた時代の『古今和歌集』は言文一致体でした。その言文一致が二途に開けるのが十四世紀です。また五七五七七の名称に着目しますと『万葉集』にあっては単独で登場するときは歌、長歌とセットのときが短歌となります。平安遷都があって国風暗黒時代がやってきます。裏を返せば漢風全盛時代です。勅撰の漢詩集『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』が作られもしますが、この風は遣唐使の廃止によって止みます。こうして登場するのが五七五七七にとっては初の勅撰『古今和歌集』です。つまり和歌とは漢詩に対する呼称なのです。そして短歌が素材においても、用語においても、拘束を受けない自由な存在であったとすれば、和歌は短歌をそのまま継承しませんでした。都にありながら自分の土地を直接経営するという土豪性を併せ持っていた万葉貴族に対して、完全な都市貴族であった平安貴族は、すべてをカバーするのではなく、彼らに相応しいスタイルを選択し、その完成に向かったのです。異なる生活は異なる座標を求めます。これがフォーマルな場で行われた和歌としますと、インフォーマルな場で「言い捨て」を条件に許された五句三十一音詩がありました。それを狂歌と呼んだのです。ネーミングライツは和歌の側にありました。
 すなわち狂歌とは和歌が否定した世界、書き継がれることのなかった幻の短歌史なのです。その幻の短歌史にふさわしく言語体も珍しいものではありませんでした。
 近世初期の狂歌を収録した『狂歌大観』を見てみましょう。

  わたくしも難波にすめばすすの酒よしやあしとてたべませいでは                          『古今夷曲集』読人しらす
  いくとせも海老のめでたく鬚ながくそなた百までをれ二百まで                            『大団(おほうちは)』黒田月洞軒

 一首目の詞書に「親しき方にて酒すすめられけるに是は味なし彼はよしなしといひけれはとかくいひて盃の数重なる事よと笑はれけるによめる」とあります。「あし(よし)」は「難波」の名物、「すす」は『万葉集』に〈難波人葦火焚く屋のすしてあれど己が妻こそ常めづらしき〉(二六五一)とあり、三句の「すす」に「煤」と「すす(める)」また「好き」にも聞こえます。結句は「ませ」が助動詞「ます」の未然形、これに接続助詞「いで」に係助詞「は」で「食べないということは」、あとに「ございません」が想定されます。二首目の詞書は「近藤作左年わすれに来たりてはなされけるをいはふて」。下句は「御前百までわしゃ九十九まで」の「わしゃ」(妻)が「をれ」(月洞軒)ですが「二百」とは規格外でした。以上、「わたくし」「そなた」「をれ」の人代名詞にも注目です。

  のりもののよしだとをれば窓よりもかほつんだいてあふたうれしや                       『豊蔵坊信海狂歌集』豊蔵坊信海
  あさ夕はどこやら風もひやひやとお月さま見て秋をしりました                             『大団』黒田月洞軒
  蓮葉においどすはるとくみてしる思へばもはや三年じやもの                           『置きみやげ』鯛屋貞柳

 一首目の詞書は「吉田といふ所にて都人に逢ふ」。「吉田」は東海道三十四番目の宿駅、京都からだと二十番目の宿駅です。四句「つんだいて」は「突き出す」の音変化「突ん出す」の連用形に接続助詞の「て」が付いたイ音便。上りと下りの擦れ違い、顔を出し合っての挨拶です。二首目の詞書は「初秋月」。二句の「どこやら」は何となく、しかし確かにそうだという感じです。四句の親しみのある「お月さま」が印象的です。作者は言語体の雄でテクニシャン〈うれしさはどふもなりませぬつと出た花の木の間の月を見さいの〉では二句の「ぬ」と三句の「ぬ」が重複、つまり共有することで月の出を劇的に表現しています。三首目の詞書は「妙隆三廻忌に」。初句は「はちすばに」と読みました。二句「おいど(御居処)」は女性語で「尻」のこと、上を受けて「据わる」、下に向けて「座る」、三句は足を「組みて知る」で「私」は男性、妙隆は女性だったのでしょう。

  今ン日よりからくりかはる冬の景自身番所に火がともります                           『狂歌乗合船』水谷李郷
  むかしむかしの咄と成りてさるの尻まつかうくさふなる親仁達                        『狂歌ますかがみ』栗柯亭木端
  いささかなさかななれ共どふぞしてお口にあぢの早うつけたさ                            『狂歌種ふくべ』常女

 一首目の詞書は「初冬」。初句は「こんにちより」で六音、からくり芝居全盛の時代の見立てです。四句「自身番所」は自身番の詰め所、市中警備のために町人が持ち回りで詰めた番所です。日が短くなったので明かりが灯ったのです。二首目の詞書に「翁の述懐の歌とて 祖父(ぢい)は山へしばしが程に年老いてむかしむかしの咄こひしき と読めりしに寄りて」とあります。貞柳の歌は『家つと』の一首です。四句「真っ赤」に「抹香」を掛け、さらに副詞「真っ斯う」(全くこう)を重ねています。三首目の詞書は「病気見廻に鯵のさかな送るとて」。上句に「さかな」が二尾、下句は「鯵」に「味」、「つけたさ」は耳慣れませんが接尾語「さ」で上句の「さ」とのバランスを整えたのでしょう。
 なお『狂歌大観』収録の職人歌合にまつわる余話を加えておきます。岩崎佳枝の『職人歌合ー中世の職人群像ー』(平凡社)が説く歴史ロマンです。岩崎によると『東北院職人歌合』の成立は一二一四年、目的は「『職人』たちを仏道に結縁させようとの思いで、歌の詠めない『職人』になり代って創作を試みた」そして「法会に参加し、座を連ねたあかしと仮りにするのである。詠者にとってもその行為は、取りも直さず仏教的善根となる」といいます。詠者とは後鳥羽院であり、判者とは慈円のことです。しかし後鳥羽院は一二三九年に隠岐で崩御、人々は怨霊の災いを恐れることになります。状況証拠ですが百年後の花園天皇が『東北院職人歌合』を書写したこと「このほかにも『職人歌合』の主要な遺品の殆どが、天皇・親王などが親しく書写したり、他に模写させて襲蔵した」といいます。次の『鶴岡放生会職人歌合』の成立は弘長元(一二六一)年です。「弘長元年は辛酉の年であった。辛酉の年は中国古代から『革命』があるとされ、わが国においても必ず元号が改められている。この年も二月二十日には改元され、文応から弘長になっている。とくに鎌倉幕府では、承久の変後隠岐へ配流され同島で没した後鳥羽上皇の怨霊を怖れ、宝治元年(一二四七)には鎌倉鶴岡西北方に新宮を奉祀している」とし、この歌合成立の背景として「後鳥羽院を偲び、その怨霊を鎮めるための営みであった」と推測します。『三十二番職人歌合』の成立は明応三(一四九四)年、「職人歌合」の流れで云えば、この年は後鳥羽院に「水無瀬神」の神号が奉られています。宗祇らの「水無瀬三吟百韻」(一四八八年)は院の二百五十回忌に因んだもので「戦国擾乱を恐れた人々は、後鳥羽上皇霊鎮めのため、さまざまな営みをしていたのである。『水無瀬三吟百韻』の五年後、後鳥羽院に神号が奉られたその年になされた後鳥羽院縁りの『職人歌合』製作」も、その一つだったといいます。『七十一番職人歌合』の成立は明応九(一五〇〇)年「この年後土御門天皇が崩御、代替りの時でもある。しかも翌年は、辛酉の年に当る。戦国の様相も一段と深まり、後鳥羽院の怨みの影がますます色濃く漂っていた頃といえる」。総括して「『東北院』を嚆矢とするこのジャンルの作品の底には、つねに、『職人歌合』の最初の歌人であった後鳥羽院への鎮魂の思いがこめられていた」というものです。
 『狂歌大観』は近世の『職人歌合』も収録しています。作者に擬せられる烏丸光広は猪熊事件(姦通事件)に連座して勅勘を蒙ります。極刑を望む後陽成天皇でしたが、事件の処分は幕府に一任され、それが烏丸光広に幸運します。ただ武家と公家という関係で見れば、処分に不満を抱いた後陽成天皇が譲位する一因となり、後年の禁中並公家諸法度の制定が準備されたのです。次に即位した後水尾天皇によって烏丸光広は勅免されます。その後水尾天皇も紫衣着用の勅許を幕府によって無効にされるという紫衣事件を背景として第一皇女に譲位します。践祚して明正天皇。父は後水尾天皇、母は東福門院すなわち徳川和子、徳川幕府二代将軍秀忠の娘です。『東北院職人歌合』に出発した物語は、こうして終わり、あるいは明治の王政復古までの長い眠りについたのです。

   六、逆風の近代~現代語短歌という小さなあかり~

 近代に入って散文の世界では言文一致運動が成果をあげますが、五七五七七の世界は少し事情が異なっていました。たしかに前代の和歌も狂歌も衰退消滅へと向かい、新派和歌は短歌として花開きます。しかし王政復古による揺り戻しは国歌大観を生み、〈文語〉体のスタンダード化が推し進められました。古代への憧憬は、あるいは崇拝は内側を似せるのではなく、外側を似せる道を選択したのです。それでも新しい時代には新しい言文一致体が点っていました。現代語短歌という小さなあかりです。

  浦の色は淋しう暮れた敗れ船にもたれて人世と秋傷む間に
  ものをいふその目が好かつたばつかりに田舎に老いて菊作りする                          明治39『池塘集』草山隠者

 草山隠者(青山霞村)は明治七年生まれです。一首目の「敗れ船」は砂浜に打ち上げられた「破船」の訓読でしょう。若い「私」の感傷が匂います。二首目は老人の述懐の歌です。仕事か何かで田舎にやってきて、在所の娘と恋をして、そのまま居着いたという人生です。しかし三十歳を少し出た作者ですから、これも憧れのようなものでしょう。

  娘等の帰つたあとの菓子鉢に菓子の粉少し残るさびしさ。                     『口語歌集 新興短歌集』伊東音次郎
  子をだいて見てゐる青い草原の
  親山羊仔山羊
  青い草喰べた                      『口語歌集 新興短歌集』花岡謙二
  氷屋の軒にはためく蒼い旗 ふつとまひるの海を思はせる                      『口語歌集 新興短歌集』西村陽吉
  東京のこの真(ま)ん中で悠々とお濠に遊ぶ鴨をうらやむ                      『口語歌集 新興短歌集』中村孝助

 いずれも昭和六年に出版された『現代短歌全集』(改造社)の第二十一巻『口語歌集 新興短歌集』から引用しました。一首目は菓子鉢に菓子の粉が少しだけ残っているという描写によって最前までの華やかだった部屋の様子が浮かび上がってきます。二首目は人のの親子と山羊の親子が一枚の絵の中で共存しています。四句の対句また「山羊」のリフレインは、前後の「青い草原の」「青い草喰べた」を含めて風のように爽やかです。三首目は、かき氷を売る店でしょう、氷屋の幟から夏の海浜を連想しています。青い波に赤い字の「氷」の幟が定番となっていたのかも知れません。四首目は農家の長男に生まれて、上京、職を転々とする「私」がお濠の鴨を見ています。社会詠としての性格が濃厚ですが、その「私」を離れた都市詠として眺めると、また違ったニュアンスが伝わってきます。

  シルクハットの県知事さんが出て見てる天幕(テント)の外(そと)の遠いアルプス                           昭和24『海阪』北原白秋
  ベンチからをんなが立つて行つたので今は噴水のおとが聞こえる                         昭和5『植物祭』前川佐美雄
  人影のまつたく消えた街のなかでピエ・ド・ネエをするピエ・ド・ネエをする                          昭和11『シネマ』石川信雄
  岡に来て両腕に白い帆を張れば風はさかんな海賊のうた                            昭和15『魚歌』斎藤史

 一首目は大正十二年、農民美術研究所の開所式に取材した作品です。「出て見てる天幕(テント)」の「て」、「天幕(テント)の外(そと)の遠い」の「と」、あるいは「る」や「の」の音の重なりが軽快なリズムを刻んでいます。二首目は、それまで噴水の音が聞こえなかったというのではありません。聞こえていたが、それ以上に女性の会話が賑やかだったのでしょう。今は噴水の音しか聞こえない、もしかしたら、それを契機に「私」も立ち上がるのではないでしょうか。三首目の「ピエ・ド・ネエ」はフランス語で、親指を鼻の頭につけて他の指を広げる仕草をいいます。日本ならアッカンベーの類だそうですが、では「私」は誰に向かってアッカンベーをしているのでしょう。社会に対して、そしてそれは自分自身にも向けられているのでしょう。アッカンベーでなく「Pied de nez 」で救われていますが、上句の状況と下句のリフレインからは「道化師」の悲しみが漂います。四首目の「白い帆」はブラウスでしょうか。両腕を広げて風をはらむとき、「岡」は船首と変わり、世界を領する海賊となるのです。それにしても少女の頭目には空も雲も風も嬉々として従っているようです。

  鼠の巣片づけながらいふこゑは「ああそれなのにそれなのにねえ」                           昭和15『寒雲』斎藤茂吉
  初々しく立ち居するハル子さんに会ひましたよ佐保(さほ)の山べの未亡人宿舎                          昭和23『山下水』土屋文明

 一首目の下句は星野貞志の作詞、古賀政男の作曲、美ち奴の歌「ああそれなのに」(昭和十一年)の一節です。レコードがテイチクから発売され、翌年には映画「うちの女房にゃ髭がある」の挿入歌として大ヒットしたそうです。作中の状況としては天井裏で仕事をしている人が口ずさんでいるのです。二首目は昭和二十二年の歌です。「再報樋口作太郎君」七首の一首です。「ハル子さん」はアララギ会員である樋口作太郎の戦死した息子の嫁、その近況を舅に知らせた歌になります。作品も新時代の到来を思わせます。

    七、原点回帰~短歌再生の道しるべ~

 歌のスタンダードが〈文語〉であるというのは近現代短歌についてはいえても、歌の発生からを視野に入れると全く違ってきます。たとえばジュニアの人たちの作品はすべて現代語です。もし歌のスタンダードが〈文語〉ならば、彼らの作品はどうなるのでしょう。つまりどこかで変わらなければなりません。お玉杓子が蛙になるように、蛹が蝶になるように、羽化する蝉のように変態しなければなりません。しかしそうではないのです。
 私たちの〈文語〉こそ特別ないし特殊な選択の結果なのです。
 文語と〈文語〉の乖離については先に安田純生の説を紹介しました。しかし実はそれだけではないのです。二つありますが、再び安田純生に登場願いましょう。
 一つは「近代詩歌語」の跋扈であり、一つは「歌人の気まぐれ」です。
 安田は『現代短歌のことば』の「ひそけし・さはやけし」の中で、

  現代の文語体は、いうまでもなく現代語の大きな影響を受けているが、それとともに、  明治以後、詩人や歌人によって数多くの古語風新語(一見、古い時代の語彙にあるよ  うで、実際にはなかった新語)がつくられた点も無視しがたい。そのような語を、私  は便宜的に近代詩歌語と呼んでいる。

と説明しています。そしてそのような「古い時代にも現代の日常語にも存在しないと推測される語」として「ひそけし」「あざやけし」「ほのけし」「まどけし」「すこやけし」「ひややけし」「しなやけし」「きよらけし」「まろやけし」「ひそやけし」「穏やけし」「なだらけし」「のびやけし」「けざやけし」を例示しています。形容詞だけではありません。近代詩歌語は「おそはる「おそなつ」「おそあき」や歌人の好きな「おほちち」「おほはは」「おい母」「おい父」といった名詞にまで及んでいるのです。
 もう一つは「歌人の気まぐれ」(『歌ことば事情』)です。長くなりますがそのまま引用します。〈文語〉体歌人の常態だと思って味わってください。

   短歌の文法違いのうち、たびたび指摘されるのは、助動詞「り」を四段・サ変以外  の動詞に続けてしまう誤り、助動詞「たり」「り」を用いるべきところで「き」を使  用する誤り、動詞の連体形で「る」文字が足りない誤りなどであろうか。それらが誤  りとされるのは、文語の体系になかった言い方であるからだ。
   しかし、文語の体系のなかになかった言い方が、すべてうるさく指摘されているか  というと、そうではない。たとえば、形容詞のカリ活用の連用形「かなしかり」「深  かり」などを終始形に用いた例や、禁止の助詞「な」を活用語の連体形に続けた例、  体言に助動詞「らし」を続けた例などは、それほど問題にされないようである。ある  いは、近代以降の短歌にそのような例があまりに多いため、違和感を与えないのかも  しれないが、文語の体系になかったという点では、うるさく誤用が指摘されるものと  同一なのである。文語の体系になかった言い方=誤りのなかにも、大いに問題にされ  るものと、あまり問題にされないものとがある。何か確固とした基準があって、問題  にしたり問題にしなかったりしているとも思えない。歌人は、文法に対して気まぐれ  であるといえよう。

 以上、文語と〈文語〉の乖離、近代詩歌語の氾濫そして歌人の気まぐれは〈文語〉体短歌をあともどりのできない異形の世界に追いやっているようです。
 片や原点回帰の現代語短歌は、その眩しいばかりの照り返しの中にあります。迷妄を一刀両断にできるのは歴史が教える言文一致体にほかありません。

  おこそとのえけせてねへめうくすつぬ快刀乱麻を断つ現代語

 では、いよいよ実作篇に入ります。

第二章 現代語短歌と待遇表現  

  現代語短歌と〈文語〉体との違いが顕著に表れるのは待遇表現です。待遇表現とは「相手の性、年齢、社会的地位、職種、または相手に対しての敬卑などの気分による人間関係のあり方に応じて変える言語表現、またはその形式」(『日本国語大辞典』)をいいます。主部でいえば主語その中でも人代名詞です。述部でいえば述語その中でも文末処理です。とりわけ〈しろの黄の花をちよいちよいと摘(つ)んでゆくわれはこの野をよく知つてゐる〉(石川信雄『シネマ』)のような人代名詞です。戦前のモダニストも切れなかったチョンマゲです。このため前者の例を多くしています。後者は第三章以下も参考に願います。

   一、人代名詞

  車窓には予を追尾する星の群れそういえば《斗》は天の星の意                       平成23『あいつの面影』依田仁美
 一人称、一音。「予」を『大辞林』は「やや尊大な、または、改まった言い方として男子が用いる」とあります。右は愛犬「雅駆斗」への挽歌です。「予」は「夜」と同音、「追尾」に犬の尾を重ねています。愛犬は北斗の「《斗》」すなわち星になったのです。

  パチンコに夢中になつてゐた頃の僕にはまだまだ未来があつた                      平成19『のらりくらり』葛西水湯雄
 一人称、二音。その一。歌集には七十二歳から八十二歳の「僕」が登場します。無頼、一人暮らし、そして恋といったフレーズで彩られる「くずやん」が働き盛りだった頃、東京オリンピックや大阪万博のあった高度経済成長の時代を背景にしています。

  ヘッドライト闇を突ん裂き豆を刈る俺のほかにも男がゐるぞ                          昭和60『緑野疾走』時田則雄
 一人称、二音。その二。詞書に「九月二十四日、俺の誕生日。今日から豆の収穫だ。小豆のことを『赤いダイヤ』とかいつてゐたのは梶山季之だつたつけ。もうそんな時代じやない。ただの赤い豆さ。AM3・00、エンジン始動」とあります。第一歌集『北方論』には「小麦十町歩」「六町歩ビート」などともあって広大な北海道が思われます。

  儂(わし)じゃとてさほどの美乳(ちち)なら拝みたい七十三才そりゃあ春じゃもの                          平成16『春灯』石田比呂志
 一人称、二音。その三。初句「わし」は「わたし」の音変化、近世にあっては主として女性が用いたとあります。現代にあっては男性が同輩以下に対して用いています。季節は春、噂の美乳の主はともあれ、若い者に遅れを取ってはいられないのでしょう。

  アイスティー吸ひ上げてゐるストローでわたしは世界とつながつてゐる                        平成8『ファブリカ』香川ヒサ
 一人称、三音その一。「わたし」が繋がっているのは「アイスティー」です。しかし具象名詞「アイスティー」が抽象名詞「世界」に置き換えられることによって「世界」が具象化されます。哲学は一本の「ストロー」から生まれるという事例かも知れません。

  亡霊に号令かけてうらめしやを順に言わせるあたしの廊下                      平成19『高柳蕗子全歌集』高柳蕗子
 一人称、三音その二。第三歌集『あたしごっこ』中「あたしごっこ」五十五首の一首です。「ごっこ」にこだわると難解ですが、亡霊に号令をかける「あたし」がいる、その命令にしたがって廊下で「うらめしや」が繰り返されるというのは何とも愉快です。

  風を操る俺らを見たら鉤爪の海賊たちも十字を切るさ                   平成4『ドライ ドライ アイス』穂村弘
 一人称、三音その三。「俺ら」は「おいら」と読みました。「私」は暴走族、ハンドルを握っているようです。そこから初句の「風を操る」や結句の「十字を切るさ」なのでしょう。脇役の「鉤爪の海賊」がピーターパンに登場するフック船長を連想させます。

  わたくしも子を産めるのと天蓋をゆたかに開くグランドピアノ               平成23『サリンジャーは死んでしまった』小島なお
 一人称、四音。その一。二句の「の」は疑問の「の」ではなく、断定を和らげる「の」でグランドピアノが擬人化されます。初二句は演奏される楽曲のことでしょうが、黒い天板を開いたときの内部の荘厳は、命の輝きであり、会場は一瞬の静寂に包まれます。

  小生は清く正しく美しく生きて来たとは言うていません                          平成11『涙壺』石田比呂志
 一人称、四音。その二。初句「小生」は男性が自分をへりくだっていう語、ほぼ手紙文に限られるでしょう。二三句の「清く正しく美しく」は宝塚歌劇団のモットーとして知られています。掲出歌の結句には「そうではありますが」そんな口吻が漂います。

  「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日                        昭和62『サラダ記念日』俵万智
 二人称、二音。空前のベストセラーとなりましたが、現代語短歌の普及という点でも特筆されるべき歌集です。右は、その歌集名を冠した「サラダ記念日」三十首中の一首です。結婚記念日と違って、別の人生を歩むだろう、そんな予感のする記念日です。

  囓りついてゐたいわけではありませんとご返事したいがあなたは匿名                         平成7『暫紅新集』小暮政次
 二人称、三音、その一。一首目は平成三年の題「雑興」に含まれる一首、前後を含めて説明はありません。高齢の「私」ですがポストにしがみついているのではありません、しかし誤解を解きたいと思っても、相手が匿名ではどうすることもできないのです。

  逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと                   昭和47『森のやうに獣のやうに』河野裕子
 二人称、三音、その二。歌集の巻頭を飾る作品です。「おまへ」は男子高生、「おれ」は女子高生、年齢の幅はともかく、そう読むのが順当でしょう。人代名詞における性差の固定化ないし常識に揺さぶりをかけた作品で、そこにこそ待遇表現の妙があります。

  夏草のあい寝の浜の沖つ藻の靡きし妹と貴様を呼ばぬ                          昭和45『群黎』佐佐木幸綱
 二人称、三音その三。人代名詞の「貴様」と「呼ばぬ」が現代語です。「ぬ」は文語の打消しの助動詞「ず」の連体形が口語の終止形となったものです。二句「あい寝」の「あい」は「夏草の藍」と「相寝」(共寝)の「あい」が共有しています。三句「沖つ藻の」は「靡く」の枕詞、靡いた貴様とは呼ばない、「私」の愛は成就しなかった、妻として娶ることができなかったという歌で、これこそテクニックというものなのでしょう。

  イタリア料理と牡丹が好きといふ奴に天才がゐた例はないけど                       平成6『世紀末くん!』荻原裕幸
 三人称、二音。「天才」については「私」の主観ですが、「牡丹」は〈けふだけは牡丹になつてゐたいから午後は電話をとらないでくれ〉があり、鈍重とされたのかも知れません。結句は反対の例もあるといっているのか、単に言い切りを避けているのかが曖昧です。「私」という話し手と聞き手の現場で「奴」の値踏みが進んでいるのでしょう。

  換気扇。あいつはあえて無視されたまま家じゅうを松風にする                          平成15『からまり』大橋弘
 三人称、三音その一。掲出歌における「あいつ」は遠称の指示代名詞ですが、ここでの使用は擬人法ですので採集に加えました。結句「松風」は「松の梢に当たって音をたてさせるように吹く風」(『日本国語大辞典』)、換気扇が「松の梢」になっています。

  殴り合いを止(と)めれば「こいつがバスケットボールを蹴ったからだ」と泣く子                       平成22『飛び跳ねる教室』千葉聡
 三人称、三音その二。「殴り合いを/止(と)めれば『こいつが/バスケット/ボールを蹴った/からだ』と泣く子」の句切れでしょうか。「すべては放課後に始まる」十首の一首、次に〈仲直り 夜明けに伸びる木の影が小石をなでるみたいな握手〉と一段落です。

  どなたにもえろう迷惑かけました月が落ちてる露地裏の道                          平成16『春灯』石田比呂志
 不定称、三音。月と露地裏とくると三波春夫の「チャンチキおけさ」(昭和三十二年)の歌詞「月がわびしい/露地裏の/屋台の酒の/ほろ苦さ/(略)」が思われます。石田(一九三〇~二〇一一)の韜晦に二番以降の「すまぬ/すまぬと/詫びて今夜も」「おけさ涙で/曇る月」といったフレーズも一役買っているのではないでしょうか。

   二、文末処理

  白鳥座のめぐり微光星ひしめき合ひ「宇宙は神様の夢に過ぎない」                       昭和57『眠りの天球』浜田蝶二郎
 大衆音楽なら下句がサビで、そのサビを効果あらしめているのが上句ということになります。夢から覚めるとは白鳥座を含む宇宙の最後なのでしょう。しかし私たちの「宇宙」は私たちの死によって消滅します。あるいは「神様の夢」に同化するのでしょうか。

  しるこやのおんなあるじは腰、背中、膝、肘曲げて注文を訊く                        昭和61『機知の足首』沖ななも
 椅子に腰かけている客を見下ろさないないように腰を曲げ、背中を曲げ、それでも足りないので膝を曲げます。片膝を付いているのかも知れません。肘は注文を書き留めるためですから愛敬です。客の多い汁粉屋なのでしょう。「私」の生態観察が光ります。

  昔家族とゴジラを観たのにポルノしか今ではやらないロマン会館                 平成16『セレクション歌人28森本平集』森本平
 七八五八七の体言止めです。ゴジラは一九五四年から一九七五年まで続いた東宝のドル箱シリーズでした。日活ロマンポルノは一九七一年から始まります。家族で行った映画館が成人指定の映画館として営業を続けている、そこに時代を見ているのでしょう。

  「もういいよ」と死んだ母ちゃん言うまでは検査も手術も受けて立ったる                        平成17『昔のむかし』前田宏章
 前田宏章(一九四一~二〇〇四)は四十五歳のときに腎不全から人工透析を受けるようになったといいます。二句の「母ちゃん」は何も言いません。一首からは病と闘う強い意思がユーモアとともに伝わってきます。結句「たる」は「てやる」の転で方言です。

  この世にはまだまだ未練がありまして七十七歳恋をしてます                      平成19『のらりくらり』葛西水湯雄
 石田比呂志に〈安っぽい出世主義にもぽいされて形而下的七十七歳(アン・ラツキーセブン)翁〉(『流塵集』〉がありますが、こちらは結果は別にして「ラッキー・セブン翁」です。すぐ近くに〈スッピンの君が好きです湯上りにシャボンのにほひぷんぷんさせて〉があります。

  いつまでもぐぢぐぢと降り降りやまぬ日本の雨の音が聞きたい                          平成21『芝の雨』中津昌子
 アメリカのメリーランド州での暮らしから生まれた作品です。東部大西洋岸で温帯モンスーン気候、四季もあるということですがカラッと晴れるのでしょうか。季節は秋、日本なら時雨の降る頃です。「ぐじぐじ」の歴史的仮名遣いは「愚痴愚痴」を思わせます。

第三章 現代語による表現の可能性を探る 

    一、話し言葉

  早世の姉の口ぐせ「わたしらの懸命の思ひは消えるわけがない」                      平成7『この世的なる』浜田蝶二郎
 歌集は三部構成になっていて掲出歌は「Ⅰ 青き火の思ひ」に含まれています。そのプロローグに「文学史が対象とする近代的自我などというものではなく、無意識のなかに隠れている〈わたし〉をもっとよく知りたい」とあります。「私」も「姉」の「思ひ」が消えたとは思っていない、どこかを漂っていると、おそらくは体感しているのでしょう。

  らりるれろ言ってごらんとその母を真似て娘は電話のむこう                           平成8『華氏』永田和宏
 外出先から家に電話をしているのでしょう。一杯機嫌の父親と母親を真似た娘の微笑ましいやり取りが想像できます。「呂律が回らない」の「呂律」とは関係しませんが、酔うとラ行に影響が出やすいのでしょうか。初句「らりるれろ」の選択が絶妙です。

  なの・かしら・みたい・なのね・だもの・わよ 口調ばかりは年を取らない                       平成17『どこか不条理』來田康男
 「オバハンと言ふ種族」五首の一首です。オバハンはオッサンの対義語と思われますが『日本国語大辞典』でも見ることができません。文末の女性用語は「なの(ね)」(連語)、「かしら」(助詞)、「みたい」(助動詞の語幹)、「だもの」(連語)、「わよ」(連語)と豊富で年齢に関係なく使用されます。言葉も口調も年を取らないというわけです。

  「きをーつけ、れい、ありがとうございました」この明るさはきっとバレー部                       平成22『飛び跳ねる教室』千葉聡
 授業の終了の場面を思いますが「すべては放課後に始まる」に置かれています。あるいは生徒会室のシーンかも知れません。同じグループに〈夕焼けを青に戻してしまいたい野球部の声、やんで、また声〉もあって、声に関しては運動部に軍配が上がります。

   二、書き言葉

  コンクリートにふとんを敷けばすでにもう獄舎のような教室である                 昭和54『バリケード・一九六六年二月』福島泰樹
 一九六六年は昭和四十一年、早稲田大学が学費を値上げにしたことに端を発した学園紛争が舞台です。一月にストライキが始まり、二月になって大学側は警官隊に出動を要請します。二〇三人の学生が検挙され、事件が終息するのは六月に入ってからでした。

  老眼鏡机にのせて水溜りふたつあるがのわびしさもいい                       平成6『クウェート』黒木三千代
 四句「がの」は『日本国語大辞典』に近世に見られる語として「数詞をうけ、『…に相当するもの』の意を表わす」とあります。また方言ともあります。老眼鏡の玉を水たまりと見る見立てもおもしろいですが、老夫婦、だから「わびしさ」なのでしょう。

  たとえば誰にも言えないことひとつ、ふたつくらいを唇に塗る                    平成10『眠りの森』青柳守音
 ルージュを塗っています。初句四音、女性が映る鏡からいえば巫女の託宣を待つ一拍の静寂です。しかし巫女でない「私」の「たとえば」とは「言ってみれば」です。言ってみれば、化粧とは戦闘モードに入っていくための変身の過程にすぎないというのです。

  オイヤンのテントの前を健やかな脚美しいアスリートたち                       平成14『ダンディスト』町野修三
 ホームレスの青いテントに大阪国際女子マラソンの健脚を配した構図です。オイヤンを待っているのは行旅死、連作「オイヤン」二十七首の一首です。但し「オイヤン」は『大阪ことば事典』(講談社学術文庫)の見出しにありません。対義語は「オバヤン」、東直子の『春原さんのリコーダー』に〈おいやんの魚(うお)の化石のホルダーに世界をつなぐ金属がある〉と〈おばやんの笑った顔に光る銀 闘鶏神社に熊蝉が鳴く〉が並んでいます。

  夏の夜とびこんできたかなぶんはお座敷犬がばらばらにした                         平成15『α階のS』小谷博泰
 カナブンはコガネムシ科の甲虫です。メタリックで、かつ空が飛べます。そのカナブンがバラバラにされたというのですから、これは事件です。犯人は誰か? こともあろうに「お座敷犬」と呼ばれる小型の愛玩犬、夏の夜は怪談奇談に事欠かないようです。

   三、方言

  東京弁で「馬鹿」といわれて腐る子に「アホかいなー」と励ましてやる                        平成17『昔のむかし』前田宏章
 「馬鹿」に「アホ」では追い討ちです。しかし「アホ」のニュアンスに「かいな」の疑問を添えると親の役割が果たせます。では逆の〈大阪弁で「アホ」といわれて腐る子に「馬鹿かねー」と励ましてやる〉は成立するのか、東京人に聞くほかないでしょう。

  名古屋人ヌエボアンベに数人が喋りあふこゑ海猫に似て                       平成19『仙波龍英歌集』仙波龍英
 『わたしは可愛い三月兎』収録の一首です。二句「ヌエボアンベ」は赤坂に実在するメキシコ料理店のようです。結句「海猫に似て」は「けゃあ」「めぁあ」「ちょう」といった名古屋弁が行き交っているのでしょう。仙波龍英にかかると大阪は〈「まうかりまつか?」を真先にいひ、「社長」とよべば全員がふりかへる〉となってしまいます。

  水俣の埋め立ての地に地蔵立つ もじよか顔して死んなはつたと                       平成19『ハートの図像』桜川冴子
 水銀ヘドロを埋め立てた水俣湾の一角に立つ地蔵です。下句は「かわいい顔で亡くなったという意味の方言」と注にあります。掲出歌は「コロス 能『不知火』」十三首の最後に置かれています、奉納公演のようですので地元の人が説明されたのでしょう。

  生きまつせ生きまつせやと綴れ刺す夜のほどろの切々のこゑ                         平成20『申し申し』青木昭子
 『日本国語大辞典』に「ましょう」の方言として「まっせ」があり、長崎県・熊本県地方の名が挙がっています。歌集の奥書は福岡県ですが、この「まっせ」と解しました。三句は綴刺蟋蟀(つづれさせこおろぎ)に由来、「ほどろ」は「頃」また「時分」です。

  大阪弁に自分と言えば君のこと溝かるがると飛び越すような                          平成20『1/125秒』永田淳
 二句「自分」は一人称の人代名詞であり、また反射代名詞でもあります。掲出歌は一人称の人代名詞が形を変えないで二人称の人代名詞となることをいっています。私即君が下句の表現なのです。事例があれば待遇表現の章に加えたい二種の「自分」です。

  東京の偉いおがだに土淵の喜善が話(はなす)つこ教(をす)へだづもな                        平成22『百たびの雪』柏崎驍二
 「遠野」九首の一首です。「喜善」は佐々木喜善(きぜん)(一八八六~一九三三)、「東京の偉いおがだ」は柳田国男(一八七五~一九六二)、「土淵」は現在の遠野市土淵町で喜善の郷里です。「遠野物語」は喜善の話が基になっているのです。したがって掲出歌は金田一京助が日本のグリムと呼んだ佐佐木喜善の作、ただし柏崎の代詠ということになります。

  英語にてアナウンス聞く京都駅うちらあほらしおすとは言はず                       平成23『海辺の街から』小谷博泰
 結句の「ず」は現代語の打ち消しの助動詞「ぬ」の連用形です。観光都市京都の玄関口で英語は聞けても京言葉のアナウンスはないということでしょう。ほか〈うどん屋であづま男に話してゐる「めつちやわろたわ」「よう言はんわ」〉、こんなのもありました。

   四、句切れ、無句切れ

 短歌は五七五七七からなる文です。その文が初句の五で切れる歌、二句の五七で切れる歌、三句の五七五で切れる歌、四句の五七五七で切れる歌、また結句の五七五七七まで切れない歌、逆に複数箇所で切れる歌、以上の分類にしたがって作品を例示します。

  体育祭 ほどよく晴れている空を校長先生だけが見上げてる                      平成22『飛び跳ねる教室』千葉聡
 初句切れ。以下「晴れて/いる」は二句から三句へ句またがり、「校長先生/だけが」は四句から結句へ句またがり、つまり一首は初句切れであり、なおかつ句またがりを採用して形成されています。他の先生方は各自の持ち場で頑張っているのでしょう。

  森で見たものに似てゐる 雨の日にいもうとがまどに吊るてるばうず                           昭和54『水村』松平修文
 二句切れ。結句「てるばうず」は「てるてるばうず」の略、作者の造語ではありません。不気味なのは初二句が今もそのままになっているようなイメージです。二句の「る」、結句の「る」二音でダイレクトに結びついて「森で見たもの」が窓に浮かびます。

  みちのくのここは小高(こだか)というところ火の見櫓に集う夕雲                        平成14『一点鐘』岡部桂一郎
 三句切れ。「小高」は「こだか」と読むようです。「おだか」なら福島県南相馬市ですが「こだか」は確認できません。とある町の火の見櫓としましょう。そして火の見櫓より高い建物はありまん。火すなわち赤のイメージを負う櫓を垂直線として、地面と平行に流れる夕雲がそこに集まってくる、遠景の夕焼けを配して日本の原郷のような風景です。

  今すこしそして最後の和(なご)みある会話をしませう ヘネシーそそぐ                        平成元『シュガー』松平盟子
 四句切れ。先に〈麦わら帽ふたつ寄りあふ海岸の子どもの情景 をとなの遠景〉がありますが「子はかすがい」にならなかったようです。一首には冷たい平安が漂います。しかも注ぐのがトップブランドとくれば、グラスを手にした姿も華麗に映ることです。

  掘割に倒立の街は思ひ出のやうにふるへてゆれてああ澄む                        平成13『水晶散歩』井辻朱美
 句切れのない歌。「天国の高度」四首の一首です。風車が出てくるのでオランダと思われます。なぜ「思ひ出」なのか。実際の街ではなく水面に倒立した街だからでしょう。また水路や運河といわずに堀割としたのも日本の水郷とリンクして訴えてきます。

  燃やされる、踏まれる、引きずり降ろされる、振られる、掲げられる 国旗は                        平成18『やさしい鮫』松村正直
 句切れとしては複数の例で初句と三句の二箇所で切れています。二句は句割れ、二句から三句は句またがり、四句で句割れ、結句の「国旗は」が倒置法で本来は文頭にあって「国旗は燃やされる」以下、五つの文からなる五句三十一音詩ということになります。

   五、句またがり、句割れ

 句またがりも句割れも、主として五句三十一音の三十一音に比重を置く技法です。それが五句のリズムと出会うことによって抵抗が生まれ、また快感が生まれます。

  天竺からみれば第三セクターのやうな大和のほとけほほゑむ                          平成8『飛種』馬場あき子
 二句から三句に「第三セクター」八音がまたがっています。半官半民でJRの赤字ローカル線の経営を引き受ける事業体というイメージ、またキーワードは地域であり、地方でしょう。仏教の起こった天竺から見ると、そうした大和で微笑む仏像なのです。

  いじめには原因はないと友が言うのの字のロールケーキわけつつ                         平成九『百合オイル』江戸雪
 四句から結句に「ロールケーキ」六音がまたがっています。「友」は平仮名の「の」の字に似たロールケーキを切り分けています。「私」は友の言葉に「の」の字を書いている気分なのでしょう。それで片付けていいのだろうか、しっくりとこないのです。

  病院のベッドで泣いてゐた君をただ一度知るただ一度見た                           平成21『約束』河野洋子
 二句から三句に「泣いてゐた」がまたがっています。「君」とは卒然として逝った「夫」のことです。享年五十五、四十代半ばから十数回の入退院を繰り返したということですから気持ちのしっかりした人だったのでしょう。〈ついたちは三輪明神の市が立ちいつかあなたと山椒を買つた〉、些細な思い出が、その一回性によって美しく立ち上がります。

  おっぱいのこと考えて一日が終わる今日は何曜日だっけ                        平成17『ブーさんの鼻』俵万智
 句割れです。右の歌は二つの文からなります、それが句で切れないで、句の途中で切れています。四句「終わる/今日は」です。ほかに〈秋はもういい匂いだよ早く出ておいでよ八つ手の花も咲いたよ〉があります。これだと三つの文で「秋はもう/いい匂いだよ/早く出て/おいでよ八つ手の/花も咲いたよ」で四句が二つの文で割れています。

  死ぬときもひとり 小型の掃除機の背筋を伸ばして立っている部屋                           平成18『鳴』なみの亜子
 一升空いていますので分かりやすいですが二句が句割れになっています。生まれてきたときも一人、生きていくのも一人、そして死んでいくときも一人、ネガティブな「私」の目にとまったのが「小型の」以下とりわけ四句の毅然とした孤独だったのでしょう。

  捨てる神あれば拾ってくれる上菅田(かみすげた)中学校 丘の上                 平成15『そこにある光と傷と忘れもの』千葉聡
 結句が助詞の「は」で結ばれていません。断絶があるので二つの文すなわち句割れの例としました。さらに「上菅田中学校」が三句から四句にまたがっています。一首は成句「捨てる神あれば拾う神あり」を効かして、その余韻は結句の「上」にも及んでいます。

   六、字余り(音余り)

 字余りも、次の字足らずも、主として五句三十一音の五句に比重を置いた技法です。句またがりや句割れによらず、句の独立と伸縮で言葉の課題に対応していきます。

  ネクタイ姿の今日は買わずに帰ろうか揚げたてコロッケ匂う店先                        平成17『昔のむかし』前田宏章
 初句八音です。四句も字余りですが短歌らしさは崩れていません。勤め帰りの光景でしょう。ネクタイを締めていないときなら迷うこともありません。しかし買い物袋を下げた女性たちで賑わう店先を見ると、そこに交じることが、ふとためらわれたのです。

  歯磨きに夢中の姉妹の顔の上ぬっと顔だす父さんだ俺は                           平成15『樹皮』小塩卓哉
 二句と結句が八音です。歌集に「三人娘(みたりご)」とありますから五人家族なのでしょう。〈気がつけばついてゆくことのみ多く私が家族の一員となる〉という作品もあって、こうして父親をアピールすなわちかまってほしいのです。さて娘さんたちの反応や、如何。

  挨拶に合掌する手が胸より高いウェイター・コム君のしづかな矜持                         平成13『水晶散歩』井辻朱美
 三句七音、全体でも五八七十七の字余りです。四句の「ウェ」は拗音扱いにしました。連作「ペイズリーもようの密林」十八首の一首です。合掌は胸の高さが標準とすれば、三句はホテルマンとして一線を越えない自覚また距離感の表明でもあるのでしょうか。

  人生のところどころに旬がある何時だつて旨い博多めんたい                         平成20『申し申し』青木昭子
 四句八音、五七五八七です。上句は七十代に入った「私」の述懐なのでしょう。これを起承転結の起承とすれば下句が転結でしょうか。「博多めんたい」は毎日が旬、いつ食べても旨いというのです。キャッチコピーとしても最高です。

  やいちくんとはぐれつちまつたかなしさをお地蔵さまが見てくれてゐます                      平成12『恐山からの手紙』辰巳泰子
 結句八音、五九五七八です。「おかあさん」の「私」と「幼子」「八歳(やつ)の子」の「やいちくん」が旅行するには不似合いな場所です。むしろ旅、旅の仕方も遍路旅の趣きで「あとがき」に「発心集」とあります。その中にあって「やいちくん」の存在が光ります。

   七、字足らず(音足らず)

  私が死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるのだろう                         昭和55『こおろぎ』山崎方代
 初句。「私」は「わたし」とも「わたくし」とも読めますが前者を採りました。したがって四七五七八となります。父は故人です。しかし「私」の心の中では生きています。だがもし「私」が死んだら、そう考えたとき膝を正した、色を正して「わたくし」です。

  けんけんぱけんぱけんぱけんけんぱ月夜に遊ぶ影とふたり                        平成22『銀の砂』黒崎由起子
 二句。五六五七六。昔の子どもの遊びに「けんけん」という片足跳びの遊びがありました。地面に描いた図の上を「けん」の片足着地、「ぱ」の両足着地で跳んでいきます。掲出歌は歌集名ともなっている「銀の砂」八首のうちの一首です。「銀の砂」とは「私」にとっては時の謂い、少女の一人遊び、影が長いのはそのせいでもあるのでしょう。

  エンピツをとがらしとがらしいればゆきつくところないではないか                      平成元『レセプション』髙瀬一誌
 三句三音で五八三七七です。三句を昔は腰の句と呼びました。三句と四句の接続の悪い歌が腰折れ歌です。転じて下手な歌をいいます。三句の字余りを探すのは苦労しませんが、字足らずを探すのはなかなか難しい、破調を開く扉もしくは背中合わせの作品です。

  明るさをもてあましゐる空間はツインルーム十三階                    平成23『ボーラといふ北風』阪森郁代
 四五句が六音です。「乱反射」八首の一首で「チャモロ料理」が登場しますのでグアム島、〈呼びかけてその瞬間に口ごもる 空一点の濁りなき青〉は友人を想定しました。シングルルームでない高層階の空間が欠音を伴って上句のリアリティを生んでいます。

  田の空の向こうの端をバスがゆくひと掻きふた掻き水すまし                        平成19『(りん)』髙橋みずほ
 結句五音、全体は五七五八五です。水を張った田に空が映っています。その端をバスが行きます。田植えの前、水にも倒立しています。近景に水澄まし、その「澄まし」が以上の風景を描きます。また四句に水の波紋、結句で焦点が飾り気なく定まりました。

   八、破調

 破調とは、その五句について句またがりや句割れ、また字余りや字足らずでも説明できない、句が溶解した状態を指します。全体であるか、部分であるかを問いません。

  手のとどくあたり父の帽子はそのまま十余年たつ                       平成元『レセプション』髙瀬一誌
 三句と四句が溶解しています。「手のとどく/あたり父の/帽子はそのまま/十余年たつ」、五六八七で三句欠音でしょうか。個人的には「手のとどく/あたり・父の帽子は・そのまま/十余年たつ」と「・」で小呼吸おきますが、答えは一つではありません。

  ぬくい車内から粉雪を見ている別れた人は帰っていようか                         平成8『地に長く』宮崎信義
 掲出歌は「ぬくい車内から粉雪を見ている」「別れた人は帰っていようか」の二つの文から出来ています。後の方は七七で下句相当です。前の方は個人の読みを提供するほかなく「ぬくい車内から・粉雪を見ている」で三行詩ないし四行詩が想定されます。

  ふいの稲妻木の幹下る蟻の列 ち り み だ れ                       平成20『しろうるり』髙橋みずほ
 私的な読みを続けます。上句は「ふいの稲妻木の幹下る蟻の列」で七七五、すると下句が「ち り み だ れ」になります。破調といえば破調、上句が文章表現とすれば下句は映像表現の趣きです。五つの文字が散り乱れる一匹一匹の蟻に見えてくるのです。

  旧い人になつていく 指のあひだに流れこんだソフトクリームをなめる                     平成23『強霜(こはじも)』佐藤通雅
 微妙な例です。「なっていく」と「指の」の間の空白は文の切れ目であって句の切れ目を保証しません。「旧い人になつていく 指・のあひだに/流れこんだソフト/クリームをなめる」と様式の力も働くわけで、二句と三句は判断の分かれるところでしょう。

   九、掛詞、押韻

 掛詞は同音を利用して一つの言葉に二つの意味を持たせることをいいます。、押韻は同一音や類音を規則的に配置することによって、これを韻を踏むといいますが、韻律上の効果を期待する修辞法です。両方を採用した例もあるので一つにまとめました。

  世襲だっていいではないかちちのみの親父はいつも不機嫌だった                 平成20『企業戦士と呼ばれたりして』竹村公作
 三句の枕詞「ちちのみの」は「父」に掛かります。ただ父は父でも「親父」は変則的です。結句に登場する「不機嫌」を想定して「チチ」という舌打ちの音を掛けたかったのでしょう。俺の不機嫌顔は親父譲りよ。昔気質、職人気質の父親像が浮かびます。

  ケータイのバイブの真似が流行りだすクラスの隅の闇はスケルトン                       平成22『飛び跳ねる教室』千葉聡
 授業中に携帯電話のバイブ音がします。生徒の物真似です。もちろん犯行声明はありません。しかし教壇からは全貌が見えています。結句の「スケルトン」は内部が透けて見えること、また「闇はスケル(トン)」で「闇は透ける(とん)」という仕組みです。

  穴ひとつあけて阿呆があの世へと謝ればおつり アキアカネ出る                      平成19『高柳蕗子全歌集』高柳蕗子
 第三歌集『あたしごっこ』に収録されている「あいうえおごっこ」は頭韻を踏んだ連作です。「あいうえお」に始まって濁音、鼻濁音で終わる合計六十七首は驚きです。掲出歌は最初の「あ」ですが五+二で七個、二個のサービスとなっています。

  きびきびと《お手》《おかわり》を成し遂げて腰をしっかり落とすお得意                       平成23『あいつの面影』依田仁美
 子犬時代の「あいつ」すなわちシェットランド・シープドッグです。結句で句中が「おと(す)おと(くい)」で韻を踏んでいます。この導入部として初句「きびきび」の畳音、二句の接頭語「お」を含む「お手」と「おかわり」が交響します。

  くりごはん今日の夕はんぼくの家ぼくの口にも秋が入った              第八回契沖顕彰短歌大会児童の部契沖大賞 本田涼己(あつき)
 初二句の「はん」と三四句の「ぼく」か韻を踏みます。あるいはリフレインです。問題は結句ですが、予定調和では面白くないし、かといって糸が切れた凧でもいけない、難しいところをウルトラCの着地を見せてくれました。次に若干の補足を行います。
  霜月にしものふるこそだうりなれなど十月はじうはふらぬぞ(藤原定家)
  十月に十のふらぬとたれかいふ時雨はじうとよまぬものかは(藤原俊成)     
 『新撰狂歌集』に定家と俊成父子の作品として登場します。一首目の詞書に「定家卿六歳の時うたよみて俊成へつかはし侍るとて」とあります。三句の「だうり」は「道理」、結句の「じう」は「十」正しくは「じふ」ですが、歴史的仮名遣いを明らかにする契沖の生まれる以前の時代です。二首目は父、俊成の「返し」です。晩秋から初冬にかけて通り雨のように降る時雨、この「しぐれ」を音読すれば「じう」です。但し正徹(一三八一~一四五九)の『清巌茶話』に「家隆卿稚き時、霜月に霜の降るこそ道理なれなど十月に十はふらぬぞ とよみ給ひしを」云々とあります。これでは面白くないと思った後世の人が二首目を偽作して父子鷹の話にしたのでしょう。いずれにしても文語が当時の日常語であったからこそ生まれた作品で、ここを誤解してはならないと思います。

   十、リフレイン、対句

 リフレインは同じ句を繰り返すことで畳句ともいいます。対句は同一または類似している二つの句を並置、対応させる表現法です。これも一つにまとめました。

  ふらいぱん声にして言うふらいぱん壁に掛かりてふらいぱん静か           平成23『やわらかに曇る冬の日』今井恵子
 リフレインの歌ですが二十三節「呪文呪禁呪言となえごと」のところにあっても不思議でない作品です。フライパンの「フライ」は「fry」、「fly」の「フライ」には飛球やハエの意味があります。三唱すれば壁のフライパンが静かに応えているようです。

  手のひらを反(かえ)せば没り陽 手のひらを覆えば野分 手のひら仕舞う              平成11、小高賢編著『現代短歌の鑑賞101』岡部桂一郎
 初二句と三四句が対句、結句の「手のひら」を加えるとリフレインです。手のひらを反すとは手の甲を空に向けることでしょう。すると夕日、それまでは朝日だったのでしょう。今度は手のひらを上にして手のひらで覆ったのでしょうか。すると野分、春の景が秋に一転です。その手のひらを仕舞う「私」とは魔術師か、神か、不思議な世界です。
*右の歌は『木星』所収とありますが見あたりません。〈悦楽のざっざ・ざざんざ金色(こんじき)の霰身を打つざっざ・ざざんざ〉も同様です。自選が改作新作に進んだのでしょうか。

  レンジにてチンして食べる 仏壇にチンして食べたは昔のむかし                         平成17『昔のむかし』前田宏章
 初二句の五七と三四句の五七が対句になっています。同じ「チン」というオノマトペを通して「今」の食べる「私」を契機に「昔」の「少年時代」が鮮やかに出現します。そこには懐かしさと懐かしさには回収されない批評の部分が混在しているようです。

  天国を信じる君と信じない僕が並びて名月仰ぐ                       平成19『のらりくらり』葛西水湯雄
 二句と三句が対句です。「僕」は七十代の男性です。天国を信じないで生きてきた「僕」だからこそ、信じている「君」に惹かれるのかも知れません。マドンナのような趣きです。遠景の空に満月、近景に二人の後ろ姿、構図はどこまでもメルヘンチックです。

   十一、挿入

  真鍮のバーに凭(もた)れてきくジャズの「煙が目にしみる」 そう、しみるわ                        平成4『たまゆら草紙』松平盟子
 真鍮のバーが施されたカウンターに背中を預けて演奏を見ているのでしょうか。四句の「煙が目にしみる」はジャズのスタンダード・ナンバーです。事情はどうあれ、子供を捨てた過去を持つ「私」であってみれば華麗とアンニュイが同居する結句の響きです。

  「大阪の海は悲しい色やねん」天保山に夕暮れ垂れて                         平成11『若月祭』梅内美華子
 上句は康珍化の作詞「悲しい色やね」の一節で、このあと「さよならをみんな/ここに捨てに来るから」と続きます。上田正樹が歌っていました。天保山は大阪市港区の公園にある山、ただし標高は四・五三メートルです。結句の「垂れて」は「天」のイメージと「夕暮れ」の語感が引き寄せたのでしょう。現代の歌枕の雰囲気を漂わせています。

  どこの誰だか知らないけれど誰もが皆知つている公園でパンを撒くその老婆を                        平成20『夏の終りの』王紅花
 正確には「どこの誰かは」ですが上句は月光仮面の主題歌です。このあと歌詞は「正義の味方よ/善い人よ」と続きます。しかし現実は正反対の七七が待っているというわけです。野良猫なのでしょうが、当分の間、状況の好転を望むのは困難なようです。

  鈍重に垂れ込めて峡の空にゐる雲は、天才なんかではない                        平成22『百たびの雪』柏崎驍二
 啄木が渋民村の代用教員時代に執筆した小説が「雲は天才である」です。漱石の「坊っちゃん」を思わせますが、タイトルに何を託したのでしょうか。一年で学校を去った啄木と一生を岩手県の教育者として全うした柏崎の経歴、その差が下句かも知れません。

  飛び散った床の小便ふいている獅子身中に飼う老いの虫                                  𠮷岡生夫
 成句「獅子身中の虫を食らう」を援用しています。出典は「梵網経(下)」で獅子の体内にいる虫が、その寄っている獅子の肉を食って、ついには倒してしまうというのが原義です。若い頃には思いもしなかった老いの虫を嘆きながら床を拭いています。

   十二、倒置法

 文において、短歌も一つまたは複数の文から出来ています、普通の語順と逆にして語句を配置する表現法です。語感、語勢、語調を強め、また整える効果があります。

  嘘だから ミネラル水に投げ込んだ錠剤が金の泡になるまで                       平成15『フラジャイル』佐藤りえ
 初句切れ、二句以下が倒置です。「~金の泡になるまで」を受けた相手のリアクションに慌てたのでしょうか。引っ張って舌でも出せばよいのに、その一拍も置かない口吻は好感を持ち始めた青年を前にしている印象です。最後に初句の「嘘だから」が来ます。

  手を振って「またね」と言う子「また」と「ね」の間にわずか沈黙を入れ                       平成22『飛び跳ねる教室』千葉聡
 二句切れ、三句以下が二句の上にくるのが本来です。作品の置かれているのはエピローグ、この前後に〈離任式、花束、色紙、痛すぎる握手、泣き顔、ただ白い風〉〈上菅田中から戸塚高へ行く 教員異動の異は異状の異〉がありますので、手を振られているのは「私」なのでしょう。明日は会えない、それが結句の「間」につながっています。

  なめくぢは馬場さんの家にもゐるといふまるで飼つてでもゐるかのやうに                           平成23『草隠れ』外塚喬
 三句切れ、四句以下が三句の上にあるのが本来です。二句の「馬場さんの家にも」からすると「私」が持ち出した話題なのでしょう。そのあとを引き取った「馬場さん」の話に登場する「なめくじ」に駆除すべき不快害虫の印象が希薄だったものと思われます。

  ここここととさかをふり立て長岳寺の鶏(とり)は導く観月堂へ                        平成13『寿老人星(カノープス)』久保田幸枝
 四句切れ。通常は結句初句二句三句四句の順です。詞書に「同 阿智村」とあり、信玄の終焉の地、長野県の長岳寺であることがわかります。初句は鶏の鳴き声のオノマトペに案内する観月堂の「此処此処」を重ねています。倒置によって関心が膨らみます。

  あした会う約束をしている人ときょうは別れる浅草橋で                        平成19『ざわめく卵』𠮷野裕之
 部分的な倒置で、掲出歌では三句と四句が倒置になっています。通常は「浅草橋で今日は別れる」です。結句の「浅草橋」が強調されることによって初句の「あした会う」が思い出されますし、「あ」「会(あ)」「は」「別(わ)」「浅(あ)」のア段が響きます。

  あとに待つ人ら思へばねぎごとは二、三にとどめ手を合す神に                     平成5『蟻ん子とガリバー』奥村晃作
 句の中の倒置てす。結句は本来「神に手を合す」とあるところです。しかし初詣の参拝客で賑わう神社ですから願い事も簡略にしたというのです。そこに見られるのは混雑する駅や売店に見られる他者への気配りです。必然として「神」は後回しにされました。

   十三、名詞(固有名詞、普通名詞)

  救急車を呼び寄せていてすみません街道のひと近隣のひと                        昭和63『森の向こう』冬道麻子
 三句「すみません」は全く意想外です。進行性筋ジストロフィーの「私」は救急車の世話になることが多かったのかも知れません。それでも街道の人たちにまで気を使うのは切ないです。逆に救急車の出動回数を増やしている昨今の安易な利用者が思われます。

  〈いい山田〉〈わるい山田〉と呼びわける二組・五組のふたりの山田                       平成12『フリカティブ』大松達知
 「二組の山田」「五組の山田」よりも「私」の主観で呼び分ける方が何かと便利なのでしょう。あくまでも「企業秘密」の範疇と思われます。ほかに〈しらす干しの中に大きなしらすゐて思ひ出す巨軀の生徒のひとり〉もあって成る程と感心してしまいます。

  能勢口(のせぐち)より妙見口まで口と口結ぶ電車は風をはらみて                           平成13『雪耳(シユエアル)』足立晶子
 三四句「口と口結ぶ電車」とは兵庫県川西市の川西能勢口駅から大阪府豊能郡豊能町の妙見口駅までを結ぶ能勢電鉄の妙見線です。人間に喩えたら口の端と口の端を結んで走ります。川西市はタツノオトシゴのような地形で北部は山岳の起伏に富んでいます。

  優秀な企業戦士ではなかったが「戦後の日本」を支えた一人                          平成17『青い猫』川本千栄
 挽歌「菊投げ入れよ」十二首の一首です。企業戦士は仕事第一、ときに家庭を犠牲にすることも厭いません。それに対して上句は平均的なサラリーマン像を語っています。牽引する人と支える人、後者の一人である父親への心のこもった「弔辞」と思われます。

  するすると上がる花火に見惚れれば山下清の絵の中におる                        平成18『絶滅危惧種』諏訪部仁
 三句の仮定形によって現実の花火を見ている「私」が異空間の観客になっています。貼り絵で才能を開花させた画家の山下清(一九二二~一九七一)は、「日本のゴッホ」「裸の大将」として有名ですが、花火が好きで代表作に「長岡の花火」があります。

  磨かれた車体の上をなめらかな雲がゆき夏の地図ひらかれる                       平成19『ノスタルジア』佐伯裕子
 空の雲そしてボンネットに映る雲が流れていきます。若い「私」たちは自然公園の中で地図を広げています。どこへ行こうか、やはりボンネットの上、ここは突き抜けるように明るい、日本ならば軽井沢でしょうか。以上、作品から受ける勝手な映像でした。

  いっぱいに洗濯物を干した船ブルックリン橋を今くぐりゆく              平成19『セレクション歌人20 谷岡亜紀集』谷岡亜紀
 ブルックリン橋はニューヨーク市のイースト・リバーに架けられている有名な吊り橋です。洗濯物を外に干す習慣はないと思われますし、まして水上生活者がいるとも思われません。だからこそ「私」の関心を惹いたのでしょう。まるで万国旗のようです。

  バランスはどこでとるのか梟の身にそぐわない顔のめんせき                           平成20『草立』池本一郎
 自然界に存在するものは、すべてが天の配剤です。その配剤について思慮しても及ばないことです。とはいいながらフクロウの顔の大きさには、つい余計なことを考えてしまいます。ハート型の顔は岩盤、両目が正面を向いているのも鳥としては異色です。

  コロッケは俵形にと伝授する三代目が聞く「タワラつてなに」                      平成21『アダムの肌色』春日いづみ
 米俵は昭和三十年代までは現役だったそうです。炭俵は中身もろとも生活の表舞台から消えました。したがって「俵形」で通用するのは二代目の「私」までということになります。「俵形」のコロッケは伝授しても、さて名称までは保証の限りではないのです。

  日のあたる河原にぽつりまたぽつり芋侍のやうな猫たち                     平成22『南無 晩ごはん』池田はるみ
 時代劇で耳にしますが「芋侍」は辞書に出てきません。比喩としての「芋」を接頭語的に冠したのでしょう。田舎侍や芋助の類、河原ですから猫は野良猫です。口の両側、目の上、頬と顎に伸びた髭とその丸顔は憎めない、しかし不穏分子のようでもあります。

  二日ぶりに目をあけた姑は唇にて〝なかなかきまりがつかない〟といふ                           平成23『雲の塔』日高堯子
 下句の「なかなかきまりがつかない」とは「お迎えがこない」と聞こえます。これより先に〈手のみまだあばれる力のこる姑おほきな手袋はめられ眠る〉とあり「きまり」をつける側も介護をする側も辛いものがあります。「姑」は「はは」と読むのでしょう。

   十四、漢字

  愛愛愛愛愛愛と八月の波打ちぎはを走るカニたち                       昭和63『草食獣勇怯篇』𠮷岡生夫
 啄木に〈東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる〉があります。ネガティブな歌ですが、こちらは夏の砂浜を行進する蟹の一団です。但し横歩き、しかも人面蟹ならぬ文字蟹の「愛」が続きます。空には入道雲が広がる海辺の光景です。

  葡萄牙、西班牙に牙あることの詩と真実を話せば長い                        平成9『嘆きの花園』藤原龍一郎
 初二句はポルトガルとスペインの漢字表記です。その「牙」に十五世紀から十七世紀にかけての広大な植民地支配の歴史を見ているのです。四句「詩と真実」はゲーテの自叙伝『詩と真実』を掛けた、作者の閃きでしょう。全二十巻、確かに「話せば長い」。

  序文一栞文三帯文一中身ノ割ニ大行(オホギヤウ)ナ本                         平成19『穀潰シ』小笠原和幸
 結句の「大行」は当て字ですが、確信の破格表現であることが著者自身によって中扉の裏に注されています。全編で漢字とカタカナを使用、また「風」が残していく捨て台詞「穀潰シ」は誰彼を選びません。護送戦艦に守られた大仰な本も例外ではないのです。

  大風呂敷に包みてをれば永々とお世話に、と口をついて出さうな                         平成20『申し申し』青木昭子
 現実離れした話を「大風呂敷」、それを言ったり、計画することを「大風呂敷を広げる」といいます。掲出歌は逆の行為の中で生まれた連想を歌っています。三行半をつきつけられたのは古女房、糟糠の妻の雰囲気です。その妻の諫めも空しかったのでしょう。三つ指をついた永の別れの場面となりますが、慌てたのは亭主の側であったかも知れません。

  額縁の右に傾く傾きを正せば戻る 〈努力〉の威厳                        平成21『二丁目通信』藤島秀憲
 映像や舞台で、ずっこける場面の象徴として、壁に掛かる創立者の写真が傾くというのがあります。その短歌バージョンです。ここでは「努力」の額ですが、共通するのは威厳の類です。右に傾くのは右肩上がりの歴史を急降下させるからでしょう。傾きを正せばホラコノトオリそういわれて、狐につままれたようになるのが私たち読者です。

   十五、カタカナ

  ケイコウトウガキレカケテイルイエジュウノケイコウトウガキレカケテイル!                       平成4『東京哀傷歌』藤原龍一郎
 「平成紳士」十四首の一首で隣に〈家庭内歌人とは何?バスタブのふちに玩具のアヒル並べて〉があって、その落差が印象的です。カタカナ表記は内外のない歌人の心の風景なのでしょう。これを漢字と平仮名混じりにするどうなるか。〈蛍光灯が切れかけている家中の蛍光灯が切れかけている!〉と憑きものが落ちて「家庭内」に帰還します。

  五月病ニ一度カカツテミタイノと殴りたくなる声もみづいろ                        平成6『世紀末くん!』荻原裕幸
 五月病の「私」に無神経にも「五月病ニ一度カカツテミタイノ」と曰う女の子もしくは恋人です。結句の「みづいろ」は『世紀末くん!』においてキーワードのようですが、ここでは「涼しい」ほどの意に解しました。また「私」と恋人が攻守所を変えた感のする歌に〈感情ノ羽化スルサマガミエルノとまたアカプルコからの絵葉書〉があります。

  駅長の頬そめたあと遠ざかるハロゲン・ランプは海を知らない                平成15『セレクション歌人26 東直子集』東直子
 夜陰に遠ざかるハロゲン・ランプはハロゲンガスを封入した電球、長距離列車の前照灯です。小駅なので駅長自らが列車監視でホームに出ているのでしょう。結句は軌道しか照らさないハロゲン・ランプとホームに影を曳く鉄道マンの半生が重なるようです。

  ワープロをつけっぱなしでハイホーと階下へ走る授乳するため                          平成15『飛ぶ練習』大田美和
 赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたのでしょうか。書斎での仕事もそのままに授乳へ駆けつけるお母さんの姿です。気になるのは三句と四句です。白馬に跨った仮面の主人公、ローン・レンジャーの掛け声「ハイホー・シルバー」の「ハイホー」が思われます。

  ロープへと投げられはねかえることもプロレスラーの仕事のひとつ                          平成22『RERA』松木秀
 上句の「~はねかえること」はロープ・ワークといい、プロレスの基本技術だそうです。結句の「仕事の一つ」は、その「~・work」からきているのでしょう。跳ね返らなくてもよさそうなのに跳ね返る、そこにショー・ビジネスの世界を見る目があります。

   十六、ひらがな

  しゅうぎいんせんきょはくれて彼岸花なにをえらんでやせてゆくくに               平成16『セレクション歌人10大野道夫集』大野道夫
 「戦争と革命の世紀の縁で――佐佐木信綱『思草』(一九〇三年)に返す」の一首です。信綱の歌は〈ちかづきし選挙の噂とりどりに爐の火赤くもえて夜はふけにけり〉です。「爐の火」に対して赤は赤でも燃えない「彼岸花」、しかも「彼岸」は清音なら「悲観」に通じます。「なにをえらんでやせてゆくくに」の説得力の一因でしょうが深刻です。

  ひら仮名は凄(すさま)じきかなはははははははははははは母死んだ                       平成19『仙波龍英歌集』仙波龍英
 仙波龍英(一九五二~二〇〇〇)の『墓地裏の花屋』(平成四年)巻頭の一首です。二句が文語で本来なら圏外とするところですが、その迫力に負けました。「は」を重ねて笑っているようにも聞こえるのですが、いわば狂気から正気へ、その落差と落胆が五七五七五、結句二音の不足なのでしょう。括弧で「享年七十二歳」とあるのも訴えます。

  いちれつにへいたいがいくしろいみちふりむくものはだあれもゐない                     平成19『暗室に咲く白い花』武藤雅治
 歌集の目次は「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅲ」で作品が一頁二首組で並ぶだけという簡素な編集になっています。掲出歌は「Ⅲ」に含まれる九十首の一首、前後の関連性も見あたりません。唯一のヒントは歌集名で、どうやらネガフィルムのようです。ネガフィルムのネガはネガティブで陰画、形容動詞だと否定的なさまになります。写真を見る作者の気持ちは当然ながらネガティブ、それが全文字の平仮名を選択させました。不気味な死への行進です。

  ぽつんとひとり遠くにぽつんとまたひとり灯ともしてかまくらの中                        平成19『〈空き部屋〉』渡辺松男
 結句「かまくら」の表記は正式にも平仮名です。日本の降雪地に伝わる小正月の伝統行事で、子供たちが雪室(ゆきむろ)を作り、その前で鳥追いや塞(さえ)の神の火祭りを行います。掲出歌は観光化されていない、むしろ心象風景あるいは原初的な「かまくら」なのでしょう。

   ずるずると屋根落ち軒にたれるゆきはるのしずくとなるまで の       平成20『しろうるり』髙橋みずほ
 順当には四句、結句、初句、二句、三句となります。倒置法ですが、微速度撮影された季節の変化を見るような印象です。結句の一字空けの「の」また二音欠落がその長い時間を暗示しています。実際は小さな滴を繰り返しながら遠い春がやってくるのです。

   十七、蟹行文字(かいこうもんじ)

  agitation(アジ)とばすとばすつばきがくちびるにまつわるところみているばかり                           昭和49『天唇』村木道彦
 「agitation(アジ)」演説をする意の「飛ばす」(勢いよく言う)を多義語としての「飛ばす」(飛散させる)に転じてノンポリから見た学園紛争が描かれています。村木道彦は昭和十七年生まれの慶応大学卒、同学年で昭和十八年生まれの福島泰樹とは好対照の存在です。掲出歌は昭和四十(一九六五)年に慶応大学で起きた「学費値上げ反対闘争」の場面かも知れません。早稲田の学生だった福島泰樹には〈咽喉(のど)かれてそれでも叫んでいなくてはならぬむなしさ 風に散る声〉(『バリケード・一九六六年二月』)という作品があります。

  夜のあちこちでTAXIがドア開く飛び発つかぶと虫の真似して                   平成4『ドライ ドライ アイス』穂村弘
 一首の区切れは「夜」を「よ」として「夜のあちこちで/TAXIが/ドア開く/飛び発つかぶと/虫の真似して」の七五五七七と読みました。三句「タクシーが」でなく「TAXIが」と表記されることによって下句のリアリティを倍加したようです。

  哲学者A氏の像と名付けられ路上にごろんところがる鉄塊                       平成12『豆ごはんまで』坪内稔典
 むつかしいな。どこが芸術なのだ。常設かどうかは不明ですが「路上」に置かれた「鉄塊」が人をけむに巻いています。しかし「私」の審美眼は単純明快です。ただの「鉄塊」が「哲学者A氏の像」と命名されることによって意味を持ち始める、かのようです。

  薄暗い部屋で私を出迎える洗濯ばさみのAの倒立                           平成13『駅へ』松村正直
 先の仮名としての「A」に対して、こちらは「A」の形が用いられています。倒立だから「A」となり、部屋の中に洗濯物が干してある状態です。〈既に名を忘れてしまった隣人と時おり出会い挨拶をする〉といった一人暮らしの生活の一端が窺われます。

  UFOが迎へに来さうな夕まぐれ西の山あひほのあかるくて                       平成14『ありがたう』落合けい子
 初句「UFO」は未確認飛行物体、異星人が乗っています。その「UFO」が迎えにくるというのですから「私」は地球外生命です。昔なら「かぐや姫」です。薄暗くなっていく地上と逆行するような山と山の間に「もらい子幻想」を見ていたのでしょう。

   十八、記号

  雨だれをοοοと書きたせば
   カナシイ顔の少女完成                     昭和61『MARS☆ANGEL』林あまり
 二句の「οοο」は記号というより絵、「雨だれ」だから「シトシトシト」「ポツポツポツ」、結句から戻れば「シクシクシク」となります。「へのへのもへじ」「コックさん」「ハマムラ」ほかの絵描き歌ないし文字顔に短歌も「すわ参上か」という印象です。

  むの字には○がありますその○をのぞくと見えるえんどう畑                      平成12『豆ごはんまで』坪内稔典
 「大阪の空」十六首の一首、中に〈一本の紐をひねればさまざまなひらがなになる秋の夕暮れ〉があります。紐を素材にして想像力の世界に遊んでいます。「○」は「マル」と読んで望遠鏡なのでしょう。句集『ぽぽのあたり』には〈えんどうの花に泊まって来たと言う〉があります。グリーンピースは、いうまでもなく「豆ごはん」の材料です。

  思い出すかの日の声のナンセンス! みんなどこかへ行ってしまった                           平成14『燠火』大島史洋
 大島史洋は昭和十九(一九四四)年生まれ、昭和四十四(一九六九)年に早稲田大学大学院を修了しています。昭和四十三年から四十四年は全国的な大学紛争の年、大島も全共闘世代の一人でしょう。団交、タテカン、シュプレヒコール、ナンセンスといった言葉が世上を賑わしました。あれから三十余年、「ナンセンス!」と指弾していた世代になってみると、あのときの熱気も「みんなどこかへ行ってしまった」というのでしょう。

  ××だああ××だ××だそんな時代が来るよな気する                        平成14『視野よぎる』岩田正
 「××」は取り敢えず「ペケペケ」と読んでおきます。すると「××だ/ああ××だ/××だ/そんな時代が/来るよな気する」と音数も合います。では「××」とは何でしょうか。大正十三年生まれの岩田にとって、それは伏せ字を意味するはずです。同じ一連に〈首縦にみんなふつてるイヤイヤとたまには横にふれよ若もの〉があります。

  ∞(無限大)の瞳となって風船の最後の点を見つめる子供                        平成18『やさしい鮫』松村正直
 初句は「∞の」で、これを「無限大の」と読ませます。無限大の空に放たれて、やがて呑まれていく風船を凝視している子供の両目が「∞」のようだといっています。歌集『駅へ』には〈考えのまとまらぬまま天井の蛍光灯の◎(まる)を見ている〉があります。

  三年間みんな本当に(   )←空欄に好きな言葉を入れ卒業せよ                       平成22『飛び跳ねる教室』千葉聡
 音読すれば〈三年間/みんな本当に/空欄に/好きな言葉を/入れ卒業せよ〉となります。結句「せよ」は「する」の命令形、文語「す」の命令形と同じです。生徒参加型なら〈三年間みんな本当に○○○○○←好きな言葉を入れ卒業せよ〉もあるでしょう。

   十九、数字

  青柿に午前六時の日がさして六月四日何の日だっけ                       平成12『豆ごはんまで』坪内稔典
 初句の「青柿」は熟さない、色の青い柿をいいます。俳句なら「青柿」と「柿の花」は夏の季語、「柿」「熟柿」「柿紅葉」が秋の季語で、主役に躍り出るのは秋の季節です。その目立たない青柿に日がさすように「六月四日」が「私」の記憶に浮上します。「だっけ」は詠嘆と自問でしょう。個人史(家族史)の「六月四日」なのか、それとも日本史(世界史)を含む「六月四日」なのか、日々の暮らしは有名無名の記念日の連続なのです。

  一芸に秀でることのむずかしさ思いつつゆく夜のかわぎし                         平成15『人間漂流』田島邦彦
 「淋しい男の数え歌」の「その一」十首の一首目、つまり「一つとや(一つとせ)…二つとや(二つとせ)…」の短歌バージョンです。「その二」と「その三」もあります。〈六月の雨にこころの塞がれて議事堂デモのバスを見送る〉(「その二」)。田島は昭和十五(一九四〇)年生まれ、中央大学の学生時代に国学院大学の岸上大作らと同人誌「具象」を創刊しています。六十年安保の世代なわけですが、その年の六月十五日は東大生樺美智子が国会構内の抗議集会で死亡する事件が起きています。結句の「バス」は岡井隆の〈雨脚(あめあし)のしろき炎に包まれて暁(あけ)のバス発(た)てり 勝ちて還れ〉(『土地よ痛みを負え』)が影を落としています。〈五十二歳が平均寿命の日本がたしかにあった敗戦ののち〉(「その三」)。

  議案書の右肩留めるホッチキス「カチン!」と響く八月六日                 平成20『企業戦士と呼ばれたりして』竹村公作
 ホッチキスの音から連想する昭和二十年八月六日午前八時十五分です。前後の作に「ファットマン・リトルボーイ」「黙祷をする一分間」の句が見られます。広島に投下されたのがリトルボーイ、九日に長崎へ投下されたのがファットマンです。終戦記念日の黙祷は広く行われていますが、「広島」は朝のテレビを含めてその機会が少ないようです。

  灯された六千余りのろうそくに沈む神戸一・一七                         平成22『銀の砂』黒崎由起子
 阪神淡路大震災は平成七(一九九五)年一月十七日の午前五時四十六分に発生、震源地は淡路島北部、マグニチュードは七・二、最大震度は七、死者は約五千五百人、関連死を加えると約六千五百人だそうです。掲出歌は神戸市の東遊園地で行われた鎮魂の集いと思われます。四句「沈む」はローソクを日付の形に並べた様子、まだ暗いのです、それと省略されていますが「(悲しみに)沈む」でしょう。結句は「いちてんいちなな」です。.

  ゼロか死か青柳町こそかなしけれ〇四〇ー〇〇四四(郵便番号)                          平成22『RERA』松木秀
 二句から三句は啄木の〈函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花〉(『一握の砂』)の挿入です。啄木は明治四十年五月から八月の百三十二日間、函館市青柳町に住んでいます。その郵便番号が「〇四〇ー〇〇四四」だというのです。「生か死か」を連想しますが、「生」が「ゼロ」になっているのは財布の中身のことかも知れません。

   二十、比喩、見立て

  ハミングは浴室を出てキッチンへ北京ダックのおしりがゆれる                  昭和62『サニー・サイド・アップ』加藤治郎
 「北京ダック」はアヒルの中国産品種、大形で白いということですが、一般的には皿にのった料理でしか見ることがありません。それでも女性がお尻を左右に振りながら歩く姿の比喩として成功しているのは、読者が「ダック」つまりディズニーに登場するドナルドダックを重ねているからではないでしょうか。残念ながらドナルドは男ですから使えません。その残像を利用しつつ北京ダックを選択した(?)か、色っぽいです。

  片足をプールに差し入れ掻きまはすいつまでたつても世界は混沌                         平成9『夕映伝説』阪森郁代
 プールサイドで足を水に遊ばせている「私」の頭を領するのが「是(ここ)に天(あま)つ神諸(もろもろ)の命以(みことも)ちて、伊耶那岐命(いざなきのみこと)・伊耶那美命(いざなみのみこと)二柱(ふたはしら)の神に、『是(こ)のただよへる国を修理(つく)り固め成せ』と詔(の)りて、天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依(ことよ)さし賜ひき。故(かれ)、二柱の神、天(あめ)の浮橋(うきはし)に立たして、其(そ)の沼矛を指し下(お)ろして画(か)きたまへば、塩こをろこをろに画き鳴(な)して、引き上げたまふ時、其の矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩累(かさ)なり積(つも)りて島と成りき。是れ淤能碁呂島(おのごろしま)なり」(『古事記』)という国生み神話です。もとより「私」の足を掻き回しても水は水でしかありません。

  聖俗は分ちがたくて喉仏、その間近くに喉チンコある                        平成17『昔のむかし』前田宏章
 「喉」という言葉を戴いて「仏」という聖なる存在と「チンコ」という俗なる存在が同居しています。私たちの存在は聖俗不可分、聖俗具有だという主張が二句の「て」に看取されます。そして聖俗の敷居を取り払ったところから可笑しさが湧いてきます。

  立春の朝の戸袋越冬の蚊が間男のやうに飛び出る                           平成23『椒魚』藤井幸子
 立春は二月四日頃、梅の開花がちらほらと伝わってきたりします。そんな朝、雨戸を収納すると中から一匹の蚊が飛んで出たのです。季節が季節ですし、その隠れていたところが「間男」を連想させたのでしょう。ちなみに血を吸うのは産卵する雌だけで、手のひらによる討ち死にのリスクを負わない雄は植物の汁を吸って生きているそうです。

   二十一、オノマトペ(擬音語・擬声語・擬態語)

  白菜が赤帯しめて店先にうっふんうっふん肩を並べる                        昭和62『サラダ記念日』俵万智
 「うっふんうっふん」で思い出すのは「黄色いサクランボ」の歌詞です。「若い娘は(ウフン)/ お色気ありそで(ウフン)/なさそで(ウフン)/ありそで(ウフン)/ほらほら/黄色いさくらんぼ/つまんでごらんよワン/しゃぶってごらんよツー/甘くてしぶいよスリー/ワン/ツー/スリー/ウーン/黄色いさくらんぼ」ですが実際は「ウッフン」と聞こえます。昭和三十四年にスリー・キャッツの唄で発売され、昭和四十五年にゴールデンハーフによってカバーされました。俵万智は昭和三十七年生まれですからゴールデンハーフを子供の頃に聴いたのでしょう。ついカゴに入れたくなるような白菜です。

  どの家の窓も四角であるわけを雪やこんこん考えていた                       平成12『豆ごはんまで』坪内稔典
 四句は童謡「雪」の一節です。一番は「雪やこんこ霰やこんこ/降っては降ってはずんずん積る/山も野原も綿帽子かぶり/枯木残らず花が咲く」、これが二番になると「雪やこんこ霰やこんこ/降っても降ってもまだ降りやまぬ/犬は喜び庭駈けまわり/猫は火燵で丸くなる」と家の中も描かれます。「こんこ」は「こんこん」とも歌われます。また「こんこん」に物事が尽きないさまをいう「滾滾」を重ねています。太郎の窓に雪が降り、次郎の窓に雪が降り、花子の窓にも降っていることでしょう。窓は内と外をつなぐ回路です。関心は雪しかし含羞の人は窓の雪をいわずに上句のようにはぐらかすのです。

  雪の夜の鍋のとんとんとんがらしハラヒリホレと舌を見せ合ふ                          平成12『希望』小島ゆかり
 二句の「とんとん」は俎板でものを刻む音です。その「とん」が「とんがらし(唐辛子)」を呼び込みます。掲出歌はさらに「ハラヒリホレ」と続けます。これは谷啓のギャグ「ハラホロヒレハレ」の変奏でしょう。古い話ですが「シャボン玉ホリデー」(一九六一~一九七二)で生まれたギャグです。小島は昭和三十一(一九五六)年生まれ、鍋を囲んで舌を見せ合うハラヒリホレは、親の世代から子の世代へと受けつがれるのでしょう。

  あんあん・あん・あんあん・あいん・あいいいんお馬に逢へても泣いてばかりよ                      平成12『恐山からの手紙』辰巳泰子
 「おかあさん」と「やいちくん」の母子二人旅です。〈お馬さん見たいおまへに止めてくれたバスだつたのにこの恩知らず〉と「おかあさん」は怒りますが、もとより「やいちくん」が望んだ恐山行ではありません。幼子の泣き声を馬の嘶く声に擬えています。

  試験管のアルミの蓋をぶちまけて じゃん・ばるじゃんと洗う週末                   平成19『ぼんやりしているうちに』永田紅
 大学の研究室です。三句「ぶちまけて」の「ぶち」は接頭語で荒々しい動作を示唆します。アルミの蓋ですから支障はないのですが、週末ですから心は楽しんでいない、投げやりな感じです。しかしそれも「じゃん・ばるじゃん」と単純作業から生まれる音がユゴーの小説「レ・ミゼラブル」の主人公であってみれば贅沢というべきかも知れません。

   二十二、仮想奇想空想幻想妄想

  てまり唄手鞠つきつつうたふゆゑにはかに老けてゆく影法師                         平成7『てまり唄』永井陽子
 永井陽子(一九五一~二〇〇〇)の第七歌集の一首です。手鞠をつくのは少女の「私」もしくはその少女を見ている「私」が考えられます。少女は少女しかし影だけが年老いていくというのも不気味な光景です。制作後、二年間を筐底にあった作品群です。

  いもうとの言葉にならぬ声ひびく中庭の井戸から夜ごと                         平成10『眠りの森』青柳守音
 三句までは驚きません。四句も、少し雲行きが怪しくなりますが大丈夫です。それだけに結句の五音が響きます。中庭のある家だから洋風の邸宅しかも周囲から見おろせる井戸です。そこから「言葉にならぬ声」を聞いている「私」は何者なのか? 怖ろしい。

  JR東福寺駅稲荷駅藤森(ふじのもり)過ぎ雲雀の空へ                       平成12『豆ごはんまで』坪内稔典
 JR奈良線の駅名に触発された一首です。京都から順次、東福寺駅、稲荷駅、JR藤森駅(京阪本線の「藤森駅」と区別するために「JR」を冠しています)で、その次は桃山駅です。しかし電車は藤森駅から高く舞い上がります。藤森神社の空高く、です。

  今生(こんじよう)の某(それがし)もとは田螺にて水田の畦をいま照らす月                         平成14『一点鐘』岡部桂一郎
 二句の「某(それがし)」の使用例は遠く『後撰夷曲集』にも見られます。〈それがしもきてこそはみれ菅笠のなりをするがのふじのいただき〉。掲出歌は斎藤茂吉の〈とほき世のかりようびんがのわたくし児田螺はぬるきみづ恋ひにけり〉(『赤光』)に応えたのでしょう。

  空蝉の背中ぱっくり割れていて今日もどこかで応仁の乱                          平成15『からまり』大橋弘
 掲出歌は「第七章 風船乗りのための歌(初期歌編)に含まれています。上の句の描写にも惹かれますが、それに続く下句とりわけ結句の「応仁の乱」で思わず唸ってしまいました。その空蝉の背中から出てきた半甲冑の男たちは鬨の声の方角に走っていったのでしょう。「私」の立つ頭上でも蝉の声が大きくなったり、小さくなったりしています。

  シースルーエレベーターを借り切って心ゆくまで土下座がしたい                       平成16『渡辺のわたし』斉藤斎藤
 四句まで来て結句を想像できるでしょうか。私は美しい夜景が見えてくる、そんなことしか思いませんでした。外を見るのではなく、中で土下座をする「私」を見せたい、何とも派手な歌です。〈ガム味のガムを噛んでる音により自己紹介とさせていただく〉も片寄っていますが、これを両極としてバランスをとっている「私」かも知れません。

   二十三、呪文呪禁呪言となえごと

  みじかびのきゃぷりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ                                  大橋巨泉
 昭和四十四年にテレビで放映されたパイロット万年筆のコマーシャルです。初二句は「短いキャップをとれば」、三句は「ペン先があらわれ」、四句「すらすら書けること」、結句「葉書も手紙も、これこのとおり」、概ね、このように聞こえます。また初句「みじかび(短日)」と結句「葉っば踏み踏み」から秋を行き交う靴の残像が重なります。

  オリゴトウベータカロチンカルシウムビタミンドコサヘキサエンサン                        平成8『ファブリカ』香川ヒサ
 五種類の名詞が並んでいます。「オリゴ糖/ベータカロチン/カルシウム/ビタミン/ドコサヘキサエン酸」で「ドコサヘキサエンサン」が句またがりです。このように並べられると色覚検査を受けているような気がします。アリガトウ、ビタミン何処サ?

  黒黒哉黒黒黒哉黒黒哉黒黒黒哉黒黒哉命(ミヤウ)                         平成19『穀潰シ』小笠原和幸
 歌集は漢字とカタカナで表記され、しかも文法その他についても破格を自認するという異色ぶりが目立ちます。掲出歌はその掉尾に置かれています。「コクコクヤコクコクコクヤコクコクヤコクコクコクヤコクコクヤミヤウ」と南無ブラックホールの趣きです。

  お慰めするのもどうも非礼にて仰ぐホーデンぽんちたびなし                         平成20『流塵集』石田比呂志
 「甕裏醯鶏(おうりのけいけい)」十九首の一首です。『日本国語大辞典』に「醯鶏甕裏(けいけいおうり)の天(てん)」で「かめの中の小虫が、せまいかめの中だけが天地のすべてであると考え、外界を知らないこと」とあります。石田の韜晦趣味が窺われます。掲出歌には「謹んで宇野昭彦御隠居に呈す」とあります。四句「ホーデン」はドイツ語で睾丸をいいます。いっしょに温泉に浸かったのでしょうか。結句の謎のような言葉は逆に読むと馬鹿馬鹿しくて笑ってしまいます。

  ゆるゆるとおいらせたまへゆるゆるとみいらせたまへおのうがみさま                        平成22『百たびの雪』柏崎驍二
 詞書に「農神さまを迎ふるマサヨさんの言葉」とあります。仮に二句と四句の「いらせたまへ」が「入らせたまへ」なら二句の「お」は接頭語の「御」、『日本国語大辞典』に「体言(まれに用言)の上に付いて、尊敬の意を表わす」とあります、四句の「み」は作物の「実」となります。山の神が田の神になる春秋交替を初二句と解してみました。初二句の五七と三四句の五七が一字を変えてのリフレイン、結句の体言止めも見事です。

  ゆびおれば歌となる怪ゆびおれば歌となる快ゆびおっている                                  𠮷岡生夫
 五句三十一音詩という様式の不思議さ、また有り難さを賛嘆する呪文、そして歌ができないときに歌の神さまに降臨していただくための唱えごととして作ってみました。
  白山の峯の木蔭にやすらひて静かにすめる雷(らい)の鳥影
  悪だくみあるこころこそ鬼よ蛇よ何になるかやあと見よ蘇和歌
 歌の歴史は、正史というよりは稗史ですが、生活に結びついた秘歌に事欠きません。ちなみに一首目は雷除けの歌で『江戸語の辞典』(講談社学術文庫)、二首目は忘れ物はないか「あとを見よ」の歌で『日本国語大辞典』から、それぞれ収集しました。

   二十四、回文

 回文(かいぶん)とは上から読んでも、下から読んでも、同文同文句となるものです。一首まるごとの回文歌としては〈ながきよのとをのねぶりのみなめざめなみのりふねのおとのよきかな〉が古来より有名です。以下に現代の回文歌を採集してみました。

  かさはさか きゆはあはゆき くさはさく 循環バスは渋滞の中                        平成2『テクネー』香川ヒサ
 現代語として読みました。上句に三つの回文が続きます。仮に漢字化を試みると「傘は坂」「消ゆは泡雪」「草は咲く」が思われます。四句の「循環」は閉じた回路を繰り返し通ること、つまり回文と同様の路線です。車中の「私」が見ている風景でしょうか。

  もしかして鴎のメモか一枚の紙片が宙を舞い降りてくる                         平成15『人間漂流』田島邦彦
 二句が回文です。一連二十三首の題は「記憶浮く沖」つまり題から作品からすべてが回文です。それも〈金で買う人生などもあるとして大枚撒いた阿呆もいたよ〉と出現箇所は色々です。この歌なら四句「たいまいまいた」ですが、探すのも容易でありません。さらに「記憶浮く沖」を含む「Ⅳ」章は「昼も曇る日」十九首、「家屋湧く丘」二十三首、「酸欠検査」十九首、「まだ来ぬ谺」二十七首、計百十一首が回文という大作です。

  澄(す)ましたいトンビはぴんといたします
  クールな城(ルーク)
  キングの軍旗(ぐんき)                        平成16『潮だまり』松原未知子
 「烏賊墨スカイ」十二首の一首です。タイプは五行と三行の二種類ですが雰囲気は似ています。たとえば掲出歌は三つの回文からなっています。しかし最初の回文と次の回文、また次の回文と切れているようでつながる一篇の詩のような趣きなのです。

  絶望より脱帽だよと一郎は禿に虹たて「浦和で笑う」                      平成19『高柳蕗子全歌集』高柳蕗子
 第二歌集『回文兄弟』中「回文兄弟」十首の一首です。登場するのは一郎から十郎まで、回文は十首とも結句のみの構造です。類音を効かして「絶望」より「脱帽」を選択、名実ともに向日性の一郎兄さんが浦和で笑った、意味にこだわると以上のとおりです。


   二十五、枕詞

 『日本国語大辞典』で「枕詞」を引くと次のように説明されています。

  五音、またはこれに準ずる長さの語句で、一定の語句の上に固定的について、これを  修飾するが、全体の主意に直接にはかかわらないもの。被修飾語へのかかり方は、音  の類似によるもの、比喩・連想や、その転用によるが、伝承されて固定的になり、意  味不明のまま受け継がれることも多い。この修辞を使用する目的については、調子を  整えるためといわれるが、起源ともかかわって、問題は残る。

 また平凡社ライブラリーの『日本語の歴史3 言語芸術の花ひらく』の第一章「口頭言語から書記言語への定着」中、二「口頭言語と書記言語」に「口頭語のあやとしての〈枕詞〉」の項があって「枕詞の発生の契機は、語部が語りを行なう場合の口頭の技術――語りのあや――としてのことばの修飾に関係をもつとみられている」とあります。これらからすると、古代に成立した枕詞の再利用もさることながら、現代語による枕詞の創作があってもいいのではないか、そんな期待が膨らみます。

  なめらかな肌だったっけ若草の妻ときめてたかもしれぬ掌(て)は                          昭和45『群黎』佐佐木幸綱
 まずは伝統的な使用例からです。「俺の子供が欲しいなんていってたくせに! 馬鹿野郎!」十五首の一首です。三句の「若草の」は「つま(妻・夫)」に掛かります。原初的しかも新鮮で青春性と愛唱性を兼ね備えた現代の名歌になっています。

  そらみつヤマト運輸のトラックで行つてしまつたエミちやん一家も                      平成10『獅子座流星群』小島ゆかり
 次は既成の枕詞を応用、変奏した作品です。初句の「そらみつ」は「やまと」に掛かる枕詞です。その意味では正統です。ただ「やまと」は「やまと」でも地名ではありません。カタカナで「ヤマト」つまり会社名にして走らせたところがユニークです。
 先例は正岡子規に〈久方のアメリカ人(びと)のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも 〉(岩波文庫『子規歌集』)があります。「久方の」は「天(あめ・あま)」「雨」ほかに掛かる枕詞です。これを同音異義語の「アメ(リカ)」に掛けています。古くは半井卜養に〈久かたのあまのじやくではあらね共さしてよさしてよ秋の夜の月〉(一六六九年『卜養狂歌集』)があります。詞書は「八月十五夜月曇りて出でざりければ」で「天」を辿って「天の邪鬼」、囃すように「差してよ差してよ、お月さま」となります。

  もう一本お燗ねだってふゆくさの不遇時代の演歌を聞こう
  翔ぶ鳥の長島茂雄(ながしま)だって出発(はじまり)はあの空振りの三振からだ                         平成20『流塵集』石田比呂志
 一首目の三句「ふゆくさの」(冬草の)は枯れる意から「離(か)る」に掛かります。しかし作者は通常の掛かり方を無視します。イメージでしょう、頭韻を踏んで「不遇時代」を呼び寄せます。これと一首置いて二首目の作品です。初句「翔ぶ鳥の」(飛ぶ鳥の)は地名「明日香」に掛かりますが、それを破天荒にも「長島茂雄」に掛けています。しかし成句「飛ぶ鳥を落とす勢い」も手伝って不自然でありません。ちなみに三振とは昭和三十三年の開幕戦で新人の長島茂雄が金田正一から喫した四打席四三振をいっています。

   二十六、序詞

 『日本国語大辞典』を開くと「序詞」は次のように説明されています。

  ある語句を引き出すために、音やイメージの上の連想からその前に冠する修辞のことば。枕詞(まくらことば)と同じ働きをするが、音数に制限がなく、二句以上三、四句におよぶ。じょことば。たとえば、「拾遺‐恋三・七七八」の「足引の山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかもねむ」のはじめの三句、「後拾遺‐恋一・六一二」の「かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」のはじめの三句など。

 先の「語部が語りを行なう場合の口頭の技術――語りのあや――としてのことばの修飾」(『日本語の歴史3 言語芸術の花ひらく』)に鑑みれば現代語による序詞の出現にも期待が持てそうです。その萌芽を探して、次のような作品に注目してみました。

  なつくさの中野区野方わが門(かど)にりいんりいんと鈴虫の呼ぶ                       平成18『燃える水』春日真木子
 現代語かどうかはともかく序詞の創作ということで参加願いました。初句「なつくさの」は「野」を含む地名「野島」や「野沢」に掛かる枕詞です。二句は「中野区」も「野方」も地名です。しかしこの「方」を接尾語として「わが門(かど)」と読みました。一首は山里と化した門前で鈴虫が鳴いている風情ですが、結句は「呼び鈴」でもあるのでしょう。連作から門前に立っているのは郵便配達人、手に鈴虫の籠を持っていることが判明します。

  ひふみよいむなやここの十日の経つころを闇に喰はれてしまふ月読                         平成20『申し申し』青木昭子
 初句八音の「ひふみよいむなや/ここの十日の/経つころを/闇に喰はれて/しまふ月読」で読むと三句「ここの(つ)」までが「十日」を呼び出す序詞になるのではないでしょうか。結句「月読」は月の異名、あと十日もすれば新月になるというのです。

  ひいふうみ鳥居抜ければひいふうみ身から鱗が剥がれておちる                        平成22『銀の砂』黒崎由起子
「白狐」十一首の一首、初句の「ひいふうみ」は鳥居の数、三句の「ひいふうみ」は鱗の数、成句「目から鱗が落ちる」を効かして巧みです。二句の「鳥」の「と」は「十」、三四句「み身」と「三三」ですが、リフレインも手伝って序詞の気配が漂います。

第四章 歌の周辺

    一、歌の起源~大野晋~

 大野晋は『新版 日本語の起源』(岩波新書)の「第四章 南インドの言語・文明と日本」の「二 私の説に対する質疑」で、「ターミナル」と題して、その仮説を次のように述べています。旧版が一九五七年、新版が一九九四年、私が手にしているのは二〇〇七年発行の新版第二十刷です。傍点は𠮷岡が付しました。

  日本には縄文時代にオーストロネシア語族の中の一つと思われる、四母音の、母音終  りの、簡単な子音組織を持つ言語が行われていた。そこに紀元前数百年の頃、南イン  ドから稲作・金属器・機織という当時の最先端を行く強力な文明を持つ人々が到来し  た。その文明は北九州から西日本を巻き込み、東日本へと広まり、それにつれて言語  も以前からの言語の発音や単語を土台として、基礎語、文法、五七五七七の歌の形式  を受け入れた。そこに成立した言語がヤマトコトバの体系であり、その文明が弥生時  代を作った(その頃、南インドはまだ文字時代に入ってなかったので、文字は南イン  ドから伝わらなかった)。寄せて来た文明の波は朝鮮半島にも、殊に南部に日本と同  時に、同様に及んだが、中国が紀元前一〇八年に楽浪四郡を設置するに至って、中国  の文明と政治の影響が強まり、南インドとの交渉は薄れて行った。しかし南インドが  もたらした言語と文明は日本に定着した。その後紀元四、五世紀に日本は中国の漢字  を学んで文字時代に入り、漢字を万葉仮名として応用し、紀元九世紀に至って仮名文  字という自分の言語に適する文字体系を作り上げた。

 南インドの言語とはタミル語です。「第一章 同系語の存在」の「六 五七五七七の韻律」では古典時代のタミル語に和歌の形式と同型の歌が多数あることが述べられています。ちなみに平凡社ライブラリーの『日本語の歴史1 民族のことばの誕生』(初版は一九六三年)に大野説は出てきません。南洋語基層説についても否定的です。二〇〇六年に出た山口仲美の『日本語の歴史』(岩波新書)では北方説と南方説の対立を述べています。半世紀の間には微妙な変化があるのかもわかりません。遍く認められるところでないにしても、五七五七七が日本語の揺籃期において、すでに私たちのDNAに組み込まれていたというのは想像するだけで楽しいものです。

   二、音律ということ~坂野信彦~

 坂野信彦の『七五調の謎をとく――日本語リズム原論』(平成八年)によると五七五七七のリズムを音(おん)●と休止○で表すと次のようになるそうです。

  ●●●●●○○○●●●●●●●○●●●●●○○○
  ●●●●●●●○●●●●●●●○

 しかし音とは何でしょう、また休止とは何でしょう。同じ著者の『深層短歌宣言』(平成二年)から引用します。「付論」に収録されている「韻律の原理」です。

  韻律は、その呼び名のごとく、「韻」と「律」からなる。韻は音のひびき、律はリズ  ムである。その韻と律とが渾然と一体化したものが韻律である。したがって韻もしく  は律のどちらかいっぽうのみが単独に機能するということはない。しかし両者は基本  的に異なった原理によって成立するから、便宜的に両者を分けて考えたほうがわかり  やすい。

 そして「短歌が短歌でありうるのは一定の律の存在による。韻のほうには何の約束もない。一首の音韻は、短歌の成立を左右するというものではないし、また意識して仕組まねばならないというものでもない」「短歌は律に依存している。律こそが短歌の生命線なのである」として一定の原則が示されます。さてその律とは何か?

   日本語のリズムは、二の倍数を音の組織の基本的な構成単位としている。音律の素材は音(おん)(音節)である。日本語の音はほとんど長さをもたず、ふたつずつ結びつくことでひとつの単位として安定する。日本語は二音、二音、二音……と二音ずつ刻まれてゆくのが基本なのである。この二音のそれぞれが「拍」となって一定の拍子を形成するとき、そこに律文が成立する。
   この二音という単位の音群はその二単位ぶんの規模においてひとつ上位のまとまりをつくる。すなわち四音という音量をもってひとつの音律単位を構成するのである。この単位は二音の音群よりも単位としての結束が固い。さらに、この四音の音群が二単位結びつくとそこにまたひとつ上位のまとまりが構成される。八音の単位である。この単位は四音の単位よりさらに強固な結束力をもつ。(略)。その八音の単位の反復によって短歌は構成される。八音の単位を二の倍数の四回ではなく、五回反復するという変則的な形態、それが短歌の基本構成なのである。

 一音(音節)、二音(拍)、四音(半句)、八音(句)です。短歌は「それぞれの単位の機械的な反復を音律の基礎とする。それぞれの単位の機械的な反復は、それぞれに異なった波長をもったパルスとして、いわば聴覚的な波形の流れをかたちづくる。(略)。これらの各波形が同時に重ねあわされるところに、短歌の律の基本模様が成立する」これこそ短歌の律の「一定の原則」だというのです。音に続いて、こんどは休止が登場します。

  八音の単位が五回反復されるということは、短歌はつごう四十音の音量からなるとい  うことである。しかるに規定の音数は三十一音であるから、さしひき九音ぶん不足す  る。その不足ぶんがすなわち休止である。おなじ八音の単位が、三音ぶんの休止をも  つ五音句と一音ぶんの休止をもつ七音句とに分けられる。

 初めにもどりますと、これが、

  ●●●●●○○○●●●●●●●○●●●●●○○○
  ●●●●●●●○●●●●●●●○

の意味するところです。坂野信彦は『七五調の謎をとく――日本語リズム原論』の「第二章 音律の実相」の「5 短歌形式」で短歌を次のように定義しています。

  「短歌形式」とは、四・四・四・四・四の打拍を基本とし、
  五・七・五・七・七の音数を標準とする詩型である。

 あとは直接あたっていただきたいのですが、拍節上の区切れと意味上の区切れの不一致に律文の妙をみることになります。また休止枠を実音で埋めれば字余りになります。
 平成二十一年には『古代和歌にみる字余りの原理』を出しています。歌人としても、現代語短歌ではありませんが、三冊の歌集のあることを付記しておきましょう。

  夜半の湯に肉塊のわれしづむとも地球はうかぶくらき宇宙に                          昭和57『銀河系』坂野信彦

   三、正統と異端~茂吉と文明~

 宮地伸一は、その著『歌言葉雑記』で斎藤茂吉を「茂吉」と呼ぶのに対して、土屋文明はしばしば「土屋先生」と呼んでいます。その土屋文明が安田純生の「歌人の気まぐれ」(『歌ことば事情』)に登場すると次のような姿になります。

  五十年前に土屋文明は、「現在の短歌が使つてをる文語といふものは、これは厳格な意味においての文語ではない。(中略)さういつた批評が文法学者なんかからはしばしばされるのでありますが、それは私はその通りだと思ふ」という認識を示し、「それが全く日本語として通じないものといふ風になればとに角、まあともかく日本語として通じてをる」(『新編短歌入門』所収「短歌の現在及び将来に就て」)といっている。しかし、現在でも広く「日本語として通じ」、作者と読者を繋いでいるかどうか、あるいは、今「通じて」いるとしても、これからも「通じて」いくかどうか、ちょっと、いや相当に気がかりである。

 宮地は茂吉が「居れり」「死にぬ」は間違いだから「アララギの選歌にあったら直してくれたまえ」といったという佐太郎の『童馬山房随聞』の記事に触れて、

  「居れり」の茂吉の例は「やまみづのたぎつ峡間(はざま)に光さし大き石ただにむらがり居れり」(あらたま)その他がある。この「むらがり居れり」につき土屋文明先生は「『居れり』という語法は標準文語文法では違法ということになっているが、吾々の使う文法は、そんなことはかまわないのだ。」(「斎藤茂吉短歌合評」)と明快である。茂吉、文明の間に考え方の多少の差がある。

と書いています。むろん茂吉も間違いを承知で使っています。しかし文明との間が「多少の差」だったのか、これは大いに疑問とするところです。たとえば宮地の『歌言葉考現学』の「『食(を)す』と茂吉」に茂吉の「食(を)す」に対して「国語学者の金田一京助が、自分の『飯を食ふ』ことを『飯を食(を)す』と言うのは、『食(を)す』は『召し上がる』『食し給ふ』ということだから、田舎出の女がうっかり『私がおっしゃった』とまちがうようなものと批判した」という記事があります。茂吉は「何もびくびくする必要はないと宣言した。そして用語に対する作家の態度は自主的たるべく、極端にいうなら用語は作家の自由勝手たるべきものとまで息まいてしまった」のですが「結局金田一の批判が常に頭にあり、それ以後は『自主的な用語』の使用を中止してしまった」というのです。時の「標準文語文法」に拠るか、「吾々の使う文法」に拠るかは、正統と異端の分岐点そのものです。
 土屋文明は『万葉集』の専門家ですが、不思議なことに本居宣長が発見した字余りの法則に触れるところがありません。それが「吾々は五七五七七の五句三十一音から成立して居る詩的形式を短歌と呼んで居る。勿論これは中心形式を示すだけで、実際の作品では音数にも数音の増減があり、各句の区分も必ずしも五七五七七と典型的になつて居らない場合もあるのであるが、それ等を引きくるめて短歌と呼ぶことは、昔も今も変りはない」(『短歌入門』所収「短歌概論」中「一 短歌の形式」)や「短歌は一首を一息によみ下すのが本体であつて、ただ句間にたまたま小休止の出来ることがあるに過ぎない」(同「短歌概論」中「四 歌の調子」)また「短歌に破調の存することは決して短歌の形式を軽んずることからは生ぜず、又破調の存することが無形式の自由律への移行の根拠とはならない」(同「短歌概論」中「五 再び短歌の形式」)という発言を可能にしています。対する茂吉は「短歌声調論」(岩波書店『斎藤茂吉全集』第十三巻)で「この字余(じあまり)、字不足(じたらず)は、おのおの句単位のそれぞれが破れるのである」と述べ、総括して「字不足、字余の音の増減の限界は数学的に行かないこと無論であるから、歌人はただ句単位五個の声調といふことを自覚し、念中に有つて製作することが緊要」と説いています。
 破調は文明の専売特許で、以後『近代短歌辞典』(昭和二十五年)や『現代短歌辞典』(昭和五十三年)も文明説に拠っています。しかし近年の『現代短歌辞典』(平成十一年)や『現代短歌大事典』(平成十二年)になると茂吉説にシフトしています。背景にあるのは定型律を守ろうとする無意識の歌壇的力学なのでしょう。
 土屋文明は異端の人なのです。

   四、自分史と短歌~橋本義夫と色川大吉~

 「ふだん記運動」で知られる橋本義夫(一九〇二~一九八五)の『だれもが書ける文章』(昭和五十三年)は魅力的な言葉であふれています。たとえば「私でも書ける、書けないものなし」「競争しない」「上手(じようず)も、下手(へた)もない。書くは書かぬに優る」「アマチュアは、書くとき骨を折り、終わって劣等感をもち、時と共に書かなくなってしまう」「プロが下手を恥じるのは当然だが、アマチュアが下手でも、稚拙でも、そんなことは恥じることはない。アマチュアがプロを標準にして、劣等感をもつのは馬鹿気た話だ」「人それぞれに真実を書く」「だれもけなさない」「学歴、身分など関係なし」「お互いにはげます文友をもとう」など私たちを勇気付けてくれます。
 しかし、こと短歌に対しては警戒的というのでしょうか、右と異なる性格をそこに眺めているようで、関係者としては辛いものがあります。
 「投稿雑誌はみんな競争の場であった(俳句や短歌も同じ)」
 「昔から、文字を知る者なら、そのほとんどの人が手がけたものに『和歌』がある。江戸時代の『俳句』もそうであろう。これは『五七五七七』とか、『五七五』とかの極少の言葉でまとまるところから、多くの人々が入りやすいものとなり、これに競技性が加わり、普及したのであろう」
 「庶民は競技的な言葉の遊戯をさけるべきだ」
 自分史という言葉は、この本に「ある常民の足跡――橋本義夫論」を寄せている色川大吉の『ある昭和史 自分史の試み』(昭和五十年)に始まるようです。同名の橋本義夫論「ある常民の足跡」(一七五頁~二五八頁)を収録していますが、色川のいう「自分史」は「ふだん記運動」において実銭されていたというのです。
 色川自身は同書の「わが個人史の試み」において「個人史は、当人にとってはかけがえのない〝生きた証(あか)し〟であり、無限の想い出を秘めた喜怒哀歓の足跡なのである」「人間にとって真に歴史をふりかえるとはなにを意味するのか。その人にとってのもっとも劇的だった生を、全体史のなかに自覚することではないのか」「こう記す私は、その全体史を描くべき職人としての歴史家である」と記しています。
 橋本のいう競争、競技性、競技的というのは人と人との関係性のことをいっているように思います。たしかに歌会での投票や短歌祭の入賞など篩いにかけられることの多い短歌です。しかしこれも多くの読者の目にふれる機会として捉えるならば、その風景も変わってくるでしょう。昔も今も短歌は自分史を容れるに最適の器なのです。


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