草食獣への手紙             

  吉岡生夫第1評論集。1992年9月30日、和泉書院発行。定価2,200円。体裁四六版。目次2頁、本文198頁、「あとがき」4頁、「初出発表覚書」2頁。装幀・川本浩美。

帯文より/世間並みに生きている者の感じや考え。それが吉岡生夫の拠り所である。だから、彼は短歌や歌人を特権化しない。この歌論集では、石川啄木や長塚節などを論じながら、特権化されがちだった近代短歌の意識をほぐしている。そして、そのほぐした跡には、新しい歌の始まる気配がある。(坪内稔典)

目次/中村三郎の歌陥穽としての器 石川啄木と母の歌幸福論へのパスポート 寺山修司と母の歌私への旅ブラック・ボックス(奥村晃作歌集『鬱と空』)/解説の時代もっとみだらに(安田純生歌集『蛙声抄』)/男歌随感歌の円寂するとき(昭和63年)/怯えと祈念(近藤芳美の「日本」を読む)/短歌はどうなる家族詠の根拠歌の品位/秋の歌人・長塚節覚書①~⑫(脳神経衰弱と節初期の作品「隣室の客」とモデル問題滑稽趣味万葉集写生、その一写生その二序歌詞書冴えと品位鍼の如く煙霞の癖)/あとがき

 中村三郎の歌(初出「短歌人」1976年7月号)

  まだ短歌をつくりはじめていたとしても、それほど本格的ではなかったころだから、おそらく十六、七歳ではなかったかと思う。中央公論社からでていた『日本の詩歌』を無理をして買う気にな ったのは、どのようなきっかけからだろうか。ともあれ、中村三郎の人口に暗炙した歌、

  川端に牛と馬とがつながれて牛と馬とが風に吹かるる

にであったのも、その『短歌集』(第二十九巻)のおかげであった。ここには、よろこびやかなしみ、あるいはにくしみといった感情主体としての「われ」は存在しない。あるとしても、それはたくみに作品の向こう側におしやられているのであり、ただ私たちが感受できるのは不思議ともいえる韻律の妙であり、それにあって牛と馬とが、そして風が、遺憾なくその本質をあらわにしていることである。作品に「どこかとぼけたところがあり、ほのぼのとした風格をもっている」(森脇一夫)のは、そこにこそ作者の取捨選択があり、働きかけがなされているからにほかならない。
 与謝野晶子の『みだれ髪』、若山牧水の『海の声』、北原白秋の『桐の花』、あるいは吉井勇の『酒ほがひ』、斎藤茂吉の『赤光』をあげるまでもなく、生前に一冊の歌集ものこすことがなかった歌人が、これら近代短歌の巨星の間隙をぬうようにして、私のなかにたしかな位置を占めはじめたのは、むしろ親しみの感情といってもよいものだった。正確にいえばただ一冊の自選歌集である『求めつつ』があるとはいえ、これは友人問に回読中に紛失、くわえて三千五百首に余る歌稿が没後数日にして失われたという。
 中村三郎。明治二十四年三月二十一日、長崎市麹町に出生。はじめ『スバル』に投稿していたが、のち『創作』に移る。同時に日本画家としての勉強に励む。一時、劇団の地方巡業に加わったこともあるが、健康が許さず断念。その生涯は、貧困と病苦との闘いであったといっても過言ではない。大正十一年四月十八日、結核により長崎市伊良林町に永眠、享年三十二歳。数え年。夢二を彷彿とさせる自筆の絵葉書がのこされている。没後、昭和四年に創作社より『中村三郎集』、昭和四十二年には大悟法利雄の経営する新声社より『中村三郎歌集』、そして昨年の末、短歌新聞社より大悟法利雄編による『中村三郎全歌集』が刊行された。今、私の手元にあるのが、それである。

  うつそ身の馬は尾を振る風のなか馬は寂しもただに尾を振る
  まかがやく海にとび入り波の間ゆ朱弦笑へば朱弦も光る
  夕山に登りて見れば思ひきや百姓がひとり耕してをり
  さはやかに流れて来てはひるがへり風にい向ふ蜻蛉(あきつ)の群は

 どの一首をとってみてもそうであるが、彼の歌には主観が先行することによって、ものがみえなくなったり、あるいは混濁したりするといったところがみられない。かといって対象に忠実なゆえに、それにがんじがらめになり、みうごきがとれないといったところもない。それどころか、馬も、朱弦も、そして百姓も、彼の個性を通過することによって、なんらその特性をうしなわず、しかもみごとに再構成されている。彼の歌が、ひとに悠長な感じを、あるいは飄飄とした印象を与えるとしても、その場合、韻律が決定的な役割をになっているとは考えられない。むしろものの見方そのもののなかにこそ、彼の独自性を発見できるのではないだろうか。
 彼の歌を一種のアミニズムと規定し、それが『スパル』から『創作』へ移るきっかけと推察したのは山本健吉であるが、当の牧水はどのようにみていたであろうか。しばらく耳をかたむけてみたい。私の興味もまた以下に集中しているからである。

   この作者は常に自分からものを遠くに引き離して眺めながら詠んでゐる。うろたへてその中に自分自身飛び込むことをしない。だからその眼は常に澄んでゐてその心にはとり乱したところがない。だから歌の上に写し出された景象はよく明瞭で、それを取り扱ってゐる言葉には何分か心憎いゆとりがある。                      (「中村三郎君の歌」より)

 仮に、主観と客観の微妙な結合と、私は呼んでみたいのであるが、これは彼が同時に画家であったこともあわせて考えられるであろう。韻律とは、彼の場合、それを測る尺度ではなかっただろうか。たとえばつぎのような歌においても、あやうく、しかもみごとな均衡は崩れていない。

  初冬の日はねもごろにふりそそぎ肺尖加答児(はいせんかたる)あたたかきかも
  ほつかりと熱のいで来るたそがれにうすらあまゆる心なりけり
  うつそ身の血を吐きしとはおもほへずあまりにすめる私のあを空
  うららかに死ぬべかりけり青空のま澄の空のふかきところに

 はじめの二首は大正五年の作であり、「病床雑詠」に含まれている。このころから胸を病んでいたらしいことがわかるが、当時の書簡にも「夜は何分熱が出る為に」とある。ただ結核であることを知っていたかどうかについては、はっきりとしない。あとの二首は大正八年、二十九歳の作。詞書に「友が庵を借り得てかりそめならぬ病を養ひつつ」とある。注目したいのは、ここでも彼は、けっして叫んだりはしていないことだ。くるしいといってもいない。あきらめているのでもなく、自棄になっているようすもない。あるがままにあらしめているといった、それは天性に近いものさえ感じさせてくれる。結核という病気が、今日とは比較にならない意味をもち、上京の夢を無惨にうちくだくものであったことを考えると、それは不思議でさえある。もっとも、最晩年には、

  われとわがうろたへざまと眺めつつ鼻先をよぎるうすわらひあり

といったぶきみな一面さえみせることもあるにはあるが、それさえ自棄には遠く、また自嘲と呼ぶには醒めすぎている。おもうに、自己を対象化しすぎるあまりの結果であろうが、そこにこそぬきさしならない苦痛も感じとれるのだ。
 主観と客観といったが、その均衡が、ほんとうの意味で動揺をみせるのは、「凌霄花」の女性にであってからであり、一方では長崎に赴任していた茂吉との交流によるところが大きいであろう。大正七年、彼が二十七歳のころである。しかし彼の世界にただよう寂寥感も、自意識も、けっして読者を疲弊させる種類のものではない。それらはあたかもオブラートに包まれているかのようであり、私たちに伝わってくるのは、生のぬくとさであり沈黙であり、また静謐である。無理をしてでも本音を吐かせてみたい、そんなものたりなさがないでもないが、そこに踏みとどまっているところに、彼の歌人たるゆえんがあるのかもわからない。もしかしたら、それは暴走しかねない情熱への、彼なりの身の処し方であったかもわからないのだ。

  青草に捨てし煙草ゆほそぼそとすぐ立つ煙みてをりにけり
  電車きて電車去りつつほこりかぜ舞ひたつなべにさびし柳は
  愁石(しきいし)もぬれて清けむゆきかひの足駄の音をたのしみにけり

 その方法論のゆえに、彼を歌の世界の習慣に従って、病歌人と呼び、あるいは夭折歌人と呼ぶことを、私は好まない。あたかも明治と昭和にはさまれたその時代を象徴するかのように、短くはかなかったとはいえ、彼の珠玉の作品は、それらの奇妙なレッテルとは無縁に、私をひきつけてやまないからだ。

 陥穽としての器 石川啄木と母の歌(初出「短歌人」1981年12月号。「啄木と母の歌」改題)
 
 啄木の母の歌といえば、すぐに思い出されるのが、

  たはむれに母を背負ひて
  そのあまり軽きに泣きて
  三歩あゆまず

という、まるで親孝行の見本のような一首である。彼の遺した日記を読むと明治四十一年六月二十五日の記述に「頭がすつかり歌になつてゐる。何を見ても何を聞いても皆歌だ。この日夜の二時までに百四十一首作つた。父母のことを歌ふ歌約四十首、泣きながら。」(筑摩書房版『石川啄木全集』より、以下同じ)とあるが、この歌もそのときのものであるらしい。このとき啄木は二十二歳。東京の下宿にあって創作に専念していたものの、売込は失敗、生活も困窮し、幻滅と悲哀を深くしていたときであり、一方、母と妻子はどうかといえば、函館の宮崎郁雨に託したままという、ちょっと信じられない別居生活である。
 のっけから好悪は禁物であるが、その背景を理解したとしても、この歌が払拭できないでいる過剰な演技(わざとらしさといってもよい)に対して、私は好意的になることができないできた。今も同じである。
 では、こんな歌はどうだろうか。

  父母のあまり過ぎたる愛育にかく風狂の児となりしかな
  母われをうたず罪なき妹をうちて懲せし日もありしかな
  母よ母よこのひとり児は今もなほ乳の味知れり餓ゑて寝るとき
  あたたかき飯を子に盛り古飯に湯をかけたまふ母の白髪

 年譜等をみる限り、啄木が世にいう親孝行であったとは、まず考えられない。ただ父母の溺愛を一身に受けて育っただろうことだけは容易に想像がつく。極端であるが、妹・三浦光子の証言によると、

  あるときなどは、兄が例の大きないろりの火を火箸でとばし、私はやけどをして泣きだしたが、母はそれさえも、
  「そんな小さな火がとんだってあついはずがない」と私を叱った。                            (理論社刊『兄啄木の思い出)

とある。
 このエピソードは、ほんの一例である。そしてこれらが引用の歌はもちろんのこと、『一握の砂』や『悲しき玩具」等の母の歌の底に流れているのであるとすれば、もっといきいきとした、怒り、泣き、笑い、叱る母の姿が歌われていて然るべきだと思うのである。だが期待に反して、多くの場合、それらは感傷に基るか、でなければ詠嘆のなかに自己充足をとげた歌ばかりである。平板なのだ。
 これは、かならずしも私だけの印象ではないらしく寺山修司はもっと鋭く、そして突き放して書いている。「望郷幻譚」(河出書房新社刊『文芸読本・石川啄木』所収)がそれで、啄木の作品から啄木自身の母をイメージすることができないのは、他者として描かれていない、類型化された母であるということ、つまりは啄木の母の固有性に目を向けていないからだという。中で、いちばん感心したのは、おそらく啄木は母をおそれていたのであろう、との指摘である。
 なるほど、そのようなものなのかもわからない。
 ただ類型化ということであるが、母親が示す愛情というものがしばしば類型の域を出ないということを考えあわせれば、それほど非難するにあたらないのではないだろうか。典型にまで高める努力が要求されるだけである。固有性に着目する歌であれ、類型化された母であれ、バリエーションはともかく、そこに永遠の母を仄聞させてくれるならば、それで充分なのだ。
 数こそ少ないが、啄木にも、そのような種類の歌がある。

  もうお前の心底をよく見届けたと
  夢に母来て
  泣いてゆきしかな

  薬のむことを忘れて
  ひさしぶりに
  母に叱られしをうれしと思へる

  茶まで断ちて
  わが平復を祈りたまふ
  母の今日また何か怒れる

 三首目については、これに対応する散文があるので紹介したい。

  母ーー君も知つてゐる筈の、あの腰のすつかり曲つてしまつた僕の母は、僕の為めに茶断ちをして平復を祈つてゐてくれる。君、六十幾歳の今日(こんにち)まで何一つ娯楽といふものを有(も)たなかつた僕の母にとつては、喫茶(きつちや)といふ事はその殆ど唯一の日常の慰めでもあり、贅沢(ぜいたく)でもあつた。僕はまだずつと幼かつた頃から、母が如何に満足気な様子をして、朝々の食後の後の一杯の茶を啜(すす)つたかを見知つてゐた。人が白湯(さゆ)を割らずには飲まないやうな濃いのを、母は殊に好んで美味(うま)さうにして啜(すす)るのであつた。その好きな茶をふつつりと断つてしまつた母の心は、僕にもよく解る、さうして十分感謝してゐる。が、悲しい事にはーー実際悲しい事だ!ーー僕は僕の母の心をよく知つてゐると共に、また、さうした心づくしの畢境(ひつきやう)何の役にも立たない事をもよく知つてゐるのだ。よしや母が、その好きな茶を断つたばかりでなく、その食を断ち、その呼吸を断つたとて、その為めに僕の熱が一分一厘だつて下(さが)りはしない。‥‥‥                 (「平信」)

 あるいは、先に抄出した「あたたかき」の歌を、ここに加えてもよい。
 母を歌うということは、歌のなかに母その人を生かすこと、永遠に在らしめることなのだ、と私は思う。
 啄木の歌に、母を歌った歌は多い。だが、そのような意味において、彼の母が生きていると感じられる作品は、ほんとうのところ数えるばかりなのだ。あとは母という言葉はつかわれていても、およそ心をうごかされる種類のものではない。
 予測に反して、といおうか。これは、「たはむれに」の歌で印象づけられる啄木観からすれば、意外な結果である。
 はたして、啄木にとって母とは、およそこれらの歌から感じとれる程度の意味しかもたなかったのだろうか。

    2

 啄木の歌に歌われた母と、彼の日記や書簡に描かれた母とでは、同じ母であっても、ずいぶんとちがった印象を受ける。「茶まで断ちて」の歌と、これに対応させた「平信」の抄出部分を読みくらべてみてもよいが、どちらに精彩があるかといえば、残念ながら後者といわなければならない。 以下にしばらく、スライドをみるつもりで各時代の啄木母子を眺めてみたい。彼の短歌ではなかなか味わえない「生きた母」をそこにたどることができる。

  母上出盛。たのしき事に就きてなり。                            (日記、明治三十七年二月二日)
  この日、せつ子との事、母行きて、かの人の父母たる人と形式の定め事すべき日なりき。                            (日記、明治三十七年二月三日)

 啄木十八歳。母カツ五十七歳、節子十八歳。子のために奔走する母の姿がある。石川家の命運を分ける父一禎の住職罷免処分はこの年の十二月。だれがこのことはもちろん、後年の病と貧困、加えて家庭的不和を予測し得たであろうか。

  俸給さへ来れば、スグ為替にて御送りする様、かねて母とも相談いたし居候ひし次第に候間、此際まげて御待ち彼下度候、  (書簡、明治三十九年四月二十三日渋民村より太田駒吉宛)
  夕方、五円紙幣一枚、駒井から、手紙をかいて母に行つてもらつて借りた。                        (日記、明治三十九年十二月二十八日)

 盛岡での生活を切り上げた啄木は、このとき渋民尋常高等小学校尋常科代用教員である。一転、借金の返済に苦慮し、実際にも借金の使い走りをさせられる母がみえる。

  老ひたる母の我を誡めて云はるるやう、父となりてそれだけの心得なくて叶はぬものぞ、今迄の様に暢気では済まじ、と。然るか、ああそれ実に然るか!  (日記、明治四十年一月一日)
  この夜、小妹誤つて、我が家に唯一つの奢りなりける美しき置洋燈を砕きぬ。予自ら物商ふ店に行きて求め来しは新らしく明るき吊洋燈なり。母は云ひぬ、幼なき児ある家にては吊洋燈こそ安全なれと。                        (日記、明治四十年一月三日)

 前年の十二月二十九日に長女の京子が生まれたこともあって、雑煮もなく、大根汁に塩鱒一キレという食事にもかかわらず、元日の朝はあかるい話題でいっぱいである。吊洋燈にうなずく母カツには、いかにも孫の誕生をよろこぶ祖母の気持がにじんでいる。

  予立たば、母は武道の米田氏方に一室を借りて移るべく、妻子は盛岡に行くべし。父は野辺地にあり。小妹は予と共に北海に入り、小樽の姉が許に身を寄せむとす。
  一家離散とはこれなるべし。昔は、これ唯小説のうちにのみあるべき事と思ひしものを……。                             (日記、明治四十年五月四日)

 三月五日の父一禎の家出によって宝徳寺復帰運動は挫折した。四月一日に啄木は辞表を提出、留任を勧められているが同十九日、校長排斥のストライキを指示したため村内は紛糾し、翌二十日に校長転任の内示、二十二日には欧木も免職の辞令を受けている。「新運命を北海の岸に開拓せん」(日記、五月二日)としての移住であるが、母の生活については「米田君より出づべきものを以て」(日記、五月四日)という乱暴な出発であった。

  昼食をすまして不取敢心配なれば吉野君の細君の様子見にゆけば、今苦しみの真最中なりといふ、驚きて校長の家の暇乞門口にすまし、馳けかへりて老母に手伝に行つて貰ふこととせり、予は行李の準備などす、                  (日記、明治四十年九月十三日)

 妹光子を加え一家五人となったのもつかのま、不運なことに、函館は八月二十五日の大火で、市の大半を消失。家族を姉夫婦に預け、啄木は札幌に向かうことになるが、これは、そんなあわただしさの中でみせるほほえましい出産介助の一こまである。

  今迄君から助けられてる事は実際何とも云へぬよ。質の利上げをして貰つた時なんか、母は涙を流して難有人だといつて居た。  (書簡、明治四十一年二月八日釧路より宮崎大四郎宛)

 「啄木という名前を借金の代名詞だ位に思って居た」という宮崎郁雨は「啄木の借金メモ」(前掲『石川啄木全集』所収)という文章を残しているが、それによると明治四十二年六月十五日(郁雨の推測) 現在で、啄木の借金は千三百七十二円五十銭にのぼっている。同年二月、東京朝日新聞の校正係に採用されたときの月給で二十五円だから、この数字の大きさがわかろうというものだ。これ以後も、病気の不如意により借金はおそらくふえつづけたことであろう。

  母は三月になつたら何が何でも一人上京すると言つて来た、                          (日記、明治四十二年二月二十七日)
  老いたる母から悲しき手紙がきた。ーー
  「このあいだみやざきさまにおくられしおてがみでは、なんともよろこびおり、こんにちかこんにちかとまちおり、はやしがつになりました。いままでおよばないもりやまかないいたしおり、ひにましきょうこおがり、わたくしのちからでかでることおよびかねます。そちらへよぶことはできませんか? ぜひおんしらせくなされたくねがいます。このあいだ六か七かのかぜあめつよく、うちにあめもり、おるところがなく、かなしみに、きょうこおぼいたちくらし、なんのあわれなこと(と)おもいます。しがつ二かよりきょうこかぜをひき、いまだなおらず、(せつこは)あさ八じで、五じか六(じ)かまでかえらず。おっかさんとなかれ、なんともこまります。それにいまはこづかいなし。いちえんでもよろしくそろ。なんとかはやくおくりくなされたくねがいます。おまえのつごうはなんにちごろよびくださるか? ぜひしらせてくれよ。へんじなきと(き)はこちらしまい、みなまいりますからそのしたくなされませ。はこだてにおられませんから、これだけもうしあげまいらせそろ。かしこ。
     しがつ丸か。      かつより。
    いしかわさま。」
  ヨボヨボした平仮名の、仮名違いだらけな母の手紙!、予でなければ何人(なんびと)といえどもこの手紙を読み得る人はあるまい!     (ローマ字日記、明治四十二年四月十三日)

 函館の大火以後、札幌、小樽、釧路と渡り歩いた啄木は明治四十一年四月二十四日単身上京、以後作家たらんと努力しているが『鳥影』を除いて、金銭的にはことごとく失敗。初めの「たはむれに」の歌のところで触れたとおりである。この手紙を受け取ったときは東京朝日新聞の校正係に職を得ていたとはいうものの、年来の借財のため家族を呼び寄せることもできないでいる。「何が何でも」というところに、また「ヨボヨボ」として「仮名違いだらけで」、しかる「何人といえども」読めない手紙であるところに、かえって老人の、かたくなではあるが差し迫った心情をうかがうことができる。

  そしてそれ、御存知の通り感情の融和のちつとも無い家族なんだからね。一昨晚だつたか、母と妻に散々小言を言つて見たが、それでも不愉快が消えツこはない。                  (書簡、明治四十二年七月九日本郷より宮崎大四郎宛)
  病妻に関しての御同情のお言葉、胸をさゝるゝ思ひして感銘仕候。今は洗ひざらひ恥を申上ぐ
る外なし。実は本月二日の日、私の留守に母には子供をつれて近所の天神様へ行つてくると、言つて出たまゝ盛岡に帰つて了ひ候。日暮れて社より帰り、泣き沈む六十三の老母を前にして妻の書置(かきおき)読み候ふ心地は、生涯忘れがたく候。                  (書簡、明治四十二年十月十日本郷より新渡戸仙岳宛)

 内実はどうであれ、小樽・函館と、啄木のいない生活を共に営んできた二人が、上京したとたんに家出事件という、修復不可能なまでに感情生活の齟齬を露呈するところに深い悲劇をのぞく思いがする。啄木の周章狼狽はもちろんであるが、それにしても原因を「時代の相違」(前掲、新渡戸仙岳宛)でかたづけてしまう神経はおどろくばかりである。
 この年の十二月二十日に父一禎も上京し、一家は五人となる。

  母の健康は一緒に散歩に出るさへも難い位に衰へた。  (日記、明治四十三年四月一日)
  夜、上野の花をみるつもりで、母と妻と子と四人づれで出かけたが、母が動悸がして歩けないといひ出したので、三丁目から戻つた。         (日記、明治四十三年四月十一日)
  夜、母が五度も動悸がするといふので心配す。   (日記、明治四十四年一月二十三日)
  薬をのましたせゐか、母は今日は動悸がしなかつたさうである。
                          (日記、明治四十四年一月二十四日)

 明治四十三年以降の日記及び書簡は母カツの衰弱を強く印象づけている。しかし健康を害しているのは一人彼の母親だけではない。四十三年十月四日に長男真一が出生しているが、生きることわずかに二十四日、十月二十七日に亡くなっているのを始めとして、明治四十四年当用日記補遺では前年を回顧して「京子一人頑健なり。」と書かなければならない有様であった。
 四十四年二月一日、啄木は慢性腹膜炎と診断され、四日入院、七日に手術を受けている。経過は良好で十五日に退院しているが、以後、従前の健康を回復するには至らない。まるで不幸の大団円を予感させる一年である。

  ところが此処にまた一人僕の家に病人がふえた。一週間許りの間何となく元気がなく、少し下痢するといつてゐた母が、一昨日の夕方にはひどくやつれた顔をしてとうとう食卓に就かなかつた。(略)、心臓の悪くて動悸のすることは僕も前から知つてゐた。知つてゐながら、この二年半の間三分の二は一家の炊事を殆んど母一人にして貰はねばならぬ事情の下にあつた。床屋の二階にゐる頃、母が梯子の中途で、動悸がすると言つて、鍋などを持つたまゝ暫く休んでゐる事が何度もあつたーー
  母はそれ以来寝てゐる人になつた。               (書簡、明治四十四年八月二十六日小石川より宮崎大四郎宛)

 この間、六月には妻と、妻の実家への帰省をめぐって確執、堀合家と絶縁するという事件をはさみ、七月にはその節子が肺炎カタルと診断されている。九月には父一禎が家出。宮崎郁雨とも、妻との間を問題として義絶している。母カツの臥床は、これら一連の事件の谷間にあるが、妹光子にあてた十月の手紙では、再び炊事に立っていたことがわかる。

  新年を迎へたといふのがちつとも喜ばしくないばかりでなく、またしても苦しい一年を繰返さねばならぬのかと思ふと、今まで死なずにゐたのを泣きたくもあつた。『元日だといふのに笑ひ声一つしないのは、おれの家ばかりだらうな。』かう夕飯の席で言つた時には、さらでだに興のない顔をしてゐた母や妻の顔は見る見る曇つた。        (日記、明治四十五年一月一日)

 明治四十五年の元日。先に妙出した四十年のそれとは比ぶべくもないところまで、事態は悪化している。そして「元日だといふのに」云々の捨台詞が母や妻から吐かれたものではなく、啄木であるところが、いかにも暗く残酷な響きさえ伝えている。
 同二十三日、母の病名は肺結核であることが判明。

  母の病気が分つたと同時に、現在私の家を包んでゐる不幸の原因も分つたやうなものである。私は今日という今日こそ自分が全く絶望の境にゐることを承認せざるを得なかつた。私には母をなるべく生かしたいといふ希望と、長く生きられては困るといふ心とが、同時に働いてゐる……                          (日記、明治四十五年一月二十三日)

 愛の試金石ともいえるが、三月三日に死亡、六十五歳。妹光子にあてた手紙をみてみよう。啄木自身、すでに体力の消耗が激しく丸谷喜市の代筆である。

  俺も母の死ぬよほど前から毎日三十九度以上の熱が出るが床に就いて居たため同じ家に居ながらろくろく慰めてやる事も出来なかつた。お前の手紙は死ぬ前の晩についた、とてもあれを読んで聞かせても終ひまで聞いて居れる様な容態ではないので節子が大略を話しするとお前から金が来たといふ事だけがわかつたらしかつた、それからその晩何時頃だつたかはよく記憶しないが「みい、みい」と二度呼んだ、「みいが居ない」と言ふと、それ切り音がなくなつたが、この外に母はお前に就て何も言はなかつた。翌る朝、節子が起きて見た時にはもう手や足が冷たくなつて息はして居たがいくら呼んでも返事がない、そこで俺も床から這ひ出して呼んで見たがやつぱり同じ事だ、すぐ医者を迎へたが、その医者の居るうちにすつかり息が切れてしまつた。お前の送つた金は薬代にならずにお香料になった、    (書簡、明治四十五年三月二十一日小石川より石川光子宛)

 これが、啄木の母のさいごである。
 当の啄木も四月十三日、父、妻、牧水にみとられて永眠、享年二十六歳。病名は肺結核であった。 六月十四日、次女房江誕生。
 大正二年五月五日、函館に在った節子死亡、二十七歳。やはり肺結核である。

   3

 このようにみてくると、ただ悲惨というよりほかにない。
 と同時に、気がつくのは、函館の大火等の不運を除けば、貧困にしろ、病気にしろ、家庭的不和にしろ、その大部分が啄木の努力で克服できたのではないか、という素朴な疑問である。もどかしさといってもよい。調整能力を欠いた啄木の対応が、家庭的不和を決定的にしたであろうことは容易に想像ができるし、疾病を含めて、最大の原因であり、不幸であるところの貧困にしてからが、実体は借金である。さらに石川家の明暗を二分した父一禎の住職罷免処分も、表向きは宗費滞納であるが、明治三十六年二月、東京にあって憔悴した啄木を連れもどす旅費を工面するため、寺林を無断で伐採したことに端を発していることを思えば、人間啄木はいざ知らず、家庭人としての啄木を擁護する理由は何ひとつとして、みあたらないのである。
 では、ふたたび母の歌をみてみたい。

  目さまして猶起き出でぬ児の癖は
  かなしき癖ぞ
  母よ咎むな

  わがあとを追ひ来て
  知れる人もなき
  辺土に住みし母と妻かな

  ただ一人の
  をとこの子なる我はかく育てり
  父母もかなしかるらむ

 先にも書いたが、啄木の母の歌を筆写しながら感じる、ある物足りなさ、期待外れの印象、あるいは喚起力の乏しさ、といったものと、日記、書簡を中心にみてきた子としての啄木、夫としての啄木が演じる暴君とは、およそ対照的である。しかし無関係とはいえないであろう。函館から上京を促す母に対して「もし予が金を送らず、彼等を東京に呼ばなければ、母と妻は別の方法で食ってゆくだろう」(ローマ字日記、明治四十二年四月二十一日)と考えるのが啄木なのである。
 このような「『坊っちゃん』的気質」(松永伍一「望郷感覚と民衆意識」前掲『文芸読本』所収)で、「わがまま育ち」(杉浦明平「啄木のエゴイズム」同)の啄木に、正確な等身大の母や妻の姿がみえていたとは思えない。おそらく終生なかったのではないだろうか。『一握の砂』にしても、『悲しき玩具』にしても、エアポケットにおちこんだように、母や妻の歌だけがつまらないのも、そのためである。
 このほかにも、啄木は、しきりと家族制度がまちがっている。夫婦制度がまちがっているということを書いているのであるが、ではそれらを全く必要としていなかったのか、といえばそうではない。一方で「予にしてもし父ーーすでに一年便りもせずにいる父と、母と、光子と、それから妻子とを集めて、たとい何のうまいものはなくとも、一緒に晩餐をとることができるなら」(ローマ字日記、明治四十二年四月十八日)という願望をも、かくそうとはしていない。彼の日記や書簡が、歌とちがって、実にいきいきとしているのは、この落差、矛盾をいきなければならなかった自身を赤裸々に語っているからであろう。

  父のごと秋はいかめし
  母のごと秋はなつかし
  家持たぬ児に

 それにくらべたら歌はきれいごとにすぎる。
 啄木自身の資質や環境また姿勢もさることながら、もし日記や書簡を残した啄木と歌を残した啄木が別人でないとするならば、その原因のいくらかは五句三十一音の定型そのものが負うべきかもわからない。

 幸福論へのパスポート 寺山修司と母の歌(初出「らんぷ」第4号、1982年9月 「寺山修司と母の歌」改題)
 
 寺山修司において、少年時代の不幸は決定的であったように思われてならない。
 年譜によれば、

  昭和一〇年(一九三五)
   一二月一〇日、青森県大三沢市に生まれる。父八郎は特高察の刑事であった。
  昭和二〇年(一九四五)                         九歳
   父アルコール中毒のためセレベス島にて死亡。終戦。母ベースキャンプに出稼ぎに出たため、   やむなく自炊による一人暮らし。詩を書く。
  昭和二四年(一九四九) 一三歳
   青森市歌舞伎座にひきとられ、扶養される。楽屋裏の生活はじまる。楽屋はスクリーンの裏にあり、ときどきドサまわりの一座と起居をともにすることあり。母、九州の炭鉱町へ移る。美空ひばりの「角兵衛獅子」愛唱する。
  昭和二八年(一九五三)                        一七歳
   大映母物映画を好む。
  昭和二九年(一九五四)                        一八歳
   四月、歌舞伎座の好意と母の仕送りにて早稲田大学に入学。中城ふみ子の短歌に刺激されて、「チェホフ祭」五○首を作り、第二回短歌研究新人賞を受賞する。冬、ネフローゼを発病する。   昭和三〇年(一九五五)                        一九歳
   西大久保中央病院に、生活保護法にて入院。
  昭和三一年(一九五六)                        二〇歳
   絶対安静つづく。
  昭和三二年(一九五七)                        二一歳
   中井英夫の好意で、第一作品集『われに五月を』(作品社)刊。
  昭和三三年(一九五八)                        二二歳
   病院と新宿歌舞伎町界隈を往ったり来たりの生活。第一歌集『空には本』(的場書房)刊。賭博とボクシングに熱中する。退院するも定まった住所なし。

といったところが目に入る。後半部分になると、すでに彼自身の人生が始まっているわけであるが、この文章を書き進めていく必要からも、さらにいくつかの記事を加えておこう。いずれも『寺山修司青春歌集』(角川文庫) からの抜粋である。

  昭和三六年(一九六一)                        二五歳
   第二歌集『血と麦』(白玉書房)刊。
  昭和三八年(一九六三)                        二七歳
   大学にて「家出のすすめ」を講演してまわり『現代の青春論』(三一新書)にまとめる。
  昭和三九年(一九六四)                        二八歲
   第三歌集『田園に死す』(白玉書房)刊。東邦ジムのアトム畑井を知る。彼は自分を捨てた母が、テレビにうつって殴られているわが子を見れば、かわいそうだと思って名乗りでてくれると思ってボクサーになった、といった。

 ここで、少し気になることがある。それは、はたしてこの年譜がほんとうに正確な事実を伝えているのか、という基本にかかわる問題である。省略したが、昭和二十二年の十一歳のところで「ボクシングジムに通いだす」とあるが、『誰か故郷を想はざる」(角川文庫)によると、ジムに通っていたのは中学三年から高校二年まで、ということになる。
 これぐらいのことであれば支障もないが、「自叙伝らしくなく」とサブ・タイトルのついた『誰か故郷を想はざる』(角川文庫)と『家出のすすめ』(角川文庫)をはじめとする多くの書物で語られる少年時代の記述になると、異同はさらに激しく、迷路の中で、私たちは出口を失うのである。
 作品から得た印象によって、すでに死別したものばかり思っていた寺山修司の母親が生きていて、しかもすぐ近くに住んでいたのでおどろいた、という萩原朔美の例もある。では、寺山修司は嘘をついているのだろうか、といえば、そうではないだろう。ある思想を披露し、読者に訴えるためには過去も演出するといった戦略的な要素は含まれているにしても、事実が多面体であるという考え方に立てば、そのいずれもが、彼にとっては「人間的真実」だったのだ、ということは必ずしも納得できないことではない。
 うごかせないのは、母一人子一人になった寺山修司が十三歳で、その母とも「生きわかれ」にならなければならなかった、という点であろう。

   2

 寺山修司の歌集は、角川文庫が名付けているように「青春歌集」なのだ、ということはやはり確認しておいてよいことである。二十歳で読んだときには眩惑されるばかりであったが、十年たってみると、それがよくわかる。たとえば、「さむき川をセールスマンの父泳ぐその頭いつまでも潜ることなし」とか「わが撃ちし鳥は拾わで帰るなりもはや飛ばざるものは妬まぬ」といった歌にであえば、まるで私自身がセールスマンの父や鳥になったように思われる、といったぐあいである。未来を自由に工作できる青春の残酷な一面を代表している、といってよい。
 では、母の歌の場合はどうかといえば、やはり、「青春歌集」の典型たり得ていると思うのである。どのような性格においてなのか、ということになるのであるが、これは作品をみていくことにしよう。

  そら豆の殻一せいに鳴る夕母につながるわれのソネット
  秋菜漬ける母のうしろの暗がりにハイネ売りきし手を垂れており
  黒土を蹴って駈けりしラグビー群のひとりのためにシャツを編む母

 いずれも初期歌篇からである。「もともと最初の一首を少年時代のノートに記したそのときから、まぎれもないひとつのスタイルを確立していた」とは中井英夫の言葉であったが、これに限らず、寺山修司の若書とその才能に感嘆する声は圧倒的で、枚挙に遑がないほどである。だが、それらをいくら積みかさねたとしても、これらの作品がもつ魅力と並ぶことも、またないであろう。みずみずしく、少年と母の世界が展開されている。歌われた限りでは、素朴で、貧しくはあるが至福の世界なのである。だが、ちょっと注意してみると、一首目には、母の不在を感じさせるものがあるし、二首目では、桎梏として家のくらさがあり、そこから一歩も出ることのない母のやさしさがある。ハイネを売ってきた少年の顔がくらいのは、必ずしも戸口を背にしたための逆光のせいとばかりはいえないのである。同様に、三首目は、少年の願望が出現させた蜃気楼の可能性だってあるわけだ。
 もちろん、意識して読めばこのようにも読める、といったまでの話であって、抄出した作品を含めて、母という言葉が使用された五首は、いずれも母と子の蜜月を語ったものである、といっても間違いない。
 つぎに『空には本』の場合はどうだろうか。ふしぎな気もするが、母の登場する作品はつぎの一首しかみあたらない。

  さむきわが射程のなかにさだまりし屋根の雀は母かもしれぬ

 初期歌篇にみられた母との一体感といったものは、ここにはない。それどころか母は撃たねばならぬ標的なのであり、狙撃手たる青年も「さむき」に表現されるように、不幸な存在である。一方、撃たれようとしている母も鷲や鷹といった天翔ける鳥としては描かれていない。安アパートの窓からのぞく都会の屋根で、無防備にさえずる雀なのである。おそらく生活に倦んだ青年の指鉄砲にでも狙われているのであろう。『花嫁化鳥』(角川文庫)には、自分を捨てた母の写真に向かって、「手先爪先のこのひび あかぎれ/朝な夕な涙の乾く間もなくだぞ/人間らしい心があったら『ああ悪かった、許してくれ』と、両手をついて、腹から素直になぜ詫びねえのだ。」と旅役者の台詞の口真似で啖呵を切る場面がある。「母かもしれぬ」の結句は、おそらく、この感情に通底するものであろう。神話としての母に対して、大きな疑問符が、ここで初めて投げかけられている。
 第二歌集『血と表』になると、一気に母の歌は二十四首と多くなるが、内容も多様化し、テーマとしての母に正面から肉薄する勢いがある。

  暗黒に泛かぶガソリンスタンドよ欲望は遠く母にもおよび
  起重機に吊らるるものが速く見ゆ青春不在なりしわが母
  母が弾くピアノの鍵をぬすみきて沼にうつされいしわれなりき
  夾竹桃咲きて校舎に暗さあり饒舌の母をひそかににくむ
  泳ぐ蛇もっとも好む母といてふいに羞ずかしわれのバリトン
  暗き夜の階段に花粉こぼしつつわが待ちており母の着替えを
  母よわがある日の日記寝室に薄暮の蝶を閉じこめしこと
  銅版画の鳥に腐蝕の時すすむ母はとぶものみな閉じこめん
  わが喉があこがれやまぬ剃刀は眠りし母のどこに沈みし
  紫陽花の芯まっくらにわれの頭(ず)に咲きしが母の顔となり消ゆ

 これをみてもあきらかなように、幾種類もの母の顔がある。
 二首目の下句は、つねにアリバイを感じさせる彼の作品にしては、めずらしく不用意なところがあって興味ぶかい。というのも、私の母は「捨子」であった、とは何度も彼のエッセイ等でお目にかかる一節だからである。三首目は反対で、ピアノを弾く母が描かれ、その母の関心を買おうと鍵をぬすんで沼にうつされる孤独な少年がいる。四首目と九首目は、ある意味ではもっとも一般的な母の生態であろう。「夾竹桃」では子供心を理解できない無関心さ、「銅版画の」では自分の子供に対する愛情を過信するあまり、少年の意思とは無関係に、その未来を左右しようとするエゴイズム、といったものを指摘できるし、「わが喉が」では剃刀を沈めてなお眠る母のしたたかさ、「紫陽花の」には瞬時に燃えつきる幻影のなかに母への恋情をみる思いがする。
 だが、なんといっても『血と麦』に登場する母につきまとうのは性的なイメージである。塚本邦雄は「わが母音むらさき色に濁る日を断崖にゆく瀆るるために」の歌に触れて、「作品にあらはれる母の幻影の、あやふく相姦に瀕するまでのなまめかしさ、それはむらさきに濁る〝母音(ヴオカール)〟と言ふ言葉にさへ及んでゐる」と書いている。たしかに、「瀆るるために」には「自らを瀆してきたる手でまわす顕微鏡下に花粉はわかし」を連想させるものがある。その意味では、暗黒に浮かぶガソリンスタンドや、バリトンや、花粉や、薄暮の蝶の歌は、もっと積極的で、母子の領域を不分明なものにしているといえる。だが、その内容を検討するとき、私は『さかさま博物誌・青蛾館』(角川文庫)のつぎの一節を思い出さずにはいられない。
 机の引出に封じた螢の話である。

   その蜜は、学校の裏の草むらのなかでつかまえた。
   得意になった私は、その螢を見せるために母の寝室まであがっていった。
   すると母の寝室から異様な声がきこえてきた。それは、男の声と女の声とが、縄(なわ)のようにねじれあってかもし出す、情事のうめき声であった。
   また来ているのだな、と私は思った。それは、母の許に週末ごとに訪ねてくる中年の『おじさん』の声であった。父に早く死なれた私たち母子にとって『おじさん』の存在はきわめて微妙だったのである。
   私は螢を母に見せるのをあきらめ、自分の部屋に持ち帰り、それを机の引出に閉じこめてしまった。まっくらな机の引出のなかで螢の火だけが灯っているだろうな、と思ってみることは、なぜか悲しい空想であった。

 その夜に、「私の家」は火事で全焼するのであるが、「私」は今でもその原因が螢の火であったと思っている、という話である。
 母一人子一人の家庭で育った少年にとって、母が母であると同時に、一人の女人であることを知るのは時の必然であるにしても、そのために払われる苦痛は、あまりにも高価な代償である。「おじさん」は現実に介在するとしないとにかかわらず、内なる敵として、少年を脅かしつづけるのであるが、彼らと拮抗するためには、母が一度に老いることによって性の対象から除外されるか、でなければ少年自身が大人になり、「おじさん」から母を守るか、いずれかに限られる。だが、そのいずれもが不可能であるとき、置き去りにされた少年は「悲しい空想」の世界で待機するよりほかないのである。
 この螢と薄暮の蝶は親類になるのは当然として、広義には花粉の歌も、加えることができるであろう。ガソリンスタンドやバリトンの歌は、やがて少年が成長し、母や「おじさん」に並びつつある証とも考えられる。
 なぜなら、母に性があるように、地獄をのぞいた少年もまた性にめざめていくからである。

   3

 第三歌集であり、かつ最終歌集でもある『田園に死す』に登場する母の歌の検討に入る前に、あまりにも刺激が強いので『現代の青春論』に書名が変更されたという曰くのある『家出のすすめ』について、しばらく考えてみたい。寺山修司自身、さまざまな「われ」を使いわけてはいるにしても、初期歌篇から『空には本』を経て『血と麦』に至る母の変貌は、この家出主義なしには語れない、と思われるからである。年譜に目をもどしても、『血と麦』の刊行が昭和三十六年で二十五歳、『現代の青春論』が昭和三十八年で二十七歳、『田園に死す』がその翌年といったぐあいに接近していることも、充分にこのことを裏付けている。
 そこで世の母親族を震撼させたであろう『家出のすすめ』であるが、今読んでみると、自分を捨てた母親へのラブ・コールによって書かれている、という印象が強い。一方、柱の一つである「地方の若者たちはすべて家出すべきである」という提言は、高度経済成長の時代ならともかく、低成長で、「地方の時代」とかいわれ、現実にUターン現象やJターン現象が報告される現在では、必ずしも説得力をもつものではないであろう。第一、東京が、あるいは東京だけが「陽のあたる場所」としてシンボル化された時代というのは、すでに想像の世界のできごとなのだ。
 ただ一つ、変わらないものがあるとすれば母親の愛情だけである。そして時の流れのなかで埋没する部分はあるにしても、この一点から発想しているところに、寺山修司の家出主義がもつ不変の新しさと強さがあり、ラジカリズムがあるように思われる。
 寺山修司はオグバーンの分類に従い、「家」のなかで果たされる機能として、経済的、身分的、教育的、宗教的、慰安的、保護的、愛情的機能の七つをあげているが、現在ではその六つまでが「家」のなかでの活動の意味を失っており、残る愛情的機能との絶縁として家出を説いているのである。だから幸福な家庭だからといって除外される性質のものではないのである。その徹底ぶりは「一人の自我形成期の少年にとって、家出の決意が生まれる動機は『家』の七つの機能が備わっていた時も今も、この七番目の愛情的機能との絶縁であったということを思い出してみれば、たとえ『家』がその形骸をとどめていなくとも、親がある限り人は永遠に家出を繰り返すにちがいない」とか「一体、政治による解放が母と息子との絆(きずな)を断ち切ることにどのように有効なのでしょうか? どのように、社会史的に解体されてもなお厳存しつづける『幻の家』の否定は、それが幻影である限りは、幻影の中で破壊しなければならぬ」と、いったところにも、よく表現されている。この激しいアジテーションは、そのまま十三歳で「生きわかれ」になった彼の母親に向けられている、といっても過言ではないであろう。と、同時に、その後の人生のなかで、彼が初期歌篇に登場する母の幻影から自由になることが、いかに困難であったかを物語るものである。それが証拠に、『家出のすすめ』は「他人の母親を盗みなさい」というフレーズで書き起こされ、「望郷の歌をうたうことができるのは、故郷を捨てた者だけである。そして、母情をうたうこともまた、同じではないでしょうか?」という問いかけで終わる、徹底した寺山版「出母親記」なのである。

  大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ
  亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり
  子守唄義歯もて唄ひくれし母死して炉辺に義歯をのこせり
  とんびの子なけよとやまのかねたたき姥捨以前の母眠らしむ
  母を売る相談すすみゐるらしも土中の芋らふとる真夜中
  木の葉髪長きを指にまきながら母に似してふ巫女(いたこ)見にゆく
  針箱に針老ゆるなりもはやわれと母との仲を縫ひ閉じもせず

 第三歌集『田園に死す』からの抄出である。もはや、多言は要しないであろう。家出主義の実践として進められた、彼の内なる母との葛藤は、一応ここで完結したことになる。貧しく、うつくしく、そしてやさしかった母の崩壊は、まるで『雨月物語』の「浅茅が宿」を連想させるものがある。その結果辿りついた世界も、地蔵和讃につつまれた彼の原風景としての青森にはちがいないが、これをしも望郷と呼び、あるいは母情と呼ぶのであろうか。あまりにも陰惨な光景である。

   4

 初期歌篇から『田園に死す』に至る母の歌を分析してきたのであるが、それが「自倒と不安のうらはら」のなかで「裸電球と四畳半の独身アパートの荒野での自立」を物語るものであり、背景としての家出主義が実は裏切られた母性愛と無線でなかったことを作品の上にみてきたのである。

  花に嵐のたとえもあるさ
  さよならだけが人生だ

 「言葉を友人に持ちたいと思うことがある。/それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だと気がついたときにである」とは、『ポケットに名言を』(角川文庫)の冒頭の部分であるが、彼の心の傷手を癒す薬が、ほかならぬ名言の数々であり、「花に嵐も」の非伏鱒二の詩句は、学生だった彼が自身に与えた処方箋だった。これによって何度も人生のクライシス・モメントを越えてきたという述懐は、そのまま彼の孤独がどんな種類のものであったかを、私たちに教えてくれる。
 では、彼の作品のなかに登場する「われ」の問題、すなわち私性についてはどのように理解すればよいのであろうか。さいごに触れておきたい問題である。

  アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちてゐむ

 『寺山修司全歌集』(風土社)からも『寺山修司青春歌集』からも削除されている歌であるが、私性を考える代表的事例として書き写してみた。もちろん、赤旗を売る少年が現実の寺山修司ではないであろう、ということが前提にある。これに対応するものとして、「僕のノオト」(『空には本』)から「僕はどんなイデオロギーのためにも『役立つ短歌』は作るまいと思った。われわれに興味があるのは思想ではなくて思想をもった人間なのであるから」とか「『私』性文学の短歌にとっては無私に近づくほど多くの読者の自発性になりうるからである」といった箇所を引用するのは容易である。だが、これは一般的に論議される私性とは、ずいぶんとちがった印象を受ける。いや、まるでちがっている、といってもよい。
 読者である私たちは、一首の短歌に接するとき、作中の「私」が現実の作者であろうと、なかろうと、あるいはデフォルメされた作者の分身であろうと、ケース・バイ・ケースで、前後の事情から推測し、この作業を繰り返すことによって作者像を解明している、というのが実態であろう。いずれにしても、きわめて柔軟である。これは、一つには短歌を作る人間と享受する人間が不運にもかさなっているという、お家の事情も手伝っているのであろうが、現実の私に忠実であることが短歌における私性なのだと考える歌人がいて、一方にノンフィクションでは言語芸術としての可能性を狭く限定することになるから、もっとフィクションを導入すべきであるとか、モチーフに忠実であり、文学的真実を尊重すれば事実の変更は当然である、といった考え方の歌人がいるということ、いわば私派とアンチ私派が雑居するなかで作歌行為をつづけるうちに、自然と身につけた読み方であろう。だから大抵の場合は、この両者を使い分けることでこと足りるのである。寺山修司の場合も表面的にはアンチ私派と考えられる。しかし「無私に近づくほど多くの読者の自発性になりうる」という理由は、どの私性論にも組み込まれないユニークで、意表をついたものである。それだけに、読者としては対処する方法がなかなかみあたらない。しかも「可憐なる嘘つき娘や狼少年」(岡井隆)とちがって、したたかだから、なおさら厄介である。
 だが、何度も口の中でつぶやいていると「無私に近づくほど多くの読者の自発性になりうる」という持論は、どこか文学論からはみ出したものを感じさせはしないだろうか。文学論以外の何か。私には、それがエジソンを論じた「森の中をはだしで駆けまわり、自製の電信線を張っていたエジソン少年が、やがて大都会の孤独な生活者たちの声と声とのあいだに電信線を張りめぐらす電話を発明し、見えない人間を実在化し、スクリーンに光と影だけの人間のドラマをうつし出して、幻想に市民権を与えたことを思うとき、私はエジソンの発明を、幸福論としてみないわけにはいかない」(『さかさま世界史・英雄伝』角川文庫)であったり、「出会いに期待する心とは、いわば幸福をさがす心のことなのだ」(『幸福論』角川文庫)といった一節が思い出されるのである。『幸福論』では、出会いを多様化する例として、セカンド・ハウス、サード・ハウスの思想から、それがかなわぬ場合の引っ越しにまで触れていたし、変装についてもくわしく書かれていたはずだ。ここまでくると、モノローグの世界からダイアローグの世界への転身として取り扱わなければならないのであるが、それ以前の、こと短歌に関していえば、ほかならぬ「無私に近づく」ことによって、「私」がこの問題を代行していたように思われるのだ。つまり私性を論じることが文学論であると同時に、そのまま幸福論への水先案内の役を担っていたところに、寺山短歌の栄光と、早すぎる歌の別れも用意されていたのではないか、ということである。
 啄木が不幸という共通感情を歌うことによって永遠の生命を獲得したのであるとすれば、今一人の青春歌人である寺山修司の場合は反対に、文学論としての「私」に幸福論をもちこむことによって、現代短歌を蘇生させたのだ、ともいえるであろう。

  冬海に横向きにあるオートバイ母よりちかき人ふいに欲し

 私への旅(初出「短歌人」1984年2月号)
 
    1

 私、って何だろう。
 交通整理された短歌史など少しもおもしろくない。たとえ一文の値打がなくとも私自身に執した短歌史、私自身の遠近法による短歌史を考えてみたい。
 そんな意味からいって、さいきん、もっともおもしろく、しかも私自身の暗部を照らし出してくれた歌集をここにあげるとすれば、なによりも『銀河系』をあげなければならないだろう。

  夜半の湯に肉塊のわれしづむとも地球はうかぶくらき宇宙に       坂野信彦
  原爆忌 天つ日のさす岩はだに蜥蜴はぬれて呼吸(いき)してゐたり
  虫のこゑふとやむ おのが終焉のきはにまでこころおよびし莉那

 一首の孤独は坂野信彦という一個人のものではない。自己を肉塊として捉えてもなお解消することのできない、地球そのもの、さらには地球をうかばせているところの「くらき宇宙」そのものに由来するからである。湯にあたたまりながら作者の思いは宇宙的な規模での孤独に及んでいるのである。
 発狂するのでもない。まして感傷に溺れるのでもない。淡淡としているだけに怖ろしい。二首目も同じである。あたかも核戦争で人類の絶滅したあとに生きのびた爬虫類といったイメージをこの蜥蜴は負わされている。三首目は、やや自己に引きつけたところから歌っているものの、少しもあわてたところがない。自己の終焉さえも絶望しないで歌える透徹した感性を私はうらやましく、そして不幸なことだと思う。
 いま少し、作品をみてみよう。この人の場合、日常的な営為は、どのようになされているのであろう。

  ベッドにて思惟抽象におよべどもねがへりをうつたび肉たわむ
  野のはてに日輪しづむころわれは口あけてをり歯科医のために

 徹底して、創作者としての自己を観照者としての位置にまで後退させているこど、これでもわかる。
 「後記」をみてみよう。つぎのような一節が注意をひく。

   自慢できることではないが、私はひどく気まぐれで怠惰な歌よみである。いろいろな方がたから期待と勘ましを受けながらも、私はしばしば、歌人としてのあらゆる公的な活動から逃避し、人目を避けて自分の殻にとじこもってばかりいた。この性癖は今後もあまり変りそうにない。

 なぜ、このような部分を引用したかといえば、おそらく作者の性癖と歌が相関関係にあるだろう、と思われるからである。
 同じことが作者の口から発言されるのを、私は直接、耳にする機会があった。そのとき「公的な活動」は歌壇とか歌会、あるいはシンポジウムといった表現に変化したりもしたが、内容はまるで同じであった。しかも、それが現代歌人集会賞の受賞のあいさつだったから、私にはひどく意外な気がした。さいごまで受賞のよろこびとか抱負といった、ふつうの歌人であれば、当然するだろう社交辞令がなかったばかりか、ひたすら困惑しているかのように、みうけられたからである。
 私は、同時に感心していた。性癖を決意にしているかのような歌人としてのいさぎよさに対して、である。
 また琴線にふれる言葉であった。何をかくそう。私も同じ性癖の持主だからである。この場合、公的な活動なるものをひそかに現実であるとか、社会であるとか、あるいは人生といった、私自身の言薬に拡大し、あるいは置き換えていたことはいうまでもない。
 ところで、このような素材に対する間合いのとり方で思い出される歌人がほかにいないだろうか。たとえば、私なら、つぎのような歌人と作品をあげることができる。

  たまきわる ひとを愛せぬそのゆえにたれをも愛す星の数ほど     村木道彦
  たとうれば布団がこれが屍衣ならばー身動きもせずくるまれている
  ああ そらに雲の出でたるそのこととわれの生(あ)れたること異ならず

 さらに一人。

  楽章のかわる無音にしわぶきの一つが奏者の間より聞こゆ     浜田康敬
  いま勝ちしスポーツなれば臆面もなく若者がなきているなり
  夕餉とる影おのずから三面鏡の中にいっぱい写れる家族

 村木道彦の場合、同じ間合いをとりながら、ときに、その間合いを縮めることができないいらだちが、甘く切なく韻律の風にのせられている。『天唇』が青春歌集たる所以であろう。
 残念なのは、青春という季節が過ぎると同時に沈黙してしまったことである。だが表現手段をもたない、あるいはもっていたとしても未熟なために表現できない私(たち)をどれだけ慰めてくれたことだろう。
 浜田康敬の場合は、最初から生活がある。観念に逃れることができないので、この間合いは、詩人としての感性と生活者としての自身の両方を生かす生命線である。だから村木道彦のように沈黙することができない。坂野信彦ともちがって骨太でより具体的である。ややいびつながら市井をのぞくことができるのである。
 現代短歌と呼ばれる大河にあって、これらの歌人は、あるいは支流に属しているのかもわからない。辺地かもわからない。
 だが、まぎれもなく、私が産湯をつかった生地である。故郷であることを、私自身のために確認しておいてもよいであろう。
    2

 短歌は、私にとって現実からの逃避であると同時に、現実に帰っていくための、数少ない回路でもあった。
 このことに関して、いくつかの体験談をかさねていきたいと思う。
 『十弦』という同人誌を出していたころのことだ。同じ十号をもって終刊とする『乎利苑』のグループと合同の批評会をもつ機会があった。正確には昭和五十三年十一月十九日で、場所は渋谷の銀杏荘である。順番がきて私の作品が俎上に載せられたとき、予想したことではあるが、誰も発言するものがいなかった。そのような雰囲気を代弁するかたちで、滝耕作が話し出したのは、およそつぎのような要旨である。
 いわく、われわれは現代短歌という共通のグラウンドで野球をしているのに、彼(つまり私)だけは、どこか別のグラウンドで野球をしている。
 これは批評ということでいえば、門前払をくらったようなものである。現代短歌という一枚看板を占有されたのだから、淋しい気がしないでもなかったが、一方では事実の追認として、私自身も納得するものがあった。
 短歌に係る以上、やはり専門歌人のはしくれとして認められたい。この気持は痛烈である。だが、同時に私が短歌を一つの回路として選択したのは、帰っていきたい現実につなげたいがためである。そしてその現実とは歌人の世界でもあるが、歌人の世界だけではない。もっとはっきりといえば、短歌と俳句の区別もつかない隣のおっちゃんやおばちゃんの世界である。ゴルフとマージャンができて、カラオケが上手でなければ話題の中に入っていけない職場の世界である。また友人の世界である。突拍子もない片思いと思われても仕方がないが、歌をはじめた当初から、私の歌は、彼ら、彼女たちへの相聞だったからである。
 その二。さらに以前、短歌をつくり始めて間のない学生時代、友人から、短歌をつくるなら岸上大作でなければならない。時代を歌わない短歌など、二束三文の値打しかないといわれたものだ。結社に入り、総合誌にも目を通すようになって、新鋭、中堅と呼ばれる気鋭の多くが岸上大作にどれだけこだわりつづけているか、ということも知らされた。
 しかし自殺歌人ということでなら、よほど坂田博義に、私は心ひかれるものがある。

  君の愛に気附かざりしを詫びる思い淡雪を含みてくちづけしたり     坂田博義
  手術して癒えゆく妻をともなうにあたかもひらく春のもろ花
  疾風のすばしる浪よりオロロン鳥とびたつみればついに生きたし

 資料の乏しいせいもあるだろうが、「ついに生きたし」と歌いながら、二十四歳で縊死をとげた彼の場合、私はほとんどその死に疑いをさしはさむ理由がない。

  かがまりてこんろに青き火をおこす母と二人の夢作るため     岸上大作
  父の居ぬ家にもつばめ来る幸を言いつつ母と青き莢むく
  デパートの食堂給仕の職を得し妹今宵美しくみゆ

 だが、岸上大作の場合は別である。考え方によっては、坂田以上に生きなければならない必然を彼は背負っていたはずである。母と妹のためにも、そして彼の思想のためにも、である。たとえ凡庸な歌人として一生を終わることになるとしても、生きなければ平和も社会主義の実現もあったものではない。
 同じ縊死とはいえ、こちらはロマンのかけらもないみじめさと無惨な印象が同居している。
 悪口を書いた手前もある。私自身のことについてふれておこう。私の父親は、大阪府警本部の警察官だった。かなり勤勉で指紋検出用シリコン加工筆なる考案で科学技術庁長官賞を受けたりしているが、死体の指紋を採取しているときに過労から倒れ、一週間余りで不帰の人となってしまった。昭和四十六年四月、まだ四十五歳の若さである。公務死の認定が下り、森の宮の青少年会館で大阪府警本部の刑事部葬がとり行なわれたのは、それからまもなくである。
 だからだろうか。昭和四十七年二月。あさま山荘事件が起こり、機動隊員二人が殺されたが、どうしても他人事とは思えなかった。ほとんど自分の父親が殺される現場に立ち合っているような気持で中継放送されるテレビをみていたのである。
 おそらくその後遺症でもあろう。無条件で岸上大作や岸上大作を援護する歌人に歩調をあわせるわけにはいかないのである。
 福島泰樹に溺れるわけにはいかないのである。

  騒ぐなら国のかたぶくまで叛きてむ直腸に鉛沈めて     岡井隆

 村木道彦は「ノンポリティカル・ペーソス」の中で「短歌と言えば、かならず塚本邦雄氏に言及し、さらに岡井隆氏をうんぬんせざるを得ない悔しさ」について書いていたが、一面、塚本邦雄の歌を読むと、批評される対象としての私(たち)にであうことがしばしばで、苦笑させられるのである。

  胃を病みて子と鞦韆(しうせん)に遊びをり〈平和なれども地を嗣がぬもの〉 塚本邦雄
  どこかちがひどこかが同じ愛を欲りやまぬ若者の舌、犬の舌
  杞憂癖子らにつたへて表秋の父のカンカン帽たまごいろ
  ジッドの妻の名を忘れてはわれに問ふ男を友として夏痩せす

    3

 どこまでも私というものに執着しながら現代短歌との出会いについて書いてきたのであるが、つぎは古典との出会いについてふれておきたい。
 ご多分にもれず、短歌をつくり始めて、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集といったアンソロジーに接する機会がふえてきたのであるが、佐佐木幸綱の「人間の声」を読んだのも、その頃である。中に「短歌形式が走者である歌人を通して自らうたうのである。歌人がうたうのではない。千二百年の血がうたうのだ」という一節がある。歌の家に生まれたということもあるだろうが、ここには弁解のない、火の継走者を選択した男の世界がある。まねのできないことだ。
 しかし、あるいはそれ故にとでもいおうか。これほど無縁で、別世界をかいまみる思いをしたこともまた、まれである。
 伝統の中に身を置いているという意識が希薄なのだ。それでも千二百年という時間をさかのぼれば、やはり同じ顔をした、同じ私(たち)にめぐりあうことはできる。

  春さらば挿頭(かざし)にせむとわが思(も)ひし桜の花は散りにけるかも   万葉集
  石麻呂(いはまろ)に吾物申(われものまを)す夏痩(やせ)に良(よ)しといふ物ぞ鰻(むなぎ)漁り食(め)せ
  父母が頭(かしら)かき撫で幸(さ)く在(あ)れていひし言葉(けとば)ぜ忘れかねつる

 おそらく和歌史を基準とした選択なら、またちがった作品を選ばねばならないだろう。秀歌を基準とすれば、またちがう選歌もあろう。だが私というものにこだわるならば、交感できる世界は、それほど広くはない。限られた範囲なのである。それが文学的価値観とは、やや異なった選択とならざるを得ないのである。
 このことは歌謡に接するときの共感とも通底するものであろう。
 桃山晴衣が作曲し、吹きこんだ「遊びせんとや生まれけん『梁塵秘抄』の世界」というレコードがある。標題にもなっている、

  遊びをせんとや生(う)まれけむ 戯(たはぶ)れせんとや生(む)まれけむ 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺(ゆ)るがるれ

のほかに二十首が収められている。もちろん、その当時のままの節であるわけもないが、十二世紀の「現代」人によって実際にうたわれるものであることを思い出させてくれる点で、また時代の雰囲気といったものをわずかでも感得させてくれる点で、たのしい企画である。

  わが子は十余(じふよ)になりぬらむ 巫(かうなぎ)してこそ歩(あり)くなれ 田子(たご)の浦(うら)に潮(しほ)踏むと いかに海人集(あまびとつど)ふらむ 正(まさ)しとて 問ひず問はずみなぶるらむ いとほしや

 また、

  わが子は二十(はたち)になりぬらむ 博打(ばくち)してこそ歩(あり)くなれ 国々の博党(ばくたう)に さすがに子なれば憎かなし 敗(ま)かいたまふな 王子(わうじ)の住吉西宮(すみよしにしのみや)

といったものもある。遊女、巫女、博打うちらが登場しているが、これも歌謡ならではの世界であろう。特にあとの二首は、巫女であるわが子、博打うちであるわが子を案じる母の心情がストレートに出ていておもしろい。
 万葉集、古今和歌集、新古今和歌集の中で、母がどのように歌われているかということに興味をもち、母という言葉の含まれる短歌作品を数えてみたことがある。結果は万葉集が五十一首あるほかは、古今、新古今とも皆無であった。万葉集に歌われた五十一首も、母への恋慕を主題とする防人歌や、恋の脇役として登場する作者不明の歌がほとんどを占めていた。私を軸とした選歌と、その方向において一致するのである。
 国文学をかじった人間には、これはあたり前なのだろうけれども、私にはやはり意外であった。歌謡との関連でいえば、一つは、歌謡の核ともいえる母が、短歌の世界では全くといってよいほど顧みられないこと、一つは、これも事実の確認であるが、歌謡の世界では、いかにも種種雑多な人間がうごめいているのに対して、短歌の世界では、おそろしくその階層が限定されていることである。
 この聖と俗のコントラストはよほど強固であるらしく、現代歌人が歌謡の世界に遊ぶ場合も慎重で、古典としての、活字としての歌謡のみを選別する、といったところにも生きているように思われるのだ。
 まして、短歌においてをや、である。

  瀬に立てるをとめごたちのスカートの内もながるる水の春かな     中川道弘
  御(み)トイレの穿(うが)ちが穴の女陰(ほと)のとし靴よりほかに知るすべもなし
  引き結ぶ胸もとゆるきをとめごの気(け)取らずあらばまた帰り見む

 性もまた歌謡を形成する重要な核の一つであった。中川道弘の歌に、私が興味を覚えるのも、おそらくそのあたりと無関係ではない。彼の歌が、私には、女を犯しているのではなく、短歌の聖性を犯しているようにみうけられるからである。
 歌道という言葉がある。島木赤彦にも『歌道小見』という著書があるぐらいだから、私たちの中にも、まだ伝統として生きているのではないだろうか。
 だとすれば、おぞましい限りである。私には歌はどこまでも歌であり、それ以上のものでも、それ以下のものでもない。たとえ心の中にでもあれ、「道」なるものをつけて、そこに付加価値をみいだそうとする姿勢を、私は好まない。

    4

 ところで、『短歌』十月号を手にとると特集として「現代短歌が捉えなおすべきもの」を組んでいる。柱となる論文として、島田修二の「新しい短歌圏の創造」、篠弘の「いま人問を歌う意味」、岩田正の「出発点としての日常・生活実感」、菱川善夫の「冒険的大衆歌人論」があるが、私が興味を覚えたのは、これらに共通する、いわばドーナツ化現象とでも呼ぶべき歌壇離れである。島田修二は体験的に、地域とのかかわりにふれている。菱川善夫は「カルチャー歌人、あるいは大衆歌人を現代短歌、特にも今日の文学前衛に対しての、ラディカルな批判者に位置付けようとする私のもくろみ」を展開しているわけであるが、共に小見出しとして「歌壇から離れた処で」(島田修二)、「歌人になるな」(菱川善夫)と刺激的である。
 これと、たとえば『昭和萬葉集』の第一回配本の直後、すなわち昭和五十四年の『短歌現代』八月号で「戦争と日本人」という特集があり、件のアンソロジーに対しての歌人の反応がみられるが、それをみると「文学的怪物」(鵜飼康東)、「瓦礫の逆説」(三枝昂之)、「無感動な企画」(大林明彦)、「迫真性の欠落」(中川昭)といった発言が目立ち、「大衆の苦難の作品」(大島史洋)といった感想がむしろ少数派であったことを較べると、むろん書き手のちがいがあるにしても、たった四年とはいえ、あきらかに湖流の変化がみられるのである。

  みづうみのほとりの駅に電車待つひとたちは魚のかほをしてをり     松平修文
  こひびとが写る背景のうすぐらき海をヨットが流されてゆく
  不死草の生えてゐる場所を教へてあげるかはりにわたしを殺してくれるね

 むろん、これに棹差すつもりはないが、読者としての期待と収穫という点からいえば、それとも少し違うという感じがついてまわるのも仕方がない。
 もし、この変化に私が期待するとすれば、まだまだ人知れず埋蔵されているかもわからない魅力ある歌が発見されるかもわからない。それに対する期待だけである。

  色の白い美しい子を                        夢野久作
  何となくイジメて見たさに
  仲よしになる

  自殺しようか
  どうしようかと思ひつつ
  タッタ一人で玉を撞いてゐる

  駅員が居睡りしてゐる
  真夜中に
  骸骨ばかりの列車が通過した

 公認された歌の世界では、おそらく味わえないおもしろさであろう。
 歌が、かならずしも歌壇の占有物でないことはもちろんである。昨日まで歌とかかわりのなかった人間がやむにやまれぬ魂の雄叫びをあげているかもわからない。そんな交通整理される以前の混沌またエネルギーからも学ぶことは多いはずである。

  夕暮に小鳥さえずる声聞けば我帰りたや母の待つ家           金嬉老

 ブラック・ボックス(初出「短歌人」1984年5月号)
 
 奥村晃作氏の歌が、さいきん話題になっている。『鬱と空』(昭和五十八年、石川書房)のことである。
 おそらく小池光氏の「笑いの位相」(『短歌現代』昭和五十八年九月号)あたりが火付役になっているのであろう。
 奥村氏と小池氏の組合わせも意外な感じであったが、それ以上に『三齢幼虫』(昭和五十四年、白玉書房)という歌集もあるのに、どちらかといえば論の人として処遇されてきた氏の作品が今頃になって存在を主張しはじめていることが、また不可解でもあった。
 念のために前歌集を読んでみたが、こちらが十七年という長期間に発表した作品を収録していることを除けば、それほど印象は変わらない。となると、奥村氏をとりまく歌の状況が変化してきつつある、ということなのであろうか。
 あるいは社会が、といってもよい。

  次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く

 『三齢幼虫』の後半に収められた作品である。一見、あたりまえのことが歌われている。いや二見も三見も、やはりあたりまえのことであろう。自動車を運転するとき、おのずから人は前を向くものである。キーをさしこむ。エンジンをかける。ギャをローに入れる。クラッチから徐徐に足を上げながらアクセルを踏む。もちろんハンドルは握っている。車はしずかに動き出す。このことを私たちは知っている。だから作者の前を次々に走り過ぎていく自動車の中で、運転手が前を向いていたとしても、それは当然のことであり、また必然なのである。もし後を向いていたら、それこそ狂人であり、暴走車である。
 だが、もう一度考えてみよう。キーをさしこめば、なぜエンジンがかかるのか。クラッチを踏めば、なぜにギヤ・チェンジが可能なのか。ブレーキを踏めばなぜ停車するのか。
 答えられる人は少ないであろう。
 それもそのはずで、私たちが知っているのは操作の仕方でしかないからである。
 自動車はブラック・ボックスなのだ。
 自動車に限らない。テレビ、ラジオ、ステレオ、電気洗濯機、電気炊飯器、電子レンジ等。便利な日常生活をかえりみれば、そこにどれだけ多くのブラック・ボックスに支配されているかということに慄然とすることであろう。
 職場においても然りである。
 わからない、ということであれば明日などはその最たるものである。
 気がつかなければそれだけのことなのだ。しかし、一度気がつけば、あともどりできない。私たちのあたりまえは次第に怪しいものに変化していくであろう。あたりまえだった光景はやがて滑稽でおぞましく、ときに不安な世界に一変するのである。

  もし豚をかくの如くに詰め込みて電車走らば非難起こるべし
  二組の両親立ちて礼(ゐや)するときハンカチを眼にす花嫁の父が
  恐竜展見学募る一枚の立看板が立つ飯田駅前に
  舟虫の無数の足が一斉にうごきて舟虫のからだを運ぶ
  百円の硬貨(コイン)が落ちてピーポーと音立つる機械の前に坐るも

 『鬱と空』からアト・ランダムに抄出した。
 奥村氏の作品が私にとって親しいのには、いくつかの理由があるが、一つは、先にも書いたようにブラック・ボックスともいえる社会にあって、氏が自己回復の手段として、歌を選んでいる点である。
 もう少し厳密にいえば、歌をつくる人間はだれだってそうだ、という批判がありそうなので、そしてそれはもっともなことと思われるので、まず抄出した作品をみてもらいたい。私たちがあたりまえとしている、そのあたりまえに揺さぶりをかけてくる作品もあるし、そうではなくて単にありふれた光景ではあるが、そこに共生感のわいてくる作品もある。いずれにしても、からくりまではみせてくれないにしても、眼でみ、耳できき、鼻でかぎ、舌であじわい、手にさわることができるということ、ものがあり、世界があるということ、それが私にとっては大切なのである。
 その特色の一つとして、時間であるとか、回数であるとか、金額であるとか、ともかくも具体的な数字にこだわる性癖が顕著である。

  白く固き皿の上なるもつ焼きの二本が二百五十円とぞ
  入園料二百円にて買ひ上げし如き思ひの青き芝原

 キャッシュレス・ソサイエティという言葉がある。私の職場でも、ご多分にもれず、ほとんどの職員がカードを持っている。なかには一人で何種類ものカードを利用しているものだから、どれがどのカードかわからなくなった、という笑い話さえある。
 おそらく金銭感覚も麻痺するであろう。クレジット・カードを乱用したあげく、その後始末に窮して、破産宣告を申し出る人が増加し、裁判所でも、それが善意によるものか、悪意によるものか、判断に苦慮している、といった新聞記事を読んだことがある。いわゆるクレジット中毒というやつであるが、私にいわせれば、現代というブラック・ボックスに呑まれた人のことである。
 その点、奥村氏は現金主義者であるらしい。本を読むときにも、その特色は如何なく発揮されている。

  わが専門は短歌にてわれは万葉集をかく通読す七、八、九……回

 また奥村氏は、概して使命感や常識に捉われることがない。これも特色の一つであろう。

  老人と身障者をば優先するシルバーシートは避けて坐らず
  生くるのみの植物人間は注射一本で死なせるが佳しと一人父が述ぶ
  ヒトゴロシ、窃盗なぞははつきりと悪なるゆゑにわれは成さざり

 シルバーシートに坐らないのは、別に弱者へのいたわりからではない。それならば「避けて坐らず」とは歌わないであろう。ただ約束事であるからにすぎない。もっといえば、シルバーシートに坐ることによって生じるかもわからない煩わしさを忌避しているにすぎないのである。
 植物人間は注射一本で死なせたらいいではないか。たしかにそのとおりかもわからない。だが実際問題として、たとえ父親が言ったにしても、このようには歌えないであろう。私たちの心のどこかで、植物人間といえども人間である。生きているのだ、注射一本で殺すなどと非人道的ではないか、といった意識が同時にはたらくからである。
 このように奥村氏の作家としての目は常識の壁を透視して、私たちをハラハラさせたり、ドキドキさせたりするのである。端的にいっておもしろいのであるが、ただ一つだけ、どうしても透視できない世界がある。
 氏の理想主義が、あるいはやさしさが事実を認めようとしないで、自らの手で自らの目をふさいでいる部分である。
 奥村短歌に私が興味を覚える二つ目の理由であるが、それはこんな歌である。

  人皆が平等なりとふ軟弱の思想久しくわれを汚すも

 人は平等であってほしいし、平等であるべきものだ。しかし実際はどうであろうか。生まれおちたときから不平等である。金のある家に生まれたもの、健康にめぐまれたもの、めぐまれないもの、容姿が端麗であるもの、端麗でないもの、才能にめぐまれたもの、めぐまれないもの、このように考えていくと、人がみな平等であってほしいという願いとは裏腹に、私たちはおびただしい不公平のなかで生まれ、そして生きていかければならないことがわかる。
 しかも生きていくことは競争である。だれ一人として、この競争の論理から外れて生きていくことはむつかしい。

  東大にあらざれば大学にあらざると思ひつつ励みし高校生われ

 私たちが一番さいしょに遭遇する競争は受験競争である。そして奥村少年は努力のかいあってみごとに勝利の栄冠を得るのである。順風満帆、氏の前途は洋洋としているはずなのに、心はなぜかはればれとしない。
 『三齢幼虫』の「あとがき」に、つぎのような一節がある。しかも出だしの部分である。

   わたしは大学受験競争の犠牲者の一人であったと思われる。責の大半はむしろ家庭環境に、より深くはわたし自身の考え方・資質の上にあったと思うが、目的を遂げた途端、目標を喪った。

 そして「孤り苦しんでの長い彷徨の末に短歌と出会」ったということが書かれている。
 念のために歌論集『現代短歌』(昭和五十二年、短歌新聞社)の略歴をみると、昭和三十七年に東京大学経済学部を卒業し、三井物産に入社しているが、翌年には退社している。
 ここに〈生活は学校教師、生きしのぐ手立ての歌はつくりて止めず〉という生活におちつくのである。だが、ここでも氏は悩まなければならない。

  選別の思想がわれの身に深く根を張り苦しみの因(もと)なすを知る
  身に深く根を持つ選別の思想ゆゑ生涯根こじ出来ぬといふか

 こんどは教育工場の労働者として、競争の論理をあおり、選別というふるいにかけなければならない。しかも自身のなかの選別の思想と対峙しなければならない苦痛が語られている。この逡巡が作品に影をおとさないはずがないであろう。

  絶望的管理社会の競争といへどひたすら吾は勝ちたし          鵜飼康東

 昭和四十九年「テクノクラットのなかに」で第二十回角川短歌賞を受賞したときの作品であるが、鵜飼氏の作品から私たちがシャープな印象を受けるのは、競争の論理を積極的に受け入れているからであろう。軟弱の思想とは無縁なのである。
 もちろん、生理的に、私は奥村氏の味方である。
 ところで、このような逡巡は、私たちをどこへ連れていくのだろうか。
 歌集も後半に「鬱王」と題する一連がある。

  鬱王が又来てわれの心をば鷲掴みにすわれは転がる
  歌詠みて心(しん)の鬱をば解きほどく繰返(くりかへ)しならんわれにわが歌

 必然であろう。だがこれだけではたして帳尻が合っているのだろうか。私には、そうは思えない。
 奥村氏はなぜにもつ焼きの二百五十円にこだわり、万葉集の読破回数にこだわるのであろうか。さらにいえば、シルバーシートや植物人間、またヒトゴロシの歌の底を流れていたのは、あれは何だったのだろうか。
 無感動である。あるいは虚無感といってもよい。
 このように書いたからといって、自己回復の試みとしての短歌である、といった前言を否定することにはならないはずである。
 歌集名『鬱と空』はウツとソラとふりがながつけられている。しかし空はソラばかりでなく、カラとも、あるいはクウとも読めることの、かならずしも小さくない意味を私は考えるのである。

解説の時代(初出「花鏡」1986年10月号) 


 もうだいぶ以前になるが、朝日新聞の「声」の欄にこんな投稿がのっていた。

   不思議なる泉を持てり汲むほどに湧き溢れくる日本の歌
   二月半ばの朝日歌壇にオランダ住在のモーレンカンプゆうこ  さんのこの歌が載った。続いて 同月二十四日付の声欄に奈良  県の主婦の方が「歌いつづけるわが『早春賦』を投稿され、そ  の中で「心の中にわきあふれてくる『日本の歌』はおそらく明  治大正のなつかしい唱歌や童謡であろう」と述べていた。
   私もこの歌に感銘した一人だが、自分と全く違う解釈に、な  るほどと反省したものだった。 私は「不思議なる泉」とは短  歌の三十一文字という定型のことだと思っていたのである。三  十一文字にすると詩となってわいてくるからである。
   ところがこの二十三日の朝日歌壇にモーレンカンプさんのう  た「戯れに作りし歌のいつよりか命はらみて我に迫るも」が載  った。これを見て「不思議なる泉」はやはり三十一文字の定型  のことではないかという感じがしてきた。定型にして命がひび  いてくる意味ではないか。逆者の方の解釈が聞きたくなった。

 書いたのは宝塚市在住の杉山平一氏で七十一歳の詩人だそうである。
 これを読んで、みなさんはどのような感想をもたれるであろうか。 その後、気をつけていたが選者の解釈は示されなかったように思う。いや、もしかしたら触れていたけれども、ただ私の目にとまらなかっただけのことかもわからない。
 いずれにしても、選者の見解に私は興味をもたない。言葉が悪ければ決定的ではないだろうと思う。また「日本の歌」が五句三十一音の定型を指しているという点では杉山氏に賛成するが、ただ、一つの歌には一つの意味しか成立しないと考えている節があり、この点では承服しかねるのである。
 はっきりといって、歌の核となる部分さえ共有するならば解釈がいくつ並存しようと私はいっこうにかまわないと思う。むしろ、そちらの方がおもしろい。ここでいえば「心の中にあふれてくる」もの、その何かが核であり、「日本の歌」はそのキー・ワードであるが、そのキー・ワー ドを解くものはほかならぬ読者なのだ。
 たしかに「モーレンカンプふゆこ」という歌人を研究するなら「日本の歌」が五七五七七の短歌であるのか、あるいは唱歌や童謡を意味するのかは、きわめて重要である。識者の見解を問うのは賢明であるといえる。
 だが、それ以外の場合はどうだろうか。
 読者は、もっと自由なはずである。
 読者は王さまなのだ。
 仮に、選者から「日本の歌」は君、五七五七七の短歌ですよ、といったぐあいに御託宣があった、としよう。それだからといって「明治大正のなつかしい唱歌や童謡」であるという解釈を追放することができるだろうか。
 おそらく、感銘の深さに比例すると思われるが、そんな力はないであろう。

  腕のばす胸に五月の血はさわぐ夢はゆたかにみのらせるべし
                        松坂弘
  志持つはさびしきこと多しリンゴ畑の乱れてあらん
                       佐藤通雅

 これが「夢」や「志」になると、解釈はさらに多様性を帯びてくる。
 思いつくだけでも、サラリーマンの夢と志、OLの夢と志、自営業者の夢と志、政治家の夢と志、暴力団員の夢と志、あるいは東大にかける夢と志もあるだろうし、甲子園をめざす夢と志もあるだろう。またタレント・歌手・司会・ものまね・なんでもよいから有名になりたい少年の夢と志、平凡な人生を生きたいと願うオジさんの夢と志から電車でとなりあわせたオバさんの夢と志まで、さまざまである。おそらく人間の数だけ夢や志はあるだろうから「日本の歌」どころではない。変形が可能なのだ。それゆえにとでもいおうか。読者は一○○パーセントの確率で自身の夢や志を、これらに託すことであろう。
 ことにも惚れてしまった人間の心は格別である。相手が迷惑であろうが、まわりのものが不愉快であろうが、そんなことにはおかまいなしなのだ。心の中の世界はだれも犯すことができない。いわば歌にとって至福の瞬間ともいえる出会いがそこにある。
 四、五年も前になるだろうか。初めて大相撲をみにいっておどろいたことがある。意外だったのだ。歓声はきこえるが、アナウンサーの声がきこえない。解説の声がきこえないのである。力士は自分のすわっている升席からしかみえない。せいぜいオペラグラスで近くに引き寄せることができるだけである。ビデオによる再現もないからよくみていないとわからない。あ、というまに終わってしまう。プロ野球のときと同じだな、と私は思ったものである。自分の目でみ、自分の耳できき、自分の足で移動し、自分の頭で整理する。あたりまえのことだが、その主体性のなかにこそスポーツ観戦の醍醐味があることはいうまでもない。テレビ観戦とは一味も二味も違うスリリングな魅力である。
 同じことは短歌についてもいえる。詞書によって解釈がうごかない。しかし歌を小さな世界に閉じこめてはいないだろうか。日記である。歌集でいえば、序文、解説、後記、帯文、莱といったものがさかんである。このうち、どれかを欠く歌集はあっても、すべてを省略した歌集といったものはまずお目にかかることがない。相撲中継ならアナウンサー、解説者、ゲストの役割をはたし、意味を補完する。情報を提供する。つまり読者サービスに努めてくれるのである。ついでに、あるいは比重は同じかもわからないが、ぼくの仲間だからよろしく、といったあいさつが入る。自分はこんな人間である、といった説明が入る。そんな作者の仕掛けた網にかかるのは簡単なことである。また便利でもある。しかし窮屈なことは「日本の歌」の解釈を選者に委ね、その結果に従うのと同じである。
 作者の横暴とまではいわないが、饒舌の時代だからこそ、作品は汚されることなく、黙って、無条件で読者の前に屹立していてもらいたいのである。

 もっとみだらに(初出「白珠」1987年5月号)
 
 安田純生氏はおもしろい歌人である。そして、少し変な歌人でもある。

  たましひを日に晒さむと食ひ過ぎの腹かかへつつベンチに坐る

 特別な詩語などあろうはずもない。だが、それにしても「食ひ過ぎの腹」にはびっくりするのである。上句が玉なら、さしずめ下句は石といったところであろう。

  花束をしかと抱けり祝宴に風呂ぎらひなるをとこ起立し

 長い間、歌を読んできたけれども、こんなに堂堂と「風呂ぎらひ」が登場した作品は記憶にない。やはり上句が玉なら下句は石である。このほかにも、「欠伸」「銭」「むし歯」「ヤニ」「世辞」「嚔」「雪隠に」「寝そべり」「愛想笑ひ」とつづくのであるが、はたして作者の意図はどこにあるのだろうか。
 つぎの「吃逆」の歌を例に考えてみたい。

  象徴的歌風のことなど講じつつ吃逆(しやくり)の出でて笑はれにけり

 玉をさがせば「象徴的歌風」であろう。石は、もちろん「吃逆」である。講義中のほほえましいハプニングともとれなくもないが、ここでは玉が石の哄笑にさらされていると解釈したい。さらに妄想をはたらかせるならば、講義が「象徴的歌風」にさしかかると、きまって「吃逆」がでるのではないか。変な歌人だといったのは、この歌が、安田青風を祖父に、安田章生を伯父にもつ「白珠」のプリンス安田純生氏の作品だからである。

  親分となりたき者らひしめける朝の車中に吃逆(しやくり)をこらふ

 同じ「吃逆」の歌である。だれが加害者で、だれが被害者だとは色分けできないけれども、朝の電車の中は親分や親分の予備軍でひしめいているという。家庭、幸福、出世、自己顕示欲、上昇志向。そんな競争社会の坩堝に立っている自分に気がついたとき、作者は「吃逆」をもよおすのである。
 これで玉と石の関係はあきらかだろう。「たましひ」(精神)は「食ひ過ぎの腹」(肉体)で相対化される。「花束」(晴)は「風呂ぎらひ」(褻)によって相対化される。「象徴的歌風」(聖)も「吃逆」(俗)によって相対化される。「親分」は石的表現であるが、競争社会に君臨する価値観であることを思えば玉であろう。これも相対化されてプラスマイナスゼロである。
 今少し、作品をみてみよう。

  寝そべりて恋の歌読む古き代(よ)のたはごとなれば美しき歌

 恋の歌が美しいのは、古代のしかも「たはごと」だからだという。それを現代に生きる作者は寝そべって読んでいる。一方、作者の手になる相聞を読むと〈をりをりに欠伸のもるる会話をへ明日逢ふことを誓ひて別る〉〈義務めける逢ひを重ねてほの甘き酒にゑひつつわれらはひとり〉といったぐあいで、ここでも恋(あるいは人間関係)は相対化されてしまうのである。

  葬式にハンカチ数十ひらつきてあな現身(うつそみ)の汗はぬぐはる

 めがしらにハンカチをあてている参列者を考えるのがふつうであろう。ところが作者は、そんな常識が気に入らない。額の汗をぬぐわせるのだ。焼否を待っているのであろう。生者たちによって死はまさしく相対化される。また相対化されたところでしか死も在存しないことをリアリストの目はみのがさないのである。

  世をいとひ河童去りけむ 川岸の洞(ほら)は奥まであらはとなりぬ
  山裾をまがり消えぬるトラックの木端微塵となるさまの顕つ
  この石段のぼりつくさば夕焼けを背に獄卒らわれを迎へむ

 この暗い情熱の起因するところを私は知らない。また一度相対化された地平に別の秩序が打ち立てられているわけではない。新しい関係がみえてくるというのでもない。それでも、これらの歌によって、私の内なる玉が洗われることもあるし、私の内なる石が救われることもあるのだ。
 ところで奥村晃作氏は歌人としての安田純生氏と研究者としての安田純生氏を比較して「いまのところは散文の方が作品に先行しているかもしれない。しかし、研究し、努力し、書き継ぐ中で獲得されて行く教養と鑑賞力、表現力と技術力とが実作の上に力となって行くことは確かなことだろう」と書いているが、どんなものだろうか。
 内容にふさわしい文体は確立しなければならない。しかし、それと学究としての成果が一致するかどうかは疑問であろう。吃逆の一つもしないで象徴的歌風を講義する安田教授の作品を、尊敬はしても、たぶん私は読まないと思うからだ。

  公園の椅子にほうけてあるときを男寄り来て銭くれといふ
  さ夜ふけて網戸に来たるカナブンのその腹と足を内より撫づる
  門(かど)ベゆく下水の音を捉へたり虫の音(ね)ゆゑに澄ませる耳は
  この世なる〈高天原〉にのぼり米し土竜の屍を裏がへしたり
  たけ高き人らのあひだに押し込まれ車外に耀ふ海見えがたし

 市井の人である。あるいは市井の異邦人と呼ぼうか。だれしもが経験したことがある。そしてすぐ忘れていく世界を捉えるのは技術ではない。技術はいつでも習得できる。だが、このカメラ・アイは生来のものだ。無防備でなければみえてこない世界なのだ。
 さいごになったが「蛙声」という言葉には「みだらな」という意味があると教えてくれたのは、ほかならぬ安田氏その人だった。なるほど漢和辞典をひらくと「蛙声」は「みだら」「みだりがわしい」、「蛙声」は「みだらな音楽」とある。みだらなことが大好きで、『蛙声抄』にも共感する読者としては、もっとみだらに、そう呼びかけておきたいのである。

 男歌随感(初出「短歌ふーらむ」第13号、1987年10月号)
 
  争ふを好まず過ぎし少年期おもへば騎馬戦、棒倒しまた

 のっけから自分の作品を引用するのも気がひけるが、自信があってのことではない。むしろ、歌会では評判が悪かった。それでも愛着をおぼえているのは、歌っている内容に嘘がないからである。今でも、ありありと自分の中学時代を思い出すことができる。なつかしい作品なのだ。
 騎馬戦や棒倒しに限らず、勝負ごとにつながるものは、どちらかといえば好きでなかった。小学生のときにおぼえた囲碁や将棋も、待った待たないで兄とけんかをしてしなくなっていた。女房にいわせると「要するに敗けずぎらいなんだ」ということになるが、それもあるかもわからない。ただ汗をかくのはきらいでなかった。昼は剣道、夜は警察の道場で居合を習っていた。特に剣道の練習はきびしかった。おかげで高校に入学して初めて肺活量を測定したときはおどろいたものだ。身長は低い方から三番目なのに肺活量だけは多い方から三番目だったからだ。今は、水泳をたのしんでいる。
 男歌というのは、短歌用語、いわば業界用語の一種なのだろうが、どうも短歌の世界というのは性差に敏感であるらしい。プロレスに対する女子プロレス、柔道に対する女子柔道、ボクシングや重量挙げはまだ一般的ではないけれども、水泳の男子と女子、体操の男子と女子、さらに剣道、弓道、テニス、バレーボールと、指折り数えたそのさいごに男歌と女歌があってもふしぎでない。まるで運動部の世界だ。
 小さな子供が並んで小便の飛距離をあらそったり、両手をひろげて「うちのお父さんのオチンチンはこんなにでかいんだぞ」そんな自慢をしているうちは他愛もないが、これが大の男になると話は別である。とにかくものごとに順位をつけなければ気がすまないという性分、力を誇示して他人を従えさせなければ満足できないという体質。どちらも闘争本能のあらわれであろうが、笑ってばかりもいられない。こまったものだ。
 わかりにくければ、こんな例がある。みんなで酒をのみにいったとしよう。かならずといっていいほど酒量にこだわる男がいる。それはそれで結構なことだが、人には人の適量というものがある。一滴ものめない下戸から、一合ぐらいならのめる人間もいるし、三合から五合はかるいという人だっている。一升のんでも平気という猛者いるだろう。個人差はもって生まれたものだ。〈白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり〉(牧水)ではないが、たのしくのむのが一番だ。自足すればよいのである。上戸が下戸より優位にあるわけがないし、物差を使ったり、まして番付にするなどもってのほかであろう。
 男歌の活力について書こうとしながら、でてくるのは悪口ばかりである。こんなはずではなかったのだが、男歌といわれるものが、あまりにも男の「雄」の部分を強調しすぎるところがあり、それにどうやら反発を感じているらしい。まるでゴリラのドラミングなのだ。

  オブローモフは眠る時寝て疾走す怠けよきょう一日陣をたてかえ     普樹隆彦

 走るだけが男ではない。歩いてみる。立ちどまってみる。そんな歌を読んでみたいと思う。

 歌の円寂するとき(初出「短歌人」1988年12月号)
 
 十月九日、日曜日。晴。
 長男の運動会。昨年は歌会を優先して新一年生の子供に悪いことをしたという思いがあり、意気込んでいたのであるが、不運なことに従弟の結婚式とかさなる。それでも午前中はなんとかなりそうなのでネクタイを締めていると家内の母親がいう。おや、生夫さん、そんなにパリ、と決めて結婚式の前に歌会の予定でもありましたか。いえ、あの、その、お母さんと同じで運動会の方に。わたしも随分と短歌にのめりこんだものだ。
 そんなわけでカメラを手に、そわそわ、いそいそしていると、いよいよ開会式。校長先生の話が長い。保護者のみなさま方に一言ご挨拶を申し上げます。すでにご承知のとおり天皇陛下はご病気であります。新聞、テレビ等で報道されているところでありますが、国民の一人一人として、一日も早いご回復をお祈りしている昨今です。そこで各種の催しにつきましても自粛するところが多くございます。わたくしたちも、この点を真剣に議論したことはいうまでもありません。しかし運動会は、お祭りではありません。教育の一環として例年と変わらず実施することになったことをご報告いたします。このように結んで演台から下りると、今度は同窓生を代表して某衆議院議員。「みなさん」ではなく「みな」と呼びかけるところが耳にさわる。したがって、みなも元気に演技することです。そうすれば天皇陛下もお喜びになられます。わたしの話は、これでおしまい。聞いているのか、いないのか。整列している児童に背中を向けると、さっさと演台を下りた。いよいよ「国旗掲揚」である。一同起立。「君が代」が流れる中、青空に掲揚されていく日の丸の旗をみていると、眩しい、ふと非日常の空間に投げ出されている自分を発見した。
 十月十日 体育の日、晴。
 京阪三条で待ち合わせ。河原に下りて歌をつくる。あと四条まで歩いて「にゃんにゃん」の二階で酒。火事になると逃げ場がない。二階というよりは屋根裏のような座敷である。だから、と人はいう。ここからは音声を変えてある。右の人の活動が活発ですからね。うかつなことは書けないんですよ。恐いですよ。どこで読んでいるかわからないんだから。また、ある人。しゃべるのは、まだいいんですよ。訂正の幅がありますから。書くのは大変でしょう。吉岡さん、と笑いながら脅しをかける。あの「××××」はなんですか。わたしは答える。伏せ字ですから、着せ替え人形みたいなものです。うむ、しかし「天皇陛下」としか読めないな。

  鼻に抜けし声もてなにか質しゐる園遊会の××××

 こんな歌である。近刊の『勇怯篇』(短歌新聞社)に収録したものだ。ほかにも二、三の回答が寄せられているけれども初出の作品に即していえば、いずれも正解である。

  鼻に抜けし声もてなにか質しゐる園遊会の陛下なりき

 これが、どうして「××××」になってしまったのか。わたしの関心は「声」にあった。脚色のきかない人間的な部分である。それを「陛下」という尊称で歌えば順直に過ぎて平板な印象を受ける。かといって「裕仁」にすれば思想的な背後関係を詮索されて誤解を受ける。折衷案として「××××」が浮上したわけである。この結果、「声」を頼りに行き着いた先が「長島茂雄」でも、あるいは「竹中直人」でも正解となることはいうまでもない。ほかに礼宮さまの「髭」にも関心をもっているが、これは「不敬罪」であろうか。その場の空気が、わたしの感情を暗くした。
 十月十一日、火曜日、曇。
 寝不足のせいか頭が重い。
 十月十二日、水曜日、雨のち曇。
 加藤孝男の「言葉の権力への挑戦」(「短歌研究」十月号)を読む。中でも「言葉遊びの可能性」の部分を行き来する。
 塚本邦雄の「危険を孕んだ言葉の遊戯性」を含む全貌が、現在に至ってみえだしたということについて、佐佐木幸綱の発言を引用したあとで。

   これは社会そのものが余剰表現としての遊びを必要とする時代に到達したこと。そこではある種の洗練を経た言葉以外は有効性をもち得なくなったことがその重要な要因だ。それには言葉と言葉とのスリリングな連結や、互いに犯し合うという複雑な関係がさらに重要視されたためである。それはこれまでの単層的意味の連なりから、韻律、イメージ、文字配列といったあらゆる要素を援用しての重層的表現への移行を示すものだ。それらの表現が偶然からめとったものが言語の新たな地平をひらいていかぬともかぎらないのである。

 また香川ヒサの〈かさはかさ きゆはあはゆき くさはさく 循環バスは渋滞のなか〉という作品に触れて、こうも書く。

   上句のナンセンスは、とうてい意味偏重型の読者には分かりづらいといえよう。しかしこうした言葉遊びによって、恣意的に描き取られる世界に着目したい。このようにいきいきとした発想によって生み出された文体が、社会の病理や時代の雰囲気を偶然にでもからめとることができたら、短歌は暗澹の時代そのものを予見してゆく器として充分機能してゆくに違いない。

 このように引用してみると、目のつけどころには感心するものであるが、今一歩踏み込んでもらえば、というもどかしさも残る。それは選考座談会における菱川善夫の「それじゃあこの『言葉遊び』によって、どういう社会の病理、或いは時代の雰囲気が、取りだされているのか」また「その必然性とか『可能性』が十分に押さえられていません」といった発言につながるものだろう。中山明には「〈ューモア〉というのはありていにいえば〈文化の知的水準〉の試金石のようなものである」(「短歌ふぉーらむ」第十七号)という発言がある。この「ユーモア」を「言葉遊び」に置き換えてみるのもよい。試金石となるのは、しかし「知的水準」だけではないというのが、わたしの考えである。だから必然性はともかくとして可能性については、それほど楽天的ではない。
 そのサンプルを、たとえば天明狂歌の盛衰にみてみよう。

   俳諧の大衆化と並行して、酒脱な後期江戸市民の好みに投じて流行したのが、より庶民的で娯楽的な狂歌と川柳である。天明の三大家とよばれた大田南畝(四方赤良、蜀山人)、唐衣橘州、朱楽管江など、いずれも現役の武士を中心とする江戸の天明調狂歌は、駄洒落や地口にたよった貞柳一派の上方狂歌とちがい、着想の奇抜さ、自由な取材、即興性、軽妙性等々において、和歌の余興としての俳諧歌のわくをこえ、狂歌の名にふさわしい性格を打ちたてている。しかしそれも寛政の改革以後、その風刺性に対する当局の監視と、全国的な流行、つまり大衆化という事情のもとに職業的な狂歌師が輩出した結果、軽妙酒脱とはほど遠い言語遊戯と化している。

 『日本文学小辞典』(新潮社)の「近代文学」から引用した。他の辞典あるいは解説の類も、これと大同小異であろう。わたしが興味深く考えるのは幕臣、四方赤良が松平定信の政治を風刺した落首の出所ではないかと疑われ、それをきっかけに実作から離れていく過程であり、また心理劇である。
 『万葉集』には長歌、旋頭歌、仏足石歌という歌体もある。すでに忘れられた存在であるが、忖度するに短歌の方が「のり」もいい、おそらく自然消滅の例であろう。それに比べたら狂歌の場合は複雑だ。
 机にうつぶしていると、蠅のような手が肩をたたく、うぬ。お布団で寝なさいよ、て。来春、小学校に上がる女の子がいう。
 怯えと祈念(初出「未来」1989年1月号、「近藤芳美の『日本』」改題)
 
 今、手元にある『定本近藤芳美歌集』(短歌新聞社)には十一冊の歌集が収録されている。作品の数は、次のとおりである。

   『早春歌』、三九八首。『吾ら兵なりし日に』、一七三首。『埃吹く街』、四四七首。『静かなる意志』、五六四首。『歴史』、三八四首。『冬の銀河』、五〇七首。『喚声』、六六九首。『異邦者』、八〇七首。『黒豹』、六九八首。『遠く夏めぐりて』、六二八首。『アカンサス月光』、六〇二首。

 この中で「日本」が登場する例歌をさがしてみる。用いられ方は「日本」だけとは限らない。「日本語」「日本人」「日本史」といったケースもあるので、これを含めることにして勘定すると、左のようになる(括弧内は%)。これが他の歌人に比較して、多いのか少ないのか、それを知る資料は残念ながら持ち合わせていない。

   『早春歌』、三首(○・八)。『吾ら兵なりし日に』、なし。『埃吹く街』、五首(一・三)。『静かなる意志』、十一首(二・〇)。『歴史』、一首(○・三)。『冬の銀河』、二首(○・四)。『喚声』、九首(一・二)。『異邦者』、三十六首(四・五)。『黒豹』、五首(○・七)。『遠く夏めぐりて』、七首(一・一)。『アカンサス月光』、五首(○・八)。

 実際の作業にかかる前の予想では、数は多くないだろう、しかも平時よりも戦時、もしくは戦後の一時期に集中しているのではないか、そこから近藤芳美における日本あるいは日本人としての意識を探ることにしたい、このように考えていたのであるが、当てにならなかった。そこで少し目先を変えてみる。
 「日本」ではなく外国人が登場する歌ではどうだろうか。

  自(おのづか)らはなれ土掘る鮮人人夫と苦力(クリー)の人種意識もあはれ 『早春歌』
  鮮人に媚びて物食ふ少女あり時報は街のいづくかに打つ          『埃吹く街』

 右の作品、李正子が「時代の中から歩み出して欲しい」(「未来」四三五号)の中で遠慮しながらであるが、疑問を投げ掛けている。奇しくもといおうか、八年前に尹政泰が「認識の架橋ー初期朝鮮詠に関する二、三の考察」(「未来」三四六号)で言及した作品である。「鮮人」へのこだわりであるが、阿木津英は「センジンという四音が歌におさまりやすいから、つかっているにすぎない」(「私有のことば」同四三八号)と書く。仮に、そうだとしても「センジン」は「賤人」に通じるし、歴史的な経過を考えるとき、二人の発言には抗しがたい力がある。

  岩の上にいつまでも手を振る吾を西洋人は見て居たりけり          『早春歌』
  讃美歌のレコードかけて灯(ともし)けせばいだき合ひぬ一隅に西洋人同志が

 西洋人が登場する。しかも場所はヨーロッパではない。作者の父親は「長年植民地銀行の行員として働き、理事という地位を経て退職した」(『歌い来しかた』岩波新書)人である。文学的な嗜好を考慮しても、現場監督する「鮮人人夫」や「苦力」はもとより一般の朝鮮の人たちとも、あきらかに異なる生活環境にあったことがみてとれる。もちろん、作者個人の責任ではない。

  おのづから媚ぶる心は唯笑みて今日も交はり図面を引きぬ         『埃吹く街』
  灰皿に残る彼らの吸殻を三人は吸ふ唯だまりつつ

 戦後、事情は一変する。「わたしたちに平和は戻ったのかもしれなかったが、日本が敗者であり被支配者の国である」(『歌い米しかた』)という現実の中で、一建築技師としてアメリカ軍キャンプの建設に従事する作者であり、同僚との姿であろう。別に「みじめなる思ひ重ねしはてにして今かぎり無く日本を愛す」(『埃吹く街』)という歌もあり、濃縮された日本人の感情が吐露されている。「鮮人人夫」なら、ここは「日本」の替わりに「朝鮮」と歌い、「苦力」なら「中国」に置き換えて詠嘆するところであろう。このようにみてくるとき、近藤芳美といえども(なぜ「近藤芳美といえども」なのか? 田井安曇の言葉を借りていえば「ひょっとしたら歌人以上の何者かであるかも知れぬ何か」(『近藤芳美』桜楓社)であってもらいたい。そんな願望があるからだろう)、当時の日本が描く軌道から、あるいは日本人の意識からそれほど抜けているわけではないことがわかる。
 ちなみに「天皇」という言葉は、全歌集を通じてみあたらない。
 『異邦者』に「日本」が突出するのは後記にもあるとおり「一九六一年にソヴィエト連邦、六二年にヨーロッパおよび米国各地の、二度にわたる違い旅」の結果である。
 ほかにもカウントの対象にしていないけれども「故国」「祖国」「愛国」また「民族」といった表現もみられるので、この機会に抄出しておこう。

  川をこめて土色の靄立つ中をああ鳴りわたり故国にむかふ船         『早春歌』
  兵はみな言挙(ことあ)げずして戦ふと苦しき祖国を論す記事読む 『吾ら兵なりし日に』
  あはれあはれ今の覚悟まで幾たびかまどひき疑ひき民族の意味
  耐えし孤独また愛国のたかぶりのとめどなき夜を吾は異邦人         『異邦人』

 ところで先の「私有のことば」の中で、阿木津英は「芳美好みの語」として「~し合ふ」という複合動詞について分析している。おもしろいので、これも勘定してみた。次のとおりである。

   『早春歌』、八首(二・〇)。以下、『吾ら兵なりし日に』、二首(一・二)。『挨吹く街』、十二首(二・七)。『静かなる意志』、十首(一・八)。『歴史』、十六首(四・二)。『冬の銀河』、十五首(三・〇)。『喚声』、十六首(二・四)。『異邦者』、十首(一・二)。『黒豹』、十一首(一・六)。『遠く夏めぐりて』、十二首(一・九)。『アカンサス月光』、六首(一・〇)。

 くらべてもらえばわかるが「日本」よりも四割ほど数が多い。この頻度には「彼自身の切なる思い、あるいは思想とさえ言っていいようなもの」(阿木津英)が込められているだろう。あるいは潜在する願望が。でなければ「生き合う」は理解できない。この周辺の言葉として「共に」「互ひに」「吾ら」を指摘することも容易である。
 そして、ちょうどその裏返しとして現われるのが「一人」「一兵士」「一夜」「一生」「一国」「一団」「一部隊」もしくは「二人」「小さき」「~のみ」(「見むのみ」「妻とのみ」等)といった例である。
 簡単にいえば、「二」を含む「一」のグループと接尾語「ら(等)」に代表されるグループの二律背反である。
 どちらが、わたしたちに幸福感をもたらしてくれるのか。いうまでもないことだが前者である。そして、その代表が相聞歌の世界である。これは疑問がない。後者はどうか。近藤芳美が用いるときの複合動詞と同じで、いつでも分解が可能である。むしろ、そちらの方が自然なのかもわからない。

  吾と吾がことばに怯え眠る夜を雨降りしきる薔薇荒るる窓           『黒豹』

 何が何を怯えさせているのか。すでに明白であろう。「一」の窓に迫る、接尾語「ら(等)」のグループである。「芳美好みの語」の中でも「怯え」「怯ゆる」「おびえて」とさまざまに変化はするけれども、この一つの感情は読者に特異な感銘を与えずにはおかない。「グルカ兵吾よりも丈高からずすれ違ひ行く吾は襟立てて」(『埃吹く街』)とも歌っている偉丈夫な(写真の)近藤芳美からは想像できないからだ。
 この鍵を握るのが「歴史」であろう。「日本」ではない。「怯え」に付随するかたちで次第に数をふやしていき、やがて主調音を形成する。この「怯え」と「歴史」、どちらも統計化したい誘惑に駆られるけれども、今は「歴史」の方を選択する。

   『早春歌』は、なし。『吾ら兵なりし日に』、一首(○・六)。『埃吹く街』、これもなし。『静かなる意志』、二首(○・四)。『歴史』、二首(○・五)。『冬の銀河』、一首(〇・二)。『喚声』、十五首(二・二)。『異邦者』、八首(一・〇)。『黒豹』、十八首(二・六)。『遠く夏めぐりて』、五首(○・八)。『アカンサス月光』、十首(一・七)。

 全歌集の後半だけに限れば「日本」に匹敵する頻度である。そして「怯え」は、これに沈殿する抒情を形成していることがわかる。知りたいのは、その因ってくるところであり、また行き着くところである。
 『歴史』の「後記」から引用する。

   私達にはもはや歴史から逃れて生き得る小さな片隅はあり得ないと云ふ事であり、私達が現代史の中に生きる事を否応ない運命とする以上、私たちの今の作品は現代史の軌跡の上に其の抒情の意味を見つけて行くしか仕方がないと言ふ事である。短歌のやうなはかない小抒情詩がこのやうな日にどれだけの意味があるのかと問はれるなら私は詠嘆とは何らかの意味で常に人間の切ない祈念の思ひであるとだけ答へよう。

 「怯え」は「祈念」と兄弟なのだ。
 では、テーマでもある「日本」はどこにいったのだろうか。
 やはり今も歌われている。ただいえることは一つ、わたし自身の食指が動かないというのも困ったものだが、

  吾は吾一人の行きつきし解釈にこの戦ひの中に死ぬべし          『早春歌』

といった作者に解釈を迫り、平安を奪い、戦いに駆り立てた「日本」からは遠い場所に立っている、ということだ。

 短歌はどうなる(初出「短歌人」1989年10月号)
 
 小高賢は近刊『批評への意志』(雁書店)の中で短歌ないし文学をとりまく環境の変化に触れて「自分の作品がどのように読者に届くのか、以前ほど透明でなくなった(見えない読者)。」「作品をとおして訴えたいものがなくなりつつある(主題の喪失)。」「にもかかわらず歌を詠む、読む人口は増大をやめない(消費される短歌)」という三点を指摘していた。背景に高度消費社会、情報社会の横たわっていることは誰しもが認めるところである。しかし、この現実を前にして「何を、どうしたらいいのであろうか」という設問に答えることは容易でない。
 「短歌往来」が創刊号で「現代短歌のキー・ワードを考える」という特集を組んでいた。執筆者は二十四人。各自、考えるところのキー・ワードと、それにまつわる小エッセイを寄せている。氏名を抜きにして、前から半分を紹介すると「状況・隠喩・私」「憤怒・落胆・希望」「喩と口語と救済と」「白秋・超空・○」「現代短歌の言葉・音律・技法」「自愛・ことを見る・ものの言葉」「生きていることのしるしとして」「短歌は体験の産物」「写生・抽象と具体」「軽口・現実の認識・短歌文学としての達成」「イメージ・韻律・思想」「マイナス要素を逆手に」となる。あとの半分を述べてみても一致するものは少ない。高瀬一誌の「画然たるキー・ワードが見当らないというのが結論である。再度考えたが同じであった。」という感想を結果として裏付ける格好である。
 いつのまにか中心を欠いている。中心と中心の激突もない。あっても、どうやら中心そのものが希薄になっているらしい。
 短歌はどうなる。それに答えようとすることは、とりもなおさず短歌をどうする、どうしていきたいということに思いを巡らせることにほかならない。
 その扉を開くのはだれか。いうまでもないが未来を生きる歌人たちである。
 以下に、過去ではないが、未来でもない、ただいま現在を生きている歌人の端くれとして、いくつかの関心を拾ってみた。

    ○

 「滅びる」とか「滅亡する」とかいう言葉から想像するイメージには「滅びたくない」「滅亡したくない」にもかかわらず「滅ぼされる」「滅亡させられる」といった特別なニュアンスがつきまとう。しかし実際は気がついたらだれもつくらなくなっていた、そして忘れられていく、それを後から「滅んだ」「滅亡した」と振返るのだろう。
 『万葉集』には、短歌のほかにも長歌・旋頭歌という歌体が含まれている。長歌は二六五首、旋頭歌六二首。短歌四二〇七首に対して数は少ない。これは、すでに「万葉集」の時代に衰退したからであろうか。短歌だけが今でもつくられている。
 だからといって将来を保証する根拠はどこにもないのだが。
 滅亡論のおさらいをするつもりで篠弘の『近代短歌論争史・明治大正編』(角川書店)を開いてみる。
 まず尾上柴舟の「短歌滅亡私論」(一九一〇年)。

   おもな問題点は三つで、①「短歌が連作の傾向をとりつつあることにふれて、(略)けっきょく連作としなければならないのなら、一首一首分解した形体であらわす必要はなく、はじめから一まとめにしたほうがいいと主張した。さらに、②五・七の音数がすでに自由な現代語に一致しないことにふれて、「私の議論は、また短歌の形式が今日の吾人を十分に写し出だす力があるものであるかを疑ふのに続く。(略)」とのべている。

 そして③として「自由な現代語で率直に自己表現をするためには、短歌の存在を否定しなければならぬというのであった」。
 つぎに釈迢空の「歌の円寂するとき」(一九二六年)。
 はじめに迢空は、「まず歌壇の人たちの中で、憚りなく言うてよいことは、歌はこの上伸びようがないと言ふことである。更に、も少し臆面ない私見を中し上げれば、歌は既に滅びかけて居ると言ふ事である」と、まっさきに結論をあげて、それについて三つの理由を述べている。①歌の享けた命数に限りがあること、②歌よみが人間ができていなすぎること、③真の意味の批評がいっこうに出てこないことであった。
 今、実感できるのは迢空があげている第一の理由であるが、先のことはだれもわからない。ただ一つ反証できないからであろう。
 滅亡論を内圧とすれば外圧としての否定論もある。臼井吉見の「短歌への訣別」(一九四六年)、小田切秀雄「歌の条件」(一九四六年)、桑原武夫「短歌の運命」(一九四七年)、小野十三郎「奴隷の韻律」(一九四八年)、福田恒存「歌よみに与へたき書」(一九四九年)。このように並べてみると戦後の歌人はずいぶんと高波をかぶったことがわかる。第二芸術論が、それだ。
 時経て一九八九年、今、総合誌だけでも「短歌」「短歌研究」「短歌現代」「歌壇」「短歌往来」、また季刊「雁」その他を加えれば何誌(紙)になるのだろうか。これに歌誌、カルチャーセンターの繁栄と歌集出版の盛況を考えるならば空前の賑わいである。
 滅亡の予兆すらない。
 しかし、ほんとうにそうだろうか。
 たとえば歌人の不幸願望。
 織田正吉は『日本のユーモア1詩歌篇』(筑摩書房)の中で次のように書いている。

   和歌には狂歌、連歌には俳諧の連歌、俳句には川柳というふうに、日本の詩歌はつねに同じ形式で、幽玄をめざすものと俳諧(笑い)をめざすものとが一対となって存在してきた。それは左右一対、同じ高さに並び、たがいにおぎないあうものと私は考えているが、この国ではそれを上下に置き、笑いを捨て去ることによって単一に完成しようとする。笑いはそれほど卑しめなければならぬ不真面目な感情なのだろうか。

 引用文は、このあと「しかし、卑しめながら、その笑いが好きでたまらぬのもまた日本人である」と続く。樋口清之の『笑いと日本人』(講談社「日本人の歴史」第九巻)は、もっと直截で「笑いこそ日本人の幸福願望にもとづいた生活の知恵である」と説く。なぜなら「日本人の笑いに対する観念の中には、招福・魔除の信仰があった」からだというが、これをもじると次のようになる。

  日本人の短歌に対する観念の中には、福は外鬼は内の信仰があった。

 歌体の解釈を含む歌人の体質なのか、それとも歌体の当然としての帰結なのか、単純ではないだろうが、文学が発生する心理的、社会的な動機を説明して感動起源説、性欲起源説、模倣起源説、信仰起源説、労働起源説などのほかに遊戯説のあることは心強い。
 それと歌会始め。
 総合誌でも「宮中歌会始詠進要領」を掲載したりしているが、その興隆は国民と皇室の距離を近づける、理解を深める、という利点も考えられよう。しかしセレモニーとしての歌会始めが文芸としての領域を侵犯するとき短歌イコール和歌として管理されていくことになりはしないのか。正直なところ不安なのだ。
 もしかしたら短歌という歌体と日本人は同じ運命を生きているのかもしれない。だが、もし、そうだとしても歌人の不幸願望が日本人を滅ぼすことのないように祈りたい。

    ○

 「玲瓏」第十二号の編集後記(玲瓏未来記)を、失礼だが、おもしろく読んだ。

   形式としての誌面刷新も大切ですが、構成要因の、「玲瓏」への参加態度も、大いに再考、再認識を迫られているようです。綜合誌面での、結社論は殊にその所属中核へのハイ・フィディリティ度を相当厳しく要求されていて、一人一結社を力說確信するリーダーの発言が目立ちました。単なる結社、ではない「玲瓏」は、この点、全く寛大悠長の極みでしたが、それを奇貨としての「甘え」も最近目に余るものがあります。一人で複数の団体に属している作家、一度「玲瓏」への「高忠実度」も自己検討して下さい。

 「玲瓏」は「塚本邦雄選歌誌」と銘うたれている。したがって、わたしなどは結社とは違うのだろうと単純に考えていた。いわば「ファン・クラブ」の体裁である。その「玲瓏」が結社としての締め付けを行なっている。わたしが興味をおぼえたのは、しかし、そのことだけではない。政田氏が引用する「一人一結社を力説確信するリーダーの発言」からも結社が変容している、「かけもち歌人、匿名変名作家」に主宰者や幹部が手を焼いているようすが実によく伝わってくるからだ。
 彼、彼女たちが負わなければならないモラルの問題はともかくとして、結社がかつてのような求心力を失いつつあることだけは確かなようである。
 最近の結社論としては久葉堯が「歌壇」(一九八七年七月号)の時評で、こっぴどく「短歌人」を批判していたのが記憶に新しい。それに対する直接の反論ではないが、「現代短歌雁」(第五号)に小池光が「システムとしての結社」を書いている。

   ぼくは、こういう現状をすなおに結構なことと思うものである。理想や主張のなくなった結社を、結社の後退ともかんがえない。濃密な人間関係とか、大きな人格ににじりよって行くような集団のあり方を、そもそも好まないということでもあるが、どんなときだって、しょせんひとりでやるしかないのが創作であり、結社などというものは、そんなものであればよい。

 また結社そのものを否定する考え方もある。それに対する反論を、やはり「雁」(第九号)に永田和宏が書いている(「結社は悪か?」)。佐藤通雅の批判に答えたものだ。

   文学には「師もいらないし、群もいらない」とする考え方は、短歌に関してはかならずしもあてはまらないと私は思っている。この短い詩型の中で、説明に陥らず言いすぎず、しかも自分の表現をなすためにはある意味ではスポーツの基礎トレーニングにあたるものが必要であり、そのためのコーチが必要である。(略)。私たちはもうそろそろ「選手兼コーチ」くらいの役割は果たすべき年齢にさしかかっているというべきだろう。

 「玲瓏未来記」の「リーダーの発言」に対して、はからずもニューリーダー二人の意見を紹介することになった。前者が昔気質のお父さんとすれば後者は物分かりのいいお兄さんといった風情である。しかし「かけもち組」の本質はアナーキズムであろう。その横行は国境を無化する。どちらかといえば必要悪のようなかたちで正面から論じられることの少なかった結社について考える、いい機会であるかもわからない。
 いずれにしても短歌というジャンルは「読み人知らず」の存在を抜きにしては考えられないというのがわたしの持論である。世の中、非凡な歌人ばかりではない。しかも短歌は五句三十一音の約束を守れば上手下手はともかくとして短歌らしくなる。手頃で便利な詩型である。裾野は広く、高齢化社会の中で新規参入者も多い。その受皿としての結社を考えるとき単純に文学論では切れない。そこが詩や散文の世界と違うところではないか。

    ○

 世の中には男と女がいる。ほぼ同数の中で「女流」という言葉が有効なジャンルがあるとすれば何だろう。一つは男が質量ともに圧倒している世界である。今ひとつ考えられるのは過去の遺産としての呼称である。男社会が厳然とあって、そのおこぼれとしての「女流」がある。つまり特別会員制度、そんな待遇である。
 短歌の世界は、どちらなのか。数からいえば女の世界である。結社誌をめくれば、それがよくわかる。また歌会にでかけても、いつだって男は少数派を実感しなければならない。カルチャーセンターはいうまでもないだろう。では質的に劣っているのか。
 現代歌人集会が「短詩型の表現構造」というテーマでシンポジウムを行なったことがある(一九八七・六・二八)。そのとき会場から短詩型の未来像を聞かれたパネラーの一人、光田和伸の発言が忘れられない。

   私は予言者じゃないけれど、たぶん、百年後といわず三十年後か五十年後には定型はもっとクリエイティブになっているだろうと思います。たぶん女の正岡子規が現われるだろうという予感があるんです。誰かわかりませんけども、まだ可能性の半分は残っているわけです。特に男が作ってきた方法論に女性は従ってきていますから、それが逆転する時代がくるだろうと思いますね。私どもが大学に入った二十年ぐらい前は、女の子たちが男の子たちに敗けまいとがんばっている時代でした。もう今は二十歳前後になると、男の子たちが女の子たちに敗けまいとがんばっています。それはだからほっといたらそうなるというんじゃなくて、それだけ女の正岡子規に出てきてもらいたいという願望だと思ってください。

 質量ともに劣らない。むしろ女の元気が男の元気を上回っている。そんな批評さえ耳にする。となると残るのは特別会員制度としての呼称だけということになる。フェミニストのつもりでいっているのではないが、形勢が不利ならなおのこと「女流」という枠の中に女を閉じ込めておく方が男の威厳は保たれるに違いない。便利である。しかし、この言葉にまとわりつく湿潤な空気はたまらない。女が「女流」に甘んじている限り、女の正岡子規が登場しないことはもちろんだが、それ以上に歌の可能性を狭く限定するような気がしてならないからだ。

    ○

 短歌は自己肯定の文学だと思う。「短歌往来」(八月号)の特集「辞世のうた、その淵源」を読みながら強く、そう思った。

  風さそふ花よりもなほわれはまた春の名残をいかにとやせむ        浅野内匠頭
  身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂           吉田松陰
  うつし世を神去りましし大君のみあと慕ひてわれはゆくなり         乃木希典
  白ばらの花より香り立つごとくこの身をはなれ昇りゆくらむ          永井隆

 批評の介在する余地がない。作品の背後に死が厳然と聳えているからだと思うが、はたしてそれだけだろうか。
 たとえば赤穂浪士の場合、判官贔屓ということはもちろんだが、もしかして浅野内匠頭に「風さそふ」の辞世がなかったら、反対に吉良上野介が辞世を詠んでいたら、その後の人物描写に波紋はなかっただろうか。
 「船団」という俳句の雑誌が第七号で「俳句における〈私〉の現在」というシンポジウムの記録を掲載している。俳句といえば季語であり、<私>といえば短歌だと思い込んでいるわたしには意外であった。もっとも第六号では「句中の〈私〉と作者」という特集を組んでいるし、第五号の編集後記では代表の坪内稔典が「俳句の<作者>の特異性をおおいに論じてみたい」という抱負を語っていて即興の企画でないことがわかる。俳人の〈私〉をのぞくことで逆に短歌の〈私〉がみえてくることもあるだろう。
 シンポジウムの発言から拾ってみる。
 堀本吟。

   俳句には、五七五や季語といういろいろな制約があり、どうしても意識がそこにゆくのでだんだん作者が作品の外へ放り出されてしまう、その辺の面白さ。

 渋谷道。

   自分を表わさないのが俳句で、あらわにするのが短歌だ、というそこらへんに岐れ道がある、というのが大雑把な考え方だと思うのです。

 なるほど。しかしテーマとしての歴史が浅いせいなのか、それとも〈私〉の必然なのか、話題が生い立ちや日常の生活、また作品との関係を語ることに熱心なため乾裕幸が「もっと、俳句って面白くなきゃいけないんじゃないかという感想です。もう息苦しくって、居てもたってもいられないというかーーむつかしいんですね。」と注文をつけたりする(同感だ)。司会の宇田喜代子は「あのね、乾先生、今日のこういうテーマで軽くやれるわけないのです」と応酬しているが、こと〈私〉の問題になると歌人も俳人も同じようなものかと変に感心させられたりする。
 一方、仕掛人であるらしい坪内稔典の感想はどうか。

   もともと俳号というのがあって、ここでは現代ぶって姓で呼んでますが、句会では名前(俳号)で呼びあい「現実の私」ときり離してきました。次元がひとつ違うことを踏まえて俳句作品について喋れたらもっと楽しく喋れたんじゃないかな、とそこがちょっと残念です。

 そして「僕は、俳句をやるということは作品を一人歩きさせる勇気があるかどうかということだと思う」「作者の意図と作品がくい違って有名な句が残ってゆくのではないか。俳諧というのは基本的にそうだ」という持論に発展するのであるが、次のやりとりにも注目したい。

  坪内 アノネ、俳句を選んだ動機に「一人称で云々」というのとは違った動機があるんじゃないですか?
  堀本 ええ、三人称とか「われ」ということの独特な客観化とか、(他者性、の意味)。

 俳人が俳号によって「現実の私」と別次元に立っているというのは発見であった。
 これだと『昭和万葉集』(講談社)の俳句版は困難であろう。
 『昭和万葉集』は周知のとおり短歌の<私>で綴る昭和史である。片言であっては記録にもならない。また「現実の私」と切り離された存在であっては証言にならない。したがって「昭和五十年ーー太平洋戦争を中にはさんだこの激動の半世紀を庶民はどう生きてきたか。ここに、真実の声、魂の雄叫びが収められている」という帯のうたい文句は実現しないのが道理である。
 そして辞世の歌も『昭和万葉集』も共に一人称の詩型である短歌によって支えられている。わたしが歌人(の端くれ)でありながら、ときとして心の原本証明ともいえる七七を重く思い、煩わしく感じるのは作中の<私>に<私>を投身できない。<私>が<私>の障害となる。そんなアンビヴァレンツを経験するからだろう。

   上野は、「シンポジウム・短歌と俳句のあいだ」(『京大俳句』40号)では、俳句のその不完全性を、〈論理構成型の完結性がある〉短歌と対比している。そして、短歌に完結性をもたらす論理性は、〈ワールド・リコンストラクション(世界再構成)への意志〉だと言い、その意志を〈権力への意志>と言いかえ、そうした意志にかんたんには直結しないところに、俳句という表現の意味を見出している。

 上野とは「上野ちづこ」のこと。坪内稔典が「京大俳句」の終刊号(一九八三年)に寄せた「ひとつの関心」から引用した。
 「世界再構成への意志」が、わたしの頭の片隅で解けない呪文として残っている。

    ○

 冒頭に小高賢の「現代短歌の可能性」から引用したので、この続きに触れておこう。「見えない読者」「主題の喪失」「消費される短歌」、この三つに対して「一部の読者を信じ(愚直さを誇る)、類型をいとわず、平明さを尊び、事実の存在に価値を置く(わかる至上主義)方向も、流通のレベルを考え、パフォーマンスや、言語のアクロバット的行為に意味を認める(おもしろ至上主義)方向も、いずれも現代短歌のむずかしさを示すコインの表と裏であろう」という小高は、その突破口を塚本・岡井・馬場の作品の中にみようとする。その過程が大切なのであるが今は余裕もない。直接『批評への意志』を読んでもらうことにして、結論の部分だけを引用すると「塚本は読者を限定することで、岡井はみずからを読者のなかに拡散させることによって、現代をつかみとろうとする」「馬場はそこをむしろ伝統に沈潜することによって突破しようとする」「塚本邦雄の限定も、岡井隆の拡散も、馬場あき子の抱擁も、それぞれ現代短歌のアポリアへの真摯な対応であることは間違いない。とすると次に出てくる問題は明白である」と後続ランナーへの熱い問いかけで終っている。  とすると、ここで手をあげなければならないのであるが、わたしには言業がない。
 主題の喪失はともかくとしても、見えない読者というのは実感としてわからないからだ。歌集を出す。読んでくれるのは、ほんの一握りである。買ってくれるのは、もっと一握りである。未知の読者との遭遇は幸運でしかない。また消費される短歌というけれども実感としてわからない。まず店頭に並ばないからである。よく〇億円の市場とか〇兆円産業という。もし短歌産業を数値化すればかなりのものだろうが残念なことに作者は読者でもあるという両性具有の歌人は深く孤立しているといわざるを得ない。
 ところがここに不思議な現象がおこる。店頭に山積みされて、文字どおり消費されるようになると、歌人がいつしか歌壇外歌人になってしまうことだ。俵万智はまだ片足をつっこんでいるようであるが林あまりはどうだろう。第二歌集は『ナナコの匂い』(マガジンハウス)である。三月の終りに人に貸したら五月に返ってきた。七月に別人に貸したら今度は返ってこない。聞けば梅田の紀国屋に平積みされているという。買いにいくのも癪であるが、店頭で金を払う客はほとんど林あまりの自己救済には無関心であろう。その林あまりが朝日新聞の「しごとの周辺」に歌人の肩書で執筆していたのを怪訝に思ったのはわたし一人でもないらしい。この心理の垣根を取り払うことができれば短歌はもっと広い世界に出ていくことができると思う。
 同じ『批評への意志』の中に「自己超克と定型」という文章が収められている。昭和十九年生まれの作品がおしなべて「真面目」「マジメ」と論評されるのに対する非「マジメ」組への疑問である。

   短歌に興味をもつ若い世代は、そういうなかでかなり多くなっている。しかし短歌へのその対し方をみると、なにか高級なオモチャに熱中しているのに似ている。たとえば旧かな、旧漢字への偏愛、様式性への憧れなど、どこかぼくたちとちがっている。悪口風にいえば、定型をもて遊んでいるような気がするのだ。(略)。そういう傾向にはどうしても反発を禁じえない。

 同感相半ばという思いでたのしく読んだ箇所である。世代論としての反応ではない。先に日本の定型詩には幽玄と俳諧の方向があり、俳諧を下位に置くことによって単一に完成してきたという織田正吉の言葉を引用した。それをそのまま当て嵌めるつもりはないが五句三十一音が内蔵する機能として考えることはできないだろうか。それは小高の提示する「すごさ」には向かわないけれども可能性の一つであることは確かだからである。

 家族詠の根拠(初出「短歌人」1991年1月号)

  短歌の世界では、あたかも家族詠というジャンルが確立されたような昨今である。
 ところで家族と家庭とは、どう違うのだろうか。家族詠とは言うけれども家庭詠とは言わない。自明のことなので、誰も気にならないのかもわからないけれども、私には紛らわしく思える。と言っても普段から家族について考えているわけではない。この原稿を作るためにワープロで「かぞく」とキーを叩いて変換するのを眺めているうちに湧いてきた疑問といったほどのものであるのだが、気になると仕方がない。いつも使っている「角川新国語辞典」で「家族」を引くと、こうだ。

   ①親子・夫婦・兄弟などを基礎として生活をともにする集まり。②旧法で、家長に統率される同一戸籍を持つ家の構成員。

 このうち②は念頭から外しておくことにする。日本国憲法の施行が昭和二十二年。それに伴う改正民法の施行されたのが昭和二十三年である。私の生まれたのは昭和二十六年だから、旧憲法と言い、旧民法と言い、どちらも教科書でしか知らないのである。従って念頭から外すというよりも念頭に入ってこないということの方が実感に近い。

  父として幼き者は見上げ居りねがわくは金色の獅子とうつれよ        佐佐木幸網
  鷗外の口ひげに見る不機嫌な明治の家長はわれらにとおき           小高 賢

 家族詠の流行で、すっかりお馴染みになったというか、よく引用される。一首目は「願わくは」という願望の中であるが「金色の獅子」に変身している。ということは現実の世界では、実際のところは子供に聞いてみないとわからないのだけれども、作者自身は「金色の獅子」だとは思っていないということが前提にあるだろう。二首目は「明治の家長」と「明治の家長」から逆照射した現在の父親である作者との落差をアイロニカルに作品化したものである。どちらの「父親」も少年期に刷り込まれた「父親像」と無縁ではない、揺れがあり、その揺れを隠そうとしていない。ところが私などになると、つまり後続の世代ということであるが、たぶん「金色の獅子」や「明治の家長」とは対極にある「父親」として揺れていないのではないかと想像されるのだ。たとえばの話であるが、私の家では小学四年生になる男の子が父親である私をつかまえて「オッサン」呼ばわりをすることがある。小学二年生の女の子は祖母すなわち私の母親の口真似で「イクオ」呼ばわりをすることがある。むろん何時もではないが私の母親は孫をつかまえて父親のありがたさというものを盛んに説教する。妻も黙っていない。しかし「オッサン」と呼ばれ「イクオ」と呼び捨てにされている当の父親である私は、それほど不愉快に思っていない。むしろそうした関係を楽しんでいる部分もある。だから二首目などは文字どおり「われらにとおき」としか読めないで困ってしまうのだ。  つまるところ家族のキー・ワードは血縁関係を基礎とした集団なのだ。
 では「家庭」の方は、どうだろう。

  家族が生活をともにする社会最小の集団。また、その生活する場所。

 と、ある。集まりと集団は重複するが、場所という概念は家族という言葉にはない。生活を共にするという意味からすればあるのだろうが、やはり家庭という言葉を待って初めて家族の実態が見えてくるような気がする。それは制度としての家族ではなく、生きた家族を取材しようとするときの現場が家庭だということでもある。だから家庭的という言葉を使うし、アットホームという言葉も使う。今、両者を私のサーモグラフィで覗くと、家族よりも家庭の方が、それも格段に赤色を帯びていることだけは確かである。

  玄関を出でてゆけるは母の音何も言わぬはすぐ帰るらし            中野昭子
  気の合はぬ人も混りて漂へる二十世紀末家族のゆくへ             近田順子

 「歌壇」の十一月号から拾った。一首目の「母」も二首目の「気の合はぬ人」も一様に姑であるということを前提にしての話であるが随分な違いである。中野の歌からは自然な風景の中に溶け込んだ二人の関係が見えてくる。それに対して近田の「気の合はぬ人」は家族の中の異物として扱われている。観念的で、ちょっとショックな作品である。というのも私自身が母親と同居しているからで、何が拡大家族にとって迷惑であったかというと、嫁と姑は喧嘩をするのが当たり前だという周囲の、とりわけ年老いた核家族の好奇心も小さくなかったことを思い出す。まして同じ拡大家族の中のトラブルは禁物であり、彼らの好餌でしかないからだ。肩入れするとすれば、むろんのこと、前者である。
 そして家族論というと必ずといっていいほど出てくるのが崩壊のイメージであり不安感である。この点から言っても近田の漂う家族は、世紀末という言葉も与ってのことだろうが、格好のサンプルなわけであるが、このことについては、もう少しあとで触れることにして今は「なぜ、家族詠なのか」ということについて考えておきたいと思う。
 幸いにも河野裕子が「家族詠の前線を歩く」という評論を「歌壇」の十月号に寄せている。これをテキストにして引用すると(少し長くなるが)こうだ。

   なぜ、今、家族詠か。それは、こんにち社会と個人の関係が冷えているからである。関係性の動物といわれる人間は、どのような社会においてもひとりで生きてゆくことはできない。私たちは、置かれた自らの位置を常に確認することによって、自己を定立させ、自信を持って生きてゆくことができる。大状況との射程距離をもてなくなり、個々の属する社会での人間関係が疎外を生んでいる現在、家族という人間のつながりの中でしか、自分の位置確認ができなくなっている。それが、私たちを家族詠に向かわせるのである。

 また、これに接続する前の部分では、こうも書いている。

   こんにちの家族の歌が、自他との関係性とその距離に敏感であるのは、大状況を歌いにくい現在、自己措定の場が、狭く家族の中にしぼりこまれているからである。家族という他者の中に、私たちは様ざまな夢を見、自己の鏡像を見、彼らを介して愛憎の葛藤を体験しながら、生活の賦活力を得ている。

 なぜ家族詠なのか。とりわけ「今」という設問に答えたその解釈は明快で参考になる。また「家族という他者」の件は本誌十月号の小特集のテーマそのものであった。しかし、これを私自身の実感に照らし合わせてみると、どこかよそよそしい。それはなぜだろうかと考えてみるのであるが、どうも大状況という言葉に引っ掛かっているらしいことがわかる。それは、つまり大状況というものがあって家族という小状況が対置されている。このこと自体は、そのとおりなのであるが、大状況が歌いにくいので小状況である家族に歌人の視点が移動してきたというふうに理解するとき、微妙なニュアンスであるが、価値観としても大状況に小状況である家族が引き摺られているような印象を受ける。ここが大切なのであるが、そうではないのであって価値観としては同じなのだということを、天秤に掛けると同じ重さなのだということを、これは私自身の注解として書き足しておいても無駄ではないと思うのだ。
 ほかにも、たとえば疎外ということが言われている。これは、どうだろうか。変な言い方になるけれども、疎外をされることによって快適な都市生活が保証されているという側面も、私たちは経験的に知っている。都市の近郊では、消防団や、講と呼ばれる組織というのか寄合が生きている地域は今も多い。そうした旧来のコミュニティから都心に通勤するサラリーマンにとって、両方に身を置くのは大変だろうと推測するのである。所詮、コインの表と裏は同時に見ることができない。それを可能にしようとすれば極端な話が二枚のコインを手に入れるしかないが、それには大変な工ネルギーと覚悟を必要とする。地縁や血縁から自由な都市住民にとって生活が快適であることは、言うまでもないが、それは疎外感と引き替えに手に入れた部分も大きいはずだ。そして家族の崩壊のイメージ、解体の不安というものも、この疎外感と似たところがありはしないか。つまり核家族化によって増幅されたそれは、多分にイマジネーションの世界の出来事なのだが、イメージや漠然とした不安に各人が怯えている限り、やはり抜き差しならぬ現実には違いないのである。
 少し、作品を見てみよう。

  出勤のわが靴みがく白き手にどこまでも行けさうな靴がある         大森益雄

 奥さんが靴を磨いてくれているのであろう。その靴を見ていると、空飛ぶ絨毯ではないけれども、山越え、野を越え、谷越えて、自分の足も軽くなって、どこにでも行けそうだ、そしてそんな靴であることよ、と奥さんの白い手と白い手にある靴を感心して眺めている作者がいる。おそらく「行ってらっしゃい」と後から声を掛けられると、いくらでも働く御主人なのであろう。これが一つの理解の仕方であるとすれば、子供の目の高さに立って、不思議な靴があるものだ、そんな靴なら僕も私も欲しいよ、といった調子でメルヘンチックに読むこともできる。どちらも可能であるがポイントになるのは「白き手」であろう。一人では、こうはいかない。靴というシンボリックな表現を借りているけれども、これは大森益雄の家族論なのだ。

  あはあはと過ぐる昼地震(ひるなゐ)わが家族四人は四ヶ所の地(つち)に揺るるや

 同じ『水のいのち』からの引用である。初句に「あはあはと」とあるから震度Ⅰの微震か、せいぜいのところ震度Ⅱの軽震ぐらいであろう。だから安全は保証されている。先に家族というのは集まりだということを確認したが、家庭という生活を共にする場所を離れても、それは意識として残る。逆に言えば、意識としての家族は家庭よりも広範に可能であるということにもなりそうだ。で、その意識が他の三人の所在を、なにしろ微震か軽震の程度であるから、気遣うともなく気遣っているというのが、この歌である。考えてみると単身赴任の父親を抱えている家庭というのは、母親の場合も考えられるが、この初句と同じ気遣いで日常的に繋がっているのであろう。そして、この「あはあはと」の向こう側に作者が見ているのは、強震や烈震・激震に見舞われて、四散し、喚び合う家族のドラマにほかならない。

  おしやべりの女童(めわらは)逝きぬをりをりに思ひ出づれば花野のごとし   桑原正紀

 『火の陰翳』に収録されている。「女童」には注があって「姪麻衣子、六歳」とある。つまり、この歌は夭折した姪御さんを歌った作品ということになるのであるが、私が注意を払うのは關口由紀子という人の遺歌集『韮の花咲く』の「あとがき」を作者が「關口由紀子は私の兄の妻、つまり私の義姉にあたる。彼女が愛娘とともに逝ったのは、昨年の八月十二日未明のことであった。兄が出張中の覚悟の死であった」と書き出しているからでもある。おそらく、この「愛娘」が「女童」なのだろう。

  薄紙を手にて除けば雛ふたつうつし世の日を眩しむごとし          關口由紀子
  ぶざまなれば起こしやりたり甲蟲は仰向けの身にながく苦しむ

 桃の節句にしか用のない雛人形は押入か収納庫で眠っている。現世に対する隠世だ。一年に一回、日に晒されて露にされるのであるが、眩しいだろうな、きっと。そんな作者の手ざわりの感想の背景には生身の人間も同じだという人生観があるだろう。たしかに今生きている時間よりも私たちは生きていない時間の方が長い。それを僅かに繋ぐのが親と子であり、子が成長して親になるという繰返しの中で継承される命ということになるのであるが、それも肉親と早く死に別れたりした場合は別で、実際のところ、作者にとって「覚悟の死」は、ひょいと撮んでぶざまに苦しんでいる甲蟲を元にもどしてやるようなものであったかも知れない。結果として、それが家族の一員を殺めることになったとしても。

  いちばんの家族崩壊は戦争だ忘れないはず忘れないでくれ          大和克子

 作品の出来としては、今一歩の感、なきにしもあらずであるが「制度も民法も慣習も一挙に崩壊させ家族もちりちりになるのは戦争だ。家族の男たちを、友人を恋人を、バンザイの声の渦の中で、死の行軍へと送り出した駅頭風景は、まだ目に焼きついている。それが究極の私の家族論だ」と書き付ける作者の気迫に押されて登場を願った。内的要因と外的要因に分ければ外的要因であり、外的要因を天災と人災に分けるならば後者ということになるが、戦争こそは今も昔も最大の人災であることに異論のあろうはずもない。

  とことはの家族ならざる親と子のはやばらばらになりゆくけはひ        中地俊夫

 人に少年・青年・壮年・老年があるように家族にも少年・青年・壮年・老年の各期がある。但し、この歌、夫婦の視点から眺めた場合であり、子供の側から見ればどうだろう。新しい家族の生成もしくはその前段階を意味しているだろう。子は子で独立し、また少年・青年・壮年・老年の各期を繰返すのである。では元の家族は消滅するしかないのかというと、ここが人一人の人生と家族という集団の違いであるが、元の家族は新しい家族に谷み込まれる場合もあるし、新しい家族を逆に吸収してしまう場合もある。選択肢の一つや二つでないところも家族なのだ。

  アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちてゐむ        寺山修司

 拠るべき家族あるいは家庭を喪失したとき、人はどう生きるのだろうか。その回答として準備したのが右の作品である。『家出のすすめ』もそうだが、有名な「『私』性文学の短歌にとっては無私に近づくほど多くの読者の自発性になりうるからである」という私性論は、心の深手から出発した彼の幸福論であったというのが、私の持論である。
 最後は、次の歌を飾りたいと思う。家族詠の隆盛は必ずしも喜ばしいことではない。しかし家族は人の生きている限り綿々と歌い継がれてきたし、これからも歌い継がれるに違いない。その根拠は生の一回性の自覚と覚醒の中にこそ求められるだろう。「家族という他人」のテーマに立ち返って言えば、家族もまた一期一会を生きているからである。

  妻子(つまこ)率(ゐ)て公孫樹のもみち仰ぐかな過去世・来世にこの妻子なく  高野公彦

 歌の品位(初出「短歌人」1991年1月号)
 
 岩田正の『現代歌人の世界』(本阿弥書店)に河野裕子を論じた文章がある。気になるので引用すると、次のような一節である。

   しかし同じ家族につらなる歌でも〈日日の水流し米磨ぎ飯たきて面白やわれに刀自(とじ)の貫禄いよよ〉なぞは実に危い。
   ましてや『はやりを』以後の作品として〈しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ〉とか〈良妻であること何で悪かろか日向の赤まま扱(しご)ぎて歩む〉という歌が「現代短歌雁5」(昭63・1)に載るが、品位・抒情・調子すべてに低く、これらは河野裕子の名を冠するに価しない。

 河野裕子論そのものに疑義を挟んでいるわけではない。従って前後は不問とする。岩田には「血へのすさまじい執着、肉体へのあくなき観察、といった本質的な作者の嗜好と指向から、いくらか遠ざかったとき、あのしつこい執着への根拠も、それに付随して稀薄になってきた」という認識が根底にあって、それが右の否定的評価を生んでいると思われるのであるが、それはどうでもよい。よくないのは、それを判断する物差として品位などが問われていることの方である。平たく言えば上品だとか下品だということになるのであろうが、何をもって上品とするのか、何をもって下品とするのか。つまり上品とはどういうことなのか。下品とはどういうことなのか。これが私には、さっぱりとわからない。
 しかも〈しつかりと〉〈良妻で〉の二首は発表当時から評判が悪かった。一人、岩田正の見解でないところに作品享受の一般的な傾向が覗くようで、むろん歌壇という村社会の話でしかないが、正直なところ首を傾げてしまうのである。
 もう一度作品だけを書き写してみよう。

 ①日日の水流し米磨ぎ飯たきて面白やわれに刀自(とじ)の貫禄いよよ
 ②しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ
 ③良妻であること何で悪かろか日向の赤まま扱(しご)きて歩む

 家族がテーマである。寸評は①が「実に危い」、②と③が「品位・抒情・調子すべてに低く」と一刀両断にされている。
 たしかに①には破調があって読みづらい。一応「ひびのみず/ながしこめとぎ/めしたきて/おもしろやわれにとじの/かんろくいよよ」と読んでみたが、あと二・三の方法も考えられる。これを危ういというのならわかる。しかし内容そのものは、生活に根を張った自信とそれを客観視する余裕もある。作者の自画像が浮かぶ。②は結句の「仕合せ」が全てであろう。家庭とは、こんなものだろうと思う。そしてそのどこが悪いというのだろうか。「飯(めし)」という言い方が、あるいは「食う」とか「食わせる」という言い方が下品だというのであれば工夫の余地もあるが、これは枝葉末節に違いない。③の初句を「悪妻」にしなかったから抒情が低い、調子が低いというのであれば理解できる。良妻では当たり前すぎるからだ。しかし、これも品位の問題ではない。
 そして価値観の転倒がある。島田修二論の中で岩田は歌人という人種を喝破して「社会的・世間的にあまり目立たない、おそらくそれ程きわだった存在ではないが、自分は歌を作っている。歌人である。精神の部分では、ひとに劣ることではない。/しかも、世間は単なる敗北者・偏屈・無用者とみるであろう孤独で内向的な性情が、逆に日の目をみられるのも歌あるゆえである」という意識に支えられていると書く。おそらく岩田にも歌人が棲んでいるのであろう。
 世間的に生きることは下品なのだ。

脳神経衰弱と節 秋の歌人・長塚節覚書① (初出「短歌人」平成3年7月号)

 春陽堂版の『長塚節全集』第五巻には大戸三千枝編による詳細な年譜が収録されている。その明治二十九年・十八歳(数え年、以下同じ)のところを読むと「中学四年進級後まもなく脳神経衰弱のため不眠症となる。上京して診察を受けたが、全治しないので退学」という記述があって注意を惹く。今のような受験競争を煽る高学歴・同一価値観で形成される社会とは社会のシステムが違っていたであろうし、実際のところ家運が衰退していたとはいえ恒産の手段を持たない現代人からは想像できない豪農の小旦那であることを考えれば、ドロップアウトすなわち将来への展望が奪われるというほどのものではないにしても、やはり青春の大きな挫折であったと思うからである。
 この前後から関連する記事を拾うと明治二十八年・十七歳「八月、健康すぐれず塩原温泉に保養する」。明治二十九年・十八歳「夏、再度塩原温泉に行き療養のため二か月間滞在」「この年加療のため数回上京する」。明治三十年・十九歳「七月より上毛草津温泉に十一週滞在」。明治三十一年・二十歳「六月、京橋区築地の山田病院(山田鉄蔵経営)に入院、年末に及ぶ」。明治三十二年・二十一歳人院療養の経過良くなく、父の政友飯田新右衛門(茨城県選出国会議員)の勧めで神田錦町の橋田病院に移る。快方に向い、五、六月ごろ帰郷、徴兵検査を受け不合格となる」といった様子であった。
 ところで、この脳神経衰弱という病名がミステリアスである。よくわからない。手元にあるものだと北住俊夫著『長塚節』(桜楓社)また清水房雄著『鑑賞 長塚節の秀歌』(短歌新聞社)などの略年譜も脳神経衰弱となっている。おそらく没後に刊行された『長塚節歌集』(筑摩書房『現代短歌全集』第三巻)の「長塚節略年譜」が根拠になっているのであろう。その中にあって上田三四二は簡単に神経衰弱で片付けているし(中央公論社『日本の詩歌・3』)、年譜から離れると藤沢周平も神経衰弱である(文藝春秋『白き瓶』)。一般に年譜では脳神経衰弱、文章では神経衰弱が大勢を占める。その例だが大戸三千枝は『土の歌人 長塚節』(新典社)の略年譜では脳神経衰弱を、文章の中では神経衰弱と、両者を使い分けている。思うに神経衰弱という病気そのものが一八八〇年になって初めてアメリカのG・M・ビアードによって記述されたという事情も手伝ってのことであろうが、節自身は明治三十九年の作品に「小妹嫁ぐ」という題の長歌がある、その詞書の中で「予は久しく神経衰弱を病めり、而かも近時漸く健康体に復したるもの精神療法の致す所とはいへ、小妹の常に予が傍に侍して衣を濯ぎ、食を調へ、予に奉ずるの頗る敦かりしも亦一因ならずせず」と書く一方で、明治四十年三月に胡桃澤勘内に宛てた手紙の中では「拝啓 昨冬は脳神経衰弱に御なやみの由、御不自由のほど推察仕り候 小生は既に十年以上其病に攻められ思ひきつての読書は今日と雖不可能の有様、それ故文章を作ることも極めて億劫にて遺憾至極に有之候」と書き、こちらも統一されているわけではない。
 そこで「神経衰弱」を『国民百科事典』(平凡社)で引くと、こうなる。

   病状は疲労感、頭重、頭痛、睡眠障害、肩こり、耳鳴り、めまい、手指やまぶたのふるえ、  知覚過敏、注意力の減退、腱反射の高進などである。すなわち神経衰弱とは、ちょっとした外  的な刺激に対して過敏であると同時に、すぐ疲労してしまう。それも神経の疲労を主とした症  候群である。種々の発症因子が考えられており、たとえば心身の過労、持続的な緊張状態、心  理的なショック(恋人の死亡など)、また刺激剤や麻薬の過度の使用などによるとされている。

 では、ここはぜひとも長塚節の、中途退学せざるを得なくなった不安や懊悩あるいは引金としての心理的な葛藤、さらには闘病の苦しみを作品の中に読み取らなければならないと思う。そしてそれがどのように作品化されたかということに自然と関心は移るし、また知りたいところでもある。だが不思議なことに、その興味を繋ぎ止めてくれるはずの作品が、ほとんどみあたらない。
 「竹の里人〔一〕」(明治三十六年)の中で節は子規の教えを日記のようなものにして記録しておかなかったことに触れて「これは自分が性来の懶惰なるに因るのであるが、一つは頭の悪い為めでもあった。厭だと思ふと迚ても仕事が出来ない。精力といふものは殆んど持つて居らぬかと怪まれる計りであるが、そこが今になつて考へて見ると遺憾極まることであるが」と回想する。また子規の「俳句問答」が連載されている新聞「日本」を手にするきっかけなったことについても行を起こし「二十八年九年とこの二夏は塩原へ保養に行つたのである。自分はその頃から頭が悪くて仕方がないのでなんとか治療の方法も無いものかと思案の末人の勧めで行つたのである」と書く。これらは節が苦しんだに違いない脳神経衰弱の症状であろう。
 その消息ということであれば書簡からも拾うことができる。たとえば「陳者今日表記の処へ入院致候間御報知申上候 右は電気療法にて向後二ヶ月ニテ全治の見込、余り遠路の事故御来訪は無之様御注意申候」(明治三十一年六月、山田病院より長塚整四郎宛)「私事病気に付長長御心労被下候処青山博士の勧めに従ひ去る九日当病院へ入院致候 凡そ二ヶ月位にて全治の見込に有之候間、乍憚御休心被下度願上候」(同年同月、同病院より青木新平宛)「私事病気に付ては一方ならず御心配被下候御事故実は病気等も節々不申上候ては不相済儀には候得共筆とる事此上もなく厭に相成り候て遂々何方へも御無音に打過ぎ候段誠に恐縮の至りに有之候 然る処不測御下問に預かり汗顔の至りに奉存候 (略) 兎に角に近頃出来不出来は日により相違有之候得共脳の痛みの方は少し薄らぎ候事も有之候間先は御心配被下間敷候 只筆とる事厭なると手紙などの文意明瞭ならず候とは致方なき次第に有之候」(同年十月、山田病院より青木新平宛)「なほ申すことは沢山有之候へ共、頭が痛みて致方無之候間これにて筆をとどめ申候」(明治三十三年五月、自宅より寺田憲宛)などが、それである。
 気がつくのは発病前後つまり明治二十八年の書簡が全集に収録されていないこと、二十九年・三十年の書簡も少なく、また脳神経衰弱の記事も見当らないことである。作品がすべてだといわれると、そのとおりではある。しかし、その頃の作品が桂園調で青年・長塚節の生の声が希薄である以上、もっとも関心の集まる分野だけに残念な話である。
 ついでだから書簡の収録ということで書き足しておくと節から父・源次郎への書簡が八十三通、母・たか宛が四十七通であるのに対して父・源次郎から節へのそれは二通、母・たかから節への書筒は収録されていない。もともと数が少なく、しかも散逸ということも考えられなくはないが、それにしても不自然なアンバランスである。
 今度は病歴ということで、意図的な脱線をする。節が咽喉に異変を覚えるのは明治四十四年の八月であり、十一月には咽喉結核を宣告されている。柴生田稔は「長塚節」(弘文堂『日本歌人講座』第六巻)の中で「節の結核はもっと由来久しいものであったろうと想像している。中学時代の神経衰弱、その後年々の頭痛の訴えなども、それと関連しているのではなかろうかと思う」と書く。素人考えと断っているが合理的な印象を受ける。一つには脳神経衰弱という耳慣れない言葉に導かれての感想であるが、私にも、また柴生田にも傍証があるわけではない。
 
初期の作品 秋の歌人・長塚節覚書② (初出「短歌人」平成3年8月号)

 脳神経衰弱でドロップアウトする前後の作品を通して、もし可能ならば、魂の遍歴を辿りたい。目安は一応のところ作品が現存する明治二十九年から三十二年までである。ただ生前活字となった韻文を収録する全集の第三巻からは明治三十一年の短歌三首と翌三十二年の短歌六首が拾えるだけである。したがって未発表の韻文を収録する第五巻に拠るが、このうち短歌は明治二十九年の百二十九首、三十年の百十三首、三十一年の二十五首、三十二年の七首という内訳である。そして明治二十九年は節が水戸中学を退学した年であり、三十二年は徴兵検査を不合格になった年であり、次の三十三年が初めて根岸庵に正岡子規を訪問する年である。

  吹くとしもなき朝風にゆらぐなり池にかかれる岸の藤波
  我か心人こそ知らね身にあまる重荷を蟻は負ふてふものを

 明治二十九年の作。歌歴は二年ぐらいであろう。挫折感や苦悩あるいは他者へのメッセージが伝わってくるような作品はないかということで、抄出も、やや恣意的である。たとえば一首目は藤の姿に節の姿を重ねた結果であり(「水辺藤」という題がついている。ほかも大半が題詠である)、二首目は重荷に具体的な事件を連想した結果である(作品は「折にふれたる数首」という十首の中の一首である)。しかし、このような読み方には、やはり無理が多い。年譜にも、この頃「旧派の宗匠に添削を請うている」とあるが、作品は正直なものだ。

  白くもをわけ宛行けばいくたびかたえてはひびくたき川の音
  末遠き那須野が原の風さえて何処夕立いまぞくるらむ

 今度は「感に堪へざりき(夏)」という小題で括られた十五首の中の最初と最後の歌を引用する。夏といえば療養のために滞在したという塩原温泉しか考えられない。しかし、それにしても、この落ち着きはどうだろうか。いかにも老成しているという感じで、年譜に「秋、水戸、大子町を経て那須野を横断し塩原まで徒歩旅行を試み、二週間滞在」とある、引用は省略するが、その折の作品で詞書が巧みに用いられている点を含めて、スタイルには後年の原型をみる思いがする。
 また、つぎのような作品。

  村雨にぬれし衣のひぬま川かさまをさして急ぐなりけり

 題は「戯むれに」。「ひぬま」は川の名前の涸沼と「干ぬ間」、「かさま」は地名の笠間であるから「指して」と「差して」の両様に掛かっているだろう。作品そのものは平凡であるが滑稽趣味は注目に値しよう。翌年にも〈行く水は何時かはかれむ我が袖にかかるなみだのひぬま橋かな〉と歌っている。

  ふじみねにいまやいるさの夕日かげ霞の浦にこがねなみたつ
  道かへてけふはのぼりぬ城やまのみねの松かぜいかにふくかと
  かしら重みひとりたれこむ窓の戸にかぜもおとなく春雨ぞふる
  かきながすよしなしごともかしまなる末なし川の末やなからん

 明治三十年の作品。一首目は絵画的で大きな図柄を捉えているところ、とりわけ結句の色彩が印象的だ。二首目は珍しく青年節の素顔が覗くかと思われる作品。三首目は初句に注目したい。脳神経衰弱を連想させるからだ。しかし、どんなに読んでも「たれこむ」が不可解ではある。四首目は手紙歌。相手が気の置けない寺田憲ということもあってか普段着の魅力があり、かなり自在である。

  子をおふ子子をおはざる子打群れて蜻蛉釣るべく野の小道ゆく
  いりひよわくさしくる野辺の溜り水かわかむとして蜻蛉群がる
  かごのなかに目白餌(えつ)かで死ぬころぞ秋やうやくに寒くなりゆく
  かごにゐてきうりにいくるきりぎりすかひなきひげをなににうごかす

 明治三十一年になると作品の印象が一変する。一言で言えば旧派和歌からの脱皮と写生の短歌への接近であるが、これは連載が始まった子規の「歌よみに与ふる書」を熟読し、「百中十首」を規範に「写生の歌を学び始める」という年譜の記載と符合するものだ。また滑稽趣味は「人を嘲りて」という詞書を伴う〈金故にとらはるる身は籠の中わが糞くらふ目白にも若かず〉というかたちでも現れる。攻撃対象は不明であるが父親もしくは長男である節自身とも読むことができる。

  細々と水は流れて多摩川の広き石原芒生ひにけり
  粟も稗も実らずときく山里の市の瀬人は人によき人

 明治三十二年になると数こそ少ないけれども、作品は、なかなか堂々としたものだ。そして徴兵検査が不合格であったことは作歌の動機とはならなかったらしい。この点、脳神経衰弱も中途退学も同じである。

   私は病気の為めに断然廃学せねば成らぬやうになつた。其時私はまだ廿にもならなかつた。  私は復櫟林に没却して此の静かな村の空気を吸はねばならぬことになつた。全く孤独の境涯に  移つた。

 自伝的要素が取り沙汰される短篇小説「隣室の客」の一節である。ここにきて私は私が知りたかったのは孤独ではなくて叫びであったような気がする。これは無限の入れ子細工への桃戦と同じで方法論として誤っていた、おそらく「余は天然を酷愛す」(『写生断片』)というマニフェストの中にこそ傷心と背中合わせの孤独を解く鍵があるのだろう。
 ただ、この期間に限らなければ紹介したい作品がないわけではない。明治三十七年、二十五歳の時に発表された「海底問答」という長編の詩がある。内容は旅順の攻撃で海に沈んだロシア兵の死屍が先住者である清の骸骨と交わす会話の一部始終である。
 まず骸骨が語る世界観を聞こう。
 その一。

  まこと海底にすまひすれば、/寒暑はさらに弁ヘざりき。

 その二。

  骸骨は命死なず。/骸骨は飢うることなく、/睡眠を欲せず。病を知らず。/未来永劫にかく  の如く、/敵の迫害にあふこともなし。/楽しからずや骸骨は。

 その三。

  かく骸骨となりたれば、/孰れを孰れと分き難し。/まこと貴賤も貧富もなき/自由平等の楽  天地は、/はじめて茲に発見すべし。

 その四。

  人間の死を恐るる、/骸骨の慰安を知らねばこそ。/我が脳髄は空虚なれば、/思慮も考察も  公平なり。

 その五。

  骸骨は世に拘らず。

 これと骸骨の「ばらばらに散乱せる白骨を/綴り合せむと、遽((いそが))しく/手の骨を探すもの、/脚の骨を探すもの、/頭蓋骨を奪ひあふもの、/混乱の状を呈せし後、/ゆるやかに動揺する水のまにま、/ふらふらとして立ちあがり、」とか「偵察に出でし骸骨は、/昆布の根をば力草に、/骨と骨との離るるまで」また「言ひ放ちて、顎の骨の/歪みたるをおし直し、」「かくいひてとりおとせる/肋骨を拾ひ揚げながら、」から「と/いひ畢りて素のごとく、死屍横はる傍に、/ばらばらになりて打ち臥しぬ。」までの奇怪かつユーモラスな骸骨の所作は脳神経衰弱にこだわりつづけてきた私にも充分に刺激的で不思議な暗い情熱を伝えてくれるものだ。
 
「隣室の客」とモデル問題 秋の歌人・長塚節覚書③ (初出「短歌人」平成3年9月号) 

 「隣室の客」は明治四十三年一月の「ホトトギス」に発表された短篇小説である。自伝的要素が強いと言われている。実際のところ年譜の記載と符合する部分も多い。しかしモデルに定説があるわけではない。梗概を述べると「品行方正な人間として周囲から待遇されて居る」「私」は、ふとしたことから「私」の家に預けられている出戻りの「おいよさん」と深い関係になる。そして妊娠させる。お決まりの結果として堕胎するが一度ならず二度目になると「おいよさん」も自分の体が心配で躊躇する。そこで処置に困った「私」は母親に後始末を一任して常陸の平潟の港に身を避ける。そんな「人一倍陋劣な行為」の顛末が描かれている。隣室の客とは、したがって平潟の宿の女客である。どうも妊娠をしている上に事情もあるらしく、どことなく「おいよさん」と似た境遇が「私」に恐怖心を抱かせるという展開である。
 事実はどうなのだろう。北住敏夫は「節の小説は、実際の事件に取材するのが常であったとはいえ、自分の生活を対象として、直接自己を語ったというためしはない。万事につけて自己を抑制し、肌身を覗かせまいとした節の性格からいっても、小説の形を借りるにせよ、あえて秘事を洩らしたとは考え難い」(桜楓社『長塚節』)と否定的である。一方、大戸三千枝は自身の見解は示していないけれども諸説を紹介して、こう書いている(新典社『土の歌人 長塚節』)。

   平輪光三氏は最初平潟滞在中に隣室の客から聞いた話を小説化したとも、「節と長塚家に奉  公してゐた巡査の娘との間に生じた節自身の問題」(『長塚節・生活と作品』)とも伝えられて  いると述べられた。のちに「節の父との醜聞とも考えられる」(『人間長塚節』)との見解を示  された。また土屋文明氏は、ある時坂本四方太が左千夫宅に訪ねて来て「長塚もなかなか隅に  置けないね」というと、「いや、なにあれは自分のことじゃあるまいよ」と左千夫が話してい  たのを記憶しておられるという。

 要するに白黒はっきりとしない。柴生田稔も「そうしたことが実際なかったのでもないらしいふしがある」と判断を留保しているし、藤沢周平の小説でもモデル說と童貞説の両説併記でバランスをとっている。
 しかし、ここにそのバランスを揺るがす強烈な証言がある。宮地伸一の「長塚節の或る話」(角川書店「短歌」昭和六十年二月号)がそれである。引用すると、こうだ。

   昭和三十八年七月二十九日に私は当時の世田谷のアララギ発行所に行き、五味保義氏と雑談  した時、ふと五味氏はこういうことを洩らされた。「アララギ」の岡麓追悼号(昭27・5)を出  した時に長塚家から、節に宛てた岡麓の書簡を借り出した。追悼号に載せたのは四通ほどだが、  沢山の書簡があった。その中に封筒の裏に「土浦停車場にて、岡三郎」と書かれたものがあり、  中身は女の手紙で金釘流のへたな文字だった。内容は「隣室の客」に書かれていることとぴっ  たり符号した。

 その内容とは小説に「其後おいよさんから手紙がきた。封筒には私の友人の名が書いてある。私は心もとなく封を切つて見た。又懐胎したやうに思はれる。先のは幸にひつそりと始末した。此度はもう引き続き身体が悪いので危険なことを冒すことは出来ぬ。それにしても今一度相談がしたいから、こつちへ来て逢つてくれと媾曳の場所まで書いてあつた。」という件である。宮地は「とにかく現物をそのまま示すことができないのが、致命的な弱みだが、五味氏がうそをつくわけもなく、私が作り事を述べているわけでもない。全集関係者等一部の人にはこの件は知られているのかも知れない」と書く。
 当然のこととはいえ全集の節あて書簡の中に「おいよさん」の手紙はない。ただ、もし「隣室の客」の「私」が節なら、もう一通、重要な手紙があるはずだ。

   一日間を隔てて母から手紙が届いた。私は心もとなく封を切つた。手紙にはかうあつた。あ  のことは窃に極りをつけた。帰つて来ても誰に義理をいふ必要もない。只知らぬ顔をして居れ  ばいいといふのである。帰りたければ帰るがいい。逗留していたければいつまでも居るがいい  といふのであつた。私は此の時つくづく母の慈愛といふことを感じた。

 全集別巻「節あて書簡」の巻末記には「長塚家から特に収録見合せ方要望のあったもの」は収録していないとあるから「おいよさん」の手紙もこれだろうと宮地は考える。そして先にも書いたが母からの手紙は一通もない。すべて「収録見合せ方要望のあったもの」と考えるのが自然であろう。 では節の書簡から事実関係を探ることはできないだろうか。結果は「しかし僕は生来未だ女といふものに接触したことがない」(明治三十七年十一月二十日、平野正朝宛)、「廿七歳の今日までは、未だ一たびも身持ちに於て人の非難をうくべき行為無之候」(明治三十八年八月二十一日、寺田憲宛)、「小生は酒を飲まず、煙草を用ゐず、賭事をなさず、未だ曾て婦女子に迷ひ候ことも無之候」(同年十二月十三日、寺田憲宛)、「妻帯せしこともなければ、婦女子といふもの未だ解し不申候故」(明治三十九年五月三日、寺田憲宛)とアリバイは完璧である。おまけに明治三十九年六月二十九日から七月十九日までの平潟での見聞は「青草集」として短歌にも結実している。しかし内容はおよそ女性問題を抱えているとは思えない。それだけ他人行儀と言おうか、写生に徹したものだ。
 もう少し、書簡を読んでみよう。「隣室の客」でも重要な役割を演じている母との関係が興味深い。

   小生ノ母ハ十年前ハ随分八ヶ間敷人ニテ候ヒキ、(略)、先年小生ノ家ヲ離レ居リ候頃ハ、父  ノ所行ハ少ナカラズ母ヲシテ煩悶セシメ候 而カモ母ハ只一人ニテ家ヲ守リ居候コトトテ、誰  モ之ヲ慰ムルモノナク、自然ニ小言勝ノ人トナリ候ニ外ナラズ候 小生ノ宅ニ在ルヤウニナリ  候テハ、何時ノ間ニカ小言モ言ハズナリ中候 当時ニ於ケル小生病軀ハ頗ル母ヲシテ愛憐ノ念  ヲ起サシメタルニ相違ナク、常々小生ノ所説ヲ容レタルモ、同情ノ結果モ影響イタシ候コトト  存候 今日ニ於テハ母ハ全ク昔日ノ人ノ如クナラズ、小生ヲ愛スルコト切ナルト共ニ、小生フ  頼ムコトモ多ク候

 明治三十八年十二月二十日、寺田憲に宛てた書簡の一節である。十年前また先年とは節の中学時代である。その頃、父源次郎は県会議員である。孫引きになるが「当時の県議の通弊として水戸市中に妾宅をかまへ二重生活のため出費もかさむ。また源次郎は任俠はだの温厚な人柄で、困る人の借金の保証人となることがしばしばであったという。こうした源次郎の行状が累積して明治三〇年代に入ると長塚家の財政は苦しさを増してくるようになった」(青木昭『長塚節文学の風土』)とある。寺田憲への書簡からも「小生一家の借財も両三年来母と共に調達して返済したる金額は随分多額に上り候へども」(明治三十八年十二月十三日)ほか苦衷を訴える記事を拾うことができる。おそらく「母は私にのみは尊い盲目であつた」(「隣室の客」)というのは事実であっただろう。「妾宅」の女性と「おいよさん」、それに「隣空の客」の「私」が節とすれば「母の慈愛」は同性として実に複雑なものがある。しかし、そうと断定するには新資料の発掘を待つほかない。

  垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども(「鍼の如く 其の二」)
 
滑稽趣味 秋の歌人・長塚節④(初出「短歌人」平成3年10月号) 

 長塚節の歌集を読んでいて意外に思われることがある。それは世に喧伝されている名作とは別に滑稽を意識した作品が随分と多いことである。もちろん自己の資質に忠実であったという個人的なレベルでの理解も可能であるが、理論的には正岡子規に負うところが大きく、たとえば滑稽についても「嘗て亡師の所論載せて『日本』紙上に在り、敢て蛇足を添へざるべし」(「万葉集巻の十四)と絶対的な傾倒である。その後も万葉集巻十六に言及する際には「単に滑稽のみとすれば正岡先生が嘗て評論せられたことが有るから最早言ふの必要が無いのであるけれども」(「万葉口舌〔一」)と断わるほどである。したがって子規の論のエッセンスである「滑稽は文学的趣味の一なり」(「万葉集巻十六」、講談社『子規全集』第七巻)とか「真面目の趣を解して滑稽の趣を解せざる者は共に文学を語るに足らず」(同)といった言挙げは充分に節の意識にも浸透していたことであろう。明治三十七年、節は「萬葉口舌」の二回目を執筆し、滑稽歌を「その目的の全く滑稽に存ずるもの」と「その結果の全くの滑稽に出でたるもの」とに分類し、前者は「悉く皆戯れに人を嗤笑したるに過ぎない」もので、後者の「詠数種物歌」のグループは「非常な難題を事も無く仕遂げるといふが主眼になつて居る」と書く。さらに前者は「いくらか滑稽の趣味あるものを土台にしたのと、更に滑稽の分子を認めないものを全く作者の技倆に依つて滑稽化して仕舞つたもの」とに分けられるが、どちらも「火花がぱつと開いてぱつと消えたやうに、単純で且つ何物をも捉へないやうな所が厭味の無い所以」であり、後者は「変な了解し憎いやうなところにいふ可からざる妙味を存じて居る」のが特色だとするが、その論に私たちは驚かない。もし驚くとすればそれは現実の作歌行為においても滑稽の趣に偏見のないことの方である。

  窓の外にうかがふ鬼の隠るるとかしら隠して角を隠さず(「鬼」)

 明治三十三年(以下、発表年を示す)。「頭隠して尻隠さず」という言葉もあるが、鬼の場合だと、こうなるのだろう。童話の挿絵のような趣もあり、駄洒落と一蹴するのは容易であるが、それではいかにも惜しい。

  いはひ瓮(へ)にうま酒みてて埋めきとふ野べのつかさは松木たれたり(「酒」)

 明治三十四年。「瓮」は水などを入れるかめ。「つかさ」は阜で小高い丘のこと。松の木も祝い酒でヘベれけだというところが味噌で枝振りから擬人化したものだろう。

  青袋へちま垂れたりしかすがにそのあを袋つぎ目しらずも(「うみ苧集(六)」)

 明治三十五年。糸瓜を袋と見立てたところから継目が出てくる滑稽を味わいたい。

  からたちの荊刺(いばら)がもとにぬぎ掛くる蛇の衣(ころも)にありといはなくに(「まつがさ集(四)」)

 明治三十六年。昼間から半裸で酒を呑んでいる女客に取材した作品。長い詞書からは当時の風俗も窺われて興味深い。

  鋸の歯なす諸葉の真中ゆも抽きたてるたむぽぽの花(「雑詠十六首」)

 明治三十七年。写生の歌には違いないが、「鋸の歯」と言い、「抽きたてる」と言い、デフォルメが大胆で、結果として滑稽の趣があることは否定できない。

  からす等よ田螺のふたに懲りなくば蟹のはさみに嘴断ちやらむ(「青草集」)

 明治三十九年。場所は平潟。陸に上がった水夫が船に向かって怒鳴るのがうるさく夜中になってもやまない、という詞書がある。鰹漁で賑わっているのである。

  青笹に包みて鮭はおくらむとことしはやらず欲しといふとも(「手紙の歌」)

 明治四十一年。縁談の調査を依頼している岡麓には鮭を贈るという約束がある。この一首には不首尾のためのお預けと、鮭の季節が終わりに近い、の両方の意味がある。

  からまるを否とたれかいふ鴨跖草の蔓(つる)だに絡め我はさびしゑ(「病中雑詠」)

 明治四十五年。前年に黒田てる子の訪問を受けている。見舞いの品を包んでいる服紗は「つゆ草の花のいろ」であった。

  車前草(おほばこ)は畑のこみちに槍立てて雨のふる日は行きがてぬかも(「鍼の如く 其の二」)

 大正三年。帰郷時の作品。同じ植物ということでタンポポの歌を連想したりするけれども下句の滑稽には切実な響きがある。
 以上は、全集第三巻からの抄出である。ほかにも例歌は多い。ただ蕨橿堂や香取秀真、柘植潮音また不特定だが禿頭の人や鬚のうすい人を標的とした戯歌などは今回の対象から外すことにした。理由は簡単で、もしも私がその立場だったら不愉快だからである。
 最後は、未発表の第五巻から一首。

  わがこひは鮨の山葵の鼻ひびき泣きも泣かぬに泪ながさむ(「雑歌」)

 明治四十一年四月十五日、節は三浦義晃に「祇園の一力で雑魚寝をやつた、/朝眼がさめたら舞子はまだ眠つて居た、皆美しかつた、/昨夜舞子二人に手を引かれて夜桜を見た、おどろいたらう」と書き送っている。
 では右の作品を含む滑稽の趣に対する評価はどうであろうか。二人の意見に耳を傾けておきたいと思う。一人は柴生田稔で「節の歌の中ではもっとも低級な部類のものであり、また節の歌境の進展のためには、むしろ好ましからぬ傾向であったと考えられるのである」(前掲「長塚節」)と全面的に否定する側である。今一人は『アララギ歌風の研究』(桜楓社)における田中順二である。とりわけ晩年の作品を中心に肯定的論調を展開し、そのよってきたるところとして三つの理由を上げている。つまり「その一つは、万葉集や催馬楽などの熱心な研究と柔軟な理解による語句の自由自在な駆使がいちじるしかったこと、その二は節の性格が真面目冷静であったこと、その三は、節の生涯の悲哀に満ちていたこと、この三つであろう」(「長塚節のユーモア」)というのであるが二の指摘がおもしろい。また総括して、こうも書いている。

   正岡子規に発したユーモアの歌は根岸短歌会の人々に継承されはしたものの、その多くは浅  く終わってしまったようである。(略)。だが子規の発見した冷い抒情のユーモアはかならず  しも全くその後絶えたわけではなかった。茂吉と節との歌に、その性質こそ異ってはいるが、  その命脈を伝えながら、それぞれに独特の境地を展開していったことを知るのである。特に茂  吉にしても節にしても、その最晩年の歌には深い人生的な詠嘆が奏でるユーモラスなひびきを  聴くことができるように思うのである。そうしてさらにいうならば、近代歌人の多くにこうし  た境涯的な高次のユーモアの歌をほとんど見出だすことができないのはさびしいことである。  けだし、節と茂吉とは風土や環境を異にしながら、両者とも子規の遺髪をよく継承しつつ、そ  の生涯がいたく悲劇的であったことにかかわりがあったのであろう。

 同書に収められた「歌風から見た節と茂吉ーー特にユーモアの歌について」からの引用である。数少ない肯定派もしくは理解者であることは間違いないのであるが、それでも私には不満である。柴生田稔の「もっとも低級な部類」云々に至っては、唾棄するほかないが、それにしても「深い人生的な詠嘆」や「境涯的な高次のユーモア」とか「悲劇的」であることを条件としなければ受容できない滑稽趣味というものも、ひどく窮屈ではないのか。はたして子規や「萬葉ロ舌([二])」を書いた節の本意だろうかと考えるとき首は静かに横に振らざるを得ないのである。
 
万葉集 秋の歌人・長塚節覚書⑤(初出「短歌人」平成3年11月号) 

 長塚節の万葉論として一番早いのは、明治三十六年、「馬醉木」の創刊号に発表された「万葉集巻の十四」である。この年、節は二十五歳、正岡子規の死は前年であった。以下「東歌余談」の一と二、「万葉口舌」の一から三の計六篇が同誌に発表されている。
 その概略を紹介すると、まず「万葉集巻の十四」であるが、節は万葉集に「自ら二つの異彩を放てるもの」があるとして巻十四の東歌と巻十六の滑稽歌に注目し、「概括して之を云へば東歌は外形に於て滑稽歌は内容に於て共に異なりたるが如し」と述べている。そして造語や序歌も東歌に多く見ることができるものの、これは万葉集に共通の特色であり、「東歌の特色は方言訛語の適用せられる所に在り」とする。それも「吾人の見る方言訛語となすものは当時に於ける東人の通用語たりしなり、日常の言語を以て作為したる短歌の成功したるものが即ち東歌なり」として「後人の徒らに珍奇を趁ふものと共に語るべからず」と区別する。
 「東歌余談〔一〕」は「東歌にはどんな品物(ひんぶつ)が装飾として或は作者の思想を表示する為にどんな塩梅に用ゐられてあるか」ということを主眼に調査している。その結果は「禽獣虫魚草木と分つていづれが最も多いかといふにそれは草木即ち植物で、禽獣虫魚即ち動物は至つて少い」、あと中抜きになるが、「動物には珍しいものが一つもない、万葉には非常に多い時鳥さへも一首しかない、」「植物であつても『花橘』などは一つしかない所を見ると、京人の称賛するものが必ず東人を感動せしめたものではなかつたらしい」ということになる。また「それでそれを活動せしめたところは決して京人に劣つて居るものではないと思はれるのである」と結んでいる。
 「東歌余談〔二〕」では、巻二十の防人の歌と比較して、巻十四の特色を「変化自在なり」「序歌多し」「東語の用ゐられたもの句毎に多きを加ふ」「東語の活動せるもの夥し」「序歌その他の装飾に用ゐられたる品物多し」という五項目に集約する。そしてこの面で特色を見ないのが巻二十だというわけで各項目ともに対比されるのであるが、理由としては、同じ東人の作品でも、防人の歌が「家を出づる時の悲哀の情といふので既に区域が狭小になつて居る上に、主眼たるものが父母妻子といふのだから変化のしやうがない」というのであった。
 次の「万葉口舌」は巻十六に言及したものであり、その一回目は有由縁歌である。節が愛用した詞書の効果を扱っているが、これについては稿を改めて述べる。
 「万葉ロ舌〔二〕」。滑稽については前の回に触れているので省く。
 「万葉口舌〔三〕」。作品評価の物差として変化という概念が登場する。これは節の常套句でもあったが、巻十六の雑歌という「明瞭に一の標題のもとに一括することの出来難いもの」を総括して「変化のない所先づ価値のないものとするが至当であらう」とし、「我々が万葉十六に学ぶべきは異つた多くの方面に渉つて変化せしむべきことでなければならない」と最後を締め括っている。
 ところで節の万葉論に巻十四と十六以外を別に扱ったものがあるかというと、これがないからちょっと不思議である。人名でも登場するのは家持、憶良、人麻呂ぐらいで、これも本格的なものではないし、書簡では赤人ぐらいであろう。
 なぜだろうか。
 考えられるのは節の関心がもともと十四と十六を中心としていたということである。そして言うまでもないことだが万葉集の母胎となっているのは大和の国であり、大和人を中心とした同質正統の万葉集の側からすれば、確かに十四と十六とりわけ十四は「異彩を放てるもの」ではあった。しかし東人としての自覚からくる素朴な共感と帰属意識は、節の内部にあって、それを逆転させる魅力ではなかったか。さらに言えば茨城県岡田郡国生村(現、結城郡石下町大字国生)が、万葉時代の大和の国と東国ほどではないにしろ、東京から「僻遠」の地であったということも作用したであろう。節は知人にも「小生の地方は(略)非常なる深田舎の感じにて、一寸他より参り候ては暗き穴の底に這り込み候様に有之候」(明治四十一年五月三日、河井長春宛)とか「小生の居村は東京を去る僅に十七八里なれども、まだ汽車見ぬ人間さへ有之程とて」(大正二年一月二十二日、門真春雄宛)と書き送っている。
 そして現に節は豪農の家に生まれた長男として土地に強く縛られた存在でもあった。しかし、それだけでは充分とは言えない。おそらく中学時代の思わぬ脳神経衰弱による廃学と早い時期での帰郷が、この辺の関係を決定的にしたということがあるのではないか。実際のところ、仮に健康で水戸中学を退学することがなければどうだったであろうか。弟順二郎のように第一高等学校、東京帝国大学という進学のコースを歩んでいた可能性は否定できないし、そうなると万葉集を読む軸足にも少なからぬ影響が出ていたであろう。小説「土」を執筆するにしても「茨城言葉は他地方の人士に分かつても分らなくても、茨城のしかも純粋なる百姓を書く以上止むを得不中候」(明治四十三年七月一日、横瀬虎壽宛)といった徹底した姿勢を確保できたかどうか正直なところ疑問なのである。
 次に巻十六や十四のようにまとまったものではないが、歌論の中で万葉集に触れたり、あるいは引き合いに出している場合もある。前後を無視して抜粋すると、たとえば「吾々の頭脳では到底万葉の単純万葉の茫漠主義で満足は出来ない」(「歌の季について」)とか、「万葉の歌は面白いが、いつでも万葉らしいものでは一定の模型を形つてしまふ所から迚ても見るに堪へられなくなる」(「写生の歌に就いて」)、また「作者が万葉を読み万葉的英気の充満せる時は音調滑かに口をついて出で、殆んど咳唾珠を成すの感あるも英気一たび去つては是に始めて煩悶の声を発するのである」(「枯桑漫筆〔一〕)、「予がまだ根岸へ行かなかつた頃は唯日常目に触るるものに依つてのみ作つて居た。後に万葉を見て忽ち万葉調に変化した。これが殆ど去年の春までつづいた」(「歌譚抄を読みて」)などはその一節で、いずれも万葉集から距離を置く発言になっているのが注目される。
 歌論ではないが、ほかに「戯れに万葉崇拝者に与ふる歌并短歌」がある。長歌と反歌四首からなるが、反歌二首を引用する。

  万葉は道の直道然れども心して行けおほにあらずして
  筍のひでもひでずも万葉の閾(しきみ)を超えて外に出でざめや

 このうち「歌譚抄を読みて」は明治三十八年五月の文章だから「去年の春」とは明治三十七年ということになり、「歌の季に就いて」の発表は、この年の七月で、ちょうど符号する。但し、「万葉口舌〔三〕」の「馬酔木」への掲載が明治三十八年二月であることを考えると、実際には右の発言の頭と巻十六の研究の尾の部分とは重なりながら展開していることになる。いずれにしても節の万葉かぶれの期間は短かったと言わなければならない。これは内なる声に満足することを第一とした芸術家として当然の帰結であったろう。反面、その表れ方を見ると晩年の「今アララギには斎藤君の模倣が充満して居て殆んど鼻持もならぬ」「人間といふものは、自分の天分を発揮する外に何もありやしません。だから個性のことは八釜敷いふのです」(「千樫に与ふ」)ほか、多くの発言に共通する模倣者への嫌悪も見え隠れするのである。
 その後、節が万葉集から完全に離れたかというと、しかし、そうではない。「従来のところでは、万葉集を愛読した人らしい処が少しもないのを遺憾と致します、万葉を心読し体得して居れば、も少し違つたものになります、勿論口調の似た似ないの問題ではありません」(大正三年八月八日、横瀬虎壽宛)と、最後まで崇拝ではないにしても尊重している様子が窺えるのである。
 
写生、その一 秋の歌人・長塚節覚書⑥ (初出「短歌人」平成3年12月号)

 節が「写生の歌に就いて」を「馬酔木」に発表したのは明治三十八年一月である。
 万葉集と写生と言えば正岡子規の系譜に繋がる歌人にとって並立共存するはずのものであるという印象が強い。それは「万葉が遙に他集を抽(ぬき)んでたるは論を待たず。其抽んでたる所以は、他集の歌が毫も作者の感情を現し得ざるに反し、万葉の歌は善く之を現したるに在り。他集が感情を現し得ざるは感情を有の儘に写さゞるがためにして、万葉が之を現し得たるは之を有の儘に写したるがためなり」(「曙覧の歌」、「子規全集』第七巻)という子規説が現在に流布された結果でもあろう。
 ところが節にあっては「万葉の歌は主観的である」という出発点は変らないけれども「水は流動しなければ腐敗する、歌も一所に停滞すれば萎靡銷沈するのは同一の理である、現在の趨勢は蓋しそれである」という認識もある。また方法が悪いのではないが飽きがきたということを繰り返し書いており、万葉集から離れていく過程で、逆に接近していくのが感情(主観)を退けた写生であった というところが特徴的である。
 骨子は、次の三点であろう。
  一、客観。「これまでのは客観とはいつても主観を表はすための方便が大分であつた、僕は暫 く之を棄てゝ主観といふのも客観が主となるものを作りたいといふのである」
  二、天然。「写生の歌を作るのは一草一木の微にも及ぶべきであるから必ずしも田園生活に限 るべきではないが田園の風物は取つて材料とするに便利である」
  三、事実信仰。「写生といふ以上素より実況でなければ駄目である、現在に目に触れないもの でも曾て見たことのあるものならば宜しい、空想は失敗し易い」
 これに「俳句の基礎は全く写生であつた、歌が俳句と甚しく基礎を異にして居べき理由はないやうに思ふ」という俳句とのクロスオーバーがあったりして話を複雑にしているが写生説を構成している要素としては右の三点に尽きるのではないかと思う。
 そして実作を試みているわけであるが、それは次のような作品であった。

  秋の野に豆曳くあとにひきのこる莠(はぐさ)がなかのこほろぎの声(「秋冬雑詠」)
  もちの木のしげきがもとに植ゑなべていまだ苗なる山茶花の花

 この写生説の前に立ちはだかったのが伊藤左千夫である。このとき節は二十七歳、左千夫は四十二歳と十五歳の年の差であるが同年に正岡子規に入門した間柄である。
. 左千夫は明治三十八年の五月に「歌譚抄」(岩波書店『左千夫全集』第六巻)を書いて節の写生説を批判する。つまり「写生といふことは絵画に就て云ふ詞で一概に使用する場合は皆写生的と云はねばならぬ、況や歌の如き、形式の拘束ある上に調子を以て居るものに対して云へる詞ではない、調子を得やうとすれば直ぐ写生でなくなる、写生らしくやらうとすれば調子はなくなり、到底両立しないものである」と言って写生という用語自体を認めないかのような口吻である。また写生に対置して調子ということを言っている。こちらの方が左千夫にとっては重要な関心だったのであろう。批判は作例としての「もちの木の」にも触れて「余を以て見れば決して之を客観の歌写生の歌とは云へない、なぜならば客観の主要点たる形象を欠いて居るからである」また「写生としては殆どぜろぢや云はゞ未成品と云はねばならぬ(略)、一体三十一文字で写生趣味を顕さうと云ふが大間違である」と実に非寛容的である。もちろん左千夫には左千夫で「感じを顕すといふことが写生の目的である、人間は連想の力が誰にもそれ相当に有して居る、故に松葉を書いても頭髪を書いても一本一本判るやうに写さいでもよいのである」という信念があってのことにほかならない。これに対して節は同じ号に「歌譚抄を読みて」を書いて反論する。それでも十分ではなかったのであろう、九月の「馬酔木」にも「枯桑漫筆[二」を書くが、左千夫の方も黙っていない、同号の「歌譚抄」で 再批判するといったぐあいであった。
 論争というからには論点も大切であるが、どちらも実作者である、節にすれば「少しく親爺が小言を云はねばならぬ」式の内政干渉は払いのけたかったに違いない。五月の文章の最後など「左千夫氏は予の歌を以て写生に非ず、写生らしきものにも非ず、写生臭いものに過ぎないといつて居る。それもいゝ。又いくら写生々々と騒いでも、連作の必要を自覚せぬ間は、耳をかされぬといつて居る。それもいゝ。まあじつとして見て居て貰ひたい。夏の短夜でも明けるまでには時間がある」また「飽きるまではやるのである」と自信に満ちている。また意固地なぐらいである。しかしこれが九月の文章の最後になると「我々のすることも三年とも五年とも経過しては居ないのであるから(略)、鉄槌を以て打ち壊はすやうな態度は冷酷に過ぎるであらう」と弱気が覗く。また小さな悲鳴のようにも聞こえるのである。これだけでも左千夫の批判が節の出鼻を挫くに十分な効果のあったことが知られよう。
 では節の写生説の意味と、その後を探らねばならぬのであるが、前段階として「馬酔木」が創刊された明治三十六年から四十三年までの短歌の発表数を調べてみた。
 するとどうだろう。
 明治三十六年、百八十二首。明治三十七年、百五十三首。明治三十八年、二百九十八首。明治三十九年、八十四首 (重出を含む)。明治四十年、二十八首 (再録を含む)。明治四十一年、百十三首(重出を含む)。明治四十二年、十五首(再録)。明治四十三年、〇首。
 年々、発表数が増えていた節の作品が明治三十八年を境に急激に下降線を描く様子が一目瞭然である。第一の理由としては写生文や小説の執筆に熱中したということがある。主なところでは明治三十九年の「炭焼の娘」、これは六カ月を費やして改稿六回という苦心の作であったが節の散文に対する自信を深めるきっかけとなった作品である、四十年は「佐渡が島」、四十一年「芋掘り」、四十二年「開業医」「おふさ」「教師」、四十三年になると「隣室の客」、そして「土」の連載は六月からである。反対に短歌の方は元気がない。自己分析では「何人も歌作の初期には英気充満して、各首皆潑剌なる生命を有する道理なれど、更に作つて〱或時期に到達すれば何時の間にか以前の生命は失せて、徒らに形骸を曝すが如く相成申候 然しながらこれ何人も一たび踏むべき常道と存申候 (略) 小生も其数に漏れず候」(明治四十一年九月二十日、久保田俊彦宛)ということになるが、原因はそれだけだろうか。明治四十一年は一月に「馬酔木」終刊、二月に「アカネ」創刊、三井甲之と左千夫の確執があって、十月には「阿羅々木」の創刊と根岸短歌会にとっては節目の年であったが、翌年の九月二十二日、節は左千夫との懸隔を訴える蕨真一郎に「小生の伊藤君と親善なりしは文学の上の交誼にのみ存し候 (略) 然るに其文学上の交誼に於て小生は数年以来自然に伊藤君と遠ざかり来りたるを感じ候 取材の趣味も調子の趣味も全く相反したるを感じ候 腹蔵なくいヘば小生は時に非常に敬服することなきに非れど大抵は不快の念を起さゞることなからず候」と書き送っている。また「小生は暫く歌と絶縁せざるを得ず候」とも。
 節の本格的な作歌活動の再開は皮肉にも「乗鞍岳を憶ふ」「(喉頭結核といふ恐しき病ひに)」「病中雑詠」を経て大正三年の「鍼の如く」を待たなければならなかった。
 
写生、その二 秋の歌人・長塚節覚書⑦ (初出「短歌人」平成4年1月号)

 節の写生への接近が万葉集への一辺倒に飽き足らなかったことに起因することは、先にも書いた。繰り返すが、そこには趣味の変化もある。しかしその一方では「万葉調の歌に傑作を出したもので後に更に聞えないものがあるが、かういふ人の傑作といふものは万葉のつけ元気に過ぎない。自分といふものに帰らないから再び奮ひ起ることが出来ないのである」という分析と「天然を写生することに努めたならば屹度共弊を除去することが出来やう」あるいは「歌は文学上の小部分である、写生の歌が一体となることが出来たら歌の区域がいくらかでも拡大される訳である」(「歌譚抄を読みて」)という展望もあった。そしてそのための方法論が客観と天然であり、また事実の偏重であったわけだ。
 では節の言う自分に帰るということはどういうことなのか。つまり、その意味と背景を探るのが今回のテーマである。
 客観。これについては「枯桑漫筆〔一〕」の「写生歌を通読する際に客観的光景を眼前に髣髴たらしむることがあつたとしても何等の主観あることを感じない場合が多いであらう。敏捷なる舌によつて豆腐に些かの苦みあるを感知する如く、発達したる頭脳によつてはじめて写生の殆んど総てが多少の主観あるを感知するのである。即ち明瞭に客観的光景を写し出した製作物は我が輩は之を客観の歌と称するのである」という発言が参考になる。ただ「自分の制作に純客観のものが無いといふのを以て絶対に純客観の制作は不可能であるとは我が輩は思はない。時に之を得るであらうと思惟する」という件もあり、この時点では主観を排除するのが目的であったかのような印象を受ける。これは「客観的の製作物が好き」(「写生の歌に就いて」)だとかいう説明だけでは困難で、もう少し踏み込むと「過日ハ思フ儘ノコト遠慮モ不仕、アトニテ失策致シ候ヤウ思ヒ申候 自分ノ胸中ナド猥リニ人ニ打チアケ候テ、唯人ヲシテ憂ヘシムルニ過ギズ、智恵ノ足ラザルコト甚ダシト慚愧ノ至リニ候」(明治三十八年十二月二十日、寺田憲宛)という節の性情が深いところで働いていたように思われる。
 天然。節は、これについて一般論を装っているが、そのあとで「市街に居住するものは半日の閑を偸んで郊外の散策を試みるのが肝要であると思ふ」(「歌譚抄を読みて」)と付け加えることを忘れていない。つまるところ写生とは天然を意味し、それはとりもなおさず節の住んでいる田園を中心に据えた方法論であることが知れるのである。
 事実信仰。事実と空想の識別に言及していないので、仮に、こう呼んでみたが「どうも想像に成つたものはいゝやうでもどこかに今一息といふ所がある、(略)、万葉の歌が面白いのは実情であるからだ」(「『鵜川』歌評」、明治三十六年十一月)、「嘗て遭遇したことでも現在に目撃しつゝあることでも実際の場合をいひ表したものはいひやうは悪くても直せば物に成るといふことである。」(『親川』選歌評 [一]」、明治三十七年三月)という発言を拾うことができる。実作の場面でも、その拘り方は相当なもので「名を知らざれば心強からず文学上よりは蚯蚓に見候も毛虫に見候も宜しからむと思へども名があらば名をいふが至当ならむと存じ候 折り返し至急に御報知下され度願上候」(明治三十八年六月十六日、日比勉宛)といったぐあいであった。

  松ノ木ニナクナル虫ヲ蟬トオモヒ毛虫トキゝテシカゾ我ガマヨフ
  螻蛄ノ鳴ク声ニモアラズ腸ニシミ透ル声畑ニモ鳴ク

 二種類の虫の名前を問い合せたものだが、ほかにも似たような書簡が残されている。
 では、その後の変化を見てみよう。
 客観。節は明治四十年十月二十八日、久保田俊彦への書簡の中で、

  芋がらを壁につるせば秋の日のかげり又さしこまやかに射す
  こほろぎははかなき虫か柊の花が散りてもおどろきぬべし

といった近作を示した上で「等しく目に映ずる処のもの、一たび作者の頭脳を透して現はるゝ時、其所に生命を有せざるべからず、即ち作者の主観が濃く又は薄く表はれねばならぬものと存じ候 此点に就いて小生の昨年あたりまでの、唯々自然の材料にのみすがりたる写生の歌は全くつまらぬものと存じ候 其材料はつまらぬものでも、其人の見様如何にて、一首のうちの一句に生命を保たしむるものを得べくと存じ候」と述べる。また、

  南瓜の茂りがなかに抜きいでし莠そよぎて秋立ちぬらし

という前年の作品にも触れて「岡麓君は三四の句に秋意十分なりと申され候 如此読者に向つては、作者は感謝せねばならず候 小生の前述の主観と申候は、此様なものと覚召され度候」と結んでいる。
 天然。「障子の外には雀がやかましく囀り居り候 障子をあけ候処、はら〱と遁げ申候 葉鶏頭既に枯れて、銭菊真白にさきほこり候 田舎は此故うれしくて堪り不申候」(明治四十年十一月十五日、岡三郎宛)、「小生には天然が何よりの良師友にて此の点に於て自ら田舎に生れ田舎に生活しつゝある境遇を感謝いたし候」(明治四十一年二月二十日、川口千代子宛)、「何処までも淋しき此の田舎は、小生近来つく〲と好きに相成り候」(明治四十一年五月三日、河井長春宛)、「小生の土地にては鬼怒川の堤に野茨の花の白き時、即ち五月中旬が尤も好きな時に候」(明治四十一年八月十日、久保田俊彦宛)、「来年からは花作り一層上手にならむと心構居候 春から霜のふるまで花の中に暮す積に有之候」(明治四十一年九月二十日、岡三郎宛)、「小生は囚はれ居るまで天然を愛し候 而して天然を解する人の極めて少なきを嘆じ申候 解する者の有無は小生を左右するに足らず候」(明治四十二年一月二十八日、久保田俊彦宛)等、引用には事欠かない。そして節と天然の出会いは遠く「心身共に疲労した私と何時までゞも相対して居てくれるものは樹木の外にはないのである。それからといふものは厭だと思つて居た櫟の木もだん〱好きになつた」と告白する「隣室の客」にまで遡る必要がある。
 事実信仰。節は明治三十九年十月十九日、寺田憲への書簡の中で「従来小生は事実に拘泥し過ぎたる弊有之、随て余裕ある作品に乏しく、屢々人の攻撃もうけ申候 旅中毎日日誌をつけ申候所、よく〱自身の欠点に心づき申候所、歌を作ることは兎角恐ろしきものゝ様に相成申候 暫時辛抱して沈黙致し可申かと存じ候」と心境に変化のあったことを告げている。
 こうして見てくると客観と事実信仰には若干の軌道修正が見られるものの天然への帰依だけは一貫して変らない。
 そして、ここにきて私は謎が一つ解けた気分なのだ。ほかでもないが、連載の第二回日、脳神経衰弱と初期の作品の関係に迫ろうとして行き詰まってしまった、どうしても納得できないもどかしさの原因である。あれは出発点からして、やはり問違っていた。節の論理ではなく、知らず知らずのうちに「予は感覚と云はずして特に感激と云ふ。其感激性の鋭敏なだけ、驚異賛嘆哀傷怨怒怪疑等有らゆる境遇に接して、自然的に呼ばれねばならない、内的状態を起して来る。詩作の動機は必ずそこに発して来ねばならぬ。」(「叫びと話上」、『左千夫全集』第七巻)と断定する左千夫の論理で作品の世界に分け入ろうとしていたことを今になって漸く理解するからである。
 
序歌 秋の歌人・長塚節覚書⑧ (初出「短歌人」平成4年2月号)

 節は万葉集への傾倒転じて写生説を主張することになるが、だからといって万葉集から学んだことを御破算にしたわけではない。たとえば連載の第五回で触れたとおり、節は東歌に登場する品物を調査して禽獣虫魚草木と分けると草木すなわち植物が最も多く、禽獣すなわち動物は至って少ない、ということを書いている。この特色は、そのまま節の作品にも当て嵌めることができる。

  薦(こも)かけて桶の深きに入れおける蛸もこほらむ寒き此夜は(「乱礁飛沫」)
  木樂樹(むくろじ)の花散る蔭に引き据ゑし馬が打ち振る汗の鬣(「青草集」)

 これなどは少数派の中でも、さらに珍しい部類である。反対に草木類は多数派で、しかも実物を知らないで歌にすることはなかったと考えられる。胡桃沢勘内への書簡にも「小生も知らざる草有之候 恥かしく候 連理草、九輪草、小手マリ、ヒナギク等に候 此次の御手紙に封入御送り下され候はゞ幸に候」(明治三十八年五月二十日) とある。また草木類ではなかったが物の名前に執着して知人に問い合せたことは前回に書いた。
 ところで清水房雄の『鑑賞 長塚節の秀歌』(短歌新聞社)によると節には「ーの花」という結句の構造を持つ作品だけでも九十例ほどあるそうである。そして、この形は万葉集には三例しかないこと、また「ーめり」止めや、その他の事例を傍証として、節の韻律体系は「早く身につけた旧派王朝和歌風のそれが抜き難いものとして根幹を成している模様で、万葉からの摂取にしても、時問的に言って王朝和歌の隣に位置する末期頃のものがよく性に合っていたらしい」と述べる。與味深い指摘である。そして「鍼の如く」の歌数についても節が「万葉集巻の十四」で勘定する東歌二百三十一首に一致する点を注目して「それは東国人としての自己の出自を意識しての題目選択であるとも思われる。それでつまり、『鍼の如く』二三一首には、東人たる自らの歌即ち当年に於ける東歌という意識が働いていた」と推理する。実に面白く、鑑賞も有益である。ただ作品の評価になると問題は別で、清水は明治四十四年の「乗鞍岳を憶ふ」以前の作品を「前駆的」だとして切り捨ててしまう。理由は「文学という営みを、素裸で人生と対決する行為と考えての扱い方」だと書き、「人間とか人生とかいう問題を覗き窓として短歌を見る場合、『病中雑詠』から始めるのが、先ず自然なところだろう」とも説明する。はたして、そうだろうか。特色のある作品が集中していることは認めざるを得ないが、覗き窓の中で悲劇が進行していくのを眺めるだけが文学だというのであれば、しかも笑い声には耳を塞ぎ、それどころか「世間的には大きく所帯を張った地主の内部の火の車を歌うとか、それからの脱出の為の農作業労働を歌うとかはしなかった」から「作歌趣味人」として排除するのであれば、それこそ他人の胸中を猥りに知りたがる無作法と少しも変わらない。そう考えると「鍼の如く」を「病と恋と旅とを織りあげた歌日記的、歌物語的、歌紀行的展開をして行く」という指摘も変に通俗的だし、いつだって和歌が宮廷とその周辺の文学だったことを思い合わせば旧派王朝和歌風も単に旧派和歌ないし平安朝和歌で十分のはずだ。そしてこのように作品評価の片寄りが見られるのは『鑑賞 長塚節の秀歌』だけではなく、清水房雄が好んで引用する柴生田稔の『長塚節』(前掲)も同様であった。むしろ淵源は「文学美術上一切の問題が、人問の研究を根本とせる如く、歌に於ても勿論寧ろ人間其の物に最も直接なるべきを論じ、作歌理想は子規子時代と頗る其の中心を異にし、明確に其の然るべき理由を自覚せり。故に其の態度は自ら人生を親しみ自然を傍観するに至れり」という「『馬酔木』終刊の消息」(『左千夫全集』第六巻)に求めるべきかも知れず、病根は深いという印象を受ける。

  白蚊帳に夾竹桃をおもひ寄せ只快くその夜ねむりき(「鍼の如く 其の三」)

 くどいが節の歌は節の論理でしか分け入ることができない。この歌など、叫ぶのではなく、自然に同化することで自身を慰藉した様子が窮われて艶かしいぐらいである。
 すっかり寄道をしてしまったが、節は方言訛語こそ使わなかったものの、万葉集とりわけ東歌に発見した句法その他を熱心に実践したということが言いたかったのである。序歌や詞書も例外ではなかった。
 先を急ごう。

  (青傘を八つさし開く)棕櫚((しゆろ))の木の花さく春になりにたらずや
  おもふこと(楢((なら))の左枝の垂花の)かゆれかくゆれ心は止まず

 明治三十五年。「四月の末には京に上らむと思ひ設けしことのかなはずなりたれば心もだえてよめる歌」という詞書がある。
 序歌について節は「序歌は万葉の特色なり」(「万葉集巻の十四」)、「東歌に在るやうな序歌の巧妙なものがあるであらうか」(「東歌余談〔一〕)等、しきりに感心しているが機能についての言及は多くない。おそらく「歌の季に就いて」から「主観を詠ずるにしても、絶対に他の事物を借りないといふわけには行かない。主観を詠ずる場合には文学の上に於ける装飾を施すことも趣味を変化する方法の一つである」、例歌を上げて「これは即序詞の体で俳句にはない処だ。単純な意味を詞の飾りで面白くなってゐる」また「叙情的の序歌に在つて季のあるのは抑もどういふ理由であるか。万薬の作者の叙景は多く唯壮大なる、茫漠たるものを撰んだため季の有るものが少ない。叙情になると沈んだものが普通である。思ひに沈んで居る時に仰いで壮大なる風光を覩ることはなく、手近のものを探るべきである。随て序歌の材料が季を有したる秋の田の穂とか、麦とかいふものを用ゐるやうに成るのである」等を拾えるぐらいであろう。少し範囲を広げれば「装飾の為めに数多い文字を使用して且つのんびりせしめることは俳句には到底容れ能はざるところである。こののんびりした点が歌の長所の一つで音調の上に余韻を感ぜしめる。歌は比較的簡単であるから随て狭くなるがこの音調によつて高さを増すことが出来る」という指摘もある。では枕詞と比較するとどうか。大戸三千枝によれば節の作品には五十八種百二十一例の枕詞が使われているということだが印象は薄い。オーダーメードに対するレディーメードのようなもので用例も限定される枕詞に対して序詞は一つ一つが手作りの新作で、しかも二句以上にまたがるわけだからテクニシャンでないと成功はおぼつかない。

  (小夜深にさきて散るとふ稗草((ひえくさ))の)ひそやかにして秋さりぬらむ
  (植草の鋸((のこぎり))草の茂り薬の)いやこまやかに渡る秋かも
  (馬追虫(うまおひ)の髭の)そよろに来る秋はまなこを閉ちて想ひ見るべし

 明治四十一年の「初秋の歌」から。これを序歌にあっても写生を忘れていないというふうに解釈するのは正しくない。頑なとも言える写生論にも反省の時期が訪れた、すなわち計らいが去ったとき、節の作品に一筋の光明が差した。それが近代短歌屈指の秀歌を生んだ、と言うべきではないか。「我々の将来は何といつても官能の世界に住しなくてはならないのです。さうして短歌は俳句に比して多く肉感的に発達して行かなければ成らぬ運命を有して居ます、(略)、我々は従来の短歌の作者よりもつと季節に対して敏感でなければならないと思ひます」(「一つ二つ」)という晩年の唐突で一種不可解な言葉を、私は右の作品に重ねてしまうのである。
 
詞書 秋の歌人・長塚節覚書⑨ (初出「短歌人」平成4年3月号) 

 節は「万葉口舌 [一]」で有由緑歌の特色について「一言にして尽して見れば各の歌の由て来るところの説明によつて一際その歌に対する読者の感慨を深からしめる点である」と述べ、桜児の歌(三七八六ー八七)を例にして「この二つの歌を単にこの歌だけにして見たらどうであるか、二つ共に一種の湿やかな沈んだ調子であることは極めて容易に感ずることが出来るけれども、それならば何れの場合に詠んだものであるかと問うたならばそれを限ることは頗る困難である、見る人によつて解を異にするの結果に出でなければならない。随て見やうによればどうにも成るといふことになるのであるから感情が分離してしまふのである」、ところが詞書のあることによって「いかなる場合であつたかといふこともいかなる人がよんだかといふこともいかなる情を含んで居たかといふことも確乎として動かす可からざるものになる。さうしてこの平凡なやうな調子のうちに涕涙の滂沱たるを認められるのである。即ち平凡に近いこの二つの歌はその事柄の表明によつて人の感情を惹くことの至つて大なるものたるを知るのである」と書く。ほかにも引用は続くが趣旨は同じであって「これまで挙げた例は皆平凡といはゞいふべく更に奇と称すべき点を見出さないのであるがこれはどういふ理由かといふに、これ等のものは悉く非常な悲しみに遭遇したその主人公たるものゝ作であるから随て真情の溢れて居る所以である、唯それ真情を歌つたものである、どうして技巧を弄すするの暇があるであらう」また「詞書を添へる段になると成たけ離れて作るが肝要になる。詞書が無くても明瞭であるといふ歌よりも、詞書がなくてはならない歌の方が変化せしめ易いのである」あるいは「客観に極めて単純な主観を交へたものには別に何の説明をも要せないことである。客観に人事の複雑なるものを交へた時には必ず説明を要することにもなるであらう」「さうして悲哀の情の深いもの程奇抜なところも異なつたところもなく、悲哀の情や煩悶の情の乏しいものになればその代りに技巧の点がすぐれて居るといふ傾向が見えるやうである」と繰返す。
 どことなく「病中雑詠」や「鍼の如く」の世界を暗示しているようであるが、節の詞書に対する愛好は、このときに始まったものではなかった。初期の作品でも見られるし、第四回の滑稽趣味でも調書がありながらスペースの関係で省略せざるを得なかった作品も多い。節の詞書に対して連作に心を寄せたのが左千夫であるが、その左千夫は「君は万薬の詞書なとを信す過る書を読て悉く書を信する時は書なきに如かすと云ふにあらすや、少し疑の眼を以て歌及ひ詞書なとを研究せよ僕の考では桜児の歌なとは其壮夫の詠だ歌てはなく後の人か其事実を聞て詠めるものであらうと思ふ」(明治三十七年三月一日、『左千夫全集』第九巻)と書き送っている。また清水房雄は「節短歌に於ける詞書の問題は簡単に結論づけられぬ複雑なものを含んでいるはずである」としながらも昭和九年から十五年にかけて「アララギ」に連載された「長塚節歌集合評」における柴生田稔の「或は詞書と相補はしめるやうな作歌態度に問題があるのかも知れない」と「いはば詞書に頼って感動を整理してしまったやうな点が幾らかありはしないかと思ふのである」という発言を引用し、前者では「短歌という定型詩の独立性の問題から考えれば、この純粋論は当然と言わざるを得まい」、また後者では「~という柴生田説に賛成したい」と書いている。いずれも正論には違いないが、桜児の歌で節が注目したのは作者云々のことよりも、まず短歌と詞書の関係ないし役割分担の方にあっただろうと思われる。柴生田稔と清水房雄が疑問視する点も、たしかにそのとおりだが、そもそも短歌と詞書が不即不離な関係であれば、すなわち意識的に一つの作品として拵えられたものである以上、それを別々に論じることからして無理がある。もしそれ定型詩の独立性という純粋論に固執するならば詞書の部分を他の定型詩で補う速作論ともども邪道としなければならないだろう。

  (春雨のしき降る藪のたらの木の)いたくぞ念ふそのなき人を

 明治三十六年「四月十七日、雨ふる、うらの藪のなかへ入りてみるに桵の木の芽いやながにもえ出でたり、亡師のもとへとし〲におくりけるものを、いまはそれもすべなくなりぬ」という詞書を持つ九首のうちの一首であり、序歌の構造にもなっている。明治三十三年には「竹の里人に山椒の芽を贈りて」また「同楤((たら))の芽を贈りて」という詞書のある各五首があり、〈竹やぶにたま〱生ふるたらの木の刺ある木の芽折りて贈りぬ〉という作品を含んでいる。参考になるだろう。

  (我が植ゑし庭の葉鶏頭((かまつか)))くれなゐのかそけく見えて未だ染めずも

 これも一・二句が三句の序詞になっている。「手紙の歌」の冒頭の一首で「明治四十年八月、岡麓氏予が請を容れて或事のために奔走せらる。しばらくしてその事の成就すべきよし報じこされたれば手紙を書くとて其はしに」という詞書がある。

  (食稲(けしね)つく臼の底ひに打つ藁の)なよ〱しもよこゝろともなく

 「九月にいりて消息なし。心もとなければ書きておくる」という詞書と長歌を挿んで、やはり「手紙の歌」が続く。序歌の構造も同じである。ただ事情は好転せず、詞書も「はじめ事もし成らば我が鬼怒川の鮭をおくらんと約しけるを、十月に入りて鮭の季節も末にならむとするに其事の空しからむとするを憂へて月の十九日手紙のかはりに書きておくりける」という展開になっている。滑稽趣味で取り上げた鮭の歌は、この詞書に続く、すぐの作品である。ちなみに掲出歌は十四首ある中で十一首目で終りからだと四首目ということになる。そして「手紙の歌」は全体として短歌十五首と長歌一首だから先の詞書はプロローグの意味を除けば「我が植ゑし」だけと拮抗している勘定である。
 ところで「手紙の歌」の相手であるが、年譜から引用すると「このころ旧下妻藩主井上子爵二女艶子との縁談が起り、岡麓に調査を依頼。以前にも幾度か結婚の話はあったが、とくに熱意を示し」云々とある。黒田てる子との婚約が成立するのは明治四十三年十二月「中旬、麓に茨城県結城郡飯沼村、秋葉三太夫二女きし子につき、結婚調査を依頼する」、明治四十四年「二月、前年末麓に依頼した縁談不調に終る」ということがあった「四月 (一説に秋とも)」ということになる。
 詞書は、これぐらいにして、あとは脱線して終わりたいと思う。

  まくらがの古河の桃の樹ふゝめるをいまだ見ねどもわれ恋ひにけり
  紅の下照り匂ふもゝの樹の立ちたる姿おもかげに見ゆ

 横瀬夜雨の弟子、若杉鳥子(当時十八歳)の写真に魅せられて詠んだ擬古二首。全集第六巻の巻末記によれば「明治四十三年六月、紅の大奉書に染筆して夜雨に贈った」とある。左千夫にも絵葉書の芸者三人の写真に添え書きした〈たちならふたかを栂の尾まぎのをやいつれまされる紅薬とか見む〉(書簡番号二六五)がある。こういうのを戯歌と呼ぶのだろう。もっとも若杉には〈まくらがの古河の白桃咲かん日を待たずて君はかくれたまへり〉という挽歌もあり、節の執心が伝達を予想したものであったことが窺える。
 また左千夫の急逝は大正二年七月である。節は「ホトトギス」に談話「知己の第一人」を発表し、「アララギ」に「記憶のまゝ」を執筆するが、残酷なほど冷静で、およそ追悼という印象からは遠いものだ。
 
冴えと品位 秋の歌人・長塚節覚書⑩ (初出「短歌人」平成4年4月号)   

 節は晚年(といっても三十代の若さであるが)、冴えと品位について語ることが多かった。しかし、それは断片的で体系として語られたものではない。作品の例示があるというわけでもない。ただ、茂吉によれば「神田の橋田病院に入院中、見舞に行つた私等に、『白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり』といふ一首の歌を示して、『今のアララギの諸君の歌とはだいぶ違ふが、僕の歌に対する考はこんなものだ』といふ意味のことを話された」(「アララギ二十五年史」、岩波書店『斎藤茂吉全集,第二十一巻)という逸話がある。私も中学の国語の時間に習った記憶を持つが半ば伝説化されたエピソードという印象が強い。
 節自身の言葉としては「竹の里歌選歌につき」(明治三十七年八月)の「人の顧みなかつた清楚なる趣味を捉へてやるといふのが僕の近頃意を注いで居る所なのだ」、「文明・茂吉・柿乃村人評」(大正二年一月)における「青竹をスカッと割ったな(ママ)心持は何処にも求められない」、「茂吉に与ふ」(大正二年四月)における「人間は誰でも時として清浄無垢の純潔境に住し得る事がある。さういふ時に無心にして出来たものには高潔で品位を保つたものがある。けれども僕は今一歩進んで其品位といふことを理解してもらひたいと思ふ。与謝野夫人の作の如きも皆この品位を欠いて居る俗才の産物だから少しも感服しない」等に萌芽と片鱗を見ることができるが大半は書簡が中心である。たとえば「スカリとした秋天の如き歌は一首もなき様に感ぜられ候」(明治四十一年十月二十五日、久保田俊彦宛)、「翠雲の師の田崎草雲には気品といふ大なる特長がありました」(大正二年十一月十一日、松山貫道宛)、「現在のアララギの多くの作品は、折角自然其物のいゝ処を攫へたやうで居ながら、妙に型に嵌つた自分の主観で捏ねかへして、どれも〱不透明な弊に堕して居るやうに見ます、アララギは今私には闇くて困ります、陰鬱な空の下に居るやうで、私のやうな絶えず頭脳を病んで居るものには苦しくてしやうがないのです、闇いといつたとて、掩ひかぶさつた嫩葉の陰ならば、そこに清新の気が充満して居て精神を爽快にしてくれます、私はアララギにはもつと明快な分子が交ることを切望します。自然といふものに感興を有して作つたものならば、そんなに晦渋な不透明なものばかりが出来る筈はないと思ひます、それは深刻でないかも知れないが、私はしみ〲蒼い空と明るい光とを欲して居ます」(大正三年五月二十二日、中村憲吉究)、「何よりもアララギにはすべてを通じて、澄んだとか冴えたとかいふ分子が殆んど発見されないことを遺憾とします」(大正三年九月七日、古泉幾太郎宛)、「アララギには澄んだとか冴えたとかいふ分子が見当らなくて困つて居ます」(大正三年九月七日、平福百穂宛)、「凡ての芸術は『冴え』があつて活きる、短歌の雑誌を見る毎に此の『冴え』のある作品を発見してさうして十分の尊敬を以て之に対したいと念じてゐる、これは決して小さな問題ではない」(大正三年九月×日、斎藤茂吉苑)、「小生は一寸『冴え』といふことを申おくり候へども、彼の人達には却て反感を起しはせずやと存ぜられ候 斎藤君など北原白秋氏の歌を非常に賛嘆致居候へども、小生には北原氏の作を歌として許すには、余りに不備の点がおほくて困り申候、此辺小生の合はぬ処に有之候」(大正三年十月十日、平福百穂苑)、「要するに品位といふことのわからぬ人には、芸術家たるの資格は十分ではないのです」(大正三年十月十六日、槇豊作宛)等を拾うことができる。そしてこのように並べて思い出すのは、左千夫との関係を語った「知己の第一人」の次のような一節である。

   お互に頑固なところもあらうし、偏狭な所もあらうし、余りに多くの人に求めて交際をしな  い所も似てゐるのでせう。学問知識の無い所も同様であらう。だからお互に知識の上からで無く、実際の上から、自分に何かを受入れようといふ態度から自然にさうなるのであらう。さう  いふ点も一致してゐたでせう。自分の事であるから、どうも好くは分からないけれども、さう  いふ点もお互の間を固く結び付けて置いた一の原因だらうと思ひます。

 また「伊藤君と合つたのはお互に固陋な処があつたからだらうと思ふのですが」(大正二年十月二十日、平福百穂宛)云々という書簡もあった。そういう意味では実に面目躍如という観もするわけである。田中順二は「長塚節晩年の歌風」(前掲『アララギ歌風の研究』所収)の中で、こうした歌界のみならずアララギの後輩歌人への不満の由ってくるところ、すなわち孤立化の理由を考察して「地域的な点」「生得的に性格が冷静であった点」「教養の点」「短詩型文学に対する独自の確信があったという点」の四つに求めている。一は「病気治療の外はほとんど郷里を離れず、旅をしばしば試みてはいても大方辺鄙な地方に限られており、従って他の多くの文学者のように中央の空気に触れる機会はすくなかったであろう」ということ、三は「節はいつからか東洋芸術に親しむことが多く、 (略)、旅中しばしば社寺に残る梵鐘や絵画や彫刻などを丹念に見て廻ったりしていて」そんな「節一流の教養による文学観が他の同人たちと異っていたからだろう」ということ、四は「紀記歌謡・万葉集をはじめ催馬楽などから芭蕉の俳諧などについて深い愛情と理解とを持っていたというから、作歌に当ってひそかな自信があって、容易に他に譲ることを肯んじなかったのであろう」ということ、二は省略するが、親切な整理の仕方ということが言えよう。冴えや品位の中身については「鍼の如く」を探るほかないが、もう少し周辺に手を広げると「小生に対して先生の敬称は向後は御辞退申止度、先生などと申され候ては、小生汗の出る程恐縮仕り候、以前も申上候かと存候へども、小生は十八の時に廃学、それも脳病故にて候へば、書籍によつて知識を摂取することは絶対に不可能に相成、したがつて世に文筆の士にして、小生程の無学は嘗て有之間敷と存申候」(明治四十五年二月二十一日、門間春雄宛)、「才気のみの産物がどれだけつまらぬかを今更のやうに感じた」(明治四十五年四月八日、伊藤左千夫宛)、「蕪村などでも誰々の筆意に倣ふなとゞいふのが見えますが私は筆意だの筆力だのといふことがどういふものかと思ふのです、あの優秀な仏像だの仏画などに成ると刀法だとか筆意だとかいふものを先に立てゝ居るのではなくて精神の傾注されて居る処はもつと大切な処に在ると思ふのです」(大正元年八月十五日、夏目漱石宛)、「衆愚の前に威張つて見せる様なものは私は嫌ひです、どんな小さなものでも誠意のあるものを見たいと思ひます」(大正二年十月三十日、平福百穂宛)、「近頃私は農産物などを見るのが好きになりました、何でも真実でなければ興を惹きません」(大正二年十一月五日、松山貫道苑)、「私は東京の文士詩人等にちつとも知合がありません、求めないからでもあるでせうが、不器用なんですね」(大正三年七月七日、久保田俊彦宛)、「どうか大家に成らないで下さい、実質が最後の勝利を占めるのです」(大正三年九月七日、平福百穂宛)、「私のやうな無学な人間にはお弟子などいふものは一人もありません」(大正三年十月十七日、中岫つや子宛) などもあり、多分に精神論ないし態度の問題と切り離しては考えにくいということがわかる。
 そして写生と詞書を節の隠されたキーワーワードとすれば、脳神経衰弱という病歴も、いくらかは冴えや品位の主唱に影を落としているのではないかというのが私の妄想である。
 
鍼の如く 秋の歌人・長塚節覚書⑪ (初出「短歌人」平成4年5月号)   

 冴えと品位の続きを書く。
 清水房雄の『鑑賞 長塚節の秀歌』の内容については以前にも触れたとおり、参考にはなるが、不満も多い。冴えと品位についても同様である。秋海棠画讃の一首にしても「『白埴の瓶』『霧』『朝』『つめたき水』と、一筋に透った感じの素材が、よく調和を保って詠み込まれ、白・涼・冷・静の印象で統一されている」と書くのはわかる。また節が書簡の中で述べている「水のやうな歌」でないという指摘にも異存はない。しかし「これでもかこれでもかという、言わば白塗り満艦飾の歌」という評には身構えざるを得ないし、まして「節の『冴え』『気品』の主唱は、新しい価値体系の生産ではなくして、一つの規範、既成美への帰一・合一を意味しよう。それは開ける未来へ顏を向けた理念ではない。だから、未来へ顔を向けっ放しの新風に対するアンチテーゼたり得ていた」というふうに総括されてしまうと長塚節否定論に付き合わされたという思いがするのは当然であろう。これはほんの一例である。たとえば「鍼の如く」二百三十一首の中に結句が「ーにけり」止めの歌が三十六首ある点を捉えて、大戸三千枝も「『けり』で結ばれている歌が五十三首あって、このうち三十五例は『にけり』である」(前掲)と書いている(ちなみに私の数えたところでは「にけり」が三十七首、「けり」が十六首で計五十三首だった)、

   大戸説では、この「ーけり」乃至「ーにけり」止めにつき、四・四首に一首の割に回想また  は詠嘆の助動詞「けり」の用いられていることは、詠嘆すなわち哀韻がこの大作の基調になっ  ていると見られよう、と肯定的に受け止めているが、私は受止め方のニュアンスが異なって、  いずれかと言えば否定的である。つまり、句法上の一種のマンネリズムと見るのである。

ということであるから望むべくもないと言えば、そうかもわからない。もう一つの大きな分岐点は清水房雄がアララギの先達を介してでなければ長塚節を読めないのに対して、私の方は、そうした進歩史観ないし進歩主義に支えられた短歌史観から自由な立場をキープしているということがある。
 作歌時期に中断はあるが「鍼の如く」のプロローグないし序歌に相当すると思われる「喉頭結核といふ…….」と「病中雑詠」にも触れておく必要があろう。

  喉頭結核といふ恐しき病ひにかゝりしに知らでありければ心にも止めざりしを打ち捨ておかば  余命は僅かに一年を保つに過ぎざるべしといへばさすがに心はいたくうち騒がれて

 右の詞書で始まる一連十二首、それに「病中雑詠」は五十一首、補遺二首を含めると五十三首から成る。この辺の事情を年譜から拾えば明治四十四年、三十三歳「四月(一説に秋とも)、父の政友松山貫道の斡旋で結城郡山川村山王(現結城市)の医師黒田貞三郎長女てる子(二十二歳)と婚約成立。てる子の女子大卒業をまって結婚と決る」「八月ごろから咽喉の痛みが感じられ、十月には咳がはげしくなる」「十一月十六日上京、二十二日、麓の知人木村医学士の診察の結果咽喉結核と診断される」「十二月五日、下谷中根岸の根岸養生院に入院。八日に第一回の手術をする」「発病のため黒田てる子との婚約解消を申し入れる。二十四日、隣室の患者とその知人柳沢健と小公子の芝居を見に行く。外出中てる子来訪、寝巻を見舞に贈られる」、明治四十五年、三十四歳。二月に「我が病」(「喉頭結核といふ……)を「アララギ」に発表。四月に「病中雑詠」を「アララギ」に発表。六月、多少の推敲と増補を加えて「いはらき」新聞に「病中雑詠」を再録、といったぐあいである。むろん、これらは節一流の詞書によって推察できるし、その懊悩が、作品に美しく結晶していることは言うまでもない。「小生は今三十四年にして、つく〲婦人に運なき生涯を嘆じ申候/櫟の林は夏来らざれば悲しき枯葉をふり落さず、春はくぬぎの林と交渉を有せず、然しながら夏は長くして且つ秋は爽かに候 小生の生涯に於て春は即ち櫟の林の如く、しかも直ちに冬に接したるが如く覚えられ申候 されどこれを解するもの小生の外はあるまじく、櫟を愛するもの亦小生以外に存せざるべく感ぜられ申候」というのは明治四十五年一月二十日、平福百穂に宛てた書簡の一節である。

  我を思ふ母をおもへばいづべにかはぐゝもるべき人さへ思ほゆ
  おもかげに母おもひ見れば人遂に母たりなむと思ひ悲しも

 「病中雑詠」から。愛する女性と母親を同時に歌った珍しい構造の作品である。「我を思ふ」の歌、市村与生は『長塚節の短歌』(創林社)の中で「はぐゝもるべき人」を「やがていつかは自分を大切にしてくれる人すなわち彼の人である」という解釈をしているが、そうだろうか。そうともとれるが、私には母親となった黒田てる子を想像しているように思えてならない。〈鬼怒川の篠に交れる鴨跖草((つゆくさ))は刈る人なしに老ゆといはずやも〉の反対のケースである。この作品の後に並ぶ〈我病めば母は嘆きぬ我が母のなげきは人にありこすなゆめ〉から「おもかげに」の歌への連続性を考えると、そうなる。そしてこのほかにも母の歌は散見するが、そうした母の歌を読んでいると「隣室の客」のモデル実在説に加担したくなるから不思議である。
 ここで「鍼の如く」という命名の由来に触れておくと、「白瓜と青瓜」の中に「すると恰も上手な鍼医(はりい)が銀の鍼を打つやうに耳の底に侵み透る馬追虫の声が、庄次の這入つてゐる蚊帳に止まつて鳴きました」(明治四十五年一月「女学世界」)という件がある。また「其の一」と同号の「アララギ」に掲載された談話筆記「斎藤君と古泉君」では「鉄槌を以てすれば人の頭骨を砕く事が容易である。それは恐しいに相違ない。併し糸の如き銀の鍼を以てしても人の生命を断つことが出来る。要するに核心に触れゝばいゝのである。夫れは自己の真実から根ざしたものでなければならぬ」(大正三年六月)と語っている。思うに(他の用例は省略するが)白銀のイメージは潜在する意識の顕在化であり、ネーミングも節が希求した冴えや品位を託すに相応しいものであったことが想像される。
 その「鍼の如く」二百三十一首が、万葉集の東歌二百三十一首(実際は二百三十首)と一致するのは、そこに節の東人としての出自の意識が働いているからだとする清水説については、先にも紹介したが、これについて少し考えてみよう。節は「鍼の如く」について「三年以来中絶の歌は復活といふよりも、新生涯に入つたやうな気がします」(大正三年七月十六日)と橋詰孝一郎に書き送る一方で「私の歌はもう麦湯程の味もなく成りました」(同年七月二十三日、久保田俊彦苑)、「私の歌はせめて三分の一位に削ればいゝのですが、さうも成らずに居ます、まづくても一転化を示して居るのですから、此際つづけて行きたいと思つて居ます」(同年七月二十四日、中村憲吉宛)、「『鍼の如く』のやり方は間違つて居るので、私はいま後悔して居ます、濫作したからなのです」(同年九月二十二日、門間春雄宛)と反省を繰返している。それでも出詠に踏み切ったのには茂吉の要請もあっただろうが、いつからとはわからないけれども、数合わせの意識があったのではないかという疑問は「其の五」の四のように時間的に後戻りした作品を見ると頷けないこともない。そしてこの符合を誰もが言っていないのであれば清水戻雄の慧眼であり、大きな手柄だと思うのである。
 
煙霞の癖 秋の歌人・長塚節覚書⑫   (初出「短歌人」平成4年6月号)   

 節は生涯にわたって旅行好きであった。初めの頃は体を鍛えるのが目的の徒歩旅行が主であったが、次第に古美術品の鑑賞が趣味として加わり、やがて病気治療のための九州行もあって、その規模がエスカレートしていく様子には憑かれたようなところがある。いったい、どれぐらいの距離を旅したのか。行程を地図に落としてみたくなるのであるが、それも叶わないので、家を一週間程度以上空けていた期間を年譜と書簡それに作品を交えて再生すると次のようになる。
 明治二十八年、十七歳「八月、健康すぐれず塩原温泉に保養する」。明治二十九年、十八歳「夏、再度塩原温泉に行き療養のため二か月間滞在。(略)。秋、水戸、大子町を経て那須野を横断し塩原まで徒歩旅行を試み、二週間滞在」。明治三十年、十九歳「七月より上毛草津温泉に十一週滞在」。明治三十一年、二十歳「六月、京橋区築地の山田病院(略)に入院、年末に及ぶ」。明治三十二年、二十一歳「入院療養の経過良くなく、(略)神田錦町の橋田病院に移る。快方に向い、五、六月ごろ帰郷」。明治三十六年、二十五歳。七月「下旬近畿を中心とした長途の旅に出」て、八月「十九日、東京に着く」。明治三十七年、二十六歳「西下の予定でいたが、耳を痛めて翌年に延期」。明治三十八年、二十七歳。五月「二十二日家郷を発ち、東京から海路房州へ行き」、六月九日帰宅。「八月十八日『羈旅雑詠』の旅に出立」、信州から京都、明石、伊勢を経て十月十三日に帰宅。明治三十九年、二十八歳「六月二十八日、静業をかねて常陸平潟の港に行き三週間滞在。(略)、七月十九日帰宅」「八月二十四日、奥羽、佐渡の旅に出」て十月一日に帰宅。明治四十年、二十九歳。四月「下旬愛知に依田秋圃を訪問、三十日帰郷」。六月七日、長野へ。十四日帰宅。明治四十一年、三十歳。四月八日上京、京都から吉野と奈良を見物して三十日に帰宅。八月二十日、こんどは榛名山に登り、九月十五日帰宅。「小生煙霞の癖愈つのり候て何時やむベしとも相わかり不申候」(自宅より十二月十一日、渡辺源五郎宛)。明治四十二年、三十一歳。十月一日水戸発、東北を旅行し、二十一日帰宅。明治四十三年、三十二歳。痔の治療、「土」執筆。十二月十五日、美濃大垣訪問、京都から奈良を回って二十五、六日ごろ帰宅。明治四十四年、三十三歳。十二月五日、根岸養生院に入院、越年。「若し万一にも手術の効果顕はれて、一時なりとも小康を得ば、世事を放擲して再び遊子の身となり申度」(十二月七日、門間春雄宛)。明治四十五年・大正元年、三十四歳。二月二十日、小康を得て退院。下谷区上車坂那須館に止宿。三月七日帰郷。十六日上京、十九日東京発、「京は寒い上に冬枯のまゝで柳が少し黄色に成り掛けたばかりだから淋しいけれど古美術品を頭の痛くなる程見られるのが、何時でも涙の出るほど嬉しく感ぜられるのです」(二十四日、水戸市いはらき新聞社某苑)、二十六日京都医科大学附属病院入院、四月二十日京都発、「狂人の歴史には定めし同情すべきことか有之と存ぜられ候」(周防岩国より二十一日、寺田憲宛)、二十二日博多。「福岡の九州大学附属病院で久保猪之吉博士の診療をうけ」た後、各地を旅行、「到頭こんな処まで来て見ました」(対馬厳原より六月二十五日、中艸友彦宛)、七月十三日、中津。

  ほのかなる㎏だった。㎏だった。夾竹桃のたそがれに白粥をしぬ我は疲れたり(未発表)

 「瀬戸内海は綺麗な場所である、さうしてこの碧の静かな海の中に、平家が沈んだといふのは、悲愴の極であるが、又何といふいゝ調和であるだらう」(屋島より八月九日、斎藤茂吉苑)、「僕は此で旅行の絵葉書を四百枚も書くことになる」(京都より八月二十九日、伊藤左千夫宛)、九月二十六日帰宅、 十一月六日上京、那須館に泊り、十二月に入って帰宅。大正二年、三十五歳「三月十四日、東京を発って西下」、十九日に博多着。このあと宮島、神戸、京都、奈良を経て山陰旅行。四月二十日京都、二十四日に東京、父の大患により、月末帰宅。十二月二十六日、神田の金沢病院に入院、越年。大正三年、三十六歳。一月二十三日、母病気のため退院、翌日帰郷。三月十三日、上京、十四日神田錦町の橋田医院に入院する。五月二十九日退院、三十日雨の中を(生前最後の)帰郷。六月五日、上京。七日東京発、十日博多着。二十日入院。八月十四日退院。十六日に福岡を発ち人吉温泉。

  手を当てゝ心もとなき腋草に冷たき汗はにじみ居にけり(「鍼の如く 其の五)

 十八日、乗合馬車に揺られて宮崎へ。

  霧島は馬の蹄にたてゝゆく埃のなかに遠ぞきにけり(「鍼の如く 其の五」)

 「宮崎(折生迫)では肺患らしいと宿変えを請求され、しばしば時化にあう」

  とこしへに慰る人もあらなくに枕に潮のをらぶ夜は憂し(「鍼の如く 其の五」)

 「日向は私のために幸福な処ではありませんでした」(油津港より九月三日、門間春雄宛)、その後、別府・小倉を経て帰着。「何だか博多で越年することになるかも知れません、心細いやうにもあります」(福岡より十二月六日、平福百穂苑)。
 ここで疑問に思うことが二つある。一つは放擲した世事の問題であり、今一つは旅行資金の出所である。まず一つ目を言うと、若くして借財整理に奔走した節は炭焼きを試みたり、竹林栽培を行なうなど懸命であった。それどころか「小生は今年から百姓の仲間入致申候 口の先でばかり仕事する百姓故、なか〱骨折申候」(明治四十四年八月二十四日、依田秋圃苑)、旅先からも「農作物の模様など御通知被下度願上候」(明治四十五年五月十日、長塚源次郎宛)と熱心であり、「僕は数年前から梅を四段歩程植ゑて置く、これは其収入だけを一家の経済とは別にしておいて、それで村の貧乏な小作人のために色々な有利な方法に消費したいと思つて居る、僕は性質が狷介で直言を好むから、自然忌まれる様に成る、陽に従つても陰には逆ふやうな傾がないともいはれまいと思ふ、だから僕には其緩和剤が必要である」「僕は父母と共に長く生きてそして一村がもつと幸福を享受しうる様にしてやらなければ成らぬ」(大正二年六月十三日、伊藤左千夫宛)という言葉は遠く子規の「君ニハ大責任ガアル、ソレハ君ハ自ラ率先シテ君ノ村ヲ開カネバナラヌ」「一家ノ私事ダケデモ忙シイトイフヤウナ能(ノウ)無シデハ役ニ立タヌ 其傍デ一村ノ経営位ニハ任ジナクテハ行カヌ」(明治三十五年八 月十九日、『子規全集』第十九巻)という遺訓に呼応するものだろう。今一つの旅行資金の問題であるが明治四十五年の九州行では岐阜の知人に百円を借金し、「此で大に羽翼が延びる次第であります、/病人としては国許へは一寸相談の出来ぬ計画が成就されることゝ思ひます」(五月二十五日、塩谷宇平)と書き送っている。また旅費その他であろうが小布施家の婿養子となった弟順次郎の金策や絵画の譲渡に絡んでの親友寺田憲の好意のあったことも書簡から窺える。こうなると「身を落つけるところなくこんな南の方まで来ました」(大正三年九月三日、平福百穂宛)という傷心を考慮しても「久しき前明治廿九年には些細のことに出県して、弄花に時を費し今目前に斃るべき祖父のあるを知りつゝ荏苒として死去の報の至るまで帰るの心もなかりし程の人なれば」(大正二年十月二十日、奥田廩之助・とし子宛)という父源次郎のライフスタイルと大して変わらない。そこに節が生きた深い亀裂を覗くような思いがするのである。
 大正四年、三十七歳。一月四日入院。二月八日死去。死の直前に撮影された写真が残っているが、作品の方は前年の十二月二十三日夜、手負いの鹿を歌った、

  夜もすがら鹿はどよめて朝霧にたふとく白く立ちにけるかも(未発表)

ほか三音が絶詠である。
 
 あとがき
 
 初めて文章らしきものを意識して書いたのは高校時代である。昭和四十四年(一九六九年)、大学紛争の余波もあったろう、友人に誘われて創設に参加した思潮研究会の機関誌「ゆうとぴあ」の三号に書いた「受験教育について思う」が、それである。
 こんな文章だった。

   受験戦争によって本来の高校教育が歪められていると叫ばれだしてすでに久しい。
   「灰色の青春」「無気力」「個性の画一化」等のことばは私たちのよく耳にするところであるし、事実、現代の高校生がその現実に不満を感じながらも、ひたすら大学を目指して(あたかもここに真の生活があるかのように)、きわめて一面的な学習を余儀なくされている事も否定できない。そしてこうした近視眼的教育とも言うべき現代教育、あるいはまたその背景である現代社会が大きくその変貌を迫られているとき、私たちもまた一人の高校生としてあるいはそれ以前に一人の人間として現実とその矛盾を直視し自覚しなければいけない事もまた自明の理である。しかし、考えてみるにこの「直視する」あるいは「自覚する」という言葉ほど最も乱用されかつ最も「自覚」されていない言葉はないのではないだろうか。否、むしろ安易な「自覚」によって他を欺きまた自己をも欺いている場合が数多くあるのではないだろうか。その意味においても本校生が昨年遭遇した二つの事件(共に一部関係者を除いては殆どの人々から忘れられつつ、あるいは省みられなくなりつつあるように思われるが)について考えてみる事が必要であると思う。その一つは本来ならばすでに卒業した筈である一受験生の自殺であり、一つは今もって行方の知れない家出である。前者において新聞はその原因を受験ノイローゼと報じた。後者もまたその失踪と学習の問題が無関係であるとは聞いていない。これらは確かに有名大学への入学率によって高校の格付けがされる現代教育の犠牲なのかも知れない。あるいは逃避せざるを得なかった彼らの弱さに責めを負わせるべきかも知れない。しかし私たちにはたしてこうした一連の不幸な事件をただ社会に、あるいは個人の意志の弱さに責めを負わすべき事が許されるのであろうか。たしかにそれらも一つの大きな原因であったかも知れない。しかしそれ以上に本質的なしかも私たちが真剣に考えなければいけない問題はむしろこうした一連の原因を単に受験教育の犠牲としてしかとらえようとしない一面的な姿勢にあるのではないだろうか。問題は現代高校生のオアシスであるべきホームルームにおいて彼らを救う事が出来なかった。彼らを生み出すような土壌をクラスにあるいは学校においてつくりあげていたという事ではないか。ただこれらの事件を受験教育の敗北としてのみ捉える事は決して真の自覚の結果であると言う事が出来ない。それを受験教育の敗北であると共に伊丹高校を構成している一人一人の敗北であると捉えることによってのみ初めて問題解決の糸口も生まれてくるのではないだろうか。あるいはこうした特異な事件に限らずともさまざまな所に私たち自身の安易な自覚が改められなければいけない問題がひそんでいると思う。受験教育そのものについてもそれらを責める一人一人の心の中に「一流大学」「二流大学」という最も卑しむべき観念がきずかれている場合がままあるのではないか。あるいはそれらを責める一人一人の心の中に大学を単に「よりよき就職へのワンステップ」としてしか考えない風潮を許している向きはないであろうか。一般的に言うならば受験生が常に被害者であり社会が常に加害者であるというマスコミ等によって築かれた公式を先ず、少なくとも私たち自身が被害者であるという立場を清算するべきではないだろうか。なぜなら私たちもまた社会を学校を構成している一人である事によって加害者であるから、真に悩める友を救う事の出来ない「孤独地獄」をつくりあげていた千数百分の一として加害者なのであるから。そしてこの私たち自身が被害者でありまた加害者である。つまり私たち自身の内において現実への変革力を内包しているという事実を発見する事によってはじめて本当の自覚が生まれてくるのではないだろうか。その結果である行為がいかなる形をとるかは別として今私たちには自己の主体性に基づき、かつ自己自身の頭の中で自己自身の目で何が真実で何が偽りで何をごまかされているのか、現実を直視する勇気を過渡期に生きる若者として迫られていると思う。

 本書には主として所属する「短歌人」に書き継いできた文章の中から十三篇を自選してⅠ部として構成するとともに、昨年から同誌に連載していた「秋の歌人・長塚節」を独立させてⅡ部とした。私にとって初めての評論集である。「解説の時代」にも書いているが、私は歌集に後記や解説の類は必要でないと考え、また実践している一人である。そういう意味では、これが私の歌集後記というということになるのかもわからない。文章は、一冊として収録するに際し、補筆し、改題したケースもある。初出発表覚書のとおりである。
 さいごになったがホームグラウンドである「短歌人」の仲間に感謝したい。とりわけ高瀬一誌氏からは執筆のつど資料を拝借することが多かった。また「白珠」の代表で大阪樟蔭女子大学助教授の安田純生氏には数数の御配慮を賜り、かつ貴重なアドバイスを頂戴した。ありがたく厚くお礼申し上げる次第である。
  一九九二年七月一
                                     吉岡生夫


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