『夫木和歌抄の森を歩く』

目次  夫木和歌抄の森を歩く(第1回) 夫木和歌抄の森を歩く(第2回) 夫木和歌抄の森を歩く(第3回) 夫木和歌抄の森を歩く(第4回) 夫木和歌抄の森を歩く(第5回) 
夫木和歌抄の森を歩く(第6回) 夫木和歌抄の森を歩く(第7回)  夫木和歌抄の森を歩く(第8回) 夫木和歌抄の森を歩く(第9回)  夫木和歌抄の森を歩く(第10回)
夫木和歌抄の森を歩く(第11回) 夫木和歌抄の森を歩く(第12回)  夫木和歌抄の森を歩く(第13回) 夫木和歌抄の森を歩く(第14回)  夫木和歌抄の森を歩く(第15回)
夫木和歌抄の森を歩く(第16回) 夫木和歌抄の森を歩く(第17回)  夫木和歌抄の森を歩く(第18回) 夫木和歌抄の森を歩く(第19回)  〇
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夫木和歌抄の森を歩く(第一回)  2010.1.1

     巻第一春部一

 「歳内立春」「朔日」「元日宴」「立春」「初春」「子日」「卯日」「若菜」「白馬」「御斎会」「賭射」の題で歌数は三〇九首(引用歌に続く括弧内は『国歌大観』の番号である)。

  春来てはかたみぬきいれてしづのめが垣根のこなをつま  ぬ日ぞなき(一八九)            隆源
  きのふけふ春雨晴れぬふなをかのわかなはおしてあすや  つままし(二〇九)           藤原為家
  春雨のふりはへ行きて人よりは我先づつまん賀茂川のせ  り(二二四)              読人不知
  七種の数ならねども春の野にゑぐのわか葉もつみはのこ  さじ(二二七)             藤原信実
  春の日のあさざはをののうす氷たれふみ分けてわかなつ  むらん(二四四)            藤原家隆

 一首目の題は「若菜」(以下、同じ)。詞書の「堀川院御時百首」は一一〇五年頃の成立、作者隆源は山田清市・小鹿野茂次著『作者分類夫木和歌抄 本文篇』(風間書房)によると叡山阿闍梨、生没年不詳とある。二句「かたみ(片身)」は体の半分、「ぬきいれて」は「貫き入れて」、四句の「こな(小菜)」の「こ」は接頭語、人様の庭に手を伸ばしていることは云うまでもない。そうかと思うと藤原信実(一一七六~一二六五ころ)に〈山がつの園の雪まのかきうちにこころせばくやわかなつむらむ〉(二八六)がある。四句「かきうち(垣内)」だから垣根の内側である。また源仲正(生没年不詳、源三位頼政の父)は〈かたくなやしりへの園にわかなつみかがまりありくおきなすがたよ〉(一九九)と歌う。家の後の園、若菜を摘む姿も三者三様の趣きである。
 二首目。詞書は「毎日一首中」。『夫木和歌抄』で最も採録歌が多いのは藤原為家(一一九八~一二七五)である。山田清市著『作者分類夫木和歌抄 研究索引篇』(風間書房)によれば一三三六首、二位が定家の七八二首だから突出した存在感である。その「毎日一首」は為家が私的に建長(一二四九~一二五六)の頃から晩年まで詠み続けた作品で、石澤一志は「『夫木和歌抄』の成立とその性格―為家『毎日一首』を視座として―」(夫木和歌抄研究会編『夫木和歌抄 編纂と享受』風間書房)で、該当歌を三九九首として「特質は、《いま・ここ・わたし》を定点として、毎日記録されていったところに存する」という浅田徹説を紹介している。掲出歌もその例外ではない。三句「ふなをか(船岡)」は京都市北区にある小丘陵である。四句「おして(押して)」は「無理をしてでも」、同音の「押し手」は弓術で左手、「梓弓おして張る(春)」形式のバリエーションと解せられる。
 三首目。詞書は「題不知、六帖」。「六帖」は『古今和歌六帖』で平安中期の類題和歌集である。二句「振り延へ行きて」は「わざわざ出かけて行って」。『古今和歌六帖』を覗くと橘諸兄に対する命婦の「かへし」の一首である。しかし『夫木和歌抄』では読人不知、結果的に換骨奪胎と云おうか、人を出し抜こうとする自我に光を当てることになった。
 四首目。詞書に「六帖題、新撰六六」とある。「六帖題」は『古今和歌六帖』の歌題の意、「新撰六六」は出典が『新撰六帖題和歌』の「第六帖」であることを示す。『新撰六帖題和歌』は藤原家良・為家・知家・信実が同一歌題を歌った類題和歌集で計五二七題、二六三五首からなり、寛元二年(一二四四)の成立である。掲出歌の四句「ゑぐ」は黒慈姑の異名、語源は「えぐし」(えぐい)の下略らしい。春の七草という選別では「数ならず」(取るに足りない)であっても、生活の現場では貴重な食材に変わるところはなかった。
 五首目。詞書は「千五百番歌合」(一二〇二年頃)。家隆(一一五八~一二三七)、四十代前半の作である。二句「浅沢小野」は大阪市住吉区にあった低湿地である。母音と尾母音のア音とオ音が春の交響詩を奏でているようで快い。

  春来てはみなわかなにぞ成りにける雪いただきしおきな  草まで(二五六)             阿仏尼
  こぐさつむふか田のあぜの沢水にわかなすすぐと袖ぬら  しつつ(二六〇)            藤原為家
  さと人や野田の若菜をすすぐらん汀ぞにごる玉川の水
  (二七四)                  同
  野べに出でてわかなつめとやかすむらん春めきわたるか  たをかの里(二七八)          藤原為実
  むばたまのよるのいとまに立出でてせりつむさはの月を  みるかな(二八八)           藤原光俊

 一首目。詞書は「弘安三年新熊野社百首」(弘安三年は一二八〇年、『国歌大観』では『安嘉門院四条五百首』中「今熊野の百首」)。作者は安嘉門院四条すなわち阿仏尼(?~一二八三)である。訴訟のため下向した鎌倉において勝訴を祈願した奉納歌である。草の名前に興趣を覚えた作だが、四句でさり気なく白髪を準備するところなどは心憎い。
 二首目。詞書は「百首歌」。初句「こぐさ」は「小草」、「つむ」は「積む」「摘む」に「集む」もあって迷うが「摘む」を採る。但し、意味よりも修飾に重きがあろう。さらに云えば序詞風に展開してハイライトの「沢水」を呼んできた。
 三首目。詞書は「建長五年毎日一首中」。おそらく目にしていたのは京都周辺の川であったろう。あるいは若菜を洗う里人だった。しかし初句を助詞の「や」で切ったときに野田の玉川(宮城県)という歌枕の世界と繋がった。推量の助動詞「らん」で三句切れ、下句に二つの風景を重ねる。
 四首目。詞書は「嘉元四年当座百首」。為実は為氏男(為家の孫)で元弘三年(一三三一)没、六十八。当座だから即詠である。結句「片岡」は京都市北区、上賀茂神社の東にある山を云う。擬人法だが隠すことによって、隠された世界へ人を誘う。そこに霞の、また春の奥義を見る思いがする。
 五首目。詞書「六帖題、新六六」。光俊(一二〇三~一二七六)は法名真観、後に反御子左家となる。四句「芹摘む」は歌語で思いが通じない意になるが深入りしない。むしろ「摘む」の活用形が気になる。句割れ風に対比される「沢の月」が水面に、また空に輝いているように見えるからだ。

     巻第二春部二

 「鶯」「霞」「余寒」「残雪」「春水」「若草」「春霜」の題で三二九首である。まず「鶯」から八首を抄出する。

  うぐひすの谷の古巣のとなりにてまだかたことの初音を  ぞ聞く(三一九)             小侍従
  かかりけるみのりの花ぞうぐひすよこなべをほしと何お  もひけん(三四三)           寂蓮法師
  鶯はゐ中の谷の巣なれどもだみたる音をばなかぬなりけ  り(三六九)                西行
  うぐひすの冬ごもりしてうめる子は春はむつきのなかに  こそなけ(三七七)           読人不知
  いづち行く春のつかひのうぐひすのはねやすめしてここ  になくらん(四一七)           源師光
  うぐひすの上毛は竹にまがへどもこゑの色には似る物ぞ  なき(四一八)            守覚法親王
  春雨のこころ細くもふる郷は人くといとふ鳥のみぞ鳴く
  (四四〇)              土御門通親
  山ざとは春のかすみにとぢられてすみかまどへるうぐひ  すのこゑ(五〇〇)           藤原興風

 一首目。詞書は「正治二年百首」。作者の小侍従は生没年未詳。正治二年は一二〇〇年である。四句「片言」は幼児などの不完全な話しぶりを云うが、日文研のデータベースで検索すると二例のみ、和歌との親和性の低さが注目される。
 二首目。詞書は「千五百番歌合」。寂蓮(一一三九頃~一二〇二)は「千五百番歌合」に参加してほどなく亡くなったようである。四句「小鍋」は『袋草紙』に「幼児の歌」として〈鶯よなどさは鳴くぞちやほしきこなべやほしきははやこひしき〉を挙げ「これは、まま母のもとに在りけるに、ちひさきつちなべの有りけるを、わがはらの子にはとらせて、このまま子にはとらせざりければ、鶯の鳴くを聞きてよめる歌なり」とある。『俊頼髄脳』にも同様の記載があるから当時はこれだけで通じたのだろう。但し『千五百番歌合』(『国歌大観』)では「小鍋」は「こずゑ」となっている。
 三首目。詞書は「家集、鶯を」。二句「ゐ中」は「田舎」の意。四句「だみたる」は「だむ(訛む)」の連用形に助動詞「たり」が付いた。濁った声ではなく方言と解した。直訳すれば、田舎の鶯なのに訛らずに都の言葉で鳴いているよ、といったところか。形を変えた鶯礼賛の一首である。
 四首目。詞書は「天徳四年内裏歌合、六一」。天徳四年は九六〇年。『古今和歌六帖』の第一帖に同歌が藤原言直(生没年未詳)の作として載る。四句「むつき」は「おしめ」ではなくて生まれたばかりの子に着せる衣、産着である。
 五首目。詞書は「喜多院入道二品親王家五十首」。四句「羽休め」に注目した。この「~休め」で終わる言葉を拾っていくと足休め、息休め、肩休め、気休め、草臥休め、心休め、手休め、箸休め、火休め、また骨休めから胸休めまで、いろいろあるが、すべて人に関わっている。唯一、人を離れて存在する「~休め」が「羽休め」なのだ。古人の鳥に対する思い入れが伝わってくるようである。源師光は生没年未詳。
 六首目。詞書は「百首御歌、春」。作者名は「喜多院入道二品親王のみこ」、後白河天皇の第二皇子、守覚法親王(一一五〇~一二〇二)である。二句「上毛」は鳥の羽で一番外側のもの、緑褐色で竹の色と区別がつかないというのは理解できる。竹は鶯の縁語、下句は定番の美声賛嘆となる。
 七首目。詞書は「千五百番歌合」。土御門通親(一一四九~一二〇二)は内大臣兼右近衛大将、土御門天皇は外孫であった。四句の「人く」は『古今和歌集』の〈梅の花見にこそ来つれ鶯のひとくひとくと厭ひしもをる〉(一〇一一)で知られているが「鶯」(一五四首)にも掲出歌を含めて三首に登場する。平凡社ライブラリーの『日本語の歴史5 近代語の流れ』によると「《古今集》の時代の人は、『人来人来といとひしもをる』を『ピトクピトク……』とよんだにちがいないのである」と云う。P音の存在を知って俄に親しみが湧く作品である。三句「ふる」は故郷の「故」に雨の「降る」を掛けている。二句の「細く」も同様で技巧的である。
 八首目。詞書は「延喜十三年亭子院歌合、万代」。延喜十三年は九一三年、「万代」は『万代和歌集』(一二四八年成立)。藤原興風は生没年未詳、三十六歌仙の一人である。三句は「閉ぢられて」だから見えないよりも強い、もどれないのである。四句「住み処惑へる」の「惑へる」は「道に迷う」意ではない。「あわてふためく」「うろたえる」意であろう。一羽や二羽でない、鶯の姿が目に見えるようだ。

夫木和歌抄の森を歩く(第二回)  2010.7.27

 巻第二春部二の続きである。

  あし引の山の嵐ぞ猶さむきむべきさらぎと人はいひけり  (五六三)             後嵯峨院御製
  若菜つむ沢べの氷とけやらでまだはださむき春風ぞ吹く  (五六九)             民部卿為家卿

 「余寒」の題より二首を引く。
 一首目の詞書は「宝治二年百首、余寒」、宝治二年は一二四八年、後嵯峨院(一二二〇~一二七二)は退位して三年目となる。四句「きさらぎ」は陰暦二月の異称、語源説に寒さのため衣を重ねるキヌサラギ(衣更着)がある。文屋康秀の〈吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ〉(『古今和歌集』二四九)と構造が似る。但し「宝治二年百首」では結句が「人もいふなり」となっている。
 二首目の詞書は「貞応三年句題百首」、貞応三年は一二二四年、為家二十七歳の春である。この年の立春は一月十四日頃である。氷が張っていても驚かない。三句「やらで(遣らで)」の「遣る」は動詞の連用形について動作が完了する意を表す。下の接続助詞「で」は活用語の未然形に付く。上の事柄を打ち消して下に続けるから四、五句の景となった。

  春くればとくるこほりのうすらひにおとたて初むる谷河  の水(五九〇)          前大納言顕朝卿
  春風に氷のとぢめゆるされて岩まの水のこころ行くなり  (五九八)                源仲正
  春風に野沢のこほりかつ消えてふれどたまらぬ水のあは  雪(六〇一)             参議雅経卿
  春日ののにひわか草につながれて立ちもはなれずあさる  春駒(六二九)           民部卿為家卿

 「春水」の題より四首を引く。
 一首目の詞書は「建長八年百首歌合」、建長八年は一二五六年、作者は姉小路顕朝(一二〇九~一二六六)である。初句「くれば」は口語なら仮定形であるが、文語で仮定は「こば」、掲出歌の場合は「春が来たので」の意となる。「氷」も「薄ら氷」となって春の到来を知らせる水音なのだ。
 二首目の詞書は「家集、春氷」とある。二句「とぢめ」は流れの「閉ぢ目」(結末、末期)か水の「綴ぢ目」(綴じ合わせたところ)か。その両方であろう。続く「ゆるされて」だが「許す」は「緩(ゆる)し」と同語源らしい。これと結句が呼応する。いかにも解放感に満ちあふれた水の擬人法である。
 三首目の詞書は「建保四年百首」(建保四年は一二一六年)、作者の飛鳥井雅経(一一七〇~一二二一)は新古今和歌集の選者、蹴鞠の飛鳥井流の祖でもある。二句「野沢」は野原にある沢、沢は浅く水がたまって草の生えている湿地をいう。三句「かつ」は副詞で「次々に」と解した。氷の消えた水面に降る雪を詠うが結句の助詞「の」は比喩表現と解した。
 四首目の詞書は「文応元年七社百首」(文応元年は一二六〇年)、為家は六十三歳である。初句「春日の」は奈良の春日山の麓に広がる野原を云う。二句「にひわか草」(新若草)の「新」は名詞の上に付いて新鮮な意を表す。その新若草に放し飼いの馬が食欲で繋がれているというのである。

     巻第三春部三

 「春部三」の題は「梅」「柳」「早蕨」「春雨」「稲荷詣」「春日祭」「遊糸」「燕」で作品数は四二二首である。

  はつせ山たにそはかけていたびさし下ふく風に梅の香ぞ  する(七一八)         光明峰寺入道摂政
  引きつれてくる青柳の糸よりも南やきたの梅ぞ身にしむ  (七二五)             郁芳門院あき
  紅の八重咲く梅にふる雪は花のうはぎとみゆるなりけり  (七二八)               仲実(なかざね)朝臣

 「梅」の題より三首を引く。
 一首目の詞書は「御集」、作者の九条道家(一一九三~一二五二)は藤原良経の子、鎌倉幕府四代将軍頼経の父である。初句「はつせ山」は奈良県桜井市初瀬付近の山をいう。二句「たにそは」は「谷傍(たにそば)」と解した。板庇が谷側に沿っている。だから風に乗って梅の匂いが上ってくる。そしてその匂いを逃さないように板庇が受け止めている図と解した。
 二首目の詞書は「久安百首」(久安六年、一一五〇年)、作者の郁芳門院安芸(生没年不詳)は藤原忠俊の娘である。二句「青柳」は青々と葉をつけた柳、「糸」は柳の特色である枝の見立て、そこから初二句の「引きつれてくる」という表現になる。では何を引きつれてくるのかといえば春である。これに対して梅の花は暖かい南から咲き始めて北へと移っていく。その匂いを含めた梅前線に感銘するというのだ。
 三首目の詞書は「堀川院御時百首」(一一〇五年頃)、作者は藤原仲実(一〇五七~一一一八)である。四句「上着」は女房装束の重ね袿(うちぎ)で一番上に着るものをいう。見立ての歌であるが二句の「八重」も呼応して華やかである。

  さる沢の池の柳やわぎもこがねくたれがみのかたみなる  らん(七八四)           承明門院宰相
  浅みどりさほの川べの玉柳釣をたれけん糸かとぞみる  (八〇七)           皇太后宮大夫俊成卿
  その匂ひそのすがたとはなけれどもはるの柳はなつかし  きかな(八一〇)       皇太后宮大夫俊成卿
  しりしらずしばしやすらふ旅人のゆききのをかになびく  青柳(八二四)           正三位経朝卿

 四首とも題は「柳」である。
 一首目の詞書は「家集」、作者は『作者分類夫木和歌抄 本文篇』に「承明門院源在子の宰相」とある。承明門院は源在子(一一七一~一二五七)の院号、源通親の養女、土御門天皇の生母である。ちなみに承明門院小宰相(土御門院小宰相)は藤原家隆の女(むすめ)である。『大和物語』(小学館『日本古典文学全集 8』)の百五十段「猿沢の池」に帝から二度目のお召しがないのを苦にして投身自殺する采女の話がある。あとで知った帝は池の畔に行幸して人々に歌を詠ませた。〈わぎもこがねくたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞかなしき〉(人麻呂)、〈猿沢の池もつらしなわぎもこが玉藻かづかば水ぞひなまし〉(帝)。こうした追慕の思い、その積み重ねが二句「池の柳」となった。三句「わぎもこ」は「吾妹子」、「吾妹」は男性から女性への親愛表現、「子」は親愛の意を表す接尾語、したがって作中主体は承明門院という生身の女性ではない、やはり男性と解すべきなのだろう。四句「寝腐れ髪」は寝乱れ髪、柳の枝を髪に見立てたものである。
 二首目の詞書は「五社百首、柳」、「五社百首」(俊成五社百首)は文治六年(一一九〇年)の成立だから俊成七十七歳の作である。二句「佐保の川辺」(佐保川)は奈良市を流れる川、歌枕である。三句「玉柳」は美しい柳、玉は美称である。見立ての歌だがア段とオ段が交響して心地良い。
 三首目の詞書は「祗園社百首歌、柳」、「祗園社百首歌」(俊成祇園百首)の成立は元久元年(一二〇四)だから俊成九十一歳、死の年の詠である。初句と二句で頭韻を踏んで繰り返される「その」は眼前の風景にある柳、その特定できるような匂いや姿ではないと一旦は否定される。そしてむしろそれらを含めてといってもいいだろう、漠然とした風景の中に立つ柳への思いを結句に込めた。口を衝いて出たような愛唱性が特色の、また春の心をスケッチしたような歌でもある。
 四首目の詞書は「宝治二年百首、行路百首」、作者は藤原経朝(一二一五~一二七六)、三十四歳の作である。経朝は世尊寺流を継いだ能書家であった。気付いているのかいないのか。初二句でシ音とラ行音を交響させつつ三句「旅人」を修飾、風景の脇役として描き、三句からはアクセントにヤ行音を鏤めながら結句で主役の「青柳」をどんと据えた。

  もがみ川かげこそ同じいな舟ののぼればくだるきしの青  柳(八五〇)             参議雅経卿
  ひろ沢やきしの柳をもる月のひかりさびたる水の色かな  (八五六)              順徳院御製
  ゐる鷺のおのがみのげもかたよりにきしの柳に春風ぞふ  く(八五九)            民部卿為家卿
  里近き淀の川べのうゑ柳ほつえよぢをりかづらせよこら  (八七三)                源仲正

 題「柳」の続きである。
 一首目の詞書は「光台院入道二品親王家五十首、岸柳」、「光台院入道二品親王家五十首」(道助法親王家五十首)の成立は健保六年(一二一八)から承久元年(一二一九)頃だから雅経晩年の作である。思い出されるのは東歌の〈最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり〉(『古今和歌集』一〇九二)である。東歌の「のぼればくだる」は川の上り下りをいう。同じ「のぼればくだる」だが掲出歌は舟と舟の影が一緒に川を上るのに対して、舟から見ていると、岸の青柳は川を下っていく。その景を詠んだと解した。
 二首目の詞書は「百首御歌」。「百首御歌」と云えば佐渡流謫中の「順徳院御百首」(『続群書類従14輯下』)であろう。ところが、これに載っていない。同15輯下の『順徳院御集(紫禁和歌草)』にも付載されているが、こちらも同様である。『国歌大観』にも当たったが出典を確認することができなかった。初句「ひろ沢」は京都市右京区嵯峨にある広沢池(ひろさわのいけ)をいう。観桜、観月の名所である。柳の枝を洩れた月の光が古式蒼然とした趣きで水面を照らしている、といったとろか。
 三首目の詞書は「千首歌」(為家千首)、「為家千首」は貞応二年(一二二三)の成立、為家二十六歳。初句「何処」を省略しての「ゐる」に驚くが四句のあとも文脈が途切れる。構造としては結句が四句と初句から三句の「(川に)ゐる鷺のおのがみのげもかたよりに」の両方を受けるのだろう。二句「みのげ(蓑毛)」は鷺の首から蓑のように垂れている羽毛をいう。三句は、ただ一方に寄っているさまをいう。近景に鷺を置き、遠景に対岸の岸の柳を配した図と解した。
 四首目の詞書は「水郷柳」、水郷は水辺の里。琵琶湖を水源とする瀬田川が宇治川と名を変え、大阪の府境で桂川と木津川を合わせて淀川となる。大阪湾に注ぐ七十五キロが二句「淀の川べ」である。三句「うゑ柳」は植栽された柳をいう。すでに『万葉集』に〈小山田の池の堤にさす柳成りも成らずも汝と二人はも〉(三四九二)や〈春の日に萌(は)れる柳を取り持ちて見れば都の大路し思ほゆ〉(四一四二)がある。川辺の補強を目的としたのだろう。下句を読み解く参考として、やはり『万葉集』に〈青柳のほつ枝(え)攀(よ)ぢ取りかづらくは君がやどにし千年(ちとせ)寿(ほ)ぐとそ〉(四二八九)がある。結句「こら」は「子等」、里の子供達の未来を予祝したと解した。


夫木和歌抄の森を歩く(第三回) 2011.1.3

 巻第三春部三の続きである。

  さわらびももえやしぬらん山人の野やくけぶりはたなび  きにけり(八九三)             小弁
  さわらびやもえ出でぬらん春の野にやけはらあさる人し  げくみゆ(八九四)             相模
  むさしのにことはおひよなむらさきのわらびは草のゆか  りなりけり(八九九)         前斎宮河内
  くはたてて掘りもとめせしうちわらび春はおほ野にもえ  出でにけり(九二三)           源仲正
  野べに出でてたれ家づとにをりつらん春のわらびにまじ  るいたどり(九二五)        土御門院御製

 「早蕨」の題より五首を引く。
 一首目の詞書は「禖子内親王歌合、万代」、作者の小弁(生没年不詳)は平安時代後期の歌人で佑子内親王家女房、佑子内親王家紀伊の母。禖子内親王(一〇三九~一〇九六)は後朱雀天皇の皇女である。歌は野焼きを詠っている。二句の「もえ」は「燃え」に「萌え」で早蕨の「今」に思いを馳せている。
 二首目の詞書は「春歌中に、万代」、作者の相模(生没年不詳)は源頼光(九四八~一〇二一)の娘、相模守大江公資(?~一〇四〇)の妻。一首目の続きのような歌である。四句は「焼け原あさる」。野焼きは新芽の成長を促すのが目的である。結句「繁く」から漁っているのは不特定多数の人々だろう。
 三首目の詞書は「堀河院御時百首」、作者の前斎宮河内については未詳、なお「堀河院御時百首和歌」は長治三(一一〇六)年に堀河天皇に奏覧されている。二句の「ことは」は「同じことなら」の意、「おひよな」は「生ひよな」で「な」は終助詞と解した。下句「草のゆかり」は何らかの縁でつながるもの、紫のゆかりとも云い、『古今和歌集』の〈紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る〉(八六七)による。また『国歌大観』では、この歌〈むさし野にことはおひなん紫の蕨は草のゆかりと思はん〉(「堀河百首」)だが「おひよな」「ゆかりなりけり」には及ばない。
 四首目の詞書は「家集、早蕨」。初句は「鍬立てて」だろう。三句の「うち」は「内」で囲みの中、外から見えない私有地の類と解したい。一足早く採った早蕨も時節がきて今では「大野」(広い野原)に一杯だというのである。
 五首目の詞書は「百首御歌」、作者の土御門院(一一九五~一二三一)は第八十三代天皇(一一九八~一二一〇)、後鳥羽天皇の第一皇子で一二二一年の承久の乱後、土佐に配流された。「土御門院御百首」は建保四(一二一六)年の成立だから、このとき院は二十二歳の青年である。ふと目にした山菜に誰かの「家づと」(家に持って帰る土産)を想像したのであるが蕨に混じる虎杖が一首に興趣を添えた。

  つれづれと袖のみひちて春の日のながめはこひのつまに  ざりける(九三八)           読人不知
  下もえのすぐろをあらふ春雨にやけののすすき草たちに  けり(九五〇)             信実朝臣
  から衣かづく袂ぞそほちぬるみれどもみえぬ春のこさあ  め(九五九)           前大納言隆季卿
  春雨はしものあたとぞふりにけるおきからす草のもえし  いづれば(九七七)           信実朝臣

 「春雨」の題より四首を引く。
 一首目の詞書は「雨、六一」。二句「ひちて」は「ひつ」(ぬれる・ひたる)の連用形に接続助詞の「て」である。わからないのが結句である。詞書の『古今和歌六帖』第一を見ると〈つれづれと袖のみひちて春の日のながめはこひのつまにぞ有りける〉(四六二)がある。これだろう。「恋の端」(恋のきっかけ)で「にぞありける」の誤記と解される。
 二首目の詞書は「六帖題、新六二」、作者は藤原信実である。初句は「下萌え」で草萌えのこと、二句「末黒」は野焼きのあとの黒く焦げた草木をいう。結句「草立つ」で草が生え始めることをいう。薄といえば秋の七草の印象が強いが、ここでは春雨に洗われた薄の新芽が歌われていて珍しい。
 三首目の詞書は「久安百首」、作者の藤原隆季(一一二七~一一八五)は中納言正二位藤原家成の嫡男。初句「唐衣」は唐風の衣服、二句「被く」は頭の上から覆う、三句「そほちぬる」は「そほつ(濡つ)」(ぐっしょり濡れる)の連用形に助動詞「ぬ」の連体形で係り結びである。結句「こさあめ」は「こさめ(小雨)」の変化した語である。
 四首目の詞書は「建長八年百首歌合」。二句は「霜の仇とぞ」、近世初期まで「あだ」は「あた」と清音であったらしい。係り結びで三句切れである。四句は「置き枯らす草」で霜が降りて枯らした草、その草が「萌えし出づれば」だろう。「し」は副助詞で「萌え」を強調する意を表す。

  信濃路やすがのあら野にはむ駒はいばへぞまさるてがふ  人なみ(一〇二〇)            源師光
  紫のねばふよこ野の春駒は草のゆかりになつくなりけり  (一〇三六)            従二位家隆卿
  ふる郷のみかきがはらのはなれ駒さこそのがはめあれて  みゆらん(一〇三九)     皇太后宮大夫俊成卿
  をちかたや花にいばへて行く駒のこゑも春なる永き日ぐ  らし(一〇四三)         前中納言定家卿
  なにはがた蘆のわかばのほに出でてまねくとみゆるこま  のふりがみ(一〇四六)         寂蓮法師
  ふくかたやきたのの野べの草わかみ風にいばゆる春駒の  こゑ(一〇五一)          民部卿為家卿

 「春駒」の題より六首引く。
 一首目の詞書は「正治二年百首」(正治二年は一二〇〇年)。二句「須賀の荒野」は歌枕、信濃国の原野、場所は諸説あるが未詳である。四句は「嘶へぞ勝る」で係り結び、結句は「手飼ふ」は「手飼ひ」の動詞化で「自分で飼う」。「ひとなみ」は「人波」か「人並み」だが後者と解した。気性の激しい悍馬だが、それを普通のことのように扱っているのだ。
 二首目の詞書は「百首御歌」。初句「紫」は植物名、二句「根延ふ」は根が長く延びること、連体形で掛かる「よこ野」(横野)は根が張る方向を示す。また地名、大阪市生田区巽大地町付近にあった野を指す。四句「草のゆかり」は既出のとおりで、その縁で「なつく(懐く)」と歌っている。
 三首目の詞書は「文治六年五社百首」、文治六年は一一九〇年、俊成七十七歳であった。初句「ふる郷」は都などがあったが今は衰えている土地をいう。二句「みかきがはら(御垣が原)」は歌枕で吉野離宮の外垣内の野原のこと、三句「放れ駒」は綱から放れて走りまわる馬をいう。四句は係り結びで「さこそ野飼はめ」、結句は「荒れて見ゆらん」、そのように野飼いにするから一層荒れて見えることだ、か。
 四首目の詞書は「文治二年百首」、文治二年は一一八六年、定家は二十五歳である。初句「をちかた(遠方)や」は関心の在処である。それに続く「花に嘶へて行く駒」と駒に桜を配したのは想像ではない。結句の「日ぐらし」(終日)から作中「私」の居所と大路(街道)の関係が推測される。
 五首目の詞書は「百首歌、遥見春駒」。初句「難波潟」は歌枕で大阪湾、旧淀川河口付近の入り江の古名で昔は蘆が群生していた。三句「ほ」は秋の「穂」ではない。若葉の「秀」(「穂」と同語源)であり、その上に馬の「振髪」(馬の頭の上の毛)が現れて人を招くようだというのである。
 六首目の詞書は「文応元年七社百首」。文応元年は一二六〇年、為家は六十三歳である。初句切れで「吹く方や」、二句は「北野の野辺の」で「北野」は大内裏北側の野の意で、現在の京都市上京区北西部をいう。三句の「草若み」で「草が若いので、若いから」の意となる。四句「風に嘶ゆる」で馬も満足した声が風に乗って聞こえてくるのである。なお「嘶ゆ」が音変化して「嘶ふ」、一首目と四首目の例である。

     巻第四春部四

 「春部四」の題は「花」「遅日」「春月」で作品数は五二五首である。

  山ざくらきほひたづぬる人かずに見をうさぎまのうなが  しぞゆく(一〇六七)           源仲正
  けふあすの花なき枝に吹出でて咲きなばよわれきさらぎ  の風(一〇七七)          前参議為相卿
  うらみじな山のはかげのさくら花おそくしさけばおそく  ちりけり(一一一七)        大納言経信卿
  しなのぢや風のはふりここころせよしらゆふ花のにほふ  神がき(一一二一)           家長朝臣
  わすれずよそのかみ山の花ざかりよもすがらみし春の夜  の月(一一五一)       皇太后宮大夫俊成卿

 「花」の題より四首引く。
 一首目の詞書は「家集」。二句は「競ひ訪ぬる」で先を争って、また張り合って、山桜を訪ねること、三句「人かず」は一人前の人として数えられること、四句は「見を兎馬の」で「兎馬」は耳が長いところから驢馬をいう。三句の助詞「に」からすると、人並みでない「私」であるが、遅れないように自身を促しているのだ、といったところだろう。
 二首目の詞書は「家集」。今日も明日も期待できない桜の開花であるが、その枝に突如として芽が吹いて出て「咲きなばよ」、咲いたならば、私は「きさらぎの風」となって訪れよう、と解した。四句の仮定「なば」で切って「よ」の間投助詞も大胆であるが、それに続いて「われ」と歌い起こされる展開またリズムにクライマックスを見る思いがした。
 三首目の詞書は「ふしみにて、山花未落」、作者の源経信(一〇一六~一〇九七)は俊頼の父、詩歌管弦の才に長じていた。初句切れ「うらみじな」は動詞「恨む」の未然形に助動詞「じ」の終止形が付いたもので「恨むまい」、これに助詞「な」で語勢を整えた。しかし何を恨むのだろう。もし恨むものがあるとすれば日の当たる場所に咲いた花しかない。三句「さくら花(を)」で一首は寓意めいた歌となる。
 四首目の詞書は「洞院摂政家百首、花」、作者の源家長(?~一二三四)は後鳥羽上皇に仕え、『新古今和歌集』の編集に当たった。二句「風の祝子」は風の神を祭る神職、『日本国語大辞典』を開くと「しなのの国は極めて風早き也」云々とある。四句「しらゆふ花(白木綿花)」は白木綿を花に見立てたもの、白木綿は神事の際に榊にかけて垂らすので結句「神がき(神垣)」は神事の行われる建物と解した。
 五首目の詞書は「文治六年五社百首」。初句切れ、詠嘆の「よ」、さらに「そのかみ」と続く口吻は作中の「私」と読者である「私」すなわち二人して体験した濃密な時間に誘われるようだ。月の光でライトアップされた花盛り、作中主体が女性の「私」であっても一向に構わないのである。


夫木和歌抄の森を歩く(第四回)  2011.7.6

 巻第四春部四、「花」の題の続きである。

  みよし野の岑の花ぞの風ふけばふもとにくもる春の夜の  月(一一六六)        常磐井入道太政大臣
  山ざくらよし野まうでの花しねをたづねん人の袖につつ  まん(一一七一)            西行上人
  えぞ過ぎぬ是やすずかの関ならんふり捨てがたき花の陰  かな(一二〇〇)         前中納言定家卿
  花みんとねこじてうゑしわかざくら咲きにけらしな風ふ  かぬまに(一二〇五)       修理太夫顕季卿
  しろたへの袖ふる山の春風に花をしがらむみねの三日月  (一二一一)          光明峰寺入道摂政

 一首目の詞書は「春月を」。作者は西園寺実氏(一一九四~一二六九)、関東申次として権力を握った人物である。初句「み吉野」は地名「吉野」の美称である。二句「岑」は峰、山の高いところ、そこが桜で満開なのだ。春の夜の月は朧月、それに上千本、奥千本に散る桜を配して幻想的である。
 二首目の詞書は「花の歌とてよみけるに」。二句「吉野詣で」は吉野の金峰山寺に参詣すること、三句「花しね(稲)」は神に供えるため米を紙に包んで木の枝などに結びつけたもの。神と寺の関係であるが、金峰山寺の開基は修験道の祖である役行者であった。結句は代参に託したと解する。
 三首目の詞書は「後京極殿下、公卿勅使にて大神宮にまうで給ける時、御ともにてよめると云々」。「後京極殿下」は九条良経、「大神宮」は伊勢神宮。次のように解釈した。「蝦夷過ぎぬ」(中央政府に同化した人だろうか)。私のいる場所これこそあの「鈴鹿の関」(鈴鹿峠の麓に置かれた古代の関所)であったか。道理で「振り捨てがたき」(出るに出られない)「花の陰」(花の咲く木の下陰)であることよ。
 四首目の詞書は「家集、うつしうゑ侍りける花を」。作者は藤原顕季(一〇五五~一一二三)、六条藤家の祖である。二句「ねこじて」は「根掘ず」(根の付いたまま掘り取る)の連用形に接続助詞の「て」、四句「けらし」は「けるらし」の転で「な」は感動、詠嘆を表す。若木に花を得た満足感、結句は「おかげて風も吹かなかった」安堵感であろう。
 五首目の詞書は「百首御歌」。作者は九条道家、良経の長男である。二句「袖ふる山(袖振山)」は吉野山の勝手明神の裏山。大海人皇子が社前で琴を奏でると天女が天降って舞を舞い、五度袖を翻したという。五節の舞の起源である。こうした伝説のある袖振山も桜が満開、春風が吹くと袖を振るようだというのである。四句「しがらむ」は絡みつく意、山頂では三日月がその袖にまとわりつくように見えるのだ。

  さくら咲くあなしの山の山かづらひばらをかけてにほふ  春風(一二一六)         中務卿親王鎌倉
  かめのかふさしでの礒にちりかかる花をかづかぬいろく  づぞなき(一二二六)           源仲正
  鳥のねも花のかをりも春ながらながめはれせぬよもぎふ  のやど(一二三五)        前中納言定家卿
  おもひ出でよ我もむかしは立田山たかねの花も袖にかけ  てき(一二四〇)       常磐井入道太政大臣
  こだかみやたにのこぬれにかくろへて風のよきたる花を  みるかな(一二六二)          仲実朝臣

 一首目の詞書は「三百首御歌」。作者の宗尊親王(一二四二~一二七四)は鎌倉幕府第六代将軍、後嵯峨天皇の皇子、後に京へ送還された。二句「穴師」は奈良県桜井市の地名、三句「山蔓」はヒカゲノカズラで作る髪飾りではなく、山の端にかかる暁の雲をいう。しかし『古今和歌集』の神遊びの歌〈巻向の穴師の山の山人と人も見るがに山かづらせよ〉(一〇七六)が自然と連想される。初二句の「巻向の穴師の山」は桜井市の巻向山をいう。掲出歌の四句「檜原」はヒノキの林、またヒノキが繁茂していた桜井市の一帯をいった。
 二首目の詞書は「家集、磯辺桜」。初句は「亀の甲」、二句は「差し出の礒」で海や湖の中に突き出ている磯、初二句で亀が首を出したような礒が思われる。四句「かづかぬ」(被かぬ)は頭に載せないこと。桜の花を被らない「いろくづ」(鱗のある動物)はいないというのだが、水面に現れる魚のみならず甲羅に花片を受ける亀の姿も見えるようだ。
 三首目の詞書は「家集、伊呂波四十七首」。鳥の鳴く声も花の香気も同じ春だから変わらないないのだが、これが三句まで。四句は「眺む」と「晴る」の複合語と思われる。結句「蓬生の宿」(蓬が生い茂って荒れ果てた家)は謙遜だろうが、気が晴れない、行楽に誘われる庭の春の景なのだ。
 四首目の詞書は「宝治元年十首歌合」、宝治元年は一二四七年だから西園寺実氏は五十四歳である。思い出しておくれ。私も昔は立田山、少しは知られた男だったことを。立田山の高嶺に咲く花も袖に掛けた、手にしたこともある。若い頃の恋の山路を語って一首には心地良い調べが漂っている。
 五首目の詞書は「家集、明玉」、作者は藤原仲実。初句は「木高みや」(木が高いので)、二句「谷の木末に」(谷の木の枝先に)、三句「かくろへて」(隠れているので)、四句「風のよきたる」(風の避きたる、風が避けてくれた)となる。作中主体の立っている位置からして異色の歌である。

  水無瀬山むかしの花の色ながらわが身ぞ今は春のよそな  る(一二九八)           後鳥羽院二条
  ふりはへて花見にくればをぐら山いとどかすみの立ちか  くすかな(一三二四)          ただみね
  伴ひし春のみゆきも忘られず小倉の山の花のした道(一  三二五)                為実朝臣
  しら雲とよそにはみえて桜花遠里をのに匂ふ春風(一三  二九)              前大納言為氏卿
  わさ苗を宿もる人にまかせ置きて我は花みるいそぎをぞ  する(一三六四)            よしただ

 一首目の詞書は「春歌中。人家」、後鳥羽院二条は人物からして未詳らしい。水無瀬は大阪府三島郡島本町広瀬の一帯の古称、後鳥羽上皇の離宮が置かれた。初句「水無瀬山」は古歌には登場するが、現在の地図では確認できない。花の色は昔と変わらないが、私ばかりは春の余所に立っている。季節の春は巡ってくるが、人生の春との乖離は深い。
 二首目の詞書は「延喜十三年歌合」、延喜十三年は九一三年である。作者は壬生忠岑、平安前期の歌人。三十六歌仙の一人で古今集の撰者の一人でもある。初句「振り延へて」は「わざわざ」、三句「小倉山」は京都市右京区嵯峨にある山、保津川を隔てて嵐山と向かい合う。四句「いとど」は「いよいよ」、目的が目的だけに運の悪さが際立った格好だ。
 三首目の詞書は「名所歌中」、作者は藤原為実。初句「伴ひし」は連れていくのではない、ついていくのである。二句「みゆき(御幸)」は天皇の外出をいう。述懐の歌であるが「も」から三句の記憶が一つでないことが分かる。その中でも美しく、また晴れがましいのが下句の御幸であった。
 四首目は詞書「弘長三年住吉社三首歌合、野花」、弘長三年は一二六三年。作者の藤原為氏(一二二二~一二八六)は為家の長男、為世の父、二条家の祖である。四句は「遠里小野」で一語、住吉から遠く離れた在所の意、大阪市住吉区から堺市にまたがる地帯の古称である。「私」が立っているのは「遠里小野」、一首はこれを「遠里」と「小野」(「を」は接頭語)に分離して題「野花」を消化した趣きである。
 五首目の詞書は「家集、三六十首中」、作者の曾禰好忠(生没年不詳)は平安中期の歌人、当時の歌壇には容れられなかったが後世になって再評価された。初句「早稲苗」は苗代から田に移し植える頃の稲の苗をいう。二句「宿もる人」は家の番人か、結句「急ぎ」は支度、準備であろう。生活が生産の現場と直結しているらしいところが興味を惹く。

  雲かかる那智の高根に風ふけば花ぬきくだす滝のしら糸  (一三六七)               源仲正
  あしがもの下の氷はとけにしをうはげの花の雪ぞふりし  く(一三九八)            後京極摂政
  名のらねどにほふにしるし朝くらやきの丸殿にさけるさ  くらは(一四〇四)        大炊御門右大臣
  にほへただあさくら山の桜ばなゆきてもをらぬよそのよ  そまで(一四〇六)         従二位家隆卿
  みる程に人とまりけりいはでただ花にまかせよふはの関  守(一四〇九)              源仲正
  吹く風に枝のむなしく成りゆけばおつる花こそまれにみ  えけれ(一四二九)           大江千里

 一首目の詞書は「家集、滝上桜」。二句「高根」は高い峰をいう。那智山は熊野那智大社周辺の山で滝があり、また原始林におおわれた聖域でもある。その高い頂きに風が吹けば、というのだ。四句「ぬきくだす」は枝から花を「抜く」、それと高いところから低いところ、下流へ「くだす」の複合語なのだろう。その行き着く先が結句「滝の白糸」である。
 二首目の詞書は「千五百番歌合」、作者の藤原良経(一一六九~一二〇六)は九条兼実の子、歌を俊成に学び、定家の後援者でもあった。初句「葦鴨」は鴨のこと、葦辺に群れているところからの命名である。四句「上毛」は鴨の表面の毛をいう。句またがりの「花の雪」だが、辞書には散る花を雪に見立てた語とある。しかし三句の接続助詞「を」は逆接で「とけたけれども」としか読めない。したがって花を雪に見立てたのではなく、雪を花に見立てた春雪の歌となる。
 三首目の詞書は「久安百首」、作者は藤原公能(一一一五~一一六一)、通称は大炊御門右大臣。二句「朝くら」は女帝、斉明天皇(五九四~六六一)が百済救援軍を率いて九州に下り、その地で没したという伝承の地である。四句「木の丸殿」は丸太で造った粗末な殿舎、ここは斉明天皇の行宮をいう。だから初二句「名告らねど匂ふに著し」なのだ。
 四首目の詞書は「家集、春歌中」、作者は藤原家隆。二句「朝倉山」は福岡県甘木市にある山、東にある山のため朝になっても西側が暗いことから「あさくら」、これが初句にも響いていよう。結句は「決して」の意と読む。これより先に出てくる和泉式部の〈われがなは花ぬす人とたたばたてただ一枝はをりてかへらん〉(一二七八)と対照的である。
 五首目の詞書は「家集、関路桜」。花を見ているうちに人が同じように立ち止まっていく。不破の関守よ。言わないこと、黙って桜に任せることだよ。結句の「関守」は関所の番人、「ふわの関(不破の関)」は岐阜県不破郡関ヶ原町にあった関所、七八九年に廃止、仲正の頃は歌枕の地である。
 六首目の詞書は「枝空花落稀」。作者の大江千里(生没年不詳)は平安前期の歌人で中古三十六歌仙の一人。咲き始めた頃の桜、満開の桜、散り始めた頃の桜、いろいろな桜が歌われるが、これは素材としては珍しい景観であったろう。葉桜の季節がやってくる、その直前でシャッターを押した。
 
夫木和歌抄の森を歩く(第五回) 2012.1.19

 巻第四春部四、「花」の題の続きである。

  さくら花第四静慮にさかせばや風災なくしてちらじと思  へば(一四三六)           堀河右大臣
  さくら花第四静慮にさけりとも眼色なくはいかが宴せん  (一四三七) よみ人しらず
  桜花第四静慮にもしさかばしものげんしきかりてえんせ  ん(一四三八)            堀河右大臣
  かぎりあればしものげんしきかれりともかみの花をばい  かがえんせん(一四三九)  読人不知

 一首目の詞書は「ひえの山に僧の歌よみけるを聞きてかへしすとて」。作者は藤原頼宗(九九三~一〇六五)、藤原道長の次男で家集に『入道右大臣集』がある。二句「第四静慮」は「第四禅」に同じ、「第四禅」は「四禅」(四静慮)の一つ、この禅定を得たものは色界第四禅天に生まれるという。色界とは欲界・色界・無色界からなる三界の真ん中、欲界は淫欲や食欲を有するものが住み、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六趣がある、その上の世界である。三句「ばや」は語り手の願望を表す。四句「風災」は桜の花を散らす風だが、仏教用語としては世界が壊滅する壊劫の最後に起こるという大三災の一すなわち火災で初禅天までが消失し、水災では第二禅天も流失し、風災には第三禅天も壊滅するという。「第四静慮」は風災がないから桜の花は散らないというのだ。なお『入道右大臣集』では「第四上ろ」となっている。
 二首目の詞書は「僧返し」。四句「眼色」は「眼識」のことと思われる。「げん」は「眼」の呉音で六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)の一つ。眼によって識別する作用をいう。これによると第四禅天では眼識が消滅しているらしい。結句は「どうして桜の花を愛でるというのか」。
 三首目の詞書は「又僧のもとへつかはしける」。もし第四禅天に桜が咲いたら眼識の作用が残る下位の世界から借りてきたらいいではないか。これが頼宗の返しであった。
 四首目の詞書は「僧のかへし」。初句「限りあれば」は下位の眼識の数、借りるにしても風災を免れた桜には及ばない。どうして愛でることができるのでしょうか、の意と解した。論理的に矛盾するが第三禅天より第四禅天が上位だから眼識の数は足りる、計較するなら無限の桜の外ないだろう。

  からくらや駒もかざらぬふる郷の庭もせにさくうすざく  らかな(一四四一)            源仲正
  霞たつくらまの山のうすざくらてぶりをしてなをりぞわ  づらふ(一四四二)        修理大夫顕季卿
  塩風にをじまの桜花かせてなみのみたてもなくて散りぬ  る(一四四五)              源仲正
  浪かくるつちにちりしく花の上をこころしてふめ春の山  ぶし(一四四六)       同

 一首目の詞書は「家集、庭上桜」。初句の「からくら(唐鞍)」は飾り馬につけた鞍で銀面、頸総、雲珠(金銅の火炎形の内に宝珠を納め、その台座を尻繋につけた)、杏葉(面繋・胸繋・尻繋につける金属製または革製の装飾)など唐風の飾りを施してある。外国使節の接待、御禊の行幸に供奉する公家や賀茂の使いなどが使用した。「や」は詠嘆、初句切れである。その華やかな馬たちも飾ることがない、負けていない、わが故郷の桜であることよ、となる。また四句「庭も狭に咲く」の「狭」が「背」に通うことからすると桜そのものに対して「唐鞍や」と詠嘆した、という解も成り立つ。ちなみに唐鞍の装飾と地名から京都の鞍馬山の桜を雲珠桜と総称する。清音にすれば薄桜に通う。仲正は摂津源氏で兵庫県川西市の満願寺に供養塔(源家の七塔)が建っている。
 二首目の詞書は「花十首中」、作者は藤原顕季である。四句「てぶり(手振り)」は手を動かす様子や手つきをいう。「してな」の「て」は完了の助動詞「つ」の未然形、「な」は終助詞で他に対する勧誘や願望を表す。桜が満開、しかも霞がかかっているから枝も識別できない。なかなか折ることができないのである。そこで「桜よ、私はここよと手を振ってほしい」というのだろう。なお『六条修理大夫集』では二句から三句は「くらまのやまのうず桜」になっている。
 三首目の詞書は「家集、島上桜」。二句「をじま(小島)」は小さな島、その島の桜が塩害を受けたのだ。三句「かせて」は「悴せて」(ひからびて)と思われる。四句は擬人法で「浪の見立ても」(「見立て」は「診断」の意)と解した。
 四首目の詞書は「浦路桜」。「浦路」は浦伝いの道をいう。初句は「浪掛くる」、海岸伝いの道とはいえ、その境もはっきりとしない。片側には山が迫っているのか、桜の花が辺り一面に散らばっている。四句「心して踏め」とは心して踏まない、道を急ぐ修験者を配する布石なのだろう。柔と剛、二つのイメージが結句で溶け合った。ちなみに『為忠家後度百首』では二句の「つち」が「へち(辺)」になっている。

  春風のふけひのうらにちる花をさくらがひとてひろふけ  ふかな(一四四九)        堀川院中宮上総
  おもしろや風のまきゑにふぶかれて庭のひまなき花のい  かけぢ(一五三九)            源仲正
  かくばかりをしむもしらずたれにとててもろに花をくば  る風ぞも(一五四〇)   同
  ちるをわがをしみもちたる後までもをりめはつけじさく  らうすやう(一五五一)         信実朝臣

 一首目の詞書はなし、左注に「此歌は家集云、中宮にて桜のちるを人人ふところにひろひしを、顕綱朝臣のもとより、ちりたる花を箱のふたに入れておこせたりしかばよめると云々」とある。「おこす」(遣す、致す)は「よこす」「届けてくる」。作者の堀川院中宮上総は堀河天皇の中宮篤子内親王家の女房、系譜未詳、生没年未詳。参加歌合の下限は保安二(一一二一)年の『関白内大臣家歌合』らしい。二句「吹飯の浦」は大阪府泉南郡岬町深日の海岸とされる、景勝地で鶴の名所であったらしい。風が吹く意で三句に続く。
 二首目の詞書は「家集、落花」。二句「まきゑ(蒔絵)」は漆工芸の加飾の一技法。動詞「蒔く」は蒔絵をするために金銀粉を散らすこと、しかし蒔絵では意味が通らない、蒔絵粉の略であろうか。そこから三句「吹雪かれて」となる。四句の「ひま(隙)」は物と物との間をいう。結句「いかけぢ(沃懸地)」は金銀粉を一面に蒔き、漆をかけて研ぎ出し、金地または銀地に仕立て上げたもの、見立ての景である。
 三首目の詞書は「同」(「家集、落花」)。四句「てもろ(手脆)」は「たやすくするさま」、ほかに「はかないさま」「もろいさま」のニュアンスで、桜の花を散らす風を擬人化している。「誰のためか、気前よく花片を配っている風だよ。ここにはこんなにも桜が散るのを惜しんでいるのに」か。
 四首目の詞書は「六帖題、新六六」(『新撰和歌六帖』の「第六帖」)、作者は藤原信実。結句「さくらうすやう(桜薄様)」は薄く漉いた桜色の紙、数枚重ねて畳紙(たとう、たとうがみ)に収めたとある。畳紙は詩歌の詠草や鼻紙などに使うため、畳んで懐に入れる紙、ここで鼻紙は考えなくていいだろう。桜の代替品として所持するようになったが、これから先も折れ目はつけないでおこう、というのである。

  雲の上につるのもろごゑおとづれて哀のどけき春のけふ  かな(一五六一) 慈鎮和尚
  春の日のなぐさめがたきつれづれにいくたびけふもひる  ねしつらん(一五六二)  正三位経家卿

 題「遅日」より二首を引く。
 一首目の詞書は「六百番歌合、遅日」。作者の慈円(一一五五~一二二五)は関白藤原忠通の子、九条兼実の弟、天台座主を四度務めた。慈鎮は諡号(しごう。生前の行いをたたえて死後に贈る名)。鶴が飛来するのは晩秋から初冬、越冬して北に帰るのは二月から三月である。二句の「諸声」は帰雁ならぬ帰鶴ととれなくもない、そんな春の景である。
 二首目の詞書も「同」(「六百番歌合、遅日」)、作者は藤原経家(一一四九~一二〇九)、藤原重家の長男。宮内卿、内蔵頭などを務めた。六条家の歌人である。木の芽時で心身不調なのか。曽禰好忠に〈いもと我ねやのかざとにひるねして日たかき夏のかげをすぐさん〉(『夫木和歌抄』三三〇七)がある。「かざと(風戸)」は風の吹き込んでくる戸口。経家の昼寝は気力もなく惰性で横たわっているのだろう。

     巻第五春部五

 「帰雁」「春曙」「野遊」「春野」「春海」「春雑」「三月三日」「桃花」「雉」「喚子鳥」「雲雀」「苗代」「春田」「蛙」の題で三五三首ある。その内「帰雁」から五首を引く。

  かへるかり涙や秋にかはるらん野べはみどりの色ぞ染め  ゆく(一五九〇)           順徳院御製
  夕がすみ消行くかりや雲とりのあやにおりみだる春の衣  手(一五九一)     同
  小山田のあぜのほそ道くる人におどろきてたつ春の雁が  ね(一五九二)     同
  かへる雁野しまが崎の朝朗なれたる海士はいかが見るら  ん(一六四八)             法印幸清
  見るままに心ぼそくも飛ぶかりの雲に成行く春の明ぼの  (一六七一)         西園寺入道太政大臣

 一首目の詞書は「百首御歌」。雁は渡り鳥、「鳴く」から同音の「泣く」で「涙」だが渡来する「秋」になると「涙」にも「飽き」で三句だろうか。下句の緑が新鮮に映る。
 二首目の詞書はなし。三句「雲鳥の」は鶴と雲の文様を綾に用いたことから「あや(綾)」に掛かる枕詞、続く「織り乱る」は模様を散らして織ること、その春の衣手(着物の袖)よ、ということになるが初二句の景の比喩と解した。
 三首目の詞書もなし。初句の「小(を)」は接頭語、小山田で山あいにある田をいう。四句は群れで飛びたったのだろう。苗代には水が引き込まれているかも知れない。鳥の生息圏と人の生活圏が重なるところの臨場感が魅力である。
 四首目の詞書は「承元参年長尾社歌合、海辺帰雁」、承元三年は一二〇九年。作者の幸清は文暦二(一二三五)年没。五十九歳。石清水別当。二句「野島が崎」は兵庫県淡路市北部にある岬。三句は「朝ぼらけ」。四句以下は平然と見ているのだろうか、裏返せば作中主体の感動を物語っている。
 五首目の詞書は「光台院入道二品親王家五十首、遠帰雁」。作者は西園寺公経(一一七一~一二四四)、承久の乱後、内大臣、太政大臣。上句の主観も嫌らしくない。音楽的にはオ段が十二で主導し、以下ウ段が七、ア段が六、イ段が五、エ段は一音だが結句にあって情景の収束に貢献していよう。


夫木和歌抄の森を歩く(第六回)  2012.10.9

 巻第五春部五の続きである。

  さやかなる秋にもまさる哀かな月影かすむ有明のそら
  (一六九〇)            大蔵卿有家卿
  見ぬ世まで思ひ残さぬながめよりむかしにかすむ春の明  ぼの(一六九一)           後京極摂政

 題「春曙」から二首を引く。
 一首目の「詞書」は「六百番歌合、春曙」、左註に「この歌、方人、同判者甘心云々」とある。作者は藤原有家(一一五五~一二一六)、『新古今和歌集』の撰者である。季節を対比して「さやか」と「かすむ」二様の月を出したが後者を「秋にもまさる哀れ」とは社会通念からいって些かリップサービスであったか。春は春で自足している姿が心地良い。
 二首目の詞書も「六百番歌合、春曙」、作者は歌合を主催した藤原良経である。初句の「見ぬ世」は一般的には昔のことをいうが「まで」という到達点によって彼岸となる。一度見たら死んでもいい、そんな眺めよりも昔の春の曙が思われるというのだろう。四句の「かすむ」は霞で霞む意に、遮る時間で霞む意を重ねて上句とりわけ二句と対照的である。

  春の野にふごてにかけて行くしづのただなどやらんもの  哀なる(一七〇二)           慈鎮和尚
  むばらこき手に取りためて春の野のふぢのわかそを折り  てつがなん(一七〇五)           好忠

 題「春野」から二首を引く。
 一首目の詞書は「百首御歌」、慈鎮は慈円の諡号である。二句の「ふご」(畚)は「農夫などが物を入れて運ぶのに用いる、縄の紐のついたかごの一種」(日本国語大辞典)をいう。三句「しづ」(賤)は身分の卑しい人。四句「などやらん」は「どうしてだろう」、上の「ただ」は接続詞で「しかし」と解した。上句からは春の喜びに包まれた人物が想像されるが、何となく哀れ、感興を誘う姿であったらしい。
 二首目の詞書は「家集」、作者は曾禰好忠。初句「むばら」は棘のある植物をいう。「こき」は「扱き」で根の付いたまま引き抜いたのであろう。四句は「藤の若そを」と読んだ。「若」は形容詞の語幹で若々しいこと、「そを」は「其を」で指示代名詞の「其」と読む。結句「つがなん」は「継がなん」で「なん」は「私」の意志、同じ作者に〈なつかしく手にはをらねど山がつのかきねのむばら花さきにけり〉(三二九二)がある、若い蔓で巻いてお持ち帰りであろうか。

  朝なぎの海士のいさりぞ思ひやる春のうららに日はなり  にけり(一七〇六)         民部卿為家卿
  わかめ刈る海士やよるらんこゆるぎのいそがしくのみ漕  ぎかよふふね(一七〇九)        能宣朝臣

 題「春海」から二首を引く。
 一首目の詞書は「建長三年毎日一首中」、建長三年は一二五一年、為家五十三歳である。初句「朝なぎ」は陸風から海風に交代する朝方の無風状態をいう。二句「いさり」(漁り)は魚や貝をとること。四句「うらら」(麗ら)は「うららか」(麗らか)に同じ、太陽がのどかに照っているさまをいう。下句があって自ずからに彷彿とする上句であったろう。
 二首目の詞書は「永観二年一条太政大臣家障子絵」、永観二年は九八四年、作者は大中臣能宣(九二一~九九一)。三句「こゆるぎの」は「小余綾の磯」(神奈川県大磯付近の海岸、歌枕)から磯と同音の「急ぐ」「五十」などに掛かる枕詞、その中では四句の「忙しくのみ」が目を惹く。用例としては少数派だろう。障子絵の海で働く海士の姿である。

  春山のあせみの花のにくからぬきみにはしめよよがれば  こひし(一七一八)             赤人
  田くさ取るははそもうべしもえぬればしづのますらもお  りたちにけり(一七三一)        恵慶法師
  ささぎつきすがきさぼせり春毎にえりさすしづがしわざ  なるらし(一七三四)            好忠
  みそのふのなづなのくきもたちにけりけさの朝なになに  をつままし(一七三五)           好忠
  山がつの牆ほのうちのからなづなくきたつ程に春ぞ成り  ぬる(一七三七)           衣笠内大臣
  春雨にまがきの薄むらだちぬことしもさてや道もなきま  で(一七三八)             寂蓮法師

 題「春雑」から六首を引く。
 一首目の詞書は「家集」。上句は「春山のあせみの花のようににくからぬ」だろう。四句は「君には占めよ」で他人が寄りつかないように標(しめ)を張れ、と解した。結句は「夜離れば恋し」と読む。類歌として『古今和歌六帖』に〈はるやまのあせみのはなのにくからぬ君にはしゑやよりぬともよし〉(四三二一)がある。四句「しゑや」は断念の感動詞「ええい」、結句は「寄り寝ともよし」、「とも」は逆接の仮定条件だから共寝を諦めた歌となり、こちらの方が分かりやすい。
 二首目の詞書は「家集、春歌中」。作者の恵慶法師(生没年不詳)は平安中期の歌僧、中古三十六歌仙の一人。初句「田草」は田の中の稲に交じって生える雑草をいう。二句「ははそ(柞)も宜し」母の姿もそうだが、三句「萌えぬれば」手に負えなくなれば、四句「賤の益荒も」元気な男たちも、結句「下り立ちにけり」家族総出の作業となるのであった。
 三首目の詞書は「三百六十首中」、作者は曾禰好忠。初句「ささぎ」は「ささげ」(大角豆)でマメ科の一年草、二句「すがき」(簀垣)は竹で作った透垣、「さぼせり」(曝せり)の「さぼす」は風にさらして干すこと。四句「えり」は定置漁具の一つ、「えり挿す」は「えり」を水中に仕掛けることをいう。結句「仕業」は意識的な行為つまり大角豆の付いた簀垣は漁期を終えた「えり」の再利用と推量されるのだ。
 四首目の詞書は「三百六十首中」、作者は曾禰好忠。初句「みそのふ」(御園生)は植物を栽培する園を尊んでいう。二句から三句の句またがり「くきもたちにけり」は「茎立ちにけり」の字数調整、すでに食べ頃を過ぎたらしい。四句「朝な」は「朝菜」、結句は「何を摘ままし」何を摘んだらよいのだろう。「なづな」「朝なになに」ほか、先の歌に続いて同音や類音が意味とは別の不思議な効果を生んでいる。
 五首目の詞書は「六帖題、かきほ、新六二」。作者の藤原家良(一一九二~一二六四)は鎌倉時代の公卿で号は衣笠、家集に「衣笠内大臣集」がある。初句「山がつ」は山仕事を生業とする身分の低い人たち、二句「牆ほ」(垣穂)は垣、三句「からなづな」は美しいナズナ、その唐薺が茎立つほどの春の景だという。山賤とは「私」たちから情趣を解さないとされた人たち、しかし季節は平等に訪れるのである。
 六首目の詞書は「百首中」、作者は俗名、藤原定長。醍醐寺阿闍梨俊海の子。一時、叔父俊成の養子であった。二句「まがき」(籬)は竹や柴などで目を粗く編んだ垣、三句は「叢立ちぬ」または「群立ちぬ」。四句の「さてや」は感動で「今年も、はてさて、道を塞いでしまって…」。下句と上句は倒置ではなく言し止しだろう。その下句に臨場感が漂う。

  明日よりは人もすさめじ山がつのそのふのももの花の夕  かぜ(一七四九)          民部卿為家卿
  かきながすはの字の水は絶えはてて空にのみ見る春のさ  かづき(一七五三)          権僧正公朝
  桃の花うかぶ心に待ちぞみるあふむのつきのいしにさは  るを(一七五五)            慈鎮和尚
  君が為三月になればよづまさへあべのいちぢにははこつ  むなり(一七五八)           俊頼朝臣

 題「三月三日」から四首を引く。
 一首目の詞書は「承久二年内裏二首御会、夕桃」、作者は藤原為家。二句は「人も荒めじ」(心を寄せることもないだろう)、忘れられたように園生の桃の花に吹く夕風、ここにも情趣を解さない山賤と「私」たちという前提がある。
 二首目の詞書は「六帖題、三月三日」、作者は権僧正公朝(?〜一二九六)、北条朝時の子。初句は「掻き流す」で「掻き」は接頭語、二句「はの字」(巴の字)は物がぐるぐる回るさまにいう語、そこから曲水の宴となる。三句は、それが途絶えたことをいう。結句は曲水の宴で水に浮かベる酒杯を月に擬えた。四句の「空」は「そら」であり、また「から」でもあろう。これより先に慈円の〈杯のながれと共ににほふらしけふの花ふく春の山かぜ〉(一七四二)がある。
 三首目の詞書は「百首御歌、遊宴」、作者は慈円。四句は「鸚鵡の杯の」で鸚鵡貝ほか真珠光沢のある貝殻で造った杯をいう。また鸚鵡貝の形に似せた杯で曲水の宴に用いられた。結句は「石に障るを」か。杯が流れの石に邪魔されるのである。二句は「うかぶ」で句割れ、「心に待ちぞみる」(心待ち)を挿んで、四句「鸚鵡の杯」に掛かる、と読んだ。
 四首目の詞書は「家集、三月三日」、作者は源俊頼(一○五五~一一二九)。官途は進まなかったが歌人として重んぜられ、家集に「散木奇歌集」、歌学書に「俊頼髄脳」がある。二句は「三月」(やよい)、三句の「よづま」(夜妻)は隠し妻か、四句「阿倍の市道」は『万葉集』の〈焼津辺に我が行きしかば駿河なる阿倍の市道に逢ひし児らはも〉(二八四)によろう。市では異性と逢う機会もあった。結句は「母子(草)摘むなり」だが「夜妻」に対応する母と子の姿も浮かぶ。三月三日は母子草を摘んで草餅を作る風習があった。

  くらぶ山したてる道は三千とせにさくなる桃の花にぞ有  りける(一七五九)        前中納言匡房卿
  桃の花さくや三月のみかのはらこづの渡りもいまさかり  なり(一七六二)            光俊朝臣
  ははこつむ三月の月に成りぬればひらけぬらしな我がや  どの桃(一七六三)   好忠

 題「桃花」から三首を引く。
 一首目の詞書は「大嘗会悠紀方御屏風」、作者は大江匡房(一〇四一~一一一一)である。初句は悠紀方(近江国)の山、暗い山の意を受けて二句「下照る」となる。三句以下は三千年に一度花が咲いて実を結ぶという不老長寿の桃、珍しく、まためでたいものの喩えとして祭場にふさわしい。
 二首目の詞書は「六帖題、新六一」、作者は藤原光俊。二句は「咲くややよいの」、三句の「瓶原」は京都府南部の地名、歌枕である。四句の「こづ」は今夜の意、木津川を渡って桃の花を見にやってくる人が多いというのである。
 三首目の詞書は「三百六十首中」、作詞は曾禰好忠。初句の「母子」は母子草の略、実際に摘むのも女子であった。意訳すると「母子草を摘む三月にならないと咲かないようだな、我が家の桃は」か。四句の「開く」は下二段活用である。


夫木和歌抄の森を歩く(第七回)  2013.5.10

 巻第五春部五の続きである。

  こまなべてこせの春野を朝行けばを萩がはらに雉子なく  なり(一七八一)          正三位季能卿
  かりの世と思ふなるべし春の野のあさたつ雉子ほろろと  ぞなく(一七八五)           和泉式部
  つれもなき人のこころをとりしばにこがねのきぎすつけ  えてしかな(一八〇二)          源仲正

 題「雉」から三首を引く。
 一首目の詞書は「千五百番歌合」、作者は藤原季能(?~一二一一)。初句「駒並べて」は馬を連ねた一行、二句「巨勢」は現在の奈良県御所市古瀬のあたりの古地名である。四句は『千五百番歌合』では「をあきが原」とある。『日本歴史地名大系』の「巨勢山口神社」の項に「小(を)明原(あきがはら)」が出てくるが、これであろうか。掲出歌では馬上の一群と、出典と異なるが萩の花と雉子の取り合わせが絵になっている。
 二首目の詞書は「家集、絵に野辺に雉のたてる所」、『和泉式部集』では三句が「花のまに」とある。こちらの方が華麗しかも初句「かりの世」の「仮」が「狩」ともなって儚さを纏う。結句「ほろろ」は平貞文にも〈春の野のしげき草葉の妻恋ひにとびたつ雉子のほろろとぞなく〉(『古今和歌集』一〇三三)があるが何故か誹諧歌に分類されている。
 三首目の詞書は「寄柴恋」。三句の「鳥柴」は鷹狩りで捕えた鳥を人に贈るとき、結び添えてやる木の枝。結句の「しか」は願望を表わす終助詞、「な」は感動の助詞。四句は春に生まれた雉の子の雌をいうが初二句「つれもなき人」の譬喩でもあろう。黄金雌鳥の「あなた」を得たいのである。

  布引の滝見よとてや呼子鳥この山中に絶えずなくらん
  (一八一二)             法親王澄覚
  あし引の山のやまびここたへずは友よぶこどりたれとな  かまし(一八二〇)      花園左大臣家小大進
  人影もせぬものゆゑによぶこ鳥何と鏡の山に啼くらん
  (一八二三)           権中納言師時卿

 題「呼子鳥」から三首を引く。
 一首目の詞書は「布引百首御歌」、作者は澄覚法親王(一二一九~一二八九)。布引の滝は神戸市を流れる生田川上流の滝で雄滝と雌滝がある。呼子鳥が滝のPRをしているという見立てが面白い。四句「山中」は「さんちゅう」と音読みしたいが和歌であってみれば「やまなか」なのだろう。
 二首目の詞書は「久安百首」、作者は菅原在良女。二句「山の山彦」の「彦」から喚起されるのは一に山の霊、二に山の霊が真似て答えるという山彦だろう。三句は山彦がもしも応えなかったら、四句は「友呼ぶ」と「呼子鳥」の合体した七音が軽快である、結句は不定称で誰を呼んで鳴くのか。
 三首目の詞書は「堀河院御時百首」、作者は源師時(一〇七七~一一三六)。下句の「鏡の山」は京都市山科区にある天智天皇陵をいう。四句「何と」は副詞で疑念を表し、こともあろうに地下に眠る大君を呼んでいる気配である。

  袖たれてあら田のくろにゑぐつめばひばりは雲に打ちあ  がりつつ(一八四六)       権大納言実家卿
  春ふかき野べの霞の下風にふかれてあがるゆふひばりか  な(一八四九)             慈鎮和尚
  庭のおもはのらとあれぬる古郷のまやのあまりにひばり  おつなり(一八五七)       後鳥羽院宮内卿
  ひばりたつ美豆のうへ野に詠むれば霞ながるる淀の川な  み(一八六三)              鴨長明

 題「雲雀」から四首を引く。
 一首目の詞書は「春五十首歌中」、作者は藤原実家(一一四五~一一九三)。二句「あらた」は新田、荒田なら耕す前の田であろう。「くろ」(畦)は田と田の間の土を盛り上げたところ。三句「えぐ」は黒慈姑、雑草であるが塊茎を食用にしたのである。初句「袖たれて」だから汚れることを気にしていない、そんな「私」は貴族の子女であろうか。文末の「つつ」が言い止しだか『古今和歌集』では十四例を見る技法である。近景と遠景その対照が見事な春の景である。
 二首目の詞書は「六百番歌合、ひばり」、作者は慈円。上句「霞の下風」は霞の下を吹く風、地上近くの風に乗って霞の中に消えていく夕雲雀かつ揚雲雀ということになる。ア段の音が要所で交響するせいか、伸びやかな印象を受ける。
 三首目の詞書は「千五百番歌合」、作者は源師光女。初句は「庭の面」で庭の様子をいう。二句は「野良と荒れぬる」。三句「ふるさと」は古都の類であろう。四句「真屋の余り」は二方に葺き下ろした屋根の軒から外に突き出した部分をいう。結句は落ち雲雀で淋しくも懐かしい風景が出現する。
 四首目の詞書は「元久元年詩歌合、水郷春望」、作者は鴨長明(一一五五~一二一六)、元久元年は一二〇四年である。二句「美豆の上野」だが、美豆は現在の京都市伏見区淀美豆町から久世郡久美山町にかけての一帯を指す。その上手にある野原から飛び上がった雲雀である。三句「ながむれば」、雲雀と「私」が一体になったような鳥瞰図が下句である。

  あしびきの山のさくらの色見てぞをちかた人も種はまき  ける(一八六五)              貫之
  苗代の水かげあをみわたるなりわさ田のなへのおひいづ  るかも(一八六七)          花山院御製
  ゆきてはや衣にすらんなはしろのこなぎ花さくときもき  ぬらし(一八九〇)        中務卿みこ鎌倉

 題「苗代」から三首を引く。
 一首目の詞書は「天慶五年内侍督屏風」、作者は紀貫之(八七〇?~九四五?)。天慶五年は九四二年である。初句「あしびきの」は「あしひきの」に同じ、二句の「山」にかかる枕詞である。四句「をちかた人」は「遠方人」で遠くにいる人の意、このあとに藤原家良の〈高根にはさくらも咲きぬ小山田や種まくほどに成りぞしぬらし〉(一八六六)があって山の桜が農事暦として機能していた様子が窺えて面白い。
 二首目の詞書は「御集」、作者は花山天皇(九六八~一〇〇八)。二句「水影」は水面に映る苗代、また苗代を映している水面をいう。二句から三句の「青み渡る」は一面に青くなることをいう。青の示す色相は広いが、ここでは若やいだ緑だろう。下句は早稲田(本田)に移植する苗が「生ひ出づるかも」、生長したことを「かも」と詠嘆で締めている。
 三首目の詞書は「六帖題御歌、なぎ」、作者は宗尊親王。二句「衣に摺らん」は花を染料に用いたのである。一八八八番も同様に〈なはしろのこなぎがはなを衣にすりなるるまにまにあせるかなしさ〉と歌う。ただ「馴るる」「褪せる」と褪色しやすかったらしい。さらに詞書「題しらず、万十四」から出典を辿ると結句は「あぜかかなしけ」(『万葉集』(三五七六)と恋歌であった。掲出歌に戻れば四句「こなぎ(の)花」の助詞「の」の省略が貢献するリズムが快い。

  春雨に山田のくろを行くしづのみのふきかへす暮ぞさび  しき(一九〇九)          後鳥羽院御製

 題「春田」から一首を引く。
 詞書は「百首御歌」。初句「山田」は里田に対する山間の田、「くろ」(畦)は田の堺。三句の「しづ」(賤)は身分の低い者、四句は「簑吹き返す」。近代短歌のリアリズムさながらといおうか、「賤」が「農夫」ならそれで通るだろう。岩崎佳枝が『職人歌合―中世の職人群像―』(平凡社)で『東北院職人歌合』の詠者を後鳥羽院としたのも頷ける。

  玉川のひとせもよきず啼く蛙この夕かげはをしくやはあ  らぬ(一九一一)           よみ人不知
  漕過ぐる舟さへとよむここちして堀江のかはづ声しきる  なり(一九一六)        中宮権大夫家房卿
  春ふかみさやまの池のねぬなはのくるしげもなく蛙なく  なり(一九一八)            仲実朝臣
  みくりはふ汀のまこも打ちそよぎ蛙なくなり雨のくれが  た(一九二二)          前中納言定家卿
  夏ちかく成りにけらしな山しろのいづみの里に蛙なくな  り(一九三七)           從一位良教卿
  沢水にかはづの声はおいにけりおそくやうたんはるの小  山田(一九三八)             平兼盛

 題「蛙」から六首を引く。
 一首目の詞書は「蟾、六三」、二句「一瀬も避きず」は川という川すべての意味だろう。出典の『古今和歌六帖』第三は〈たま川のひとをもよきず鳴くかはづこのゆふかげはをしくやはあらぬ〉(一六〇二)、「人をも」で納得がいく。結句「惜しくやはあらぬ」は暮れてゆくのが惜しいのである。
 二首目の詞書は「六百番歌合、蟾」、作者は藤原家房(一一六七~一一九六)、藤原基房の子である。二句「響む」は響き渡る、鳴り響かせる。四句「堀江」は人口の川、これと並んで一九一七番に〈たかせ舟のぼる堀江の水を浅み草がくれにて蛙なくなり〉(源顕仲)もある。場所は不明だが土木工事で出現したのであろう、都市景観が目に浮かぶ。
 三首目の詞書は「永久四年百首、蛙」、作者は藤原仲実(一〇五七~一一一八)。永久四年は一一一六年である。二句は古事記に築造の記事がある「狭山の池」、現在の大阪府狭山市にある溜め池をいう。三句「ねぬなは」(根蓴菜)はジュンサイの異名、「ねぬなはの」で根の長い蓴菜を繰って取る意から「繰る」と同音の「来る」「苦し」にかかる枕詞となる。春たけなわ根蓴菜を含めた景色として鑑賞したい。
 四首目の詞書は「建久元年六月一旬百首、春歌」、作者は藤原定家。建久元年は一一九〇年、定家三十九歳である。初句は「実栗延ふ」、実栗は多年草で池や溝などの浅い水中に生える。見えているわけではなく「汀」にかかる枕詞風の展開として読んだ。見えているのは打ちそよぐ真菰である。真菰はイネ科の大形多年草。高さ一、二メートルで水辺に生える。蛙を隠してもいるのだろう。薄墨色の風景である。
 五首目の詞書は「さと、現存六」、作者は藤原良教(一二二四~一二八七)。四句「泉の里」は京都府相楽郡木津町や加茂町の泉川(現在の木津川)に沿った地をいい、『万葉集』に〈家人に恋ひ過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば〉(六九六)がある。夏も近い、そんな実感が湧いてくる。
 六首目の詞書は「家集」、作者の平兼盛(?~九九〇)は三十六歌仙の一人。三句は「合ひにけり」となるところをハ行転呼音がア行で表記されたと解しておく。初句「沢水」は田の傍を流れる沢、三句は両者の調和する様をいう。四句は春の到来すなわち蛙の声を愛おしみながら鍬を振るっているのだ。結句「小」は接頭語、「山田」は山地の田をいう。


夫木和歌抄の森を歩く(第八回)  2013.7.31

 巻第六春部六に入る。

  雲雀あがるとぶひの原に我ひとり野もせにさけるすみれ  をぞつむ(一九四四)          仲実朝臣
  いその神ふる野の里を来て見ればひとりすみれの花咲き  にけり(一九四九)            小侍従
  すみれ咲く南良のみやこの跡とてはいしずゑのみぞかた  みなりける(一九五一)          源仲正

 題「菫菜」から三首を引く。
 一首目の詞書は「堀川院御時百首歌、菫」、作者は藤原仲実である。二句は「飛火野」のこと、四句は「野面(のもせ)」だが景としては「野も狭」なのだろう。三句の「我ひとり」に注目した。一連だと永縁の〈老いぬれば花の宮古にあり侘びて山にすみれをつまんとぞ思ふ〉(一九四二)の初句、さらにいえば為家の〈武蔵野や草のゆかりの色ながら人にしられずさくすみれかな〉(一九七五)の四句を連想させる。
 二首目の詞書は「千五百番歌合」。初句の「石上」は地名で奈良県天理市の石上町・布留町の辺り、二句「ふる」は「布留」に「古る」だろう。四句「ひとり」は単独で、そのものだけで、つまり「老いぬれば」の隠者も「我ひとり」も介在しない、菫だけが「人に知られず」咲く景色なのである。
 三首目の詞書は「家集、古郷菫」。二句の「南良」は「奈良」の宛字だろう。先の歌と趣向は似るが、クローズアップされる被写体が異なる。菫の花か、それとも菫の咲く場所か、その違いである。下句「礎のみぞ形見なりける」は廃都の菫、どうやら件の花はひっそりとした処が似合うらしい。

  おもだかや下葉にまじる杜若花ふみ分けてあさるしら鷺  (一九九九)           前中納言定家卿
  田子がすむ山下水のかきつばたむべえび染の色に咲きけ  り(二〇〇〇)              源仲正

 題「杜若」から二首を引く。
 一首目の詞書は「建久元年百首」。場所は水辺、白鷺は四句からダイサギが連想される。初句「沢瀉」の葉は鏃形で長い柄をもつ。これを受けて助詞「や」が切れ字のように場面を提示、詠嘆をこめる。杜若と沢瀉の高さの違いは成長の度合だろう。下句は餌を漁って二本の脚が躍動的である。
 二首目の詞書は「山家百首、水辺杜若」。初句「田子」は田を耕作する人、二句「山下水」は山の麓を流れる水。そこに杜若が咲いているのだ。四句「むべ」は得心するさまを表す。「葡萄染め」は薄い紫色、「えび」は山葡萄である。色の等級ではない、生活の直接性に「なるほど」なのだ。

  かはつ啼くみつの小川の水きよみ底にぞ見ゆる山吹の花  (二〇二二)             大納言師頼卿
  ちりかかる山吹のせに行く春の花に棹さす宇治の川をさ  (二〇五三)         西園寺入道太政大臣
  鶯のきなく山ぶきうたかたも君が手ふれず花ちらめやも  (二〇七〇)              読人不知
  さけばかつはなだにおもき山吹の枝にかかれる春雨の露  (二〇七六)            民部卿為家卿
  玉の井にさけるを見れば款冬の花こそ春のひかりなりけ  れ(二〇八六)             俊頼朝臣
  山ぶきをかざしにさせばはまぐりを井手のわたりの物と  見るかな(二〇八七)          俊頼朝臣

 題「款冬」から六首を引く。
 一首目の詞書は「堀川院御時百首」、作者は源師頼(一〇六八~一一三九)。二句は「美豆の小川」、「美豆」は現在の京都市伏見区淀美豆町から久世郡久美山町にかけての一帯を指す。その小川の水がきれいので底に山吹の花が映っているのだ。蛙と山吹の取り合わせは井手だけに限らない。
 二首目の詞書は「光台院入道二品親王家五十首、款冬」、作者は西園寺公経。二句は「山吹の狭に」だろう。結句は「宇治の川長」、船頭である。川船に立つ船頭を埋め尽くすように花びらが舞い、そして水面を覆う。三句「行く春の」は移りゆく季節であり、また流れて行く花びらでもあった。
 三首目の詞書は「題しらず、万十七」、作者は読人不知。三句「うたかた」が気になって小学館『日本古典文学全集』の『萬葉集』を開くと「うたがたも」だった。意味は反語表現を伴って「きっと~まい」「うたかた」となる。結句「めやも」は「…することがあろうか、いやそんなことはない」。作者が大伴池主から読人不知になって恋歌の感が強い。
 四首目の詞書は「文永二年毎日一首中」。初句の「且つ」は接続詞「その上」だろう。意味的には「~花だにおもき」「かつ」「山吹の~」が選択肢だ。ではなぜ初句なのか。考えられるのは漢文口調のインパクト、次に副詞「そのそばから」を加えて花と春雨双方の質感を表現したかった。
 五首目の詞書は「堀川院御時百首」。初句「玉の井」は井戸の美称もしくは井手の里の井戸。しかし〈里人もいまはみくさをうちはらひほたるばかりや玉の井の水〉(『夫木和歌集』三二三〇)や〈玉の井の汀に〉(同、二〇八九)の用例から「井手の玉水」(井手の里にあった清流)と解した。題名でもある三句「款冬」は山吹の異名、植物名に「冬」を持つが、花咲けば、まさしく春の景色だというのである。
 六首目の詞書は「家集」。二句の「挿頭」は花や木の枝を折り、髪や冠に挿したもの、ここでは山吹が対象である。しかし、なぜ三句に「ハマグリ」が登場するのか。ヒントは先の款冬にある。ハマグリは「蛤」と書いて井手の「カエル」とも読む。つまり両者は表記を同じくするのであった。

  おとつるる松の雨さへかをるなり藤さくころの庭のゆふ  風(二一六〇)          右近中将経家卿
  むらさきのなたかの浦の藤の花春のいろにや波もたつら  ん(二一六一)          前大納言伊平卿
  山たかみ松の梢のふぢ波は水なき空にたちぞかかれる  (二一六九)              権僧正公朝

 題「藤花」から三首を引く。一〇六首の一大グループだが松と藤(波)の取り合わせ、その熱中が理解できない。
 一首目の詞書は「建長八年百首歌合」、作者は藤原基家の子(生没年不詳)、既出の正三位経家とは別人である。初句は「音連るる」だろう。「音を伴うだけの雨、しかも常緑樹だが自らは匂わない、その松に降る雨さえ甘く香りを運んでくる。夕風の吹くわが庭、藤の花咲く季節となった」。
 二首目の詞書も「建長八年百首歌合」、作者は藤原伊平(生没年未詳)。初句は枕詞、紫色が名高い色だったことから地名の「名高」に掛かる。二句「名高の浦」は和歌山県海南市名高の海岸。三句「藤の花」も紫色、三句が初句を呼び、またその逆でもあったろう。四句「春の色」は春の景色、結句は藤波(花房の譬喩)に映像として名高の浦を重ねた。
 三首目の詞書は「六帖題、藤」。初句の「み」は接尾語で名詞を作る。以下「山の高みに生えている松、その松の梢に蔓を絡めた藤の花、藤波は、あたかも波が起こり物を濡らすように、風に揺られている、水のない空であることだ」。

  梅さくら散りはてぬれば我が屋どのつつじの花ぞさかり  なりける(二二一五)         橘俊綱朝臣
  山陰にこころばかりは春の色のつつじのけたみ花咲きに  けり(二二五五)            信実朝臣

 題「躑躅」から二首を引く。
 一首目の詞書は「ふしみに侍りけるころ、経信卿のもとにつかはしける」、作者の橘俊綱(一〇二八~一〇九四)は関白藤原頼通の子、讃岐守橘俊遠の養子となった。梅と桜の同居はともかく、一首中三植物の椀飯振舞いとなると希少であろう。伏見の豪邸は有名で『作庭記』の著者とされる。
 二首目の詞書は「建長八年百首歌合」、作者は藤原信実。四句の「けたみ」は「けたむ」(敬意を表する。貴人などに挨拶する。またそのために物を贈る)の連用形、一首はこれに尽きる。左注に「判者知家卿云、つつじのけたみこそ、みみどほく侍れ」云云とあるが、この擬人法がいいのだ。

  おそ桜それだに雪とちりはててやよひもなかばはや過ぎ  にけり(二二五六)         民部卿為家卿
  をしみこしおなじ名残のゆかりとてはなの道より春や行  くらん(二二六一)         後鳥羽院御製
  夕附日かすみのにしにかたぶきて入あひの鐘に春ぞのこ  れる(二二六五)          土御門院御製

 題「暮春」から三首を引く。
 一首目の詞書は「文永八年毎日八首中」。四句「弥生も半ば」は今なら四月下旬から五月初旬だろう。上句から連想するのは桜吹雪や花吹雪だが、〈ちりまがふ花のふぶきにかきくれて空までかをるしがの山ごえ〉(『夫木和歌抄』一四九二)の例はあるが、複合語の例は見つけられなかった。
 二首目の詞書は「百首御歌、雲葉」。「雲葉」は濃く茂った葉。季節は春から夏へ移っていく。上句は具象としての桜と抽象としての春をいう。桜前線の譬喩のような四句「花の道」だが、用語としては希少例に属する。助詞を外すと花道、しかし劇場や相撲のそれにも繋がらないようである。
 三首目の詞書は「春情難繋夕陽中」(春の情は繋ぎ難し夕陽の中)。初句「ゆうづくひ」は夕方の太陽、夕陽が以下「霞の西に傾きて」、四句「入相の鐘」は日没のとき寺で勤行の合図に突き鳴らす鐘、その晩鐘を聞きながら春を惜しんでいる図となる。四季を生きる私たちの心情に訴えて美しい。

  けふ暮れぬ夏のこよみを巻きかへし猶春ぞとや思ひなさ  まし(二二八四)       皇太后宮大夫俊成卿
  春のけふくるるしるしはうぐひすのなかずなりぬるここ  ろなりけり(二二九〇)           貫之

 題「三月尽」から二首を引く。
 一首目の詞書は「文治六年五社百首」。暦の登場する歌は少数派と思われるが、そこに注目した。初句切れ、三句から具注暦(巻子本)であることが分かる。下句は「まだ春だと思うことにしようか」。四句「と」は「猶春ぞ」に対する疑問、結句「まし」は実行を思い迷う意を表す。藤原知家にも〈ひととせのこよみをおくにまきよせてのこる日かずのほどぞすくなき〉(『夫木和歌抄』七六〇三)がある。
 二首目の詞書は「天慶二年宰相中将家屏風、三月晦日」。夥しい「こころなりけり」歌では最初期の作品だろう。斬新な表現も流行し、平安・鎌倉・南北朝と時代が下ると、やがて形骸化する。もちろん紀貫之の責任ではない。正直なところ言葉以上の意味というか、ニュアンスが掴めない。


夫木和歌抄の森を歩く(第九回)  2014.2.8

 巻第七夏部一に入る。

  あかざりし花のころものうつりがとかとりの袖はきくも  なつかし(二三〇四)        正二位忠定卿
  はるのいろをきならし衣けふはまたぬぎかへがてらかた  みにぞおく(二三〇五)         信実朝臣
  神がきにけふたちめぐるやをとめのたもともかろくなつ  はきにけり(二三一〇)       民部卿為家卿
  なつくればしづのあさぎぬときわくるかたゐ中こそここ  ろやすけれ(二三一六)          源仲正

 題「更衣」から四首を引く。
 一首目の詞書は「建長八年百首歌合」、作者は中山忠定(一一八八~一二五六)である。初句は「飽かざりし」、二句「花の衣」は桜を見ていた頃の衣服だろう。四句「かとり」は目を緻密に固く織った平織りの絹布をいう。結句は「聞くも懐かし」だろう。ただ「建長八年百首歌合」の方は「きてもなつかし」(着ても懐かし)であった。後者で味わいたい。
 二首目の詞書は「六帖題、更衣、新六一」、作者は藤原信実である。初句「春の色を」は「春らしい色を」、二句の「着慣らし衣」は着慣れた衣、四句「脱ぎ替えがてら」は脱ぎ替えるついでに、結句は「形見にぞ置く」、思い出のよすがにするというのだ。夏よりも春に比重を置いた作品である。
 三首目の詞書は「文応元年七社百首」、作者は藤原為家である。初句「神垣」は神社をいう。二句の「立ち巡る」は歩き回ること、三句「八少女」は神社に奉仕し、神楽などを奏する少女をいう。四句「袂」は袖口の下の袋のようになった部分で「~も軽く」以下に夏が来た喜びが伝わってくる。
 四首目の詞書は「田舎更衣」、作者は源仲正である。二句の「賤」は身分の低い者、「麻衣」は麻布で作った粗末な着物である。三句「解き分くる」は解き放って別々にすることをいう。下句「片田舎こそ心やすけれ」が大らかである。

  春がすみたちしはきのふいつのまにけふはやまべのすぐ  ろかるらん(二三一八)           好忠
  おちかはるふたげのしかのくもりぼしややあらはるるな  つはきにけり(二三二一)         源仲正
  神やまのかしはのひらてうちたたきみわすゑいのる月は  きにけり(二三三二)        従二位行家卿

 題「首夏」から三首を引く。
 一首目の詞書は「家集、夏歌中」、作者は曾禰好忠である。四句「山辺」は山のあたりをいう。結句の「末黒」(「すえぐろ」の変化した語)は春の野焼きのあとに草木の先が黒く焦げ残っていること、「刈るらん」は伝聞で「(その草木を)刈っているそうだ」となる。題の「首夏」は初夏または陰暦の四月だから蕨を取るといった仕事があるのだろう。
 二首目の詞書は「家集、首夏の心を」、作者は源仲正である。初句は「復ち返る」ではなく「落ち替はる」、耳慣れないが更衣を意識したものと解しておく。二句「二毛の鹿」は夏毛と冬毛の混じっていること、三句「曇り星」はぼやけた白斑をいう。下句は「やや現るる夏はきにけり」となる。
 三首目の詞書は「建長八年百首歌合、夏歌」、作者は藤原行家(一二二三~一二七五)である。上句〈神山の柏の平手打ち叩き〉の「神山」は神の鎮座する山、「柏」は「神山の柏」かつ「柏の平手」となる。後の「の」は比喩で「平手」は開いた掌だから柏のような掌、三句「打ち叩き」で柏手となる。四句の「みわ」は「神酒」で神に供える酒、それを「据ゑ祈る」だろう。結句は四月に神事の多いことをいう。

  おそざくらありとやけふはみかのはらかはかみたかく雲  のかかれる(二三四六)       後九条内大臣

 題「余花」から一首を引く。
 詞書は「建長八年百首歌合、夏歌」、作者は藤原基家(一二〇三~一二八〇)である。「余花」は咲き残った花をいう。三句「瓶原」の「み」に「見」を掛けた。四句は「川上高く」、結句は「雲の(ように)架かれる」だろう。絵としても美しいが、初句と三句の「ら」音、三句と四句の「み」音、また「か」音さらには母音要素の「あ」音が心地良く響く。

  しげりゆくのきのこかげの雨のうちになほもこぐらき夏  のそらかな(二三五二)       民部卿為家卿
  かげひたす水さへいろぞみどりなるよものこずゑのおな  じわか葉に(二三五九)      前中納言定家卿

 題「新樹」から二首を引く。
 一首目の詞書は「建長三年毎日一首中」、作者は藤原為家である。「茂りゆく」のは樹ではなく樹の影すなわち「軒の樹蔭」という主客逆転の初二句である。三句は「雨の中に」だろう。四句の「尚も」は「木暗き」かつ「小暗き」で結句「夏の空」となる。家の中からだと、こう見えるのだ。
 二首目の詞書は「六百番歌合、新樹」、作者は藤原定家である。初句は「影浸す」、水に木が映る意の「影映す」では当たり前で二三句「水さへ色ぞ緑なる」が生きない。実体のあるかのように影を水に浸けたのが、この歌の全てだろう。下句は「四方の梢の同じ若葉に」で上下句か倒置になる。

  うつぎはらてこらがぬのをさらせると見えしは花のさけ  るなりけり(二三七九)           好忠
  やまがつのかきねのそひにはむこまの雪ふりがみとみゆ  るうのはな(二三八二)          源仲正
  しろたへのかきねにさける卯の花にもてなされたるゆふ  づくよかな(二四〇一)        衣笠内大臣
  しばぶねのかへるみたにのおひ風になみよせまさるきし  のうの花(二四二二)     皇太后宮大夫俊成郷
  神やまの身をうのはなのほととぎすくやしくやしとねを  のみぞなく(二四三七)         読人不知
  おのれのみさやかになのるほととぎすうのはな山のおぼ  ろ月よに(二四六五)        藻壁門院但馬

 題「卯花」から五首を引く。
 一首目の詞書は「家集、三百六十首中」、作者は曾根好忠である。初句は「空木原」、空木の花は卯月に咲くことから卯の花ともいう。白い五弁花が原一杯に群れ咲く風景を想像したい。二三句は「手児が布を晒せると」。手児は娘、晒すのは布の色を白くするためである。灰汁で煮たのち水で洗って日光に干す。下句は見立てであることを明かした。
 二首目の詞書は「家集、夏歌」、作者は源仲正である。初句「山賤」は身分の低い者と解した。仲正周辺もしくは自称であっても構わない。二三句は「垣根の添ひに食む駒の」、「添ひ」は「傍」である。四句の「雪降り髪」は馬のたてがみの白いものをいう。結句、やはり見立てが全てである。
 三首目の詞書は「六帖題、ゆふづくよ、新六一」、作者は藤原家良である。初句の枕詞「白栲の」はその色から三句の「卯の花」に掛かり、次いで白栲の木綿(ゆう)と同音の結句「夕月夜」に掛かる。この両語を結ぶ四句「持て成されたる」が眼目であろう。卯の花が夕月夜を饗応したことになるが、無論のこと満足しているのは「私」に他ならない。
 四首目の詞書は「暮見卯花」、作者は藤原俊成である。初句「柴舟」は柴木を積んだ小舟をいう。二句は「帰る御谷の」、「御」は接頭語、山奥の渓流を下る柴舟である。三句以下は「追ひ風に波寄せ増さる岸の卯の花」だろう。「増さる」のは岸を打つ波、その波を比喩として加えた卯の花となる。
 五首目の詞書は「題不知、懐中」、作者は読人不知。但し『古今和歌六帖』では「とう三条の右大臣」九首中の一首である。二句「卯の花」の「卯」に「憂」を掛けた。初句と三句が縁語としても下句の必然性が今一つ分からない。神山から自由になりたいのか。ともあれ四句のリフレイン「くやしくやし」に注目した。ちなみに「とう三条の右大臣」の一首目には「しぬるものなりしぬるものなり」があった。
 六首目の詞書は「洞院摂政家百首、郭公」、作者の但馬(生没年不詳)は源家長(?~一二三四)の娘である。結句の「朧月夜」は柔らかく霞んで見える月夜、視覚的には四句の「卯の花山」も同じである。これに配した時鳥は聴覚の面から初二句「己のみ清かに名告る」とアクセントを効かした。

  ちはやぶるう月のみしめあらためてきねがもろごゑはや  うたふなり(二四七二)         信実朝臣

 題「神祭」から一首を引く。
 詞書は「六帖題、新六一」、作者は藤原信実である。初句の「千早振る」は二句の神の縁語「御注連」(「御注連縄」の略)に掛かる。四句は「巫覡が諸声」で結句の「早」は「すでに」、神楽歌の練習なのだろうか。動感があって快い。

  かつらめのあゆにはあらずあま人のかづくあまぎぬけふ  にあふひぞ(二四八三)        六条右大臣

 題「葵」から一首を引く。
 詞書は「経信卿家集」、作者は源顕房(一〇三七~一〇九四)である。左注に「この歌は、四月祭のころ、すざかのあまうへときこゆる人に、ながききぬをつかはすとてよめると云云」とある。母音要素の「あ」音が交響し、掛詞も縦横無尽である。「四月祭」は葵祭をいう。漢字仮名交じりだと「桂女の鮎にはあらず尼(海人)人の被く尼(雨)衣今日に会ふ日(葵)ぞ」か。四句「あまぎぬ」(雨衣)は戸外の行事が雨のときに奉仕の官人が装束の上につける雨具をさす。

  さもこそはみあれのころとなのるらめなもそのかみのや  まほととぎす(二五二六)      民部卿為家卿
  われひかむみあれにつけていのること中中すずもまつに  こえたり(二五二七)             順

 題「賀茂祭」から二首を引く。
 一首目の詞書は「毎日一首中、賀茂祭」、作者は藤原為家である。上句は「然もこそは」(そのようにも)以下「御阿礼の頃と名告るらめ」と係り結びである。「御阿礼」は「御阿礼祭」の略、下句は「名も其の上(神)の山ほととぎす」で、式子内親王の〈ほととぎす其の上(神)山の旅枕ほの語らひし空ぞ忘れぬ〉(『新古今和歌集』)が思われる。
 二首目の詞書は「かもの祭の中の日、みあれひくとて」、作者は源順(九一一~九八三)である。「御阿礼引く」は賀茂神社の祭礼の日、御阿礼木の綱を引いて神に祈ることをいう。結句は不明、家集『源順集』だと下句が「なるなるすずもまづ聞えけり」である。四句は「鳴るなる鈴も」か。これなら分かる。ちなみに初句も「わがひかん」であった。


夫木和歌抄の森を歩く(第十回)  2014.7.11

 巻第七夏部一の続きである。

  ほととぎすこゑにうゑめのはやされてやまだのさなへた  ゆまでぞとる(二五三五)        西行上人
  くれぬとてちまちのさなへとりどりにいそぐもしるきた  ごのもろごゑ(二五五四)      嘉陽門院越前
  やましろのいはたのさなへとるたごのつかれにやすむも  りのしたかげ(二五六二)        信実朝臣
  いそげたごゆきあひのわせのふしたつな麻須香井衣みし  ぶつくとも(二五七三)         仲実朝臣
  とりあへぬさなへのすゑのみだればにむらさめながらさ  わぐゆふかぜ(二五八三)      従三位為実卿
  わさなへもうゑ時すぐるほどなれやしでのたをさのこゑ  はやめたり(二五八八)         恵慶法師
  けふもまたたごのいたぶねさしうけてぬまえをふかみと  るさなへかな(二五九三)      正三位知家卿
  五月雨にとらぬさなへのながるるをせくこそやがてうう  るなりけれ(二五九五)        後京極摂政

 題「早苗」から八首を引く。
 一首目の詞書は「家集、取早苗聞郭公」、『山家集』『聞書集』『残集』とあるが『残集』をいう。一首は〈時鳥声に植女の囃されて山田の早苗絶ゆまでぞ採る〉と読んだ。時鳥の声に励まされるようにして早苗を採るのは苗代から本田に移植するためである。語彙では「植女」の登場が珍しい。
 二首目の詞書は「老若五十首歌合」、作者の越前は後鳥羽天皇の皇女嘉陽門院に女房として仕えた。一首は〈暮れぬとて千町の早苗取り取りに急ぐも著き田子の諸声〉だろう。二句の「町」は区画した田地、「千町」は比喩と解した。そのそれぞれの田で時間との競争が行われているのである。
 三首目の詞書は「寛元四年十禅師歌合、社辺早苗」、作者は藤原信実、寛元四年は一二四六年である。「十禅師」は日吉山王(ひえさんのう)七社権現の一つ、「社辺」は神社の周辺をいう。一首は〈山城の石田(いはた)の早苗採る田子の疲れに休む森の下陰〉と読んだ。下句は地名の「石田」を念頭に鑑賞したい。
 四首目の詞書は「早苗歌中、万代」、作者は藤原仲実である。一首は〈急げ田子行き合ひの早稲の節立つな麻須香井衣水渋付くとも〉と読んだ。二句は夏から秋へ移り変わる頃の早稲をいう。但し『万代和歌集』を見ると「早稲」が「苗」である。四句は不明、安田徳子の『万代和歌集(上)』(明治書院『和歌文学大系13』)は「未詳。『麻須香井』は地名か。その地で生産された衣の意か」とする。結句「水渋」は水垢である。初句から臨場感が伝わってくる歌である。
 五首目の詞書は「嘉元四年十一月当座百首」、作者は藤原為実である。一首は〈採り敢えぬ早苗の末の乱れ葉に叢雨ながら騒ぐ夕風〉と読んだ。初句は作業が終わらなかったのだろう。「末」は上方、先端をいう。三句は入り乱れている葉、その葉が驟雨によって乱れ動く夕方の景を詠った。
 六首目の詞書は「家集、夏歌中」、作者の恵慶は寛和(かんな)(九五七~九八七)頃の人である。一首は〈早稲苗も植ゑ時過ぐる程なれや死出の田長の声早めたり〉だろう。初句は苗代から田に移し植える頃の稲の苗をいう。結句の「早めたり」は「急がせる」の意で、四句は時鳥の異名だが語源説に「賤の田長」の転がある。鳥に人のイメージを重ねた感がする。
 七首目の詞書は「宝治二年百首、早苗」、作者の藤原知家(一一八二〜一二五八)は為家の判詞に反論した「蓮性(れんしよう)陳状」で知られる。一首は〈今日もまた田子の板舟差し浮けて沼江を深み採る早苗かな〉と読んだ。「板舟」は薄い板で作った小舟、泥深い水田で早苗や刈稲を載せるのに用いた。三句の「差し」は接頭語、四句の「深み」は「深さに」。
 八首目の詞書は「御集、早苗」、作者は藤原良経である。一首は〈五月雨に採らぬ早苗の流るるを堰くこそやがて植うるなりけれ〉と読んだ。上句は雨で早苗が流されていく場面である。下句は流れいくのを堰いて回収し、本田に植えたというのであろう。今とは随分と違う苦労があったのだ。

  つくまえのいりえのぬまのあやめぐさこの五月雨にかる  人もなし(二六四〇)        民部卿為家卿
  みくりくるつくまのぬまのあやめぐさひけどつきせぬね  にこそありけれ(二六四一)  皇太后宮大夫俊成卿
  あやめぐさひくとやしづのおりたちてけふすみのえをふ  みにごすらん(二六五一)         源仲正

 題「菖蒲」から三首を引く。
 一首目の詞書は「貞応三年百首、沼辺菖蒲」(一二二四年)、作者は藤原為家である。上句は「筑摩江の入江の沼の」、筑摩江は滋賀県米原市の入江地区を湖水面とする内湖であった。歌枕だが江戸中期以降の干拓と開田、昭和の入植により姿を消した。結句「苅る人もなし」と静かな景を詠った。
 二首目の詞書は「五社百首」(一一九〇年)、作者は藤原俊成である。一首は〈三稜草繰る筑摩の沼の菖蒲草引けど尽きせぬ根にこそありけれ〉と読んだ。初句の用例だが「為忠家初度百首」(一一三四年)に藤原忠成の〈くりかへしくる人しげみみくりくるつくまえにおふるあやめひくとて〉(一八八)がある。家永香織の『為忠家初度百首全釈』(風間書房『歌合・定数歌全釈叢書九』)には「同音反復のおもしろさを狙った作」とある。用例の二としては『後拾遺和歌集』(一〇八六年)に藤原道信の〈近江にかありといふなるみくりくる人くるしめの筑摩江の沼〉(六四四)がある。岩波書店の『後拾遺和歌集』(『新日本古典文学大系8』)の校注は「『みくりくる』は『人くるしめ』を起す序のような働き」だという。本歌は枕詞風だが下句への影響も明らかである。用例が重なれば枕詞や序詞として自立しただろうことが思われる。四句の「引けど尽きせぬ」は五月五日の端午の節句に苅る、その菖蒲が一面に咲き乱れている景だろう。今一つは根の長短を比べ、和歌を詠み添えた遊びを彷彿とさせる。
 三首目の詞書は「家集、江中菖蒲」、作者は源仲正である。一首は〈菖蒲草引くとて賤の下り立ちて今日住之江を踏み濁すらん〉と読んだ。四句「住」に「澄(清)」を掛けた。菖蒲を苅るためだが、身分の低い者が澄んだ海岸を踏み濁しているだろう、というのである。下句の言葉遊びが楽しい。

  わがそののはなたちばなのいろみればこがねのすずをな  らすなりけり(二六八九)        顕仲朝臣
  おもひやるむかしもとほきみちのくのしのぶのさとにに  ほふたちばな(二七二四)        隆祐朝臣
  いにしへをしのぶこころをそふるかなみおやのもりにに  ほふたちばな(二七二五)   皇太后宮大夫俊成卿

 題「橘」から三首を引く。
 一首目の詞書は「堀川院御時百首、橘」、作者は藤原顕仲(一〇五九~一一二九)である。一首は〈わが苑の花橘の色見れば黄金の鈴を鳴らすなりけり〉と読んだ。二句は「花を賞する橘の」と解した。三句は実の色、その譬えが四句となる。結句は風に揺れているのか。橘を詠って異色である。
 二首目の詞書は「百首歌、里廬橘」、作者は鎌倉時代を生きた藤原隆祐(たかすけ)(生没年不詳、家隆の子)である。一首は〈思ひやる昔も遠き陸奥の信夫の里に匂ふ橘〉と読んだ。初句は空間的にも時間的にも遠くのものを思うこと、三句は「みちのおく」の音変化、四句は「信夫」に「偲ぶ」を掛けた。恋心であろう。愛唱性も豊かな名歌として喧伝したい。
 三首目の詞書は「文治六年五社百首、橘」(一一九〇年)、作者は藤原俊成である。一首は〈古を偲ぶ心を添ふるかな御祖の森に匂ふ橘〉と読んだ。「五社百首」(『群書類従 第十一輯 和歌部』)を開くと「賀茂」即ち「賀茂御祖神社」をいう。前歌と同じ趣向だが森に佇む人の気配が伝わる。

 巻第八夏部二に入る。

  ほととぎすまたせまたせてしののめのほがらかにこそな  きわたるなれ(二七六六)         源仲正
  卯の花のにほふ五月の月きよみいねずきけとやなく郭公  (二八〇一)            中納言家持卿
  たまくしげふたみのうらの郭公あけがたにこそなきわた  るなれ(二八〇二)        前中納言匡房卿
  ほととぎすなくねのかげしうつらねばかがみの山もかひ  なかりけり(二八三四)         俊頼朝臣
  ここにだにつれづれとなくほととぎすましてここひのも  りはいかにや(二八四〇)         謙徳公
  ほととぎすこゑふりたててすずか山いまぞせきぢをこえ  てなくなる(二八八六)       民部卿為家卿

 題「郭公」から六首を引く。
 一首目の詞書は「常磐百首、朝郭公」、作者は源仲正である。一首は〈時鳥待たせ待たせて東雲の朗らかにこそ鳴き渡るなれ〉と読んだ。二句の待たされているのは「私」、三句は明け方、その類音から「忍」んで待つ「私」が立ち上がってくる。下句は逆で広々と、また明瞭に、鳴きながら飛んでいく時鳥の姿を係り結びで強調し、上句と対応させた。
 二首目の詞書は「家集、夏歌」、作者は大伴家持(七一八頃~七八五)である。三四句は「月きよみ寝ねず聞けとや」(月が清いので寝ずに聞けというのか)。卯の花が匂い、月が照り、時鳥までが鳴く。嗅覚視覚聴覚の三位一体では眠るに眠れない。その思いを時鳥に代弁させて巧みである。
 三首目の詞書は「はりまのふたみのうらにて」(兵庫県明石市二見町の海岸)、作者は大江匡房である。一首は〈玉櫛笥二見の浦の郭公明け方にこそ鳴き渡るなれ〉と読んだ。初句の「玉」は美称、「櫛笥」は櫛や化粧道具を入れる箱をいう。枕詞としては箱の「蓋」と同音の二句「二」に掛かり、また蓋を「開け」から同音の四句「明け」にも掛かる。
 四首目の詞書は「郭公歌中」、作者は源俊頼である。一首は〈時鳥鳴く音の影し映らねば鏡の山も甲斐無かりけり〉と読んだ。四句は京都市山科区北部にある天智天皇陵の後ろの山をいう。二句の「し」は副助詞で「影」(姿)を強調した。「鏡」の語に反応した歌だが、その「か」音が響き合う。
 五首目の詞書は「御集」、作者は藤原伊尹(これまさ)(九二四~九七二)、名は「これただ」とも、謙徳公は諡である。一首は〈ここにだに徒然と鳴く時鳥ましてここひの森はいかにや〉と読んだ。下句「ここひの森」は『枕草子』一一五段にも登場するが、静岡県熱海市伊豆山付近の児恋の森らしい。物寂しく鳴く時鳥だが児恋の森なら「どんなだろう」というのだ。
 六首目の詞書は「文応元年七社百首」(一二六〇年)、作者は藤原為家である。一首は〈時鳥声振り立てて鈴鹿山今ぞ関路を越えて鳴くなる〉と読んだ。古代の鈴鹿関は七八九年に廃止されるが、鎌倉時代にも関所があった。二句には人の姿が投影されているだろう。しかし人と違って関路(関所に通じる道)の上空さらには時をも越えるのが時鳥なのだ。


夫木和歌抄の森を歩く(第十一回)  2014.12.22

 巻第八夏部二の続きである。

  五月雨のひまなき比もさをしかのうはげのほしはくもらざりけり(二九九二)                  衣笠内大臣
  五月雨ははれぬと見ゆる雲まより山の色こき夕ぐれの空(三〇〇一)                     中務卿のみこ
  をちかたやながめし峰も雲ぢにて山こそなけれ五月雨の比(三〇〇八)                    大蔵卿有家卿
  ふもとまでひとつ雲ぢとなりはてて山のはもなし五月雨のそら(三〇〇九)                  従二位家隆卿
  橘のにほふこずゑにさみだれて山ほととぎすこゑかをるなり(三〇二四)                     西行上人
  さみだれに山田のあぜのたきまくらかずをかさねておつるなりけり(三〇五二)                  西行上人
  五月雨に水まさりけるほどみえてもくづかかれる川やなぎかな(三〇五八)             従三位行成((ママ))卿

 題「五月雨」から七首を引く。
 一首目の詞書は「六帖題、しか 新六二」、作者は藤原家良である。漢字で補記すると〈五月雨の暇なき頃も小牡鹿の上毛の星は曇らざりけり〉だろう。二句の「暇」は雨の止んだ間をいう。四句の「星」は毛並みの白い斑紋をいう。結句の裏には空の星が五月雨に隠れていることを暗に指す。
 二首目の詞書は「百首御歌中に」、作者は宗尊親王である。二句「晴れぬ」は「晴る」の連用形に完了の助動詞「ぬ」の終止形で「止んだ(天気が回復した)」、「見ゆる」で連体止めと解した。四句「雲間」は雲の切れ目をいう。四句の「濃き」は稜線のはっきりした暗褐色をイメージしてみた。
 三首目の詞書は「喜多院入道二品親王家五十首」、作者は藤原有家である。初句「遠方や」の「や」は梅雨以前と以後を比較した詠嘆だろう。はっきりとしていた以前に、今は稜線も雨雲で隠れた四句「山こそなけれ」の現在となる。
 四首目の詞書は「正治二年百首」、作者は藤原家隆である。先の「山こそなけれ」に対して四句「山の端もなし」、稜線がないというのは上句「麓まで一つ雲路となりはてて」雲で覆われているのであった。どちらも捨てがたい趣である。
 五首目の詞書は「雨中郭公」。橘に時鳥、加えて五月雨の配合である。二句の「匂ふ」は橘の花が美しく咲いていること、結句の「薫る」は初二句を受けて時鳥の声が香気を漂わせているようだと解した。媒介するのは三句である。
 六首目の詞書は「家集」。漢字を当てると〈五月雨に山田の畦の滝枕数を重ねて落つるなりけり〉となろう。三句は「滝つ瀬が枕のように盛り上がっているところ」(『日本国語大辞典』)で、田の境界の畦から水田に落ちる雨の形状を伝えて巧み、四句は時間の経過と滝水の数その両方と解した。
 七首目の詞書は「柿本影供百首」、『作者分類夫木和歌抄 本文篇』(風間書房)によれば行成(ゆきなり)(九七二〜一〇二七)を祖とする世尊寺行能(せそんじゆきよし)(一一七九~?)作である。三句の「程」は有様や状態をいう。長雨で増水した川岸に四句の「藻屑」が柳に掛かっているのである。その臨場感に注目した。

  雲井までゆくほたるかと見えつるはたかまの山のともしなりけり(三〇八六)                皇太后宮太夫俊成卿
  みちとほみほぐしのまつもきえぬべしやへ山こゆるよはのともし火(三一〇二)                    仲実朝臣

 題「照射」から二首を引く。
 一首目の詞書は「文治六年五社百首、照射」、作者は藤原俊成である。「照射(ともし)」は「夏の夜、山中の木陰にたいまつなどをもやし、近寄る鹿を射殺す方法。また、その火」(『デジタル大辞泉』)をいう。四句「高天の山」は葛城山の別称、松明を持って上へ移動しているのであろう。
 二首目の詞書は「顕季卿家歌合、照射」、作者は藤原仲実である。〈道遠み火串の松も消えぬべし八重山越ゆる夜半の灯火〉。歌意は「(鹿を求めるまま)遠くへ来たが火串(松明を挟んで地に立てる木)に挟むときまで持つだろうか。山並みを越えていく夜中の、この松明であるよ」と解した。

  山がつのはでにかりほす麦のほのくだけて物をおもふ比かな(三一〇七)                      好忠

 題「麦」から一首を引く。
 詞書は「三百六十首歌中」、作者は曾禰好忠である。初句は「山賤の」、二句の「はで」は刈り取った稲や麦などを干すために掛ける木をいう。三句の「麦の穂」が横木で分かれるから「砕けて」、これに思い悩む意が重なる。三句までが序詞となって、恋よりも五月病めいた趣の展開となる。

  夏の野のしげみにさけるひめゆりのしられぬこひはくるしきものを(三一三三)                  坂上郎女

 題「百合」から一首を引く。
 詞書は「題不知、万八」、作者は大伴坂上郎女(生没年不詳)である。三句までが四句「知られぬ」の序詞、また「の」は「のように」だろう。なお手元の『万葉集』では四句が「知らえぬ恋」、結句にも異同があった。片思いの歌である。

  久かたの月のかつらのうかひぶね川風はやしたなはみだるな(三一五二)                     読人不知
  大井河ふちせもわかずかづくうにまかせてくだすかがりぶねかな(三一五八)                   良快法師
  かがりたく鵜河を照す夏虫のおのがひかりもやみやまつらん(三一五九)                  前民部卿雅有卿
  かがり火のひかりにまがふたまもにはうぐひのいをもかくれざりけり(三一六三)               神祇伯顕仲卿

 題「鵜河」から四首を引く。
 一首目の詞書は「匡房卿家歌合、鵜川」。狂歌だと初二句の月が空に三句「浮かび(ぶね)」、その月光に照らされる「鵜飼船」と読むが、こんな読みも許されただろうか。結句は「手縄乱るな」、鵜飼いが鵜につけて使う縄である。
 二首目の詞書は「天治元年五月無動寺歌合、夜川」、『作者分類夫木和歌抄 本文篇』は作者を未詳としている。漢字で補記すると〈大井河淵瀬も分かず潜く鵜に任せて下す篝船かな〉だろう。二句「分かず」は「分く」の未然形に打ち消しの「ず」、鵜は川の深い浅いを区別しない、対して人は区別できない、三句以下「私」の目が捉えた情景である。
 三首目の詞書は「家集、夏河」、作者は飛鳥井雅有(一二四一〜一三〇一)である。下句は「己が光も闇や待つらん」。鵜舟の篝火も待たれているが、それを照らす蛍自身も闇が待っている。蛍火も人に待たれているというのである。
 四首目の詞書は「八条入道太政大臣家歌合、鵜川」、作者は源顕仲(一〇六四~一一三八)である。漢字を当てれば〈篝火の光に紛ふ玉藻には石斑魚の魚も隠れざりけり〉、三句「玉藻」は美称、水草もろとも照らし出されているのである。

  柴の戸をたたくとおもひてあけたれば人もこずゑのくひななりけり(三一八三)                  大僧正行尊

 題「水鶏」五首のうち一首を引く。
 詞書は「神山といふ所にて、くひなを」、作者は行尊(一〇五五~一一三五)である。近世の狂歌では定番の水鶏だが和歌の景物として定着するのは遅い。その原型である。四句「来ず(ゑ)」に「梢」を重ねた。先行作として『拾遺和歌集』に〈たたくとてやどのつまどをあけたれば人もこずゑのくひななりけり〉(よみ人しらず、八二二)がある。

  ねにたててつげぬばかりぞほたるこそ秋はちかしと色にみせけれ(三一九二)                  後京極摂政
  さは水にほたるのかげのかずぞそふわがたましひや行きてぐすらん(三一九四)                  西行上人
  おぼえぬをたがたましひのきたるらんおもへばのきにほたるとびかふ(三一九五)                 西行上人
  風ふけばうちあぐる浪に立ゐして玉のひふつくよはの夏むし(三二五二)                      源仲正

 題「蛍」より四首を引く。
 一首目の詞書は「御集、蛍」、作者は九条良経である。書き改めると〈音に立てて告げぬばかりぞ蛍こそ秋は近しと色に見せけれ〉だろう。「鳴かない蛍、夏虫は秋が近いことを色という気配で知らせている」。蛍と秋の取り合わせは珍しくないが、下句とりわけ結句の表現が新鮮かつ美しい。
 二首目の詞書は「家集、夏歌中」、出典は『聞書集』(岩波文庫『山家集』)の「夏の歌に」である。漢字を当てると〈沢水に蛍の影の数ぞ添ふわが魂や行きて具すらむ〉だろう。二句「影」は光、三句「添ふ」は「つけ加わる。増して、多くなる」(『日本国語大辞典』)で、類縁歌に〈物おもへばさはのほたるもわが身よりあくがれいづる魂(たま)かとぞ見る〉(岩波文庫『和泉式部歌集』)がある。ただ結句の「具す」(従って行く、連れ立つ)に法師の出自や来し方が偲ばれる。
 三首目は詞書並びに出典も右に同じ、書き改めると〈覚えぬを誰が魂の来たるらん思へば軒に蛍飛び交ふ〉だろう。先の蛍が「私」だったのに対して、こちらは「他者」である。初句と三句が対応し、上句は蛍=魂というところからの疑問であろう。しかし現実として蛍は軒を飛び交っている。
 四首目の詞書は「家集、蛍火乱風」。三句「立ち居」は「雲などが、流れたりとどまったりすること」(『日本国語大辞典』)、四句「玉の一二つく」はお手玉の類で、三四句が蛍の乱舞の比喩となっている。しかも初二句のとおり風と浪、池でも川でもいいだろう、というわけで「乱」となる。

  日くるれば下ばこぐらき木のもとにものおそろしき夏の夕ぐれ(三三〇六)                     好忠
  いもと我ねやのかざとにひるねして日たかき夏のかげをすぐさん(三三〇七)                    好忠

 題「夏雑」から二首を引く。
 一首目の詞書は「三百六十首中」、作者は曾禰好忠。漢字を当てれば〈日暮るれば下葉小暗き木の下に物恐ろしき夏の夕暮れ〉だろう。二句の「下葉」は幹の下の方にある葉、圧迫する闇の感である。接頭語「物」を含む四句が新鮮に響く。「何となく恐ろしい」だが、用語としては希少例だろう。
 二首目の作者も曾禰好忠、詞書も同じである。書き改めれば〈妹と我寝屋の風戸に昼寝して日高き夏の影を過ぐさん〉となろう。二句「風戸」は風の吹いてくる戸口、寝室の戸口で奥さんと昼寝をしているのである。和歌にあっては規格外だが普段の生活からは遠くなかったろう。一押しである。



夫木和歌抄の森を歩く(第十二回)  2015.7.21 

 巻第九夏部三に入る。

  夏の池の汀にともすかがり火のひかりもすずしゆふやみの空(三三一八)                  光明峰寺入道摂政
  更行けば庭のかがりび焼(たき)捨ててほたるにゆづる夏のみじか夜(三三二〇)                 安嘉門院四条
  雨をやむ雲のうすみをゆく月のかげおぼろなる夏の夜の空(三三二一)                     後鳥羽院御製
  夏の夜は枕をわたる蚊のこゑのわづかにだにもいこそねられね(三三二二)                    後京極摂政

 題「夏夜」から四首引く。
 一首目の詞書は「建保四年百首御歌」、作者は九条道家である。三句の「篝火」は鉄製の籠の中に松材を盛って燃やす火をいう。決して涼しくない、しかし置かれているのが初二句「池の汀」だから四句「光も涼し」、水面に揺れる篝火でもあろう。三四句の清音で「かかり(篝)」と「ひかり(光)」の韻、「火」と「ひ(かり)」の対称にも注目したい。
 二首目の詞書は「弘安三年檜柄宮百首」、作者は阿仏尼である。二句「庭の篝火」は照明や警護のために燃やす火をいう。三句の「焼(たき)捨てて」は松材を焚きつがないで、そのままにしておくことである。すると時間の経過は主役を篝火から蛍火に移していく。短夜ならではのロケーションなのだ。
 三首目の詞書は「百首御歌」、作者は後鳥羽院である。四句までは「雨小止む雲の薄みを行く月の影おぼろなる」だろう。「雨が少しの間、止んだ。雲の淡くなったところを渡ってゆく月、その月の光がぼんやりと霞んでみえる」か。夏の月ながら、春の気を取り込んだような空の風情である。
 四首目の詞書は「十題百首御歌」、作者は九条良経である。二句は「枕の上を飛ぶ」意、三句は「蚊の羽音の」、四句は「僅かにさえも」の意、結句は「寝こそ寝られね」で熟睡ができない意となる。「蚊」という和歌にしては珍しい素材だが、その生活感が時代の隔たりを取っ払うようである。

  たかせ舟くだす夜川のみなれざを取りあへずあぐる夏の月かげ(三三二九)               前中納言定家卿
  空にしろく袖にすずしきかげみても月は夏とぞまたおもはるる(三三三二)               前中納言為兼卿
  影清み夏の夜すがらてる月をあまのとわたる舟かとぞみる(三三三三)                    よしただ
  夏の夜はひかりすずしくすむ月をわが物がほにうちはとぞみる(三三四一)               高松院右衛門佐
  夏川の底まで月の澄みぬれば瀬にふす鮎の数もみえけり(三三四四)                      源頼行
  山ざとはこやのえびらに澄む月のかげにもまゆのすそ(みイ)はみえけり(三三四五)              俊頼朝臣

 題「夏月」から六首引く。
 一首目の詞書は「建仁二年水無瀬殿六首御会、山上夏月」、作者は藤原定家だが、家集『拾遺愚草』を開くと同歌は〈たかせ舟くだすよ川のみなれざをとりあへず明くる比の月かげ〉(二二二六)とある。で、歌意は「上流から下流へと流す夜の川舟の水馴れ竿、その竿を取る間もないぐらいに、あわただしく明けてゆく時分の月であることよ」と解した。三句までが四句「取り敢へず」の序詞ともなっていよう。
 二首目の詞書は「乾元元年仙洞歌合、夏月」、作者は京極為兼(一二五四~一三三二)。下句の断固とした言挙げに、ついつい頷きそうになるが、ここでいう夏は陰暦の四月から六月だから注意が必要である。印象としては初夏の趣きか。春の朧月、仲秋の名月とも異なる発見が上句にあろう。
 三首目の詞書は「三百六十首中」、作者は曽禰好忠である。四句「天の戸」は大空を海に例えた語、その海を渡る舟に月を例えている。「月の船」は『万葉集』に登場し、平安時代になると「月の御船」が登場する。掲出歌は結句「かとぞ見る」で詠嘆に強調を加えて古人に同調する趣きである。
 四首目の詞書は「保延二年家成卿歌((ママ))合、夏月」(一一三六年)、作者は高松院右衛門佐(?~?)。二句「光」のとらえ方は視覚よりも皮膚感覚に近い。結句は扇ではなく、折り畳めない「団扇」。『大辞林』の「もとは貴人が自分の顔を隠すために用いたものという」の原義が四句「我が物顔」(自分の領域だというような顔つき)と重なって面白い。
 五首目の詞書は「おなじく」(「久安二年六月顕輔家((ママ))歌合、夏月」一一四六年)、作者は源頼行(?~一一五七)。二三句「月の澄みぬれば」は曇りがないこと、しかも初二句「夏川の底まで」だから水も透き通った状態にある。四句「瀬に伏す鮎」は静止しているのだろう。その結果が五句で「何匹か数えることもできる」のライトアップ並に驚かされる。
 六首目の詞書は「山家夏月」、作者は源俊頼だが『散木奇歌集』には〈山里はこやのえびらにもる月のかげにもまゆのすぢはみえけり〉(三一八)とある。「こや」は「蚕屋」(養蚕をする家またその部屋)、「えびら(蚕薄)」は蚕を入れて繭を作らせる竹のかご。三四句「月の影」(月の光)が漏れてくるので蚕の吐く糸の筋まで見えるというのだろう。

  あぢさゐの下葉にすだく蛍をばよひらのかずのそふかとぞみる(三三五一)                前中納言定家卿
  是ほどと人は思はじ川上に咲きつづきたるあぢさゐの花(三三五六)                     権僧正公朝

 題「紫陽花」から二首引く。
 一首目の詞書は「百首歌」、作者は藤原定家である。初句は紫陽花の原種である額紫陽花をいう。下句「四片の数の添ふかとぞ見る」は花弁状の萼四個からなる装飾花への見立てである。では何を見立てたのか。下の方の葉に蛍が「集く」様をである。鳴かないかわりに光っていたのであろう。
 二首目の詞書は「六帖題、あぢさゐ」、作者は権僧正公朝である。二句の助動詞「じ」は打ち消しの推量、しかし三句以下は額紫陽花から改良された園芸品種としての紫陽花ではない。圧巻だろうが地味といえば地味、では、この歌のどこに惹かれたのか。初二句の真に迫った口吻にあった。

  草ふかみむしのたれぎぬ結びあげてとおりわずらふ夏の旅人(三三六三)                 正三位季能卿
  夏草の露けき中のしもつけにむろのやしまのことやとはまし(三三六四)                 民部卿為家卿
  夏草の夜の間の露の下葉までさもほしはつる朝日影かな(三三六五)                     おなじく
  夏草を結ぶしるしのなかりせばいかでゆかまし山里の道(三三六七)                   よみ人しらず

 題「夏草」から四首引く。
 一首目の詞書は「おなじく」(「承安三年経正朝臣家歌合、夏草」)、作者は藤原季能である。二句の「むしの垂れ衣」は『デジタル大辞泉』に「平安時代から鎌倉時代にかけて、中流女性の外出の際に、市女笠(いちめがさ)の周囲に苧麻(からむし)の繊維で織った薄い布を長く垂らしたもの」とある。草深いので、垂れ衣を結んで上へ上げたが、歩くのに難渋する旅人なのだ。
 二首目の詞書は「文永三年毎日一首中」、作者は藤原為家である。三句「下野」はバラ科の植物で上句は「夏草の露けき中の下野」となる。これに四句「室の八島」すなわち歌枕で「栃木市惣社町にあった下野(しもつけ)の国の総社、大神(おおみわ)神社。そこにある池からは絶えず水気が煙のように立ち上がっていたのを、かまどから煙が立ち上るのに見たてた」(『デジタル大辞泉』)句を挿入して結句「ことや問はまし」とした。
 三首目の詞書は「貞応三年四季百首、夏朝」、作者は藤原為家。四句の「然も干し果つる」、擬人化された太陽が夜の間に結んだ上葉から下葉までの露という露を飲み干したかのような、と解した。朝顔の花が開き、ラジオ体操の歌が流れる、そんな朝ではない。ギラギラした空の趣きなのだ。
 四首目の詞書は「禖子内親王家歌合、夏草」。初二句「草を結ぶ」は「道なき山野などを行く時、後から来る者への道しるべとして草で結び目をつくる」(『日本国語大辞典』)こと、その「印」すなわち「目印がなかったら、どうして進むことができるだろう、この山里の道を」。旅の苦労は並大抵でない。

  夏ふかみまだ刈りそめぬ粟づののきぎすのひなの草がくれつつ(三三七五)                 衣笠内大臣

 題「夏野」から一首引く。
 詞書は「六帖題」で作者は藤原家良。『新撰和歌六帖』(二五六一)では初句が「夏ふかき」となっている。「み」なら三句は「粟津野の」、「き」なら「粟津の野」で解したい。「粟津」は滋賀県大津市南部の地名、歌枕である。夏たけなわ、切り払っていない草の中を出入りする雉の雛が可愛い。

  かびたつるかきねむかひのほそ道は都の人に見せまうきかな(三三七八)               喜多院入道二品親王
  夏ふかきしづが山田におくかびはほにこそいでね下むすびつつ(三三九〇)                 民部卿為家卿
  蚊遣火のけぶりの末もほのかにてかすみに残る夏の夜の月(三三九二)                     寂蓮法師
  山がつのけぶりばかりとおくかびのうへにもゆるはほたるなりけり(三三九三)                 おなじく


 題「蚊遣火」から四首引く。
 一首目の詞書は「おなじく」(「百首御歌」)、作者は守覚法親王である。上句は「蚊火立つる垣根向かひの細道は」だろう。「蚊火」は「蚊遣火」、結句の「まうき」は助動詞「まうし」(気分が進まない意)の連体形。垣根と細道、その向こうは田と解した。狭い上に煙で鄙びた風情なのである。
 二首目の詞書は「文応元年七社百首、蚊遣火」、作者は藤原為家。但し文応元年なら『五社百首』で〈夏ふかきしづが山田におくか火はほにこそいでねしたむせびつつ〉(二一五)となる。これは人のためではない。米を害獣から守る鹿火なのだ。また「置く鹿火は/下噎びつつ/穂にこそ出でね」は恋に「下焦がれつつ」でもない。煙は田の下を這うように伸び、稲の穂に添うように抜けてゆく。農作業の景なのだ。
 三首目の詞書は「百首歌」、作者は寂蓮。四句「霞」は春のものだから、ここは比喩となる。しかも原因が蚊遣火であるところが面白い。シチュエーションとしては室内の蚊遣火だろう。窓か板張りの縁の向こうの月、その間に煙が霞のように残っている、春と夏の接ぎ木のような景である。
 四首目の詞書は「正治二年百首、夏歌」、作者は寂蓮法師。漢字で補うと〈山賤の煙ばかりと置く蚊火の上に燃ゆるは蛍なりけり〉だろう。煙の下の火が煙の上で燃えているという上四句が不思議に映る。山賤は情趣を解さないという潜在的意識もあろうが、ともあれ結句の「蛍」で謎が氷解した。

夫木和歌抄の森を歩く(第十三回)  15.12.28

 巻第九夏部三の続きである。

  袖の内になかばかくるる扇こそまだ出でやらぬ月とみえけれ(三四〇九)          正三位季経卿
  すゑひろのななつ骨にてはる扇やつれにけりなもとのたかさに(三四一二)           藤原忠房
  ひのおものさがりをつけしたをやめのあふぎの音もえやはわするる(三四一九)         光俊朝臣

 題「扇」から三首引く。
 一首目の詞書は「六百番歌合、扇」、作者は藤原季経(一一三一~一二二一)、法名は蓮経である。衣冠か直衣で笏の代わりに扇を手にしているのだろう。開いたそれに大きな袖口が被さって、あたかも山の端から上る月のようだといっている。雑袍で色が黒なら見立てとしては完璧に近い。
 二首目の詞書は「永久四年百首、扇」(一一一六年)、作者は藤原忠房(?~九二九)とあるが、『群書類従 第十一輯 和歌部』所収の『永久四年百首』で確認すると源忠房(生没年不明)である。また〈末ひろく七ほねにてはる扇やつれにけりなもとの姿に〉となっている。二句「七骨」は「二本の親骨を含めて全部で七本の骨がある扇」(『日本国語大辞典』)をいう。地紙が破れたりして元の七つ骨にもどってしまった、そんな見すぼらしい扇をいっているのだろう。
 三首目の詞書は「六帖題、新六五」、作者は藤原光俊である。但し『新撰和歌六帖』では〈日のおものまかりをつげしたをやめのあふぎのおともえやはわするる〉(一八四五)である。初句「日の御物」は毎日の天皇の食事、二句は「罷り(食膳を取り下げること)を告げし」、三句は「手弱女」となる。四句「扇の音」が合図もしくは指示だったのだろう。結句「得やは忘るる」、忘れることができないのである。

  君が代のためしにひかん春日野は石の竹にも花咲きにけり(三四二六)             俊頼朝臣
  夕立の露置きわたすませの中にみだれてさけるやまとなでしこ(三四三七)        右近中将経家卿
  露おもみまだをれ臥して常夏のおきぬや花のあさいなるらん(三四六四)             源仲正
  ふる郷にわが蒔捨てし撫子をたれあはれとておほしたてけん(三四六五)             源仲正
  はらひあげぬ葎の下にかくせどもこがねのぜにの花はやつれず(三四六六)            源仲正
  よそながら哀とぞ思ふ川しまの草のはつかにみゆるなでしこ(三四七五)          民部卿為家卿
  このうちによるなくつるのこゑまでも思へばかなしなでしこの花(三四七七)         権僧正公朝
  とこ夏の花にたまゐる夕暮をしらでや鹿の秋をまつらん(三四七八)             後京極摂政

 題「瞿麦」から八首引く。
 一首目の詞書は「家集、なでしこ」、作者は源俊頼である。初句の一例に〈君が代は限りもあらじ長浜の真砂の数はよみ尽くすとも〉(『古今和歌集』一〇八五)がある。とんでもない二句「験しに引かん」なのだ。石でできた竹にも花が咲くこと、実際は「石竹」(唐撫子)の訓読みにすぎないが、例歌の神遊びならぬ言葉遊びに醍醐味を見つけたい。
 二首目の詞書は「建長八年百首歌合」(一二五六年)、作者は藤原経家(一二二七~?)である。二句「置き渡す」は一面に置くこと、三句「籬(ませ)」は竹や木で作った目の粗い垣根。結句は撫子の異名だが、四句「乱れて咲ける」と併せて読むと、やはり擬人法しかも艶めかしいのである。
 三首目の詞書は「権中納言俊忠卿家歌合、瞿麦、判者俊頼朝臣」。初句から四句までは「露が重いので、まだ折れ伏したままで、常夏(撫子の古名)は起きないのか」。ここで句割れがあって「花の」、句またがりで結句「朝寝であるだろう」となる。やはり擬人法で女性の朝寝を想起させる。
 四首目の詞書は「家集、古郷瞿麦」。二句は「私がばらまいて捨てた」、四句は「誰が哀れと思って」、結句は「生し立てけん」(花になるまで育てたのだろう)。これと逆のケースが藤原為家の〈古郷やたれによそへてうゑおきし垣ねなでしこ花咲きぬらん〉(三四四七)となる。二句「誰に似ていると思って」、やはり女性になぞらえたころが、この花の特徴また『夫木和歌抄』の提供するイメージであろう。
 五首目の詞書は「草中瞿麦」。初句は三句と呼応する。なぜならそれが四句「黄金銭」だからである。二句「葎」は「単独で広い範囲に生い茂って草むらを作る草の類。いずれも茎や枝に刺がある」(『日本国語大辞典』)、しかし「黄金銭」(瞿麦の異名)は衰えを見せていないというのである。
 六首目の詞書は「岡屋入道摂政家百首」、作者は藤原為家である。初句「余所ながら」は遠く離れたところから、三句は川の中にある島の、である。また自分には関係ないが、といったニュアンスも漂う。そこに花を花として認識されないほどの撫子が咲いている。二句「哀れ」の由縁であろう。
 七首目の詞書は「七百首歌中」。初句「此の内」は「この辺」の意であろう。この辺りで夜に鳴く鶴の声までもが、思えば哀しい。鶴のことではない。誰もやってこない。知られることなく咲いている撫子の花が主役なのだ。また「鶴」であって歌語の「田鶴」でないところも注目される。
 八首目の詞書は「老若五十首歌合」、作者は九条良経である。初句「常夏」は撫子の古名、二句「玉居る」は玉が置いてある、玉のように輝いていることをいう。そんな夕暮れ時の撫子も知らないで、鹿は秋を待っているのだろうか。鹿と秋の取り合わせに、これはどうだと提示した趣きである。

  しばかこふ園のうりふの一つらになるとしならばまろびあへかし(三四九〇)       権中納言長方卿
  我が宿のませのはたちにはふうりのなりもならずもふたりねまほし(三四九一)        鎌倉右大臣
  むすびおく青つづらこのかほうりはさぞなめならぶたぐひのみして(三四九七)       正三位知家卿

 題「瓜」より三首を引く。
 一首目の詞書は「家集」、作者は藤原長方(一一三九~一一九一)である。但し『按納言集』(『群書類従 第十四集 和歌部』)では下句が「一つらになる年ならばまくりあへかし」、題は「並面恋」である。恋に異存はないが、初句「柴囲ふ」は籬で囲うこと、二句「瓜生の一列」は瓜畑で一続きに並ぶ様子だろう。結句「捲り合へかし」は蔓性からきているのだろうか。私には「転び合へかし」が受け入れやすい。四句も同様で「年」よりも強調の助詞「し」を採りたい。
 二首目の詞書は「屏風夏歌」、作者は源実朝(一一九二~一二一九)である。岩波文庫の『金槐和歌集』では二句が「籬(ませ)のはたて」(四一四、恋之部)、「畑地」と「果たて」、後者だろう。三句「這ふ瓜の」までが序詞で一首は〈をふの浦に片枝さしおほひなる梨のなりもならずも寝て語らはむ〉(『古今和歌集』一〇九九)のバリエーションである。二人の中がなろうとなるまいと「寝まほし」、寝たいというのだ。
 三首目の詞書は「六帖題」、作者は藤原知家である。二句「青葛籠」は青葛藤の蔓で編んだ籠、三句「顔瓜」は夕顔の異名、これを初句「結び置く」とは蔓でつながった状態をいう。以下「さぞな」(さだめし)、「目並ぶ」(親しい)、「類のみして」(仲間ばかりで)と「顔」を解釈の鍵とした。

  煙たつ賤が庵のうす霧の笆にさける夕がほの花(三五〇三)                従二位家隆卿

 題「夕がほ」から一首引く。
 詞書は「六百番歌合、ゆふがほ」、作者は藤原家隆。二句「庵」は粗末な小家、四句「笆」は「まがき」と読んだ。この題で十六首、うち「賤」が五首、「山賤」が二首、その他も同様の色調で夕顔を咲かせている。『夫木和歌抄』推奨の取り合わせだろう。藤原為家の〈夕かほの花の垣ほの白露にひかりそへてもゆくほたるかな〉(三五一〇)も、逸脱していないと思えるが、蛍という類音類色を配して美しい。

  よそふなる月の御かほをやどす池にところをえても咲く蓮かな(三五二〇)           西行上人

 題「蓮」から一首を引く。
 詞書は「百首歌」。三句「宿す」は月影を池に「とどまらせる」こと、擬人法とりわけ女性を思わせる初二句からするならば「宿を貸す」、したがって四句の主体は池となる。それで「も」咲く、水面の月を打ち消す蓮は御邪魔虫であったろう。『山家集』(岩波文庫)では見出せない歌である。

  かきくらす山下陰とみるほどにふらでも過ぐる夕立の雲(三五六九)              信実朝臣

 題「夕立」から一首引く。
 詞書は「百首歌」、作者は藤原信実である。初句「掻き暗す」の「掻き」は接頭語、暗くなるのは二句「山下陰」(山の麓の陰となる所)だから、なおさらである。「雨を覚悟して見ていたが、その気配を崩さないまま山の彼方に移動していく夕立雲よ」か。雨を降らさないところがミソだろう。

  山ざとの外面のをかのたかき木にすずろがましき秋ぜみのこゑ(三五八二)           西行上人
  夏山の椎の葉毎に取付きてみみの間もなくゆするせみかな(三五九六)              源仲正
  山びこもこたへぞあへぬ夕附日さすやをかべの蝉のもろごゑ(三五九八)            俊恵法師

 題「蝉」から三首引く。
 一首目の詞書は「家集」。初句「山里」は山間の村落、二句「そともの岡」は山の北側の岡と解した。四句「漫ろがまし」は、いかにも落ち着かない様子。高い木で鳴く秋蝉とは油蝉か蜩だろうが、それは「私」の投影でもあろう。なお岩波文庫の『山家集』は結句が「秋の蝉かな」である。
 二首目の詞書は「家集、蝉声未遍」。椎はブナ科の常緑高木、葉は密に茂る。その二三句「葉毎に取付きて」しかも樹木が青々と繁茂している夏山であるから、蝉の数も半端でない。四句「耳の間」(耳の休んでいる間)もなく、結句の「揺する」が凄い。木を揺すり、山を揺する勢いなのだろう。
 三首目の詞書は「せみを、歌苑抄」、作者は俊恵(一一一三~一一八二)頃。一首の構造は「山彦も応へぞ敢へぬ/夕附く日差すや/岡辺の蝉の諸声」だろう。意味は「山彦も声を返すことができず、西に傾く太陽だけが差している。岡のほとりの、いっせいに鳴く蝉であることよ」と解した。

夫木和歌抄の森を歩く(第十四回)  2016.5.10

 巻第九夏部三の続きである。

  茂りあふあをきもみぢの下すずみあつさは蝉のこゑにゆづりぬ(三六三九)           慈鎮和尚
  旅人のは山のすそにやすらへばあをみな月もすずしかりけり(三六七四)          よみ人しらず

 題「納涼」から二首引く。
 一首目の詞書は「六百番歌合、蝉」、作者は慈円。二句「青き紅葉」は紅葉する以前、その青々とした紅葉の下が三句「涼み」(涼しく感じられるので)、「暑さは蝉の声に譲りぬ」、蝉の声だけが暑く聞こえてくる、というのである。紅葉はしていないが、ほかの木よりも早く秋を呼ぶのであろう。
 二首目の詞書は「だいしらず、歌林良材」。一条兼良(一四〇二~一四八一)に『歌林良材集』があるが、これに先行する「歌林良材」である。二句「端山」は人里近くの低い山、その裾だから、さらに人里に近くなる。三句「休らへば」は心身ともにであろう。当然ながら青葉の茂る「青水無月」(陰暦六月)も「涼しかりけり」の詠嘆の対象となった。

  この里は氷室むすばぬ山なればふじのみゆきをためしにぞとる(三七一八)         従三位為実卿
  外は夏あたりの水は秋にしてうちは冬なる氷室山かな(三七二〇)             後京極摂政

 題「氷室」から二首引く。
 一首目の詞書は「嘉元三年楚忽百首、つるが岡に納め奉る」、作者は藤原為実。「つるが岡」は鶴岡八幡宮だろう。上句から温暖な土地であることがわかる。「富士の御雪を例にぞ取る」。必要なら富士山の雪を取ってくるのが習いだというが、初句の「里」は鎌倉付近にまで及ぶのだろうか。
 二首目の詞書は「西洞隠士百首御歌」、作者は九条良経。西洞隠士はその別称である。氷室の外は夏、しかし氷室があるぐらいだから付近の水は秋、ひんやりとしているのだ。そして下句であるが、氷室を設けている山の内部は冬、というわけで春を除いた季節が勢揃いしたところが珍しい。

  山がつの垣ほのおどろ夏ふけてそれともしらぬむしのこゑごゑ(三七三八)         後鳥羽院御製
  浅茅生に秋待つほどや忍ぶらんききもわかれぬむしのこゑごゑ(三七四〇)           寂蓮法師

 題「夏虫」から二首引く。
 一首目の詞書は「百首御歌」。二句の「垣穂」は垣、「おどろ」は草木や茨などの乱れ茂っていること、三句は季節の深まりをいう。下句は個別に聞き分けることが出来ないのだろう。次に来る後鳥羽院の〈秋ちかき賤士が垣ねの草むらになにともしらぬ虫のこゑごゑ〉(三七三九)も同様、なお二句「賤士」は「しづ」と読む。身分の低い男の意である。
 二首目は詞書を欠く。先の二首が「山賤」「賤士」の住まい、こちらは「浅茅生」(チガヤが疎らに生えている所)とくる。一連の題は「夏虫」だが七首中三首が「きりぎりす」、残る一首も「秋待ちかぬる」と詠われる。この歌も二三句「秋待つほどや忍ぶらん」(自分の季節が来るまで身を潜めているのか)と先駆けの恰好となる。下句は「聞きも分かれぬ虫の声々」(虫の種類も聞き分けることができない)。先の「それとも知らぬ」「何とも知らぬ」と同じ趣向であろう。

  夏くるる日数もすぎのしるしにてみわのはふりこみぬ里ならし(三七五九)        前大納言為氏卿

 題「晩夏」より一首引く。
 詞書は「弘安元年百首」、作者は藤原為氏である。二句の「すぎ」は上からだと「日数も過ぎの」、下に向かっては「杉の標にて」(行方を尋ねる目印)となろう。四句は「三輪の祝子」で三輪にある大神神社の神職をいう。結句の「ならし」は「なるらし」の変化した語、したがって「見ない里であるらしい」となる。今は無人の末社またその里であろうか。

  布引の滝もやけふのみそぎして水のしらゆふ岩にかくらん(三七七一)            法親王澄覚
  けふははやゆふとりしでて夏麻のおふの川瀬にみそぎしてけり(三七八二)           法印実伊
  みそぎすとしばし人なす麻のはも思へばおなじかりそめの世を(三八二五)        前中納言定家卿
  御祓川からぬ浅茅の末をさへみな人がたに風ぞなびかす(三八二六)           前中納言定家卿
  いかにせんわれからさきの夏ばらへその人がたの数ならぬ身を(三八二七)           藤原為顕
  六月にみみと川にてみそぎつついのる事をば神ぞきくらん(三八三六)          中院入道右大臣
  わがたたみみつの川原にいぐしたてゆふかたかけてなつばらへしつ(三八三七)       正三位季経卿

 題「荒和祓」(あらにごのはらえ)から七首引く
 一首目の詞書は「布引百首御歌」、作者には〈布引の滝見よとてや呼子鳥この山中に絶えずなくらん〉(一八一二)もあった。二句は「禊ぎして」、下句の「水の白木綿岩に掛くらん」という見立てが分かりやすく、またおもしろい。
 二首目の詞書は「建長八年百首歌合」、作者は鷹司伊平の子(生没年未詳)。二句は「木綿取りしず」で「木綿掛く」の意、三句「夏麻」は麻の異名、四句の「おふ」(意宇)は島根県の地名、麻が「生ふ」を掛けた、それだけだろう。
 三首目の詞書は「文治五年百首」、作者は藤原定家。二句「なす」を接尾語とすると結句「を」で言い止しとなる。まことに落ち着きが悪い。「成す」(別の状態のものにする)と解すれば二句切れの歌となる。言い止しという修辞はなかっただろう。希少例とするのではなく、後者を採りたい。
 四首目の詞書は「文治二年百首」。初句「みそぎがわ」は普通名詞だろう。以下「刈り取らないチガヤの末(上方の末端)まで、形代として流される人形(ひとがた)のように川原の風がなびかせている」。「末」は「すえ」と読む。
 五首目の詞書は「百首歌、唐崎夏祓」、作者の藤原為顕(?~?)は為家の子、冷泉為相の兄にあたる。二句は「(我)唐崎の」、これに「我から(崎の)」(自分から)と「割殻(崎の)」(甲殻綱端脚目ワレカラ科の海産の節足動物の総称、体長数センチ)を掛けた。下句「その人がたの数ならぬ身を」から初句にもどって「いかにせん」というのである。
 六首目の詞書は「天仁二年十一月顕季卿家歌合、夏祓」、作者は源雅定(一〇九四~一一六二)。二句「みみと川」(耳敏川)は大内裏の朱雀門前を流れていたという。〈みなづきにみみとがわにてみそぎつついのることをばかみぞきくらん〉で「み」音が五回、これに「耳敏」「聞く」が響く。
 七首目の詞書は「正治二年百首」、作者は藤原季経。初句「我が畳」は枕詞、幾重も重ねて敷く意から地名「三重」に掛かるが、ここは二句「三つの川原」(三途の川原)の「三つ」に掛けた。四句「斎串」は神を招くときの依代をいう。四句「木綿片掛けて」は、その串に木綿を寄せ掛けて、と解した。亡者の衣を掛ける衣領樹の枝また行き先の異なる三つの瀬が連想される。着想からしても異色の夏祓えである。

 巻第十秋部一に移る。

  けふよりや鳩ふくこゑはきこゆらん朝けの風も秋をつぐなり(三八七四)         前中納言隆房卿

 題「立秋」より一首引く。
 詞書は「正治二年百首」、作者は藤原隆房(一一四八~一二〇九)である。二句「鳩吹く」は両手を合わせて、鳩の鳴き声のような音を出すこと。秋の頃、狩人が鹿の居所を知らせ、また人を呼ぶ合図にもしたらしい。四句「朝け」は夜明け方、新暦なら八月七日前後、爽やかだったに違いない。

  竹の子のみじかきふしも秋きてはながき夜すがら風そよぐなり(三八九五)           家長朝臣

 題「初秋」より一首引く。
 詞書は「洞院摂政家百首、早秋」、作者は源家長である。初二句が竹の子で夏、三句以下が成長した竹またそれを含む竹林で秋が対比されている。さらに「短き節」と「長き夜」も同様で「夜(よ)」は節と節の間をいう「節(よ)」と同音である。「すがら」は接尾語で「ずっと」の意である。

  秋来ては風ひやかなる暮もあるにあつれしめらんむつかしのよや(三九四二)          俊頼朝臣

 題「残暑」から一首引く。
 詞書は「永久四年百首、残暑」、作者は源俊頼。『永久百首』(二一三、『新編国歌大観』第四巻)では三四句が〈くれもあるをあつれしめらひ〉となっている。三句「に」が「を」、四句「らん」が「らひ」なのだ。『日本国語大辞典』を引くと「あつれしめらふ(暑湿)」で「暑くて汗に湿めるようになる」の意である。「らん」は文法的に解せない。

  おいぬれば七夕つめにことよせてとりもわたらぬみづはをぞくむ(四〇四三)          俊頼朝臣
  聞かばやな二の星のものがたりたらひの水にうつらましかば(四〇五九)        建礼門院右京大夫
  七夕も同じ川原にたつたひめいそげもみぢの秋のうきはし(四〇八〇)           後九条内大臣

 題「七夕」から三首引く。
 一首目の詞書は「家集、七夕の歌中」、作者は源俊頼。二句「つ」は「の」で「七夕の女」の意。結句「みづは」は水の神、また水中の化け物ともいう。〈棚機津女に事寄せて鳥も渡らぬみづはをぞ汲む〉。四句は鵲の橋の真逆、初句で「老い」と断っているものの不思議かつ不気味な歌である。
 二首目の詞書は「家集、七夕の心を」、作者は生没年未詳、建礼門院に仕えた女房である。歌意は「牽牛星と織女星の物語を聞きたいものだ。盥の水に今宵の逢瀬が映るのであればよいのだが」あたりか。二句は「二つの星の」、三句の「盥」も目を引くが、行水ではなく、洗顔用の角盥と解した。
 三首目の詞書は「柿本影供百首」、作者は九条基家(藤原基家)。牽牛星と織女星も川原に立った。秋を司る龍田姫も山から下りてきた。下句の「急げ紅葉の秋の浮き橋」は天上に掛かる鵲の橋に対比させたのだろう。華麗だが、それよりも三句「立った(姫)」の破格表現に注目した。


夫木和歌抄の森を歩く(第十五回)  2016.11.5

 巻第十一秋部二に移る。

  袖よりもこころぞうつる住吉のあさざはをののあきはぎの花(四一二三)          民部卿為家卿
  おもふ人こさせまほしきところかなみかきがはらの萩のさかりは(四一八一)          恵慶法師
  露しげき萩のはずりのかり衣ほさでやたびのかたみにもせん(四一八七)          後鳥羽院御製
  あかなくにたびねをぞするゆふづくひいるののはぎの花のあたりに(四二〇〇)       徳大寺左大臣
  もののふのいるののはらとしりながらはぎさきぬればしかのなくらん(四二〇一)   皇太后宮大夫俊成卿
  うゑおきてさかりになれりいざこどもにはにし出でてはぎあそびせん(四二〇七)         源仲遠
  かげうつすをのへのまさきさきしより花ずりすらしぬのびきの滝(四二二四)         法親王澄覚

 題「萩」から七首引く。
 一首目の詞書は「文応元年七社百首」(一二六〇年)、作者は藤原為家。初二句、色や香が袖ではなく心に移ったというのが印象に残る。四句「浅沢小野」は歌枕で大阪市住吉区にあった低湿地、カキツバタの名所であるが、これを結句「秋萩の花」とした。秋萩は萩、秋に花が咲くのでこういう。
 二首目の詞書は「秋歌中、万代」、「万代」は『万代和歌集』(八四〇)だが、この歌、春部第四の題「花」(一一一四)でも登場する。但し、結句が「花の盛は」となっている。四句「御垣原」は宮中や貴人の邸宅の築垣あたりの野原をいう。二句の願望「来させまほしき」が舌に心地よい。
 三首目の詞書は「北野社百首御歌」。「萩の葉摺り」は「狩衣」(平常服)と萩の葉がすれ合うことをいう。それを旅の想い出にしようというのだが、初句「露しげき」にしても色香が刷り込まれているわけではない。様式的といえば様式的、しかしその狩衣から華麗な秋の残像がほの見えてくる。
 四首目の詞書は「永久五年九月十六日内裏歌合」(一一一七年)、作者は徳大寺実能(一〇九六~一一五七)。初句は「まだ残り惜しいのに」、二句切れで「旅寝をぞする」、三句以下が倒置法、その夕陽が「入る野」は歌枕「入野」でもあろうか。まだ萩を楽しみたいのに、というのだ。しかし花野に眠る至福感も同居する。実能、二十二歳の詠である。
 五首目の詞書は「文治六年五社百首、鹿」(一一九〇年)、作者は藤原俊成。初句は「武士の」、二句は「射る野の原」また「入る野の原」であり、歌枕の「入野」(京都市西京区の西部)も想定される。また下句の〈萩咲きぬれば鹿の鳴くらん〉は萩の異名「鹿鳴草」を思い出させる配合である。
 六首目の詞書は「建長七年顕知((ママ))卿家千首、栽萩」(一二五五年)、作者は源仲遠(?~一二六六)。「萩遊び」は萩の花を観賞して遊ぶことらしいが、その「遊ぶ」が具体的に立ち上がってこない。詞書に「栽萩」ともある。万葉時代から栽培されていたというから格別の花であったのだろう。
 七首目の詞書は「布引百首御歌」、作者の澄覚法親王は後鳥羽天皇の孫にあたる。漢字を当てれば〈影写す尾上の正木咲きしより花摺りすらし布引の滝〉だろう。二句「正木」は「真萩」の誤記が思われるが国際日本文化研究センターのデータベースは、この一例のみである。「花摺り」をするのが「布引の滝」の「布」、写実と無縁な言葉の花が開く。

  あらかねのつちの下にて秋まちてけふのうらてにあふをみなへし(四二二九)          読人不知
  秋の野の女郎花とるささわけにぬれにし袖や花と見ゆらん(四二三〇)             読人不知
  すみよしのあさざはをののをみなへしたれまつ風に露こぼるらん(四二八一)          寂念法師
  女郎花おほのの原の夕まぐれあやな名たてにやどやからまし(四二九四)          民部卿為家卿
  女郎花さく野におふるしらすげのしらぬこともていはれしはせよ(四三〇九)          読人不知
  をみなへしおふるさはべのますげはらいつかはうみてわが衣きん(四三一〇)          読人不知

 題「女郎花」から六首引く。
 一首目の詞書は「昌泰元年亭子院歌合、女郎花」(八九八年)。初句「粗金の」は「土」に掛かる枕詞、『日本国語大辞典』に「近世まで『あらかねの』、明治以後『あらがねの』か」とある。四句の「占手」は歌合せで最初の一番をいうが、現実の花ではない、花の名前が歌を先導する印象である。
 二首目の詞書も「昌泰元年亭子院歌合、女郎花」(八九八年)。三句の「笹分け」は笹原を分けて行くこと、そのときに濡れた袖が花と見えるだろうというのだが、見えるはずがない。ここにも観念の世界が花開いている。逆にいえば、そうした世界から追放されているのが私たちなのだろう。
 三首目の詞書は「百首歌」、作者は寂念法師(一一一四年頃~?)、俗名は藤原為業である。二句は「浅沢小野の」、杜若の名所だが女郎花、萩も咲けば女郎花も咲く。下句は擬人法「誰を待っているのか、風で露(涙)が零れることだ」と解した。男の情と歌枕の「浅沢小野」が交響する。
 四首目の詞書は「文応元年七社百首」(一二六〇年)、作者は藤原為家。二句は「大野の原」(広い野原)が思われるが、「大」は「多」でもあるだろう。下句の「あやな」は形容詞「文無い」の語幹、で意味は「私には理不尽な評判が立つだろうが、ここで宿を借ることにしよう」と解した。
 五首目の詞書は「題不知、六一(ママ)」。三句「白菅の」は同音の「しら」に掛かる枕詞、その下句〈知らぬこともて言はれしはせよ〉は、「知らないことで噂を立てられている、それならば噂を現実のものにせよ」、先の「あやな名」の続編、艶聞であろう。現実の女郎花からは遠い世界である。
 六首目の詞書は「題不知、万七」。「万七」は『万葉集』巻第七だろうが該当作がない。似た歌に〈をみなへし佐木沢の辺のま葛原いつかも繰りて我が衣に着む〉(一三四六)がある。では抄出歌をどう読むか。下句「たくさんの女にも飽きて、いつかは私と結婚するだろう」。女性の歌とした。

  立ちわかれ今朝やこやのの花すすきまねくけしきもかなしかるらん(四三六七)       従二位家隆卿
  吉野川一本たてる岩すすきつりする人の袖かとぞ見る
  (四三六八)            従二位家隆卿
  みまくさにはらののすすきかりに来てしかのふしどを見おきつるかな(四三七〇)        西行上人
  はなすすきほさかのこまにあらねども人おちやすきをみなへしかな(四三七七)      前中納言匡房卿
  風わたるをばながうれは布引の滝よりあまる波かとぞみる(四四〇二)            法親王澄覚
  すがるふすくるすの小野の糸薄まそほの色に露やそむらん(四四一八)          権中納言長方卿

 題「薄」から六首引く。
 一首目の詞書は「承久の後、述懐歌」、作者は藤原家隆。一二二一年の乱後の述懐歌と読む。初句は「別れて行く」、二句に続けて「今朝や」と詠嘆、句割れで「昆陽野」(兵庫県伊丹市の地名)、後鳥羽上皇はここを通って隠岐島に配流されたのだ。そして「私」は見送る側にある。下句の「招く気色」とは上皇一行を「私」たちから引き離すのである。
 二首目の詞書は「家集」、作者は藤原家隆。三句「岩薄」は岩の間に生えている薄をいう。「ひともとたてる」だから釣り竿もしくは腰かける人を想像したが「袖かとぞ見る」で、そうくるか、当時の人のものの見方を認識させられた。
 三首目の詞書は「家集」。漢字で補足すれば〈御馬草に原野の薄刈りに来て鹿の臥所を見置きつるかな〉だろう。初句は御料の秣、天皇や貴顕の人が所有する牛馬の飼葉をいう。結句は見てとってそのままにしておくこと、見てしまった、鹿からすれば見られてしまったといったところだろう。
 四首目の詞書は「家集、ある法師にかはりて」、作者は大江匡房(一〇四一~一一一一)。〈花薄穂坂の駒にあらねども人落ちやすき女郎花かな〉。「穂坂」は甲斐国にあった穂坂牧から出た歌枕、「花薄」(穂の出た薄)から穂で「穂坂」、御牧の縁で「駒」となる。下句の飛躍が面白い。法師とは僧正遍照で『古今和歌集』の〈名にめでて折れるばかりぞ女郎花我おちにきと人にかたるな〉(二二六)が思われる。
 五首目の詞書は「布引百首歌」。初二句〈風わたる尾花が末は〉、薄の穂の先端を風が渡っていく。それは〈布引の滝より余る波かとぞ見る〉だから滝に連続する景となる。逆にいえば渾然一体とした滝の白波の比喩でもあったろう。
 六首目の詞書は「家集、薄を」、作者は藤原長方。初句の「すがる」は鹿の古名、次は「伏す」だろう。二句「栗栖小野」は奈良県の地名、三句の「糸薄」は薄の変種で、名前のとおり葉が糸のように細い。その露が赤い色に染まるのは朝焼けか、雨後の夕焼けか、もしくは糸薄そのものに起因か、いずれとも取れるが鹿の生きる第三の景として解した。

  はしたかのはつとやだしの秋風にまだきしほれぬのぢのかるかや(四四四四)     皇太后宮大夫俊成卿

 題「刈萱」から一首引く。
 詞書は「文治六年五社百首、刈萱」(一一九〇年)、作者は藤原俊成である。〈鷂の初鳥屋出の秋風にまだき萎れぬ野地の刈萱〉。二句は鷹を初めて鳥屋から出すこと、ここでは三句の「秋風」を呼び出すほどの意と解した。四句から「野地」(地味のやせた野原)としたが「野路」とも読める。

  しのすすきしのびかねてはいはれののをぎのうはばのみだれあへかし(四四七四)       刑部卿頼輔卿

 題「荻」から一首引く。
 詞書は「久安五年六月家成卿家歌合、恋」(一一四九年)、作者は藤原頼輔(一一一二~一一八六)、蹴鞠の名人、明日香井家の祖。〈篠薄忍び兼ねては磐余の荻の上葉の乱れ合へかし〉。上句は恋が表面化するまでを導き、下句では荻の描写が恋の比喩ともなって助詞「かし」が囃してやまない。

  ふぢばかま草のまくらにむすぶよは夢にもやがてにほふなりけり(四五一一)     皇太后宮大夫俊成卿

 題「蘭」から一首引く。
 詞書は「文治六年五社百首」(一一九〇年)、作者は藤原俊成。上句「蕑を編んで作った枕で眠る夜は」、下句「やがて夢の中にも蕑が匂ってくる」。意味もさることながら母音要素の五段と、子音要素の十行からの言葉の斡旋に酔い痴れるのだ。ヤ行は三音と少ないがアクセントになって響く。


 
夫木和歌抄の森を歩く(第十六回)  2017.3.4

巻第十一秋部二の続きである。

  山ざとはすどがたけがきさきはやすはぎをみなへしこき  まぜてけり(四五四九)         俊頼朝臣
  あきの野の花にこころをそめしよりくさかやひめもあは  れとぞ思ふ(四五五七)         登蓮法師

 題「秋華」から二首引く。
 一首目の詞書は「家集」、作者は源俊頼。二句だが「簀戸」は竹を粗く編んで作った枝折戸、「が」は「の」の意、したがって枝折戸の左右に広がる竹垣となる。三句は「咲き栄(映)やす」、竹垣を引き立てるように、また栄えるように咲いている。下句「萩女郎花扱き混ぜてけり」となる。
 二首目の詞書は「仁安二年八月経盛家歌合、草((ママ))」(一一六七年)。登蓮(?~?)は中古六歌仙の一人である。四句「草茅姫」は「草の祖。草を守る女神。草野姫(かやのひめ)」(『日本国語大辞典』)をいう。「此歌判者清輔云」云々とあるが、なくとも不自由はしない。ちなみに木の神は「くくのち」、やはり『夫木和歌抄』(一六〇四三)に登場する。

  あくる夜の空かきくもるむら雨にさかり久しきあさがほ  の花(四五六七)          民部卿為家卿
  あさがほは名にこそたてれ夕つゆにさきそふ花の色も有  りけり(四五七一)        前大納言顕朝卿

 題「槿花」から二首引く。
 一首目の詞書は「家集」、作者は藤原為家。初二句は「明くる夜の空掻き曇る」で「掻き」は接頭語、夜の明けた空が雲で急に暗くなった。天界の次は下界、三句の「に」は並立助詞だろう。対比、取り合わせの妙をいう。「にわか雨と拮抗する旬の朝顔の花」と四句「盛り久しき」を解した。
 二首目の詞書は「建長八年百首歌合」(一二五六年)、作者は姉小路顕朝。初二句は朝露、三句以下は夕露、その対比を通して脇役となった花々の美を喚起する。「秋の花といえば朝顔の花が評判になってしまった。しかし花々が夕露を置く頃、咲き並ぶ花、その色合いも豊かなのだがなあ」か。

 巻第十二秋部三に移る。

  かご山のははかがしたにうちとけてかたぬくしかぞつま  ごひなせそ(四六〇七)      前中納言匡房卿
  さよふけて山田のひたの声きけばしかならぬ身もおどろ  かれけり(四六三一)          俊頼朝臣
  高砂のをのへのしかをゆくふねのうらがなしくや過ぎが  てにきく(四六七三)       権大納言長家卿
  しかのねをかきねにこめてきくのみか月もすみけり秋の  山ざと(四八六〇)           西行上人

 題「鹿」から四首引く。
 一首目の詞書は「堀川院御時百首、鹿」、作者は大江匡房。『堀河百首』(『新編国歌大観』第四巻)を開くと初句は「かぐ山」(「かご山」に同じ)、三四句が「占とけてかたぬく鹿は」である。二句「ははか」はウワミズザクラの古名。四句は「肩抜の占」に用いる鹿で、「上代の占法の一つ。鹿の肩骨を抜き取って、波波迦の木で焼き、表面に出た裂け目の裂け方によって吉凶を占う」(『日本国語大辞典』)とある。三句は「占の答が出て」。結句だが鹿には余計なお世話である。誤読でいい、ここは不浄を祓った鹿故と解しておこう。
 二首目の詞書は「家集、たなかみと云ふ所にて山田の方に鹿おどろかすをききて」。作者は源俊頼。二句「引板」は鳴子、したがって三句の「声」が気になる。『日本国語大辞典』で「おと」を引くと「声」がある。さらに「鳥や鹿などの動物の声をさす。特に、遠方から聞こえてくるような場合に使われる」とあり、誤りでないことが知られるのである。
 三首目の詞書は「后宮歌合」。作者の藤原長家(一〇〇五~一〇六四)は道長の六男、歌道の御子左家の祖となる。〈高砂の尾上の鹿をゆく船の心悲しくや過ぎがてに聞く〉。四句の「心悲しくや」の「うら」(「心」の意)に「浦」を掛けた。結句は「通り過ぎにくく聞いている」。峯と浦、鹿と人、互いを引き合うような二句から三句への展開である。
 四首目の詞書は「家集」。二句「垣根に込めて」は、垣根の外は鹿の世界なのだろう。四句は「月も澄(清)みけり」だが、また「月も棲みけり」でもあろう。『山家集』(岩波文庫)も「月もすみけり」、「も」がその思いを強くする。

  いまぞしる秋はみなみにくるかりのあかしのおきの月に  なきけり(四八八九)     皇太后宮大夫俊成卿
  ひろさはやあさけさむけき池水に霧たちこめてかりぞな  くなる(四九七〇)         民部卿為家卿
  いくかにかはつかりがねのわたるらむはねうちたたみや  すむよもなく(四九八〇)         源仲正

 題「雁」より三首引く。
 一首目の詞書は「建保((ママ))三年八月八幡宮歌合、海辺雁」。正しくは建仁三(一二〇三)年、作者は藤原俊成。また三句は「ゐるかりは」(『新編国歌大観』第五巻)である。初句は明石沖の月と雁の取り合わせの妙、それを見ている「私」の強い感動である。続く二句以下の「あ」の母音及び母音要素が柔らかく展開し、結句の詠嘆「けり」に収束される。
 二首目の詞書は「文応二年毎日一首中」(一二六一年)、作者は藤原為家。思いをたっぷりのせた「や」の初句切れで舞台を提示、二句「あさけさむけ(き)」と言葉も心地よい。五十音図で分析すればア段十音とイ段九音がリードし、子音に着目すれカ行が八音、これらが絶妙に配置されている。
 三首目の詞書は「家集、初雁」。初句「幾日」は「どれだけの日数」、「にか」は格助詞「に」に疑問の係助詞「か」で疑問・反語の意となる。北方から初雁が渡ってくるのだが、今日明日であっても不思議でない、そんな感じだろう。二句は「初雁の鳴く声」の意ではなく「初雁」に同じ、字数が要求しての選択である。下句で、その具体相を思い描いた。

  風わたるの田のはつほのうちなびきそよぐにつけて秋ぞ  しらるる(四九八六)        民部卿為家卿
  昨日こそ神田のさなへいそぎしかけさにひもののさとひ  らくなり(四九八七)        民部卿為家卿
  いほやもり山田は月にまかせてよくまのあらばやいかま  けもこん(五〇〇三)           源仲正
  衣手にみしぶつくまでうゑし田をひたをわれはへまもれ  るくるし(五〇一六)          読人不知
  たちばなのもりべのいほのかど田わせかり時すぎぬこじ  とやすらん(五〇一八)       中納言家持卿
  いろいろにかど田のいなほふきみだる風におどろくむら  すずめかな(五〇三九)       民部卿範光卿
  山田もるすこがなるこに風ふれてたゆむねぶりをおどろ  かすかな(五〇五六)        大蔵卿有家卿
  わがやどの門田のわせのひつちほをみるにつけてぞおや  はこひしき(五〇七〇)           好忠

 題「秋田」より八首引く。
 一首目の詞書は「建長五年毎日一首中」(一二五三年)、作者は藤原為家。〈風渡る野田の初穂の打ち靡き戦ぐにつけて秋ぞ知らるる〉。二句「野田」は野の中にある田、無句切れで結句は係り結び、安定感に加えて清々しさが光る。
 二首目の詞書と作者は右に同じ。『為家集』(『新編国歌大観』第七巻)では三句以下〈いそぎしを今朝にひものの御戸ひらくなり〉、「御戸」は「みと」。初句「昨日」は昨日のように思われる過去、二句「神田」は神社に所属する田、四句「新物」は新米、結句「御戸ひらく」は御開帳である。
 三首目の詞書は「家集、田家月」。初句「庵屋守」は仮小屋の番人。二三句は擬人化された月の台詞だろう。終助詞「てよ」が女性っぽい。四句の「くま」は「隈」か。「不十分なところなどあろうはずもない」、結句「いかまけも来ん」(何かあればいかまけも来るだろう)。さて「いかまけ」とは何か。日文研のデータベースも、これしかヒットしない。
 四首目の詞書は「題不知、万八」。小学館の日本古典文学全集では〈衣手に水渋付くまで植ゑし田を引板我が延へ守れる苦し〉(一六三四)、四句は「ひきたわがはへ」で「鳴子を作って」と訳されている。一六三三と併せて「或者、尼に贈る歌二首」とあり、別意が思われるが、『夫木和歌抄』の編者である藤原長清は、これを切り捨てたのだろう。
 五首目の詞書は「歌集、雑歌中」。『万葉集』巻第十に〈橘を守部の里の門田早稲刈る時過ぎて来じとすらしも〉(二二五一)がある。但し、作者は不明、巻第十は柿本人麻呂歌集の歌を収めている。初句「橘を」は地名「守部」にかかる枕詞である。江戸後期の国学者、橘守部の名が連想される。
 六首目の詞書は「正治二年七月当座三百((ママ))歌合」。作者は藤原範光(一一五四~一二一三)である。二句「門田」は家の前の田、結句「群雀」は群れをなしている雀をいう。風に反応する雀たちは現代にもってきても違和感がない。
 七首目の詞書は「三百六十番歌合、秋田」、作者は藤原有家。二句の「すこ(賤子)」(『古事類苑』)は他の辞書では「すご」(素子)、その「すご」が仕掛けた「鳴子」が風に触れて「私」の「弛む眠りを驚かす」というのである。
 八首目の詞書は「三百六十首中」、作者は曾禰好忠。三句「ひつち穂」は稲の刈株から再生する稲の穂、今は田に鋤きこむらしい。昔はどうしていたのか。「かる人もなし」(後撰和歌集・二六九)、「人もてふれぬ」(古今和歌六帖・一一二二)と放置である。結実が十分でないからだろう。しかし「親はこひしき」なのだ。おそらく二番穂も疎かにしない、記憶の中で汗水になる親の後ろ姿が胸を熱くさせるのだ。

  山田もるすこがいほりのうたたねにいなづまわたる秋の  夕ぐれ(五〇七七)           寂蓮法師
  むら雨のそらうちなびく秋の田の雲のはづれにのこるい  なづま(五〇八〇)           信実朝臣

 題「稲妻」より二首引く。
 一首目の詞書は「百首歌中」。初句は「山田守る」。素子は人口の一%にも満たない貴族官人がつけた呼称であり、農民だろう。「庵」は質素な仮小屋、そこで「転た寝・仮寝」をしているのだが、下句〈稲妻渡る秋の夕暮〉を受けて、空模様を見入っているに違いない。季節感が半端でない。
 二首目の詞書は「六帖題、新六一」、作者は藤原信実。二句「そら」は副助詞で「程度の低いものを挙げて言外に高いものを類推させる」( 小学館『 全文全訳古語辞典』)という。この歌なら程度の低いのは三句「秋の田」、高いのは下句だろう。眼前の田に対して下句は稲妻が現役なのだ。

 
夫木和歌抄の森を歩く(第十七回)                                                                             2017.8.31

 巻第十三秋部四に移る。

  爪木こる遠山人はかへるなり里までおくれ秋の三日月   (五一一六)             順徳院御製
  山のはのささらえをとこあまの原とわたるひかり見らく  しよしも(五一二五)          坂上郎女
  あしびきの山のたかねは久方の月の都のふもとなりけり  (五一四二)             後京極摂政
  我がやどの軒のうらいた数見えてくまなくてらす秋の夜  の月(五一八六)           花山院御製
  こさふかばくもりもぞする道のくのえぞには見せじ秋の  よの月(五二二一)           西行上人
  ますらをのしがきのかげもあらはれてしのぶくまなき秋  の夜の月(五二三七)           源仲正
  くまもなきゑじのたく火の影見えて月になれたる秋の宮  人(五二四一)          前中納言定家卿

 題「月」から七首引く。
 一首目の詞書は「百首御歌中」。初句「爪木」は薪にする小枝をいう。二句「遠山人」は『日本国語大辞典』に「人里を遠く離れた山中に住む人」とあるが、それでは三句と四句が矛盾する。帰るのは山の中、里は通過する場所だろう。現在地は山中、その三日月に呼びかけていると解した。
 二首目の詞書は「詠月歌、万六」、作者は大伴坂上郎女である。『万葉集』第六巻九八三、二句は月の異称で、「ささら」が「小さい」、「えをとこ」が「愛らしい男」の意。三句は広々とした大空、なるほど、眺めて飽きないわけだ。
 三首目の詞書は「家撰歌合、山月」、作者は九条良経。二句の「高根」は高い峰。四句「月の都」は月宮殿、月の世界の都であるが、二句との関係で結句「麓」が意想外かつ説得力を持つ。坂上郎女の「天の原」へと続く景色である。
 四首目の詞書は「御集、つきあかきよ」、作者は花山天皇(九六八~一〇〇八)、在位は一年十月であった。具体的、とりわけ二三句に、その感が強い。初句は「我が家の」で寝殿造の、たとえば釣殿の景を想像するのも一興であろう。
 五首目の詞書は「歌集、月歌中」。初句の「こさ」は蝦夷の人が息を吐くこと。また、その息によって起こるという霧をいう。ここでは後者だが、結句「秋のよの月」が見えなくなると困るので四句「えぞには見せじ」となるのである。
 六首目の詞書は「大宰帥長実卿家にて、月を」。二句「鹿垣」は狩りをするとき、獲物が逃げないように人々が並び立って垣をつくることをいう。以下、益荒男の「影も現れて忍ぶ隅なき」だから、獲物にも気付かれるわけで、はなはだよろしくない。そんな結句「秋の夜の月」を歌っている。
 七首目の詞書は「建久二年百首中」。天界をゆく月と地界の対比、場所は宮門だろう、二句「衛士」と結句「宮人」が配されている。スポットライトが当たっているのは出仕する官人だが、四句からして、夜の参内も珍しくなかったのだろう。タイムスリップしたような臨場感にあふれている。

  ひきわくる駒ぞいばゆる望月のみまきの原や恋しかるら  ん(五三四〇)             俊頼朝臣

 題「駒迎」から一首引く。
 詞書は「八月十五夜の心を」。駒迎えは駒牽(こまひき)(天皇が紫宸殿で、諸国の牧場から献上された馬を御覧になり、御料馬と定める儀式)の時、諸国から貢進される馬を馬寮(めりよう)の使いが、近江の逢坂の関まで迎えに出たこと。初句「引き分くる」は引き離すこと、ここで地方の役人から都の役人に引き渡されるのである。三句「嘶ゆ」は嘶く、四句「御牧」は朝廷の直轄牧場をいう。三句「望月」は八月十五夜の月、その月がさしている御牧が馬も恋しいのだろうというのである。

  みねの雲かさねて白き夕霧にかへるね山の鳥の一こゑ   (五三七三)              家長朝臣
  はれ行くかまきの島風色見えてやそうぢ人の袖の朝霧   (五三七六)            正二位忠定卿
  なにはがた浦の朝ぎり晴れもせでよるほど見えぬあみの  うき舟(五三七八)           有長朝臣
  ふりすさむ雨のなごりの山風にむらむら過ぐる秋のあさ  ぎり(五三八四)          民部卿為家卿

 題「霧」から四首引く。
 一首目の詞書は「為家卿家百首」、作者は源家長。初句「峰の雲」も白い。三句「夕霧」も白い。その二句「重ねて白き」世界に鳥は帰っていく。四句「寝山」(鳥が寝るための山)は見えず、ただ結句「一声」を耳にするのみ、と読む。
 二首目の詞書は「建保三年名所百首」、作者は中山忠定。二句「槇島」は宇治川と巨椋の池との間にあった州、巨椋の池は干拓されたが京都市伏見区・宇治市・久世郡久御山町にまたがっていた池、かつては存在した風景だ。三句「(島)風色見えて」は草木などを吹き動かす風のさまや趣をいい、四句「八十氏人の」(多くの人々の)、袖が朝霧に見え隠れする(結句)、晴れ行くか(初句切れ)は詠嘆だろう。
 三首目の詞書は「舟、現存六」、作者は源有長、「建長年間在世か」(『作者分類夫木和歌抄本文篇』)。初句「難波潟」は難波江、二句「浦」は入り江。結句「網の浮舟」は『日本国語大辞典』に「漁具の一種。たらいのような桶で、定置網のへりにつけて浮子(うけ)とする」とある。四句は「夜ほど」だろう。暗くはないが、霧が濃くて見えないのだ。
 四首目の詞書は「毎日一首中」。初句「降り荒む」は激しく降る意、二句「名残」は気配や影響が残ること、それが三句「山風」となる。起承転結でいえば四句「群群過ぐる」が転。あちこちに叢がっている、斑なさまで動いていく結句「秋の朝霧」が命を得たかのように見えてくるから不思議だ。

  柴の庵にはごものかこひそよめきて音するものは嵐なり  けり(五四〇九)            俊頼朝臣
  入海のはまなのはしに日はくれて秋風わたるうらの松原  (五四一一)          鎌倉中務卿のみこ
  秋風はまだきな吹きそ我がやどのあばらかくせるくもの  いがきに(五四一二)            好忠
  ささでふすねやのいた戸は今夜こそひきたてつべき秋風  は吹け(五四一六)     喜多院入道二品のみこ
  露霜のさむき夕の秋風に紅葉しにけりつまなしのきは   (五四二三)              読人不知
  秋風はときとふききぬしろたへの我がとき衣ぬふ人はな  し(五四二七)             読人不知

 題「秋風」から六首引く。
 一首目の詞書は「家集、秋風心を」、作者は源俊頼。初句は柴で壁や屋根を作った仮小屋をいう。二句は「葉薦の囲ひ」で、真菰の葉で作った薦を塀や垣根にしているのだろう。三句は風で戦ぐ、音がする。四句だが『散木奇歌集』では「すどほる物は」、「音」では重複するから、こちらだろう。
 二首目の詞書は「御集」、作者は宗尊親王。初句「入海」は入り江、二句「浜名橋」は歌枕、浜名湖から遠州灘に注ぐ浜名川にかかっていた橋という。『日本歴史地名大系』によると「長さ五六丈・広さ一丈三尺、高さ一丈六尺」というから三句以下のパノラマに時空を超えて感嘆するのである。
 三首目の詞書は「三百六十首中」、作者は曾禰好忠。四句「荒ら」は荒れはてたさま。結句「蜘蛛のいがき」は蜘蛛が巣をかけること、またそのかけた巣。『好忠集』では「に」が「を」。また『拾遺和歌集』では二句「吹きなやぶりそ」、結句「くものすがきを〉(一一一一)で、姿が整っている。
 四首目の詞書は「百首御歌」、作者は守覚法親王。但し『万代和歌集』に同歌(二句「ねやのいたども」)が仁和寺入道二品親王覚性で載る。覚性法親王(一一二九~一一六九)の『出観集』にも「立秋のこころを」で収録されている。当然ながら『守覚法親王集』にはない。〈差さで臥す寝屋の板戸は今夜こそ引き立てつべき秋風は吹け〉なのだろう。
 五首目の詞書は「題不知、万十」、その『万葉集』(二一八九)では四句が「もみちにけらし」で、こちらの方がインパクトは強い。結句「妻梨」は梨のこと、「梨」に「無し」を掛けているが、なぜ「妻」なのか、そこに惹かれた。
 六首目の詞書は「秋風、新((ママ))一」。二句が気になる。『古今和歌六帖』(四〇七)は「時とふききぬ」、『家持集』(二三〇)は「こととふききぬ」だから「吹ききぬ」は動かない。あとは「時と」(ふさわしい時機だとして)と「事と」(とりわけ)の選択だが『夫木和歌抄』に従った。下句は「解衣」(解いた衣)を仕立ててくれる人がいないのである。

  ふきすさむ野分の空の雲間よりあらはれわたる在明の月  (五四三六)            民部卿為家卿
  秋ふかき川上とほく野分してやすくもたたぬねじろたか  がや(五四三八)           権僧正公朝

 題「野分」から二首引く。
 一首目の詞書は「毎日一首中」、作者は藤原為家。野分からの連想は地面に横方向の風だが、暴風とりわけ台風は縦方向で、実にスケールが大きい。二句「空の」以下、雲間に現れた月が空を皓皓と渡るさまは動の中の静の趣である。
 二首目の詞書は「七百首歌、野分」。結句「根白高茅」は川水に洗われて根が白く高く現われた茅。四句は「易くも立たぬ」だろう。二句「遠く」は「私」がいる川下から川上まで、為家の歌とは逆に、横方向に風が残した爪痕である。

  深き夜のはしにしただる秋の雨の音たえぬれば軒ばもる  月(五四五四)            後京極摂政

 題「秋雨」から一首引く。
 詞書は「仙洞五十首」(一二〇一年)、作者は九条良経。二句「端」は寝殿造りの簀の子だろう。格子の外、濡れ縁である。「しただる(下垂る)」は「滴る」こと、近世初期まで第三拍濁音であったらしい。結句は軒先に月が見えているのである。聴覚の世界から一転した視覚に目が奪われる。

  まぶしさしはとふく秋の山人はおのがありかをしらせや  はする(五五四九)             好忠

 題「秋雑」から一首引く。
 詞書は「三百六十首中」、作者は曾禰好忠。初句は「射翳さし」、「射翳」は猟師が鳥獣を射るとき木枝で作った身を隠すもの、「さし」は「差し」か。自衛隊の擬装が思われる。二句「鳩吹く」は鳩の鳴き真似だが、目的は鹿を呼び寄せたり、また仲間への合図に用いたという。下句は「獲物に自分の居場所を知らせるだろうか、しない」、反語と解した。

夫木和歌抄の森を歩く(第十八回)  2018.3.6

 巻第十四秋部五に移る。

  たちかへりみちある御代にあはんとやおなじこやのの松  むしのこゑ(五六〇一)       従二位家隆卿
  いのちやはなにぞはつゆのあだしのにあふにしかへぬま  つむしの声(五六〇二)       従二位家隆卿
  から衣たつたの山にあやしくもつづりさせてふきりぎり  すかな(五六一一)         中納言家持卿
  あきの夜の月のみやこのきりぎりすなくはむかしのかげ  や恋しき(五六二二)         鎌倉右大臣

 題「虫」から四首引く。
 一首目の詞書は「家集、野虫」、作者は藤原家隆。初句は戻ること、二句は秩序のある治世、三句は「会いたいというのか」。問題は四句の「同じ昆陽野」だろう。何が「同じ」なのか。連想されるのは「承久の後、述懐歌」の詞書を持つ〈立ちわかれ今朝やこやのの花すすきまねくけしきもかなしかるらん〉(四三六七)である。「花すすき」は隠岐に向かう後鳥羽院、掲出歌の「まつむし」は送った側の家隆、そう読み取っても不思議でない、唐突な「おなじ」なのだ。
 二首目の詞書は「家集」、作者は藤原家隆。上句は「命って、何なのだ。露のような化野に」。四句は「合ふにし換へぬ」で「(化野にあって)しかしその儚さと引き換えに出来ない」、結句は「命を響かせている松虫であるよ、この声は」と解した。なお『壬二集』は〈いのちかはなにぞの露のあだし野にあふにもかへぬ松虫の声〉(一一八〇)であった。
 三首目の詞書は「家集、雑歌中」、作者は大伴家持。初句は枕詞、その「唐衣」の縁で二句の「竜」(裁つ)を呼び起こす。三句は「不思議、神秘的」だろう。四句は鳴き声が「綴り刺せ」と聞こえるのだ。ところで「竜田」は「たつた」だが、『夫木和歌抄』編纂の頃は破格の「裁った」も考えられるのではないか。そう解釈することによって三句の「奇(怪)し」がより現実味を帯びてくるように思われるのだ。
 四首目の詞書は「御集中」、作者は源実朝である。二句の「月の都」は月宮殿なのか、都の美称なのか、それとも「月の異称」(日本国語大辞典)なのか。ちなみに私は三番目に拠った。三句の「蟋蟀」は作中人物が蟋蟀に語りかけているのだろう。下句「鳴くは昔の影や恋しき」、「鳴く」は「泣く」、作中人物の「私」なのだ。女性だろう。事情があって都からやってきた過去、そんな物語を背景に置いてみた。

  ひばりとるこのりてにすゑこまなめてあきのかりたにい  でぬひぞなき(五六四八)         源仲正

 題「小鷹狩」から一首引く。
 詞書は「家集、鷹狩」。二句「このり」(兄鷂)はハイタカの雄をいう。〈雲雀とる兄鷂手に据ゑ駒並めて秋の刈田に出でぬ日ぞなき〉、馬を連ねて刈田を進む、刈田は雲雀の生息場所でもある。蹄の音に驚いて飛び立てば兄鷂が襲ってくる。結句からして相当な雲雀が犠牲になったと思われるが、スポーツではない、おそらく食用に供されたと考えたい。

  うづらなくくるすのをのの夕まぐれほのめきわたるはな  すすきかな(五六七三)       前参議親隆卿
  うづらなくかり田のひつちおもひいでてほのかにてらす  三日月のかげ(五六八三)        西行上人

 題「鶉」から二首引く。
 一首目の詞書は「久安百首」(一一五〇年)、作者の藤原親隆(一〇九九~一一六五)は藤原為房の七男、正三位、参議。〈鶉鳴く栗栖の小野の夕間暮れ仄めき渡る花薄かな〉。二句の「来栖」は栗の木の多く生えている土地、「小」は接頭語、四句は「それとなく姿を見せ続ける」意、結句の「花薄」は穂の出た薄。声だけで鶉の姿は見えない夕暮れ、しかし四句が薄のみならず全体の印象に貢献して詠嘆が響く。
 二首目の詞書は「家集」。但し『国歌大観』また『山家集』(岩波文庫)でも該当作を確認できない。二句「刈田の穭」、穭は刈った後の株から生える稲をいう。三句「思ひ出でて」、思い起こしたのは人ではない、擬人化された月なのだ。「仄かに照らす三日月の影」、満月でないところが趣向つまりは照らし出される鶉との間に小さな物語を生み出すのだ。

  わぎもこがみどりのまゆをかきそへてかど田のしぎのは  おとをぞきく(五七一〇)       衣笠内大臣

 題「鴫」から一首引く。
 詞書は「六帖題、新六一」、作者は藤原家良。同じ歌が巻第十九雑部一に「暁」の題で登場する。確認すると『新撰和歌六帖』第一帖に「あかつき」の題で載る。これを参考にすると時刻は夜明け前のまだ暗い時分となる。舞台は四句「門田」だから荘園の居館である。二句「緑の眉」は黒く艶のある美しい眉、初句「我妹子」が、その眉を描き終えたところ、四句の接続助詞「て」によって関心が室外に移る。すなわち鴫も目覚めたのか、羽音をさせているというのだろう。

  ころもうつきぬたのおとのとほつかはわたりをさむみた  れをまつらむ(五七二八)        信実朝臣
  から衣さゆるしも夜にうちわびてまどろむまにやおとた  ゆるらん(五七四一)     花園左大臣家小大進
  夜もすがらさとは衣をうつなみのおとづれかはすすみよ  しのうら(五七四七)         参議為相卿
  ふくる夜の月かげしたふやまがつはにはにいでてやころ  もうつらん(五七四八)        参議為相卿
  から衣いまやたつたの川かぜにきぬたのおともうちすさ  むらん(五七六三)           兵衛内侍
  しろたへのしも夜の風のさむければころもでうたぬさと  人もなし(五七八七)        民部卿為家卿
  夜半にふく秋風さむくなるままにころもうつなりかもの  川上(五八〇二)          民部卿為家卿

 題「擣衣」から七首引く。
 一首目の詞書は「亀山殿五首歌合、河辺擣衣」(一二六五年)、作者は藤原信実。三句は「遠津川」で十津川およびその流域一帯の古称、「私」は砧の音を川辺から離れたところで聞いている。そして思うのだ。「船渡りも寒いので(まだ来ない。あの音の主は)誰を待っているのだろう」と。
 二首目の詞書は「久安百首」(一一五〇年)、作者は石清水別当光清の妻、小侍従と成清法師の母である。初句の枕詞はどこに掛かるのか、三句の「打ち侘びて」の接頭語「打ち」(打つ)だろう。四句の想像が面白い。場所は離れているとはいえ、霜夜を同じくしているという共生感が思われる。
 三首目の詞書は「永仁元年楚忽百首」(一二九三年)、作者は冷泉為相。上から「夜もすがら里は衣を打つ」は実景としても無理はないだろう。その部分を四句「波」の序詞として「打つ波の訪れかはす住吉の浦」、里に対する浦を詠ったと読んだ。「打つ」を共有しての上下の対比が面白い。
 四首目の詞書は「嘉元元年百首、擣衣」(一三〇三年)、作者は冷泉為相。二句「月影」は目に見える月の姿、三句「山賎」は猟師や木こりなど山に住む人、二句「慕ふ」は為相の主観、下句「庭に出でてや」の部分は想像、つまるところ絵になる情景、作者の美意識が描き出した風景といえよう。
 五首目の詞書は「家六首歌合、河辺擣衣」、作者は「建保三年名所百首に出詠。順徳院兵衛内侍か」(『作者分類夫木和歌抄本文篇』)。三句から眺めると「唐衣いまや竜田(立った)の川風に」で掛かり方も破格、発音も促音だろう。助動詞「た」の影響を思わざるを得ない。「唐衣」は四句の「砧」に掛かるのである。結句「打ち荒むらん」は砧の音も川風の勢いで衰え、弱まっているだろう、というのである。
 六首目の詞書は「貞応三年一字百首」(一二二四年)、作者は藤原為家である。霜夜の風が寒いので衣手(着物の袖)を砧で打たない土地の人はいない、みんなが砧を打っているというのであるが、寒いからではない。砧は堅くてなじまない織物の織り目をつぶして柔らかくし、艶を出すために使われた。秋の夜、どの家も冬着の準備が急がれるのである。
 七首目の詞書は「文応元年七社百首」(一二六〇年)、作者は藤原為家。夜中に吹く秋風が寒くなるにつれて砧を打つ音が増す、鴨川の上流であることよ。体言止めのインパクトが強く、奥行きを得た生活が立体画像として聴覚に響く。

  まだからぬわさだをもると霜のよのをかのやかたに月を  見るかな(五八一〇)          信実朝臣

 題「秋霜」から一首引く。
 詞書は「建長三年十首歌合、田家月」(一二五一年)、作者は藤原信実である。〈まだ刈らぬ早稲田を守ると霜の夜を丘の館に月を見るかな〉。二句「早稲田」は「早稲」(早くに成熟する品種の稲。八月に穂が出て九月には刈りとられる)が植えてある田、その田の番をするため霜の夜、丘の館に立つと月がきれいで思わず眺めてしまったことだ、か。

  まくずはふをののしのはらしたにのみ人をこふるはくる  しかりけり(五八四六)         読人不知

 題「葛」から一首引く。
 詞書は「題不知、万代」。〈真葛延ふ小野の篠原下にのみ人を恋ふるは苦しかりけり〉。二句までは三句の「下」に掛かる序詞、下句から北見志保子の「平城山」の歌詞が思い出されたが、あれは「人恋ふは悲しきものと」だった。「苦しかりけり」は珍しいものではないが「人を恋ふるは」と結びついてダイレクトに訴えてくるところが現代に通う。

  ときならぬゆきのつつみと見ゆるまでいけをめぐりてさ  けるしらぎく(五九〇七)         源仲正
  こよひはと心えがほにすむ月のひかりもてなす菊のしら  露(五九〇八)             西行上人

 題「菊」から二首引く。
 一首目の詞書は「常磐百首、水岸菊」。〈時ならぬ雪の堤と見ゆるまで池を巡りて咲ける白菊〉。季節外れの雪かと思う堤一面の白菊、何とも素朴な比喩である。通り過ぎてもよい、しかし通り過ぎたあとも、壮観な景が意識を去らない、これはやはり記憶に値する、と結論に至った次第である。
 二首目の詞書は「家集、九月十三夜に」。二句「心得顔」は事情などをよく知っているといった顔付きをいう。四句「もてなす」は待遇する、それができるのは月と菊が最高の姿で拮抗しているからだろう。同人の「うづらなく」(五六八三)もそうだが、擬人法を駆使して巧みな絵本の趣である。

 
夫木和歌抄の森を歩く(第十九回)  2019.1.7

 巻第十五秋部六に移る。

  まつがねのたけがりゆけばもみぢばを袖にこきいるる山  おろしの風(六〇一三)         寂蓮法師
  日ぐらしのなく秋山をこえくればことぞともなく物ぞか  なしき(六〇一五)           読人不知
  ともしすと秋の山べにいる人のゆみのやかぜにもみぢち  るらし(六〇一六)             好忠
  たれならむ時雨にあける秋山にひとりさめたる松のみど  りは(六〇二〇)           権僧正公朝

 題「秋山」から四首引く。
 一首目の詞書は「百首歌、遊山催興」、作者は寂蓮。初二句は「松が根の茸狩り行けば」で松茸狩り、三句以下は「紅葉葉を袖に扱き入るる山颪の風」。うち三四句は枝からしごき取った紅葉の葉を袖に入れること、結句は「山から吹きおろす風が」となる。『古今和歌集』(三〇九)に〈もみぢ葉は袖にこきいれてもていでなむ秋は限りと見む人のため〉がある。掲出歌と違って自分で集めて土産にするのである。
 二首目の詞書は「惟貞親王家歌合」、作者は読人知不。初句「日暮し」(茅蜩)は巻第九夏部三の題にあり、十三首を収録する。別名「かなかな」。鳴き声からの選択肢もあっただろうが、ここでは「日暮し」の多義性が微妙に効いてくる。三句は旅人を思わせ、四句の自己主張をしない「ことぞともなく」(何ということもない)が読者の情感に訴える。
 三首目の詞書は「三百六十首中」、作者は曽根好忠。初句の「照射」だが、これも巻第九夏部二の題にあり、三十八首を収録する。夏の夜の狩に対して秋の夜の狩、登場するのは狩人と鹿である。生活の現場は歌集の構成のようには収まらない。下句「弓の矢風に紅葉散るらし」も印象に残る。
 四首目の詞書は「七百首中」、作者は権僧正公朝。落葉樹と常緑樹を対比的に歌う一群を眺めたとき、擬人化で目を引いた作品である。歌意は「誰だろう。時雨とともに紅葉が美しくなる秋の山にあって、ひとり醒めている松の緑は」と解した。「誰」と「松の緑」いずれも自画像の趣きである。

  つはりせしふたごの山のははそ原よにうみすぎてきえぬ  べきかな(六〇四六)          俊頼朝臣
  松山にははそかへでのまじらずは時雨れけりともいかで  かはみん(六〇五五)        安嘉門院四条
  しづがすむかきねにつづくははそ原さとの時雨ももみぢ  しにけり(六〇五九)          信実朝臣

 題「柞」から三首引く。
 一首目の詞書は「述懐百首中」、作者は源俊頼。詞書からして妻子に関わる体験だろう。これに柞の実(団栗)の歌を重ねた、と読む。初句は悪阻また熟し始めること、二句「ふたごの山」(双子山)は大阪府と奈良県にまたがる二上山の別名でもある。四句は「世に産(倦)みすぎて」だろう。三句「ははそ原」(母)を受けて結句は難産の類と読む。柞の実の場合はどうだろう。「多すぎて有り難みがない」か。
 二首目の詞書は「弘安二年若宮百首、紅葉」(一二七九年)、作者は阿仏尼である。初句「松山」は松の生い茂った山、二句は「柞(や)楓」の意味だろう。歌意は「緑の山に柞や楓の紅葉が混じっていないならば時雨がするといっても、どうして見ることがあろうか(情趣がない)」と解した。
 三首目の詞書は「六帖題、新六六」、作者は藤原信実。印象に残るのは「賤」の里に対する視線である。その名称とは別に親近感が感じられる気配なのだ。すでに都は紅葉しているのであろう。そう思わせるのは四句の「も」である。また「里の時雨も」の次に「染めて」の類があって然るべきだが、紅葉との関係性は自明という認識によるのであろうか。

  ありま山しぐるる峰のときは木にひとり秋しるはじもみ  ぢかな(六〇六五)         民部卿為家卿
  山本のしづがかきねの村竹にもりていろづくはじもみぢ  かな(六〇六七)          民部卿為家卿

 題「櫨」から二首引く。
 一首目の詞書は「文応元年毎日一首中」(一二六〇年)、作者は藤原為家。題の「櫨(はじ)」は山漆の古名、ウルシ科の落葉小高木をいう。四句「ひとり」は副詞で「そのものだけで」、「櫨紅葉」は紅葉した櫨だろう。常緑樹の生い茂った有馬山の峰を時雨が濡らすが、秋を実感できるのは時雨と親和性のある櫨によってのみである、というのだろう。
 二首目の詞書は「寛元三年結縁経百首、現存六」(一二四五年)、作者は藤原為家。初句「山本」は山の下、三句「村竹」は「叢竹」、下句は「漏りて色付く櫨紅葉かな」だろう。為家には〈明日よりは人もすさめじ山がつのそのふのももの花の夕かぜ〉(一七四九)があって山賤は情趣を解さないという意識がある。しかし、それでいて竹(常緑木質植物)と紅葉に加えて「賤」は三位一体で欠かせないようなのだ。

  ももづてのいそしのささふ時雨してそつひこまゆみもみ  ぢしにけり(六〇七一)         俊頼朝臣

 題「檀」から一首引く。
 詞書はない。作者は源俊頼。左注に「この歌は、たなかみの山ざとに侍りけるころ、ささふのたけにのぼりてあそびけるに、まゆみのもみぢを見てよめると云々」とある。「田上」は滋賀県大津市南部。「笹生」は笹が生い茂っている所、「岳」は高い山、「檀」はニシキギ科の落葉小高木。初句の「ももづて」は不明。二句の「いそし」は「勇」か(『日本国語大辞典』の語源説参照)、「笹生」に同音の「支ふ」(阻む)を重ねた。位置的には麓の笹原(常緑)と岳の檀(落葉樹)だろう。四句の「襲津彦」は弓矢にすぐれた葛城襲津彦のこと、これに「真弓」で強い弓をいう。歌意は「ももづてのいそしである笹原も、時雨の勢いに負けて、さすがの襲津彦真弓も紅葉させた」、実景としては檀の紅葉を詠った、と読む。

  人は来ずはらはぬにはのきりの葉におとなふ雨のおとの  さびしさ(六〇八八)        大納言通具卿

 題「桐」から一首引く。
 詞書「建保二年秋五十((ママ))首歌合、秋雨」(一二一四年)、作者の源通具(一一七一~一二二七)は通親の子、俊成女の夫、『新古今和歌集』の選者の一人である。二句以下は「払はぬ庭の桐の葉に訪なふ雨の音の寂しさ」だろう。「訪なふ」は、また「音なふ」、音を立てるのは雨ばかりの風情なのだ。

  旅衣にしきたちきぬ人ぞなきもみぢ散りかふしがの山ご  え(六一〇六)        皇太后宮大夫俊成卿
  おぼつかないづれうらごの山ならむみなくれなゐに見ゆ  るもみぢ葉(六一二四)         清輔朝臣
  みづのもりもみぢの色も見るべきにたちなかくしそよど  の川ぎり(六一二五)         源雅重朝臣
  しばしともいはでのもりのもみぢばはいろにいでてこそ  ひとをとめけれ(六一二六)      源頼綱朝臣
  うすくこくちるもみぢばをこきまぜて色色にふくあきの  山かぜ(六一三九)            源頼行
  色にいでて秋のこずゑぞうつり行くむかひの峰のうかぶ  さかづき(六一四二)       前中納言定家卿
  夕時雨ふるからをののもとがしはもとつはながらもみぢ  しにけり(六一五六)          家長朝臣
  をとめごがもみぢの衣打ちしぐれ袖ふる山のあきのみづ  がき(六一七七)          従二位家隆卿
  いかにしてありし心をなぐさめむもみぢみにもとさそは  れぬみは(六二〇〇)         堀川右大臣
  たづねつついざみの山のもみぢ葉のしぐれにあへる色の  てごらさ(六二四八)       前大納言顕朝卿
  もみぢばは霧のたつにもちりけるを風をかたなとおもひ  けるかな(六二七五)         読人しらず

 題「紅葉」から十一首引く。
 一首目の詞書は「文治六年五社百首」(一一九〇年)、作者は藤原俊成。初句は旅で着る衣服、二句は「錦裁ち来ぬ」と読んだ。本来であれば「来ぬる」だが『長秋詠藻』には収録されていないので確認する手立てがない。歌意は「旅で着る衣服にしようと裁ってきた人もいない、あちらこちらに紅葉の散り乱れる志賀の山越えであることよ」と解した。
 二首目の詞書は「仁安二年経盛卿家歌合」(一一六七年)、作者の藤原清輔(一一〇四~一一七七)は 平安末期の歌人、歌学者。顕輔の子。六条家の中心として活躍、家集に「清輔朝臣集」がある。晩年は御子左家の俊成と対峙した。作品だが二三句は紅葉した山並を襲の色目に喩えたのだろう。歌意は「はっきりしないことだ。どれが裏濃の山なのか。どれも濃淡のない紅に見える紅葉葉であることよ」と解した。
 三首目の詞書は「永暦元年八月清輔朝臣家後番歌合、紅葉」(一一六〇年)、作者は源雅重(?~一一六三)、平安時代後期の貴族・歌人。勅撰和歌集には『千載和歌集』に一首のみ収録という。〈水の森紅葉の色も見るべきに立ちな隠しそ淀の川霧〉、初句の着想が魅力また絵画的な一首である。
 四首目の詞書は「紅葉留客、歌苑抄」、作者の源頼綱(一〇二四~一〇九七)は源頼光の孫。承暦三年比叡山僧徒の強訴を鎮圧した。号は多田。二句は「磐手」に「言はで」を掛ける。ちなみに「磐手の森」に対して「岩瀬の森」があるから歌枕は面白い。三句以下は「紅葉葉は色に出でてこそ人を留めけれ」。趣向の似た歌に平兼盛の〈しのぶれど色に出でにけり我が恋は物や思と人の問ふまで〉(『拾遺和歌集』六二二)や津守国基の〈おもふ事いはでの杜のことのははしのぶる色のふかきとをしれ〉(『続千載和歌集』一〇八二)があるが、こうした湿潤と無縁、その具象性が好ましい。
 五首目の詞書は「落葉を、歌苑抄」、作者は源頼行。その落葉は初二句の縦方向の落葉、下句の横方向の落葉に二分されよう。「薄く濃く」も「色色」(文字通り「色色」)も赤を主調とする。それらが三句「扱き混ぜて」(かきまぜて)だから山は紅葉のグラデーションさながらの世界なのだ。
 六首目の詞書は「建久八年((ママ))百二十八首韻歌」(建久七年、一一九六年)、作者は藤原定家。『拾遺愚草』の「韻歌」の「秋」十六首の各歌最後に現れる漢字の音読みを列挙すると「啼(てい)」「棲(せい)」「梯(てい)」「迷(めい)」「柴(さい)」「涯(がい)」「埋(まい)」「乖(かい)」「哀(あい)」「杯(はい)」「廻(かい)」「摧(さい)」「鶉(じゅん)」「隣(りん)」「匂(いん)」「人(じん)」で、掲出歌は十首目の「杯」である。紅葉の梢を峰に浮かぶ黄色い杯(さかづき)の形をした月が移っていくというのだろう。
 七首目の詞書は「光台院入道二品親王家五十首、夕紅葉」、作者は源家長。〈夕時雨古幹小野の本柏本つ葉ながら紅葉しにけり〉。歌意は「夕時雨で、古い茎が立つ野、その中の柏の葉、本柏は、幹に近い部分まで、紅葉したことだ」と解した。「降る」に「古」を掛け、「も」音の繰り返しが快い。
 八首目の詞書は「洞院摂政家百首、紅葉」、作者は藤原家隆。〈乙女子が紅葉の衣打ち時雨れ袖振山の秋の瑞垣〉。四句の「袖振山」は吉野山の西側にある山、その縁語仕立てで歌意は「乙女子の紅葉の衣に、小雨がさっと降って、袖振るような振袖山の秋、その玉垣であることよ」と解した。
 九首目の詞書は「関白殿白川に紅葉御覧じにおはしましぬとききて」、作者は藤原頼宗。歌意は「どのようにして昔の私を慰めたらよいのだろう。紅葉でも、と誘ってくれない身は」。率直さに驚く。その地位の高さが、余計にそう思わせもする。ちなみに関白は藤原頼通、頼宗の兄でもあった。
 十首目の詞書は「建長八年百首歌合」(一二五六年)、作者は姉小路顕朝。〈訪ねつついざみの山の紅葉葉の時雨に遇へる色のてごらさ〉。地名「いざみの山」(三重と奈良の県境にある高見山という)に「いざ見む」を掛けた。「てごろさ」(「てこらさ」とも)は照り映えて美しいさまをいう。
 十一首目の詞書は「民部卿元親王家歌合」、読人不知。〈紅葉葉は霧の立つにも散りけるを風を刀と思ひけるかな〉。二三句と下句が対応しない。二句の「立つ」に「断つ」もしくは「霧」に「切り」が掛かるであれば、四句の「刀」とも絡んでくる。不似合いなものを詠って、不思議な歌なのだ。

  なが月の末野の霜におとろへてさかりすぎたるをみなへ  しかな(六二九二)          衣笠内大臣
  かこつべき野ばらの露も虫の音もわれよりよわき秋のく  れかな(六三〇五)          順徳院御製
  しろたへのこまのくつばみひきとめてみねにのこれる秋  の色かな(六三一三)          家長朝臣

 題「暮秋」から三首引く。
 一首目の詞書は「六帖題、新六六」、作者は藤原家良。遍照に〈名にめでて折れるばかりぞ女郎花我おちにきと人にかたるな〉(『古今和歌集』二二六)があるが、こちらも女性の喩え、しかし露骨で悪趣味なこと、驚くばかりである。
 二首目の詞書は「百首御歌」、作者は順徳院。初句「託つべき」(歎くはず)なのは二句「野薔薇の露」と三句「虫の声」だが、それら即ち「われ」(「野薔薇の露と虫の声」自身)より弱いのが本体である秋の暮れだというのだろう。
 三首目の詞書は「為家卿家百首、文峰安縄白駒景」、作者は源家長。『和漢朗詠集』(日本古典文学全集)に「文峰に轡を案ず白駒の景/詞海に舟を艤ふ紅葉の声」がある。詞書の「安縄」は「案轡」の誤記であろうか。脚注に「秋の陽ざしは、九月尽の山を去ろうとして、秋の最後という今日の一日を、詩才にたけた人々が集まる場所(峰)に、轡を押さえて馬の歩みをとどめてくれている」とある。白馬に惹かれたが秋の擬人化なのだ。なお結句「秋の色」は紅葉をいう。

  もみぢばのぬさともちるは秋はつるたつた姫こそかへる  べらなれ(六三一六)            貫之
  こふ人にちぢのこがねはとらすとも秋のくるるぞをしく  はありける(六三一九)      前中納言匡房卿
  帰る秋わたのはらよりゆくならば船がくれせよおきつし  らなみ(六三二二)         正三位経家卿
  秋の色はここのつわけてすぎぬなりのこる一夜のかげぞ  さびしき(六三二四)         亀山院御製

 題「九月尽」より四首引く。
 一首目の詞書は「延喜八年屏風」(九〇八年)、作者は紀貫之。初二句「紅葉葉の幣とも散る」風景を龍田姫(奈良県生駒郡の龍田山の神格化)の帰る様子だと捉えている。秋をつかさどる女神はどこに帰るのか。ちなみに春をつかさどる女神は佐保姫(奈良市東方の佐保山を神格化)である。
 二首目の詞書は「堀川院御時百首」、作者は大江匡房。〈乞ふ人に千々の黄金は取らすとも秋の暮るるぞ惜しくはありける〉。春宵一刻値千金の秋バージョンだが、さらに現実的なところ、大金は惜しくはないが、という上句に惹かれた。
 三首目の詞書は「正治二年百首」(一二〇〇年)、作者は藤原経家。貫之の歌で、龍田姫はどこに帰るのか、そんな無粋なことを考えた。この歌も同様だが、経路に着想を得ている。曰く〈海の原より行くならば舟隠れせよ沖津白波〉。下句「舟を隠してよ、沖に立つ白波」。擬人化された秋は舟で帰るらしい。さて、どこへ。いや惜秋の思いを味わおう。
 四首目の詞書は「嘉元元年百首御歌」(一三〇三年)、作者の亀山院(一二四九~一三〇五)は第九十代天皇、皇位継承を巡る大覚寺(亀山系)・持明院(後深草系)両統対立の発端となった。二句で迷ったが、歌意は「秋の趣も、二つある九つのうち、昼の九つを過ぎた。残すところ夜の九つまで、これで秋が終わると思うと淋しく見えることだ」と解した。

 

 



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