[ あとがき S ]

   人生 


 <あとがき>

生きていく事は大変です。 彰を亡くしてから、本当にそう思います。
あの時、あぁすればよかったのではないか、こうすればよかったのではないかと眠れない夜、 同じ事をいつ迄も考え、自分を追い込んでしまう事もありました。
ある夜、どうしても自分の気持ちを慰められなくてマンションの最上階の踊り場迄登りました。 夜中でもたまに行き交う車を見ながら 「私は これから先どうしたらいいのか、どうしたいのか」考えていました。
私は、あの子を勝手に産んで、勝手に育てました。 なのにあの子がいざと言う時 何にもしてやれなかった、助けてやれなかった。
こんな辛い思いをさせられる位なら産まなかった方が良かったんじゃないだろうか?
母親失格だ・・・ 私の人生って何だろう。  彰の人生って何だろう。 もう疲れちゃった・・・・
明日もまたこうやって過ごさなくちゃいけないのです。

それじゃ逃げてしまえばいいのかしら? 「私がここから飛び降りれば 楽になるの・・・・」 こんな事を書くと回りの人に心配されてしまいますが、この時は本当に追いつめられていました。もちろん そんな事をすれば回りの人に大変な迷惑をおかけてしまう事はわかりきった事です。
主人に何度か「悲しいのは お前1人じゃないんだぞ みんな辛いんだ。お前は自分1人が最高に不幸な人間だと思い込んでいるけれど、彰を愛してくれた人は それぞれ悲しみに耐えているんだよ。もう少し人の気持ちも考えろ」と叱られた事があります。 その時は つい甘えて「あなたは 母親の気持ちなんてわからないでしょう」といいかえしましたが、よくわかっています。

42年間生きていると辛い事、悲しい事はいくつかあります。 その都度自分を励まし、慰めたりして何とか前向きに立ち向かって来たつもりです。でも今度だけは立ち向かえないのです。 本当にこれには困りました。マンションの踊り場で自分に問いかけます 「あなたの人生は、そんなひどかったの?良い事はなかった?」 こんな可愛い2人の子供を授かったじゃない。 お姉ちゃんには、チョットビックリさせられたけど砂絵(お姉ちゃん)を初めて抱いた時、おっぱいをあげた時世界一幸せなお母さんだと思ったじゃない 彰だってそうだよ。 こんな悲しくて、こんなに辛いのは彰が14年間 あまりに私を幸せにしてくらたから・・・ だからこんなに悲しいんだよ。

トシ(夫)と出会ったのだって そうだよ 砂絵と彰をこんなに可愛がってくれて。 トシがいなかったら こんなにいろんな事 乗り越えられなかったよ。
まわりのみんなの事だって考えてごらん  みんな優しくて、暖かくて、泣きたい時には、飛び込んでいける人がいっぱいいるじゃない。今日だって心配して顔を見に来てくれたじゃない 「こんなに幸せなのに 自分の人生 否定するの?」 そうですよね 辛いけれど、神様はその辛さに耐えられるようにいろいろな幸せを授けてくれているんですよね。

子供を亡くす事は、親にとって最高の不幸だとおもいます。 世の中では、母親が保険金を掛けて子供を殺したり、虐待をして殺してしまったり。特別な事ですが、少しずつ母子関係が変わってきているのでしょう。 でも、もう一度振り返って頂きたいのです。 私自身も特別愛情深い母親だったでしょうか? 娘がぐれて大変な時「この子を殺して、私も死んでしまおう」なんて今思うと空恐ろしい事を考えた事もありましす。
少し反抗期に入り始めていた息子が「うるさいなぁ〜 アッチ行けよ〜」なっどと口をきいた時には「早く大きくなって出ていかないかしら。もう主人とのんびり過ごすんだから」なんて思った事もあります。
その時生きている≠ニいう大切さに気が付いていませんでした。
生きている℃魔ェ当たり前だったのです。

     いつものように夕食の買い物をします。
     「あっ!これ彰の好きなお菓子だ。これは、彰の・・・」   
     当たり前にしていた買い物、何気なく買っていたお菓子・・・
     今は、食べてくれる人がいません。美味しく出来たミ−トソ−ス。
     仏壇に供えますが、涙が出ます。 「だって食べてくれないじゃない」

そう言ったたわいのない日常が素晴らしく幸せなのです。

これは亡くした者にしかわからないのかもしれません。 でも、もう一度振り返ってほしいと思います。 その子が生きている事、それがいかに大切な事か・・・ 生意気ですが、今の私の実感です。

彰は、生きたかったのです。
この病気を治したいというあの子の気持ちは、痛い程伝わってきました。
入院当初は「食事がまずい」とブツブツ言って食べなかったりしていましたが、後半は熱が40度と続いても一口でも食べようと努力していました。 辛い点滴も,子供達が一番嫌がる随注(骨髄注射)も文句ひとつ言わず受けていました。
抗ガン剤で吐き気がひどい時でも「吐くと体力が落ちちゃうから」と必死で耐えていました。
ましてや動けなくなった3月の終わりでさえバナナが良いと聞くと食事の声がかかった時
「バナナがあるか見てきて。バナナだけは食べるから」と 食べられる訳がないのに言います。
何度思い出しても、胸が痛く、あの子は生きい、治りたいという思いが伝わって来ます。

小さい頃から恐がりで、人一倍淋しがりやのあの子が迫り来る死という恐怖と必死で戦っていたのです。
その時 私は一体何をしていたのでしょう。 「頑張れ もう少し頑張れ」 と ただ繰り返すだけで何も出来ませんでした。
私は 母親でありながら、何も出来なかったのです。

ある方が慰めて下さいました。
「人間は、やるべき事が済んだら向こう世界へ行ってしまうのよ。今度は、向こうの世界でやらなきゃならない事があるから・・・彰ちゃんは、この世界で修業する事がみんな終わちゃったのよ。きっと向こうの世界で、またいろいろな人に愛されて頑張ってるよ。それをこちらの世界から見守ってあげましょう。お母さんがいつ迄もメソメソしていると、彰ちゃんは優しいから気になって向こうの世界の修業に身が入らないかもしれないよ。思ってあげるのはいいと思うけど、自分を責めて苦しむのは止めた方がいいよ」
そうだと思う気持ちもあります。でも・・・と思う気持ちもあります。
これは、私の一生の宿題となりました。

どうぞもう一度 我が子を振り返って見て下さい。
たくさんの問題を抱えている方も沢山いらっしゃると思います。
でも、彰一郎の生きたかった気持ち、私達の生きさせたかった思い。
少しでも伝わればと思います。


     日常の当たり前の幸せを今一度 振り返ってほしいのです。




      
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