エッセー集
 エッセーとは「特定の主題について述べる試論。小論文。論説。」(デジタル大辞泉)


飲食を詠う  『オルフェの亜空間』を読む  浜田蝶二郎を読む 足摺岬の永井さん
町野さんのこと  あとがき(軌跡) 狂歌と歌謡~覚書~  口語歌、口語短歌とは近代の用語。今は現代語短歌なのだ 
歴史的仮名遣いと近代短歌   拝啓 坂野信彦 様   永井陽子の一首   近世の狂歌~ターミナルとしての鯛屋貞柳~ 
眼ひらけり~小畑庸子歌集『白い炎』~  異界の扉~小谷博泰歌集『夢宿』~ 素志の力~井上美地歌集『空の邃きに』~  狂歌とは何か~上方狂歌を中心として~ 
近代短歌と機知 短歌は恥ずかしいか  坂野信彦『銀河系』一九八二年 岸上大作~忘れ得ぬ歌人たち・関西編~
くずやんの大阪~葛西水湯雄歌集『のらりくらり』評~  高瀬一誌の初期歌篇を読む 前田宏章さんの歌 そこはかとなき墓の歌
ダンディスト町野さんの置土産 春らんまん~高瀬一誌歌集『火ダルマ』栞~ 『レセプション』解説 高瀬一誌の読み方    


 飲食を詠う(「短歌人」2022年5月号)

  「食曼荼羅」三部作(『にやぐにやぐ』『なむなむ』『うぬぬ』)の著者、久保田幸枝は『にやぐにやぐ』の「あとがき」で「『食』はいのちの源。おろそかにできないと誰でも知っていますが、それにしては、あまり熱心に『食』を詠んできたとは言えないようです。それどころか、つい最近まで『食』を詠むのは品が悪いと思いこんでいた人もいます」と書く。この「いた」は「いる」でないのか。疑念が残る。
  鬼女もみぢ幼名くれ葉やま深き信濃の菓子にその名をとどむ         久保田幸枝『にやぐにやぐ』
  ぶらじるのコーヒーの香を召しあがれ なむなむ 明日はぶるうまうんてん    久保田幸枝『なむなむ』
 一首目。ネットを見ていたら「そばの華くれ葉」(くるみパイ)が出てきた。「鬼女もみぢ」も「ウィキペディア」によれば室町時代の謡曲『紅葉狩』以来の伝説らしい。
 二首目。『にやぐにやぐ』では健在の夫君も〈深炒りの珈琲の香は届くべし十万億土へ去りし人にも〉である。「なむなむ」は「南無南無」、コーヒーを供えているのである。
 『うぬぬ』の「あとがき」で「食曼荼羅は終わりましたが『食』短歌は続きます」とある。さすがというべきか。
 高野公彦の『うたを味わう 食べ物の歌』を開くと「平安時代の和歌で、食べ物を詠んだ歌はほとんど無いようだ」とある。これが久保田の「つい最近まで『食』を詠むのは品が悪いと思いこんでいた人もいます」の背景と思われる。和歌史の伝統である。他方、『万葉集』からの引用は多い。
  湯どうふよ わが身は酔つてはるかなる美女(びんぢよう)恋し なあ湯どうふよ           高野公彦『水行』
 「湯どうふ」に語りかけている。しかも「恋し」(強く引きつけられる)と訴えるのは、並みの美女(びじよ)ではない。「日本国語大辞典」で「びんじょう」を引くと用例は『梁塵秘抄』だった。「湯どうふ」や「美女(びんぢよう)」に惹かれるのは勿論だが、酔漢にして清閑の「私」こそが魅力の第一であろう。
  ラマ僧ら寡黙につどう夕餉にてとぼしき食(じき)を賜れりけり               やまたいち『雪蔵より』
 雪蔵とはヒマラヤのことをいう。年齢にして六十代から七十代、断続的な旅の歌日記である。そう、日や週単位ではない。月単位なのだ、したがって旅行というイメージからは遠い。掲出歌の事情は〈里遠き院に一夜のやどりして夕べの勤めに加えられにき〉である。「勤め」といっても経を読めるわけではない。教えられるままに太鼓を打ったというのである。文字通り〈とぼしき食(じき)を賜れりけり〉なのだ。
  床(とこ)を降り瓶を囲んでのみおりきスコッチなりにき中に招かる
 経緯は〈夜も更けの声をあやしみたどりゆけばシーク教徒
ら部屋に呑みおる〉〈何処より来何処へ行くか、問われしがやがて解せぬ言語になりゆき〉と類い希な好奇心である。
  ワイン一本ビール二リットル入り瓶で宿の夫婦を庭に誘い出し      やまたいち『バルカン半島より』
 クリミヤ半島(バフチサライ)の農家民宿が舞台である。夫婦からもピロシキ等の饗応があり〈こころみに「カチューシャ」唄えば声合わせ思わざる日よ歌声酒場〉また〈「ともしび」を唄えばわれの日本語(につぽんご)かれらロシア語の合唱となり〉で作者にとって飲食はコミュニケーションでもあった。
  パンを買うひとのトングの迷えるを二階席より見つつ楽しむ          松村正直『風のおとうと』
 目次によると二〇一一年の作、パンの消費量が米の消費量を上回った年である。焼きたてパンとトレイを持ったセルフサービス、客観するイートインの「私」、洒落た雰囲気がある。ところであの火箸様のものの正式名称を知ったのは、この歌のおかげである。そのトングが要で活きている。
  ネクタイ姿の今日は買わずに帰ろうか揚げたてコロッケ匂う店先         前田宏章『昔のむかし』
 作者は二〇〇四年に六十三歳で逝去、晩年の作であるが風景としては今も変わらないだろう。但し通勤路でもあって、百貨店等の食品売場ではない。また主婦の買物と違うのは献立意識がないことだ。〈レンジにてチンして食べる 仏壇にチンして食べたは昔のむかし〉、こんな作品もあった。
  返事のみよくて話しを聴かぬ子の弁当に大き梅干入れぬ                 小島ゆかり『憂春』
 話しも聴く子になるかどうかはともかく、普段よりも大きな梅干しに首を傾げつつ酸っぱい顔をしたことだろう。ユーモラスであるが、一方で〈夏みかんのなかに小さき祖母が居て涼しいからここへおいでと言へり〉(『折からの雨』)といった、口にするのが憚られるような果実も登場する。
  人生のところどころに旬がある何時だつて旨い博多めんたい            青木昭子『申し申し』
 人生の応援歌かつ食物礼賛である。今も「『食』を詠むのは品が悪いと思いこんで」いる人たちに捧げたい。そも品とは何か。人生とは何か。私は問いたい。旬であるときも、ないときも、飲食は私たちと共にある。「合掌」「頂きます」「御馳走様」に込められた思いは品と別格の世界なのだ。
  ×印いれて煮付ける星鰈よべは玄海を泳ぎをりしか                  青木昭子『秋袷』

 『オルフェの亜空間』を読む(「白珠」2022年1月号)

  収録する作品は六三三首。数が多いので抄出歌の下に括弧書きで頁数を記入した。歌集に当たる際の時間の節約が目的である。
  うどん屋を出ればどっとくる人波のビル  街であるいつものような(85)
 「めまい」十一首の一首だが「うどん屋」の歌が四首続く。一首目〈駅を出れば雑草しげる古い町うどん屋一軒灯りがともる〉、二首目〈お客はんが今日はじめてのお客だす、すうどんだけしかおまへんのやと〉、三首目〈うまくもない酒を飲みつつうどん屋に町の名聞けばいつものまちで〉、そして掲出歌となる。歌集名にも採られている「亜空間」とは「通常の物理法則が通用しないとされる想像上の空間。物理学の用語ではなく、SFなどで使われる語」(デジタル大辞泉)とある。この一連なども同じ街の亜空間に入り込んだ男の物語として読むことができる。
  北へ北へ流れていたり台風の先ぶれとし  て雲行くはやさ(87)
 「台風の日に」八首の一首。大阪湾から六甲の山へ流れているのだろう。晴れていたら〈雲の影が六甲山を流れゆく空気の澄んだ街の明るさ〉(167)となるのだろう。雲二態、主役ではないが読者を魅了する細部だ。
  雨戸引く一枚二枚三枚とまるで結界を取り去るように(89)
 「台風の日に」続き。台風が過ぎたので戸袋に雨戸を収納しているのだろう。それを事々しく結界と呼んだところが面白い、しかし「結界」とは何か。私が選ぶのは「密教で、修法によって一定の地域に外道・悪魔が入るのを防ぐこと」(デジタル大辞泉)である。では雨戸を引くと青空か。〈あいている窓からカラスが続々と部屋のなかへと飛び込んでくる〉(175)、実は亜空間だったりする。
  橋の下を長い貨物船が過ぎて行く百年前にはなかった景色(95)
 「海峡」八首の一首。一連から場所は須磨浦山上遊園、その回転展望閣にある山上カフェであることが分かる。橋(明石海峡大橋)もなかった。東に目を転じるとポートアイランドも神戸空港もなかった。〈何年か何十年かの後に来てわれのまぼろしまた海を見よ〉(97)とは逆で、生まれる前のテリトリー、その頃の海に思いを馳せているのである。
  島の鼻に白い灯台が立っているあるいはあこがれか何かのように(96)
 「海峡」続き。島は淡路島、灯台は明治初期に建設された江崎灯台である。山上カフェから眺めているとすると〈さびしさの絶えるときには己れ無となるか静かに海に雨降る〉(97)とあり目視はどうだろう。おそらく高台にある灯台にも足を運んだことがあるのだろう(私は屋上展望台の望遠鏡を覗いた)。下句は灯台がもつ原初的イメージ、また江崎灯台固有の歴史に由来するのであろう。
  カーレーターの窓に傾く海がある僕はさびしさに追われてくだる(96)
 「海峡」続き。カーレーター、ロープウェーと乗り継いで下界に戻る。カーレーターはシェルターに覆われており、その窓が傾いているため奇妙な海が出現する。一人で登り、一人で下る。「さびしさ」とは何だろう。読後も、胸に居座る言葉であった。
  思うようにならぬが人生と思えてるていどの幸せおでんを食べる(120)
 「街場の人生」十一首の一首。街場は町場と同義で市井を意味するのであろう。年齢でいえば壮年の男が一人、場所は居酒屋がふさわしそうである。一首に題を付けるとすれば「述懐」、野心と現実の間に風が吹く。
  ひとり旅にさびしむ心のなつかしさ歩道から長き貨車を見ていて(139)
 「ザクロの実」十九首の一首。二三句は加齢の所以か。旅から遠ざかっている。もしかしたら今では一人で旅をすることもないのだろう。「長き貨車」から往時の「ひとり旅」が蘇る。「遠い日の道」(十七首)には多くの旅の歌を含むが〈予約したホテルを忘れかばん手に歩きまわった香港の町〉(196)があった。我武者羅であり、また若かった。
  いま異国のことば聞かれぬ池のはた鹿は乏しき芝草かじる(146)
 「奈良町かいわい」十四首の一首。舞台は猿沢の池、季節は冬か。コロナウィルスの感染拡大を受けて外国人の入国が一時停止されていた時期があった。「乏しき」に実感がある。逆に不気味な作品を挙げる。〈客いない店のどこかでにぎやかな声がしているコロナ禍の昼〉(161)。空耳であればよいが。
  わが輪廻の途上だろうか木の陰にムクドリ一羽うす汚れたる(159)
 初二句から亜空間でないことは分かるが、発想は異質である。「私」が椋鳥なのだ。しかも輪廻の途上とはいえ、居場所も姿形もみすぼらしい。寒々とした死生観を漂わす。但し同じ鳥を登場させても〈高みには繰り返し鳴く鳥のこえいのちの奥のほのあかりして〉(28)と、こちらは生気に満ちている。
  煙突に細い梯子がついていてのぼる者なし誰か登れよ(167)
 たとえば風呂屋の煙突の梯子であるが、人が登るのを見たことがない。見たい「誰か登れよ」とは野次馬根性である。見たい、見たい、同調者の群れが煙突を見上げていたら必ず見られたい人つまり登る人も出てくるのではないか。と、これは私の妄想である。
  石段に並んだ子らと妻がいてゆうばえのような幸せだったか(171)
 「古墳の村で」十四首の一首。〈わが家のななめ上にある神社から聞こえた初詣の村人の声〉(170)、また〈うすあかりともる社のしろじろとして狛犬の目のふと動く〉(『さようならやま』121)が思い出される。舞台となっているのは奈良市山陵町(みささぎちよう)、近鉄の平城駅下車すぐにある山陵八幡神社である。周囲に神功皇后陵、成務天皇陵、垂仁天皇皇后日葉酢媛命陵、称徳(孝謙)天皇陵などがある。『タタの星祭』を含めて多くのエピソードを生んだ地でもある。住んだのは十年、年齢にして四十代の前半から十年間ということになろう。「子ら」は小学生か。妻も若い。結句「か」は読者には不要であろう。「ゆうばえのような幸せ」を刻印して絶唱、美しい。
  金髪のランナー前からもどりきて白人である 遠い敗戦(222)
 辛うじてだが戦前の生まれだから「遠い敗戦」が出てきたのだろう。対する「白人」だが従軍したのは祖父か曾祖父であろうか。年齢によるずれがすれ違う遊歩道でもある。
  燃える火のような紅葉すべり台の上から子らが次々と消え(224)
 消えた子供はどこに行ったのか。亜空間かも知れない。しかし私はマジシャンでもある作者の手わざを垣間見る思いがした。つまり子供たちは滑り台の上から消えた。上から下に滑ったからいなくなったのである。
 歌集論をものするには非力の、これは私の『オルフェの亜空間』彷徨記である。

 浜田蝶二郎を読む(「短歌人」2021年9月号「今こそ勧めたい歌集」より) 

  浜田蝶二郎(一九二九~二〇〇二)は「醍醐」に拠った歌人である。歌集に『隙間の霊たち』『星のなかの顔』『眠りの天球』『見えぬ輪郭』『遭遇尽きず』『この世的なる』『からだまだ在る』『生存感情群』『わたし居なくなれ』、評論集に『短歌実作者周辺』と『時間にまつわる断章』がある。
 『時間にまつわる断章』には「僅々百年ほどの短歌の歴史に汲汲とし、短歌は生活を写すものという固定観念に金縛りになっている歌壇」とか「系譜を重んずる歌壇は、いずれも明治期の歌人の発想を、その源流としている。時間というものの捉え方も、ひどく古いものを引き継いでいるようだ」といった記述が私たちの常識を根底から揺さぶるのである。
  白鳥座のめぐり微光星ひしめき合ひ「宇宙は神様の夢に過ぎない」
 愛唱歌である。下句の出所は「あとがき」からヒンズー教に由来することが分かるが、それ以上の言及はない。したがって神様が目を覚ましたら、などという理を求める必要はないだろう。「過ぎない」とは「それ以上ではない」(日本国語大辞典)からである。宇宙という神秘とは比すべくもない地球の「私」を傍らに置けば、それでよいのである。そしてこれと二首一対のように思い出すのが、次の歌である。
  早世の姉の口ぐせ「わたしらの懸命の思ひは消えるわけがない」
 第六歌集の一首である。これを含む部のプロローグに「文学史が対象とする近代的自我などというものではなく、無意識のなかに隠れている〈わたし〉をもっとよく知りたい」とある。イメージとしてはシャガールの描く女性、但し姉は宇宙を漂っている、ないし宇宙から届く姉の声でもある。
  胸がおぼえてゐるなりおぶひてくれし日の今は亡き姉の肩の感触
 『眠りの天球』に戻る。この姉との年齢差が気になる。『見えぬ輪郭』所載の「略歴」から母とは四十歳差であることが分かる。姉の死去は一九五八年、蝶二郎三十九歳(『遭遇尽きず』の詞書に姉の三十三回忌が一九九〇年とある)。同時期の『隙間の霊たち』では〈あざやかに乙女さびたる姪が来てわれに物言へばわれは慌てる〉と詠う。姉の子であろう。これらから、仲の良い姉というよりも、母性に近い感情を抱いても不思議でない年齢差であったと思われるのだ。
  つばさめく夜の枝葉あり踏みしむるわが星地球いづく飛びゐる
 地球の「私」を歌う。傍流といっては、それまでだが考えさせられることが多い。ちなみに私が十代で読んだ短歌入門書に浜田の師、松岡貞総著があった。何かの縁であろうか。

 足摺岬の永井さん(短歌人2021年5月号「或る日の永井陽子」より)

 永井さんのエッセイに「足摺まで」(『モモタロウは泣かない』)がある。田宮虎彦の『足摺岬』を読んだのが十六歳、その十年後に訪れた灯台と水平線のゆるやかな弧が描かれている。私は永井さんと田宮虎彦との取り合わせが意外だった。むしろショックだった。
 「ふらふらと死場所にえらんだ足摺岬に辿りついていた」「数十丈の断崖の下に逆巻く怒濤が白い飛沫をあげてうちよせ、投身者の姿を二度と海面に見せぬという」「その時、私は二十三歳だった」、同小説に出てくる八十半ばの遍路は『落城』の生き残りでもある。
 記憶は曖昧だが、たぶん十二月の関西歌会その後の宴席だった。珍しく名古屋の永井さんも参加していた。二十代半ば、それ以上は出ていなかったと思う。私とは同年同月生まれ、しかし親しく話を交わすということはなかった。『草食獣』の出版記念会にも出席、発言してくれたが、基本的にハガキの人だった。その永井さんが、歌いながら、手を叩き、私たちの周囲をスキップしていくのを見上げていた。全身からオーラが発散していた。
  触れられて哀しむように鳴る音叉 風が明るいこの秋の野に
 永井さんが歌の妖精なら田宮虎彦は墨絵の人である。だが『モモタロウは泣かない』には私の知らない永井さんがいた。あのスキップする永井さんを改めて思ったことである。
 
 町野さんのこと(「短歌人」2020年9月号「『短歌人』の一首」より)
 
 仲麻呂と家持の自署それぞれの偏狭を見せガラスケースに               町野修三『ダンディスト』
 町野さんは一九四四年生まれ。根っからの「短歌人」の会員ではない。「覇王樹」から移ってこられた方である。一九九二年に『大伴家持論Ⅰ』を短歌新聞社から出している。学者でない。仕事を持ちながら四百三十余頁の専門書を出すエネルギーに息を呑んだ。そして図書館の可能性を教えてくれた人でもある。「Ⅱ」はいつ出るんですか、と尋ねる私に「Ⅰ」としておくと励みになるからね、そんな答えが返ってきた。『ダンディスト』は二〇〇二年八月にデジタルバブリッシングサービスというところから出している。十二月に亡くなっておられるようなので、遺歌集といってもいいだろう。
 さて仲麻呂は藤原仲麻呂、恵美押勝のことである。この前に〈凝りたる思想家として見ておれば仲麻呂の字の大いなる格〉がある。初句は「しこりたる」(ある行為や考えに熱中する)と読むのだろうか。『大伴家持論Ⅰ』の「あとがき」に「仲麻呂を悪玉と考えるところから、心優しい家持愛好家は、家持を仲麻呂から遠ざけておきたい。そして橘家に近づけておきたいという気持ちをもつのである。善玉・悪玉の二つに限定していては奈良麻呂事件における家持の信条は説けない」とある。橘奈良麻呂の乱(仲麻呂打倒未遂事件)では一族の主立った者が、このクーデターに与しているが、家持自身は参与しなかった。掲出歌の「偏狭」は文字を通して善悪で律することのできない生の選択をいっているのであろう。
  春やはる春爛漫の花粉症目もとうるませオッチャンも行く
  忙しいことが自慢でよく喋るこのオバチャンらには逆らわず居る
  音響関係の仕事と誇るオイヤンは粗大ゴミの日にアンプを狙う
 しかし歌集の大半を占めるのは、オッチャン、オバチャン、オイヤンなど身近な人物である。但しオイヤンは青テントの住人らしいが、作者の眼差しが温かい。住所を見ると阿倍野区美章園、天王寺も近い大阪のど真ん中が舞台なのだ。
 最後の方に〈抜ける毛のとめどあらねば緑なすスキーの帽子を被って眠る〉がある。また「あとがき」に「いまごろになって歌集を出す気になりました」ともある。歌会を御一緒させて頂く機会も少なかった。しかし私の短歌人生を振り返るとき、その足跡と共に、忘れがたい町野さんなのだ。

 あとがき(『軌跡~吉岡生夫短歌評論集~』2018.10.10)
 
 評論集としては平成四年(一九九二)に出した『草食獣への手紙』に次ぐ第二評論集ということになる。テーマは「和歌と狂歌の歴史的分裂関係を解消せよ」という天の声だった。最新の「仮名遣いと五句三十一音詩」(二〇一八年五月二十五日)によって、その探索行も出口ないしは新たな入口に差し掛かっている。タイトルの『軌跡~吉岡生夫短歌論集~』は、そんな予感を装画の印象に重ねたものである。初出はそのつどあげたが元号と西暦は統一していない。時間の物差しとしては、一方に決めがたいところがあり、ほぼ当初のままである。しかし内容は読み直す中で、適宜、手を入れた。とりわけ狂歌論において顕著である。
 次に三つの軌跡をあげて情報を補填したい。一つは、今に至る著作一覧である。二つは、人その出会いである。三つは軌跡これから、である。

     一 著作一覧

       一-一 歌集

 『草食獣』(短歌新聞社)、昭和五十四年(一九七九)、二十八歳。
 『続・草食獣』(短歌新聞社)、昭和五十八年(一九八三)、三十二歳。
 『勇怯篇 草食獣・そのⅢ』(短歌新聞社)、昭和六十三年(一九八八)、三十七歳。
 『草食獣 第四篇』(和泉書院)、平成四年(一九九二)、四十一歳。
 『草食獣 第五篇』(柊書房)、平成十年(一九九八)、四十七歳。
 『セレクション歌人31 吉岡生夫集』(邑書林)、平成十五年(二〇〇三)、五十二歳。
 『草食獣 第六篇』(青磁社)、平成十七年(二〇〇五年)、五十四歳。
 『草食獣 第七篇』(ブイツーソリューション)、平成二十二年(二〇一〇)、五十九歳。
 『番外歌集 イタダキマスゴチソウサマ一九九五年』(ブイツーソリューション)、平成三十年(二〇一八)、六十七歳。
 『草食獣 第八篇』(ブイツーソリューション)、平成三十年(二〇一八)、六十七歳。

       一-二 散文

 『草食獣への手紙』(和泉書院)、平成四年(一九九二)、四十一歳。
 『辞世の風景』(和泉書院)、平成十五年(二〇〇三)、五十二歳。
 『あっ、螢 歌と水辺の風景』(六花書林)、平成十八年(二〇〇六)、五十五歳。
 『狂歌逍遙 第一巻 狂歌大観を読む』(ブイツーソリューション)、平成二十二年(二〇一〇)、五十九歳。
 『ゆたかに生きる 現代語短歌ガイダンス』(ブイツーソリューション)、平成二十四年(二〇一二)、六十一歳。
 『狂歌逍遙 第二巻 近世上方狂歌叢書を読む』(ブイツーソリューション)、平成二十六年(二〇一四)、六十三歳。
 『王道をゆく ジュニアと五句三十一音詩の世界』(ブイツーソリューション)、平成二十六年(二〇一四)、六十三歳。

     二 人、出会い

 「短歌人」平成二十八年(二〇一六)年九月号に「インタビュー短歌人⑨」として私も取り上げてもらっている。格好の記事と思われるので、これに代えたい。

 --短歌人に入ったのは何年ですか。
 一九七〇年の暮です。半年早ければ十代二十代特集に十代で参加できたところでした。ちなみに永井陽子さんは一九五一年四月十一日生まれ、私は同年の四月八日生まれです。永井さんは一九六九年に入会しています。十代の人も多かったわけですが、オーラに包まれた永井さんの姿が印象に残っています。
 --短歌人を知ったいきさつは?
 「高校文芸」という月刊誌に広告が載っていました。「新しく美しい抒情をめざすグループ/短歌を勉強したい新人の参加をまちます/初心者に添削部あり」、高校一年のときです。見本誌を取り寄せましたが、そのままになりました。十九歳の後半になって思い出したのが、入会のきっかけです。
 --ほかの結社誌を取り寄せたりとかはしなかったのですか。
 しませんでした。主義主張のないところを無意識のうちに選択したのだと思います。モラトリアム人間でしたから。しかし一九八九年に短歌人会編『戦後の歌集』が出ます。その「あとがき」に「主宰者を実質的に否定するということは、特定の文学理念または指導方法を掲げないということであるから、短歌結社のあり方としてはそもそも変則的なものであるかもしれないが、同時にそこにこそ結社制度の難点と隘路を克服する今日的なひとつの有力な試行があったことをわれわれはうたがわない。批判、継承すべきは特定のエコールでなくいわば短歌の歴史の総体であり、直接的には戦後の歴史の総体である」とあります。これだったんだと思いました。
 --間違いなかったんだ、と
 そうです。ただ現在の私の立ち位置をいえば、直接的にも三十一文字の歴史の総体と向き合っているということになります。
 --二十代は何をしていましたか。
 二十歳のときに長勝昭さんという人の呼びかけで関西歌会が始まりました。ほどなくして今度は「十弦」という同人誌に誘ってもらいました。川田由布子さん、小池光さん、長谷川富市さん、平野久美子さん、藤原龍一郎さんといった十人のメンバーです。一九七五年から七九年にかけて一人一号の編集で十号まで出して解散しました。これに高瀬一誌さんの檄も加わって、入った当初からは予想もしなかった展開が待っていました。
 --歌集も出しています。
 はい。第三歌集まで高瀬さんのお世話になりました。一九七九年に短歌新聞社から出して翌年に大阪共済会館で出版記念会を開いています。金屏風を背にして高安国世さんの隣で体を固くしていました。岡部桂一郎さんや米田律子さん、和田周三さん、蒔田さくら子さんや小中英之さんにも出席して頂き、私には、これ以上ない華やかなものでした。
 --このときから「草食獣」ですね。
 歌集は家集ということで統一しています。歌集名には迷いましたが、小池さんの提案があって吹っ切れました。〈ガリヴァを絵本でよみし頃おもひ草食人種といを念へり〉に由来します。一九七一年四月に大阪府警本部で鑑識業務にあたっていた父親が死亡、公務死が認定されました。当時を振り返ると七十年安保に三島事件、成田闘争に浅間山荘事件などが思い出されます。そうした時代状況に警察官を父に持つモラトリアムな「私」を配置したのが第一歌集の世界でした。草食系という造語が登場するのが二〇〇六年だそうですから、いち早く、その匂いを嗅ぎ取っていた、嗅ぎ取られたということになります。
 --狂歌への関心は何時からですか?
 四十一歳のときに出した第四歌集に織田正吉氏より帯文を頂きました。前後を省略しますが、それは「敷島のやまとの国びとは、和歌・狂歌の歴史的分裂関係を今に引きずり、短歌から笑いの排除をつづける」云々というものです。これを私は「和歌と狂歌の歴史的分裂関係を解消せよ」と聞いたのです。ただ思いもしなかったことですし、アプローチの仕方も分かりませんでした。しかも一九九五年に脳内出血で倒れるというアクシデントに見舞われました。それが一月十四日で、三日後の阪神淡路大震災は記憶にありません。
 --大きな転機ですね。
 半年後に職場復帰しましたが、思い立って通信教育で図書館司書の資格を取りました。職場で生かすことはできませんでしたが、一九九九年から二〇〇一年にかけて、一次資料と写真でたどる辞世の風景をコンセプトにした「栄根通信」を発行しました。一回で十人、十回で百人、このうち江戸時代が三十七人を占めています。山中源左衛門の〈わんざくれふんばるべいかけふばかりあすはからすがかつかじるべい〉ほか近代語との出会いが待っていました。これを二〇〇三年二月に『辞世の風景』として刊行、また家族の同意を得て三月末日に職場を早期退職しました。
 --いよいよ狂歌ですか。
 その前にカルチャーに売り込みました。そうしたら十数カ所からOKが来ました。しかし人が集まらず開講したのは数カ所どまりです。それも本体が閉鎖になったりしました。逆に「捨てる神あれば」で先輩歌人の紹介があったりして、こういう業界なんだと奇妙に感心したものです。結局、カルチャーからは身を退いて、書斎生活に転じました。
 --で、アプローチの仕方を見付けた?
 「白珠」の安田純生さんがおられたこと、これがすべてでした。同じ阪急沿線なので、機会あるごとに京都市内や大阪市内から石橋駅までついて回りました。そうして質問を繰り返し、それとなくアイデアをぶつけたりもしました。師事というのか、兄事というのか、おかげで今があるという感じです。
 --では狂歌とは何でしょう。あるいはその現代的意義について話して下さい。
 私が対象としているのは五句三十一音詩としての狂歌です。戯作文学を出自とする天明狂歌ではありません。また日本語の歴史でいえば万葉集も古今和歌集も同じ古代語で詠われています。言文が二途に分かれた近世にあっても和歌は古代語です。これに対して狂歌は、談林俳諧と時を同じくしてですが、近代語を登場させます。これを雅俗折衷と評したのは浜田義一郎ですが、雅俗折衷とは国策として言文一致が進められる明治の文芸用語ですから背景が違います。さらに近代短歌はその名に反して、近代語を退場させて古代語を復権させます。歴史は一筋縄では行かないものですが、いずれ原点回帰するほかないでしょう。そのとき狂歌は現代語短歌への架橋としてライトアップされていると思います。
 --いま興味を持っているのは何ですか。
 『一本亭追福狂歌集』の翻刻です。浅草寺に自画賛の絵馬を奉納して笑いものになったと大田南畝が伝える芙蓉花です。しかし多くの江戸の人が追悼歌を寄せ、『扶桑名画伝』に「尤モ美玉ノ詠、人口ニ膾炙ス、自画賛有リ、多クハ、美玉ノ詠ナリ」とされ、浅草の名主でもあった千種庵諸持は別号を芙蓉花と称したそうです。歴史は多面体です。一本亭芙蓉花を見直すことによって、狂歌史が変わり、五句三十一音詩史も変わるでしょう。
 --では短歌人に捧げる一首をどうぞ。
 〈人かつぐ御輿(みこし)ではないだからこそここにこうして短歌人わっしょい〉

     三 軌跡、これから

 どこまで行けるか分からない。どこまで行っても終わることはない。その意味では、道半ばを覚悟の仕事録ということになるが、あげていくと次のとおりである。

       三-一 一本亭芙蓉花の仕事

 一本亭芙蓉花には翻刻されていない『狂歌拾遺家土産』(一七五八年)・『狂歌東乃春』(一七八二年)・『一本亭追福狂歌集』(一七八三年)の三冊がある。これに継続して挑戦する。また明治三十四年に出版された『貞柳翁狂歌全集類題』(国立国会図書館デジタルコレクション)と昭和四年に出た同本(日本名著全集刊行会)並びに『狂歌大観』等に載る作品を校合して貞柳の全体像を把握する。資料としては、このほか「一本亭芙蓉花年表」「芙蓉花と主要歌人の作品集」「狂歌史年表」等を付して一冊としたい。

       三-二 『狂歌逍遙』の完成

 第一巻「狂歌大観を読む」、第二巻「近世上方狂歌叢書を読む」に続く第三巻「江戸狂歌本選集を読む」を完成させたい。気になっているのは『夢庵戯哥集』『今日歌集』『我おもしろ』であるが、これ以外にも新たな発見があるかも知れない。また内容を含めてミスの目立つ第一巻を中心に修正、いつか決定版を出すことが出来れば、という願いを持っている。

       三-三 『夫木和歌抄の森を歩く』の完成

 ブログに連載している『夫木和歌抄の森を歩く』は本稿執筆時点で進捗率は三十四・五%、取り上げた歌は約三五〇首前後だろう。作品総数一七三八七首だから、これから推して一〇〇〇首程度、ささやかな一冊だが異色の類題和歌集に光を当てたいと思っている。

 さて「和歌と狂歌の歴史的分裂関係を解消せよ」という天の声に始まる長い旅を終えるにあたって、はっきりと見えてきたことがあった。とりわけ最後の「仮名遣いと五句三十一音詩」を書きながら、気がついたことである。それは何か│。
 私は近代短歌を相対化する試みに賭けてきたのである。
 その実相、五句三十一音詩史に日本語史を重ねるという視点に、少しでも関心を持って頂けるならば、これ以上の幸いはない。 



   平成三十年八月七日 立秋の日             兔月庵にて 吉岡生夫

 狂歌と歌謡~覚書~(2017年12月8日)
 
  山の手に宿はありつつ祝日のやつ子のこのこの五色餅かな        黒田月洞軒

 『大団』(『狂歌大観』第1巻)所収。かつて、

  一首目は元禄元年の歌。題は「賀」、加えて「月洞女ノ十九歳」。初二句は「山の手に妻は  ありつつ」と読める。「やつ子」は遊女、四句「やつ子のこの子の」に連体詞の「この」  を効かせて結句の「五」に繋げた。題の「女」は愛人の意と解した。

と鑑賞した(『狂歌逍遙・第一巻』)が、その消化不良が気になっていた。『大団』は解題によると元禄元年からの作を収録するという。元禄二年は二首、それ以前は年号の記載がないが十九首、元禄元年は貞享五(一六八八)年九月三十日からであるので、この偏りが気にならないでもない。没年は享保九年(一七二四)で六十四歳、逆算すると二十八歳の作である。
 その後、三句の「やつ子」の用例を見出したので覚書とすることにした。「丹前枕物狂(たんぜんまくらものぐるひ)」(『女里弥寿豊年藏(めりやすほうねんぐら)』、高野辰之編『日本歌謡集成 巻九 近世編』)に見ることができる。 まず「女里弥寿豊年藏」とは何か。その解説を見てみよう。

   江戸長唄は享保年中より宝暦年中にかけて次第に大成せられたものであって、めりやすと称する短篇ものは宝暦より明和安永年中、富士田吉次(楓江)の全盛時代に於て世に迎へられたものであつた。随つて其の集も宝暦に入つて起り、同七年正月江戸浅草観音地内の書肆伊勢屋吉十郎の刊行した女里弥寿豊年藏(めりやすほうねんぐら)を以て最も古い物とする。
   題して女里弥寿豊年藏とはいへど、所載の全部はめりやすではなく、巻首の三番三・道成寺・石橋(しやくけう)・春駒・羽衣及び丹前物の十幾篇は普通の長唄であつて、呼んでめりやすといふ部類には入れないものである。つまりめりやすの盛行期に版行したの**書名にはかう題しても、其の首部には江戸長唄の名作や代表作を置いたのに他ならぬのである。

 後半の「**」は不鮮明で読めない部分であるが「で、」が思われる。また享保であっても時代が合わないが、江戸長唄は元禄年間には成立していたということであるから、掲出歌と必ずしも矛盾するものではない。次に少し長いが「丹前枕物狂」の全編を引く。

  三下り〽枕も聞けよ夜こそ寝られね、一人寝る夜の長枕、捨てても置かれず、取れば幻に見ゆるは因果な事ぢゃえ謡〽かかる姿は恥しの漏りてや他所(よそ)の知られなん。恨めしや悲しやと袂を顔に押當(おしあて)て、包めど急来(せきく)る我が心、底に涙の露時雨花の東(あづま)へ帰り咲(ざき)二上り〽花の顔見世早咲の梅の顔(かほばせ)、しんぞよいこのよいこの顔(かほばせ)、花の姿も錦に飾る、色の姿の後帯しやんと小褄をとりどりに合気違ひよほうさいよほうさいよと笑をとままよ、大事の大事の殿御へ、縫ふてふ小袖の長羽織出立栄(でたちゆえ)よき大小も、さすが都の風俗に靡かぬ恋の徒(あだ)し野の、露の情もあるならば、嬉しかろ嬉しかろぞいな合私(わし)にばかりは思はせて、思はぬ君が憎らしや、憎い程尚思ぞ増鏡、曇勝ちなる時雨時、合振出(ふりだ)せ振出せやつこのやつこの玄関前宿(しゆく)入り下馬(げば)先合点(がてん)ぢや合点ぢや振込め振込めよいやさ、花も吉野の川千鳥、心いそいそ磯千鳥、裾は群(むら)千鳥を金糸で縫はせ、伊達(だて)な浦千鳥恋と情(なさけ)をちん鳥掛(どりがけ)に、かけて 廻逢(めぐりあ)はう廻逢はう首尾のなる夜は淡島(あわしま)千鳥、鳥は物かは別れ朝千鳥合恋は様々(さまざま)逢ふ恋待つ恋忍ぶ恋、てもさうぢやいな合様を待つ夜は一人(ひとり)恨の鶯算合オンド過ぎし月見の十六夜(いざよひ)は、お前と私(わたし)が口説(くぜつ)した事思出す、仲を結びし酒事(ささごと)も、その新(にひ)枕思出す、縁のあるのが誠なれ。

 こんな感じである。で、分かったことは「やっこ」ではなく「やっこの」なのだ。これで検索すると「〔感動〕俗謡などの囃子詞(はやしことば)。」(『日本国語大辞典』)がヒットする。次に結句の「五色餅」だが、前回は満足できる回答が得られなかった。そこで「五色の餅」をジャパンナレッジで全文検索してみた。すると「子戴餠(こいただきのもち)」が出てきた。『日本国語大辞典』に「産神(うぶがみ)に供え、七夜に祝う五色のもち。上に鶴などを作って飾り、下には松葉か笹を敷き、折(おり)などに盛り入れる。」とある。これで三句の「祝日」とも題の「賀」とも矛盾なく一致する。「月洞女」の「女」は「妾」、その女性が出産して七夜の祝いの五色餅なのだ。

 口語歌、口語短歌とは近代の用語。今は現代語短歌なのだ(2017.6.23)
 
 私たち歌人は二つの文法を知っている。一つは古典文法であり、もう一つは現代文法である。古典文法にのっとって作られるのが古典語短歌であり、現代文法にのっとって作られるのが現代語短歌である。これが歌人・吉岡生夫の見立てであるが、如何せん、歌の世界では市民権を得るに至っていない。その気配もない。
 彼らにとって、古典文法とは文語文法であり、古典語短歌とは文語体短歌(文語短歌)のことなのだ。これを受けて現代文法とは口語文法となり、現代語短歌とは口語歌(口語短歌)となる。なるほど「ジャパンナレッジ Personal」で「すべてのコンテンツ」、見出し「文法」、後方一致で検索すると89件がヒットする。そこに「文語文法」と「口語文法」は見いだせるが、「古典文法」も「現代文法」も登場しない。その意味では「文語体短歌(文語短歌)」も「口語歌(口語短歌)」も理にかなっている。ただし、その「理」が正しく現代を反映しているかどうかは、もちろん別問題である。ちなみに『現代短歌大事典』(三省堂)を開くと「口語短歌」は載っている。「口語歌」はないが、「口語歌運動」が載っている。一方で「文語体短歌」「文語短歌」は載っていない。アプリオリな存在らしい。いずれにしても「ジャパンナレッジ Personal」の各辞書(事典)も『現代短歌大事典』も、この点に関しては見直す必要があるだろう。

 ほかでもない。野村剛史著『日本語スタンダードの歴史 ミヤコ言葉から言文一致まで』(岩波書店)の第Ⅱ部「スタンダードから言文一致体へ」第1章「明治初年の口語体」を読みながら、その確信を強くしたのであった。
 私たち歌人は、まだ言文二途の時代を脱していないのだ。
 以下、*の註また赤字と太字の処理は吉岡である。

【204頁~205頁】
 この時期の言文一致論に付随する問題として、「話し言葉」と「書き言葉」に関する概念上の混乱がある。「はじめに」で示したように、「話し言葉」と「書き言葉」については、
  話し言葉(*現代文法)
      ┌口語体(*現代文法)   
  書き言葉┤
      └文語体(*古典文法)
という、非常に単純な構造が存在するのだが、主要な「書き言葉」が「文語体」であったこの時代には、しばしば無造作に、「書き言葉」と「文語体」が一つのものとして、「話し言葉」と「口語体」が一つのものとしてイメージされてしまう。少なくとも、「口語体・文語体」という文体の相違は、「書き言葉」内部の分化に過ぎないことに自覚的ではないのである。
 「言文一致」とは、その本来の目的を考えると、「書き言葉口語体」を創出することである。ところが、「言文一致」という用語で、「書き言葉口語体の創出」を意味することは、困難である。けれども、実際に大抵の言文一致論者が行おうとしていることは、「文語体」であった。「文」(書き言葉)の文法を、「話し言葉」の文法を基盤にした「書き言葉口語体」に置き換えようとすることであった。実際、「言」が話し言葉を意味し、「文」が書き言葉を意味するのであったら、それらを「一致」させることは不可能であるが、そのような用語上の弱さ・矛盾を「言文一致」は抱え込んでいた。だから「言文一致」という用語に対しては、いくらでも揚げ足取りが可能である。しかし、理屈の面では不十分だったかもしれないが、明治期に「言文一致」は立派に成功を収めた。実際には、古典文法ではなく話し言葉の文法に従った書き言葉、すなわち書き言葉口語体の創出に成功したのだ。もっとも忘却されてはきたが、「書き言葉口語体」はもともと、開化啓蒙体や小新聞談話体として、半分くらいは自然発生的にでき上がっていたわけである。

【207頁~208頁】
 辰巳小次郎は(略)「話し言葉=口語体」と考えており、言文一致論者もまた「話し言葉=口語体」と述べてきていたので、二つの見当はずれが一致すれば、矢は的を射ぬいてしまうのである。
 ちなみに、翻訳家として著名な森田思軒もまた(略)、「話すとおりに書くことはできない。だから言文一致体は不可能だ、現に西洋でも話すとおりには書いていない」という趣旨で議論を組み立てている。しかし、確かに欧米の文章は「言文一致体」なのであるから(文語体ではないのであるから)、そこから出発すれば議論は逆に「書き言葉」と「話し言葉」の差異にたどり着くはずであるが、「話し言葉=口語体」(*現代語)「書き言葉=文語体」(*古典語)という連結は、それほどまでに強固なのであった。

【209頁~210頁】
 四迷は、言文一致不可能論に対して次のように述べている。

   (略)、欧米諸国に二つの文法なし、言語も文章も皆同一の文法を奉するもの也、(略)。

 「言語も文章も皆同一の文法を奉ずるもの」が「言文一致」なのであって、「平生の談話」は「整斉を欠く」ことがあるが、「文章を綴る時には」「極めて整斉」なのは、当たり前のことだと考えている。「話すとおりに書く」ことを反対根拠にして行う言文一致体批判は、美妙・二葉亭には通用しない。

 以上。
 長々と引用したのは、ほかでもない。歌壇における用語である「文語(文語体)」と「口語(口語体)」ないし「文語体短歌(文語短歌)」と「口語歌(口語短歌)」を連想せざるを得なかったからである。強烈といってもよい、この連結から私たちは解放されていない。
 現状は、

    ┌話し言葉、口語(口語歌・口語短歌)  ─口語文法   
  短歌┤                     
    └書き言葉、文語(文語体短歌・文語短歌)─文語文法

だろう。しかし時代は言文一致後の現代である。したがって、

       ┌話し言葉、口語┐   
  古典語短歌┤       ├古典文法
       └書き言葉、文語┘

       ┌話し言葉、口語┐   
  現代語短歌┤       ├現代文法
       └書き言葉、文語┘

とならなければならない。
 口語歌ではない。口語短歌ではない。現代語短歌なのだ。同じように文語体短歌ではない。文語短歌でもない。古典語短歌なのだ。古典文法と現代文法という異なる文法によって文体も二つに分かれるのだから当然といえば当然の話である。いわゆる混合体などという奇妙な文体が流行るのも、こんなところに一因があるのかも知れない。もっとも古い詩型に携わる歌人の日本語が最も怪しいのである。
 歌の批評といえば、その内容が俎上にのぼるのが通例である。もちろん、そのことに異存があるわけではない。それはそのとおりなのだが、その前に、ほんの少しでもよいから、ツールとしての日本語について考えを及ぼしたい。そんな機会になることを願わざるを得ないのである。

 歴史的仮名遣いと近代短歌(2017.6.7)
 
 野村剛史の『話し言葉の日本史』(吉川弘文館)を読む。目次「古代の日本語」の「音韻の変化」中「歴史的仮名遣い」の記述に「今日の『歴史的仮名遣い』は『復古仮名遣い』とも言われたくらいであって、所詮は恣意的な時代設定に基づく人工的なものである」「要するに、明治期以来の『旧仮名遣い』は、確かに歴史的仮名遣いの一種には違いないが。『いろは歌』に基づいた『いろは仮名遣い』と考えるのが適切である」とある。では「いろは仮名遣い」のほかに、どのような仮名遣いが想定されるかといえば「あめつち仮名遣い」「上代仮名遣い」また「四つ仮名遣い」があってもよかったことになる。歴史的仮名遣いも相対化されて然るべきものなのだ。このことは『日本語の歴史7』(平凡社ライブラリー)の「明治にひろめられた歴史的仮名づかいの基礎をさだめたのは、かの契沖だった」(208頁)「歴史的仮名づかいというものは、その基準とあおぐべき時代をどこにえらぶかで、これまた一様ではあり得ないという観点から、世俗にいうところの歴史的仮名づかいを、じつは〈契沖仮名づかい〉だとし、この名でそれをよんでいる(念のためにくどく説明するならば、契沖仮名づかいは歴史的仮名づかいであるとして、しかし、その逆は、真ではないのである。〈歴史的仮名づかい〉には、契沖仮名づかいとはまったくちがったものがあっても、理論的には、いっこうにさしつかえないわけなのである)」(208~209頁)を思い出させてくれる。また同書の「〈歴史的仮名づかい〉が真に上からの権威のもとに厳格な意味で行われた時代を、もし明治四十年から、戦後の〈現代仮名づかい〉へのきりかえまでとかぎれば、じつは、それは、半世紀にもみたない短いいのちしかもっていないのであるが、それにしても、すでに、そのかぎりでも、現代の文化に根をおろしてはきたし、したがって、それなりの、いわば実績をもっていたといいえよう」(229頁)と「歴史的仮名づかいの生命はみじかかった」(小見出し)ことを述べている。
 これに近代短歌の生命を重ねてみよう。近代短歌の始点を「明星」創刊の1900(明治33)年、終点を1945(昭和20)年の敗戦として、せいぜい45年、歴史的仮名づかいに負けず劣らずの短さだったのである。日本語と五句三十一音詩の長い歴史に鑑みて、あまりにも絶対視しすぎてはいないか。現代短歌72年の歴史の上に立って、いまだア・プリオリなものとして君臨する近代短歌を、その入り口からして相対化してみることが必要なのではないか。
 様式の未来のためにも。

 拝啓 坂野信彦 様(「短歌人」平成29年6月号)
 
貴人変人奇人えらばず史におけば発光体のさかののぶひこ

 幽冥界に赴かれたという噂を耳にしました。歌集では『銀河系』が最高でしょう。論集『深層短歌宣言』『七五調の謎をとく-日本語リズム原論』『古代和歌にみる字余りの原理』は勉強させて頂きました。短歌四拍子論を別宮貞徳に始まるという誤解は今もって多数派なのでしょう。さかのまこと名義の詩集『ひらかなうた』も買いました。しかし『奇跡は、ある。-「超常現象」論争に決着をつける』は敬遠しました。歌集『まほら』が思い出されます。棺を覆いて事定まる。それにしても軌道を外れたことが惜しまれます。合掌。

 永井陽子の一首(「短歌人」平成29年4月号)
 
掌を撲てば闇にこぼるるほたる火のそれよりのちを人の妻なる                       『なよたけ拾遺』

 第二歌集『なよたけ拾遺』(一九七八年)の「耳よ、白衣を着て歩け」十一首の中の一首である。ほかに次のような歌がある。

  野を恋へば野色に染まる掌も足もこよひ無数のほたるをまとひ
  傷口をつとあかるませふるさとの無数のほたる千の掌が撲つ

 但し、一九九一年に出た『なよたけ抄 現代短歌セレクション』が収録するのは三首の中では「傷口を」の一首だけである。
 「妻」という言葉が登場するのは、たぶん、この一首しかない。ところが下句の解釈が私の中で安定しない。その一。「私」には心の中に決めていた人があった。この集落の向こう側、しかしその思いは叶えられることがない。二人で約束していた「君の妻」ではなく、ここを出ていくことのできない「人の妻」となる選択肢しかなかった。その二。「私」は森の中に棲む鳥獣もしくは精霊である。ある祭りの夜、ひょんなことから「人の妻」となった。いわゆる異類婚姻譚であるが、参照歌の二首目などは、こちらに近い気もする。いずれにしても民話的世界で、両者がせめぎ合いながら今日に至っている。
 「妻」との関連で思い出すのが、次の歌である。口づけ、接吻、言い方を変えても、登場するのは、たぶん、この一首だけだろう。

  どしやぶりの傘の宇宙はかぎろひてほたるのやうな唇(くち)を重ねし

 『樟の木のうた』 第三歌集(一九八三年)の〈汝は冬われはほそほそ山羊鳴ける水惑星の春に生まれし〉を含む「竹刀」十五首の一首である。星占いなら「汝」は山羊座、「われ」は牡羊坐だろう。「水惑星」(地球)が美しい。冬に生まれた「汝」が「ほそほそ山羊鳴ける」春とは、二人の学年差であり、また恋の始まりでもあったろう。こんな歌が続く。

  剣道着解かず寄り来て髪に触れ汗のにほひを移してゆきぬ
  たはむれにかぶせくれたる面頬の汗くさき闇もあたたかかりき

 さて、この距離感はどうだろう。 「妻」の歌より生身に近いところがあるのではないか。しかし、そんな俗人的観察をしたたかに打つ言葉が残されている。『モモタロウは泣かない』である。

  (略)。作品の内にすぐ作者そのものの姿を求めてしまう創作や 鑑賞の方法は、或る意味で近代短歌を一歩も踏み出していないので はないか。いや、長い目で見るならば、自我と密着せざるを得なかった近代短歌の方が、和歌史の中ではむしろ特殊な部類ではないだ ろうか。もともと近代現代のみを切り離すのではなく、和歌史とい うひとつの大きな流れにこころひかれて短歌を始めた私は、そのこ ろ、分の悪さをひとまず棚上げにして、うんととおい時代の作歌の 方法や過程をとらえ直してみたいと思うようになっていた。

 この「はるか遠い時代からの声」(一九九三年)は『なよたけ拾遺』の頃を回想したものだが、「竹刀」一連も例外ではなかっただろう。いや生涯を通じたスタンスであったに違いない。でなければ『モーツァルトの電話帳』(一九九三年)などの発想も生まれまい。そしてまたそんな「声」に耳を傾けた「瀬戸市城屋敷町」にも連想は及ぶ。歌人・永井陽子の読者にとっては、永遠の歌枕の地として。

 近世の狂歌~ターミナルとしての鯛屋貞柳~(大阪歌人クラブ会報第121号)    *春の大会(2016.4.2 エルおおさか)の講演録
 
     一、アウトライン

 狂歌の資料としては古い順から『狂歌大観』『近世上方狂歌叢書』『江戸狂歌本選集』と続きます。最後に出てくる『江戸狂歌本選集』は江戸時代の「狂歌本選集」ではなく、江戸の「狂歌本選集」です。キーワードは江戸、出自は戯作文学です。その煽りを食って矮小化されましたが、五句三十一音詩を出自とする狂歌が「上方狂歌」ということになります。したがって位置づけとしては「続狂歌大観」、「上方」は不要の、近世の狂歌にほかありません。
 三十一文字の歴史を振り返れば万葉集の長歌に対する短歌、古今和歌集の漢詩に対する和歌、近世の和歌に対する狂歌という構図が見えます。換言すれば五句三十一音の定型詩は名称を変えながら時代の波を潜り抜けてきた。そこには先行する五句三十一音詩の衰退と、それを受けた復活劇があったということです。
 このような五句三十一音詩史に日本語の歴史を重ねてみると万葉集の日本語も、古今和歌集の日本語も同じ古代語です。違いは固有の文字を持たなかった万葉集は口語歌で、平仮名を手にした古今和歌集は言文一致歌という点でした。
 言文が二途に開かれるのは中世語の時代です。
 そして近世は近代語の時代です。俳諧にも、狂歌にも近代語が登場します。俗語とは近代語の賤称なのです。俳諧では西山宗因を祖とする談林俳諧、また狂歌では鯛屋貞柳の師である豊蔵坊信海や半井卜養(なからいぼくよう)、彼らの登場を準備した生白堂行風がいます。この動きは鯛屋貞柳のところで集結し、次の世代へ拡散します。これが近世の狂歌です。近代に入って短歌は古代語を復権させますが、それでも現代における「口語化」の流れは誰も止めることはできません。歌の原点に立ち帰るならば自然の理というべきです。

     二、天明狂歌

 朱楽菅江は『狂歌大体』(一七八七年)で「近来、鯛屋貞柳(油煙斉)・半井卜養などいへるやから時々流行の詞をもて蒙昧の耳目を驚かせり。あらぬ風情を求めて、歌のさまに関はらず、軽口などいう類にて座客におもねり、笑ひを求む。然るを当世の児女これを狂歌のさまと心得、まことの狂歌を知らず。浅ましくなん侍る」と述べています。菅江は一七三八年生まれ、卜養は一六七八年没、貞柳は一七三四年没、執筆時点からすれば百九年前及び五十三年前に亡くなっています。こうした人たちを「近来」と呼んで「当世の児女」の前に連れてくる感覚には度を越したものがあります。ハッタリではない、トリックスターです。
 太田南畝は『四方の巴流』(一七九五年)で「銀葉夷歌の頃より底金の響きも移ろひたるに、言因とかや言ひし痴れ者いかなる由縁の侍りしや、雲の上まですみのぼる烟の名を立てしより、その流れを汲み、その泥(ひじりこ)をあぐる輩(ともがら)・京わらんべの興歌などいへるあられもなき名を作りて、はてはては何の玉とかいへる光なき言の葉も出できにけり」と述べています。「銀葉夷歌」は生白堂行風の編著『銀葉夷歌集』(一六七九年)のこと、「底金」は雪駄の踵の革が減るのを防ぐために打ちつけた金、「言因」は悪意なくしては出てこないでしょう、貞柳の実名です。次の「由縁」は南都古梅園の大墨が御所に献上されたときの作〈月ならで雲のうへまですみのぼるこれはいかなるゆゑんなるらん〉が評判となり、以後「由縁斎」と改名したことをいっています。「何の玉」は一本亭芙蓉花の作〈みがいたらみがいただけにひかるなり性根だまでもなにの玉でも〉を差します。浅草寺に絵馬として奉納したら落書されたことで有名ですが、文学的事件にした黒幕は南畝だったでしょう。

  金玉はみがいてみてもひかりなしまして屁玉は手にもとられず       太田南畝

 この落首は山崎美成(やまざきよししげ)(一七九六~一八五六)の手写本『俗耳鼓吹(ぞくじこすい)』の欄外に「多稼翁当時(ソノカミ)の落首。金玉はみがいてみてもひかりなしまして屁玉は手にもとられず」とあるそうです。「多稼翁」の「多稼」は『詩経雅頌(しきょうがしょう)1』(東洋文庫)の「大田」という詩から来ています。

  大田多稼   広い田には みのりゆたか
  既種既戒   すでに種えらび とりそろへ
  既備之事   植付けの準備ととのふ
  以我覃耜   わがするどき耜(すき)もて
  俶載南畝   南畝にことはじめ
  播厥百穀   その百穀を播け
  既庭且碩   すでに直く 生ひ延び
  曾孫是若   我が殿もよしとしたまふ

 四章から出来ていますが、最初の章です。四句目の「覃」は南畝の本名、一句目と五句目を合わせれば「多稼翁」すなわち南畝ということが分かる仕組みです。
 芙蓉花は一七八三年の一月に江戸で亡くなりますが、七月に出た『狂歌師細見』で「性根玉や黒右衛門」とされています。とてもではないけれども真っ当な文学集団とは思えません。そして両者を分かつのが、この狂歌師という名称です。芙蓉花が建立した貞柳の追善碑には「嗜俳歌」とあります。南畝と同世代の仙果亭嘉栗も『狂歌貞柳伝』で「翁のありし世狂歌に聞えありける」なのです。貞柳はもちろん信海も卜養も行風も、次に登場する黒田月洞軒も同様です。狂歌師ではありません。独立した名称を持たなかったのは和歌と根は同じだという意識があったからでしょう。
 確認できる限りですが、狂歌師の初見は太田南畝、天明狂歌に始まります。
 さて罵詈雑言の効果があって歴史も歪められます。一八三〇年成立の『嬉遊笑覧』の著者・喜多村信節(きたむらのぶよ)には「専ら好みてよめるは、建仁寺長老、八幡山信海((やわたやましんかい))、生白庵行風、江戸に徳元、卜養、未得、就中聞えたり、其後、しばらく廃れたりしが、安永ごろ又流行出て、漢江、赤良、橘洲、木網等を始めとして、其徒あまた出来ぬ」と映ります。この「しばらく廃れたりし」狂歌こそが本命なのです。

     三、近代語

 繰り返しますが俗語とは近代語の賤称です。立派な近世の日本語なのです。対する雅語とは古代語、優劣や上下の価値観で計られるものではありません。

  木の下陰ふらせたい雨夕涼                       西山宗因

 貞柳の父貞因も叔父の貞富も俳人でした。貞柳も西鶴撰『生玉万句(いくたままんく)』(一六七五年)や宗円編『阿蘭陀丸二番船(おらんだまるにばんせん)』(一六八〇年)に入集しています。

  俳諧に謡のことばのこりしも早五十年邯鄲の夢              鯛屋貞柳

 宗因の五十回忌は一七三一年、貞柳は七十七歳ですが、敬愛の念は少しも変わらなかったようです。

  春たつた霞もたつた松たつたこれぞさんたのいぬの年かな         半井卜養

 四句「三太」は犬にさせる芸のちんちんです。卜養は松永貞徳の弟子ですが、奴俳諧(「浮世歌仙俳諧独吟」)を残すなど、狂歌以前から時代の言葉への強い関心を示していました。

  あふてさてこよひ更るをしらなんだたぶるうどむの話しすぎて      豊蔵坊信海

 詞書に「饂飩ふるまふ人の当世の小歌によせてよめと云ひければ」とあります。小歌名は分かりません。狂歌と歌謡は密接不可分の関係にありますが、なぜなのか、一つには方言分化が最も顕著だった近世において、その垣根をやすやすと越えていく、そこに魅力があったのでしょう。

  あさ夕はどこやら風もひやひやとお月さま見て秋をしりました      黒田月洞軒
  玉のやうな月はむさしに有るものをたのまでくらき雲の洞かな

 月洞軒は千二百二十石の旗本です。貞柳より年下ですが、一番弟子だったのでしょう。また実力もあったので、信海の死後、貞柳は月洞軒の弟子になって雲洞を名のります。しかし信海の遺歌集を企画して月洞軒の怒りを買います。二首目が、そのときの歌です。

     四、貞柳の功績

 近世の狂歌史においてターミナルとなった貞柳の、以下はその具体相です。
 一七二一年に貞柳は『狂歌五十人一首』を出しています。信海、卜養そして月洞軒も忘れていません。しかし肝心の貞柳が抜けています。一六七九年に出た愛香軒睋鼻子の『古今狂歌仙』では、すでに三十六歌仙の一人でした。それに対して月洞軒の名が登場するのは貞柳の『狂歌五十人一首』が最初です。おそらく信海の遺歌集の件、また雲洞を名のったこともある貞柳としては憚るところがあったのでしょう。微妙なバランスが思われます。
 黒田月洞軒は信海の遺歌集はもちろん自身の狂歌集も公にすることなく一七二四年に亡くなります。貞柳の狂歌集『家づと』が一七二九年、七十五歳と遅いのも、やはり月洞軒が影響していることでしょう。同年刊行の『続家づと』では近代語の時代としては信海と卜養を二仙、また信海の歌論「箔の小袖に縄帯したる姿によみ出る外に別の習ひ候はず」を前面に押し出します。そして今度ばかりは月洞軒とともに自身の名も狂歌六歌仙に加えています。
 続いて信海の遺歌集の刊行を企てますが実現せず、名古屋の秋園斎米都に後事を託して亡くなります。米都は二度試みますが責めを果たすことができず、くだんの『狂歌鳩の杖集』は子の青簟舎都真によって一七八七年に刊行されます。信海の百回忌にあたる年です。
 なお栗柯亭木端は貞柳の言葉として「紙子に錦の裏」を伝えています。これは宗因の「紙子に錦の襟」を思わせます。この「錦の襟(裏)」また信海の「箔の小袖」は古代語また伝統文学のことでしょう。対する「紙子」また「縄帯」は近代語また現実性といっていいでしょう。浜田義一郎がいうような「雅俗折衷」は国策で言文一致が進められている明治の文芸用語です。言葉を取り巻く環境が真逆の中で近代語を登場させたのですから革新的かつ斬新なことはいうまでもありません。
 作品だけなら、黒田月洞軒ほか、取り上げたい狂歌人は多士済々です。彼らと貞柳を分かつものは何か。その功績の根源を求めるならば、自身の恵まれた文学的環境から来るところもあったでしょうが、史への志(こころざし)、それが貞柳をしてセンターたらしめたと思われます。

     五、貞柳以後

 西島孜哉(にしじまあつや)の「上方狂歌系統略図」(『近世上方狂歌の研究』)を見ると、貞柳というターミナルからは十一人の狂歌人が出ています。それぞれに一派を形成します。たとえば栗派すなわち栗柯亭木端からは、さらに一本亭芙蓉花や仙嘉亭嘉栗など十四人を輩出しています。木端を除く他の十人には名古屋の秋園斎米都や広島の芥川貞佐がいますし、貞門以外の永井走帆(ながいそうはん)や自然軒純全を加えた全容は「しばらく廃れたりし」どころではありません。
 木端撰『狂歌手なれの鏡』(一七五〇年)に「柳門狂歌十徳」があります。「俗諺俳言を用ゆれば児女のたぐひ牧童樵夫(ぼくどうしょうふ)のともがらも耳近くて心得易し」「梵漢の語も其ままにもちゆれば詞広して詩歌にいひ残す情ものべやすし」「はやりうたはやりこと葉の拙きも此道に用ゆればやさしくなれり」ほか七項目が並びます。信海の「箔の小袖に縄帯」の発展と具体化です。
 やはり木端撰『狂歌かがみ山』(一七五八年)には「新題百首の歌読みけるとき」として「麦秋」「虹」「煙草」「太刀魚」などが登場します。明治の『開化新題歌集』(一八七八年)は、これに遅れること百二十年でした。

     六、子規と狂歌

 次に子規と狂歌また近代短歌との関係です。

  久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも     正岡子規
  久かたのあまのじやくではあらね共さしてよさしてよ秋の夜の月     半井卜養
  久かたの雨戸へ闇やひきこんでことにさやけき月は一めん       雪縁斎一好
  久かたの天津のつとの太はしら探る雑煮のあなうまし国        九如館鈍永
  久かたの天津空豆かみわればにほひとともにかかるはがすみ      白縁斎梅好

 子規のイレギュラーな枕詞ですが、先例は半井卜養を初めとする狂歌に多く見ることができます。
 また両者には類似点があります。先の「柳門狂歌十徳」と子規の「生は和歌につきても旧思想を破壊して、新思想を注文するの考にて、随つて用語は、雅語、俗語、漢語、洋語必要次第用うるつもりにて候」(『歌よみに与ふる書』)を見れば分かるとおり、用語と素材の選択の自由です。
 しかし相違点もあります。狂歌は五句三十一音詩に近代語を登場させましたが、近代短歌は逆で、その近代語を退場させたのです。言文一致運動が推進される中での古代語の復権です。口語の万葉集、言文一致の古今和歌集とも正反対の逆走を始めたのです。

     七、狂歌と現代

 狂歌は天明狂歌によって進行を妨げられ、近代短歌によって押し戻されますが、その歴史的使命は現代語短歌実現の日を待っているようです。

  はらからの娘がしぼんだ花とつてふくらかすかの里の朝がほ       佐藤少女萩
  一枝を折てくせとは京言葉さてもいつかいかいで紅葉を         佐藤女鶴江

 『狂歌かたをなみ』からの抄出です。芥川貞佐の弟子にして門弟は千三百人といわれる大坂丸派(がんぱ)の祖・玉雲斎貞右(ぎょくうんさいていゆう)の社中詠です。
 一首目の萩さんは浄瑠璃作者でもあった佐藤魚丸の娘です。初二句は嫁いだ姉の子、まだ幼い姪と思われますが、その所作が愛くるしく描かれています。
 二首目は魚丸の妻、萩さんのお母さんでしょう。『京都語辞典』(東京堂出版)で「くす」は「よこす」の意、女房詞だそうです。下句は「なんとまあ大きな楓紅葉を」となります。
 時代は天明を経た寛政八年、狂歌は決して廃れたりはしていませんでした。
 以上は歌人の読まない、ともすれば軽侮の対象となる狂歌と日本語の歴史を重ねたときに見えてくる風景でした。

 眼ひらけり 小畑庸子歌集『白い炎』を読む(「現代短歌新聞」2014年4月号)

  歌業五十年、第九歌集である。四部構成で小題はない。また三一一首中に現れる一人称の人代名詞は六首と削ぎ落とされた印象を受ける。人名も同様で芭蕉や山頭火ほか限定されたものだ。
・茶の花はわが誕生花と教はりき駿河のくにに今亡きひとに
 師事した高嶋健一と思われるが、それを出さない。「私」を抑制し、律するところが大きい。
・夏の初めの濠(ほり)の鯉へと麩を投げきもののふたりし男とその子
・年寄りのをみなの我を訝らむ四十五歳軍人(もののふ)の父
 場所も離れている。何の説明もない。しかし一首目の「男」は四十五歳で戦死したと思しい「父」その人であろう。すると「その子」は作者自身というふうに読める。
・開運の暦を賜ふさざなみのあふみのくにの神の宮人
 「年寄りのをみなの我」が賜る「開運」の暦である。修辞にして修辞を越えた感のある三句だが、それは未来の予感に「私」の生きてきた歳月が影を落とすからだろう。
・人工湖にたたふる水に六本の脚をすすぎて銀やんま去る
・パイプ椅子の背にかかりをりさみどりの上衣左の肩を落として
 観察の徹底は一首目なら三四句である。些細を見逃さない理知に自ずと命が宿る。二首目の描写は物に徹することによって逆に不在の人物をそこに在らしめている。
 自制する「私」が捉えるのは個を越えた存在であり時間である。換言するならば普遍ないし歴史への希求でもあろう。
・涙嚢を豊かに彫られ石の男(ひと)風止むときに眼ひらけり
 したがって磨崖仏が目を見開いたとしても不思議でない。在るとは何か。涙嚢を同じくする「私」の発問に感応したからに外ならないのである。

 異界の扉~小谷博泰歌集『夢宿』~(2014.3.4)
 
 夢の宿とは畢竟、歌を紡ぎ出す「私」以外の何ものでもない。ときに男の「私」が女の「私」になり、大人の「私」が子供の「私」になり、現世の「私」が過去世の「私」になり、未来世の「私」となり、それらが出合う場所でもある。
・枝先に垂れたザクロの実がわれを見下ろしてにやりと笑ふ細道
 三句は「実が我を」であり「実が割れ(を)」だろう。結句の「細道」は童歌「通りゃんせ」の「~帰りはこわい/こわいながらも」の世界を彷彿とさせる。
・今日は田螺が沼でいい声で鳴いてゐる星も見えない闇夜となつて
 類題なら茂吉の〈とほき世のかりようびんがのわたくし児田螺はぬるきみづ恋ひにけり〉や岡部桂一郎の〈今生(こんじよう)の某(それがし)もとは田螺にて水田の畦をいま照らす月〉だが、この系列に新たな一首を得た趣きがする。
・うつすらと霧の向うに見えてをりふもとの街が異界のやうに
 等身大を思わせる「私」が、例えば六甲山から神戸の街を俯瞰している景と読む。遠望すれば帰属する日常すら異界なのである。
・鼻も口もべつたり乳がふたぎゐてもがいてをつたけつたいな夢
 その麓の街で見た夢であろうか。おそらく脈絡のない夢、四句「をつた」の古風、尊大な印象が「現実」に反して笑いを誘う。なおこの「~けつたいな夢」の外にも「踏みこみよつた」「待てというとる」「なつてしまうた」といったアクセントのある表現も読者を魅了するのであった。
・雨はげしき夜明けまへなり病棟の一部屋のみが灯りてゐたる
 「私」が目撃しているのは臨終を迎えた病窓である。暗示的な初二句そして夢の宿にとってはブラックホールのような異界の扉が今まさに開かれる処なのだ。

 素志の力~井上美地歌集『空の邃きに』~(2014.3.3)
 
 第八歌集で前歌集『中宮寺文様刺繍』(二〇〇九年)との間に『現代短歌と史実 リアリズムの原点』(二〇一〇年)と『我だに人のおもかげを 乱世の告発者「日野名子」』の二著がある。
・失せゆきし国の基本を衝く君に酔いし深夜の座のあらたまる
・沖縄の空領(お)すものら わが訪いし遺骨収集の日も凄まじかりき
 一首目。二句は前後の歌から食料自給率すなわち農業であることが分かる。二首目の初二句は戦闘機、四句から単なる旅行者として聞いたものではないことが分かる。いずれも社会詠で、いわば『現代短歌と史実 リアリズムの原点』のカテゴリーといおうか。
・かく薄きいちまいながら手より手へ渡れと今日もビラ刷りており
 「孫たちの将来を案じるおばあちゃんの会」の活動の一端である。三名の「ささやかな平和を願う会」だそうだが、素志の発露、何もかも手作りのところが凄い。
・与(くみ)せざるかの兄猾(えうかし)を思い出づ殺されさらに屍(し) をも刻まれき
 「国偲び歌」の一首。兄猾は記紀に登場する大和国宇陀郡の豪族、天皇暗殺を企てるが弟の密告によって殺されたという。古代の光と影を捉えるダイナミズムとでもいおうか。女流日記『竹むきが記』を論じた『我だに人のおもかげを 乱世の告発者「日野名子」』の印象が、その思いを増幅させるようだ。
・靴ぬぐや駈け来る小(ち)さき鈴の音にわれの年余のひとり居おわる
 愛猫モモとの穏やかな生活の中にも〈残されし日にわが為さむ何と何 仰ぐ今宵の空邃(ふか)くして〉と作者を掻き立てる史と志が冴えるのである。

 狂歌とは何か~上方狂歌を中心として~(「短歌人」2012年9月号)
 
     一、はじめに

 何を今さらと思われるかも知れない。しかしその「何を今さら」を問題にしたいのである。狂歌といえば天明狂歌ということになっている。はたしてそうだろうか。『狂歌大観』『近世上方狂歌叢書』『江戸狂歌本選集』これら『国歌大観』の狂歌版三冊いずれも滑稽の要素を抜きにしては語ることができない。しかしそれだけなのか。
 いわずもがなであるが狂歌の対語は和歌である。『万葉集』に単独で登場するときが歌、長歌とセットで登場するときは短歌であって和歌ではない。その後、国風暗黒時代が訪れて漢詩文が一世を風靡する。しかしこれも遣唐使の廃止によって止む。次にやってくるのが漢詩の対語としての和歌(『古今和歌集』)の時代である。狂歌という言葉が最初に確認できるのは定家の『明月記』だが、歌道の権威を憚って言い捨てが不文律であったという。この歌道という言葉もまた平安時代以降の用語である。狂歌は『万葉集』の戯笑歌の系統とされるが、その取り扱いを含めて、和歌が否定した、カバーしなかった幻の短歌史であった。
 しかし滑稽を物差しにしては立ち往生する作品が多い。上方狂歌を念頭に置いていっているのだが、諧謔でもない、かといって和歌でもない。こうして浮上するのが往時の現代語短歌なのだ。「文語」と「口語」の混交は然らでだに珍しくない。ただ現代歌人の継ぎ接ぎ短歌と異なるのは、言文一致だった『古今和歌集』の時代にもどろうとする原点回帰として位置付けられる点である。無自覚な「みにくいアヒルの子」なのか、白鳥となって大空に羽ばたいていく「みにくいアヒルの子」なのか、そこははっきりと識別する必要がある。
 したがってこれを俗語や卑近、卑俗などと呼ぶのは当たらない。雅俗とは近世において後退戦を余儀なくされた和歌の側の問題であって狂歌の与り知らないことなのだ。五句三十一音詩の立場からいうならば、日本語の変化とどう向き合っていたかという問題なのである。

     二、辞書が教える狂歌

 インターネットの「ジャパンナレッジ」から「デジタル大辞泉」で「狂歌」を引く。

  日常卑近の事を題材に、俗語を用い、しゃれや風刺をきかせた、こっけいな短歌。万葉集  の戯笑歌(ぎしょうか)、古今集の俳諧歌(はいかいか)の系統で、江戸中期以後、特に流行。  ざれごとうた。

 同じく「日本国語大辞典」。

  構想、用語などに滑稽、諧謔の意を盛りこんだ短歌。「万葉集」の戯咲(ぎしょう)歌や  「古今集」の誹諧歌の系統をひくもので、特に、江戸中期以降盛んになり、大田南畝、朱  楽菅江などの著名な作者が出た。狂言歌。

 ヤフー・ジャパンが配信する「大辞林」からも引いておく。

  諧謔(かいぎやく)を主とし滑稽な趣を詠み込んだ卑俗な短歌。万葉集の戯咲歌(ぎしよう  か)、古今和歌集の誹諧歌(はいかいか)などの系統で、各時代にわたって行われたが、江  戸中期、天明年間(1781-1789)頃に大流行をみた。作家としては四方赤良(よものあから)(蜀山人)・宿屋飯盛(やどやのめしもり)などが著名。戯歌。

 共通しているのは和歌の立場から見た狂歌観であること、また狂歌すなわち天明狂歌という偏った狂歌観に洗脳されている点である。毒されているといってもいいだろう、この誤謬によって二重にも三重にも狂歌の本質が見えない仕組みになっているのである。

     三、作品が語る狂歌

 『近世上方狂歌叢書』の造本は『狂歌大観』や『江戸狂歌本選集』の比ではない。質素なのだ。そこに右の具体的な影響が見えるといってもいい。とはいえ沈思黙考の機会は多い。

  なかなかに田舎の水のすみよくて淀川のぼる気はござんせぬ
  かやり火のふすべる閨の独ねに悋気て去つたつま思ひ出す
  花嫁をむかへた門を祝ふとて石を外からくれの春の日
  むつまじう揃ふて祝ふ雑煮餅娘もことしは七つおきして

 一首目の作者は寺沢還愚稿、題は「京へ隠居せよと世悴方より申し来りける返事に」。親の老後を心配する息子への返事である。結句「御座んせぬ」が啖呵を切ったような印象を受けるが「御座んす」は「ある」の意の丁寧語なのだそうだ。二首目の作者は栗柯亭木端、題は「百首歌よみしとき独寝ノ蚊遣リ」。二句「燻べる」には初句を受けて蚊に向けられた煙の意のほかに嫉妬する意があり、これが「闇」以下に別れた妻の記憶を蘇らせた。やもめの述懐だが、題詠であり、僧侶の木端が作中人物である保証はどこにもない。三首目の作者は孤立、題は「暮春嫁入」。新郎に水を浴びせる風習に水祝いがあるが、これは石の祝いを詠った。石打ともいうが『江戸語の辞典』(講談社学術文庫)に「婚礼の夜、近隣の者などがその家に小石を投げこんで祝う風習」とある。結句の「くれ」は石を「呉れ(た)」に春の「暮れ」の意となる。四首目の作者は浮油堂土丸、出典は『除元狂歌小集』。「除元」は「除夜」と「元日」の意味らしい。結句「七つ起き」は早朝の四時に起きることをいう。四句「今年は」からすると去年はそうではなかったのだろう。嫁にいくのも遠くはない。その予感が上句「むつまじう揃ふて祝ふ雑煮餅」を格別なものにしている。

  早乙女にほれたとみえて雨あがり田植の足に吸ひ付いたひる
  手はしかう鎌をかけても麦秋はやとふ人さへあちらむきやす
  馬子唄もあはれにくれて行く秋や木幡(こはた)のさとにとめてとまらぬ
  雑魚ひとつかかつたことか川がりの十方にくれてかへるあみぶね

 一首目の作者は韓果亭栗嶝、題は「雨後の田植」。今と違って、こうした光景は珍しいものではなかっただろう。辞書を引くと蛭の存在からして「蛭鉤」(蛭に似た吊り鉤)、「蛭飼い」(腫れ物の悪い血を蛭に吸わせる治療法)等、生活に近い。二首目の作者は山中千丈、題は「麦秋怱」。「麦秋」は麦を取り入れる初夏の頃、「怱」は慌ただしい意。初句は「手はしかく」のウ音便、「(手が)はしかい」に「痛がゆい」と「機転がきき敏捷である」の両意を託した。結句の助動詞「やす」は四句「雇ふ人」への軽い敬意を表す。三首目の作者は一葦庵湖月、題は「里暮秋」。木幡は京都府宇治市の地名、古くから大和と山城を結ぶ交通の要衝で、『万葉集』に〈山科の木幡の山を馬はあれど徒歩より我が来し汝を思ひかねて〉(二四二五)とあるとおり歌枕の地である。暗がりにその姿は溶けていきながら馬子唄だけが所在を示している。四首目の作者は揚果亭栗毬、題はない。二句の「か」は疑問を呈する。なぜなのか。「川狩り」は川漁。四句は分断されているが「十方暮れ」をいう。大空が暗く曇っていながら雨の降らない天候である。また暦で甲申(きのえさる)から癸巳(みずのとみ)までの十日をいい、この間は万事に凶とされる。空しく網を引き上げて帰る網船なのだ。

  瀧つぼに地主のさくらの影見へて風には落ちぬ花を散らした
  涼しさに四条河原の仮橋でけふ一日の暑さ戻した
  なかんづく秋のゆふべの風にきく捨て子の声ははらわたをたつ
  ひえるはず石の地蔵も綿ぼうし召されてしのぐけふの初雪
                           
 一首目の作者は逢里亭紫園、題は「瀧辺花」。二句「地主(じしゆ)」は土地の守護神をいう。そこに咲く桜が二句「地主の桜」なのだ。風で散っているのではない。映っているのが滝壺だから結句「花を散らした」、そのように見えるのである。二首目の作者は可陽亭紅圓、題は「橋上納涼」。三句の「仮橋」は祇園会の神幸の時に掛けられた。浮橋ともいい橋付近では夕涼みが行われた(天文から安政まで大橋はなかったらしい)。結句が言い得て妙である。三首目の作者は坤井堂宵眠(こんせいどうしょうみん)、題は「百首歌読みしとき秋ノ夕ノ捨テ子」(さらに「本語」とあるのは中国の故事に由来する「断腸」をいう)。同題で木端の〈すてられて何のぐわんぜもなく声を親はきかぬか秋の夕ぐれ〉が並ぶ。「ぐわんぜもなく」は「頑是もなく」で「なく」に「無く」と「泣く」を掛けた。これに続く「なかんづく」(とりわけ)となる。無邪気に泣く声であるが、風に乗って聞こえてくるそれは「腸を断つ」(断腸の思いがする)というのである。四首目の作者は無為楽、題は「初雪」。初句切れで一首は始まる。三句以下は雪の「綿帽子召されてしのぐけふの初雪」である。うっすらとした綿帽子、だから初句「冷えるはず」となった。

     四、菅竹浦(すがちくほ)の『近世狂歌史』に見る上方狂歌

 神戸の開業医だったという菅竹浦の『近世狂歌史』を手に取って驚いた。同名で昭和十一年に中西書房、四年後に日新書院から出ているが、後者である。五七八頁の厚さもさることながら「狂歌の本性を通俗平明に言つて見れば和歌の調子を卑(ひく)くし俗人向きに詠んだものといふに帰着する」(「浪花中心の遊技時代」)とのっけから俗である。
 次に鯛屋貞柳(「鯛屋貞柳と其門葉」)を描いて、こうだ。

  おたなの旦那風で勿体ぶつたところがあり、飄逸とか洒脱とかいふ道人じみた気分に乏し  く、却て大阪人に通有する俗臭の多いおやぢさんであつたと想はれる。(略)。彼の狂歌は  概して俗気が多い。(略)。ただ巧みに、口とく詠んだだけで歌に風韻が乏しく、妙味がな  い。咬みしめて味はひのない歌である。読んでから考へなければならないやうな難解なふ  しや、ゴツゴツした所があまりない代り、含蓄がなく、余韻の嫋嫋たるものが丸でない。  二度も三度も口吟して見やうと思ふ謂ゆる花実相兼の秀歌といふべき作がない。

 さらに「江戸狂歌の見どころ」(「天明調をつくれる人々」)では上方の狂歌作者について、十把一絡げで、こう述べている。

  何れも一代の師表となるべき学分、芸能の持合せが乏しく、或は全然これを欠いて居たた  め、天明時代の江戸の大家に比べたならば、おのづから見劣りがするのみならず、歌口に  も自然、人格教養の反映が露はれてゐるので、彼と是とを比較対照して、雲泥とまでは隔  つて居ないにしても、鯛と鮒くらゐの相異は確かにあつた。味はつて見ると其差が、特に  等しく分るのである。

 よくもここまで書けたものだと感心するが、小林ふみ子の『天明狂歌研究』を開くと、その源流が見て取れる。第一章の「天明狂歌の特質」に「江戸賛美が天明狂歌の大きな特徴の一つであることに異論はあるまい」(天明狂歌の『江戸』)とするが、第二章の「大田南畝の狂歌と狂文」中「南畝の狂歌史観」になると、さらに凄い。二つの「序」を紹介した上で「この二文の共通点は、伝説的な狂歌の祖であった暁月坊と、雄長老、また貞徳、未徳、卜養、生白堂行風ら貞門へ言及すること、油煙斎貞柳以後の上方狂歌に触れずに、天明狂歌を貞門の直後に位置付ける点である」とする。さらに一例「貞門を中心に近世初期狂歌を尊重する一方で、油煙斎貞柳以下多くの狂歌師を輩出した上方狂歌を軽視した評価が顕著に窺えるのが、寛政七年版『四方の巴流((よものはる))』所載『狂歌堂に判者をゆづること葉』(略)の狂歌史記述」だとして引用し「暁月坊、雄長老に次いで貞門に敬意を示す一方、貞柳以下の上方狂歌に向けられた非難は、これまでに見た他の記述を考え合わせれば、文字通り受け取ってよいであろう」だから身も蓋もない。ちなみに「『天明狂歌』の称となると、幕末になってはじめて登場し、菅竹浦『近世狂歌史』(中西書房、一九三六)など、近代以後の論者によっていつのまにか定着してきた、いわば文学史上の用語であることが指摘されている」(「はじめに」)という。

     五、狂歌と五句三十一音詩史

 拙著『ゆたかに生きる 現代語短歌ガイダンス』の「第一章 五句三十一音詩の歴史」は「一、万葉集は言語体、往時の現代語であった」「二、古今和歌集は言文一致体であった」「三、貴族階級の没落と短冊の発生」「四、言文二途の十四世紀~阿仏尼とその子どもたち~」「五、狂歌の言語体、和歌の文語体」「六、逆風の近代~現代語短歌の小さなあかり~」「七、原点回帰~短歌再生の道しるべ~」の各節となってい、文語と口語を対比的に使っていない。本稿の「一、はじめに」ではカッコ書きで「文語」と「口語」とした。
 文語を辞書で引くと書き言葉と古典語の二つの意味がある。これに対応する口語も話し言葉と現代語の二つの意味がある。古典語としての文語も、それが生きていた平安時代は現代語であった。言文が二途に分かれて文語と呼ばれるようになったのであって往時は言文一致だから現在の私たちのような迷路に踏み迷うこともなかったのだろう。ややこしい。
 初出ではないようだが現代語短歌という用語は安田純生の「文語体と口語体」(「白珠」平成二十二年七月号)に出てくる。

  古代には、いちおう言文一致歌でありましたのに、中世になりますと、言文不一致歌にな  っていきました。そして和歌の世界では、明治時代になって、ふたたび言文一致の口語短  歌、つまり現代語短歌が(略)現れてくるのです。

 これに続いて、

  言文一致歌の伝統を狂歌は保持し続けていたともいえます。

とある、その例証を上方狂歌に見てきたのであった。
 近代短歌は思想としての機知を排除した。そして現代語短歌に対する理解も低かった。どちらも狂歌が当たり前とした風景である。一方で言文二途に始まる文語体をアプリオリな存在として標準化し、狂歌を排して『国歌大観』を編んだ。日本語の歴史を重ねるならば「言文一致歌の伝統」を保持する狂歌は見直されなくてはならない。

     六、結語~磁場からの離陸~

 古橋信孝の『誤読された万葉集』(平成十六年)の目次には「人麻呂は妻の死に泣いたのか」「額田王と天武天皇は不倫の関係か」「山上憶良は家族思いだったか」「大伴旅人は大酒飲みか」と興味深い内容が続くが「はじめに」で品田悦一の『万葉集の発明』(平成十三年)に触れて「明治時代に入って日本は近代国家として形成されていくわけだが、国民のアイデンティティーを求めていくなかで、万葉集は国民歌集として『発明』されたというのがこの本の趣旨である。/なぜこの本が学会で話題になったのか。実は学者にしてもいまだ万葉集に対して強い憧れを抱いていて、既成概念や聖典視から脱却できないでいるからである」とする。また『万葉集』と虚構をキーワードに遡ると大久保正が昭和五十四年に『万葉の虚構│有間皇子と大津皇子の場合│』(『日本文学研究大成 万葉集1』)で「われわれはあまりにも単純に初期万葉の作者をそのまま信じることに馴らされて来過ぎた。そしてそこにアララギ派的な写実主義・写生主義的な解釈・批評の抜き難い影を認めずにいられないのである」と述べる。このように『万葉集』の読みに決定的な影響を与えた「アララギ」は明治四十一年に創刊され平成九年に九十年の歴史を閉じる。磁場の衰退が『万葉集』の新たな研究を促したともいえるし、その逆もあったろう。同じことは狂歌についてもいえる。和歌の視点から眺めるのではない。大田南畝の史観に立つのでもない。近代の論者に拠るのでもない。只今現在の時点から振り返り、遠望するとき自ずからにその史的修正が求められるのである。

 近代短歌と機知(「短歌人」2011年12月号)
 
     一、『開化新題歌集』を読む

 個性としての機知ではない。思想としての機知が近代短歌が形成されていく中で、どのようにして力を失っていったのか、そんなことを考えてみたい。まず俎上にあげたいのが大久保忠保編『開化新題歌集』である。第一編が明治十一年、第二編が明治十三年、第三編が明治十七年に発行されている。このうち第一編が昭和二十七年に出た『現代短歌大系』(河出書房)の第一巻「創成期」に収められている。作者一三六名、歌数四七二首、全編収録である。以下、作品の引用にあたっては私意により送り仮名や濁音を付して読者の便宜を図った。

  大路ゆく車も今はうしならでうぢある人の引く世也けり
  氷もる器もともにすきかげのすずしくみゆるいよ簾かな
  ぬば玉のよるひるたえずめぐれども猶しら波はたたんとほりす
  遠めがねかへしてみれはわがやどの庭も千里の外の海山
  弓矢をば小田のかかしにまかせつつ鍬とる身こそ心やすけれ

 一首目の作者は金井明善、題は「人力車」。「牛」と「氏」の類音を利用した。政府が平民苗字必称義務令を出したのは明治八年であった。二首目の作者は高橋蝸庵、題は「氷売り」。「器」はガラスなのだろう。三句「透き影」は物の間や薄い物を通して見える姿や形をいう。結句「いよ」は「伊予」に「弥」(ますます)を掛ける。三首目の作者は鈴木重嶺、題は「巡査」。結句は「起たんと欲りす」で「欲りす」に「ポリス」を掛けた。四首目の作者は星野千之、題は「望遠鏡」。二句は「返して見れば」だろう。望遠鏡の日本への渡来は一六一三年だそうである。一七五八年に出版された『狂歌かかみやま』には「千里鏡(トヲメガネ)」の題で〈引きよせてみゐの古寺鐘はあれど遠めがねにて声はきこえず〉(坤井堂宵眠)がある。「みゐ」は「三井」に「見い(づ)」を掛けた。五首目の作者は岡野伊平、題は「士族帰農」である。これが江戸時代だと〈太平の代にも弓矢をはなさぬは山田に立てる何がしかかし〉(三休斎白掬)というふうになる。出典は『狂歌気のくすり』で刊行年不詳、跋文は一七七〇年である。
 では、その「開化新題歌集」の評価はどうであったろう。

 「新題に対して詠んだ歌は感覚の新鮮さはなく、観念的、主知的に表現されている」(二〇〇〇年刊、三省堂『現代短歌大事典』)。
 「五七五七七の定型の内部構造を変えるまでにはいたらず伝統的な和歌的発想に終始している」(一九九九年刊『岩波現代短歌辞典』)。
 「こうした動きが、本質的に近代短歌革新の有力なモメントとなり得なかったことは当然であるが、しかし、これがきわめてかすかではあるけれども、新派和歌の興隆に脈絡を通じていないとはいい切れないのである」(一九六五年刊、木俣修『近代短歌の史的展開』)。
 「そこには、何ら新しい時代の精神も感覚もみられないのである。(略)。のちの新派和歌運動に直接的にはほとんど影響がなかったと思われる」(一九六三年刊、渡辺順三『定本近代短歌史上巻』)。
 「題は新題であっても、その作歌の態度は従来の題詠の程度を越え得ず、従つて依然として古いのであり、新派としての運動を起すまでに至らなかつたのである」(一九二九年、斎藤茂吉「明治大正短歌史概観」。岩波書店全集第二十一巻所収)。

 旧態依然とした作品だという点では一致、ただ新派和歌運動の前駆として見るかどうかについては多少の温度差がある。しかし、ここに全然別種の見方があるので紹介しておこう。小林幸夫の「開化期和歌の問題││新題歌が和歌を殺した」(『国文学│解釈と教材の研究│』平成十二年四月号)が、それである。触りの部分を引く。

 「新題歌は、その新題歌の有つ性質ゆえに和歌伝統の題詠に付随する美意識・美的観念を殺したのである。それは、和歌伝統の美意識・美的観念の消失を意味する。新題歌は、和歌史において、題を新題に替えただけの伝統和歌としてその範疇に回収されてしまうものではなく、和歌伝統の美意識・美的観念の息の根を止める仕事をしてしまったのである。和歌伝統の基盤は、新題歌において初めて切り捨てられた。基盤が残っている限り、変わってもそれは表層だけの差異であり、大きく変化することはない。和歌の終焉は実は新題歌にあるのであり、鉄幹や子規が和歌を革新したことは問題の層を異にしているのである。鉄幹や子規は、和歌の基盤が崩壊した後に『自我』とか『写生』によって新たな歌を構築したいわば建築師と捉えるべきなのである。破壊者は新題歌の担い手たちだった」。

 ここまでくれば、狂歌が登場しないのは如何にも焦れったい。

     二、新題は狂歌の独擅場だった

 先の『狂歌かかみやま』から「新題」の例を紹介する。

  泪ならですずろに落つるいがほこり袖やすからぬむぎの秋かぜ
  煙てふ草のはじめは其のむかしたれぞ思ひのたねやまきけん
  見事なるさめやつばすにうち交り浪の平かと思ふたち魚

 作者は栗柯亭木端である。一首目の題は「新題百首の歌読みけるとき麦秋」。「麦秋」は『和漢朗詠集』にも出てくる語であるが和歌には馴染まなかったらしい。「すずろ」は「むやみ」、三句「毬埃(いがぼこり)」は脱穀後の芒(のぎ)だろう。「安からぬ」は「落ちつかない」、風で衣服も麦の穂の棘だらけなのだ。二首目の題は「新題百首の歌読みしとき煙草」。日本に移入されたのは慶長年間である。本歌は素性法師の〈忘れ草なにをか種と思ひしはつれなき人の心なりけり〉(『古今和歌集』八〇二)だろう。三首目の題は「新題百首の歌読みし中に刀魚(タチウヲ)」。二句は「鮫や津走に」、「津走」はブリの幼魚の称である。四句「浪の平」(波の平)は薩摩国谷山村波平(現在の鹿児島市内)の刀工、波平行安(なみのひらゆきやす)およびその系統の製した刀剣をいう。
 次は特異とも思われない題から四季の歌を拾ってみた。

  元旦は皆腹立たぬ心から餅のふくれも目出たかりけり
  よそにみても心せわしき夕立やかつらぎ山にかかる黒雲
  うつし植ゑし菊掘りかへすうころもちけしきの外の秋の悲しさ
  海ばらのはてしも浪の上にふりつもれる雪やこんぴらの樽

 一首目の作者は似笠、題は「歳旦」。素材となった餅は「新題」だろう。所収は『狂歌餅月夜』(一七四〇年)である。二首目の作者は九如館鈍永(きゅうじょかんどんえい)、題は「夕立」。「白雲」に対する「黒雲」は和歌において不人気だったようだ。所収は『狂歌野夫鶯(やぶうぐいす)』(一七七〇年)である。三首目の作者は秀果亭栗岑、題は「秋動物」。三句「うごろもち」はモグラの別名である。秋の景色はもの悲しい。しかし移植した菊を掘り返された悲しみは、それとは異質だというのだ。所収は『狂歌ならひ((び))の岡』(一七七七年)である。四首目の作者は九如館純永、題は「海上雪」。二句は「果てしも浪の」で「浪」に「無み」を掛ける。結句は「金比羅の樽」で「流し樽」をいう。航海の安全を祈願する船人が「奉納金刀比羅宮(ことひらぐう)」の幟を立てた酒樽を海に流すのである。その樽を遙拝しているのか、降るそばから消えていく雪も樽の上にだけは白く積もっている。ちなみに樽を拾った人は吉兆として金刀比羅宮に代参したという。所収は『夷曲歌ねふ((ぶ))つ』(一七七三年)である。
 ここでお浚いをしておくと『万葉集』の五七五七七は単独で登場するときが歌、長歌とセットで登場するときは短歌と呼ばれた。『万葉集』と『古今和歌集』の間に国風暗黒時代があった。裏を返せば漢風全盛時代である。勅撰の漢詩文集が編まれるが、この風は遣唐使の廃止によって止む。そしてその後に登場するのが和歌であって、和歌とは漢詩文に対する謂いなのだ。では狂歌とは何か。狂歌とは、フォーマルな場における和歌に対してインフォーマルな場において「言い捨て」を条件に許された五七五七七であった。つまるところ和歌が否定した世界、書き継がれることのなかった幻の短歌史なのだ。その発生からしても狂歌が「新題」の独擅場だったことが理解できるのだ。

     三、ひさかたのアメリカ人

 斎藤茂吉に「子規と野球」(岩波書店『斎藤茂吉全集』第七巻)という短い随筆がある。気になるのは、次の一首である。

  久方のアメリカ人(びと)のはじめにしベースポールは見れど飽かぬかも

 曰く「子規も明治新派歌人の尖端を行つた人であるが、『久方の』といふ枕言葉は天(あめ)にかかるものだから同音のアメリカのアメにかけた。かういふ自在の技法をも棄てなかつた」という。その「棄てなかつた」また「自在の技法」をどこで学んだかというのが私の関心なのである。時代が下るにつれて多様な例が見られるとはいえ「天」が「アメ(リカ)」だからイレギュラーといわなければならない。

  久かたの月げの駒をうちはやめきぬらんとのみ君をまつかな
  荻のはのつのぐむ野べや久かたの月げのこまの棲なるらん

 『万葉集』を収録する『新編国歌大観』第二巻、「私撰集編」より拾い出した。本来の「月」から同音を利用して「月毛」、馬の毛色に転換したところが条件に適う。一首目の出典は『古今和歌六帖』(一四三〇)、約四五〇〇首を収録する類題和歌集である。作者は人麻呂、題は「むま」。二首目の出典は『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』(一〇四二)、約一万七千余首を収録、後世に至って和歌はもちろん連歌・俳諧・狂歌ほか幅広く利用された類題和歌集である。作者は法性寺入道関白(藤原忠通)、題は「御集中春駒」。結句「棲」は「すみか」と読んだ。

  久かたのあまのじやくではあらね共さしてよさしてよ秋の夜の月
  久かたの雨戸へ闇やひきこんでことにさやけき月は一めん
  久かたの天津のつとの太はしら探る雑煮のあなうまし国
  久かたのあめの細工やちやるめらの笛のねたててよぶ子鳥かも
  久かたの天津空豆かみわればにほひとともにかかるはがすみ

 一首目の作者は半井卜養(なからいぼくよう)、出典は『卜養狂歌集』(『狂歌大観』所収、一六六九年)。詞書に「八月十五夜月曇(くもり)て出さりけれは」とある。同字を辿って「天の邪鬼」、囃すように「差してよ差してよ、お月さま」となる。二首目の作者は雪縁斎一好(せつえんさいいっこう)、出典は『興歌帆かけ船』(『近世上方狂歌叢書』所収、一七六八年)。やはり同字から「雨戸」に接続した。戸袋に闇を引き込むという趣向である。三首目の作者は九如館鈍永、出典は『狂歌野夫鶯』(『近世上方狂歌叢書』所収、一七七〇年)。「天津」は「天の」、これに接続する語は多いが「のっと」は「祝詞」で「天津祝詞」は祝詞の美称、イレギュラーだろう。四首目は同じ作者、出典も同じである。題は「喚子鳥」、二句「天」「雨」ならぬ「飴」に転じて行商人の登場となった。五首目の作者は白縁斎梅好(はくえんさいばいこう)、出典は『狂謌いそちとり』(『近世上方狂歌叢書』所収。一七七六年)。題は「有る方にて茶菓子に空豆の出でしに」。「天津空」までは正統だが「豆」を付けて脱線した。結句「歯がすみ」(歯くそ)に「霞」を掛ける。
 なお括弧内の数字は刊行年、刊行年不明の場合は跋年等を示して参考とした。

     四、伏流する狂歌

 正岡子規は「萬葉集卷十六」で「狂歌狂句の滑稽も文学的なる者なきに非ず、然れども狂句は理窟(謎)に傾き狂歌は佗洒落に走る。(古今集の誹諧歌も佗洒落なり)これを以て萬葉及び俳句の如く趣味を備へたる滑稽に比するは味噌と糞を混同する者なり」(講談社『子規全集』第七巻)と書くが、狂歌は今よりも身近な存在であった。

  くちなはのをのが針めのほころびを誰にぬへとてぬげるきぬぞも
  からたちの荊棘(いばら)がもとにぬぎ掛くる蛇の衣にありといはなくに  
  わが恋のさしみならねどからし酢の目はなとをりて涙こぼるる
  我がこひは鮨の山葵の鼻ひびき泣きもなかぬに泪ながさむ

 一首目の作者は石田未得(いしだみとく)、出典は『吾吟我集(ごぎんわがしゅう)』(一六四九年)。題は「虫」。二句「針目」は「縫い目」をいう。歌は脱皮した蛇の抜け殻、それを補修が必要な着物に見立てた。二首目の作者は長塚節、出典は春陽堂書店『長塚節全集』第三巻。題は「ゆもじばかりになりてぞ酒汲みはじめける」とあって人の着物を蛇の抜け殻に見立てたものである。三首目の作者は未得、題は「寄鯉恋」で出典も前作と同じである。四首目の作者は節、出典は前記全集第六巻。祇園の一力での作である。深いところで狂歌を体験していた様子が思われるのだ。
 こうした傾向ないし周辺に対する評価も確認しておきたい。

 「節の歌の中ではもっとも低級な部類のものであり、また節の歌境の進展のためには、むしろ好ましからぬ傾向であったと考えられるのである」(柴生田稔「長塚節」、弘文堂『日本歌人講座』第六巻)。
 「茂吉にしても節にしても、その最晩年の歌には深い人生的な詠嘆が奏でるユーモラスなひびきを聴くことができるように思うのである。そうしてさらにいうならば、近代歌人の多くにこうした境涯的な高次のユーモアの歌をほとんど見出すことができないのはさびしいことである」(田中順二『アララギ歌風の研究』桜楓社)。

     五、岐路~作中主体の「私」と作者の関係~

 織田正吉は『笑いとユーモア』(ちくま文庫)を「人を刺す笑い│ウィット│」「人をたのしませる笑い│コミック│」「人を救う笑い│ユーモア│」で分類している。しかし『日本のユーモア Ⅰ詩歌篇』(筑摩書房)は標題を便宜上のものとして「日本の詩歌に現れる笑いの多くはウイットとその関連の言語遊戯が主であり、それを抜きにしてこの本は成立しない」「ごくおおまかにいえば、奈良期はユーモアを含むおおらかな笑いの時代、平安・鎌倉期はウイット、室町期に粗野ながら活力にみちたユーモアが生まれ、江戸期に入って詩歌のユーモアとウイットが集大成される」(「はじめに」)と述べている。
 ウイットすなわち機知である。その思想としての機知が新派和歌の興隆を前にして否定されていく様子は『開化新題歌集』の評価にも見てとれる。その違いの一つに作中主体である「私」と作者の関係があろう。両者を等号で結ぶのが近代短歌、否定等号ないし近似等号、少なくとも等号を保証しないのが近代短歌以前といってもよい。
 かつて「近現代の短歌は自我を尊重し、個性を尊重し、実感を重視した。そして題詠を排除した。それでは題詠という虚構に閉じ込めることの出来なくなった自我や個性や実感はどこに向かったのか。題詠という社会を追放された自我や個性や実感は現実世界に住処を求めた。そして実際にも現実生活に手を掛けたのである。かくてパンドラの箱が開けられた」(「歌の円寂するとき」)と書いたが、この感想は今も変わらない。

 短歌は恥ずかしいか(2010・2・25)
 
 聞き手、小高賢の岡井隆『私の戦後短歌史』(平成二十一年、角川書店)中「吉本隆明との論争前後」に「あの時代を経験した人はみんな知っている。例えば喫茶店で部屋を借りるでしょう。短歌会だというのは恥ずかしいのよ」(岡井)という箇所がある。「論争」は昭和三十二年である。もう一例、『現代短歌の全景 男たちのうた』(平成七年、河出書房新社)の座談会「明日の歌を考える 詩の型と言語」で小池光が「ぼくが学生だったときと違ってきたと思うのは、短歌をやることにコンプレックスがついてまわらなくなっきたんじゃないですか」と発言していることだ。小池は昭和二十二年生まれである。
 ところがこれは根が深いらしい。平成十八年六月十八日、現代歌人集会春季大会(アークホテル京都)で永田和宏と対談した岡井隆は今なお恥ずかしいという感想を覗かせていた。これに対して永田は今はそれほどでもないと返していたのが印象に残っている。さらに小池や永田よりずっと若い江戸雪が平成二十一年一月二十五日、豊中市立中央公民館で行った講演で恥ずかしいと云っていた。これには驚かされたものである。
 万葉集の時代、五七五七七の短歌は恥ずかしいものではなかっただろう。国風暗黒時代の後に訪れた和歌の時代も同様である。公家社会から武家社会に移ってもそれは変わらなかった。小川剛生の『武士はなぜ歌を詠むか――鎌倉将軍から戦国大名まで』(角川学芸出版)を読むとそれがよくわかる。近世に入って和歌と狂歌の並存時代はどうか。月洞軒に〈乗物の上下の者は歌人にてなかなる我にはぢをかかする〉(詞書「駕籠かき歌物語し侍りけるに」)があるが、これは五七五七七という様式に対する恥ずかしさとは別の次元の問題であろう。
 第二芸術論や政治の季節といった要因も考えられるが、もっと大きなスパンで捉えるならば『新体詩抄』(明治一五年)の「三十一文字や川柳等の如き鳴方にて能く鳴り尽すことの出来る思想は、線香烟火か流星位の思に過ぎざるべし」(木俣修『近代短歌の史的展開』)という批判から今以て自由になっていないのである。ことわっておかなければならないのは歌そのものが恥ずかしいのではない、恥ずかしいという感情は歌人の側にある。前回、歌の出前講座のことを書いたが、もしそうでなければジュニアの前に私たちは立つことができない。五七五七七は万葉の昔から現代まで少しも変わっていないのである。
 必要があって『近代短歌の鑑賞77』(新書館)を開くと四賀光子の解説に「光子は日常的家庭詠が少なく、人間的寂しさや悲しさを自然の風物に寄せて象徴的な感情表現として歌う、水穂の『日本的象徴』の主張を実践する。しかし、自分の負の部分をあからさまにしなかったことは、結果的に時代とともに生きる生身の人間味を欠くことになった」(草田照子)とあった。次の頁が「自分の負の部分をあからさま」に歌う柳原白蓮であってみればなおさら考えさせられた。グレシャムの法則に準えるならば「負は正を駆逐する」近現代短歌史なのだ。

 坂野信彦『銀河系』一九八二年(2009.8.25)
 
 夜半の湯に肉塊のわれしづむとも地球はうかぶくらき宇宙に
 夜半ひとりさめしうつしみ地にあれば地につながれてゆく 銀河系

 『銀河系』(雁書館)二五〇首の巻頭と巻尾の二首を抄出した。昭和五十七年の刊行、「後記」に「いろいろな方がたから期待と励ましを受けながらも、私はしばしば、歌人としてのあらゆる公的な活動から逃避し、人目を避けて自分の殻にとじこもってばかりいた。この性癖は今後もあまり変わりそうにない。ともあれ、この歌集の出版が、私に向けられた過分な期待に少しでも報いることになれば、幸いである」とある。坂野信彦は昭和二十二年生まれ、この歌集で第八回(昭和五十七年)現代歌人集会賞を受賞している。奥付の住所は名古屋市天白区天白町、中京大学で教えていた頃であろうか。授賞式に出席する坂野を見るのが目的で私も現代歌人集会に出かけていったのを覚えている。父親が自治大臣を務めた坂野重信だという話を聞いたことがある。また変人だという噂も耳にした。恐る恐る言葉を交わした印象は、しかし貴公子然とした歌人にして学究、もの静かな人物であった。その後、昭和六十三年に第二歌集『かつて地球に』(詩法発行所)、平成三年に第三歌集『まほら』(邑書林)を出版、『まほら』に先立つ平成二年に評論集『深層短歌宣言』(邑書林)を出版している。鳥取県生まれ、住所は山梨県北巨摩郡大泉村に変わっている。扉の次の二頁が「深層短歌宣言」である。「わたしたちは、短歌がうたであること、律文であることを何よりも重視する。律文は散文とは相容れない。短歌の四拍子の音律は、その原初的な律動性によって、概念的な思考力を麻痺させ、意識下の感性をゆりうごかす。その力を可能なかぎり効果的に活用して精神の深層を顕現すること、これこそが律文芸たる短歌に課せられた最大の使命でなければなるまい」また「わたしたちの歩みのあとには、雑駁な表層短歌のおびただしい残骸がむなしくとりのこされているだろう」とも述べている。坂野信彦が唯一「公的な活動」に関わった時期である。しかし私が折に触れて思い出すのは『銀河系』であって『かつて地球に』ではないし、『まほら』はさらに遠い。
 歌人、坂野信彦にとって深層短歌の実践篇である『まほら』とは〈うちめぐるおほうづまきの暗黒のやみのまほらへすひこまれゆく〉ブラックホールではなかっただろうか。
 学究としての坂野は平成八年に『七五調の謎を解く――日本語リズム原論』(大修館書店)を出し、平成二十一年には『古代和歌にみる字余りの原理』(ブイツーソリューション)を著している。このうち前著の萌芽は『深層短歌宣言』の「付論」に明らかだが、

【四拍子論(もしくは二拍子系のリズム論)は、すでに高橋龍雄(『国語音調論』ほか)らによって五〇年以上もまえから論じられてきたものである。もちろんわたし自身の創意も加えられてはいるが、四拍子論は基本的には先人たちの仕事を踏襲したかたちのものである。先達の慧眼に敬意を表するとともに、「すくなくとも『四拍子』説にかんするかぎり、別宮(貞徳)のプライオリティをみとめて、ここに一応のあいさつを送っておく」(菅谷規矩雄『詩的リズム・続編』)などという茶番を二度と繰りかえさないように念を押しておきたい。】

と「あとがき」に記された「踏襲」と呼ぶバトンリレーは歌壇に届いているのだろうか。今なお別宮貞徳の『日本語のリズム 四拍子文化論』(ちくま学芸文庫)が引用されることはあっても『七五調の謎を解く――日本語リズム原論』が正面から取り上げられることは希である。タブーなのか、それとも自己規制が働くのか、しかし『深層短歌宣言』が出て今年で二十年になる。客観的に眺めるにはちょうど良い時間と思われるのだ。
 『古代和歌にみる字余りの原理』は従来の国語学に加えて和歌の読唱法とのかかわりから字余りの原理に挑んだ学際的研究と紹介すればよいのだろうか。素人には着眼点からして説得力のある一冊であった。そしてこの『古代和歌にみる字余りの原理』と同じ出版社から平成十八年に『ひらかなうた』という詩集が出ている。こんな作品である。
 
 もりの よふけの
 くさのうえ
 つゆの うまれる
 おとがする

 とおい みなみの
 うみのうえ
 かぜの うまれる
 おとがする

 はるか かなたの
 そらのはて
 ほしの うまれる
 おとがする」

 題は「おと」、著者は、さかのまこと。略歴だが「既刊書に歌集『銀河系』(現代歌人集会賞受賞)」云々とあって、さかのまことは坂野信彦その人であることがわかる。ただここに『銀河系』の暗さはない。不安もない。あるのは慰藉である。Amazon.co.jpで検索すると『あなたにもできる自然出産―夫婦で読むお産の知識』(本の泉社)が出てきた。略歴に「自然哲学者。東北大学大学院博士課程修了。看護学校講師、大学教授等を経歴。生物学から宗教学にいたるまで幅広い関心領域をもつ。八ヶ岳南麓に在住。『プライベート出産情報センター』代表」とある。『古代和歌にみる字余りの原理』の「あとがき」によると金田一春彦が名誉村民で「先生とおりおりに話をする機会にめぐまれ、ずいぶんと励まされたものだった。そのうち村内に金田一春彦記念図書館もできて、そこで先生の蔵書を自由に閲覧させてもらうことができた」とある。さらには『奇跡は、ある。―「超常現象」論争に決着をつける』(文芸社)の著者でもあるらしい。
 歌人で収まらず、大学教授で収まらず、やはり異色の人物であるようだ。

 岸上大作~忘れ得ぬ歌人たち・関西編~(「鱧と水仙」2008.2.25)
 
  かがまりてこんろに青き火をおこす母と二人の夢作るため                      『意志表示』(角川文庫)
 
 播但線の福崎駅で降りるのは初めてではない。前回はJRの「駅からはじまるハイキングマ ップ」を手に「柳田國男のふるさとを歩く」を歩いた。さしずめ今回は「岸上大作のふるさとを歩く」である。地図で見ると柳田國男生家・鈴の森神社・神崎郡歴史民俗資料館と岸上大作生家・墓・田原小学校は、ほぼ半径五百メートルに収まるのであった。
 その円周を目指すには商店街を歩いて右に福崎小学校を確認し、交差点を左折、神崎橋を渡って二つ目の信号に立たなければならない。この国道三一二号線を右折、南下すると左に田原小学校が出てくる。この地には田原中学校と田原小学校が隣接して建っていたらしい。しかし昭和五十五年に田原中学校は統合のために取り壊された。その跡地に建てられたのが現在の田原小学校である。いずれにしても岸上大作の母校に変わりはない。
 今度は国道を北進すると右側に福崎保健所が見えてくる。高瀬隆和著『岸上大作の歌』(雁書館)に「岸上の死後、まさゑさんは、福崎保健所の用務員として定職を得、定年まで勤められた。高校時代に岸上が所属していた文学圏の木村真康氏の骨折りであったと記憶する」とある。母まさゑは夫と死別したとき二十九歳、長男大作が自殺したときは四十三歳だった。さらに北進すると岸上大作の生家とおぼしき二階建ての家が見えてくる。表札はない。番地も出ていない。空き家の趣きだが車が停めてある。やはり『岸上大作の歌』によれば「中国自動車道の福崎インターチェンジを下りて、三一二号線を北にほんの少し入った道路沿いの東側に、彼の生家はある」。また「生家の北側にある細い道を小川に沿って歩めば、山裾にある岸上大作のねむる墓地にいきあたる」ともある。試みるとそのとおり山の斜面を利用した共同墓地が見えてきた。岸上のふるさとである。足下に気をつけながら登ると正面に黒御影の「岸上大作之墓」。右側面が墓誌、さすがに「自殺」の文字はない。左の側面に「意志表示」の歌。背面に建立者の母親の名前、左に小さく「文高瀬隆和」と「書西村尚」が並ぶ。右に白御影であろうか、大作の墓とコントラストをなすように母士まさゑの墓がある。建立者は大作の妹夫婦である。大作の墓の左側に父「故陸軍伍長岸上繁一之墓」。頂部の尖った、青御影であろうか、時代を感じさせる石質であった。父繁一、一九五二年没、三十五歳。岸上大作、一九六〇年没、二十歳。母まさゑ、一九九一年沒、七十三歳。「親族たちから、『この親不孝者、この親不孝者』というののしりのことばとともに土をかけられながら、岸上家の墓地深く埋められたという」(思潮社『岸上大作全集』所収、冨士田元彦「六〇年に賭けた詩と死 大作私記」)のは昔日、寄り添うような墓三基であった。そしてそれは時代に翻弄された一家族の歴史また戦後史の断面をかいま見させる風景でもあった。手を合わせたあと国道にもどって北進、月見橋を渡って線路沿いに歩く。駅の手前の踏切を越えると福崎高校の正門である。事務室で入校証を出してもらって中庭の掲出歌の歌碑を撮影した。一九九四年建立。さらに第五十八回生卒業記念の歌碑〈初恋の君と初めて語らいしかの家なくて夏草繁りぬ〉が脇門を入った右側に建立されていた。
 九時三十七分着、岸上の旧跡を訪ねて十一時五十二分の電車で姫路にもどると十二時十七分、今度は神姫バスに乗って市之橋・文学館前下車。姫路文学館の文人展示室で岸上大作のブース、またビデオコーナーで「ある記憶ー歌人岸上大作」(三分)と「意志表示ー岸上大作の青春」(十五分)を見る。今より若い高瀬隆和氏が登場する。『岸上大作の歌』の述懐「時々、涙ぐまれるまさゑさんを前にただ言葉なくうな垂れていた」、同じく妹の「兄が自殺したと聞いたとき驚かなかった。とうとうやったかという思いであった」が頭を過ぎった。この妹夫婦は歌碑除幕式及び姫路文学館の開館記念式典にも参列している。
 文学館を出ると左側に国宝姫路城が美しい。再びバスで姫路駅に戻る。途中、左側にヤマトヤシキの看板が大きく見える。

  デパートの食堂給仕の職を得し妹今宵美しく見ゆ

 田原中学を卒業して一九五七年四月に「やまとやしき」百貨店に就職した妹を歌った一首である。ほかに〈就職しわれの学費は稼がむと十四の妹われをはげます〉という作品もある。神戸新聞の「商い続けてーヤマトヤシキの百年」(二〇〇六年十二月二十日)によると「五七年。当時、播州一の高層建築となる地上八階(一部十二階)建てビルが完成する。地上四十三メートル。八階に『お城の見える大食堂』、屋上には姫路市消防局の見張り塔が設けられた」とある。分岐点をいうならば生に向かうベクトルと死に向かうベクトル、半世紀を経た播磨の空は どこまでも碧い。

 くずやんの大阪~葛西水湯雄歌集『のらりくらり』評~(「白珠」2008.1)
 
 歌集名を見ただけでクセのありそうなこと一目瞭然、いや臭うのだ。女性は使うことさえ考えない。忌避するだろう。まぎれもなく男の歌集名である。それも正統があるなら異端、本流があるなら傍流、悲劇があるなら喜劇、いやそんな堅苦しいものでもない。前の歌集が『しどろもどろ』で今度が『のらりくらり』。いよいよもって年季の入った作中人物「くずやん」の世界を歩いてみた。

  この世にはまだまだ未練がありまして七十七歳恋をしてます

 著者略歴によると作者は大正十四年生まれ。歌集は平成九年から始まっていると思われるので七十二歳から八十二歳の作品ということになる。そこには自ずから想定の範囲内というものがある。ところが〈つねよりは長きキスして別れ来ぬきさらぎ半ば望の月の夜〉である。ちょっと違うぞ。怪訝に思っているところに掲出誠がくる。まさに青天の霹靂、高らかに歌い上げられた喜寿の恋である。

  忘れないために暗証番号を君の生年月日にしおく
  今更と思ふこころの片隅に満更でもなき結婚ばなし
  天国を信じる君と信じない僕が並びて名月仰ぐ

 恋歌の周辺から拾ってみた。一首目。生年月日は避けるというセオリーを逆手にとった暗証番号、しかも暗証番号という性格からして相手の了解はとっていないのだろう。二首目。作者は独身であるらしい。年も年だ。妻を亡くした男やもめであっても不思議でないが、そうではないらしい。三首目。「僕」と「君」が入れ替わっては歌にならないだろう。名月を仰ぐ二人の背中はメルヘンチックでさえある。隣には往年のマドンナ「みよちゃん」を配したい。

  わが店のありしところにビルが建ち空き室ありとビラ貼られをり
  「くずやん」と声かけ来しは若き日の無頼を共にせし「赤まむし」
  パチンコに夢中になつてゐた頃の僕にはまだまだ未来があつた

 作者の若い頃を知りたくなった。一首目から昔は商売をしていたことがわかる。その同じ場所を今も生活圏としているらしい。何をしていたのか。これより先に〈売り家の札貼られをり四十年不動産屋でありにし店に〉があって、私はそれと擬しているのであるが真偽のほどはわからない。二首目。「くずやん」「赤まむし」と呼び合う二人にとって昼は仕事の舞台、夜は遊びの舞台、それが大阪のキタであったに違いない。梅田にはJRAの場外馬券売り場もある。三首目。大阪で万博が開かれたのは昭和四十五年、作者は四十五歳だった。高度経済成長の終焉は四十八歳、バブル崩壊は六十六歳、パチンコに夢中になっていたのは働き盛りの昭和であったろう。

  天満宮までの往復五千余歩朝とタベの食後に歩む
  デパートの開店を待つ人群れにまじりてゐたりトイレ借らむと
  銭湯の湯船ざんぶと出でつる男(を)その背の般若が睨みを利かす

 現在の作者の行動半径を探ってみた。一首目。健康のために歩いているのである。大阪天満宮まで片道二千五百歩、一日に二往復で一万歩、ちょうどよい距離である。少し足を伸ばして〈大阪城公園までの七千歩よたよたときて梅の花見る〉というのもある。二首目。散歩の途次であろうか。そのコースごとにインプットされているのであろう。落とすものは各人各様、作者も今や遅しと開店を待っているのだ。三首目。家に風呂があるのか、ないのか。ともあれ銭湯を利用する作者がいる。しかしスーパー銭湯ではない。来るのは周辺住民であろう、入れ墨のある方はご遠慮ください、では商売にならない。そうして後ろにも目のある御仁を見送るのであった。

  万馬券とりたる友のおごりにて中華料理のテーブル囲む
  袖丈の長きがいささか気になりぬバーゲンセールでもとめしコート
  ラブストリー、スリラー、オカルト、サスペンス 今日はアダルトビデオを借りる

 破天荒な面白さ、そしてどことなく漂う哀愁は「らしくない老後」によって演出される。一首目。年を重ねた無頼の仲間であろうか。但し、公営ギャンプルで登場するのは馬だけ、あとは宝くじである。二首目。いかにも借りてきた「くずやん」状態である。なおコートの連想だが〈名古屋より東は未知の旅にして車窓にけぶる七月の雨〉がある。これが意外にも初めての上京であったらしい。三首目。レンタルビデオ店の常連客なのだろう。枯れない作者には(四か月ぶりの散髪、三週間ぶりの入浴、今日大晦日〉の武勇伝を添えておこう。

  弔ひてくれるものなどまう誰も居らねば墓地を売り払ひけり

 墓を建てるつもりで墓地を買っていたのである。しかしそれを売って『のらりくらり』という生前の墓を建てた。寿蔵である。こちらは弔ってくれる人はいないが手にとってくれる人がいる。そして〈墓地売りし金のおよそは賭け事に使ひはたしてさばさばとをり〉、いかにも「らしい老後」だと「くずやん」のことを話すのだ。

 高瀨一誌の初期歌篇を読む(「短歌人」2006.1)
 
 『高瀬一誌全歌集』の『初期歌篇』には昭和二十五年から昭和五十六年までの作品が収録してある。年齢にして二十一歳から五十二歳、序数歌集の期間よりも長いだろう、異色の『初期歌篇』でもある。
 まず二十代の作品から見てみよう。

  途方もなく夢ある童話つづりたくこの夜心に組み立ててゐし

 昭和二十六年の合同歌集『飛天』に収録。作歌時は二十一か二であろう。旧かな、文語体。このまままの路線を歩んでいたら、そんな興味も津々の作品である。

  デスマスクとると指にてぬる油 女の貌だれにも渡さず

 昭和三十一年の「短誠人」に載る。四句が五音、後年の展開を予想させる作品でもある。そういう意味においても年譜による検証は必要ないだろう。愛の絶唱に教えたい。

  自殺出来ぬさびしき貌を円形の硝子に寄せて魚泳ぎぬ

 昭和三十二年の『新歌人会年刊歌集』に収録されている。きっちり定型、ちょっと地味な作品だが注意を惹く。まず作者の口から自殺という聞き慣れない言葉が出てくる。そして四句の接続助詞「て」によって一首の文脈に揺れが生じる。つまり初句から読むと「さびしき貌」は人でなければならない。しかし結句によって「魚」となる。おそらく飼われる金魚と、それを眺める作者が重なっているのだろう。なお「短歌人」昭和三十三年一月号をもって旧かなの時代が終わる。
 次に三十代の歌。

  死んでもまぶたを閉じぬ魚の眼かたく煮るとき遠き喝采

 昭和三十七年刊『十月会作品Ⅱ』に収録。第一歌集のタイトルとなった「喝采」の初出である。これ以後も三十七年〈われに残る喝采あるや 獣の血洗うとき水ほとばしりいる〉、昭和四十年〈撃たれたる鳥の翼が両手のように空をきる あれが喝采かも知れず〉、昭和四十四年〈もっとたくさんのアドバルーンあげよ喝采のごとくあげて見よ〉と続く。
 ほかにも繰り返して登場する素材は多い。たとえば海・魚・蟹・鳥・エレベーター・気球・道化・ちんどん屋・サウナ・ヘリコプターなど、である。これらとの関係であるが偏愛というにはあたらない。作者に先行するイメージがあってのことでもない。むしろ言葉が、あるいは素材そのものが作者に啓示を与えることがあった。高瀬にとって歌とは、その折々の輝きの発露であったろう。

  石ければいつも音(おと)して夜のさびしきわが歩きかた

 三句欠落。すでに高瀬調である。そして結句の処理の仕方にも注目したい。一般的には「わが歩みおり」式になるところを客体化している。昭和三十七年〈魚のはらわたかきまわす男の手もっとも冬のかたちせり〉ほかバリエーションは多い。感傷の回避あるいは抒情の回避と呼んでおこう。

  無駄でもセスナがビラまきちらすときのきらきらを見よ

 どこで切ればいいのか。四・六・ハ・七、やはり三句欠落か。本来であれば二句は助詞「を」を伴うところであるが、それがない。短歌らしさに絡め取られることを警戒しているのだろう。そして結句、短歌的抒情からの身のかわし方は先の「わが歩きかた」と同じ、やはり〈林檎ばかり積む貨車すぎゆくことを感激とせよ〉ほかバリエーションが多い。客体化とは、すり替わりの一種でもある。
 ところで昭和四十四年に短歌人会から人里弘歌集『秋の柩』が刊行されている。人里弘は昭和二十八年「短歌人」人会。昭和三十七年「短歌人」編集委員。昭和四十三年、交通事故により急逝。遺歌集である。選歌を担当したのは高瀬一誌、巻末に「人里弘の作品」を書いている潟岡路人によると「作歌的にも交友的にも彼にもっとも近い高瀬一誌」とある。さらに読み進めると「おそらく彼は、短歌的な抒情、とくに定型意識と日常的な詠嘆の呪縛をもっともきらった歌人のひとりでもあったろう」また「したがって彼の場合は、伝統の内部にふかく潜行して、閉鎖的な個の世界をねばり強く追いつめていくような、求心的方法はとられなかった。そういう行き方に対して、拍手や同調とともに批判や反撥が入りまじったことは、作歌的基盤の相違がある以上当然すぎることであった」ともあって『初期歌篇』の高瀬一誌が一人でなかったことを教えてくれるのだ。

  いつまでも笑いころげる兵の骨見てきし魚の独白焼かれ    人里弘
  カレンダーに女が笑うことふと気づき午前二時なり     高瀬一誌

 もっとも識別しやすい「笑い」「笑う」で選んでみた。『秋の柩』三四七首中十九首、出現率五・五%。『初期歌篇』六五七首中二十九首、出現率四・四%。人里作品の「魚」も高瀬ワールドと重なる語彙である。反対に「兵」という言葉は一度も登場しない。
 作歌上の同行者を失った昭和四十四年以降が高瀬一誌にとっては完全な単独行となる。年齢で区切ると四十代、ちなみに『喝采』の収録作品の上限は昭和四十三年である。

  姉の死 くちづけを知らぬそのくちびるにレモンをのせよ

 「姉」を何歳で設定するかは読者の自由に委ねられているだろう。作中の「われ」も同様である。ドラマを仕上げるのは読者、作者は薄幸の生涯を閉じた「姉」もしくは清楚に身を処した「姉」のくちびるにレモンを乗せるだけである。愛のオマージュ、二十代の「デスマスク」の歌を想起させる。

  馬がみんな貨車より顔を突き出している春の夜にあう

 これまた二十代の歌で最初に取り上げた「夢ある童話」にありそうな一場面である。三句欠落、二十七音、そんなことにさえ気がつかない。基本的に抒情歌人だったのではないか、と思われるような一首である。ほかに馬で忘れられない作品に〈頭(あたま)の差で勝ちし馬そのアタマ下げて来るのが遠く見ゆ〉がある。「頭」と「アタマ」を使い分けることによって二つの場面が効果的に描かれている。

  笑う蟹もいる いま炎なす火に投げこめば

 歌の長さはいろいろで掲出歌の場合は二十二音、最短に近い例である。一連は「笑う蟹もいる」「いま炎なす」「火に投げこめば」の三つのブロックに分けることができる。そして最初のブロックは気持「笑う・蟹もいる」で読むとリズムがとりやすい。

  ヘリコプターが吊り下げて来るはタコ焼き屋と見ゆメーデーどまんなか

 三十二音、ほぼ短歌である。しかしこれも「ヘリコプターが」「吊り下げて来るは」「タコ焼き屋と見ゆ」「メーデーどまんなか」と四つのブロックになる。たぶん高瀬的リズムの取り方であったろう、と思われる。

  にんげんの凱歌とは何 ほろびし父がつくりしタンカーマラッカ海峡こえしとき

 四十一音。最長に近い例。これも「にんげんの」「凱歌とは何」「ほろびし父がつくりしタンカー」「マラッカ海峡こえしとき」で無理に中五音を探す必要はないだろう。
 そんなことを考えながら『高瀬一誌全歌集』をパラパラしていたら『レセプション』の解説として私の「高瀬一誌の読み方」が載っている。恥ずかしながら読み返してみたが今の感想と変わるところはなかった。


*『スミレ幼稚園』と全歌集は「髙瀬」、残る三歌集は「高瀬」の表記である。

 前田宏章さんの歌(「白珠」2006.5)
 
 依頼を受けたのは『昔のむかし』の批評であるが、これがあまりにおもしろかったので第一歌集『喜劇の周辺』を読み、第二歌集『道化の眷属』を読んだ。そして「犬たちへの鎮魂歌」と副題のあるエッセイ集『ダンボール箱のかぐや姫』を読んだ。このうち『道化の眷属』は国立国会図書館で検索したがなかった。大阪府立図書館にもない。大阪市立中央図書館にもない。ようやく堺市立中央図書館で手にすることができたが勿体ない話である。
 この中で作者の素顔を最も語っているのは、言うまでもないが『ダンボール箱のかぐや姫』であろう。これにくらべると歌集は一筋縄ではいかない。『昔のむかし』から一例を挙げてみる。

  甘党の父の忌日に供えたるおはぎ二つを夫婦で食べる
  「よい人は早死にする」とある日言いし父は八十九となりたり
  七十の手習いを始めし老父 な、なんと百まで生きるおつもりか

 三人の父親で本物はどれか。クイズみたいなものである。しかし虫眼鏡で足跡を辿っても作者には行き着かない。『喜劇の周辺』にもどって「あとがき」を読むと小見出しは任意であること、そして「連作や題詠によるものではありません」と述べている。つまり虚実ないまぜ、同一の「われ」というシチュエーションでは読み解けない理由がそこにある。一作完結型の歌人であるらしいのだ。逆に言えば、これで読者としてのスタンスも決まる。

  東京弁で「馬鹿」といわれて腐る子に「アホかいなー」と励ましてやる

 『全国アホ・バカ分布考ーはるかなる言葉の旅路』という本もあるぐらいでアホの地域の総本山の人間がバカの地域の総本山の人間からバカのレッテルを貼られる。腐らないわけがない。それに対して父親の「アホかいなー」には情愛が籠もっている。なんなら『大阪ことば事典』を開くとよい。「アホ」に対する独特のニュアンスが理解できるだろう。堆積された言葉の歴史が作品のリアリティなのであって、作者の実生活によって担保されるわけではない。
 もう少し前歌集に拘るが『道化の眷属』の「あとがき」に「第一歌集の文語体、歴史的仮名遣いから第二歌集では口語混じり、現代仮名遣いに変更」したとある。これに関連して「助動詞、助詞『なむ』の『む』を自動的に『ん』と表記するのには、いまなお抵抗」があると述べ、端的に「『ん』では、この床しい『む』への百年の恋が一挙に醒めるおもい」だと告白している。あと一つ、

  寒の入り生暖かく夭折の芸人の無軌道をなつかしむ

横山やすしの雲助事件に関連して「僕は彼の愚かしい一生が好きです。彼も、あの運ちゃんも瓦版屋も、どこか可笑しく、飾らぬ自己主張を持ち、生き生きとしていて、どうしても憎めない。僕の『道化の眷属』のメンバーなのです」というくだりである。この時点でいうならば私は作者の片思いであったろうと思う。それがそうでなくなるのは先に引用した「む」に対する愛着から自由になったときである。シンパシーから文字通りの同じ地平、サラブレッドの一群だった歌人は、いきなり短歌前術に躍り出たのである。

  レンジにてチンして食べる 仏壇にチンして食べたは昔のむかし

 作者のいう「典雅な文語体」の対岸に立ったのである。同じ「チン」というオノマトペで対比される現代と、おそらく作者の少年時代の記憶、懐かしさと批評の混在する一首である。典雅な文語体を意識していえば卑俗な口語体ということになろうか。

  人前でのわれを支えてくれるものネクタイ、背広、パンツのゴムヒモ

 初句から四句までを「うんうん」「なるほど」「そのとおり」と同感しつつ読んできた読者も結句では度肝を抜かれるに違いない。しかし作者に下心があるわけではない。実感に即していうならばこうなる、それだけのことなのだ。拍手喝采の読者もいるが、眉を顰める読者も多いことだろう。理由は簡単である。和歌の流れを汲む短歌の世界では今以て雅語の伝統が生きている。「パンツ」も「ゴムヒモ」も俗語すなわち短歌版「放送禁止用語」なのだ。

  聖俗は分ちがたくて喉仏、その間近くに喉チンコある

 先にレンジのチンと仏壇のチンがあった。こんどは「喉仏」と「喉チンコ」である。「喉チンコ」を辞書で引くと「口蓋垂」とある。しかし「口蓋垂」では、この歌に限らず歌にならないだろう。硬いのである。歌は医学論文や公文書ではない。そこで俗称が登場する。日常生活はネクタイや背広、パンツのゴムヒモだけではない。身体の各部までもが聖俗分かちがたく存在するのであった。

  虫の知らせを時には信ずもともとは精虫という虫だった僕

  音もなく防犯カメラが目を向ける 回覧板を持ってきました
  わが家にも金色(こんじき)の空間ある不思議 僧のうしろに坐りて眺む  「もういいよ」と死んだ母ちゃん言うまでは検査も手術も受けて立ったる

 『道化の眷属』の「あとがき」で述べていた「口語混じり、現代仮名遣い」は『昔のむかし』に至って、さらに開眼、雅語と俗語の敷居を取り払うことになった。これに笑いがミックスした世界である。一首目、「虫」で始まる身体感覚表現は多い。逆に「腹の虫」など「虫」で終わる言葉も多い。あの虫たちの正体はなんなのか。答の一つがここにある。二首目、昔の歌謡曲「隣組」の詞に「廻して頂戴回覧板/知らせられたり知らせたり」があるが、世の中も様変わりしたものである。三首目、仏壇には金仏壇と唐木仏壇があるが、この場合は金仏壇であろう。正式には漆塗り金仏壇、なにもない家だと思ってきたが、中尊寺の金色堂が隠れていた、そんな不思議であろう。四首目、結句「立ったる」の「たる」は『大阪ことば事典』によれば「動詞に付き、…してやるの意」。もとより「死んだ母ちゃん」が何か言うわけもない。啖呵は不退転の意思表示であろう。作者は昭和十六年生まれ、早稲田大学を出て読売新聞大阪本社に勤務、四十五歳のときに腎不全、以来人工透析の生活だったと「あとがき」にある。著者略歴の最後は平成十六年「黄泉の国へ旅立つ」、遺歌集は作者の意を体した夫人の手になるものだ。

  オスという挨拶をおぼえた少年がきょうはにかみて会釈してゆく
  このビルで一番親しみやすき貌 モップ片手の寡婦らしきひと
  ネクタイ姿の今日は買わずに帰ろうか揚げたてコロッケ匂う店先

 第一歌集が『喜劇の周辺』、第二歌集が『道化の眷属』と、どちらも笑いというものを強く意識した命名となっている。しかし鋭い切れ味のする前二歌集に比較すると『昔のむかし』は大阪弁のせいもあるだろうが概して温かい。その印象は『ダンボール箱のかぐや姫』の一節「平凡な犬たちとの心の会話を楽しみたい。平凡だからこそ、友達になれるというものだ。/この物語は、こうした凡庸犬たちへの僕の切ないラブ・コールでもある」に似ている。「犬」を「人」に置き換えてみるとよい。「凡庸犬」を「凡人」に置き換えてみるとよい。作者のラブ・コールは戦後の少年時代に端を発し、遠く時間と時代を同じくした人たちに及んでいるのだ。

 そこはかとなき墓の歌 (「鱧と水仙」2004.2.25)
 
  古(いにしへ)の小竹田壮士(しのだをとこ)の妻問(つまど)ひし菟原処女(うなひをとめ)の奥つ城ぞこ             田辺福麻呂
  葦屋(あしのや)の菟原処女の奥つ城を行き来(く)と見れば音(ね)のみし泣かゆ                       高橋連虫麻呂

 万葉集巻九。奥つ城、詞書には各々「葦屋(あしのや)の処女(をとめ)の墓に過(よぎ)る時に作る歌一首并(あは)せて短歌」「菟原処女(うなひをとめ)の墓を見る歌一首并(あは)せて短歌」で墓となっているが、私たちが想像する和型三段墓ないし石塔が林立する墓地でもない。阪神電鉄石屋川駅を下りてほどなくのところに処女塚とあるのが、それらしい。古墳である。場所は神戸市東灘区御影塚町、芦屋市ではない。また処女塚を挟むかたちで阪神電鉄西灘駅近くに西求女塚古墳跡、阪神電鉄住吉駅近くに東求女塚古墳跡がある。どうやら菟原処女を争った二人の男に模しているらしい。

  さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か

 これで思い出したのが上田秋成の「浅茅が宿」(『雨月物語』)である。ときは室町中期、商いで京に上った男は戦乱で帰郷できない。盗賊に遭い、病気をし、とこうするうちに七年の歳月が流れていた。ようやくの思いで再会した妻はさめざめと泣くが一夜明けるとそこは廃屋だった。右の歌は寝所の床下の塚に墓標代わりの板に認められていたものである。
 ところで墓とは何か。平凡社の『国民百科事典』によると「霊魂信仰が支配的であった時代には、死体と死者の霊魂とは区別して考えられており、とくに日本では、死体はけがれたものとして打ち捨て、その中の霊だけを尊びまつるものであった。一部の上流社会では、埋葬場所に墓碑を建てることもあったが、庶民の間にまで流行するようになったのは、ほとんど近世に入ってからのことで、墓といえば石塔を指すまでになった」とある。インターネットに接続して日文研の和歌DBで検索してもはかばかしい結果を得られないのは、それもあるのだろう。いきなり時代は飛ぶが現代である。

  吹きとほる風のそよめき、線香は、ほむら立ち来も。卒塔婆のまへに
                      釈迢空『海やまのあひだ』

 奥津城、塚とくれば卒塔婆へと連想が働くが、これは五輪の塔の形状に切り込みの入った板である。詞書に「左千夫翁五年忌」とある七首の中の作品。墓のそばに立てた卒塔婆に線香の煙が棚引いているのであろう。

  今日よりは旅びとならずいとし子のなつ子が墓をここにし持てば
                         窪田空穂『鳥聲集』
  シベリヤのチェレンホーボの丘の上捕虜番号を記せる墓標
                      窪田章一郎『ちまたの響』
  この世なる今日の逢いかな地深くとどまりいましぬたらちねの骨(ほね)
                       窪田章一郎『雪解の土』

 一首目は東京に墓を建てたことの感慨であろう。なつ子の死は大正五年〈生まれたる家をいだしてただひとりさみしき方にわが子をぞやる〉とも歌っている。二首目は「六月の氷雪」中の一首。詞書は「バイカル湖の西北チェレンホーボに弟の墓がある。たまたま新聞紙上に復員者の談話をよんで」。「捕虜番号」が非情である。三首目は「改葬」七首に含まれる。章一郎の母すなわち空穂の最初の妻の死は大正六年、なつ子の母でもある。そして信濃から上京した空穂が家庭を持ち、東京に墓を建て、戦争で家族を喪い、章一郎の代になって改葬するという一家族の歴史が見えてくるようでもある。

  北緯三五度東経一三九度相模湾沖きみが奥つ城 雨宮雅子『昼顔の譜』

 「海洋葬」七首の内の一首。自然葬というのは墓を持たないのだろうか。アパート式納骨堂とは本質的に別のものだ。雄大ではあるが、周囲とりわけ家族の理解を始めとして越えなければならないハードルは高そうである。

  博物館整理番号121、414なり殉死者頭蓋は
                        香川ヒサ『マテシス』

 生きて非情、死んで非情。まちがっても博物館では眠りたくないものだ。そういえば神戸で行なわれていたポンペイ展で噴火の犠牲者をプラスチックで型取りしたのを見たことがある。これも残酷なものだ。
 次に、ちょっと視点を変えて墓の歌を覗いてみたい。すなわち墓碑刻である。

  うきこともうれしき折も過ぬればたたあけくれの夢計なる  尾形乾山

 歌の前に「放逸無惨八十一年一口呑却沙界大千」、歌の後に「霊海深省居士」とある。霊海は号、深省は名。乾山はもと窯名であった。呑却は丸呑み。沙界は恒河沙世界。無量無数のもの。大千は三千大千世界だろう。人生八十一,年を喩えるなら放逸無惨、その私も今、大宇宙に帰っていく。あるいは私の作品の中にこそ大宇宙が眠る、思えば放逸無惨な人生八十一年だっ た、か。尾形光琳の弟。墓は東京都豊島区西巣鴨の善養寺にある。

  くるに似てかへるに似たりおきつ波立居は風のふくにまかせて 貞心尼

 『はちすの露』を読むと「くるに似てかへるに似たりおきつなみ」という貞心尼の上句に対して良寛は「あきらかりけりきみがことのは」と和したとある。貞心尼の死は良寛の死から四十年を経た一八七二年である。それまで胸に暖めていたのだろう。墓は新潟県柏崎市常磐台の洞雲寺。惜しむらくは墓碑刻とは知らずに写真に撮ってきたことである。
 右の二首は拙著『辞世の風景』(和泉書院)でも取り上げている。そこで次は写真も用意したが最後に外した歌を二首紹介する。

  我もまた身はなきものとおもひしがいまはのきははさびしかりけり
                              恋川春町

 墓は東京都新宿区新宿二丁目の成覚寺にある。だれかの歌が下敷きにあるのだろうがわからない。隔靴掻痒あるいは茫洋としたところで身を退いた。系統もしくは類似ということなら菅原道真の〈東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花主(あるじ)なしとて春を忘るな〉に対する源実朝の〈出でていなば主(ぬし)なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春をわするな〉、清水宗治の〈をしまるる時ちれはこそ蓮すはの花も花なれ色も色なれ〉に対する細川ガラシャの〈ちりぬへき時しりてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ〉が思われるが、掲出歌は「我もまた」だから歯がゆい。

  朝によし昼になほよし晩によし飯前飯後その間もよし    小原庄助

 生前に建てる墓を寿蔵という。これにちなんで辞世を寿世と呼んだのは曲亭馬琴であった。さて小原庄助の墓は福島県白河市大工町の皇徳寺にある。羅漢山人の墓のそばの徳利に盃をかぶせた形の墓がそれだ。戒名は米汁呑了信士。今でいうアイデア墓の主は会津塗師久五郎。採用しなかったのは満足すべき資料が得られなかった点にある。

  私が死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるのだろう
                        山崎方代『こおろぎ』
  ひとつの死はその死者の中に棲まひぬし幾人の死者をとはに死なしむ
                         稲葉京子『天の椿』

 最初の墓とは何か、という問題にもどるのかも知れないが、寺の多くで無縁仏となるために公告されている墓を見ると、ある感慨に捉われる。とりわけ立派な墓の場合はそれが強い。常民の習いといえばそれまでだが、いったい誰が想像したことだろう。
 ただ歌謡としての御詠歌に耳を傾けるとき、十返舎一九は『金草鞋(かねのわせじ)』で「何人(なんびと)の作意なるや、風製(ふうせい)至(いたつ)て拙なく手爾於葉(てにおは)は一向に調(ととの)はず、仮名の違ひ自地(じた)の誤謬(あやまり)多く、誠に俗中の俗にして、論ずるに足(たら)ざるものなり」と鰾謬(にべ)もないが、哀調を帯びた節回しと鈴(れい)の音が加わることによって、そこはかとなく漂う人の気配がなつかしいのである。

 ダンディスト町野さんの置土産(「短歌人」2003.5)
 
 『大伴家持論1』の著書がある町野修三さんが亡くなられた。『ダンディスト』は最初にして最後の歌集ということになる。意外であった。その『ダンディスト』も何時からの作品が収録されているのか明記されていない。「あとがき」は、二〇〇二年六月三〇日、発行日は八月一〇日、掉尾を飾る作晶を挙げる。

  すべり台に孫は遊ばせ爺ちゃんのうつらうつらの春のひだまり

 町野さんの孫さんであるかどうかも歌集から読み取れない。であってもよいし、なくてもよい。ただ昨日があり、今日があり、明日がある。そのことを疑わないように歌集は終わっている。わずかに、

  抜ける毛のとめどあらねば緑なすスキーの帽子を被って眠る

あたりで足を止めるばかりである。「いまごろになって歌集を出す気になりました」「いままで通り詠み捨てのままでよいはずなのです。でも何故か一冊の歌集にまとめたくなりました」(あとがき)。そうだったのか。町野さんは身辺を整理するように歌集を編んだのだ。やはりダンディストである。

  春やはる春爛漫の花粉症目もとうるませオッチャンも行く
  忙しいことが自慢でよく喋るこのオバチャンらには逆らわず居る

 爺ちゃんが出てくるかと思うとオッチャンやオバチャンも出てくる。ダンディスト町野さんは大阪のオッチャンだったのだ。

  音響関係の仕事と誇るオイヤンは粗大ゴミの日にアンプを狙う

 そうかと思うとオイヤンも登場する。オイヤンとは誰か。〈自動車の古バッテリーが押さえいるテントの端がバタバタとする〉。青テントの住人すなわちホームレスなのだ。

  雑踏の中に毅然と老いは立つ風俗店の看板持ちて

 ダンディストの目に映った老人は何に対して毅然としているのか。おそらく孤独あるいは死。オイャンの一連の中には行き倒れも歌われていた。やはり「あとがき」に「高度に機能的な現代社会に働く一方で、木造の昔ながらの古家に棲むという、どこかに齟齬を感じながら生きてきた男」とある。そんなライフスタイルが育てた温もりである。
 ご本人は詠み捨てのつもりだったのかもわからないが、よくぞ纏めておいてくれたものだ。なかなかに読み捨てとはいかない。

  「取り急ぎ御礼まで」と簡潔な礼状されど急がぬものを

 「取り急ぎ」を連発している私には一番こたえた歌である。さはさりながら、である。同じ視線が自身に向かうと〈出でゆけば必ず帰ると妻や子は吾を恃みてまた見くびりて〉となる。つまるところ縦横無尽なのだ。

 漬物が歯にひっかかり人生についての思惟もこれまでとなる

 この歌の前に〈男とは人生とはと酔えば云う屋台のオヤジに笑われながら〉があってダンディスト町野さんの諧謔ないし韜晦が偲ばれるのだった。

  ゆくりなき身震いひとつ体温の流れるような朝のゆまり
  外出時の儀式のように確かめる鍵の内部でカギ掛かる音
  たわやすく紙に切られし中指に仁丹ほどの血の玉滲む
  按摩機の心こもらぬもみ具合さはさりながら口答えせず

 春らんまん(高瀬一誌歌集『火ダルマ』栞、2002.4)
 
 久しぶりの高瀬調高瀬節である。なつかしく読む。そして改めて『火ダルマ』が遺歌集であることに気付いたりもする。

  わが体(からだ)なくなるときにこの眼鏡はどこに置かれるのだろう
  眼鏡とればみられない顔であったがこの頃はそうでもないか
  眼鏡とりし写真のわが顔 人生なくなるごとしはなぜなのだろう

 こんな歌を読んだときである。たしかに「眼鏡とは棚におくもの」「置かれたる眼鏡」(『スミレ幼稚園』)というフレーズはあった。また『レセプション』には〈わが死顔ありありと見ゆ眼鏡かけていないどうしたものぞ〉ともある。しかし『スミレ幼稚園』以前の高瀬さんは圧倒的に〈眼鏡の奥で笑う眼と親しまれてもどうにもならぬ〉(『喝采』、つまり体の一部であった。
 それがそうでもない高瀬さんがいる。三井ゆきさんの「闘病記」(「短歌人」平成十三年十二月号)によれば最初の入院は平成七年だったとある。気がつかなかったのは読者としての不覚であるが、作品も「病んだ姿を決して見せたくないという一種の美意識」によって支えられていたのであろう。
 眼鏡と同様に常連の猫の歌を読む。

  外を見るムー茶(猫)とならんでいればずいっとみえてくるではないか
  どっこい生きている顔になりましたね猫のサミーが逃げながら言う

 以前より猫と作者の距離が短縮されているような気がしてならない。だいいち名前で呼ばれる「猫」が登場するのは、おそらく今回が初めてなのだ。この時期、高瀬さんは眼鏡を外すことが多かったのではないか。

  春らんまん読経のなかによみあげられた岡利之助さん

 「短歌人」の古い同人。この種の歌では少数派の私的な人名の登場である。加えて「春らんまん」の中で読み上げられる「岡利之助さん」の響きには賛嘆があって、私などには平成十三年五月十五日の池袋祥雲寺での告別式がオーバーラップするのである。

  チューブ入りの朝食を摂るらしいしかしそれでは宇宙人になる

 名前こそ登場しないが「地球儀」一連では「東京のおとうさん」の素顔が覗く。チューブ入りの朝食を摂っているのは永井陽子、平成十二年一月二十六日逝去。右の作品が「短歌人」に掲載されるのは同年四月号。平成十二年十一月二十三日、名古屋市ルブラ王山で「永井陽子を偲ぶ会」が開かれた。高瀬さんは「この会に漕ぎ着けるまで、病室から名古屋の斎藤すみ子さんとしばしば連絡を取り合っていた」(「闘病記」)。

  せっけんでせっけんあらえば春の夜たしかに泡立ちにけり

「この歌に返す」。この歌とは、

  いつまでも転んでいるといつまでもそのまま転んで暮したくなる
                              山崎方代

 初出は平成十一年四月号(六十周年記念号)。三十二人が参加した「この歌に返す」。篠弘が「高瀬一誌追悼号」(「短歌人」平成十三年十二月号)で「意外に山崎方代に批判的であった」ことを述べている。止むを得ない結果であろう。舞台を下りて歌う歌人と、そうでない歌人。姿勢も魅力も別の角度からやってくる。ネガティブな抒情がアクティブに変換されるのを見ると「返す」が「反す」であることが納得されるのである。

  説明は省くのがよい蟹缶は高く高く積むことができる

 たぶん評論は書かなかっただろう。右の歌などに高瀬さんの歌論があるいは遺訓を聞く思いが残る。だがそれにしても全体像はおぼつかない。もし解明の糸口があるとすれば、編集者としての高瀬さんの行動原理は歌人としての高瀬さんにも通うだろうという点である。多くの議論を経て二人の高瀬さんが一人の高瀬さんに収斂されるのを見届けたい。

 『レセプション』解説 高瀬一誌の読み方(1989.02.7)
 
 『レセプション』は高瀬一誌の二冊目の歌集である。略歴からもあきらかなように歌歴はずいぶんと古い。それに比較して先の『喝采』の出たのが昭和五十七年だから捨てられた歌の数は二歌集の数倍の量になるだろう。もったいない話である。その間、いったい何をしていたのか。「短歌人」の編集発行人として、おそらく私生活を擲って他人の面倒をみていた。私も、その恩恵に与った一人である。『草食獣』の出る前年だから昭和五十三年のことだ。造本に係る一切を任せていた私は歌集のできてくるのを楽しみに待っていた。しかし時間がかかる。婉曲に催促したところ「今、モーレツ多忙」もどってきたのは、そんな返事である。「短歌人」の創刊五十周年記念号に収録されている「歌集一覧」で確認すると、高瀬が編集発行人の間に、百冊を優に越える会員の歌集が出版されている。そのほとんどに深く関わっていたであろう。聞くところでは、その前後、同じような仕事を抱えてナポレオンさながらの睡眠時間だったそうである。
 集中に「高瀬一誌」がよく登場する。自身のカリカチュアであるが、それは(多くの場合)会員に上から下まで三六〇度見られていることを十分に意識した作品である。私には『喝采』の次の一首が印象に残る。

  眼鏡の奥で笑う眼と親しまれてもどうにもならぬ

 面倒見がよい。歌集名も『喝采』と『レセプション』であり、なぜか人が多く集まってくる。おそらく人を動かすのが好きなのだろう。顔は見えないが、ざわざわとした空気が快い。しかし、そこで誤解が生じることもある。人が人の生を肩代わりできないという最後の一線を越えてしまうことだ。はたして眼鏡の奥で笑っているのかどうかは作品で検証する必要があるだろう。
 おもしろいので「高瀬一誌」以外の人名が登場する歌も拾ってみよう。

  かがやかぬまだかがやかぬとぞホメイニは顔を洗いているや
  鈴木善幸がハモ二カ吹くさま映してテレビもかなしきものぞ
  ずぶぬれの夕刊八頁 アスカタさんはまだ生きていたりき
  解説者怒るゴルバチョフと言いしが沈黙の姿にも見えしが

 ほかに「カダフィ」「ゲバラ」「石橋さん」と続く。キリストやトルストイ、また陽外や清張も登場するが素材として好まれるのは内外の政治家である。文化人でないところが妙味である。文部大臣にもなった父親をもつ高瀬としては、因縁浅からぬ世界であり、親近感もあるのだろう。たしかに灰汁の強さや人間くささという点で政治家は絵になりやすい。格好の素材として以前から扱われているもので、カリカチュアにはなっても私小説にはならない高瀬短歌の特色が出ていよう。
 高瀬一誌。こう書きながら、どこか落ち着かない。世話になった一人としては、「高瀬さん」と呼ぶのが素直な感情である。もちろん「高瀬先生」と呼ぶ人がいなかったわけではない。時と所は忘れたが「短歌人」の夏の会、高瀬さんは一言「ウチは先生がいないんだよ」そんなふうに答えたと思う。主宰者のいない結社誌を不思議に思ったのか、それとも水に合わなかったのか、その先生との出会いは(高校の先生だった)それきりである。
 ところで高瀬短歌のボキャブラリーは少ない。ふやしていこうとする努力の形跡がないのは意識的なのだろう。思いつくだけでも、父、母、妻、伯父、弟、男、女、顔、声、塩、魚、あるいはカニ、カメ、笑い、風景、何何の何方(「酔い方」「病み方」「在り方」といったところが即座に浮かぶ。あと少し、指があれば足りるに違いない。しかも父や母や妻、伯父、弟はともかくとしても、男や女には固有の名前があるはずだが、それもない。顔や声も同じである。魚なら鮭・ボラ・カレイと若干の広がりをみせたりはするが「高瀬一誌」や一部の人名を除くと基本的には普通名詞で歌がつくられている。

  カメをぶら下げることはわが放浪のはじまりかもしれぬ

 カメは何かを象徴しているようでもあるが、何も象徴していないようでもある。そもそもカメをぶらさげるとは、どんな格好なのか。紐で甲羅を十字にでも縛るのか。また東京は足立区にカメはいただろうか。高瀬一誌は、それをぶらさげてどこへ行くのか。あり得ない光景であるが放浪のイメージだけは理解できる。

  所在なげにいれば蟷螂の喧嘩を見にゆかんという

 およそ変な歌ばかりなのだが、これを日常次元での言葉や秩序に置き換えてみても何も始まらない。「蟷螂の喧嘩」は、やはり「蟷螂の喧嘩」なのだろう。そう諦めて読むと意外に哀愁の霧が流れていたりするのである(ナンチャッテ)。

  カメを買うカメを歩かす力メを殺す早くひとつのこと終らせよ
                              『喝采』

 「カメをぶら下げる」から連想するのが、この歌だ。しかし同じカメでも、こちらのカメは苛立ちの対象となっている。社会的な約束事でがんじがらめにされている自身の生を解き放つのはリタイアしかない。ふとカメは作者にのしかかっている「短歌人」だろうか、こう考えても不思議でない。別の読者なら別の解釈を用意してくれるだろう。そこが高瀬短歌の味噌なのだが。

  見まわせば水をあまた吸いこみたる状況ではないか

 ここまでくると正直なところ私の手には負えない。触発される予感のようなものは体感できるのだが発火しないのだ。しかし発火する読者もいるだろう。少し手抜きといおうか、狡い気がしないでもないが、これが高瀬一誌の手法である。核になるものだけを読者の前に投げ出してみせる。それを脹らませるのは読者だというわけだ。

  川から引き上げられた物体はことごとく人間につながるもの
  坐らざる椅子八つあることを日常の余白ともなす
  さながら風化するまで靴を置く三和土の毎日は飽かぬぞ
  エンピツをとがらしとがらしいればゆきつくところないではないか

 一刀彫の名手とでもいおうか。たぶん推敲に推敲をかさねるタイプではない。原石に磨きをかけるということは解釈をほどこすことにほかならないからだ。昔、テレビを捻ると中外製薬の「ガンバラナクチャ」「おじゃま虫」「ちかれたびい」といったコマーシャルの流れていたのが思いだされる。むろん短歌とコピーを同一視するわけにはいかないけれども、それを産みだした手腕も無視はできない。おそらく語彙の少なさ、固定化、単純化、そして固有名詞の忌避は高瀬一誌が高瀬一誌にまとわりつく固有名詞を脱ぎ捨てた結果なのだ。それは言葉に浮力をつけるのに役立っているだろう。

 ①伯父の墓/酒供えれば/柄杓もくれよと/その声のする
 ②電話機を/持ち歩くくせのおんなは/花模様のまま/眠りたり
 ③レントゲン/写真にいつもうつる/魚のごとき/かたちはなにか
 ④わが体/こわれるまでゆさぶる/機械一台/この世にあるか
 ⑤火の神様の札/何枚もはりつけし母を/いま/ごうごうと焼く
 ⑥吊るす前から/さみしきかたちになるなよ/おまえ/トレンチコート

 韻律が変則であることはいうまでもない。しかし非定型とは思わない。どこで切るかを考えてみた。方法は単純で、私流に黙読して、その結果を/で確認したにすぎない。
 一番。五・七・八・七の二十七音で欠落しているとすれば三句であろう。  二番。五・十二・八・五の三十音。十二は五と七もしくは七と五に分けられなくもないが実際に読みだすと息を継げない。これも欠落しているとすれば三句と考えられる。
 三番。五・十一・六・七の二十九音で三可欠落。十一は気分としては五と六の間に小休止を入れると読みやすい。
 四番。五・十・七・七の二十九音で、やはり三句欠落。
 五番。異論のあるところだろうが九・十三・二・七の三十一音。三句欠落。
 六番。五番と似ているが七・十二・三・七の二十九音で、これも三句欠落。
 引用した作品は、ただ単に私の好きな作品ということで選んだ。どこかで引用したくて用意していたものだ。したがって他の作品と置き換えてみても、それほど変化はないものと思われる。気がつくことは大体において三十一音に少し足りない。しかし三句に相当する五音を差し引いた二十六音よりは、これも大体において少し長いということだ。そして高瀬節はどんなに工夫しても五句としては感受できない。では、なぜ三句欠落なのか。説明を加えると中央部の境界があいまいなのに対して上・下句とおぼしき両端が定型らしく装われているため間尺の合わない部分が残る。それを三句だといったのである。

  ずらりと停車しているバスの顔にもたしかな年輪はある
  こわれはじめたる椅子一脚も声をあげねばそれでよろしい

 右の二首からアレゴリカルな解釈を引き出すことも可能であるが、高瀬一誌は、ほとんど自作について語ることがない。歌論らしい歌論も書かない。書く暇がないから書かないのか、書くつもりがないから書かないのか、その潔さは認めるとしても、高瀬短歌がどのようにして形成されたのか、その過程を知ることはおろか、変則的なリズムに込められた主張さえ伝わらないというのは読者にとっては不便な話である。
 そこで義侠心に駆られたわけではないが独断と偏見の二刀流を開陳すると、こうだ。
 その魅力、一。
 まず解釈の自由が保証されていること。イニシアチブを握るのは読者なのだ。このことがいいたくて本稿の大半を費やした。
 その魅力、二。
 短歌は好きだが湿度の高い抒情は敬遠したいという都会派に薦めたい。変則的なリズムは自らの短歌的資質に溺れないための工夫であり救命具なのだ。
 実際、短歌をつくり始めたばかりの私にとって高瀬短歌の存在には勇気づけられることが多かったことを今も懐かしく思い出すことができる。それはまぎれもなく現代短歌の多様性の証明にほかならない。


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