あっ、螢 歌と水辺の風景

吉岡生夫エッセイ集。2006年9月28日、六花書林発行。四六判並製カバー装 184頁 定価2200円+税 装幀・真田幸治。

目次
Ⅰ あっ、螢(螢田飛んだ和泉式部源氏物語観察日誌近世(一)近世(二)大愚良寛落首と狂歌親螢子螢橄欖の花北原白秋斎藤茂吉窪田空穂寺山修司辰巳泰子前登志夫螢籠太平洋戦争日本国語大辞典農薬以前現代螢事情光る石Never once more
Ⅱ 講演(狂歌で楽しむ近世の川)

螢を追って、
上代から近世、近代、そして現代。
軽やかに東へ西へ。
ここにフィールドワークの結実、待望の螢の短歌コレクション

六花書林
螢田(初出、「短歌人」平成15年1月号)

 岩田正の歌集『レクエルド』に、こんな歌がある。レクエルドはアルゼンチンタンゴの名曲で「想ひ出」(副題)と訳すらしいが、先の『郷心譜』にも通うイメージがある。

  数へあぐれば螢田(ほたるだ)・富水(とみづ)などとよき駅名多しわが小田急線
  富水と書きて富水(とみづ)と呼ぶ駅をすぎて螢田よき名つづけり
  懐かしむのみの世か水多かりし富水(とみづ)をちこち水涸れしあと

 「鈍行ー小田急篇」一連十二首。ほかに、こんな歌もある。

  鈍行はのる間の長し読み眠りあらぬ空想なども時にす
  急行にはたも抜かるる各停に坐してぬかるる快を味はふ
  急行に急行の歌のる人も違(たが)へば鈍行に鈍行の歌

 鈍行から急行の時代へと変わり、豊かな水は涸れ、そこに棲息していた螢も見られなくなった。今に残るのは美しかった時代を彷彿とさせる「螢田」「富水」という駅名にすぎない、ということになるのだろうか。懐かしんでいるのは、むろん螢の飛びかう美しい自然ということになるが、それとセットで思い出されるものに「わらべ唄」がある。これには作者も異存はないだろう。
  ホー ホー 螢こい
  あっちの水は 苦(にーが)いぞ
  こっちの水は甘(あーま)いぞ

 このあと「ホー/ホー/螢こい/山路(やまみち)/こい/行燈(あんど)の光で/又こいこい」と続くらしいが、こちらの記憶はない。それもそのはずで「わらべ唄」は地方によって相当なバリエーションがあるらしい。ちなみに引用しているのは秋田県の「螢こい」で最も標準型にちかいにしい(浅野建二著『わらべ唄風土記・下』)。では私の生まれた徳島では何と唄われていたのか。あった。相馬大著『わらべうたーー子どもの遊びと文化』によると、こうある。
「ほたろ来い/団子しょ/団子にも呼ばんぞ/たいこ飯(めし)の盛りきり/鰯の頭のねじきり/ 今夜も来い/明日(あいた)も来い/明日の晩には/蓑(みの)着て笠着て/行燈(あんど)の光(あかり)でしゃごんで来い」。まったく記憶にない。大阪ではどうか。『わらべ唄風土記・下』は「あっちの水は」の前に螢を誘うフレーズを導入する例として「ほ、ほ、蛍こい…….甘茶を入れて、おせんですって、のまそのまそ、一寸来い、二寸来い、三度目にゃ取ってやろ」(大阪)、このあと「あっちの水は/苦いぞ」となるらしいが、こちらも記憶にない。おそらく私の生まれた頃には標準型の浸透が一層押し進められていたのだろう。実は、もう一つ思い出されるものに唱歌の「あおげば尊し」と「蛍の光」がある。前者は三番の歌詞に「朝ゆう/なれにし/まなびの窓/ほたるのともし火/つむ白雪/わするる/まぞなき/ゆくとし月/今こそ/わかれめ/いざさらば」、後者は一番の歌詞に「ほたるのひかり/まどのゆき/書(ふみ)よむつき日/かさねつつ/いつしか年(とし)も/すぎのとを/あけてぞ/けさは/わかれゆく」とある。中国の故事に由来する歌詞であり、かつての卒業式では定番の曲であったが、こちらは随分と様変わりしているらしい。
 駅名にもどるが私の住む阪急沿線に蛍池駅がある。大阪モノレールが乗り入れていて同名の蛍池駅で乗り換えると大阪国際空港へは一駅と近い。地名にも蛍池北町・蛍池中町・蛍池西町・蛍池東町・蛍池南町があり、もしかすると蛍池と呼ばれる池がある。あるいはあったのかもわからない。ただ大阪国際空港がその池の跡だったりするとおもしろい。ターミナルビル四階の展望デッキに上ると何時でも大きな螢を観察することができるからである。
 こんどは地名にこだわってみたい。全国的な分布はどうなのか。
 熊本県新和町に螢目がある。
 福岡県久留米市に螢川町がある。
 滋賀県大津市に螢谷がある。
 愛知県大府市に螢ヶ脇がある。
 東京都台東区に螢坂がある。
 福島県新地町に螢田がある。
 新潟県吉川町に螢場がある。
 青森市に螢沢がある。ほか浪岡町・平賀町・中里町にも螢沢があり、青森市には螢谷もあって珍しく螢の乱舞する地域である。
 図書館で地名事典の類を調べたのであるが意外と少ない。目論見としては書き写せないほどの地名を螢の初見日よろしく南から北へ列挙する。目を瞑ると光の移動がありありと見えてくる。そんな趣向を楽しみたかったのである。もともと少なかったというよりは地名の螢も激減していると考えたい。
 たとえば螢狩・螢会・螢合戦・螢戦・螢舟・蛍見といった言葉が国語辞典ではなく日常的な世界で生きていた頃を思ってみる。また「わらべ唄」の「あっちの水は」式のバリエーションがバリエーションとして存在していた時代を思ってみる。あるいは螢が「兼次郎 (兼四郎)さん」(三重)・「兼吉(亀吉)つァん」「太郎吉」(京都)・「常念坊」(愛媛)・「太郎虫」(徳島)と擬人化されて呼ばれていた時代の地方を思うとき、ありふれた呼称として螢沢や螢谷が全国に散在していたとしてもおかしくはない。
 それが一つ一つ、しかも雪崩を打つように私たちの周囲から消えていった。原因は、いろいろとあるだろう。市町村の合併による消失、あるいは住居表示の実施、いずれにせよ標準化や都市化を加速する鈍行から急行への変化には著しいものがある。
 岩田正歌うところの「螢田」や「富水」も小田原線の駅名である。市域としては小田原市であるが地名としての「螢田」や「富水」は見あたらない。したがって想像の範囲であるが螢の多い「螢田」や水の豊かな「富水」も、かつては存在したに違いない。駅名として残るのは沿線に住む人たちの「レクエルド(想ひ出)」なのだ。
 岩田正の『レクエルド』は、小田原というローカルな「レクエルド」を日本人の「レクエルド」として歌い上げ、かつ鈍行と急行という対比の中で「人生とは何か」「豊かさとは何か」について語っているように見える。それでいて楽しい一連でもあった。
 さいごに私は私の「レクエルド」を螢田に捧げたいと思う。それは初めて小田原線の乗客となったときのことである。目的は伊勢原市、太田道灌の遺蹟を訪ねての旅だった。足柄駅。金太郎の駅だと感心しつつ窓の風景に見入っていた。螢田のアナウンスが流れたのは程なくだった。停車。ドアが開く。

  螢田てふ駅に降りたち一分の間(かん)にみたざる虹にあひたり    小中英之『翼鏡』

 乗降客はいない。これを幽体離脱というのだろうか。もう一人の私がホームに出る。小中さんはいない。虹も見えない。ドアが閉まる。再び、ゆっくりと時間が動きだした。
 
飛んだ(初出、「短歌人」平成15年5月号) 

 漢字が日本に伝来したのはいつなのか。『古事記』(小学館『日本古典文学全集』第一巻) によると応神天皇のとき、

 百済国に科(おほ)せ賜はく「若(さか)し賢(さか)しき人有らば貢上(たてまつれ)れ」とおほせたまひき。故(かれ)、命(みこと)を受け て貢上れる人の名は和邇吉師(わにきし)。即ち論語十巻(とをまき)、千字文一巻(せんじもんひとまき)、併せて十一巻(とをまりひとまき)を是(こ)の人に 付けて即ち貢進(たてまつ)りき。

とある。四世紀後半ということになるのであろうか。しかし一七八四年に発見された金印すなわち倭奴国王印(わのなのこくおうのいん)は五十七年である。そこのあたり平凡社の『国民百科事典』は考古学的には紀元一世紀頃、「歴史学的には、漢字の組織的伝来は五~六世紀と考えられている」と説明する。なるほど、そういうことなのだ。
 むろん、それ以前から日本にも螢が棲息していたことを疑うものではない。しかし同時代の人たちによって共有された螢も文字なしでは私たちには届かない。その意味において漢字が伝来して螢も孵化したことになる。その幼虫時代を見てみよう。
 宇治谷孟(うじたにつとむ)の『日本書記(上) 全現代語訳』(講談社学術文庫)巻第二神代下の葦原中国の平定のくだりである。その国には、

 蛍火のように輝く神や、蠅のように騒がしい良くない神がいる。また草木もみなよく物 をいう。そこで高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は、多くの神々を集められ、尋ねて、「私は葦原中国(あしはらなかつくに)の良  くない者を平定しようと思うが、それには誰を遣(つか)わしたらよいだろう。もろもろの神た ちよ、包まず何でも言ってくれ」と仰せられた。

 否定されるべき不吉な神の比喩として登場する。しかも蠅とセットになっているところなど意外というか現代の私たちからするとそぐわない印象が残る。
 『懐風藻』(岩波書店『日本古典文学大系』第六十九巻)を開くと丹墀真人広成(たぢひめまひとひろなり)という人の 「五言、懐(こころ)を述ぶ。一首」がある。

 少(わか)くして蛍雪の、志(こころばへ)無く、長(ひととなり)ても錦綺(きんき)の工(たくみ)無し。適(たまさか)に文酒(ぶんしゆ)の会(つどひ)に逢ひ、終(つひ)に恧(は) づ不才の風(ふり)。

 頭註によると「錦綺の工無し」は「美しい詩文を作る巧みな文才もない」。「適に」以下は「文酒は詩文を作り酒を飲むこと。たまたま詩酒の会に逢って、はてはその才能のない わが身(風は有様)を恥じいるばかりである」ということらしい。なんだか自分のことのような気にもなるが、この人「従三位中納言」とあるから今で言えば霞ヶ関のキャリア組しかも偉い人なのだ、きっと。
 次に『万葉集』(小学館『日本古典文学全集』第四巻)から引用する。巻第十三、三三四四の長歌と三三四五の反歌である。

  この月は 君来まさむと 大舟の 思ひ頼みて いつしかと 我(わ)が待ち居れば もみ  ち葉の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(たまづさ)の 使ひの言へば 螢なす ほのかに聞きて 大地(おおつち)を   炎と踏みて 立ちて居て 行くへも知らず 朝霧の 思ひ迷(まと)ひて 丈(つゑ)足らず 八尺  の嘆き 嘆けども 験(しるし)をなみと いづくにか 君がまさむと 天雲(あまくも)の 行きのまに  まに 射ゆ鹿(しし)の 行きも死なむと 思へども 道の知らねば ひとり居て 君に恋ふ  るに 音(ね)のみし泣かゆ
   反歌

  葦辺(あしへ)行く雁(かり)の翼を見るごとに君が帯(お)ばしし投矢(なぐや)し思ほゆ

 「螢なす」は「ほのか」の枕詞。万葉集四千五百余首の中にあって、たったこれだけというのは、やはり意外であるし、残念というほかない。この時代、螢は歌われなかったのだろうか。

  草ふかくあれたる宿のともしびの風にきえぬは螢なりけり

 右の歌は『和漢朗詠集』(岩波書店『日本古典文学大系』第七十三巻)で読むことができるが、その岩波書店版の頭註によると「諸本、作者を『赤人』としている」らしい。ところが『赤人集』(角川書店『新編国歌大観』第三巻)のどこを見ても出てこない。螢は歌われたかも知れないし、歌われなかったかも知れない。ただ記録として残っていない。それだけのことなのだ。そのように私は私自身を慰めるのである。
 いよいよ成虫への変化も近いが、その前に寄道を二つほどしておきたい。平安時代初期に成立しただろうと言われる『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』(吉川弘文館『新訂増補國史体系』第七巻)、別称「旧事本紀」「旧事紀」の「天神本紀」に「夜者若熛螢火而喧響之。昼者如五月蠅而沸騰之」とある。先の『日本書紀』の記述に対応する部分である。偽書ということで立ち寄ってみたくなった。もう一つは深根輔仁(ふかねすけひと)が醍醐天皇の勅命を受けて著した日本最初の漢和薬名辞書『輔仁本草(ほにんほんそう)』(『続群書類従・第三十輯下 雑部』)である。辞書では「本草和名(ほんぞうわみょう)」となっているが、これでは「螢火」とあって、ほかに十四の別名が挙げられている。「夜光」「放光」「耀々」「夜照」「耀夜」などは文字通り、おやっと思わせられるのは「丹鳥」「小母」、想像力を掻き立てられるのが「夜光遊女」である。そして「保多留」。
 さて『伊勢物語』(小学館『日本古典文学全集』第八巻)になると螢が初めて素材として登場する。

  いでていなばかぎりなるべみともし消(け)ち年経(へ)ぬるかと泣く声を聞け
  いとあはれ泣くぞ聞ゆるともし消ちきゆるものともわれはしらずな
  ゆくほたる雲の上までいぬべくは秋風吹くと雁(かり)につげこせ
  晴るる夜の星か河べの螢かもわがすむかたのあまのたく火か

 最初の二首は三十九段、螢という言葉が直接出てこないので、これだけを読んでも分かりづらい。三首目は四十五段、『後撰和歌集』(岩波書店『新日本古典文学大系』第六巻)に業平の歌として載るが片桐洋一は「物語がない場合は、秋を待つ思いを雁を待つ形で表したことになる」と校注している。最後は八十七段、螢は漁火の比喩として登場する。


 『古今和歌集』(小学館『日本古典文学全集』第七巻)にも登場するが、いずれも「恋歌」であり、その意味で螢は後退している。

  明(あ)けたてば蝉のをりはへ鳴きくらし夜(よる)は螢(ほたる)の燃えこそわたれ
  夕されば螢よりけに燃ゆれども光見ねばや人のつれなき

 このあたりが歴史的に見た螢の初見日と言えるだろうか。そしてここまでくると『枕草子』(小学館『日本古典文学全集』第十一巻)の「夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ螢飛びちがひたる。雨などの降るさへをかし」という風情も隣り合わせである。

 
和泉式部(初出、「短歌人」平成15年4月号) 

 螢岩を見にいくことにした。『後拾遺和歌集』(角川書店『新編国歌大観』第一巻)第二十雑六の神祇に出てくる、
    をとこにわすられて侍けるころきぶねにまゐりてみたらしがはにほたるのとび侍    けるをみてよめる
  ものおもへばさはのほたるもわがみよりあくがれいづるたまかとぞみる
    御かへし
  おくやまにたぎりておつるたきつせにたまちるばかりものなおもひそ
    このうたはきぶねの明神の御かへしなり、をとこのこゑにて和泉式部がみみにき    こえけるとなんいひったへたる

 あの、螢にかかわりがあるらしいのだ。
 なお掲出歌は『和泉式部歌集』(岩波文庫)の正確には「宸翰本(しんかんほん)和泉式部集」と「松井本和泉式部集」にも出てくるが「このうたはきぶねの明神の御かへしなり」以下の記述はない。また「みたらしがは」は固有名詞というよりも「神社の近くを流れて、参詣者が手水を使い口をすすぎなどする川」(『広辞苑』)の意味であろう。
 『京都・山城寺院神社大事典』(平凡社)によると貴船神社は玉依姫が貴船に乗って淀川から賀茂川を経て貴船川畔の地に上陸したのが始まりとされている。しかしこれは創建伝説であって元来は木生根(きぶね)の神すなわち山林の神としての地主神だったそうである。『今昔物語集』(小学館『日本古典文学全集』二十一巻)の巻第十一の「藤原伊勢人始鞍馬寺建語(はじめてくらまでらをたつること)第三十五」にも「我レハ此山ノ鎮守トシテ、貴布禰ノ明神ト云フ」の一節がある。平安遷都後は治水の神、祈雨祈晴の神として崇敬されるようになった。現在も祭事として正月初辰の日に水神である竜を祀る初竜祭、七月七日の水祭などが行われている。螢も多かったのであろう。

  き舟川やましたかげの夕やみに玉ちる浪はほたるなりけり
                         法橋春誓(『続拾遺和歌集』)
  貴布禰河岩こす浪のよるよるは玉ちるばかりとぶ螢かな
                          藤原為家(『為家卿千首』)

 貴船神社には私も何度か行ったことがある。平成八年の九月二十二日に叡山電鉄鞍馬線鞍馬駅を降りて仁王門・由岐神社・鞍馬寺金堂・霊宝殿・大杉権神社・不動堂・奥の院・魔王殿・貴船神社・貴船奥宮と歩いている。連れ合いと一緒だった。また平成九年九月二十七日には職場の親睦旅行で少し遅い川床料理を楽しんだ。このほかにも何度か通った気がするのであるが備忘録に出てこない。もしかするとそれ以前の出来事かもわからないし、テレビのグルメ番組や旅行番組ないしゴールデンタイムに放映されるドラマスペシャルの類が記憶の断片として混入しているのかもしれない。
 淡交社の『京・歌枕の旅』(竹村俊則・横山健蔵著)では貴船神社の水に触れたあと「民間では夫婦・男女の仲を守る神として、またはその反対に縁切り祈願の神として幅広く信仰された」と続く。貴船神社、もう一つのキーワードである。
 瀬戸内寂聴が晴美時代に執筆した短編『貴船』(新潮社『瀬戸内寂聴全集』第四巻)は東京での結婚生活三十年、しかし家庭内離婚の状態になって久しい夫婦がひょんなことを切っ掛けとして貴船神社を訪れる話である。すでに雪の降り出した鞍馬街道から貴船口を川に沿って走るタクシーの中を現在の時間軸として、そこにフラッシュ・バックのように登場する過去、「龍介の心から目をそむける癖を自分に強いて来た歳月の長さが、ふいに心に今来た山道のようなはるかさと白さでくっきりと思い描かれた」。柏手を打つ龍介。「何かがとけていく…….いや雪が肌の熱にとかされただけだ。文子は自分にむかって頑固らしくいいきかせた」。和解の遠くないことを暗示させる終わり方である。
 これと反対のケースが謡曲の『鉄輪(かなわ)』(岩波書店『日本古典文学大系』第四十一巻)である。夫に捨てられた女の嫉妬と呪詛の感情は丑刻詣によって神託を得る。「わらはがことにては候ふまじ人違(たが)ひにて候ふべし」と一度は疑うが「言ふより早く色変はり、気色(けしき)変じて今までは、美女の形と見えつるが、緑の髪は空(そら)さまに、立つや黒雲(くろくも)の、雨降り風と鳴る神も、思ふ中をば離(さ)けられし、恨みの鬼となって、人に思ひ知らせん、憂き人に思ひ知らせん」。後妻の髪を掴み、男に迫るが最後は阿倍晴明に調伏されて「目に見えぬ鬼とぞなりにける、目に見えぬ鬼とぞなりにけり」。これは登場の際の「日も数添ひて恋衣、日も数添ひて恋衣、貴船の宮に参らん」の裏返しであるだけに哀れというほかない。
 さて和泉式部であるが奔放な男性遍歴が災いしたのであろう、生前は藤原道長に「うかれ女(め)のあふぎ」(前記『和泉式部歌集』、以下同じ)と悪戯書きされたり「尼になりなむといひしはいかが」と冷やかされたりもしているが、死後もくだんのごとし。『沙石集』(岩波書店『日本古典文学大系』第八十五巻)からの引用である。

 和泉式部、保昌(やすまさ)ニスサメラレテ、巫(カンナギ)ヲ語ラヒテ、貴布禰ニテ敬愛ノ祭ヲセサセケルヲ、 保昌聞(キキ)テ、カノ社(ヤシロ)ノ木(キ)カゲニカクレテミケレバ、年(と)シタケタルミコ、赤キ幣(ヘイ)ドモ立テ メグラシテ、ヤウヤウニ作法シテ後、ツヅミヲウチ、マヘヲカキアゲテ、タタキテ三度 メグリテ、「コレ體(てい)ニセサセ給へ」ト云(いふ)ニ、面(おもて)ウチアカメテ返事モセズ。「何(いか)ニコレホ ドノ御大事思食立(おぼしめしたち)テ、今コレバカリニナリテ、カクハセサセ給ハヌゾ。サラバ又ナド カ思食タチケル」ト云(いふ)。保昌クセ事ミテンズト、オカシク思フホドニ、良久(ややひさしく)思ヒ入(いり)タ ルケシキニテ、
   チハヤフル神ノミルメモハヅカシヤ 身ヲ思(おもふ)トテ身ヲヤスツベキ
 カク云ケル事ノ體、優(ユウ)ニ覚エケレバ、「コレニ候」トテ、グシテ返(カヘリシ)、志浅カラズ、コ レヲゾ、格ヲコエテ格ニアタレルスガタナレ。若(もし)格ヲ堅ク執シテ、マヘカキアゲテ、タ タキメグリタラマシカバ、ヤガテウトマレテ、本意モトゲジ。

 いくらなんでも「マヘヲカキアゲテ」すなわち陰もあらわに「タタキメグリ」はないだろう。伝説、伝承の多い歌人である。
 叡山電鉄が「貴船口」に近づくころには雪だった。『貴船』の主人公はタクシーである。私は電車に徒歩。和泉式部はやはり牛車(ぎっしゃ)に揺られたのだろうか。駅を出るとほどなく丹塗りの柵が見える。苔むした巨石が見える。「あくがれいづるたま」が封印されているのかもしれない。それにしても滝つ瀬とはよくいったものだ。私には臈たけた女の声が聴こえたような気がする。

  くろかみのみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき
 
源氏物語(初出、「短歌人」平成15年3月号) 

 螢の光で女性の容姿を照らしだすという趣向が『源氏物語』(小学館『日本古典文学全集』第十四巻)の「螢」の巻にある。登場人物は光源氏、娘の玉鬘(実は養女)、これに玉鬘に恋をする螢兵部卿宮(源氏の弟)の三人である。作・演出は光源氏。
 几帳を隔てた玉鬘に、

 寄りたまひて、御几帳の帷子(かたびら)を一重(ひとへ)うちかけたまふにあはせて、さと光るもの、紙燭(しそく)を さし出でたるか、とあきれたり。螢を薄きかたに、この夕つ方いと多くつつみおきて、 光をつつみ隠したまへりけるを、さりげなく、とかくひきつくろふやうにて。にはかに かく掲焉(けちえん)に光れるに、あさましくて、扇をさし隠したまへるかたはら目いとをかしげな り。

 螢兵部卿宮を悩ましてやろうという養父の魂胆は見事に的中する。「ほのかなれど、そびやかに臥したまへりつる様態(やうだい)のをかしかりつるを、飽かず思して、げにこの事御心にしみにけり」に続いて螢兵部卿宮の歌と、それに対する玉鬘の返歌を見ることができる。

  なく声もきこえぬ虫のおもひだに人の消(け)つにはきゆるものかは
  こゑはせで身をのみこがす螢こそいふよりまさる思ひなるらめ

 このあと「はかなく聞こえなして、御みづからはひき入りたまひにければ、いと遙かにもてなしたまふ愁(うれ)はしさを、いみじく恨みきこえたまふ」と螢兵部卿宮は退散するのである。何も知らない螢兵部卿宮と困惑する玉鬘と、それを覗いている源氏という歪な場面であるが「まことのわが姫君をば、かくしももて騒ぎたまはじ」とあるように源氏も玉鬘に懸想しているのである。
 螢を小道具に使った例は『宇津保物語(うつぼものがたり)』(岩波書店『日本古典文学大系』第十一巻)にも見ることができる。登場人物は帝と琴の名手である尚侍(ないしのかみ)。
 気を利かして螢を準備した尚侍の息子から直衣(のうし)の袖に移し取ると、

  かの尚侍のかみの程近きにこの螢をさし寄せて、つつみながら嘯(うそふ)き給へば、さる羅(うすもの) の御直衣に、〈許多(ソコラ)〉つつまれたれば、残るところなく見ゆる時に、内侍のかみ「あや しのわざヤ」とうち笑ひて、かく聞ゆ
  衣うすみ袖のうちよりみゆるひはみつしほたるるあまやすむらむ

 これに対する帝の返歌。

  しほたれて年も経にける袖のうらはほのかにみるぞかけてうれしき

 また『大和物語(やまとものがたり)』(小学館『日本古典文学全集』第八巻)四十段に「桂のみこに式部卿の宮すみたまひける時、その宮にさぶらひけるうなゐなむ、この男宮(をとこみや)をいとめでたしと思ひかけたてまつりけるをも、え知りたまはざりけり。螢のとびありきけるを、『かれとらへて』と、この童(わらは)にのたまはせければ、汗袗(かざみ)の袖に螢をとらへて、つつみて御覧ぜさすとて聞(きこ)えさせける」というのが次の歌である。

  つつめどもかくれぬものは夏虫の身よりあまれる思ひなりけり

 同じく『伊勢物語』(小学館『日本古典文学全集』第八巻)の三十九段に源至(みなもとのいたる)がこともあろうに葬送を待っている女車(をんなぐるま)に螢を入れる話がある。同乗する男の歌と至の返歌を紹介する。

  いでていなばかぎりなるべみともし消ち年経ぬるかと泣く声を聞け
  いとあはれ泣くぞ聞ゆるともし消ちきゆるものともわれはしらずな

 成立年代の古い順に並べると『伊勢物語』『大和物語』『宇津保物語』『源氏物語』になるのだろう。いずれにしても高貴な世界を生きる登場人物と私のDNAが一致しないのは残念なことである。そこにあえて寸評を加えるとするならば源氏の螢は紛れもなくセクハラの報告事例であろう。歌は「思ひ」の「ひ」に「火」をかけ「人が消そうとして消えるものでしょうか。私の思いは」という螢兵部卿宮に対して「声に出すあなたよりも身をこがす螢の思いは深いのですよ」と玉鬘は応えている。『宇津保物語』の帝の行いも誉められたものではないが、ここは尚侍の存在が大らかである。袖の中に火が見えるのは潮に濡れた海女が住んでいるのでしょうか。がっかりすることですよ。「うち笑ひて」に陰湿さがない。『大和物語』であるが、願わくは「桂のみこ」を消して単純な男女関係の中に螢を配したいものである。なお同じ歌が『後撰和歌集』(角川書店『新編国歌大観』第一巻)では「桂のみこのほたるをとらえてといひ侍りければ、わらはのかざみのそでにつつみて」という詞書で掲載されているが、余計な背景が整理されているだけに受け入れやすい。『伊勢物語』の話は崇子内親王の葬送の夜のことであり、螢を入れた女車は宮の隣家から出てきていることを考えると、やはり不謹慎は免れないだろう。シチュエーションを変更して眺めてみたいものである。「柩車が出たら最後だろうから、螢のようにはかなかった皇女の命を思って泣いている声を聞きなさい」という男に「灯が消えたからといって皇女への思いが消えていくとは思いませんよ、私は」と返す主人公である。
 同時代を生きていたとしても、私は物語の主人公たちと出会う機会はなかったであろう。なぜなら私の生きる場所は都から遠く離れた鄙の地に用意されていたはずだからである。また歌人としてのDNAで検索しても行き着く先は防人か、よくて池田朝臣・大神朝臣(おおみわのあそみ)・平群朝臣(へぐりのあそみ)・穂積朝臣といった戯笑歌をなす人たちである。
 しかし平成に生きる私は源氏の世界にタイムスリップすることができる。一つは宇治市にある源氏物語ミュージアムである。六條院の百分の一の縮小模型、実物大だろう牛車などが目を惹く。簾の下から鮮やかな衣の裾が出ているが、なるほど螢を放つ御仁もいたことであろう。図書室では『源氏物語』を平安時代の音声で復元したビデオを見ることができた。今一つは西本願寺の近くにある風俗博物館である。ビルの五階にあり、広くはないが、立体的かつ体感できるのが売りである。ちょうど「源氏物語~六條院の生活」と題して邸宅「春の御殿(おとど)」が四分の一のスケールで展示されていた。ここでは実物大に復元したコーナーがある。靴を脱いで上がる。御帳台(みちょうだい)というものの中に入ってみる。うん、なかなかの気分だ。外に出ると十二単の女性が座っている。人形には違いないが借り物の直衣を着て横にいると私も色好みになりそうであった。

  シャワー無き時代の乱婚 なまぬくき春の夜に読む源氏物語  宮原望子『文身』

 
観察日誌(初出、「短歌人」平成15年6月号) 

 伝鴨長明著『四季物語』(『続群書類従・第三十二輯上』)の七月冒頭は「背子が衣はうらさびしきに。秋風吹きそめ萩の葉も。そよ更に折しりがほに。打なびきて。ゆふべゆふべは蛍乱れとび。思ひさうぜんとかなしうおもひなされたり」とある。陰暦の七月は今年なら七月二十九日から八月二十七日である。温暖化と無縁な時代であれば、なるほどこんな感じなのであろう。ともあれ螢の数も多く見受けられるようになると、その特色をグループ化できるようになる。

  あつめては国の光と成りやせんわが窓てらす夜はの徴は
  あつめしも今はむかしのわが窓を猶過ぎがてにとぶ蛍かな
  あつめねどねぬ夜の窓にとぶ螢心をてらす光ともなれ

 はて螢を集めて何をするのか。しかも窓である。冗談かと思うが、これは「螢雪」を素材にしたものらしい。家が貧しいので螢を油の代用にして勉強したという中国の車胤の話である。同じ螢を使うなら恋人同士の手のひらに囲ってほしかった。作者は前内大臣、祥子内親王、従三位行子。出典は『新葉和歌集』(角川書店『新編国歌大観』第一巻)。
 つぎは『宇治拾遺物語』(小学館『日本古典文学全集』第二十八巻)より「東人(あずまうど)歌詠む事」を引用する。なお同話が「貫之事(つらゆきがこと)」として『古本説話集』(岩波書店『新日本古典文学大系』第四十二巻)にものっている。

 今は昔、東人の、歌いみじう好み詠みけるが、螢を見て、
  あなてりや虫のしや尻に火のつきて小人玉(こひとだま)とも見えわたるかな
 東人のやうに詠まんとて、まことは貫之が詠みたりけるとぞ。

 頭注に「実際に貫之の作かどうかは不明だが、和歌が雅語をもって作られるという常識を破っているところにおもしろみがある。しかし、都人としてのプライドがこれらの用語を許さなかったので、粗野とされていた東人に仮託したのであろう」とある。『万葉集』に素材として螢が直接歌われた例はなかった。またそれ以後も東国の螢詠がグループ化できるというのでもない。しかし、もしかすると東歌に螢が登場していたかも知れない。そんな「もしかすると」を膨らましていった末のパターン化である。選ぶのが都人であれば


記録にないから歌われなかったことにはならないだろう。
 つぎは恋歌。

  おともせでおもひにもゆるほたるこそなくむしよりもあはれなりけれ
                          源重之(『後拾遺和歌集』)
  なくこゑもきこえぬもののかなしきはしのびにもゆるほたるなりけり
                          藤原高遠(『詞花和歌集』)
  あはれにもみさをにもゆる螢かなこゑたてつべきこの世とおもふに
                           源俊頼(『千載和歌集』)

 キーワードは鳴かない螢。いずれも『新編国歌大観』第一巻に拠った。忍ぶ恋は歌謡の世界でも欠かせない要素である。

  わが恋は 水に燃えたつ螢々 もの言はで笑止の螢
  声にあらはれ鳴く虫よりも いはで螢の身をこがす
  恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ螢が身を焦がす

 順番に『閑吟集』(小学館『日本古典文学全集』第二十五巻)、『松の葉』(岩波書店『日本古典文学大系』第四十四巻)、『山家鳥虫歌(さんかちょうちゅうか)』(岩波書店『新日本古典文学大系』第六十二巻)。また『閑吟集』の歌は『宗安小歌集(そうあんこうたしゅう)』(新潮日本古典集成『閑吟集・宗安小歌集』)でも見ることができる。
 では鳴かない螢が鳴くとどうなるか。『今物語』(『群書類従・第二十七輯』)を覗いてみよう。同話は『十訓抄』(吉川弘文館『新訂増補國史大系』第十八巻)でも見ることができる。

 ある殿上人ふるき宮ばらへ夜ふくる程に参りて。北のたいのめむだうにたたずみけるに。 局におるる人の気色あまたしければ。ひきかくれてのぞきけるに。御局のやり水に螢の おほくすだきけるを見て。さきにたちたる女房の。螢火みだれとびてとうちながめたるに。つぎなる人。夕殿に螢とんでとくちずさむ。しりにたちたる人。かくれぬものは夏 むしのとはなやかにひとりごちたり。とりどりにやさしくもおもしろくて。此男何とな くふしなからんもほいなくて。ねずなきをしいでたりける。さきなる女房。ものおそろ しや。螢にも声のありけるよとて。つやつやさはぎたるけしきなく。うちしづまりたり ける。あまりに色ふかくかなしくおぼえけるに。今ひとり。なく虫よりもとこそととり なしたりけり。是もおもひ入たるほどおくゆかしくて。すべてとりどりにやさしかりける。
 ところで和泉式部の「あくがれいづるたま」の例であるが魂結びならともかく螢との関連では見つけられなかった。むしろ散文の世界に類話として広がっていくようである。小泉八雲の『蛍』(恒文社『全訳小泉八雲作品集』第十巻)の触りの部分を引用する。

  ある寒い冬の晩のことであった。松江の若い士族が、どこかの婚礼によばれた帰りみ ちに、自分の家の前の小川に螢が一匹飛んでいるのを見て、びっくりした。雪の降るこ の季節に、螢が飛ぶとはどうしたことだろうと、怪訝に思いながら、しばらく立ち止ま って見ていたが、そのうちに、その光りがふいに自分の方へすうっと飛んできた。士族 は杖でそれを打った。すると、螢はついと逸(そ)れて、そのまま、隣屋敷の庭へ逃げこんで 行ってしまった。

 翌朝、螢が隣家の許嫁が夢の中でさまよい出た結果であることがわかるという話である。また未遂であるが谷崎潤一郎の『細雪』に螢狩の夜の回想として登場する。「自分がこうして寝床の中で眼をつぶっているこの真夜中にも、あの小川のほとりではあれらの螢が一と晩じゅう音もなく明滅し、数限りもなく飛び交うているのだと思うと、云いようもない浪漫的な心地に誘い込まれるのであった。何か、自分の魂があくがれ出して、あの螢の群れに交って、水の面を高く低く、揺られて行くような」(下巻の四)云々である。逆に森鴎外の『うたかたの記』(『新潮日本文学』第一巻)の女主人公はボートから落ちて水死するケースであるが、直後「をりしも漕ぎ来る舟に驚きてか、蘆間を離れて、岸のかたへ高く飛びゆく螢あり。あはれ、こは少女が魂(たま)のぬけ出でたるにはあらずや」。すなわち「東人歌詠む事」に登場する「小人玉」であり、おそらくこれからの観察日誌でも遭遇することになるだろうと思われるのである。

  其子等に捕えられむと母が魂(たま)螢と成りて夜を来たるらし
                             窪田空穂『土を眺めて』
 
近世(一)(初出、「短歌人」平成15年7月号) 

 漠然とした不安がつきまとっている。

   命知らずとよし言はば言へ
  君故に腎虚せんこそ望みなれ

 『犬筑波集』(新潮日本古典集成『竹馬狂言集・新撰犬筑波集』)に限らないが連歌、俳諧の連歌、俳諧の流れを横目にしたとき、はたして雅の世界に君臨してきた「みそひともじ」が俗の世界とどのように折り合いをつけたのか。たとえば万葉集には東歌や防人の歌が収録されていたし、戯笑歌もあった。古今和歌集には俳諧歌という部立が設けられてもいた。しかしそれ以降を考えると興味は不安に近い。とりわけ文化の担い手が貴族から武士や町人階層に移った近世を考えると、はなはだ心許ない。
 まずは螢の情報を集めてみよう。
 浅井了意(あさいりょうい)の『狗張子(いぬはりこ)』(東京堂出版『仮名草子集成』第四巻)は元禄五年(一六九二)刊。「嶋村蟹(しまむらかに)」に「治承の古しへ、源三位頼政、むほんして、宇治川をへだてて、源平の軍あり。うたれたるものの亡魂、螢になりて、今の世までも、年毎の四月五月にハ、平等院のまへに、数千万の螢あつまりて、光りをあらそふて、相たたかふ、化して、異類となる、と、賈誼(かぎ)がこと葉、空しからずや」とある。中国にも同様の話があったのだ、いや事実は逆である。
 寺島良安の『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』(三一書房『日本庶民生活史料集成』第二十八巻)は正徳三年(一七一三)に刊行された百科事典であるが、これで螢を調べると虫部化生類に「腐草化して螢と為る」という中国の説を継承し、「堀川百首」から例歌をあげている。

  五月雨に草の庵は朽れとも螢と成ぞ嬉しかりける

 作者は大江匡房(おおえのまさふさ)である。今一つ石山寺(滋賀県大津市)の渓谷に触れている。曰く「螢 多くして長さ常に倍なり、因って其の処を呼びて螢谷と名づく。北は勢多の橋に至る(二 町許り)、南は伴江が瀬に至る(二十五町)、其の間群り飛ぶこと高さ十丈許り、火焔の如 く、或は数百の塊(かたまり)を為し、毎芒種(ぼうしゅ)の後五月従り夏至の後五日に至りて(凡そ十五日)盛りと為る」。一丈は一尺の十倍、約三メートル。これの十倍だから想像を絶する。さらに曰く「其の螢、下は山州宇治川に至りて(約するに三里許り)夏至小暑の間盛りと為る。然れども石山の多きには如かず。此れも亦た西は宇治橋を限りて下らず。倶に一異と為す。茅根腐草の化する所は常なり。此の地は特に茅草多からず。俗に以って源頼政の亡魂と為すも、亦た笑ふべし。此の時や螢見の遊興、群衆にして天下知る所なり」。
 学生時代の一時期を宇治の平等院のそばに下宿していたことがある。鵜飼舟の松明で川面が照らされるのは目にしたことはあるが螢に纏わる話は初耳である。もっとも十三のときから住んでいる自宅の周囲でも昔は螢が飛んでいたことを聞かされて怪訝な思いをしているのだからいい加減なものである。関心がないと見えるものも見えないし、思い出すこともできないのかもわからない。
 さて、『都名所図会』(角川書店『日本名所風俗図会8 京都の巻Ⅱ』)は安永九年(一七八〇)の刊行であるが、この中に宇治の螢狩とおぼしき図に「家集 鳥羽院の北面会に江上螢多しといふ事をよめり」として源三位頼政の次の歌が記載されている。

  いざやその螢の数はしらねども玉江の芦のみえぬ葉ぞなき

 速水春暁斎が文化三年(一八〇六)に著した『諸国図会年中行事大成』(三一書房『日本庶民生活史料集成』第二十二巻)は「石山螢狩之図」を載せているが、そこに「公宴読歌」として藤原伊長(これなが)の一首が見える。

  にほのうらやあし分小舟さしとめて袖にまちかく舞ほたるかな

 また同じ石山寺と宇治の螢に言及しても『和漢三才図会』と異なるところがおもしろい。少し長いが引用する。

 山間の闇を照らす螢のひかりに盃をめぐらし舷(ふなばた)を叩て、琴三絃の拍子を和し江上の清 風に酔を醒しては復び酔短夜の夢むすぶ間もなく一葉の舟の中に既に東方の白きに驚  き、やがて元の岸に舟を廻らし空しき樽を提てすごすごとあがれるさまは恰も昼の螢見 し心地せられていとすさまじ。抑宇治の螢は頼政が霊魂化して螢となり、戦をなすとい ひ伝ふ。されど敵の螢は誰が亡霊との名も聞えず。さはともあれ今の世までも螢となり て戦ふ程の気象にて、其のむかし今は是迄と見限て自害せられしこそ心得ね。又摂州鳥 飼の辺白井てふ所に螢多し。土人相伝て、こは明智光秀が一族戦死の霊なりといふ。か かる事はもとより児女老婆の談にして爰に挙べき事ならねど、いにしへより唐の和の文 にもかかる類ひを書伝へて、茶話のたすけとなせる例もあれば、さのみ疾(にく)むべき事にも あらず。

 昼の螢はともかくも『和漢三才図会』が「笑ふべし」とした頼政の亡霊を「さのみ疾むべき事にもあらず」と鷹揚である。但し「児女老婆の談」としている。白井の螢云々であるが『摂津名所図会』(角川書店『日本名所風俗図会』第十巻)に「白井螢狩」の図がある。歌はない。また「白井螢見」に「明智日向守光秀が一族戦死の鬼火(きか)なりといふ」とした上で「戦死の亡魂といふは土俗の諺(ことわざ)にして取るに足らず」と一刀両断である。こんな時代だったのか。『和漢三才図会』『諸国図会年中行事大成』『摂津名所図会』ともに大した見識である。しかし大切なことは事実かどうかではない。おそらく志半ばにして散った頼政を人は螢にして語り伝えたかったのであろう。三日天下の明智光秀の場合も同様である。鳴かない螢そしてその冷たい光に土地の人たちは悲運の武将を重ねたのだ。
 あと『江戸名所図会』(角川書店『日本名所風俗図会』第四巻)には螢沢、『阿波名所図会』 (角川書店『日本名所風俗図会』第十四巻)には母川(ははがわ)の螢が登場するが歌はない。山東京伝の風俗考証随筆『骨董集』(吉川弘文館『日本随筆大成〈第一期〉十五』)の「駒形の螢」、喜多村筠庭の風俗関係の百科事典『嬉遊笑覧』(吉川弘文館『日本随筆大成別巻・嬉遊笑覧四』)の項目「螢狩」「宇治の螢合戦」「石山螢谷」、『生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)』(有朋堂文庫『浄瑠璃名作集・上』、東京創元新社『名作歌舞伎全集』第七巻)の宇治川の場面、三好想山著『想山著聞奇集』(三一書房『日本庶民生活史料集成』第十六巻)の「人の金を掠取て螢にせめ殺さるる事」、また同様である。
 ところで式亭三馬の『浮世風呂』(岩波書店『日本古典文学大系』第六十三巻)に鳧子と鴨子なる女性が登場する。鳧子や鴨子といっても鳥ではない。和歌に登場する「けり」「かも」の化身であり、雅の世界の住人である。時は江戸、さすがに「無心体の歌もおなぐさみには宜うござります」と狂歌なども披瀝するが二人の「ヲホヽヽヽ」「ヲホヽヽヽ」が聞こえてくると私はどうにも尻がこそばゆいのである。
 
近世(二)(初出、「短歌人」平成15年8月号) 

 具体的に作品を見ていくことにしよう。いずれも『新編国歌大観』(角川書店)第九巻の「私歌集篇Ⅴ」に拠る。

  ともし火をたむくとみれば河社夕なみかけて飛ぶ螢かな

 出典は『挙白集(きょはくしゅう)』。作者は木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)。詞書に「おなじ橋のほとりにちひさきやしろありけるに」とある。場所は近江八景の一つ「瀬田」、螢と河社の取り合せが新鮮に響く。

  飛ぶ螢つげていぬべく来ぬ秋の初風しるき雲の上かな

 出典は『後水尾院御集(ごみずおのいんぎょしゅう)』。題は「晩夏」。螢曰く「雲の上は秋だよ」といったところか。また〈哀我れ齢も今は更くるよの窓のほたるはあつめても何〉という作品もある。この結句の「何」など、現代短歌固有のものかと思っていたが、そうではなかったらしい。

  うなゐらがきそふ扇を打ちやめてあがるほたるを悔しとぞみる

 出典は『六帖詠草(ろくじょうえいそう)』。作者は小沢廬庵(おざわろあん)。題は「小扇撲螢」。螢と扇は夏の風物詩に欠かせない小道具だったのだろう。大人だと〈夕すずみあふぎの風によこぎれて又空たかく行く螢かな〉。作者は円珠庵契沖(えんじゅあんけいちゅう)。出典は『漫吟集(まんぎんしゅう)』。

  とぶほたる窓のうたたね夢さめて見えこし人のたまかあらぬか
  よはにとぶ螢を見ても影見えぬたまのゆくへや恋しかるらむ

 出典は『鈴屋集(すずのやしゅう)』。作者は本居宣長。一首目の題は「窓螢」。二首目は「人の父の遠忌に、夏懐旧といふことを題にて」とある。また恋の歌に〈道のへのゆざさがうへに螢とびかかやかしもよただにあふよは〉がある。題は「あへり」。螢を扱うと必ずといっていいほど「おもひあまりて」「なかぬほたる」式の類型が蔓延する中で、これなどは例外であろう。この時代の若者が、この時代の言葉で愛を語っている風情が印象に残る。

  蘆茂み葉うらにすがる夏虫の隠れてもほのみゆる光は

 出典は『藤簍冊子(つづらぶみ)』。作者は上田秋成。「ほのみゆる」の句またがりが出てきて少しためらうが微視的に迫ることによって逆にクローズアップされる螢がいい。また〈此夕ベ引きやわすれし螢火の光に見ゆる門の板ばし〉という作品がある。家の前を水路が流れていて固定した橋がない。昼間は板を渡して渡り、夜は引き上げて眠る。そんな光景を想像すればよいのだろうか。水あるところ螢飛びかう時代である。

  風さそふ夏野の草のたもとよりつつみもあへずとぶ螢かな

 出典は『琴後集(ことじりしゅう)』。作者は村田春海。四句の「つつみもあへず」が螢の登場を劇的に演出していよう。烏丸光広(からすまるみつひろ)の『黄葉集(こうようしゅう)』に〈草むらの露はこぱるる風のうへにうきて螢のかげのみだるる〉があり、螢の現われ方もケース・バイ・ケースである。

  あすはしもさなへ植ゑんとせきいれし水田のうへに螢とぶなり

 出典は『亮々遺稿(さやさやいこう)』。作者は木下幸文(きのしたたかふみ)。田園風景である。同じ作者に〈すむ月も螢もあれどこの宿は水の音こそ涼しかりけれ〉がある。少し変化球ないし斜に構えたような姿勢を感じるのだが詞書に「忠明のもとにて」とある。友人であろうか。これによって主への気配りというのか挨拶に思えてくるから不思議である。

  ふるあめにともしは消えて箱根山もゆるは谷のほたるなりけり

 出典は『桂園一枝(けいえんいっし)』。作者は香川景樹。『和漢三才図会』や『諸国図会年中行事』に描かれた石山寺の渓谷が思い出される。再び体験できない世界である。

  吹きのぼる夕川風にをすまけば雲ゐをかけてほたるとぶなり
  あし垣にほたるはなちしおもかげはひるさへみえて露ぞみだるる

 出典は『柿園詠草(かきぞのえいそう)』、作者は加納諸平(かのうもろひら)である。二首目は「幼子をうしなひて七日にあたりける日、寺まうでしてかへりけるに、年平が来居たりしかば」という詞書で一首、「又のとしのその日に」の詞書で三首ある。その最後に置かれた作品である。本居宣長の二首や、この作品を見ていると和泉式部に端を発して『螢』『細雪』『うたかたの記』から窪田空穂に至る螢がようやく一つの線として繋がったような気になるのである。

  くるるまで植ゑていにけるをやま田に螢の影のうつりけるかな

 出典は『浦のしは貝』。作者は熊谷直好。螢が生活の中に溶け込んでいるというのか、もの珍しくもなかっただろう。思えば贅沢かつ癒される風景である。同じ作者に〈道のうへをあるく螢のひかりなき我が身にしあれば世をもてらさず〉がある。これなどは新発見の螢に違いない。惜しむらくは「我が身」にもどって歌が転んでしまったことである。

  すずみすとあし分小舟さすさをの袖にさはるはほたるなりけり
  はらへすと河瀬に流す麻のはにひとつすがりて行く螢かな

 出典は『調鶴集(ちょうかくしゅう)』。作者は井上文雄。一首目には五感に迫る臨場感がある。題は「螢火照舟」。二首目の題は「晩夏螢」。この時代の螢の歌では群を抜いて斬新である。
 このほかにも、まだ螢籠には三百匹以上が残っている。どうだ大したもんだろう。自慢もしたくなるのが人情である。ところが驚くなかれ。前にも触れた「螢」の中で小泉八雲は「日本の詩人は古来一千有余年、螢の詩歌をさかんにつくってきている。螢を題にした作品は、日本の詩歌のあらゆる形式に見いだされる。けれども、なんといってもそのなかでいちばん多いのは、詩のうちでもいちばん形式の短い、十七字の発句である。螢を詠みこんだ近代の恋歌も無数にあるが、その大多数は、都々逸という通俗的な二十六字の歌謡で、これはたいてい、鳴かぬ螢が身を焦がすといった類の、古くからある詩想の変形に過ぎないようである」と述べる。その上で作品を紹介するのであるが実に俳句三十六句、これに対して和歌は二首それも平安時代を生きた源重之と紀友則だから話にもならない。万集の時代に螢が歌われたかどうか。これは可能性の問題だった。しかしこちらは現実の問題である。前回の冒頭で書いた不安は的中したわけである。そして時代錯誤の鳧子や鴨子が恥ずかしいのだ。王朝和歌が捨て去ったもの、それは近世を生きる活力だった。

 
大愚良寛(初出「短歌人」平成15年2月号) 

 私たちの知っている良寛は常に老人である。あたかも青年期がなかったかのように年寄になって初めて私たちの前に登場する。
 新潟県三島郡出雲崎町の良寛記念館には二人の子供と話す良寛像が建っている。もっともポピュラーな良寛さんである。

  霞たつながき春日を子供らと手毬つきつつこの日くらしつ

 漢詩にも、こういうのがある(なお「霞たつ」を含めて作品の抄出は東郷豊治編著の東 京創元社刊『良寛全集』に拠った)。

  裙子(くんす)は短く 褊杉(へんさん)は長し
  騰々 兀々(ごつごつ) 只麼(しも)に過ぐ
  陌上(はくじょう)の児童 忽ち我を見
  手を拍ちて齊(ひと)しく唱う 放毬(ほうきゅう)の歌

 裙子は袴、下半身をまとう僧服。褊杉は上着、上半身につける僧衣。騰々は「酔える如きさま」。兀々は「力を労するさま」。只麼は「このように」。陌上は「街路上」。
 次に良寛さんではなく良寛を見てみよう。

  きみにかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬゆめかとぞおもふ  貞心尼

 『はちすの露』で知られる貞心尼が良寛と初めて会ったのは二十九歳、このとき良寛六十九歳。すでに晩年である。『はちすの露』は貞心尼によって蒐集された良寛歌集であるが、とりわけ二人の贈答歌が命といってもよい。たとえば「(略)、打とけて遊びけるが中に、きみはいろくろく衣もくろけれバ、今よりからすとこそまをさめと言けれバ、げによく我にはふさひたる名にこそ、と打わらひ玉ひながら」以下のように展開する。

  いづこへもたちてをゆかむあすよりはからすてふ名をひとのつくれば   良寛
  やまがらすさとにいゆかば子がらすもいざなひてゆけはねよわくとも   貞心尼
  いざなひてゆかばゆかめどひとの見てあやしみ見らばいかにしてまし   良寛
  とびはとびすずめはすずめさぎはさぎからすとからすなにがあやしき   貞心尼

 子供たちもそうだが、貞心尼の存在はまた違った意味で良寛の人生を明るくさせているようである。詠み交わす歌の中に顕れる親近感あるいは親近感の中で詠み交わされる歌の魅力には、活字となった雑誌で読む現代の短歌とは異なる磁場が働いている。先に引用した漢詩には「本詩にも木村家屏風ほか遺品が多い」という註が付いている。歌も書も暮らしに根付いていたのであろう。
 手紙歌も同様である。

  世の中にこふしきものははまべなるさざいのからのふたにぞありける

 本文に「先日きず薬たまはり候。文をわたす人のそそふにてや、やふやく昨日うけとり候。また山のいもたまはり賞味仕候。さしあたりてなにもいりよふのものハ無之。/このごろしほいれもらい候。その形/(小壺の図形)/そのふたなく、さざいからのふたよからかむとおもひ候ども、この方にはなく、その御地に有之候ハバ、二ツ三ツたまはり度候。おほきなるよろしく候」とあって右の歌が置かれている。弟の由之(ゆうし)に宛てた書簡である。
このほか由之の長男橘左門、妹むら子、みか子、国上村の阿部定珍(さだよし)、解良叔問(けらしゅくもん)、原田鵲斎(じゃくさい)、桐島村の木村元右衛門、与板村の三輪権平、山田杜皐(とこう)といった郷土の人たちが登場する。

  もろともに踊り明かしぬあきの夜を身にいたつきのゐるも知らずて

 再従弟の山田杜皐宛。本文は「此頃は踊手拭たまはり忝く納めまゐらせ候」。町の酒造家。「最も気安く交わった」とある。
 ところで私は「大愚(たいぐ)良寛」の大愚が気になって仕方がない。愚禿親鸞の愚禿と並んで私には極北の言葉だからである。しかし良寛自身が語るところはない。

  大御酒(おほみき)を三杯五杯(みつきいつつき)たべ酔ひぬ酔ひての後は待たで注ぎける

 そこで周辺から拾うことにした。「号ハ大愚、名ハ良寛」(貞心尼「良寛の家族書」)、「薙髪し、良寛と改む。時に十八歳なり。又自ら大愚と号す」(鈴木惕軒(てきけん)「良寛禅師木鉢記」)、「号は大愚、字(あざな)は良寛」(証願「良寛禅師碑石並に序」)、「師の諱(いみな)は良寛、号は大愚」(蔵雲「良寛道人略伝」)、ちなみに全集の「年譜」には二十二歳で「出家を遂ぐ/円通寺住職国仙に従い備中玉島に赴く」とあるだけで大愚の記述はない。ただ解良栄重(よししげ)の「良寛禅師奇話」に、「年譜」なら三十三歳「冬、師国仙より印可を付与される」とある、その印可を「終身モチシト云(いう)」あたりに、わずかながら青年期の良寛が想像されるのである。

  良や愚の如く道転(うた)た寛(ひろ)し
  騰々任運(にんぬん) 誰を得て看しめん
  為に附す 山形爛藤の杖
  至る処 壁間に午睡閑(のびやか)なり

 訓読は入矢義高の『良寛詩集』(講談社)に拠った。但し、第二句「得誰看」は「誰得 看」の誤りかも知れない、とある。ちなみに恒文社の谷川敏朗著『良寛の生涯』は「誰か看(み)るを得む」である。現物は「得誰看」、流布しているのは「誰得看」のようらしい。
 再び手紙歌にもどる。相手は山田屋の「およし散」である。

  さむくなりぬいまハほたるも光なしこ金(がね)の水をたれかたまはむ

 本文は「ぬのこ一 此度御返申候」。註に「およしは山田家にいた女性。螢は山田家でもらった良寛のあだ名。宛名の下にも『ほたる』の仮名書きがある」。「およし」については山田家の娘、下女と定説を得ていないが「若い娘や下女に、酒造家の酒が無心できたかどうか疑問である」として山田杜皐の妻を想定する谷川敏朗の『良寛の書簡集』(恒文社)が斬新である。いずれにせよ〈かしましと面伏(おもてふ)せには言ひしかどこのごろ見ねば恋しかりけり〉という歌もあって気さくな間柄であったことがわかる。

  草むらの螢とならば宵々に黄金の水を妹(いも)たまふてよ

 こうなると「妹」は私たちの手を離れてしまうが、螢は一生の大半を幼虫で過ごし、成虫として夜の空に舞うのは一週間たらずという。さてこそ良寛は螢だったのである。
 
落首と狂歌(初出「短歌人」平成15年9月号) 

 ことわっておくと私は短歌が好きなのではない。和歌が好きなのではない。狂歌が好きなのでもない。五句三十一音の定型詩すなわち歌が好きなのだ。匿名の溶首とは一線を画すべきところではあるが同じ五句三十一音を以て、これも悪食の対象とした。
 和歌がすべてだった時代と違って連歌や俳諧と共存する時代になると必然的に才能は分散することになる。卑近な例をあげよう。私が子供の頃は全員といってもいいだろう、男の子は野球少年だった。それから思うと今は多くの才能が他のスポーツとりわけサッカーに流れたはずだ。詩歌の世界だから十年単位ではなく百年単位で俯瞰すると、その消長もはっきりとする。但し、和歌としてではなく歌として眺めると若干様相は異なろう。
 資料は鈴木棠三編『落首辞典』(東京堂出版)、鈴木棠三・岡田哲校訂『江戸時代・落書類聚』(東京堂出版)、狂歌大観刊行会編『狂歌大観』(明治書院)、江戸狂歌本選集刊行会編『江戸狂歌本選集』(東京堂出版)の未刊の十三巻を除く十二冊である。
 まず落首であるが『江戸時代・落書類聚』から〈美濃伊勢ひ後の栄花は松平/柳沢辺の秋のほたる火〉〈大学に火たる君かときく時は/備前におゐてとどまりにけり〉だけで、ひそかに期待していた〈世の中に蚊ほどうるさきものはなし/ぶんぶといふて夜るもねられず〉のような傑作はなかった。
 次に狂歌の世界から特色のある作品を見ていくことにしよう。

  飛螢雲の上々様方の御前へ出ても尻ごみはせず

 出典は『狂歌糸の錦』、作者は樋口故白。下敷きとして思い出されるのは〈ゆくほたる雲の上までいぬべくは秋風吹くと雁につげこせ〉である。「上」を空間の意味から身分や地位といった人に転換させている。「尻ごみはせず」は喝采を浴びたことだろう。

  夏草の色にまがえる蚊帳の内はひとのひとのにほたる飛かふ

 『狂歌活玉集』所収。作者は土碌斎寛水。蚊帳の中に螢を放したのだろう。しかし初句が効いて屋外にいるようだ。また光の残像「ひとのひとの」もビジュアルで説得力がある。

  夏の夜の野にぐはんぜなきをさな子を螢のつれて迷はするかな

 『狂歌栗の下風』所収。作者は隣笛とある。狂歌と和歌を分けるのは何なのか。この歌だと「螢のつれて」あたりになるのだろう。しかし時を経た読者にとっては無意味な区分でしかない。螢狩と螢に夢中になっている子供の姿を活写して見事である。

 ①揚屋人ゑりもとひかる大尽と肩をならべて飛螢哉
 ②朝露をなか根城とやたのむらん草のはむしゃの螢合戦

 『狂言鶯蛙集』所収。①の作者は河原鬼守。揚屋は遊女を呼んで遊ぶ家。大尽は大金持ち、遊里で豪遊する人。人間の登場するところ、すべてが歌になる。そこが狂歌なのだろう。②の作者は小袖行丈。根城は出城、上に「なか」がついているが前線基地といったほどの意味であろうか。ズームインして草の葉、ズームアウトして螢合戦、叙情的である。その反対に勇ましいのが宮戸川面の〈緋威の鎧はちぎれ宇治橋の玉とみだれて螢飛なり〉(『狂歌太郎殿犬百首』)である。

 ①大針にさつさとぬふて行螢橋のたもとも川の裾をも
 ②くり返しふみまき川にながめゐる螢を風にちらし書すな

 『狂歌東西集』所収。①の作者は鍋黒住。大針は光の残像。橋の袂も川の裾も針の縁語であるが、螢の乱舞とも重複するイメージであろう。②の作者は式亭三馬。「ふみまき川」から「ちらし書」が出てきているが実際の嘱目でもあったろう。うまい。

  宇治川やまねく扇の芝舟によりまさりくる夏虫のかげ

 『狂歌浜萩集』所収。作者は為丸。平等院で自決した源頼政が隠し絵になっていて、それが「くる」だから不気味である。

  かる人のくたびれ足はさもなくてとりし螢はかごでかへりぬ

 『万代狂歌集』所収。作者は篗屋三駄。籠で帰るのが螢の本意かどうかはともかく螢狩の顛末をユーモラスに描いている。

  池水をのぞむほたるは夢の中にのどかわく人のたまかとぞ見る

 『狂歌関東百題集』所収。作者は純々亭。浮遊する魂と螢との関係であるが四句の「のどかわく人の」に特色を見る。狂歌だと、こうなるという例か。

 ①つつみたる妹がふり袖ほころびてしかも鹿子の螢こぼせり
 ②草のごと髪ふりみだす里の子のつぶりの上を螢飛びかふ
 ③竪横に飛びし綾瀬の螢見におりたやとなくせなの稚子
 ④童部の負ふ草籠に光れるは鎌で螢やかりてきつらん
 ⑤帯とけば宵の螢のこぼれ出て飛あがるべく妹おどろかす
 ⑥貴舟河今もほたるはその身よりいづみ式部の魂かとぞ見る
 ⑦流れゆく宇治の河辺に飛ぶ螢光りばかりやさかのぼるらん
 ⑧螢等が軍は宵に事果てただ水鶏のみたたき合けり

 出典は『俳諧歌兄弟百首』。俳諧歌とあるように狂歌も曲がり角に差し掛かっている。①の作者は常道。螢を絞り染めの模様と見立てているのがおもしろい。②の作者は柿人。次の③の作者は露深。④の作者は米積。もしかすると洟をたらしたような子供自体が狂歌の住人だったのかもしれない。⑤の作者は歌麻呂。螢のつもりでは〈追ひかくる妹がもすそにつと入て又追かへす螢をかしや〉(『芦荻集』所収。作者は紀真顔)であったろう。⑥の作者は香摘。叡山電鉄の「貴船口」の近くに和泉式部ゆかりの螢石のあることは前に書いた。そして貴船といえば鉄輪の女でもある。この点で狂歌は付き合いがいい。〈貴船川鉄輪の火とは逆さまに尻にともしてゆく螢哉〉(『狂歌乗合船』所収、作者は桂帆)。⑦の螢の幻想的なシーン、⑧の一夜明けた夏の水辺と、俳諧というよりも限りなく和歌に接近した作品といえる(作者は⑦が倭足、⑧が千枝)。

 ①なつ虫の玉のひかりを愛るかな孔雀長屋の夕やみのそら
 ②ほたる狩隅田の堤に煙草のむ火だねは風につい取られけり

 『狂歌吉原形四季細見』所収。作者は①が千柳亭、②が沖澄。いかにも狂歌、和歌には望むべくもない人聞臭さが魅力である。
 狂歌師の元祖は暁月坊藤原為守であるらしいが、その魅力は雅に対する俗すなわち猥雑なエネルギーに他ならない。とりわけ近世において、もしも狂歌が存在しなければ五句三十一音の賑わいは半減したことであろう。ちなみに螢の捕獲数であるが『狂歌大観』で九 十匹、『江戸狂歌本選集』で五百五十五匹であった。
 
親螢子螢(初出「短歌人」平成15年10月号) 

 落合直文の『萩の家歌集』に次の歌がある。

  去年(こぞ)の夏うせし子のことおもひいでて籠の螢をはなちけるかな

 そしてこの歌から連想するのが加納諸平の歌である。一部再掲となるが『柿園詠草』からである。

   幼子をうしなひて七日にあたりける日、寺まうでしてかへりけるに、
   年平が来居たりしかば
  年月をへだてし人もおとづれぬあすや吾が子のかへりきなまし
   又のとしのその日に
  ゆきかへりたはるる蝶の袖すらも今朝は露けきなでしこのはな
  なでしこのかれにし日より一とせの露はみながら袖にかけてき
  あし垣にほたるはなちしおもかげはひるさへみえて露ぞみだるる
   馬尾風といふ病にてうせければ
  声かれてうせし子故にほととぎすなけばかたみと何しのぶらん

 二人に共通しているのは、主体は異なるが、螢を放つという行為である。自由になった螢はどこへ行くのか。

  夏の夜の野にぐはんぜなきをさな子を螢のつれて迷はするかな
                            隣笛(『狂歌栗の下風』)

 掌中の珠ともいうが大切に育てた子供はもういない。螢籠は空、此岸と彼岸、場所は異なるが放たれた蜜を追っているのであろう。
 これが大人の場合だと次のようになる。

  とぶほたる窓のうたたね夢さめて見えこし人のたまかあらぬか
  其子等に捕へられむと母が魂(たま)螢と成りて夜を来たるらし

 一首目は本居宣長、二首目は窪田空穂。螢は向こうの世界からやってくる。子供の場合だと、そっと広い世界に放ちやるのだが、このあたりが違っている。それぞれ二例だが対照的である。
 落合直文は文久元年(一八六一)の生まれ。石高は千石だが仙台藩の格式の高い家に次男として生まれている。しかし明治維新によって家庭環境も激変。落合直亮の養子となる。東京大学古典講習科に入学するも、戸籍上のミスであろうか、徴兵免除であるはずの養子直文に徴兵令書が届く。このため東京大学を退学。除隊は三年後の二十七歳。翌年「孝女白菊の歌」で名声を博し、二十九歳で第一高等中学校及び早稲田専門学校の講師となる。和歌革新運動の先駆者として浅香社を創立するのは明治二十六年、三十三歳である。
 唱歌「大楠公」は直文の叙事長詩「楠公」の一部抜粋のようであるが、桜井を舞台にして父から子への志の付託が美しく描かれている。これが螢の登場する掲出歌と正成正行父子との違うところである。
 前田透著『落合直文ー近代短歌の黎明ー』(明治書院)の「落合家系図」によると直文には八人の子供がいた。最初の妻との間に直幸と直道。二番目の妻との間に文子、澄子、直伸(なおのぶ)、直兄(なおえ)と直弟(なおと)の双子の兄弟、そして直美(なおよし)の男六人、女二人となっている。このうち文子は明治二十五年に生まれて次の年に死亡、直伸は明治二十七年に生まれて同年死亡、直弟も明治三十年に生まれて同年死亡となっている。ただ「直文年表」には文子も直伸も登場しない。直弟は明治三十年五月に生まれて明治三十一年八月没になっている。これは年表の方が正しいのだろう。そして「去年の夏」の歌は明治三十三年五月の「明星」二号に発表している。ちなみに「明星」の一号は明治三十三年四月である。このことからも「子」は直弟であると考えられる。『萩の家歌集』には作歌年代等の記述はないが、こんな歌もある。直文の死は明治三十六年、四十三歳だった。

  あつめたる窓のほたるよこころあらば子をおもふ闇をてらせとぞ思ふ
  螢おひて遠くもわれは来りけり子をおもふ闇にふみまよひつつ

 次に加納諸平は文化三年(一八〇六)の生まれ。父は国学者の夏目甕麿(みかまろ)。父の死後、和歌山の医者加納伊竹の養子となる。山本嘉将(かしょう)の著『加納諸平の研究』(初音書房)によると藩政紛糾の余波を受けて長年の同志であった長沢伴雄に毒を盛られたとある。

  我死なば売りて黄金にかへななむ親のものとて虫に喰すな

 右は伴雄の意書印である。俄には信じがたいが以後の数年、諸平は失心風を病む。しかも嘉永二年(一八四九)には家族で投獄の憂き目にあっている。その後の情勢の逆転で藩の国学所総裁に就任、安政四年(一八五七)没、五十二歳。
 藩命による『紀伊続風土記』編集のため奥熊野ほかを踏査。『竹取物語考』では「原竹取」について考察した。『類題和歌鰒玉(ふくぎょく)集』は近世歌壇における結社誌ないし総合歌集的な役割を発揮して他の類題歌集の盛行を促した。家集に『柿園詠草』。
 子供は五人。歌われているのは三女で名前は不明。天保八年(一八三七)生まれ、天保十三年(一八四二)五月、馬尾風にて没す。行年六歳。この女児以前にも二人の子供が亡くなっている。過去帳によると男(秋岸童子)。文政十年七月十七日没。子の数に入らない程の天折か、と山本は書いている。女(慧善童女)。天保三年十二月二十二日没。同じく、天保二年以後の出生天折。ちなみに政争に足を踏み入れて毒を盛られるのは弘化四年(一八四七)である。『校註國歌大系』(講談社)の第十九巻(近代諸家集五)によると馬尾風は「ぢふてりあ」、歌にもどって「たはるる」は「戯れる」。「なでしこのはな」は「撫でし子の意を掛く」、「みながら」は「悉皆」とある。亡くなったのは五月、袖の模様の蝶が子供の動くたびに戯れていた。そのように解したい。
 墓は和歌山城に近い海善寺にある。山門脇の園児通用口にプレハブ小屋があり二人の男性が詰めている。用向きを話すと親切にも案内してくれた。どうぞ、と言われても探すのは、困難だったろう。加納家の墓は寄せ墓として整理されたもので四基。「加納諸平墓」だけが自然石。あとは「栄寿院精誉貞進禅尼」か、少し見にくい。その後に春詳院寿得院夫妻の墓、隣すなわち諸平の後が加納伊竹家の加納歴代墓。夭折した子供たちが眠っているのだろう。
 落合直文の墓は都立青山霊園にある。管理事務所で五十円の寄附をして「都立青山霊園案内」をもらうと著名人墓地の中に記載があった。場所は一イー十三ー三。正面右に明治書院、左に大倉書店の献灯がある。入って中程右に通路を向いて柱状石に「落合直文之墓」、正面左に養父母の墓、右に「落合家之墓」その左側面に「昭和十九年四月改葬、落合直幸建之」「萩之家門下、鈴木學一謹書」とあり、墓誌の類はなかった。それにしても雑草が多い。
 私は父親螢と子供螢を思った。

  なき人の魂のゆくへかふる塚の卒塔婆のかげに螢飛ぶなり    『萩之家歌集』
 
橄欖の花(初出「短歌人」平成15年11月号) 

 平野万里(ひらのばんり)の歌集『わかき日』には螢が一匹とんでいる。

  山の夜(よる)、湯槽(ゆぶね)をかこむ石だたみ、湯気にうつりて螢のとべる。

 「伊豆に遊ぶ」とあるから温泉であろう。「湯気にうつりて」だから立ちのぼる湯気の中を飛行中ということか。幻想的であり、また珍しい取り合せでもある。
 そして湯につかっているのか、石畳に腰をかけているのか、過ぎ去った過去を懐かしむ風情の壮年の男が配されている。と読みたいのだが事実は、さにあらず。実際にも若い平野万里なのだ。新詩社同人としては初の個人歌集でもある『わかき日』は「巻の一」「巻の二」「巻の三」からなり、それぞれ明治三十七年・三十八年・三十九年の作品を収録する。明治四十年発行。螢の歌は「巻の三」に収められている。平野万里は明治十八年生まれだから、このとき二十一歳だった。明治という時代は若い。
 試みに他の歌人のデビュー時と比較してみよう。いずれも満年齢、括弧内は生年である。与謝野鉄幹の『東西南北』は二十三歳(明治六年)。晶子『みだれ髪』二十三歳(明治十一年)。若山牧水『海の声』二十三歳(明治十八年)。吉井勇『酒ほがひ』二十四歳(明治十九年)。石川啄木『一握の砂』二十四歳(明治十九年)。北原白秋『桐の花』二十八歳(明治十八年)。斎藤茂吉『赤光』三十一歳(明治十五年)。ひとり斎藤茂吉が後発であるが万里とは第一高等学校の寮が同じで「一しよにコンパニイなどもやつたことがある」(「平野万里氏)らしい。こうして見ても恵まれたスタートだった。違うのは平野にとって次の歌集のないことである。
 ではエピグラムに万葉集の〈ふゆごもり春の大野を焼く人はやき足らじかも我こころやく〉を置く作品を見ていこう。

  我が駒は夢の大野(おほの)のくれなゐの花のあひだをひた走りぬれ。
  夜の路、君が戸までを白うして桜さきぬれ、ともしび要(い)らぬ。
  あけむ朝、うぐひすに似る声をもてさましまつらむ、うま寝(い)しおはせ。

 巻の一。「我が駒は」。夢の中を走っているのではなく夢のような「大野のくれなゐの花のあひだ」を駈けていると解釈したい。浪漫に血肉を通わせたいのである。「夜の路」。宝塚ならシャンデリアに赤い絨毯の階段であるが『わかき日』の貴公子は家の戸まで桜を配し、その花明かりの中を恋人と歩こうというのである。「明けむ朝」。歌集全体の中で「巻の一」を位置付けるとすれば出会い編ということになろうか。貴公子は下僕のように優しい。「さます」のではなく「さましまつらむ」なのだ。「うま寝しおはせ」も同様である。「うま寝」は熟睡、「しおはせ」はサ変の動詞「す」の連用形に補助動詞「御座す」の命令形がついたものであろう。熟睡していらっしゃい。倦怠の入り込む余地は微塵もない。

  幸(さいはひ)はもとより、神意(しんい)いたるべし、与へられたる君し取らずば。
  春の夜(よ)の女王(によわう)の君のかたはらにわかき笛こそ吹くとなれぬる。
  『なにゆゑに啼くか、雲雀よ。』『人ふたり、さはなにゆゑに草にねむるか。』
  君は真珠(しんじゆ)、いつかれ人(びと)の麗(うる)はしう海におはさむ、花藻のなかに。

 巻の二は恋の成就編である。「君」は神から与えられたものだといわれても読者は些かも驚くものではない。ところで二首目の「こそ」に対する結びは「吹くとなれぬる」の「と」によって消滅したのだろう。では「なれぬる」はどうか。「押る」「熟る」「慣る」 (下二段)のいずれかということになるがニュアンスとしては「為る」(四段)を思ってしまうのだ。どうも意味を解釈する前段階で躓きそうだが四首目の「いつかれ人」は「傅く(大切にかしずく)」からきているのだろう。句読点と併せて独特である。

  姫は死す、南の国の王宮(わうきう)にかんらんの花ひらくといふ日。
  『誰(た)そ、立つは、そともの夜(よる)のくらやみに、』『方違(かたたがへ)にぞ来(こ)し人、われは。』
  悲しかり、鯨死ぬ声、老若(らうにやく)は天(てん)を拝(をろが)む、くれなゐの海。

 巻の一が出会い編、巻の二が恋の成就編とすれば巻の三は何と名付ければいいのだろうか。これらに続いて「伊豆に遊ぶ」の一連がある。ちなみに鯨の歌であるが巻の二では〈夏の海、威ある姿をほこりかに鯨は見ゆれ、水平線に。〉と歌われていた。こうなると私生活を覗いて見るほかないだろう。昭和女子大学近代文化研究所の『近代文学研究叢書』(第六十二巻)から抄出する。

  明治三十七年頃から万里は新詩社の会合で知り合った玉野花子(本名鯰江薩摩)との恋 が成就して事実上結婚していた。その幸せな日々が、この処女歌集『わかき日』に溢れ ていたがその幸福は長くは続かず、花子は病を得て明治四十一年一月十四日二十五歳の 若さで万里の深い愛情に包まれて他界した。

 作品世界の主人公たちが実際の二人よりも先を歩いていたのだ。このように理解するほかないだろう。また『近代文学研究叢書』からも、これ以上のことは知り得ない。ただ偶然に啄木の日記を読んでいたら明治四十一年五月二日のところで、その後の平野万里が登場していた。鷗外宅の観潮楼歌会からの帰途である。

  吉井、北原二君と共に、動坂なる平野君の宅に行つて泊る。床の間には故玉野花子女 史の位牌やら写真やら、色んな人形などを所せく飾つてあつた。寝てから吉井君が、十 七の時、明治座に演じた一女優を見そめた初恋の話をした。平野君は頻りに、細君の有 難味を説いたが、しまひになつて近所の煙草屋の娘の話をする。眠つたのは二時半頃で あつたらう。

 「近所の煙草屋の娘」の話はともかくとして玉野花子とは正式な手続きを踏んだわけではなかったらしい。
 平野万里の墓を多磨霊園に訪ねると正面に「平野家之墓」、右に「先祖代々之墓」がある。「平野家之墓」の裏を見ると「昭和四十四年二月、平野千里建之」とある。そして左中央部に横を向く墓が一基あった。土台に「平野」とあるが角柱に「玉野花子之墓」とある。「平野家之墓」には入れないための建立であろう。そして入口に見馴れない木があった。もしかすると二人の記念樹かもわからない。橄欖ならカンラン科の常緑高木もしくはオリーブである(歌集に登場するのは後者だろう)。さてゴルフボール大で黒褐色の実らしきものはなんだろう。カメラを構えたが、しかしすぐに止めた。平野万里は昭和二十二年二月十日没、六十一歳。玉野花子の死後、二度の結婚生活を営んでいる。

  永からむ来む日にひろげ別れつる面影を見む、みじかかりし日。
 
北原白秋(初出「短歌人」平成15年12月号) 

 題詠が中心だった和歌の時代と違って近代短歌になると螢を歌う歌人と歌わない歌人が登場してくる。題材から自由になったがゆえの素材に対する親疎がはっきりしてくるせいだろう。白秋の場合、短歌・詩・童謡を含めて螢の扱われる回数は多い。大正二年に刊行された第一歌集『桐の花』から引く。

  ああ五月(さつき)螢匍ひいでヂキタリス小(ち)さき鈴ふるたましひの泣く
  アーク燈点(とも)れるかげをあるかなし螢の飛ぶはあはれなるかな

 一首目は「初夏晩春」の中の小題「庭園の食卓」に収められている。ほかに〈昼餐(ひるげ)どきはてしさびしさ春の日も紅茶のいろに沈みそめつつ〉もあるから昼の螢だろう。二首目は「薄明の時」という題からもわかるが小題「放埒」に収められている。詞書に「鳴きしきるは葦きり、舌うつは海、さるにてもせんなや、夜の明けがたのつれびき」とあって、こちらも螢の時間帯ではない。十二時を過ぎたシンデレラである。

  道のうへをあるく螢のひかりなき我が身にしあれば世をもてらさず   熊谷直好

 詞書に「朝とく物へ行くに、螢の道に出でてはひあるくを」とある。これなどは螢が白日の下にさらされる先例であるが、見てはならないものを見てしまった、そんな哀れさあるいは傷ましさが漂っている。もっとも作品の方は新発見の螢を「ひかりなき」の序詞として冴えない「我が身」に転化しているから少しもおもしろくない。
 では白秋の場合はどうか。まずは詩集『思ひ出』の中から「螢」を見てみよう。ちなみに刊行年は明治四十四年である。三連のうち第一連「夏の日なかのヂキタリス、/釣鐘状(つりがねがた)に汗つけて/光るこころもいとほしや。/またその陰影(かげ)にひそみゆく/螢のむしのしをらしや」。『桐の花』では「ああ五月」の歌となって息づいていることがわかる。第二連はどうか。「そなたの首は骨牌(トランプ)の/赤いヂャックの帽子かな、/光るともなきその尻は/感冒(かぜ)のここちにほの青し、/しをれはてたる幽霊か」。思い入れが強かったのだろう、『桐の花』中に再掲して次の文章が展開する。

  業平の高い調(しらべ)はまさに感じ易い夜の螢のセンチメントである。私達は時としてその 繊細な平安朝の詠嘆、乃至は純情の雅びやかなる啜り泣き、若くは都鳥の哀怨調に同じ 麗らかな心の共鳴を見出す事はある、而しなほ苦い近代の藝術にはまだその上に堪へが たいセンジユアルな日光の触覚と渋い神経の瞬きとを必要とする。鏽銀の昼の燻しを必 要とする。さもなくばアーク燈の眩ぶしい光のかげにあるかなきかに飛ぶ夜の螢の燐光 を闇の夜のそれよりも更に哀れぶかくやるせないものに感じなければならないのである。

 センジユアルはセンシュアル。『広辞苑』を開くと「①肉感的。官能的。②肉欲的」とある。これに「透き徹つたウオツカと螢の赤い点、その冷たさ悩ましさ、私は染々と昼の螢に執着する。而してその銀の燻(いぶ)しをかけた蒼白い哀傷の光を愛する」また「私は思ふ、 (略)。/而してまた公園の昼のアーク燈を、白昼のシネマトグラフの瞬き、或は薄い面紗のかげに仄かに霞む人妻の愁はしい春の素顔を」という「昼の思」の文脈を重ねるとき、

  君かへす朝の舗石(しきいし)さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

に代表される隣家の人妻、松下俊子との恋愛も事件ではあったが必ずしも事故ではなかったと思われてくるのである。
 白秋の人生に、もう一度、昼の螢が飛ぶ。

  幽(かす)かなる翅(はね)立てて飛ぶ昼の螢こんもりと笹は上をしだれたり
  昼ながら幽かに光る螢一つ孟宗の藪を出でて消えたり

 第三歌集『雀の卵』の「葛飾閑吟集」中「螢四章」からの抄出である。この間の事情を年譜(岩波書店『白秋全集』別巻)で確認すると明治四十三年九月、松下俊子と相識る。「パンの会」の最盛期である。明治四十五年七月、俊子の夫から姦通罪として告訴されるが、弟鉄雄の奔走により示談が成立、免訴。大正二年五月、俊子と同居。九月、俊子の協議離婚成立。大正三年七月、夫婦喧嘩の末に俊子が伊賀の実家に帰る。八月、「離別状」を書く。結婚、離婚という言葉が使われていないのは正式な入籍ではなかったのだろうか。大正五年五月、江口章(あや)子と結婚。章子は「のち福岡県で検事となった安藤茂九郎と結婚、九年後離婚し上京、当時平塚雷鳥のもとに身を寄せていた」。これ以後、翌年六月の転居までが『雀の卵』に登場する葛飾時代である。大正七年四月、小田原市に移る。大正九年五月、三階建洋館を新築するにあたって「地鎮祭をする。地鎮祭のあとの宴会で、章子は北原鉄雄や山本鼎と感情的に対立、家出。章子はのち帰宅するが、白秋は意を決して離別」。
 瀬戸内寂聴の伝記小説『ここ過ぎてー白秋と三人の妻ー』を読むと章子の家出は呢懇の新聞記者と一緒だったという疑惑があるらしい。真偽はともあれ、俊子も章子も白秋と離別後、二度結婚して二度とも破婚している。破滅型ないし破壊型ともいうべき人生の業を生きなければならなかった。
 大正五年に出た『白秋小品』から「螢」の概略を見てみよう。葛飾時代の章子との生活を基盤にした散文である。
 家に遊びにくる子供たちの手のひらに白秋は絵を描いてあげる。金魚、花、雀、蝸牛、蛇、蜻蛉、蛙、蕪、手のひらに一つである。すると一番小さな女の子が一つではいやだと首を振る。よしよし、白秋は指先に螢を描いてやる。十匹である。妻には小指の爪に一匹だけ留まらせる。またの日、お礼に葡萄がなったら持っていくという。玉蜀黍がとれたら持っていくという。そして小さな女の子は鳳仙花を持ってくる。みんな優しいからと云って章子は続ける。

  それでは私は小指に螢を描いて頂いた御礼に何を差上げませうと笑つた。私はそれは ね、私がお前を愛したのははじめから何も報酬を予期して為た事ではないし、どうでも いいけれどお前が済まないと思ふならね、それはと云つて、私はその手を急に引寄せた。  妻の小指の首の赤い螢が飛んで私の襟頸に留つた。

 再び『ここ過ぎてー白秋と三人の妻ー』に戻ると、瀬戸内寂聴は「俊子は、白秋に、苦しい恋の産物として、『桐の花』一聯の絶唱を遺させている。/章子は、白秋に、『雀の卵』を産ませている」と書く。これに準えれば安定した家庭生活をもたらした最後の結婚は白秋をして国民詩人に押し上げたということになる。
 
斎藤茂吉(初出「短歌人」平成16年1月号) 

 「蛍狩」を手元の『広辞苑』で見ると「螢を捕る遊び」とある。平凡社の『国民百科事典』では「ホタルを捕え、愛でるのを〈螢狩〉と称し」とある。害虫ではない。江戸時代の狂歌にも〈かる人のくたびれ足はさもなくてとりし螢はかごでかへりぬ〉とあるように観賞の対象である。したがってこともあろうにあるいはよりによってその光が握り潰されるとなれば前代未聞の事件である。

  ほのぼのとおのれ光りてながれたる螢を殺すわが道くらし
  すべなきか螢をころす手のひらに光つぶれてせんすべはなし

 『赤光』の巻頭「悲報来」十首のうちの〈ひた走るわが道暗ししんしんと堪(こら)へかねたるわが道くらし〉に続く二首、詞書に「七月三十日信濃上諏訪に滞在し、一湯浴びて寝ようと湯壺に浸つてゐた時、左千夫先生死んだといふ電報を受取つた。予は直ちに高木なる島木赤彦宅へ走る。夜は十二時を過ぎてゐた」とある。
 初めて読んだのは高校のときである。なんと理解したらよいのかわからなかった。手で潰せるのは蚊もしくは蟻までである。それ以上は考えられない。茂吉を育てた風土性に原因があるのだろうかと思ったりもしたものだった。
 こんど読み直していて気がついたのだが螢だけではなかった。

  ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕(やまこ)殺ししその日おもほゆ
  うごき行く虫を殺してうそ寒く麦のはたけを横ぎりにけり
  をさな妻こころに守り更けしづむ灯火(ともしび)の虫を殺してゐたり

 これを『あらたま』にまで拡大すると次のような具合であり、どうやら茂吉自身に起因しているようなので納得もした。

  わがこころせつぱつまりて手のひらの黒き河豚(ふぐ)の子つひに殺したり
  河豚の子をにぎりつぶして潮もぐり悲しき息をこらす吾(あれ)はや
  かんかんと真日照(まひて)りつくる畑(はた)みちに豚の子のむれをしばしいぢめぬ
  むらぎものみだれし心澄みゆかむ豚の子を道にいぢめ居(ゐ)たれば
  朝みづにかたまりひそむかへるごを掻きみだせども慰みがたし
  さるすべりの木(き)の下(した)かげにをさなごの茂太(しげた)を率(ゐ)つつ蟻をころせり
  宵ごとに灯(ともし)ともして白き蛾の飛びすがれるを殺しけるかな

 読んだときの震度を強中弱で表すと「ゴオガンの」は金瓶(かなかめ)時代のことであれば限りなく零に近い弱。「うごき行く」は必然性に欠けるため中、「をさな妻」は虫の不運であり弱、「わがこころ」「河豚の子」は文句なく強、「かんかんと」と「むらぎもの」の二首は止せばいいのに中、「朝みづに」大人げないので中、「さるすべりの」かろうじて弱、「宵ごとに」は「箱根漫吟」の中の一首でサモアランと弱。キーワードとしては「せつぱつまりて」「息をこらす」「みだれし心澄みゆかむ」のあたりであろう。
 では茂吉自身の語るところはどうか。『作歌四十年』を見てみる。「すべなきか」の歌「手の掌に捕へてつぶした螢と、『せんすべはなし』といふ心境とを融合せしめる手法であつたが、どうにか纏つたやうにもおもふ」。「さるすべり」の歌「特別に『蟻を殺せり』と云はなくともよかつたかも知れないが、童子の行為がそのまま歌言葉になつた」。殺したのは「茂太」になっている。「宵ごとに」の歌「夜になると電灯に実に沢山の甲虫だの蛾だのが集まつて来たものである。『飛びすがれるを殺す』は私の感傷であつた」。予測できたことであるが、どうも食いたりない。
 塚本邦雄は『茂吉秀歌『あらたま』百首』の中で〈ふり灑(そそ)ぐあまつひかりに目の見えぬ黒き蛼(いとど)を追ひつめにけり〉に関連して、こうした嗜虐趣味「幼時期退行傾向(インファンティリズム)、もしくは幼さび、あるいは慄然たる天真爛漫性を、匿(かく)さないところに、この天才の特徴を認めるべきだらう」と述べている。河豚の歌については「無邪気といふより屈折した代償行為だ。陸の敵(かたき)を海で打つどころか、女敵(めがたき)を河豚に転嫁してゐるのだから、滑稽を通り越してむしろ凄(すさま)じい」としている。北杜夫の『青年茂吉「赤光」「あらたま」の時代』で最初の螢の歌二首を引用しているが「いかにも若い頃の茂吉ならではのものと思うが、あえて註はほどこさない」として話題は茂吉の足の早さに移動する。ただその前に「この十首の連作の初めのほうの歌は、まさしく茂吉が、生来豊富に持っていたDRANG(衝迫)を如実に現わしている。その心情の背景には、ずっと続いていた師との対立が複雑にからみあっていたことだろう」と述べている。小池光も『茂吉を読むー五十代五歌集』の中で「以前にも述べたように茂吉には昆虫や小動物を目のカタキにして攻撃しこれの撲滅に奮闘する系列の歌がある」と書いている。この「以前」に惹かれて頁を遡ったがでくわさない。もしかしたらと思って「短歌人」に連載当時の記事にもあたったがでくわさなかった。大切な財布や免許証がポケットから出てこない感じであるが、ともあれ凡人の私には開いた手の中に螢が潰れていたり、河豚の子が形骸をなくしていたりするのは想像もできないことである。生理的にも耐えられない。
 高橋光義の『茂吉歳時記』は鳥・花・虫からなり、巻末には各歌集別登場数の統計が表になっている。それによると螢は「虫」の部では三十一種類中、蝉と蟋蟀の一四八首、蜻蛉の四十首、蠅三十首、馬追の二十八首に次いで多い二十七首。蟻と同数の五位である。なお当然といえば当然だが歳時記に「悲報来」の二首は登場しない。あくまでも「DRANG (衝迫)」の産物なのだ。

  蚊帳のなかに放ちし螢夕さればおのれ光りて飛びて居りけり
  草づたふ朝の螢よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ
  この山に飛びかふ螢の幽かなる青きひかりを何とか言はむ
  螢火をひとつ見いでて目守(まも)りしがいざ帰りなむ老の臥処(ふしど)に

 歌集名は右から『赤光』『あらたま』『遠遊』『白き山』である。ヨーロッパに留学中の茂吉、大石田の茂吉それぞれに趣があるが初期の作品では〈草づたふ〉に愛着が深かったのだろう。大正十四年に茂吉は『赤光』と『あらたま』の自選歌集を編むが、これを『朝の螢』と命名している。歌意は『作歌四十年』に聞こう。

  朝草のうへに、首の赤い螢が歩いてゐる。夜光る螢とは別様にやはりあはれなもので ある。ああ朝の螢よ、汝とても短い運命の持主であらうが、私もまた所詮短命者の列か ら免がれがたいものである。されば汝と相見るこの私の命をさしあたつて死なしめては ならぬ(活かしてほしい)、(略)。

 また「赤彦君は私のためによく朗吟してくれたものである。私はそれを聞いて涙の出るのを常とした」ともある。
 
窪田空穂(初出「短歌人」平成16年2月号) 

  帰りくるふる里の路の夜となればあなめづらしく螢飛ぶ見ゆ
  久にわれ見ずもありしと嘆きつつ暗き田の面に飛ぶ螢見る
  螢来(こ)と見やる田の面(も)は星の居(ゐ)る遙けき空に続きたりけり
  其子等に捕へられむと母が魂(たま)螢と成りて夜を来たるらし
  門川の汀の草に居(ゐ)る螢子にとらせけり帯とらへつつ

 最初の二首は『濁れる川』所収。これを含む一連「日本アルプスに登らんとて、途次、久しぶりにて郷里に帰りて」とある。全集年譜を開くと大正二年三十七歳である。あとの三首は『土を眺めて』所収。大正六年、四十一歳。妻藤野、死産にともなう子癇のため死去。三十歳。残された長男と長女を空穂(うつぼ)は妻の生家に託すことになる。自身も五月末から八月まで生家で過ごしている。この折りに取材した作品であるが実際は「一年間を、全く歌を失って、空白に過ごした。漸く作歌欲が萌すと、第一に、胸にたまっている亡妻に対する歎きを吐き出さなければならなかった」(「歌集について思い出す事ども」)。二三ヵ月の間に長歌十八首、短歌四八三首をものにしたらしい。大正七年十二月刊行。絕唱である。

  悪しき妻(め)にありきや我れは、君よとぞ妻の問へるに、よき子なり誠に汝(な)はと、答へし  と人の云へれど、我が心憂(うれ)へに乱れ、其事を全(また)くし知らず有りやあらずも。

 空穂の生家は長野県東筑摩郡和田村、妻の生家は隣の島立村、現在ではどちらも松本市である。空穂の生家は保存され、窪田空穂記念館も建っている。しかも妻の生家とは「徒歩一時間ほどの距離」(空穂『わが文学体験』)、「一里とは離れていない」(窪田章一郎『窪田空穂の短歌』)、加えて妻藤野は空穂が島立小学校代用教員時代の教え子だったとくれば、愛と死の物語の舞台に立ってみたいというのが人情だろう。
 JR松本駅に着いた特急「しなの」から降りたのは九時五十九分、しかし山形線「和田郵便局前」行きのバスは九時三十分に出ていた。次は十一時十分である。空穂は松本高等小学校(現、開智小学校)への距離二里の道を通学したとあるが、私はタクシーで生家に乗り付けた。誰もいない。庭にまわると大きな木が聳えていた。

  この家と共に古(ふ)りつつ高野槇二百年(ふたももとせ)の深みどりかも           (歌碑)

 向かいが記念館である。入って右側に独身時代の空穂が藤野に出した手紙が展示されている。幸福の予感に満ちたものだ。あと丁寧に見てまわったが操に関する展示はなかったように思う。空穂は生涯に三度の結婚をしている。操は二度目の妻そして藤野の妹でもあった。大正六年十月結婚、操二十七歳。一子を儲けるが昭和三年十月離婚。結婚生活十一年。昭和五年四月死去。享年三十八歳。残された子供は十一歳。操が死んだ年の十月に空穂は三度目の妻を迎えている。二階は展望ギャラリーである。正面に生家が見える。その背後に遠く日本アルプスが美しい。空穂三十七歳で槍ヶ岳登山、四十六歳のときに烏帽子岳から槍ケ岳を縦走、四十七歳のときには章一郎と白骨温泉に遊び、乗鞍岳に登っているが、なるほど子供の頃から親しんだ風景だったのだ。
 記念館を出たあと無極寺に向かった。分骨埋葬されているらしいが、どれがそうなのかわからない。次に歌碑公園に行く。旧和田村小学校跡地である。空穂の母校であり、のちに代用教員もしている。太田水穂も、ここで教えていたことがあり、見逃せない。

  うたた寝の親の枕べ踏むごとく踏みてわが行くふる里の路(みち)を       (歌碑)

 予定ではこのあと島立小学校を見て奈良井川の畔を散策するつもりだった。しかし気持ちが萎えていた。一つには交通の便の悪さである。行きはなんとかなるだろう。しかし帰りを考えるときつい。あと一つの理由は島立村が愛と死を歌って絶唱の舞台であることは間違いないにしても、いま一組の母子にとっては必ずしもそうとはいえないことだった。窪田章一郎の『窪田空穂の短歌』から引くと、こうなる。

  遺児となった幼い二人は、母の生家の祖父母のもとに預けられたが、この孫らを将来 他人の手にゆだねるには忍びないというのが、祖父母の気持であったという。たまたま 離婚して里にいた操を後妻にというのが、孫らを手離す条件のように強く求められたと いう。このようなことで、村の小学校に一年通学した私は、再び東京へ帰り、新しい家 庭に迎えられることとなった。操の以前の離婚は、素質として持っていたヒステリー症 状の昂まったためであったようである。しかしこの当時は十分に治癒して、新生活に堪 え得るものと両親たちは考え、娘にも孫らにもよかれと希望を託したのであった。しか し持病には起伏があり、この再婚生活は明るい幸福をもたらさない成り行きとなった。

 遺児とは長男章一郎と長女ふみである。そしていま一組の母子とは操と空穂の次男茂二郎である。昭和十八年十月応召、戦後シベリアに抑留、二十二年二月に病死、享年三十歳。『冬木原』に「捕虜の死」として歌われている。藤野との死別を歌った一連と双璧をなす作品であろう。長短五首よりなるが最後の一首を引く。

  死を期(ご)して祖国を出でし 国防の兵なる彼等、その死(しに)のいかにありとも 今更に嘆く  とはせじ。さあれ思ふ捕虜なる兵は いにしへの奴隷にあらず、人外の者と見なして  労力の搾取をすなる 奴隷をば今に見むとは。彼等皆死せるにあらず 殺されて死に  ゆけるなり、家畜にも劣るさまもて 殺されて死にゆけるなり。嘆かずてあり得むや  は。この中に吾子まじれり、むごきかな あはれむごきかな かはゆき吾子。

 長歌のほかにも「子を憶ふ」一連があるし、挽歌の多いのは「弟を待つ(一)」「弟を待つ (二)」「弟を待つ(三)」「悲報・幻(一)」「招魂告別の式」「幻(二)」を含む章一郎の歌集『ちまたの響』も同様である。いずれも「私のただ一人の弟を悲しむ歌」(「後記」)となっている。

  一等兵窪田茂二郎いづこなりや戦(いくさ)敗れて行方知らずも
  溺れこみ本読みしかば概論にものいふ好まず若かりけれど

 駅前にもどることにしたものの、またしてもバスに乗り遅れた私は一時間と少しを停留所で過ごす羽目となった。行き交う車は多い。とり残された時間の中で私は兄を思い、弟を思った。そして縁のうすかった姉と妹を思って微吟した。

  兄川にならぶ弟川(おとがは)ほそぼそと青山峡を流れてくだる         『朴の葉』

 
寺山修司(初出「短歌人」平成16年3月号) 

 寺山修司の『さかさま博物誌青蛾館』に「螢火抄」という小篇がある。それは少年の日、
机の引出に閉じこめた螢の話である。

  その螢は、学校の裏の草むらのなかでつかまえた。
  得意になった私は、その螢を見せるために母の寝室まであがっていった。
  すると母の寝室から異様な声がきこえてきた。それは、男の声と女の声とが、縄のよ
 うにねじれあってかもし出す、情事のうめき声であった。
  また来ているのだな、と私は思った。それは、母の許に週末ごとに訪ねてくる中年の 『おしさん』の声であった。父に早く死なれた私たち母子にとって『おじさん』の存在 はきわめて微妙だったのである。
  私は螢を母に見せるのをあきらめ、自分の部屋に持ち帰り、それを机の引出に閉じこ めてしまった。まっくらな机の引出のなかで螢の火だけが灯っているだろうな、と思っ てみることは、なぜか悲しい空想であった。

 その夜、「私」の家は全焼することになるのだが原因は引出に閉じこめた螢の火であったろう、という話である。
 「鳴かぬ螢が身を焦がす」その螢の新展開である。未見であるが映画「田園に死す」でも主人公に同様のことを語らせているらしい(なお映画は昭和四十九年発表、本は昭和五十五年刊行)。残念なのは歌集『田園に死す』を含む『寺山修司全歌集』に螢の歌は一首も登場しないことである。したがって番外篇ということになる。引出を検索すれば〈生命線ひそかに変へむためにわが抽出しにある 一本の釘〉〈抽出しの鉄錆びつつ冷えていん遠き避暑地のきみの寝室〉、閉じこめるなら〈母よわがある日の日記寝室に薄暮の蝶を閉じこめしこと〉〈会議室に一羽の鳥をとぢこめ来てわれあり七階旅券交付所〉があるものの後が続かない。しかし母の歌なら別である。

  そら豆の殻一せいに鳴る夕母につながるわれのソネット
  さむきわが射程のなかにさだまりし屋根の雀は母かもしれぬ
  暗黒に泛かぶガソリンスタンドよ欲望は遠く母にもおよび
  山鳩をころしてきたる手で梳けば母の黒髪ながかりしかな
  大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ

 右から『初期歌篇』、『空には本』、『血と麦』、未刊歌集『テーブルの荒野』、『田園に死す』となる。このうち『血と麦』までは現代仮名遣い、『テーブルの荒野』以降は歴史的仮名遣いである。『初期歌篇』の貧しくとも明日を祝福された母子の姿が次第に変貌し、妖しくなっていくのがわかる。『田園に死す』では「寺山セツの伝記」と題して一度は、

  亡き母の位牌の裏のわが指紋さみしくほぐれゆく夜ならむ

と葬ってみせる。だがそれも長歌「修羅、わが愛」では「一年たてど 母死なず 二年たてども 母死なぬ 三年たてども 母死なず 四年たてども 母死なぬ 五年たてども 母死なず 六年たてども 母死なぬ 十年たちて 船は去り 百年たちて 鉄路消え よもぎは枯れてしまふとも 千年たてど 母死なず 万年たてど 母死なぬ」となる。寺山修司の『家出のすすめ』は「他人の母親を盗みなさい」で書き出されている。そこで語られるのは「裸電球と四畳半の独身アパートの荒野での自立は、つねに自倒の不安とうらはらであるが、あわせられた家族カードの点数によって発言量を増大してゆく『家』依存の『ファミリー・パワー』には青年を解放する機会を生むことなどないでしょう」また「望郷の歌をうたうことができるのは、故郷を捨てた者だけである。そして、母情をうたうこともまた、同じではないでしょうか?」と戦争未亡人である母親との葛藤を色濃く反映したものとなっている。家出そのものも舞台を「青森」という異次元に移して未完である。 風土社の『寺山修司全歌集』が出たのが昭和四十六年一月、角川文庫の『寺山修司青春歌集』が出たのが昭和四十七年一月、その差わずかに一年である。その「後記」の一節に、こうある。

   少年時代に、文庫本の『石川啄木歌集』をポケットにいれて川のほとりを散策した  ことを思い出し、感懐にとらわれている。

 本格的に歌を作り始めた頃に『寺山修司全歌集』ついで『寺山修司青春歌集』を読んだ一人として私も素直に右の一節と重なる部分があった。つまるところ啄木に代わる人という印象である。
 愛誦性、才能、若書き、東京、北を指す望郷、そして不幸の匂い。なんなら夭折もある(歌集『田園に死す』の刊行は二十八歳)。では修司にあって啄木にないもの、たとえば幸福論である。「幸福の相場を下落させているのは、幸福自身ではなく、むしろ幸福ということばを軽蔑している私たち自身にほかならないのである」(『幸福論』)、あるいは「森の中をはだしで駈けまわり、自製の電信線を張っていたエジソン少年が、やがて大都会の孤独な生活者たちの声と声のあいだに電信線を張りめぐらす電話を発明し、見えない人間を実在化し、スクリーンに光と影だけの人間のドラマをうつし出して、幻想に市民権を与えたことを思うとき、私はエジソンの発明を、幸福論としてみないわけにはいかない」(『さかさま世界史 英雄伝」)、これらは「僕のノオト」(『空には本』)の「『私』性文学の短歌にとっては無私に近づくほど多くの読者の自発性になりうる」という私性論が発芽したものと私は考えている。

  啄木祭のビラ貼り来し女子大生の古きベレーに黒髪あまる
  旗となるわが明日なれよ芽ぐむ木にかがみて靴をみがきいるとも
  その思想なぜに主義とは為さざるや酔いたる脛に蚊を打ちおとし

 寺山修司が九歳から十二歳までを過ごした青森県三沢市に寺山修司記念館がある。建物からしてサイケ調である。駅前の寺山食堂の二階に間借りしたとあるのでJR三沢駅から行く方法に執着したが接続が悪い。とどのつまりは八戸から下北周遊バスの乗客となった。予定の見学時間は三十分だが客は私と連れ合いの二人である。一時間に変更してもらった。ゆっくりどうぞ。そしてガイドさんが続けた。天才とか奇才とか呼ばれていますが東京のような人気はありません。中に入ると何事かと思うが、たくさんの机が置かれている。机の上には懐中電灯が置かれている。引出を開けてみる。少し暗いので懐中電灯で照らしてみる。なるほど、こういう仕掛けなのだ。映画のチラシがあった。自筆原稿があった。愛用品が置いてある。スケジュールを書き込んだ手帳があった。数個でやめてしまったが、たぶん今も寺山修司という螢は引出のどこかで明滅していることだろう。

辰巳泰子(初出「短歌人」平成16年4月号) 
 
 螢の歌にも、過去から現在へいくつかのターニング・ポイントともいうべき契機があるようである。一つは歌人が題詠から開放された時点である。ここで螢を歌う歌人と歌わない歌人が顕著になる。仮に親螢派と疎螢派とでも呼んでおこう。
 次にくるのは激しい時代の変化である。いま地方自治体の総合計画を始めとするキャッチフレーズに必ずといっていいほど水と緑が謳われている。それだけ蔑ろにされてきたということだろう。道路がアスファルトで覆われるのはいいことだった。駅前にビルが建つのはうれしいことだった。コンクリートで固められた護岸工事も農薬散布も不思議でなかった。いつか螢は遠い存在になり親螢派も目にする機会が少なくなっていった。
 したがって現在に近くなるほど螢の歌は少ない。

  まへをゆく日傘のをんな羨(とも)しかりあをき螢のくびすぢをして
  夏闇はこはいほうたるなほこはい掌をはなさないお母さんこはい
  ほたる散つて水のあまさに痴(し)れてゐたあれはたしかに十九歳(じふく)のころか

 辰巳泰子の暮らしが他の歌人に比較して螢と出会いやすいとは思わない。しかし頻出度は群を抜いているだろう。右から第一歌集『紅い花』所収、第二歌集『アトム・ハート・マザー』所収、さいごが第三歌集『仙川心中』所収となる。こうして見ると螢は現実とは距離を置いた作者の情念の世界で息づいていることがわかる。

  逝かしめし子と観るほたる 真白くてうつくしき子をわが子とおもふ
  流せし子 流れゆきし子 縫ふごときしぐさしながら光りてをりぬ
  ほたるほたる生きて飛ぶなりじふねんのなみだはじめてながすこよひに
  あいまいなわかさのじぶんかつてさをしんににくみてゐたるひにとぶ

 第四歌集『恐山からの手紙』の第二部「朗読作品」、「河津川閑吟集」からの抄出である。河津川は仙川と同じく現存する川の名のようであるがタイトルに選ばれた背景はわからない。作者となんらかの交渉があった土地なのだろう。さて一首目であるが作中の人物は亡くした子と螢を見ている。しかし「真白くて」以下は二人で見ている螢の趣もある。文字通り幻想の世界である。二首目で亡くした子が流産だったことがわかる。水子である。三首目の「じふねん」には十年という歳月が設定されているのだろう。同時に南無阿弥陀仏を十回唱えるという十念の思いが重なっている。どちらか一方では物足りない。四首目、云わずもがなであるが水子は見ず子、なんにもないところで螢は飛ばない。これらより前に〈手足縛つて麻酔を打ちしとほき町 私闇になほもあかるむ〉がフラッシュバックのように登場し、傍景に〈河童はをんなの裾に興味なくただ遊びあふちからまかせに〉が置かれ、リフレインとして〈あそびあふほうたるの子は罪もなく電のごとくにひかるたまゆら〉が一幕三場というべきか、それぞれの場面で使われている。
 ところで「ホーホー螢こい」が地方によって異なるのは「螢田」の章でも触れた。その続きである。相馬大著『わらべうたーー子どもの遊びと文化』によると山口では「ほう ほう 螢来い/阿弥陀の光で/笠着て来い/われの水(みぞ)はどろ水/おらの水は甘露水(かんなみぞ)」、鹿児島では「螢来(け) 螢来 とこせ/鉄砲町の坊さんが/提灯とぼして/待っちょる/待っちょる」らしい。そして次のように述べる。

  この夏の風物詩の前には、この螢の光は死者の魂のように見ていた歴史があったのだ と思う。それが「阿弥陀の光で」とか「甘露水」とか「坊さんが提灯とぼし」ともなっ たのだろう。それも、早死にした子どもらしく、「太郎吉つぁん」とか「金吉つぁん」 などともうたわれている。

 また彼岸の迎え火を素材にした童歌を例にとって「祖先の霊を呼ぶのは、子どもの発想からなったわらべ唄ではない。おとながしていたものを、子どもがゆずりうけた唄である。(略)。子どもたちが『来い』と呼ぶものには、精霊が関係しているものと思われる。『螢来い』というだけで、敬語を使わないところにも、幼き者の霊を呼んでいることがわかる」とした上で「この蛍を呼ぶ唄は、水子の霊を呼ぶ唄であったのかもしれない」と結んでいる。おもしろい指摘である。
 螢の成虫が現われるのはゲンジボタルで六月から七月、ヘイケボタルで六月から九月、わずか二週間の命であるが、桜前線と同様に南から北へ北上していく。そして盂蘭盆は旧暦の七月十五日、新暦となった今も東京は七月十五日らしいが関西では八月十五日、いずれにしても螢の季節である。こうしたことも手伝ってのことであろう。両者の親密度には深いものがある。
 話を「河津川閑吟集」にもどすが、この一連はリフレインを一首に勘定すると二十二首。これに対して歌集名ともなっている「恐山からの手紙」は二四四首。歌集の総数が三七五首であるから圧倒的なボリュームである。第一部「羈旅歌」となっており、小題で繋ぐと「上野駅」「田名部三の市」「五月一日、開山」「ふたたび田名部」「尻屋崎行」「円通寺」「田名部駅」「大畑港」「延泊」「奥楽研渓谷」「風間浦村」「大間崎」「佐井村」「連絡船出航」「弘前りんご園」となる。メインは日本三大霊場「恐山」、母と子の二人旅である。片や物見遊山でない大人の旅、それに付き合わされている八歳の少年、二人の織り成す奇妙な旅の一部始終である。

  恐山にはおかあさんとやいちくん ただ一つづつの石を積みをり
  やいちくんと巡るぢごくのたのしさはこの世のたのしさに似てゐます
  やいちくんとはぐれちまったかなしさをお地蔵さまが見てくれてゐます
  あんあん・あん・あんあん・あいん・あいいいんお馬に逢へても泣いてばかりよ
  長湯するほつとり崖の女湯で「ぼくはとつても温泉が好き」
  ローリーエース飲まう・のもおう番台を挟んで叫んでゐる男の子

 ここはディズニーランドではない。好んで「やいちくん」の来る場所ではない。それと「おかあさん」の意識のずれが一首目の「ただ一つづつの石を積みをり」や二首目の「ぢごくのたのしさ」「この世のたのしさ」、三首目の「お地蔵さま」の意味を重層的にしているだろう。あとの三首は説明不要、見てのとおりの活躍である。たぶん「ホーホー螢こい」と無邪気に螢を追う少年や少女と、辛い思いをした親たちが同じ川辺で見る螢の違いであろう。

前登志夫(初出「短歌人」平成16年5月号) 
 
 吉野といえば桜。
 桜で思い出すのは中学校のグラウンドである。もう四十年近く昔のことである。周囲に桜の木が植わっていた。咲くときれいである。しかし時季が過ぎると悲惨だった。毛虫の大量発生である。フェンスを越えた枝から落ちた毛虫が車に轢かれ、自転車に轢かれ、人に踏まれて正門までの百数十メートルが赤く変色するのである。雨の日などたまったものではない。いつ傘の上に招かれざる客が飛来するとも限らないからである。
 その後遺症だろう。桜は嫌いだった。俗中の俗、初めて近鉄の吉野駅に降りたのは脳内出血と阪神淡路大震災を経て素直になった四十四、五歳の頃である。しかしそのときも歴史の深部には思い至らなかった。

  吉野は、日本人と日本文化にとって長らくかけがえのない空間として存在してきた。
 それは南北朝の吉野朝廷や義経や壬申の乱のみのことではない。縄文の砦としての生尾(せいび) の国であり、現世をつねに脅かし畏怖せしめる他界であった。異類の棲(す)む領土として、 人間の側をつねに脅かし、人間の生といとなみに意味を与える場所であった。
  吉野は、その土地そのものが結界なのである。

 そのことに気づかせてくれたのは前登志夫の『吉野紀行』であった。遅まきながらの吉 野開眼である。国原(くにはら)、井光(いひか)、国栖(くず)、鬼、国中(くんなか)、山中(さんちゅう)といったことばも近しくなった。 歌も同様である。

  暗道(くらみち)のわれの歩みにまつはれる螢ありわれはいかなる河か

 昭和三十九年、東京オリンピックの年に刊行された『子午線の繭』の「交霊」二十八首の中にある作品である。
 現代における螢の代表作のようでもあり、前登志夫論にとっても欠かせない位置を占め
ているようである。たとえば参考に開いた日高堯子『山上のコスモロジー前登志夫論』や櫟原聰『夢想の歌学 伊東静雄と前登志夫』も例外ではない。
 また作者自身もエッセイで触れている。『吉野日記』に「麦の秋のころ、バスを降りて、川沿いの谷間の村を歩いて帰ると、山田の蛙の声とともに螢がわたしの歩行に連れて戯れるようにしばらくついてくるようなことが再三あった。わたしの帰郷を拒んでいるのか、それとも歓迎してくれるしるしなのであるか。あるいは、わたしの歩みを河だと錯覚しているのか。わたしが河だとすれば、夜の方へ、そして山の頂の方へ逆に流れている時間の河だ」とあるのが、それである。別の場所では「わたしにまつわるように飛ぶ螢は、慰められない山の精霊(すだま)のようであった」とも書く。

  帰るとはつひの処刑(しおき)か谷間より湧きくる螢いくつ数へし

 「暗道の」と並ぶ作品である。「自然の中に再び人間を樹てる」とは、これに先立つ詩集『宇宙駅』の「あとがき」のことばだった。やはり『吉野日記』から引くと「庭に出て谷間を見下ろしていると、谷の杉山から螢が風に吹きあげられるように昇ってきた」また「谷間の集落まで下ると、螢の夜となっているだろう」ともある。
 どうも凄いところらしい。
 しかし地図を見ていたら実際に自分の足で歩いてみたくなった。前登志夫の住んでいる奈良県吉野郡下市町広橋は月ケ瀬、賀名生(あのう)と並び称される奈良の三大梅林なのだそうだ。思い立ったが吉日、近鉄吉野特急の乗客となった。大阪阿倍野橋から一時間、吉野より五つ手前の下市口で下りる。バスというのはマイクロバスである。商店街がある。中学校が見えてくる。なんだ。拍子抜けして座っていたら道が一車線になった。展望が開けたとき思わず息を呑んだ。遠くに金剛山や葛城山がある。広橋峠バス停は標高四五三メートル。山を下りる、町へ下りる、それ以外の表現はないだろう。ここから広橋城跡とされる天守の森へ登る。標高六○○メートルからバスが走り去った方向を眺める。清水(きよみず)という集落も、その方向なのだろう。しかし樹海が広がるばかりであった。「血を承けた子であるゆえに素直でありえなかった。無頼なるゆえに憎まれもした。処世に魯鈍(ろどん)なるゆえに叱られもした。わたしが中年を過ぎるころまでの、父との緊張した関係は、軟弱なわたしにとって生活の大きな部分を占めるものであった」(『吉野日記』)。
 晩年の母親についての記述も多い。

ーーまた、おばあちゃんはお地蔵さんの前で、あれ言ってるよ。「とわの別れとおも わざりしに」ってーー。童女はおかしそうに言う。
  近頃は、いくつかの自分の詠んだ歌をすっかり忘れているが、ビルマで戦死した兄を、 最後に家の近くの柚の木の下でさりげなく見送ったときを詠んだ一首だけは、一日に何 回も繰り返してつぶやくようになった。
  「母を呼び柚の木下(こした)に笑(ゑ)まひしを永遠(とは)の別れと思はざりしに」という一首を聞くと、 わたしはたまらなくつらい気持ちになる。

 まだ早い広橋梅林の散策コースを歩くこと一時間、少し迷ったが下市温泉のある岩森に出る。次いで秋野川に沿って東に歩く。地名としては秋野、秋津野、安騎野と『吉野紀行』にある。初期に使っていた筆名の安騎野志郎の由来であろう。志郎の「志」は本名からの「志」であろうが、と同時に述志の表明として受けとめたい。

  志なほくあるべし今の世に歌まなびするいのちなるゆゑ       『樹下集』

 昭和六十二年の第四歌集にある。変わらない人なのだ。
 さて私のとったコースは吉野詣り、すなわち「金剛蔵王権現にお参りするための花見」(『存在の秋』、以下同じ)の道でもあった。仔邑(よむら)、立石を過ぎてYの字の三叉路をUターンするように吉野山手の坂を登っていく。

  この才谷から、杉峠を越える道はカッテンサン(勝手神社)に出る。『太平記』で知ら れるように、大塔宮や後村上天皇が、元弘の乱、さらに正平三年の戦いに、吉野の奥地 へ落ちのびたのは、この道であった。吉野隠しといわれる。

 杉峠の老杉は蓮如上人お手植えだという。ここで小休止をとりながら私は別のことを夢みていた。飛鳥から吉野に抜ける竜在峠や芋峠に立つと「山上ヶ獄を中心とする吉野の山々の霊感にみちた美しさ」がよくわかるという。「まさに空の冥府という実感」らしい。ならば私も同じ場所に立って、それを味わいたいのである。
 吉野を知ることは前登志夫を知ることなのだ。

螢籠(初出「短歌人」平成16年6月号) 
 
 与謝野晶子の御伽噺に概略つぎのような『金ちゃん螢』がある。
 むかしむかし、螢という虫がいた。頭の部分がちょっと赤いだけで、あとは真っ黒な虫である。声は出さないし、美しくもない。だから子供たちも靴や草履で踏み殺してしまう。困った螢は神さまにお願いすることにした。使いはお利口な金ちゃん螢。みんなが空を眺めて帰りを待っていると「星さんが落つこつて来たやうだ」「お月さんの坊つちやんが遊びにいらしたのでせう」「金ちやん螢の声がする」「提灯を神様に拝借して帰つてくるのでせう」「らんぷでせう」「電気燈でせうよ」。近づいてきた。あ、金ちゃん螢。「綺麗ね、よく見せて頂戴」「あちら向いて見せて下さい」「何てい綺麗だらう」「きれいね」「立派だ、まあ」。金ちゃん螢は神さまからもらった棒を出しまして「さあ皆にもつけて上げませう」「うれしいなあ」「さあ、よい、よい、よい」。すると、そのなんときれいなこと。しかし文ちゃん螢が一人で泣いている。「僕は、僕は、あ、あ、あ」「何泣いて居るの」「皆綺麗だけれど僕だけはきれいちやない」「なぜ」「火がつかないもの」「何を云つてるのですよ。後だから自分では見えないのですよ。さあこの川の水でうつして御覧」。
 このあたりをクライマックスにして大団円かと思いきや、さにあらず。その後日談があって金ちゃん螢からみんなに手紙が届く。一昨晩から籠に入れられて光坊ちゃんのお家にきています。光坊ちゃんも弟の茂坊ちゃんもいい人だから、みなさんも夕方から遊びにきてください、というのである。なんだ、つまらない。
 ところが松平盟子の『母の愛 与謝野晶子の童話』を読むと「光」は晶子の長男の名前、「光」の弟の「茂」は次男の「秀」の字の当て字なのだそうだ。したがって最後は与謝野家の庭、たくさんの螢に「光さんはうれしくてうれしくて仕様がありませんでした」となる。
 金ちゃん螢に同化して読んできたせいか私は私が人間であることを忘れてしまっていた。螢籠、なにするものぞ、と思っていたのである。しかし端から人間なら印象も違ってくる。

  わらはべが愛(を)しみていねしほたるかご光りてありぬその枕辺に
  幼児の寝いきしづけし愛(を)しみつる螢あかるむその枕辺に

 四賀光子の『藤の実』に「子と螢」十首がある。螢を喜ぶのは与謝野家も太田家も同じであろう。ただ、こちらは叱られた夜のことで、そう思えば幼い寝姿がなおさらいじらしくもある。

  宇治川の草の枯生にうらやすき螢のゆめをうらやみにけり

 同じ歌集に「宇治にて」がある。右は、その中の一首。括弧書きで養螢場とある。螢の名所であった宇治も、この頃は養螢するようになっていたのかという感慨と、逆にパイオニアだったかも知れないという感慨が交錯する。今は人工飼育の話も聞かない。

  螢籠手にもちながら夜車(よぐるま)に乗る人おほし宇治の山里

 落合直文の『萩之家歌集』。四賀光子の宇治が大正なら、こちらは明治の宇治がある。夜車は人力車であろう。螢籠が宝石箱に見える。

  霧やると螢かご手にたたずめる細り吾妹は病みあがりなる
  ほたる籠に見入りし鬢のおくれ毛をほたるの明り或はてらす

 作者は高橋俊人。『現代短歌分類辞典』より採集した。作品の引用は原著に拠ることとしてきた。それが私の規範であり美学とも心得てきたが枉げるざるを得なかった。また柱げてでも螢籠に女性を配した作品がほしかった。清艷また哀婉な右二首は昭和九年に刊行された歌集『寒食』からの収録である。ちなみに『昭和萬葉集』によると高橋俊人は明治二十一年生まれ、昭和五十一年に亡くなるまでに四冊の歌集を出している。しかし国会図書館で検索しても出てこない。親螢派の歌人であったらしく〈篭ぬちゆのがれし螢かすかにも光りてとべり電灯のもとを〉という作品もあった。

  ゆうパックにて届きたる天竜の峡の螢は夜を眠らせず
  夜すがらを消してはともす螢火の声立てざればああい寝がたし
  友のこころ籠る螢を放ちやる存分に宙を飛びて果てよと

 島本正靖『冬の日照雨』の「青き螢火」十一首から三首を引く。入退院を繰り返す作者の生活を慰め励ますつもりで友人が天竜渓谷の螢を届けてくれたのである。郵便小包、場所は東京のマンション。いかにも現代、びっくりさせられるが三首目が美しい。

  籠に飼へぬ頼家螢と吾がことを呼びし母はや呼ばぬ父はや

 坂井修一の『ラビュリントスの日々』から引く。寡聞にして私は頼家螢を知らない。実在しない螢、たぶん家として頼る、後継ぎ、そんな意味で使われているのだろう。『群青層』に「熊本は父の故郷である。父と私は同じやうな生業についてゐる」云々とあった。父親もまた籠を抜け出した螢だったのだろう。だから何も言わない。

  人生はあるいは大き螢籠夕げののちをつつましきかな

 岡井隆 『α(アルファ)の星』中の一首。年の離れた夫婦が登場する。巻末年譜に「三児あり」ともあって「東京ディズニー・ランドの雨」一連もある。だが〈われかつて子を捨てしかば大戦の終末の劇沁みて思ふも〉に見合う記述はない。全歌集Ⅱ別冊の年譜も同様である。同じ夏の風物詩でも花火との違いがくっきりと結句に見てとれる。
 最後は再び与謝野晶子の御伽噺である。『螢のお見舞』は花子さんとお父様の会話から動き出す。「何かおもちやを買つて上げようか」「私、何もいらないことよ」「御本や雑誌はどうだ」「こんなに沢山ありますから、好いわ」「それでも何か一番好いものを云つて御覧、お前はお菓子も御病気で食べられないのだから、慰みになるものがあつたら、何でも上げよう」「私欲しいことはないのですけれど、一つだけ見たいものがありますの」「何だ、云つて御覧」「お父様、私螢が見たいのですよ」「螢が、よし、よし」。夕方、苦い薬を飲んで安静にしていると螢の子がやってくる。一人や二人でない。挙げ句は鬼ごっこになったが花子さんは遊べない。「それぢやね、かうなさいな、私等のために貴女のお父様がこしらへて下すつた籠はね、それはそれは大きい籠なのですよ、其処へ貴女も来て、皆の遊ぶのを見て、そして身体をじつとさせて居たら好いでせう」「それぢや連れて行つて下さいな」「さあ皆様、花子さんの手を引いてお上げなさいな」「ありがたう」「と云つたと思ふと、それは夢であつたことに気が付きましたが、花子さんの蚊帳の中には、お父様が放して下すつた螢が沢山とんで居ました」というのである。
 晶子の子は光、秀、八峰、七瀬、麟、佐保子、宇智子、アウギュスト、エレンヌ、健、寸、藤子。『金ちゃん螢』と違って花子という女の子はいない。

太平洋戦争(初出「短歌人」平成16年7月号) 
 
  この機みな 全(マタ)くかへれよ。螢火の遠ぞく闇を うちまもり居り

 折口春洋(おりぐちはるみ)の遺歌集『鵠(たづ)が音(ね)』の後記にあたる「島の消息」の中で釈沼空が紹介している。「春洋年譜」によると昭和十八年、三十六歳で再召集、昭和十九年「七月九日、横浜から乗船。八丈島へ向ふ。途中先発船沈没の為、急に予定を変へて、到着したのが硫黄島であつた」。中尉である。昭和二十年三月十九日、硫黄島方面で戦死。だが正確な場所も日も不明のためアメリカ軍が接近した二月十七日を命日にしたという。「島の消息」は「追ひ書き」へと変わり「その五」まで続く。佐佐木幸綱によれば「忍空は春洋の生前からその歌集刊行を企図するが果せず、逗空出棺の折にようやく間に合って柩に一冊が収められたという」(『現代短歌全集』)曰くつきなのだ。なお、歌集名は古代の霊魂信仰に寄せて父である超空が命名したものである。
 では硫黄島の戦闘を調べてみよう。平凡社の『国民百科事典』によると一九四五年三月十七日、陸軍約一万五五〇〇名、海軍部隊約七五○○名、激戦一ヶ月の後に玉砕とある。数字は能弁である。もう少しピックアップすると三月九日の東京大空襲の死者約八万人。沖縄における地上戦で軍人軍属と義勇軍の死者約十万人、沖縄県民非戦闘員の死者約十五万人。八月六日、原子爆弾を落とされた広島市では人口の半分近い二十万人が死亡。九日、長崎、数万人が死亡。別の記述では両市併せて三十数万人が死亡とある。また多くの人が原爆症で苦しむことになった。全容を示す数字としては、この夏に一一九の都市が空襲によって廃墟と化し、当時の内務省発表では罹災者約九二〇万人、死傷者約六十八万人(八月二十三日現在)。
 敗戦によって国土は焦土と化し、約三一〇万の人命を失った。動員された総兵力は開戦時約二四〇万人、終戦時約七二〇万人。日本の総人口は一九四〇年十月一日現在で七三一一四千人、一九四五年十一月一日現在は沖縄県が含まれていないが七二二〇〇千人。性比(女一○○人につき男)は一〇〇・〇から八九・○に落ちている。
 なお太平洋戦争と聞くと海を越えたアメリカしか見えてこない憾みがある。一九三一年の満州事変から日中戦争を経て敗戦までを十五年戦争として眺めたときに、思い出したくもないが、見えてくるものがある。たとえば中国の人的損害は軍人死傷者約四〇〇万人、民間人死傷者約二〇〇〇万人だった。大きな負の遺産である。

  立哨(りつせう)の吾にまつはり飛ぶ螢今宵の幸(さち)と見て眠るべし
  夫(つま)の背にいねたる吾子(あこ)をだき取れば手のほたるかごゆれてひかりぬ
  語りつがむ言葉なければ草の間の小(ち)さき螢を手に捕へたり
  露草の露の中より生(あ)れいでて螢は谷の闇をさまよふ

 さて螢の歌であるが右は『昭和萬葉集』からの抄出である。一首目は巻六(昭和十六年~二十年)、目次で言えば「戦いの歌」。作者は周藤勝義、出典は合同歌集『大東亜戦争歌集(将兵編)』。あとの三首は巻七(昭和二十年~二十二年)。うち二首目は「愛と死」。作者は麦谷真喜子、出典は「日本短歌」。三首目は「愛の歌」。作者は矢沢重幸、出典は「日本短歌」。四首目は「四季の移ろい」。作者は丸山暁子、出典は「潮音」であった。  次に個人の歌集にあらわれた螢を見てみよう。

  我がかへる道を或はあやまつと立つ秋の夜(よる)螢におどろく
  降る時雨あたたかなれば池の草に光る螢あり遂に飛ばぬかも

 土屋文明の『山下水』より抄出。全歌集の年譜によると昭和二十年「五月二十五日空襲により自宅焼失。六月三日群馬県吾妻郡原町(現吾妻町)大字川戸に疎開」とある。しかし実際には帰農あるいは開墾する土屋文明である。秋の螢が珍しい。また象徴的だ。

  井の端のすすぎををへし宵くらがり螢みつけて孫をよぶ声
  苗田づらすずろ風吹き眼のさきを螢よぎれり今宵の暗さ
  かどにいでてとりし螢を葱の葉の筒に透(すか)して孫のよろこぶ

 岡麓の『湧井』より抄出。詞書から拾うと昭和二十年三月から翌年の六月までの作品を収録する。疎開した信濃が舞台である。敗戦の歌はない。素材は「家財を失ひ一定の仕事も」ない老夫婦と幼い二人の孫の暮らしであり、その闇を縫うように螢が飛んでいる。

  かそかにも螢は峡にともしゐき無蓋貨車にてゆきしその夜

 木俣修の『冬暦』より抄出。石炭や砂利ではない。客である人を乗せた無蓋貨車が走っている。螢との取り合わせが印象に残る。

  いづくにて生(あ)れたるものか東京の吾家(わがや)の庭を過(よ)ぎる螢は

 半田良平の『幸木』より抄出。遺歌集である。半田は三男二女を儲けるが成人した男子二人を病気で失い、残る一人をサイパンで失っている。その直前、玉砕を予告するように飛ぶ螢である。

  若きらが親に先立(さきだ)ち去(い)ぬる世を幾夜し積まば国は栄えむ
  人は縦(よ)しいかにいふとも世間(よのなか)は吾には空し子らに後れて

 歌集名『幸木』は「こうぼく」と読む。民俗学に熱中した半田が生前に歌集出版の企画と同時に選定したものらしい。但し、その方面では「さいわい木」ないし「さいわいの木」と読むらしい。鈴木賤の巻末記に詳しいが「初春を迎ふるに当たつて人生の幸福を祈念する風習」の一つ、その典型的な例が柳田国男の「幸ひの木」から紹介されている。

  ヤスクニノミヤニミタマハシヅマルモオリオリカヘレハハノユメヂニ

 螢の連想で思いだしたのが右の歌である。戦前はNHKの国民歌謡として親しまれたらしいが、漢字仮名混じりにすると「靖国の宮にみ霊は鎮まるもをりをりかへれ母の夢路に」となる。大江志乃夫の『靖国神社』に登場するのであるが、作者は職業軍人だった大江志乃夫の父、大江一二三その人である。日中戦争で戦死した兵隊の葬儀に打電した弔意の文面である。その「血まみれの軍服のポケットには彼の母親の写真があり、裏に『お母さん お母さん お母さん…….』と二四回もくりかえし書かれていた」らしい。ところが軍事史を中心とする日本近代史を専攻するようになった大江志乃夫は素朴な疑問を抱いた。「死者の魂にたいして『をりをりかへれ』としか言わせない靖国神社の存在とはいったい何なのか、国家は戦死者の魂を靖国神社の『神』として独占することによって、その『神』たちへの信仰をつうじて何を実現してきたのか、あるいは実現することを期待したのか」。また、こうも述べている。「戦争による犠牲者を国民にたいして悲劇であるとも悲惨であるとも感じさせることなく、むしろ逆に栄光であり名誉であると考えさせるようにしむけた存在が靖国神社であった」。
 九段下駅で下車して坂を登ること五分、見えてくる大鳥居、頭上高くに立つ大村益次郎の銅像、やがて中鳥居、白い鳩、本殿。そこだけ音の途絶えたような靖国神社の境内を歩いていて感じる空気もしくは流れている時間、あれは明治の日本なのだ。

日本国語大辞典(初出「短歌人」平成16年8月号) 
 
 小学館の『日本国語大辞典』によると日本には約四十種の螢が知られているらしい。しかしそう言われても名前を挙げることができるのは源氏螢と平家螢、それに姫螢ぐらいである。この姫螢というのが私の家からそう遠くない私有地で棲息しているらしい。保存運動が起きたが、どうなったのか。話題になったから知っている程度である。残るのは源氏螢と平家螢、大きいのが源氏螢で小さいのが平家螢、これも実際の体験によるよりも知識である。『日本国語大辞典』にもどると「この二種の幼虫は水生であるが、これは世界でも例外的でほとんどは林床にすみ、カタツムリ類を食べる」。目から鱗、はたと手を打つものがあった。そのあとの「古来、文学作品などによく現れる」との関連である。平凡社の『世界大百科事典』の「螢」に「欧米人とホタル」とあって「欧米人も螢狩りをするか、という問に対しては、〈しない〉と答えるのが正しいであろう。少なくとも昔ーーといっても昭和二十年代以前ーーの日本で、おとなも子どももゆかたを着、笹やうちわをもって螢を追ったような楽しみ方、あるいはその光景を詩歌や絵画にするといった遊び方は欧米にはない」。この差は偏に水との親和性によるものではないだろうか。
 そしてそれを背景として、次の歌を見てもわかることだが、螢は多くの名前で呼ばれ、また比喩の対象にもなっている。

  夜ふかく 月はのぼれり。ほたる子は 繁みの中に あはれ光るも
  螢子のこもれりといふ草の葉の白き泡(あぶく)に夕映のある

 螢子の「子」は接尾語「名詞などに付いて、小さなものの意を表したり、親愛の情を示したりする」、これだろう。出典は一首目が折口春洋(おりくちはるみ)の『鵠(たづ)が音(ね)』、二首目が山下陸奥の『冬霞(とうか)』である。

  ゆあみして寝むとすれどほうたろよ光れりやと子ろの見にいづるなり
  火太郎(ほたろう)のほたるやひとつ夏の田の水に添いつつわれを曳きゆく

 螢の語源説の一つに「ホタロウ(火太郎)」がある。「ホタロウ」と「火太郎」が同時か否かは知る由もないが、火に対する敬称、火の始めといったイメージは原初的なものだろう。発音(なまり)を見ると実に夥しい。その数だけの螢がその数だけの場所で棲息していたのだろう。「ほうたろ」と「ほうたる」は「ほたる(螢)」の変化した語として別になっている。出典は一首目が栗原潔子の『寂寥の眼』、二首目が梅內美華子の『火太郎』である。

  初螢おひてとらへて手握(タニギ)れば手握るままに手間(タナマタ)光る
  幽かなる土用螢の飛びてゐる青田の上に月も照りつつ

 初螢は「はつほたる」。「その年の夏に初めて現れた螢」。土用螢というのは『日本国語大辞典』に載っていない。落合直文の著作だという『日本大辞典 言泉』を開いてみたが、こちらも同じである。土用波、土用芽、土用鰻、土用蜆などと同じような感覚で使ったものであろうか。土用螢はないが秋の螢なら載っている。『日本国語大辞典』だと①の「秋まで生き残っている螢」と②の「夏に産んだ卵から初秋に生まれてくるもの」がある。直接の例ではないが栗原潔子の『寂妻の眼』に〈時すぎていでし螢か秋蚕かふ桑の葉かげにひとつひかれる〉とあるのは②の螢であろうか。いろいろ捲っていると「水の秋」などがあって、その上を流れる螢を思うと立ち去れなくなった。引用歌の出典は一首目が服部躬(もと)治(はる)の『迦具土』、二首目が久保田不二子の『苔桃』である。

  水螢いれたる籠をさげゆけばうすき血縁の誰にゆきあう
  湿り地に垂れゐる桑の葉ごもりの青き光はつち螢にかあらむ
  てのひらのくぼみにかこふ草螢移さむとしてひかりをこぼす

 水螢は方言で①「螢の幼虫。土螢」、②「螢の卵」ほかがある。但し掲出歌について解説の伊藤一彦は「成虫の普通の螢を糸川雅子は自分の好きな水という言葉を頭につけてそう呼びたかったのであろう」と書いている。土螢は「はねが退化したホタルの雌の成虫、または幼虫。形はウジ状で、水中または水辺の草むらにすみ、巻き貝などを食べる。多くは発光する」らしい。結句は推量だが珍しい螢である。草蜜は項目上なし。「草の螢」で「(草が腐って螢になるという『礼記ー月令』の『腐草為螢』から)螢。また、草の間にいる螢」とある。「草の螢」になるか「草蜜」になるかは音数律からの要請もあるだろう。出典は一首目が糸川雅子の『水蜜』、二首目が栗原潔子『寂寥の眼』、三首目が高嶋健一の『方嚮』である。

  蘇我入鹿(そがのいるか)の妄念(まうねん)の火よとおそれられし飛鳥螢もすでにほろびぬ
  蘆原の夜凪はいたも置く露に糠螢(こぬかぼたる)の飛ぶとしもなし

 飛鳥螢は一目瞭然、地名の飛鳥を冠していることがわかるし、そこに悲運の死を遂げた蘇我入鹿の姿を重ねたというのも不思議でない。わからないのは次の糠螢である。螢の種類とは考えにくい。かといって螢の名所としても出てこない。小糠雨、小糠星、小糠雪の用例からすると、残るのは形の大小となる。出典は一首目が前川佐美雄の『白木黒木』、二首日が木俣修の『高志』である。

  霧うごき螢となりてさまよへり山頂の灯も川岸の灯も
  目を閉ぢし死者を囲みてやはらかく螢火(ほたるび)をなす人のこゑごゑ
  自転車よ、よろとここへ来(こ) 螢火の息づくごときひかり灯して

 山頂の灯が、川岸の灯が、螢となって動き出したというのだ。動いているのは霧の方であるが、こうした錯覚は誰しもが経験するにちがいない。次、螢火は「暗やみの中で螢の発する光」の意。聴覚を視覚の比喩に置き換えた通夜の歌。あかりが消え、死者のまわりを螢火が飛ぶ。最後は「よ、よろ」に夜と危なっかしい運転ぶりを思わせ、同時に童歌を連想させる自転車の歌。いかにも技巧派である。出典は一首目が与謝野晶子の『白桜集』、二首目が高野公彦の『水行』、三首目が大辻隆弘の『抱擁韻』である。

  つかみたる手のなかにして姫螢かそかにあをく香に匂ひつつ
  つはものどもが夢の跡なる沢に追ふゲンジボタルぞヘイケボタルぞ

 しんがり、姫螢の「姫」は接頭語「物の名に付けて、それが小さくて、やさしい感じのするもの。かわいらしいものであることを表す」だろう。しかし宇治川などで見立てとしての螢合戦が生まれたとする。戦わせるとすれば源平しかいない。その関連で思えば役者が揃ったことになる。ともあれ遡るほどに私たちに近しいのが螢であった。一首目は太田水穂の『鷺・鵜』、二首目は拙作、例歌が見あたらないので『草食獣勇伝篇』から引いて御茶を濁した。

農薬以前(初出「短歌人」平成16年9月号、旧題「夏のアイテム」) 
 
 井伏鱒二に『螢の季節』という文章がある。最近は農薬によって螢の幼虫がすっかり屏息したという話から、戦争中に疎開した甲府市が片山貝の棲息範囲内であったため、川に石灰が撒かれ、熔接器の焔で護岸の草が焼かれるという描写に続く。片山貝は日本住血吸虫の中間宿主である。しかし螢の幼虫は片山貝を食べる。人間の側からいえば駆除してくれる益虫である。この片山貝は本州と九州の一部に分布するだけで、螢の被害も限定的である。しかしショックは農薬以上である。初めて知ったのだった。
 またこれも初耳であるが螢を餌にして鮠を釣るという話も出てくる。それは「夜、浮子も鉛もつけないで、螢を餌にして暗い流れに流すのだ。螢の光が消えたとき軽く合せると、大きなやつが釣れてゐる」らしい。

  河ぎしの夜の息づき灯しつつ螢は青き死のさかな釣る

 前登志夫の『子午線の繭』に出てくる。水から切り離されることは魚にとって死を意味 する。これは『螢の季節』と一緒ではないか。ちょっと興奮したが一連のタイトルは「水は病みにき」である。やはり別の解釈を用意すべきなのかもわからない。

  青くさき光といはばなぐさまめ高くはとばず路地のほたるは
  なまぐさく螢のかごのにほひくるゆふぐれどきの部屋に眼ざめつ

 ホタルを辞書で引くとホタル科に属する甲虫の総称とある。これが亜科とか属で整理されたところでゲンジボタルやヘイケボタルが瞬いているのである。その匂いは「青くさき」また「なまぐさく」と表現されている。一首目は坪野哲久の『桜』、二首目は長谷川銀作『桑の葉』からの抄出、やはり水辺を生息地とする生きものなのだ。

  伽羅の香をこめしすずしの蚊帳の中に迷ふ螢のあはれなるかな

 出典は服部躬治(もとはる)の『迦具土』、ホタルは匂いというよりは臭いに近い、対する蚊帳は文句なく匂いであろう。エアコンのない時代の夏のアイテムでもあった。

  宵闇の端居(はしい)ちかくを飛ぶ消(け)につつ光るを手には捕へず
  戸を閉(さ)さでわが臥(ふ)す部屋に舞ひ入りし土用螢はあはれ光れる

 久保田不二子の『苔桃』からの採集である。端居は「家の端近く出ていること。縁側などにいること」(『広辞苑』)とある。柹蔭山房(しいんさんぼう)は訪れたことがない。したがっておぼつかないこと限りなし、であるがイメージとしては後者である。同歌集には〈夕ぐるる端居に見れば山裾に光りつつ飛ぶ一つ螢火〉という作品もあって広縁が似合いそうである。二首目についてもいえることだが内と外がつながっていて螢は天下御免である。

  蚊帳のそと青く流るる光あり螢は毎夜くると母のいふ

 人間も恩恵を蒙っている。出典は鹿児島寿蔵の『やまみづ』。場所は戦後の秋月町、現在の福岡県甘木市である。長野県諏訪市の久保田宅もそうだが、今の感覚からすると随分と不用心である。まだ安全神話という言葉も未生の日本であったろう。

  雨晴れて月照る庭の青葉かげ小暗(をぐら)きところに螢光れり
  草ふかくこもる螢を握りたる子(こ)の掌(たなぞこ)に光つぶれぬ

 今度は山形の農村である。出典は結城哀草果の『山麓』である。一首目は大正六年の作、螢事情は長野や鹿児島と同じである。二首目は大正八年の作。「折々の歌」で場所は不明、しかし庭であっても、家の周囲であっても不思議ではない。茂吉も螢を握りつぶしているが、あちらが確信犯なら、こちらは「草ふかく」すなわち偶発的な事故であろう。

  新橋の夜もふけければすいすいと螢とびかひわりなかりけれ
  病院に妻を見て来(こ)しかへり路(ぢ)に銀座をゆけば螢(ほたる)売りそむ

 地方に対して東京の螢、一首目の出典は矢代東村の『一隅より』。大正三年「東京名所(三十三首)」の一首、都心も変わるところがない。結句「わりなかりけれ」の「わりなし」は「格別だ。すぐれている」(三省堂『明解古語辞典』)の意であろう。二首目の出典は佐藤佐太郎の『歩道』。昭和十四年の東京は銀座、歳時記の世界である。

  家庇(やびさし)をみじかく飛びて消えしかばあはれ螢よと呼びて黙(もだ)しぬ
  千川の草生(くさふ)の螢風(かぜ)の夜を長屋の路地に流れて光る

 二首とも「青くさき」と同じ坪野哲久の『桜』より抄出した。昭和十四年頃の東京、しかし先の新橋や銀座とは趣きが違う。一首目の初二句は螢と同時に家屋の実態を浮き彫りにしているだろう。これを近景とすれば二首目は路地を中心として向かい合う長屋を遠景として捉えている。千川はすぐ裏手ぐらいか、下町の風情を伝えて貴重である。

  逃さじとたなぞこ深め暗くせば螢いきづき大きく光る

 一転、杉浦翠子の歌集『浅間の表情』は昭和十二年の刊。序文を新居格、藤森成吉、五十嵐力、久松潜一、これでもまだ足らないらしく跋は折口信夫である。ここまで大きな名前を集めると逆効果も甚だしく思われるのであるが、場所も場所である、螢の歌は多い。
 右の作品を含む「螢」より残る五首を引く。

  指のあひより光は透けりゆるやかなる握りこぶしに螢を掴めば
  手のひらを這へる螢のその光り冷たく触るるわが血脈に
  くさむらにひそかに籠りゐると思へ光る螢のありかは見え透く
  流れに来て我には渡れず追ひつめし螢向ふ岸にてすいすいと飛べり
  草にとまれば草の葉ひかり空とべばゆくへ明らかに晴夜の螢

 あと「掌上の螢」一連九首もあるが名流婦人の印象を強くするのは「盆踊」の一連八首である。登場人物は三人、括弧書きで「VとIを沓掛に迎へて」とある。その「若き二人」であろう。〈蛇に驚く我が声たかきを笑ふ君はをのこ心の落着き見せつつ〉〈酒気ある君と歩めばわが体(たい)にもほてりは伝はる夜道の冷えかな〉に続いて螢が明滅する。

  夜道の遊びよ我が手のひらの運命線を君に見せたり螢を這はせて



*赤字部分は刊行後、資料をコピーの際の手違いが発覚し、差し替えたものです。痛恨のミスです。

:現代螢事情(初出「短歌人」平成16年10月号) 

 前回に用意しながら触れることができなかった作品がある。すなわち生活の周辺に登場する螢の紹介から始めることにしたい。

  あを白き光に透ける硝子戸の螢の腹をわがみたるかも
  硝子戸のそとにぬれたる夜の葉草ほたるほのかにきてとまりけり

 一首目は前田夕暮の『虹』に収められている。ガラス戸と螢という取り合わせが興味を引く。しかも螢は裏返しときている。なかなかお目にかかれないだろう。二首目も夕暮で『虹』に先行する『原生林』の作品である。同じガラス戸の内外であろう。

  盆踊見て帰るさの闇に飛ぶ螢火こそはさびしかりけり

 盆踊りと螢である。作者は依田秋圃。但し、地域の盆踊りではない。『渓聲』の昭和七年に「野州の山林」と題する二十八首の作品がある。その中の一首つまり湯治客の目に映った螢であった。

  子らいねてやうやく静かな部屋のうち螢が来(き)虎斑のかみきりが来る

 石川不二子の『牧歌』に「七人子(ななたりご)」と題する十三首がある。右は、その一首。中に〈次々に子ら眠りゆき残りたる赤子がひとり何かもの言ふ〉がある。この赤子が眠って「やうやく」なのだろう。捕ってきた螢ではない。自然の螢なのだ。カマキリも登場する。便利さと引換の話ではあるが実に豪奢な夜が始まろうとしている。

  野を恋へば野色に染まる掌も足もこよひ無数のほたるをまとひ
  傷口をつとあかるませふるさとの無数のほたる千の掌が撲つ
  掌を撲てば闇にこぼるるほたる火のそれよりのちを人の妻なる

 永井陽子の『なよたけ拾遺』に「耳よ、白衣を着て歩け」十一首がある。その中の三首である。生活の周辺というには印象が異なろう。たとえば一首目の初句は「野を恋はば」ではない。三首目の初句も「掌を撲たば」ではない。しかし、そんなことがあるだろうか。二首目は童画のように見えながら初句は「傷口を」で始まる。エッセイ集『モモタロウは泣かない』に十六歳で田宮虎彦の『足摺岬』を読み、十年後に同地を訪れる話があった。美しいが、いずれも仮象の世界を飛ぶ螢なのだ。

  昼の螢 黒釉の壺 草いちご 滅びゆくものによき言葉あれ
  螢ひとつ明滅しつつ流れゆく夜の奥より還れ死者たち

 築地正子の『花綵列島』になると仮象の世界ではない。しかし一首目では他の陶器や植物と一緒に「滅びゆくもの」と既定されている。「よき言葉あれ」、これはオマージュであろうか。二首目の螢は死者の化身でもあろう。だから「還れ死者たち」なのだ。

  農薬に滅び残りし螢火のただ一つ飛ぶかげを眼に追ふ

 味も素っ気もない。ほんとうに滅んでしまったらしい。原因は農薬である。鈴木康文の『新九十九里』より抄出した。昭和四十三年の「残螢」五首中の一首である。『昭和萬葉集』(巻十八)に「汚れゆく日本」がある。螢の歌はないが川を歌って〈魚棲まず蛙も鳴かぬこの川は濁りて白き皮膜が鎖(とざ)す〉があった。作者は赤沢郁満。昭和四十八年の作である。

  ほうほたる見ずなりしより歳歳の川は闇夜のにほひを濃くす
  ふと消えし螢の行方、囲りみなつやある闇ぞと瞠きており
  草の上(へ)に生れしものを螢(ほうたる)と呼ばへば千年の闇くづれけり

 螢の数は減ったがメダカのように絶滅危惧種に指定されたわけではない。そこで螢のいなくなった闇と、そうでない闇を二つ、並べてみた。作者は右から佐藤通雅(『往還』)、佐佐木幸綱(『火を運ぶ』)、日高堯子(『野の扉』)。このうち三首目の「千年の闇」とはなんだろう。私は貴船神社に通じる道にある螢岩を連想した。「あくがれいづるたま」を封印した黒髪千年の闇である。

  死ぬためにビルのパテオに放たれる螢のひかりにじんで小雨

 都会に螢がもどってきたのではない。場所はビルのパテオ。「農薬以前」で紹介した矢代東村や坪野哲久に歌われた自然の螢ではない。人工飼育された螢の可能性もあるが、どちらかといえば佐藤佐太郎の歌う螢売り、買われてきたのだろう。馬場あき子『青い夜のことば』よりの抄出である。

  螢火のスクリーンセーバー眺めつつ記憶かそけき螢火を恋ふ

 すでに螢はいない。螢を思い出させてくれるものを指折ると蛍光灯、蛍光塗料、そして蛍光ペン。しかし、そこにあるのは文字としての螢だけである。唯一、遠い記憶を呼び起こしてくれるのはスクリーンセーバーである。ホー、ホー、螢こい。なつかしい顔、そして死者たち。大塚寅彦の『ガウディの月』に収められている。
 しかし螢の未来は必ずしも悲観ばかりではない。その一つに地方自治体の取組がある。兵庫県上月町が「ほたるの保護に関する条例」を作ったのが昭和三十六年である。その後の動きを追っていくと昭和四十七年に岐阜県本巣町の「ホタル保護条例」。昭和六十一年、高知県南国市の「ほたる保護条例」。高知県夜須町の「ホタル保護条例」。昭和六十二年、山梨県下部町の「ホタル保護条例」。昭和六十三年、愛媛県双海町の「ほたる保護条例」。平成元年、福島県北会津村の「ゲンジボタルの保護に関する条例」。平成二年、高知県春野町の「ほたる保護条例」。平成三年、北海道沼田町の「ほたる保護条例」。平成六年、新潟県巻町の「ほたる保護条例」。平成九年、滋賀県山東町の「螢保護条例」。高知県土佐山田町の「螢保護条例」。平成十一年、滋賀県守山市の「ほたる条例」。平成十三年、山口県下関市の「ほたる保護条例」と続いていく。
 なぜなのだろう。
 試みに「南国市ほたる保護条例」を見てみる。まず目的だが「市民の貴重な財産であるすぐれた自然環境を後世に残し、市民の豊かな情緒と生活環境を保全するため、市の区域内に生息するほたるを保護することを目的とする」。次に捕獲の禁止「市域内において、何人も、学術研究その他規則で定める場合を除き、ほたるを捕獲してはならない」「何人も、(略)、業の目的をもってほたるを譲渡し、又は譲り受けてはならない」とある。
 これと関連して螢の里や螢祭りがセットになっている例が多い。思うに螢は理屈でないのだ。回復した自然を端的に知らしむる効果がある。そして人を呼ぶ。

  夢のごとく螢とびかふ山の沼と聞き恋ひしより幾年(いくとせ)ならむ

 柴生田稔の『春山』にある。これを含む「初夏」一連は目次を見ると昭和十二年である。このような光景が日本のどこかで展開していないとも限らない。あながち過去のものともいえない、そんな期待に胸ふくらむのである。

 
光る石(初出「短歌人」平成16年11月号、旧題「光の化石」) 

 この連載もあと二回となった。毎回、テーマを決めて書いてきたが、それだとはみ出る歌もある。また引用する切っ掛けを無くした歌もある。そうした作品を集めてみた。

 てのひらに石の螢をのせながら大学図書館地下へ降りゆく

 右は吉川宏志の『夜光』中の一首である。私は「石の螢」を螢の化石と信じて疑わなかった。しかし「螢石」で『広辞苑』を引くと「弗化カルシウムからなる鉱物」「玻璃光沢を有する脆弱な結晶」云々とある。こちらの可能性だってあるわけだ。しかし、である。やはり私は螢の化石で読みたい。何万年、何十万年あるいは何百万年かもわからない。時空を越えてやってきた光の化石を思いたいのである。

  雨の夜の螢を見にゆく妻の声留守番電話に吸われておりぬ

 螢の歌は四首と収穫である。中に「妻」も登場するので前田康子の『キンノエノコロ』を開いたが螢は登場しなかった。親疎も一様でない。ちなみに歌集名の『夜光』は『輔仁本草』では螢火の別名として挙がっているが、ここでは光る雲の由である。

  ほたる橋夕川こゆる自転車を影絵の人は漕ぎてゆくなり
  螢橋まではゆかずに引き返す残れる鴨の三四羽を見て

 一首目は渡英子の『みづを搬ぶ』中の作品、小題は「磐座」。二首目は三井ゆきの『雉鳩』中の作品、小題も「螢橋」。印象としては渡の描く「ほたる橋」は日常の生活圏にありそうな橋であり、三井の「螢橋」は観光地の橋といった趣である。実際のところは不明である。ただ昔は螢が多かったのだろう。欄干からの眺めは格別であったに違いない。数多くあったと思われる螢坂・螢沢・螢谷と同様、螢橋も普通名詞だった。その名残であるように思えるのである。

  野のみちのほたるぶくろに螢火のともると思う長き夕映え
  手に揺るるほたるぶくろのふくろ花飛びきてともせ田の面(も)の螢

 武川忠一の『秋照』中の作。『秋照』は昭和五十六年の刊行、年齢にして五十代後半から六十歳の作品集である。また平凡社の『国民百科事典』を見るとホタルブクロの「名は子供が花にホタルを包んで遊ぶのでいう」とある。おそらく長野県に生まれた武川は子供の頃に螢を捕って遊んだのだろう。一首目の「ともると思う」、二首目の「飛びきてともせ」には往時を偲ぶ気配が濃厚である。

  夜の田の螢おびただし晩年をおもはぬ若さすでにもたざり
  電子メール送れば二人おのこごは螢のような存在かえす

 一首目は伊藤一彦の第三歌集『火の橘』中の作品である。第一回で螢田について書いた。ここもまた螢田なのだ。しかも現役である。第四歌集『青の風土記』には〈雷雲のやうやく去りぬ犬小屋に螢ひかれる父の日の闇〉という作品もある。日本は狭いようでも広いのだ。さて抄出歌であるが、このとき伊藤一彦は何歳だったのだろう。幻想的な目前の螢と相俟って「晩年を」以下が私には切実に響く。二首目は玉井清弘の『六白』よりの抄出である。子供は二人とも家を出ているらしい。〈子の帰り待つ心湧く待たれいし日々を思えば重たきものを〉という作品もある。メールを打つと返信だけはあるらしい。その様子が明滅する螢に喩えられていて妙である。

  ゲンジボタルの尻が発する光をば見んとぞわれら泊りがけで来ぬ

 奥村晃作の『ピンリと決まる』にある。螢ではなく螢を見にいく行為が素材になっている。鼻白むような上句の認識に対比して現実的には「われら」の側に身を置く作者である。虚無と豊饒が同居する世界、存在とは大いなる矛盾の謂いであろうか。
 同じ認識からスタートしているが、こちらはどうだろう。

  螢にも耳あるとせよ 幼らの声の波間を点(と)もりつ消えつ

 永田和宏の『華氏』にある。鳴かない螢は十二分に知っている。また見てきた。しかし耳すなわち螢の聴覚が問われるのは初めてのことではないのか。声の波間は現にいる水辺であり、そこにおける音の波形であり、螢と人が渾然一体とした夢の世界でもある。

  明滅の螢火両の掌(て)に囲い志ひくき少年たりし
  螢とぶかの曳光を抒情せんまこと未練の武士(もののふ)ぞわれ

 さて石田比呂志は『九州の傘』よりの抄出である。一首目「志ひくき」と歌っても少しも卑しくない。そこが魅力である。二首目も同様である。武士は敗軍に属したがゆえの浪人といった風情。曳光は栄光と同音。「抒情せん」や「未練」には万感の思いが覗く。

  生まれ来しわれの暗さに遡行してほたるは水に触れつつ飛べり
  生臭くぞよぞよとして蠢ける昼のほたるは草に幽(ひそ)みて
  みづからを灯して息づく沢ぼたる水に映りて水を冥くせり

 河野裕子の第二歌集『ひるがほ』より引用した。全体で螢の歌は五首、実際の数より多い印象を受ける。たぶん〈逝かせし子と生まれ来る子と未生なる闇のいづくにすれちがひしか〉ともあり、一冊のテーマの部分で深く繋がっているからだろう。私は空海の「生れ生れ生れ生れて生(しよう)の始めに暗く、死に死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し」(『秘蔵宝(ひぞうほう)鑰(やく)』)を連想した。三首目が美しい。

  夕闇を香(かう)の烟にうたれては螢みだるる墓もるわれに
  小夜くだち衢へなびくわが畑の地靄(ぢもや)の中を飛ぶ螢かも
  竹の上の高きにひとつ光れりと思ふうち近き水のほたる火

 一首目は相馬御風の『睡蓮』の作。生活の周辺として準備したものである。二首目は小田観螢の『隠り沼』の作。名前に螢を戴いている歌人に対する表敬である。三首目は小暮政次の『春望』の作。河野裕子の歌共々「水辺の風景」で括るつもりだったが、いざというときに螢は四散していた。

  弟が生れて兄となりてゆくをさな子の手に螢のせやる
  螢とゐて静かになりしをさな子の背にもかたまりの小さき闇あり

 青井史の『青星の列』にある。今まで一身に周囲の愛情を受けていた男の子に弟が生まれた。兄となった孫の手にのせる螢、その無言の光は祖母である作者の愛情を、また命を語って含蓄が深い。
 次作品も同じ。螢に闇を返して私たちは静かに立ち去ろう。

  螢ひとつ飛ばして闇を深くする山河よ人間ぎらひの山河

 
Never once more(初出「短歌人」平成16年12月号) 
 
 平成十三年に公開された映画「ホタル」は、特攻の母と謳われる鳥浜トメのドキュメンタリーを見た高倉健に端を発しているらしい。赤羽礼子・石井宏『ホタル帰る』は副題に「特攻隊員と母トメと娘礼子」とあるように軍の指定食堂「冨屋食堂」の記録である。この関係を比較すると映画の金山少尉は『ホタル帰る』の中でも出撃の前日にアリランを歌う光山少尉であろう。また映画のタイトルは直接的には第九章「ホタル帰る」の宮川軍曹そのままである。では金山少尉の遺言「知さん。私は明日出撃します。ありがとう。私は知さんのお陰で本当に幸せでした。私は必ずや敵艦を撃沈します。しかし大日本帝国のために死ぬのではない。私は朝鮮民族の誇りをもって、朝鮮にいる家族のため、知さんのために出撃します。朝鮮民族万歳。知さん、万歳」に実在するモデルはいるのだろうか。  飯尾憲士の『開聞岳』によると知覧の特攻戦没者名簿には十一名の朝鮮半島出身者がいる。航空士官学校時代に「俺は、天皇陛下のために死ぬというようなことは、できぬ」と告白した高山中尉は「北上中の敵船団を発見、突入する」の無線連絡を最後に消息を絶つ。また、こんな例「弟に、逃げよ、と勧めたのである。日本のために、死ぬ必要はないのである。結城少尉は、首を振って言う。自分は、朝鮮を代表している。逃げたりしたら、祖国が嘲(わら)われる。多くの同胞が、一層、屈辱に耐えなければならなくなる、と」。
 このように見てくると映画のタイトルは広く特攻隊員を差したものであろう。しかし金山少尉に特定のモデルがいるとは思えない。いるとすれば右十一名であろう。なお彼らの思いとは別に遺族は戦後の迫害に耐えなければならなかった。田中裕子と高倉健の演じる夫婦は四十余年の歳月を経て訪韓する。金山少尉の遺言を伝え、遺品を家族に届けるためだった。ようやく肩の荷を下ろした二人の前を螢が飛ぶ。そんなシーンが印象に残る映画であった。
 では散文の螢はどうだろうか。野坂昭如の『火垂るの墓』は空襲で家を焼かれ、母を亡くした中学三年の清太と四歳の妹節子が栄養失調で衰弱死する話だが、螢は清太が三宮駅で死ぬ冒頭から現れ、カット・バックして空襲、母の死、遠戚の家、冷遇、今度は二人で寝起きする横穴防空壕を彩り、清太一人で妹を焼く場面「周囲はおびただしい螢のむれ、だがもう清太は手にとることもせず、これやったら節子さびしないやろ、螢がついてるもんなあ」、語りのうまさに涙を誘われること、アニメ「火垂るの墓」の比ではない。
 伊藤桂一の『螢の河』は招集で一緒になった同級生、安野小隊長の回想である。彼は温情主義で部下に手を上げることがない。討伐に出かけたクリークで「ぼく」が擲弾筒を落としたときもそうだった。おかげで小隊の気風は明るく、擲弾筒を引き上げた兵隊は鱒で捧げ銃をする。その軍隊らしからぬところが中隊長に嫌われて転属となる。しかし、その日も船上から「人の形が小さくなってしまうまで、彼はこちらを向いて、少年のように手をふりつづけていた」。クリークはまた妖艶な鬼気を感じさせる螢火の国でもあった。  宮本輝の『螢川』の舞台は昭和三十七年の富山である。中学三年の竜夫は幼なじみの英子を盗狩に誘う。案内は四月に大雪が降ったら螢が狂い咲くという大工の銀蔵爺さん、今年がそうなのだ。小学校四年からの約束だった。母子家庭となった竜夫の母千代は螢が出なければ富山残留、大群と遭遇すれば大阪行きを決めていた。「月光が弾け散る川面を眼下に見た瞬間、四人は声もたてずその場に金縛りになった」。銀蔵のいう「一生に一遍の日」であった。
 村上春樹の『螢』は高校時代に友人を自殺で失った「僕」と、その友人の恋人だった「彼女」との物語である。友人の死を境に「僕」の中で変化が起こる。「死は生の対極的存在ではない。死は既に僕の中にあるのだ」。大学生となり東京で再会した二人はぎごちない交際を始める。しかし「彼女」の中で何かが毀れて休学、京都の療養所に入る。夏休みに入った屋上から「僕」は螢を放つ。「螢が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じた厚い闇の中を、そのささやかな光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもさまよいつづけていた」。
 織田作之助の『螢』は祝言の部屋をよぎる。薄倖の「登勢は気づいて、あ、螢がと白い手を伸ばした」。時代は幕末、場所は伏見の寺田屋。坂本龍馬の妻となった良は養女、その坂本の遭難、世はええじゃないか、ええじゃないか、起伏に富んだ半生記である。
 澤田ふじ子の『遠い螢』は膳所藩京屋敷の和佐大炊助と宇治茶舗奈良屋の女中おふさの恋物語である。おふさには両親がいない。板場で働く兄も若い頃ぐれていた。それを承知の大炊助の姿が見えなくなった。店を訪れる留守居役、嵯峨野へ届け物を頼まれるおふさ、乱舞する螢に恋の終わりを覚悟するおふさ、しかし一夜明けて届いたのは膳所藩領石山の螢だった。「おふさの胸裏で、大炊助がながめている遠い螢の火が、かすかにまたたいた」。 ちょっと変わったところでは安岡章太郎の『春のホタル』がある。「私」の生年月日は大正九年五月三十日、しかし本当は四月らしい。一ヶ月も届けが遅れたのは陸軍の獣医であった父親にとって「私が四月中旬の生れだと、任官前に結婚してゐたことがわかり」具合が悪いという事情があった。出生地についても戸惑いがある。臨月になって高知市の実家にもどってきた母親は父親の実家で産むようにいわれる。半日かけて同じ高知県の山北村に着くと「後室さま」(祖母)から拒絶されて逆戻り、ほどなく逆子であることが判明して市内の病院で出産となる。もう正確なことはわからない。ただ産まれたばかりの「私」を抱いた母親が山北村に帰ってきた日のことを従兄は覚えている。そのとき「ヘッドライトの光芒の中で細かな雨の舞つてゐるのがホタルのやうに見えた」というのである。それまで山北村に自動車がきたことはなかったのだった。
 さて螢と言えば、あっちの水やこっちの水しか浮かばない。ところが小島ゆかりの『螢の海』に収められた同名のエッセイは中庭の芝生を海のように覆い尽くす螢である。舞台はアメリカ、はたしてどんな螢だろうか。ブーンというマレーシア人が登場する。「彼は一学年飛び越してアメリカの大学へ留学し、最先端のコンピュータ・アナリストになったというのだから、母国では大変なエリートに違いないのだけれど、外見からはとてもそうは思えない」。まだ独身である。今日は小島家の夕食に招待されたのだった。話題は両親に及ぶ。「男ばっかりの四人兄弟で、僕が三番目。小さい頃から一番成績が良かった僕が、一番親不孝になった」「それは彼(夫)も私も同じよ」。小島の夫も研究生活である。その夫を車で迎えに行った小島は途中のダウンタウンで金を無心されるという事件に遭遇する。夜の十一時過ぎである。「ユカリは日本に帰るかもしれないって、本当?」「まだわからない。でも、親のことと、子供たちのことが心配で……」「一度きりなんだから。二度目はない。なんでも一度きりなんだ」。呟くように繰り返すブーンの胸を去来したのはマレーシアの両親だったろう。しかし、しかし、である。

  “Never once more"
  ブーンが最後に言った言葉を、私は思った。
  夫をここに残して帰ろう。その時はっきりと決心がついた。
  「おーい、たくさん捕れたぞ…」
  大きな影と小さな影が二つずつ、こちらに向かって手を振っている。
  靴を脱いで裸足になり、ゆっくりゆっくり螢の海へ入っていきながら、もしかしたら 私は今、人生でもっとも美しい時間を生きているのかもしれないと、不意にそう思った。

  この星は酸いか甘いか草螢千(ち)たび生まれてなほ螢なる

五句三十一音でたどる螢の歌(収録篇)
時代区分 詠 者 出 典 あっ、螢
大和時代
奈良時代
平安時代 (牛車の男) 伊勢物語 いでていなばかぎりなるべみともし消(け)ち年経(へ)ぬるかと泣く声を聞け
源至 いとあはれ泣くぞ聞ゆるともし消(け)ちきゆるものともわれはしらずな
(男) ゆくほたる雲の上までいぬべくは秋風吹くと雁(かり)につげこせ
(あるじ) 晴るる夜の星か河べの螢かもわがすむかたのあまのたく火か
読人しらず 古今和歌集 明けたてば蝉のをりはへ鳴きくらし夜は螢の燃えこそわたれ
紀友則 夕されば螢よりけに燃ゆれども光見ねばや人のつれなき
大和物語 つつめどもかくれぬものは夏虫の身よりあまれる思ひなりけり
尚侍 宇津保物語 衣うすみ袖のうちよりみゆるひはみつしほたるるあまやすむらむ
しほたれて年も経にける袖のうらはほのかにみるぞかけてうれしき
読人しらず 和漢朗詠集 草ふかくあれたる宿のともしびの風にきえぬは螢なりけり
螢兵部卿宮 源氏物語 なく声もきこえぬ虫のおもひだに人の消(け)つにはきゆるものかは
玉鬘 こゑはせで身をのみこがす螢こそいふよりまさる思ひなるらめ
源重之 後拾遺和歌集 おともせでおもひにもゆるほたるこそなくむしよりもあはれなりけれ
和泉式部 ものおもへばさはのほたるもわがみよりあくがれいづるたまかとぞみる
藤原高遠 詞花和歌集 なくこゑもきこえぬもののかなしきはしのびにもゆるほたるなりけり
鎌倉時代 (紀貫之) 宇治拾遺物語 あなてりや虫のしや尻に火のつきて小人玉とも見えわたるかな
源俊頼 千載和歌集 あはれにもみさをにもゆる螢かなこゑたてつべきこの世とおもふに
藤原為家 為家卿千首 貴布禰河岩こす浪のよるよるは玉ちるばかりとぶ螢かな
法橋春誓 続拾遺和歌集 き舟川やましたかげの夕やみに玉ちる浪はほたるなりけり
南北朝時代 前内大臣 新葉和歌集 あつめては国の光と成りやせんわが窓てらす夜はの螢は
祥子内親王 あつめしも今はむかしのわが窓を猶過ぎがてにとぶ螢かな
従三位行子 あつめねどねぬ夜の窓にとぶ螢心をてらす光ともなれ
室町時代
安土桃山時代
江戸時代 烏丸光広 黄葉集 草むらの露はこばるる風のうへにうきて螢のかげのみだるる
木下長嘯子 挙白集 ともし火をたむくとみれば河社夕なみかけて飛ぶ螢かな
後水尾院 後水尾院御集 飛ぶ螢つげていぬべく来ぬ秋の初風しるき雲の上かな
契沖 漫吟集 夕すずみあふぎの風によこぎれて又空たかく行く螢かな
大江匡房 和漢三才図会 五月雨に草の庵は朽れとも螢と成ぞ嬉しかりける
桂帆 狂歌乗合船 貴船川鉄輪の火とは逆さまに尻にともしてゆく螢哉
樋口故白 狂歌糸の錦 飛螢雲の上々様方の御前へ出ても尻ごみはせず
土碌斎寛水 狂歌活玉集 夏草の色にまがえる蚊帳の内はひとのひとのにほたる飛かふ
源三位頼政 都名所図会 いざやその螢の数はしらねども玉江の芦のみえぬ葉ぞなき
隣笛 狂歌栗の下風 夏の夜の野にぐはんぜなきをさな子を螢のつれて迷はするかな
河原鬼守 狂言鶯蛙集 揚屋入ゑりもとひかる大尽と肩をならべて飛螢哉
小袖行丈 朝露をなか根城とやたのむらん草のはむしやの螢合戦
宮戸川面 狂歌太郎殿犬百首 緋脅の鎧はちぎれ宇治橋の玉とみだれて螢飛なり
鍋黒住 狂歌東西集 大針にさつさとぬふて行螢橋のたもとも川の裾をも
式亭三馬 くり返しふみまき川にながめゐる螢を風にちらし書きすな
本居宣長 鈴屋集 とぶほたる窓のうたたね夢さめて見えこし人のたまかあらぬか
よはにとぶ螢を見ても影見えぬたまのゆくへや恋しかるらむ
道のへのゆざさがうへに螢とびかかやかしもよただにあふよは
上田秋成 藤簍冊子 蘆茂み葉うらにすがる夏虫の隠れてもほのみゆる光は
此夕べ引きやわすれし蛍火の光に見ゆる門の板ばし
藤原伊長 諸国図会年中行事大成 にほのうらやあし分小舟さしとめて袖にまちかく舞ほたるかな
村田春海 琴後集 風さそふ夏野の草のたもとよりつつみもあへずとぶ螢かな
小沢廬庵 六帖詠草 うなゐらがきそふ扇を打ちやめてあがるほたるを悔しとぞみる
為丸 狂歌浜萩集 宇治川やまねく扇の芝舟によりまさりくる夏虫のかげ
三駄 万代狂歌集 かる人のくたびれ足はさもなくてとりし螢はかごでかへりぬ
鈍々亭 狂歌関東百題集 池水をのぞむほたるは夢の中にのどかわく人のたまかとぞ見る
千柳亭 狂歌吉原形四季細見 なつ虫の玉のひかりを愛るかな孔雀長屋の夕やみのそら
沖澄 ほたる狩隅田の堤に煙草のむ火だねは風につい取られけり
常道 俳諧歌兄弟百首 つつみたる妹がふり袖ほころびてしかも鹿子の螢こぼせり
柿人 草のごと髪ふりみだす里の子のつぶりの上を螢飛びかふ
露深 竪横に飛びし綾瀬の螢見におりたやとなくせなの稚子
米積 童部の負ふ草籠に光れるは鎌で螢やかりてきつらん
歌麻呂 帯とけば宵の螢のこぼれ出て飛あがるべく妹おどろかす
香摘 貴舟河今もほたるはその身よりいづみ式部の魂かとぞ見る
倭足 流れゆく宇治の河辺に飛ぶ螢光りばかりやさかのぼるらん
千枝 螢等が軍は宵に事果てただ水鶏のみたたき合けり
紀真顔 芦荻集 追ひかくる妹がもすそにつと入て又追かへす螢をかしや
木下幸文 亮々遺稿 あすはしもさなへ植ゑんとせきいれし水田のうへに螢とぶなり
香川景樹 桂園一枝 ふるあめにともしは消えて箱根山もゆるは谷のほたるなりけり
良寛 (良寛全集) さむくなりぬいまはほたるも光なしこ金(がね)の水をたれかたまはむ
草むらの螢とならば宵々に黄金の水を妹(いも)たまふてよ
井上文雄 調鶴集 すずみすとあし分小舟さすさをの袖にさはるはほたるなりけり
はらへすと河瀬に流す麻のはにひとつすがりて行く螢かな
加納諸平 柿園詠草 吹きのぼる夕川風にをすまけば雲ゐをかけてほたるとぶなり
あし垣にほたるはなちしおもかげはひるさへみえて露ぞみだるる
熊谷直好 浦のしほ貝 くるるまで植ゑていにけるをやま田に螢の影のうつりけるかな
道のうへをあるく螢のひかりなき我が身にしあれば世をもてらさず
明治時代 落合直文 萩の家歌集 去年(こぞ)の夏うせし子のことおもひいでて籠の螢をはなちけるかな
あつめたる窓のほたるよこころあらば子をおもふ闇をてらせとぞ思ふ
螢おひて遠くもわれは来りけり子をおもふ闇にふみまよひつつ

なき人の魂のやくへかふる塚の卒塔婆のかげに螢飛ぶなり
平野万里 わかき日 山の夜(よる)、湯漕(ゆぶね)をかこむ石だたみ、湯気にうつりて螢のとべる。
大正時代 北原白秋 桐の花 ああ五月(さつき)螢葡ひいでヂキタリス小(ち)さき鈴ふるたましひの泣く
アーク燈点(とも)れるかげをあるかなし螢の飛ぶはあはれなるかな
斎藤茂吉 赤光 ほのぼのとおのれ光りてながれたる螢を殺すわが道くらし
すべなきか螢をころす手のひらに光つぶれてせんすべはなし
蚊帳のなかに放ちし螢夕さればおのれ光りて飛びて居りけり
窪田空穂 濁れる川 帰りくるふる里の路の夜となればあなめづらしく螢飛ぶ見ゆ
久にわれ見ずもありしと嘆きつつ暗き田の面に飛ぶ螢見る
土を眺めて 螢来(こ)見やる田の面(も)は星の居(ゐ)る遙けき空に続きたりけり
其子等に捕へられむと母が魂(たま)螢と成りて夜を来たるらし
門川の汀の草に居(ゐ)る螢子にとらせけり帯とらへつつ
斎藤茂吉 あらたま 草づたふ朝の螢よみじかかるわれのいりちを死なしむなゆめ
北原白秋 雀の卵 幽(かす)かなる翅(はね)立てて飛ぶ昼の螢こんもりと笹は上をしだれたり
昼ながら幽かに光る螢一つ孟宗の藪を出でて消えたり
昭和時代 斎藤茂吉 寒雲 この山に飛びかふ螢の幽かなる青きひかりを何とか言はむ
白き山 螢火をひとつ見いでて目守(まも)りしがいざ帰りなむ老の臥処(ふしど)に
前登志夫 子午線の繭 暗道(くらみち)のわれの歩みにまつはれる螢ありわれはいかなる河か
帰るとはつひの処刑(しおき)か谷間より湧きくる螢いくつ数へし
小中英之 翼鏡 螢田てふ駅に降りたち一分の間(かん)にみたざる虹にあひたり
前登志夫 樹下 志なほくあるべし今の世に歌まなびするいのちなるゆゑ
平成時代 辰巳泰子 紅い花 まへをゆく日傘のをんな羨しかりあをき螢のくびすぢをして
岩田正 レクエルド 数へあぐれば螢田(ほたるだ)・富水(とみづ)などとよき駅名多しわが小田急線
富水と書きて富水(とみづ)と呼ぶ駅をすぎて螢田よき名つづけり
辰巳泰子 アトム・ハート・マザー 夏闇はこはいほうたるなほこはい掌をはなさないお母さんこはい
仙川心中 ほたる散つて水のあまさに痴(し)れてゐたあれはたしかに十九歳(じふく)のころか
恐山からの手紙 逝かしめし子と観るほたる 真白くてうつくしき子をわが子とおもふ
流せし子 流れゆきし子 縫ふごときしぐさしながら光りてをりぬ
ほたるほたる生きて飛ぶなりじふねんのなみだはじめてながすこよひに
あいまいなわかさのじぶんかつてさをしんににくみてゐたるひにとぶ
五句三十一音でたどる螢の歌(番外篇)
平安時代 道綱母 蜻蛉日記・巻末歌集 さみだれや木(こ)暗き宿の夕されば面(おも)照るまでも照らすほたるか
平成時代 桑原正紀 妻へ。千年待たむ ほたる火のごとき命をたもちつつICUに妻はねむれる
有沢螢 朱を奪ふ しくしくと山葵田の畦ふみゆけば天に吸はるる螢の無限
高島裕 薄明薄暮集 大空の星に接(つづ)きてまたたける蛍のなかを母と歩めり
蛍ひくく漾ひながら光るたび仄かに見ゆる夜の川波
そつと包めば蛍はともる、われの掌(て)の底に寂しき街あるごとく







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