四国曼陀羅紀行by吉岡生夫

旅に出たのは四国八十八ヶ所
風がはこぶ御詠歌
時を越えて歩む遍路
ふりむけば
菅笠の下にわたしの顔がある


写真=徳島市川内町宮島本浦にある阿波十郎兵衛屋敷。

 

 

 

 

 

 

目次(備忘録)
  1. 旅の始めに(御詠歌)
  2. 西国と四国
  3. 遍路
  4. 阿波踊り
  5. 傾城阿波の鳴門
  6. モラエス
  7. 瀬戸内寂聴
  8. 首なし馬
  9. 川島城
  10. 第10番札所切幡寺(大師講、祖父のことなど)
  11. 第11番札所藤井寺(衛門三郎)
  12. 脇町
  13. 池田町
  14. 祖谷
  15. 北条民雄「いのちの初夜」
  16. 小川正子「小島の春−ある女医の手記」
  17. 高群逸枝「娘巡礼記」
  18. 剣山
  19. 牟岐と日和佐とウミガメと
  20. 室戸岬
  21. 絵金(赤岡町)
  22. 紀貫之邸跡(南国市)、「土佐日記」
  23. ペギー葉山「南国土佐を後にして」
  24. よさこい祭り
  25. 坂東眞砂子「死国」
  26. 酔鯨、ホエールウォッチング(土佐市)
  27. 四万十川
  28. 素九鬼子「旅の重さ」
  29. 田宮虎彦「足摺岬」
  30. 足摺岬
  31. 上林暁「四国路」
  32. 永井陽子「モモタロウは泣かない」
  33. 大原富枝文学館
  34. 宮尾登美子「楊梅の熟れる頃」
  35. 吉井勇(香北町、渓鬼荘)
  36. 井伏鱒二「へんろう宿」「ジョン万次郎漂流記」「土佐の土居城」
  37. 大岡昇平
  38. 司馬遙太郎
  39. 第53番札所仙遊寺(遍路墓)
  40. 獅子文六「てんやわんや」
  41. 宇和島
  42. 梅原稜子「四国山」
  43. 大洲(大江健三郎)
  44. 坪内俊典(佐田岬)
  45. 高野公彦(長浜町)
  46. 道後温泉(聖徳太子、万葉集8.90.323.3202)
  47. 一遍(道後温泉)
  48. 俳句王国(子規、虚子、河東碧梧桐、中村草田男)
  49. 漱石(坊ちゃん)
  50. 山頭火(一草庵)
  51. 石鎚山(「日本霊異集」、西行「わすれては不二かとぞおもふ」)
  52. 早坂暁「四季物語」「女相撲」
  53. 池田勇人「大島島四国」
  54. 第75番札所善通寺(空海と弘法大師)
  55. 満濃池
  56. 第81番札所白峰寺(上田秋成「白峰」)
  57. 森の石松(金刀比羅宮)
  58. 日柳燕石(義経・曾我廻家五九郎・生田花世ほか)
  59. 坂出市(万葉集5.320〜322、中河与一)
  60. 菊池寛記念館
  61. 林芙美子
  62. 怪傑ハリマオ(山田克郎原作)
  63. 四国アイランドリーグ
  64. 仏生山(「榧の木祭」)
  65. 桃太郎伝説
  66. 喜びも悲しみも幾年月(男木島灯台)
  67. 瀬戸の花嫁
  68. 第87番札所長尾寺(静御前)
  69. 市川団蔵(小豆島八十八ヶ所)&網野菊「一期一会」
  70. 萩原井泉水「山荘雑記」
  71. 尾崎放哉記念館
  72. 壺井栄記念館
  73. 坂村真民
  74. 後記に代えて(はかなくも墓談義)

 



なつかしさの原郷
「短歌人」平成13年4月号
 やっと手に入れたカセット「四国八十八ヶ所霊場御詠歌」(東芝FMI)を聞いている。これとCD「西国三十三所御詠歌」(市原栄光堂)を聞きくらべるとおもしろい。活字で見るかぎりでは西国三十三ヶ所の御詠歌の方が四国八十八ヶ所の御詠歌より体裁が整っている。歌としては数段上等である。しかし耳にするとその差異が消減するから不思議である。中尾堯編『古寺巡礼辞典』(東京堂出版)には全国百余の巡礼コース、したがって相当数の御詠歌が収録されている。それらを四国八十八ヶ所の御詠歌と置き換えてみても同じことがいえるに違いない。
 和田嘉寿男の『御詠歌の旅―西国三十三札所を巡る』(和泉書院)は「詠歌の目的は何かと言えぱ、観音の衆生済度のありがたさを身をもって感じとらせることである」「けれども、そういうものなら言葉だけでは不十分で、そういう効果を高めるためには、それ相応の補助手段も必要である」として詠歌の曲節、楽器(鈴・鉦)、燈明と香煙を挙げている。しかし実際の文章は歌詞の分析と寺の来歴に終始するためか「それまであった郷愁のようなものがだんだん剥がれて、醒めたような気持になって愕然としている」「私は、御詠歌そのものよりもその詠誦、その節回しや鉦の音に惹かれていたのかもしれない」と「あとがき」で述べている。西国三十三ヶ所の御詠歌にしてからが、こうなのである。
 ところで坂東眞砂子の『死国』(角川文庫)は事故死した娘を逆打ちによって蘇らせる話であるが、こんな科白が印象に残る。
 〈自分のことを覚えちゅう人がおる霊は幸せよ。その人のところに、その人が思いゆう通りの姿のまんまで戻っていける。ほんであたしも戻ってこれた〉〈あたしにはわかっちょった。文也君、私のこと、ほんとうは好きやったがよ。ほんで、心の底でいっつもあたしのこと、思い出してくれよったがよ〉〈死んだら、何も欲しがったらいかんが?〉〈死んだら大人になれんが? 死んだら、人を好きゆう気持ちも死なんといかんが?〉
 つまるところ私たちが思い出すかぎり、思い出すことのできるかぎり、死者は思い出の中で生きている。思い出してくれる人のいるかぎり、思い出の中で死者は蘇ることができる。だが思い出す人がいなくなると、はたしてどうなるのか。戻ってくる場所のない死者は、ほんとうに死んでしまうのか。

 戦ひに死にたる人を思ひ出づるべかりし人も大方死ねり
 ひとつの死はその死者の中に棲まひゐし幾人の死者をとはに死なしむ
 
 稲葉京子歌集『天の椿』(雁書館)からの引用である。作者は「とはに死なしむ」と歌いながら、次のような歌も収録している。

 たちかはり人は死者を見るもしわれが死者ならばいとはしく思はむものを

 個別の顔や名前は消えるかもわからない。しかし気分のようなものは残るだろう。和田嘉寿男も執筆の動機で「信仰心からではなくて、もつぱら夏の夜の祖霊を迎えての鉦の音とそれに和する和讃の、やるせないほどの寂しさ」を述懐していた。奈良の古い町家の記憶である。死者が戻るとすれぱ御詠歌の曲節の中(鈴や鉦、灯明のゆらめきや香煙のくゆり)も数少ない場所の一つであろう。
 歌詞の分析ではない。寺の来歴でもない。とすれば同行二人の遍路しか残らない。島四国に引き寄せられた無名の人たちの凝縮された生。それに署名のない御詠歌を重ねてみる。やはり歩かざるを得ない? これは今、カセットを聴きながらの感想ではない。
 発芽した歌の辺路旅への誘いである。
 吉井勇紀行
 「鱧と水仙」(28号)
  寂しければ山どびろくをあふるべう生椎茸を爐火(ろび)の上(へ)に焼く            吉井勇

 歌集『天彦』の巻頭は「韮生の山峡」である。詞書に「昭和九年十一月、土佐の国韮生の山峡猪野々の里に、ひとつの草庵を作りて渓鬼荘と名づけぬ」とある(但し全集年譜では昭和十年)。掲出歌は初句に「寂しければ」を持つ七十一首の一首、独楽吟ならぬ独寂吟ないし独酌吟の趣である。食べ物では味噌煎餅と茄子が詠まれている。茄子は炉で焼くのである。渓鬼荘は六畳と四畳半、玄関を入った六畳の間に炉が切ってある。あとは縁側、足らないのは厠と炊事場である。全集第二巻の写真の正面左に小さな建物が写っている。歌にも登場する厠であろうか。左上段に焼失した鉱泉宿猪野沢温泉、となると基本的には自炊の必要はなかったのである。渓鬼荘が建つ前になるが歌集『人間経』の巻五「土佐の国猪野々の里にて詠みける歌」には「猪野々なる山の旅館の夕がれひ酒のさかなに虎杖を煮る」「名は知らね大山祗もたうべます霊薬として山草を食む」ほか次の一首がある。

 にごり酒破竹虎杖乾ざかなありてたのしも山の夕餉も

 全集の年譜には昭和八年四十八歳「猪野々に在ることおよそ一月」「このころ徳子と別居、後に至って離婚」、昭和九年四十九歳「四月、土佐に入り猪野々に淹留」「この年いよいよ土佐隠棲の志をかためた」、昭和十年五十歳「伊野部恒吉より隠居所を譲り受けた。それによって自らの草庵を猪野々に作り渓鬼荘と命名した」、昭和十一年五十一歳「四月、歌行脚」「八月、土佐渓鬼荘に帰った」「この秋から翌十二年春にかけて半歳ほどの間、静岡市の街はずれに仮寓」、昭和十二年五十二歳「十月、山を下りて高知市築屋敷に居を卜して、東京から千葉県人国松喜三郎の長女孝子を迎え、結婚生活に入った」と実に目まぐるしい。
 さて楽しみといえば酒しかない土地柄である。そしてそうした人たちと馴染みとなって酒量も増えていく。また高知あたりからやってくるのも殆どが酒客である。ときに烟火の巷が恋しくなって山を下りることもあった。隠棲といい、籠居というが、それは東京を意識した場合のそれであって猪野々には猪野々の「この世」があった。独酌する「寂しければ」が真実なら酒客を相手にする勇もまた真実であったろう。鉱泉宿の座敷が渓鬼荘の囲炉裏に移ってもそれは変わるところがなかったと思われる。

 ひさかたの月の夜なれば酒酌まむ益喜も酔 ひぬわれも酔はまし
 四国アイランドリーグ観戦記
 「鱧と水仙」(29号)
 墓参りをする母に便乗して四国アイランドリーグを観戦することにした。出発は七時四十分。しかしゴールデン・ウイークであった。徳島駅到着は十一時十分とナビゲーターは情け容赦もない。これでは前日に買った特急券が無駄になる。飛ばしに飛ばして四十五分短縮、あとは妻に任せて十時三十一分発の特急うずしお十号に滑り込みのセーフで乗り込んだ。高松駅下車、オリーブスタジアム改めサーパススタジアム行きの直通シャトルバスと、ここまでは一気呵成である。おかげで十二時半に球場入り、ポケットから入場券の千円を払う。売店で五百円の唐揚げ弁当を買ってバックネットの裏、本部席の下に腰掛ける。私は徳島県の出身である。しかし徳島インディゴソックスは高知東部球場に遠征、高知ファイティングドッグスと対戦予定である。やむを得ず移動時間の短い香川オリーブガイナーズ対愛媛マンダリンパイレーツの観戦に切り替えたのであった。このガイナーズは「がいな」という方言に由来する。短期間だが父の転勤で高松市にも住んだ。そして使った記憶がある。チーム紹介によれば「強い」、キャラクターもガイナ君、一塁側のスタンドは鳴り物が鳴り、旗が打ち振られ、絶え間ない拍手で賑やかなことこの上ない。対する三塁側のスタンドは愛媛県人であろう、少人数ながらラッパが響き、太鼓が鳴っている。ちなみにマンダリンパイレーツは蜜柑と水軍、徳島のインディゴソックスは藍染め、高知のファイティングドッグスは、説明の必要もないだろうが、闘犬のイメージに拠っている。
 十三時試合開始。球場で野球を見るのは十数年前の甲子園以来である。あのときは子供連れ、生ビールを飲みながらの観戦だった。天気も最高、しかしこのあとハンドルを握らないとも限らない。残念ながら今日は我慢の子である。スコアボードには球速が表示される。テレビ観戦に慣れた眼には正直いって遅い。だがそれがなければ素人の私にはわからない。むしろ堪能できる試合だった。
 五回裏終了後にイベントがあった。東京ヤクルトスワローズに育成選手枠で入団した選手が登場、今春より一軍の公式試合に出場可能な支配下選手になったという紹介のあとインタビューを受けていた。確率は低いが道は閉ざされていない。四国アイランドリーグの公式サイトは基本姿勢を「野球は日本でも有数の人気スポーツであり、今も多くの学童や高校球児が将来のプロ野球選手を夢見てプレーしています。/しかし、一方で長引く不況の影響もあり、かつて二〇〇チームを数えた社会人野球はその多くが休・廃部となり」云々と書き出している。日本初の独立リーグ生誕劇には、こうした時代背景があった。
 試合は七対一で地元香川の勝ち。三時間半のペースだったが五回の裏に香川が一挙に六点を取ってから急展開、終わってみると二時間半の試合だった。動員数は二千八十二人である。すぐに球場を出たが中からはマイクを持つ女性の声が聞こえてきた。イベントが始まったのだろうか。後で知ったが監督・コーチ・選手による見送りサービスがあったという。惜しいことをした。
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