公開資料 15「こころを育てるカウンセリング〜その原理と方法」(東京成徳大学教授;國分康孝先生)

 
・なるべく教員でない方にもわかるように話すつもりだが,少し教員の世界に偏った話になるかもしれない。教員でない方は教員の世界を知るつもりで聴いてほしい。
 
1.なぜ育てるカウンセリングを強調するか。
・結論は,今までのカウンセリングではあまり教育の役には立たないのではないかと考えるからである。今までのカウンセリングの主流は心理療法的なものであったからである。
・戦後すぐに日本にロジャーズの考え方が導入された。ロジャーズの考え方は「来談者中心療法」と言われ,カウンセリングと心理療法を識別しなかったのが特徴である。有名な著作「カウンセリングと心理療法」(1942年)があるが,題名は両者を分けてあるが,中味は分けていなかった。カウンセリングのことしか書いていない。しかし,ロジャーズに言わせるとカウンセリング=心理療法。
・精神科の医者がロジャーズは精神科の医者ではないのだから,精神科センターの所長を勤めるのはおかしいだろうと指摘したが,ロジャーズはカウンセリング=心理療法の立場を主張していたため,「おかしくない」と言って通した。
・ロジャーズの考え方が日本に伝わると,教師がロジャーズのカウンセリング研修に数日出かけ,学校に戻り「心理療法を学んできた」という人たちが出た。それを聞いた精神科医の中には,たかが数日学んだだけで学校でやれるようでは「カウンセリングとは医者の真似事を素人がしているに過ぎない」と見下げる人も出てきた。また,教員の仲間からは「あいつは心理療法を学んできてから締まりがなくなった。子供を叱ることもできない。ただ話を聴くだけじゃないか」と浮き上がるようなこともあった。このようにカウンセリングは世間からも認められず,思うように普及しなかったという印象がある。
・学校は心理療法を必要とする子供の集団ではなく,普通の子供の集団である。心理療法とは精神疾患の人を治す知識,技法のこと。心の病気とはノイローゼ,性格障害,精神病のこと。学校ではそのような病気を持っている子供はほとんどいない。だいたいが普通の子供である。教師は普通の子供に教育をしているのであって,心理療法をしているのではない。だから心理療法めいたカウンセリングというのは多くの教師にとって必要がないし,非常に使いにくい。心理療法を勉強するとは,精神病理学,神経心理学,臨床アセスメント(ロールシャッハなどの投影法等),心理療法の4つを普通は勉強するもの。ところが教師にとっては,精神病理学の知識を必要とする対応が迫られる子供はほとんどいない。暴れるなどの問題を起こしている子供が病気かと言われれば,心が病気なわけではない。普通の子供が誰でもが人生で遭遇する問題を解き得なくて暴れているわけである。その遭遇する問題のことを「発達課題」という。小さい子供なら小学校入学のときに,「親から離れて学校に行く」というのが発達課題,我々大人なら子供が結婚するときに,「可愛い子供から離れていく」のが発達課題,年老いて配偶者が亡くなり,不安を抱える中でどうやってその不安を見つめながら生きていくのかが老後の発達課題である。カウンセリングとは誰でもが人生で遭遇する問題(発達課題)を解くのを助けることである。病気を治すのとは違う。カウンセリングを勉強するためには,性格形成論,カウンセリング理論,心理教育的アセスメント(親子関係テスト,学級満足感テストなど),カウセリング(面接や集団の動かし方等)が柱となる。心理療法はカウンセリングを勉強するための必修ではない。従って,臨床心理学とカウンセリングを勉強する人たちは,それぞれ学ぶ内容が違うということである。客種も違う。目的(治すか,育てるか)も違う。就職先(精神病院か,学校,結婚相談所,職業安定所などか)も違う。アメリカではスクールカウンセラーと言えば,学校心理学やカウンセリング心理学,社会福祉学を出た人が主流であり,臨床心理学出身者は少数である。臨床心理学出身者はだいたい病院に勤めるというのが常識。
・日本では平成7年度から臨床心理学で修士号を取った人じゃないとスクールカウンセラーになれないという風潮が強まった。これは40年前にロジャーズ理論が入ってきたときと同じく心理療法とカウンセリングを識別しない状況である。これは極めておかしな状況であり,「育てるカウンセリングを強く主張したい」根拠である。
・学校とは教育する場である。教育とは何かと問われれば,それは「社会化」をするということである。「社会化」とはこの世の中のルールを学習させるということである。「目上の人には敬語を使う」,「お年寄りには席を譲る」などの文化を教えていくのが教育である。こうした教育と心理療法を識別しないことは,教育現場を混乱させることになるし,子どもの教育上,はなはだよくないことである。
・名古屋の小学校で,子どもたちの中に卑猥な遊びが流行ったことがある。学級で討論し,そのような遊びを今後行ったらどうするかということで「パンツを脱がせて教室の隅に立たせる」と決まった。ある子どもが約束を破り,その罰を受けた。その子の母は「子どもが侮辱を受けた」と教師に抗議した。教師は「子どもたちが学級で決めたことだからお子さんには従ってもらっただけです」と答えた。母はますます怒り,「あなたは何のために月給をもらっているのですか」と言った。この教師のやり方はどうだったのだろうか。何のために月給をもらっているのかといえば,それは「子どもを社会化する」ためである。心理療法とカウンセリングを識別しない人は,「子どもたちの決めたことだから」と「ノー」が言えない人が多い。共感的理解をするのはいいが,教育の場合はそれだけではいけない。教育であれば,「私は君たちの両親から託されている。両親の文化が認めない罰を許容することはできない。作り直しなさい」と言わなければならない。
・教師の行うカウンセリングは能動的でなければならない。心理療法は「来る者は拒まず,去る者は追わず」という受け身的な面が強い。しかし,教育は「逃げる者は追い,来ない者は呼ぶ」ような能動的な面が必要だろう。「能動的なものはカウンセリングではない」と言う人もいる。しかし,それはあまりにもロジャーズの考え方に偏りすぎである。学校で心理療法を行うのではない教師は,能動的であれと言いたい。教師は心理療法の専門家たちに引け目を持つことはない。ただし,同じ能動的でも,カウンセリングを知っている人と知らない人では大きな違いがある。同じ「ノー」を言うのでも,子どもを受け止めることもできるので,子どもからすれば,雲泥の差がある。だからこそ,全ての教師はカウンセリングを生かせるような教育の仕方を開発し,提唱しなければならない。この思いをこめて,「育てるカウンセリング」,すなわち,発達課題を解くことを援助する活動が学校には必要であると重ねて言いたい。
・ロジャーズら,伝統的カウンセリングには「一対一の面接こそカウンセリング」であるという考え方が強い。ところが,教師は一対一の時間がそれほど多く取れないし,職務上,そこまで期待をされているわけではない。心理療法の専門家にはそれが求められているが。
・アメリカのスクールカウンセラーは進路指導ができるかどうかが大きなポイントである。だから,カウンセリングルームにこもるのではなく,年間のキャリアガイダンス計画を作成したり,メンタルヘルスプログラムを作成したり,心の教育のプログラムを作成したりする。「自分たちは教育者である」というアイデンティティを持っている。ところが,日本のスクールカウンセラーは,「自分たちはクリニカル・サイコロジストである」というアイデンティティを持っている人が多い。ここでアメリカの肩を持ちたいのはなぜか。学校では一対一の場面よりはるかに集団の場面が多い。授業,特活などの集団を扱うことが主であるのだから,その集団を生かすことのできるカウンセリングが必要と思うからである。
・一人一人のスクールカウンセラー(臨床心理士)を批判しているのではない。臨床心理士資格認定協会の認定を受けた臨床心理士しか,スクールカウンセラーにあらず,というような昨今の風潮に,「そうではないだろう」と強く言いたいのである。
・育てるカウンセリングの特徴をまとめると,「能動的で,集団を対象にする」,「子どもを治すのではなく,育てるという視点を持つ」ということである。
・現在,文部科学省は,大学院で臨床心理学を専攻し,臨床心理士の資格を持つ教授に学び,臨床心理士資格認定試験を合格したものをスクールカウンセラーとして認定している。しかし,教育学でも,大学院を出て修士号の学位を持つ人が続出している。なぜ,スクールカウンセラーになるための差を付けるのか,その点を見逃したくない。
・臨床心理士の中には「自分たちこそ心の専門家である」と語る人がいる。臨床心理学を学び修士号をとった人だけが心の専門家ということはないだろう。小説家でも,刑事,お坊さん,そして,学校心理学やカウンセリング心理学の修士号をとった人でも,心の専門家になり得るだろう。このような風潮を受け,気の弱い教師は,問題を抱えた子どもを前にすると自信がなくなり,逆に気の強い教師は「心の専門家のお手並み拝見」と子どもを任せきりにしてしまう。いずれにしても,子どもにとってはいいことではない。厳密に言えば,臨床心理士は「心理療法の専門家」であり,教師は「教育の専門家」なのである。両者がぶつかり合うのではなく,連携すればいいのである。ただし,これからの時代は社会福祉の人たちにも連携の輪に加わってもらわないといけないだろう。例えば,子どもに虐待の事実があったとする。教師は家に勝手に入ることはできないが,児童相談所など,社会福祉の関係者は家に入ることを権利として,国から許容されている。また,お金がなくて困っている人に教師は貸すことができないが,社会福祉の人は物理的援助も可能である。21世紀は,子どものために教師,臨床心理士,社会福祉関係者,地域が手を取り合って援助していく時代だろうと思う。
 
2.育てるカウンセリングの一般原理
・育てるカウンセリングの一般原理とは何か? 子ども同士,子どもと教師,子どもと親などがふれあって,「ふれあいのある人間関係を作る」ということが育てるカウンセリングのエッセンスである。
・なぜ,そう思ったか。いくつかの例を挙げる。一つは,社会人大学院生が高校生のドロップアウト研究をしたその結果からである。ドロップアウトした生徒に聞き取り調査をしたところ,「友人が一人もいないから」,「好きな教師が一人もいないから」という二つの理由が浮かび上がった。また,ドロップアウトしなかった卒業生に聞き取り調査をしたところ,「勉強は嫌だったが,友人がいた」,「友人はいなかったが,いつも声をかけてくれる先生がいた」という二つの理由が浮かび上がった。結論として,ドロップアウトの理由は「学校生活に人間関係が希薄だから」ということであり,深い人間関係を作るには構成的グループエンカウンターの導入と,教師がカウンセリングのABCを身につければいいという提案であった。これは,一般的に言える時代だろうと思う。二つ目の例もそのことを裏付ける。学生が卒論で「両親が離婚して,落ち込む人と落ち込まない人がいる。その違いはどこにあるのか」をテーマに研究した。その違いは,周囲に叔父や叔母,祖父母などがいるかどうかの違いであった。つまり,ヒューマンネットワークがあるかどうかによって大きな差があるということであった。三つ目の例は,戦争時の行軍の時の例である。40歳以上の老兵と20代の若い兵士が同じ重さの背嚢を背負い,行軍すると体力のある若い兵士の方がバタバタと倒れていく。なぜか。老兵は家に妻子を残してきているので,「俺が生きて帰らなければ」という思いがより強いからである。家族とのつながりが生への源泉になっているということを強く感じた。四つ目の例は,人間と馬の関係。行軍の時には馬係が馬を引いて歩く。係以外の者は,ひもじくなると「早く馬が死なないかなぁ。死ねば食える」と思う。しかし,馬係は,「馬もこのまま一緒に生きて連れ帰りたい」と強く念じている。馬が倒れると係の兵士も倒れ,その逆に係の兵士が倒れると馬も倒れたという。
・平和な現代の学校において,子ども同士,子どもと教師の間にふれあいの関係があれば大丈夫だろう。そのような関係がないから様々な問題(いじめ,不登校,学級崩壊)が多発するのだろう。
・故稲村博先生が,「心の絆療法」を提唱した。自殺念慮の人には自宅の電話番号を教えたという。自殺念慮の人は強い孤独感を持っている。電話番号を教えるということは,夜でもいつでも何かあれば電話していいということである。それは,「僕の人生に関心を持ってくれる人が一人でもいる」ということを教えることでもある。このことは大きな効果があったという。
・学校でも「心の絆」を作るといい。教師が一人一人の子どもとふれあいを持てるようになるといい。育てるカウンセリングの根底に流れるものが「ふれあい」ということである。ふれあいがあるから,子どもたちは遭遇する発達課題に立ち向かっていけるのである。どうしたら「ふれあい」が作れるのか。ツボが三つある。
 
(1)ワンネス
・相手の世界に入り,相手の世界を共有すること,つきあうということ。どういうことか,具体例を示す。日本にロジャーズの考え方を導入した友田不二夫先生のところに,非行少年が面接に来た。周りから行くように言われたため,嫌々来たのがよくわかった。少年も友田先生も20分間黙っていた。友田先生が「退屈だろうね」と語りかけた。その後の20分間も二人で黙っていた。40分の面接が終わり,「今日はこれで終わりにしよう」と言い,少年は家に帰った。母が「子どもがとてもよくなった。先生のおかげです。ありがとうございました」とお礼を言いに来た。なぜ,少年は変わったのか。「何とか少年に話をさせようとしたら,ますます少年は黙ってしまっただろう」と友田先生は言った。相手の世界に入り,その世界を共に味わったということ。ワンネスとは「1+1は1」ということ。「人生で一人でも僕の気持ちをわかってくれる人がいた」ということが少年の変容になった。だから,どんな人でも「治そうとするな,わかろうとせよ」と友田先生は言った。
・アメリカでは,ロジャーズ派に限らず,様々な流派があるが,どの流派にも共通するのは「相手の身になること」を強調する点である。それだけでも相手を助けることができる場合があるからである。例1。学生相談をしている頃,「学生結婚で悩んでいるのですが」という相談が来たことがある。自分自身が,学生結婚だったので,ワンネスの世界に入りやすかった。「そうだよなぁ」,「大変だよなぁ」と共感できた。相談に来た学生は「先生と話をしただけで元気が出ました」と言って帰った。何か特別なアドバイスをしたわけではない。学生の気持ちになって話を聴くことができたから,学生は元気が出たのだろう。
例2。「女性にふられて死にたい」という相談が来たこともある。自分自身が学生結婚で早めに結婚したということもあり,「女性にふられた」という経験がないので,「なぜ,それくらいで死にたいのかなぁ」と思い,なかなかワンネスの世界に入れない。学生は「先生は割り切りすぎですよ」と言って,不満そうに帰った。それは,学生の気持ちになって話を聴くことができなかったからである。つまり,保護者や生徒の気持ちになって話を聴くだけでも意味があるということであるし,値打ちがある。
・教員の中にもワンネスに入るのが上手な人と下手な人がいる。その違いは何か。一つは「特定の考え方に固執するかどうかの違い」である。教師が「子どもは教師の言うとおりにすべきである」と思っていると,子どもがそのように動かないと怒りたくなる。ところが,考え方に固執していないと,「どうしたの?」と尋ねることができる。東京理科大で講義中,前に座った生徒が2回ほど小さな声で何かを言った。聞き取れずに腹が立った。「何か言うときには大きな声で話すべきだ」と考えていたからである。生徒が「先生,言っていいですか?」と言うので,「大きな声で言え」と言った。すると,「先生のズボンの前のボタンがはずれています」と言った。「大きな声で言いたくても言えないことがあるのだろう」とその時に気づき,相手の気持ちを少しでも考えることの大切さをその時に知った。道元の有名な言葉に「空手(くうしゅ)にして,郷(きょう)に還る」がある。これは,中国から帰った道元に弟子が,「先生は中国から何を学びましたか?」と尋ねたときの答えである。その意味は,「私は手ぶらで帰ってきた。つかもうとすれば何でもつかめる自由を得てきた」という意味である。「俺は精神分析をつかんだ」と言えば,行動療法は使いにくくなるだろう。つまり,ものの考え方というのは,自分自身の人生を律するときの原理ではあるが,人にかかわり,指導するときには,ある瞬間,自分の考え方を手放して,自由になる方がいいということである。ある時期,面接中にリラックスのため,たばこを吸いながらやっていたことがある。相談の学生が吸いたそうにしていたので,「吸いたいのか?」と聞いたら,「ハイ」と答えた。「学生はたばこを吸うべきではない」という考えを捨てた方がいいだろうとその時に考えたので,「吸えよ」と言ったら,「僕は持っていますので自分のを吸います」と答えてたばこを吸い出した。数回の面接の後,本人がたばこを吸わなくなった。その理由を聞くと「先生の前でたばこを吸うのはあまりにも態度がでかいと思いましたので」と答えた。行動が変容したということである。エーリッヒ・フロムは「カウンセラーはアーティストに学べ」と言った。アーティストは善悪には固執せず,美醜に固執する。カウンセラーが善悪に固執しないと,相談に来た人はとがめられることはないと思い,安心して話をする。だから,一般的に美術の先生や保健の先生には相談者が集まってくる。それは担任などの教師よりは,善悪に固執しないからだろう。結論は「教師は自分自身の主義主張を,一時的に捨てられるほどの自由を持っていると子どもを救えることがある」ということである。
・教員の中にワンネスに入るのが上手な人と下手な人がいる。その違いは何か。二つ目は「感情体験が豊富にあるかどうか」である。お金の苦労,恋愛の苦労など,いろいろな苦労を自分自身が経験していないと,苦労している人の気持ちはわからない。若いときにいろいろな苦労をしていると,その後の人生で察しのいい人が多い。子どもの頃から恵まれて教師になった人は,せめて耳学問をしておくとよい。飲み会などを積極的に利用し,いろいろな人のいろいろな経験を耳学問しておくだけでも違ってくる。一つの例。ある学校の校長が修学旅行に行かなかった子どもを呼んで「人生にはたとえしたくないことがあっても,みんなと一緒にしないといけないこともある」と注意をしたという。その子は「行きたかったけど,お金がなくて行けなかった」と答えたという。その時に,校長は「俺は小さい頃から金の苦労をしたことがなかった。だから,相手の気持ちを全く考えられなかった」と反省し,子どもに謝ったという。結論,「教師は様々な人と語り合う機会を持ち,その人たちの経験を聞き,耳学問を積んでおくことが大切である」
・講習会で50代の女性が泣き出した。「どうされたのですか?」と尋ねたところ,「先生の話を聴いているうちに,昔,甘えたくても甘えられなかった自分に気づき,自分をかわいそうだと思って涙が出た」と話した。「甘えられない事情があったのでしょうね」と尋ねたところ,「継母に育てられたので」と答えた。私自身はその時に,彼女の気持ちになることが難しいと感じたので,「この中で継母に育てられたことのある人?」と会場に尋ねたところ,20代の女性が手を挙げた。「君,この人の面倒を見てくれないか」と頼み,二人は会場の外の廊下に出た。後で50代の女性が「先生の対応が良かったのでとてもうれしかったです」とお礼を言った。20代の女性の対応が良かったのだろうと思い,20代の女性に「どんな対応をしたの?」と尋ねたら,「私の最初の一言が良かったようですよ」と答えた。それは「ご飯の時が一番つらかったでしょ?」という一言だったそうである。「おかわり」という言葉が言いづらかったという気持ちを初めて,他の人にわかってもらったことが50代の女性はうれしかったという。
・誰もが同じ感情体験を持つことはできない。だから,せめて耳学問をして感情体験をしておかないと,人とかかわるときに察しが悪くなる。
 
(2)ウイネス
・ウイネスとは「我々意識」,「身内意識」,具体的に言うと,例えば,「この先生は僕の見方だ」という意識。この意識があると現在の教育問題(いじめ,不登校,学級崩壊など)の多くは防げるだろう。
@物理的にその存在を認める
・物理的にその人がそこにいると気づいてあげること,それだけで人間は生きる力の根源になる。大学院の学生のコンパで乾杯の音頭を頼まれることが多い。その時には,学生の物理的存在をまず確認する。「○○は電話中です」というと,その学生が戻るまで待つ。学生は「先生は僕の存在に気づいてくれた。僕の居場所はこの研究室にある。」とうれしくなる。物理的存在を認めるというのは,例えばそういうことである。「愛でる」という言葉がある。「見ることに関心を持つ」ということである。人間は無視されると傷つく。
ある学校の校長が新任教師を判断するには「君のクラス,今日休みは何人?」と聞くことだという。「ハイ,二人です」とすぐに答えられるような教師であれば,クラスの子供のことをしっかりと見ているということであり,このような教師のクラスには不登校はいない。学校を休んだ子供がいると放課後に「どうしましたか?」と電話をするような先生である。ところが,「えー,何人休んでいたかな?」と即答できない教師もいる。それでは困る。
・都立研究所で教師の身の上相談をしていたことがある。多くの悩める教師が医者に薬を処方してもらいながら週一回通ってきていた。ある校長が赴任した学校にそのような病欠中の教師がいた。校長はその教師の家に行き,「今度赴任してきた○○です。私でできることがあれば何でも言ってほしい」と伝えた。教師は「学校が私のことを覚えている。居場所がある。早く復帰したい」と思い,治そうという意欲が出てくる。校長が「運動会に来ませんか?」と誘ってくれたので,運動会に出かけてみたという。すると,校長が「この弁当は君のだよ」と言ってくれたので,とてもうれしかったという。自分の分の弁当があるということは居場所があるということ。そのように周りが気づいてくれることが生きる源泉となる。結論は「物理的に存在を認めるだけでも意味がある」ということである。
 
A長所を認めること
・誰にもナーシズム,プライドがあるので,ほめられるとうれしい。子供をほめるのが上手な教師と上手でない教師の違いは何か。それは劣等感の違いである。自分に劣等感を多く持っている教師は子供をうまくほめられない。自分の劣等感情を消したくなるので,相手を引き下げようという心理が働く。例えば,博士号を持っている教授がいると,「博士号を持っていても,本はあまり書いていないじゃないか」と言いたくなる。英語をぺらぺらと話す生徒を前にすると「発音がなっていないじゃないか」と言いたくなる。これを引き下げの心理という。劣等感情を持たない人はいない。相手に対して引き下げの心理が働かないほどに,自分の劣等感情を処理しておくとよい。保護者も子供も,教師の劣等感情を刺激する人がいるので注意が必要である。
・アメリカで面接を行っていたときのこと。女性のクライエントが「男のカウンセラーは嫌だから替えてほしい」と申し出た。その時に君は「男ですみません」と言うなと教えられた。「君の責任ではないし,それは相手の責任である」。「しかし,本当は君が日本人だからだ」と言った。「でも,その時にも日本人ですみません」と言うなと教えられた。注意しなければならないのは,自分自身の劣等感を消すために文句言う奴がいるので,その挑発に乗るなということである。乗ってしまえば負けることになる。本当に自分の問題なのか,相手の問題なのかを見極める必要がある。
・劣等感から少し離れるが,中野区の学校で生徒が大量にガラスを割った事件があった。その時,保護者の言い分が「子供をそのように育てたのは学校の責任だ」ということであった。学校側は保護者の剣幕に「申し訳ありません」と謝った。結局,学校側は保護者からガラスの弁償代も取れなかった。保護者によっては,教師をひるませるようなことをいう人もいる。教師は気を付けなければならない。(この事件は産経新聞の記事にもなった)
・劣等感がそれほど強くないのに,子供をほめるのが上手くない教師がいる。それは,子供を見る観点が貧困だからである。つまり,子供を見る視点が一つしかないからである。ボトルの中にウィスキーが半分入っているとする。ある人は「もう半分しかない」と思って落ち込む。ある人は「まだ半分ある」と思って喜ぶ。この考え方を「フレーム」と呼ぶ。子供を見るときに,いくつものフレームを持っている方が,子供を救う可能性が高い。「君はとろいな」という見方は,「君は慎重だね」という見方もできる。「君はおしゃべりだね」という見方は,「君は言語能力が豊かだね」という見方もできる。ある不登校の子供が「君は学校を拒否するだけの自己主張の力があるんだなぁ」と先生に言われ,その教師と関係がスムーズになったという。補足だが,不登校の登校刺激はかつて与えてはならないと言われていた。しかし,今はそれほどびくびくすることはない。門田恵美子さんという養護教諭が共著で「保健室からの登校」を書いた。不登校の子供と接するときに「3ヶ月はゆっくりしようね。そして,その後,学校に来たらいいね」という。「来る来ないは自由だよ」とは言わないで,少しずつプログラムを組んでいってうまくいった事例をまとめている。問題はいつ学校のことを話題にするかである。妻(國分久子)との共通見解は,子供が「学校に行かないのは自分が自立する証である」と意識し始めたとき,登校刺激を与えてもいいだろうということである。行動療法を用いた書痙の治療がある。「手をふるわせて」と指示,その後「ストップ」と指示。これを繰り返す。すると,手をふるわせているのは自分でやっているという意識を持たせていくと治療が進む。これと同様に,不登校も意識して学校を拒否しているという意識が持てるようになると,意識すれば登校も可能だということになる。
・相手の役に立つことを具体的に行うことが大事である。いざというときに身体を張らないとこの先生は僕のためにやってくれているというふうに思えない。担任が授業の一環として子供たちを校外に連れて行ったときに,一人の子供が老人と接触し,老人が倒れてけがをした。校長に事後報告したところ,「君のクラスの子供が起こした事故だから,君が菓子折を持ってお詫びに行って来るように」と言われた。しかし,「授業中の事故であるので,学校の責任者である校長も一緒に行くべきだと思う」と担任は非常に不満を感じた。日頃から,校長が「部下のことを大切に思っている」と言っていたとしても,いざというときに身体を張れないようでは部下の信頼は得られないだろう。
・カウンセラーでも教師でも口だけが達者では子供たちから信頼されないし,好かれない。親にしても同じである。口が重いのに信頼される人もいる。それは,非言語で気持ちを表現しているからである。陸軍幼年学校でお世話になったS少佐は敵飛行機が来襲すると,物見櫓に上り,「右,左」と号令をかけ,生徒の命を守るために自分の身体を張った。S少佐も普段は口の重い人だったが,普段から身体を張って自分の気持ちを伝えるようなところがあったため,若者たちがなついた。S少佐が連隊旗手の頃,連隊長が若い兵士が青春もなくドロにまみれている姿を見て涙を流していたという。位が高いから人がついていくのではない。普段から若い人のことを身体を張って面倒見てくれているから,いざというときについていくのである。普段が大切ということである。教師はどういう時に身体を張るかを決めておかないといざというときに右往左往することになる。
 
(3)アイネス
・僕には僕の考えや人生があるということを打ち出すこと,それがアイネスである。
 
@自己開示
・自己開示とは,僕はこういう人間であると相手に開いていくことである。心理療法的傾向の強いカウンセリングでは,カウンセラーは自己を開いてはならないと教えた。特にロジェリアンはその傾向が強かった。クライエントが「先生はいくつですか?」と尋ねると,「君は私の歳を知りたいわけだね」と答える。「なぜ,教えてくれないのですか?」と言うと,「私が歳を教えないことで君は腹を立てているわけだね」と答える。これは非常に慇懃無礼という感じがする。ロジャーズを日本に紹介した友田先生に,「ロジャーズの考えはどこから来たのでしょうか?」と尋ねたことがある。「君はそれを知りたいわけだね」と言うのかと思ったら,「私はレッキーの考えを引用したのだと思う」と即座に答えてくれた。「僕に答えを教えてもいいんですか?」と再度尋ねたら,「君の質問が知的な問題と思ったので,私も知的に答えたのだがよかったのだろうか?」と言われた。さすがにその時に「すごい」と思った。真にロジャーズを理解している人は,ステレオタイプなやりとりをするのではなく,もっと自由奔放に受け答えをするということを学んだ。笑い話のようなことだが,あるロジャーズ派の研修会で,参加者が「トイレはどこですか?」と尋ねたら,「トイレがどこにあるか,知りたいわけですね」と言われたという。この極端の例に示されるほど,自己開示を嫌ったのがロジェリアンである。自己開示を嫌うにも一理あるのは確かである。それは,クライエントが自己開示しにくくなるからである。自ら問題を解くために立ち上がるのを抑えてしまう危険があるからである。カウンセラーが「私はキリシタンである」と自己開示すると,クライエントは他の宗教のことを言いにくくなる。また,「私の年齢は70歳です」と自己開示すると,遠慮するようなクライエントも出てくる。そのようなことを恐れて,ロジェリアンは自己開示を戒めている。しかし,ロジェリアンにしても,カウンセリングの中ではクライエントに「何度も言いなさい」と言うのだから,自分たちもやるべきだろうと思う。自分ができないことを相手に要求するのはおかしいのではないだろうか。
・自己開示にはさらに教育的意味がある。一つは「その人の正体がわかって,リレーションを持ちやすくなる」ということである。「俺は二浪したんだよ」と語れば,子供たちも「先生もそうなんだ」とうち解けやすくなる。二つは「自己を語ると,子供たちもそれを模倣しやすくなる」ということである。三つは「自己開示からヒントをもらい,自分の人生上の問題を解きやすくなる」ということである。だから,自己開示とは,教師が使うカウンセリングで重要なのである。
・ある会社の重役が社会人大学院に入学し,修論のテーマを「平社員から重役になる人とならない人の違いは何か」として,研修をした。結論は30代にいい上司にめぐりあったかどうかであった。いい上司とは,自己開示できる人であり,部下に対して,「俺はあの時,こうだった」と語ることで,部下がそれをモデルとして学ぶことになるからである。
・親や教師にも自己開示できる人とできない人がいる。子供のカウンセリングをしていて,「君のお父さんの仕事は?」,「家は借家なの? 持ち家なの?」と聞いても,「わからない」と答える子供がいる。普段から親が子供と話をする時間を持ち,自分のことを語っていれば自然にわかっていくような事柄である。子供たちがやがて,自分の人生の事実に対決していくためにも周りに大人が自己開示していくのは必要なことである。
・自己開示は,子供のためにここは自らを開いた方がいいだろうと思ってするものであるから,「自慢話」や「告白」とは異なる。
・子供によっては,「先生は何を言ってもにこにこしているから平気」と思う子供がいる。教師も人間だから嫌なことももちろんある。「あなたに言われた今の言葉はとても嫌だった。傷ついた」と伝えることによって,子供たちも自分の言動に気づくことがある。自己開示とは,教育で用いる場合は,出たとこ勝負ではなく,子供たちを育てるために考えて使えるとよいだろう。(意図的に)
・自己開示ができない人は,自己受容ができていない人である。大学受験に2度失敗したという自分を受け入れられないから,人にもそのことを話せない。ノイローゼになって学校を休職し,いよいよ復帰ということになり,「子供たちに何と話せばいいでしょうか?」と相談に来る教師がいる。ノイローゼになった自分を受容できないから,それを周りにも話せない。「自律神経失調症でどうだ?」と言うと安心して帰る。しかし,10人に一人は子供たちには正直に話をするという教師もいる。「先生はノイローゼで病院に通った。先生の病院には心の純粋な人がたくさん通っていた。病気になったことでそういう人たちに触れてよかった」,「カウンセリングを受けて,自分の話をゆっくりと聴いてもらえることのうれしさを感じた。だから,君たちも友達の話をしっかりと聴いてやってほしい」などと言えると話す教師もいた。
 
A自己主張
・教師が自己主張しないと生徒にとって畏敬の対象になり得ない。親もそうである。小さい時から詐欺で捕まり続けた子供がいた。父親はいつも警察に迎えに来たが,一度も叱ることがなかった。子供はそんな父親を軽蔑したという。生徒も担任教師が畏敬の対象であってほしいと願っている。大学での講義中に一番後ろの席で新聞を読んでいる学生がいた。前に呼び,「授業中に新聞を読んではいけない」と注意したら,「わかりました」と言った。学期末のレポートにその学生が,「小学生の頃から授業中に新聞を読んでいたが,注意されたことは一度もなかった。初めて先生らしい先生に出会って満足している」と書いてあった。
・ロジャーズしか知らない教師は叱ることをためらう。ところが,行動療法,交流分析,論理療法,ゲシュタルト療法,実存主義的カウンセリングも皆,打って出ることをためらわない。行動療法であれば,「来週までにこの課題をしてきなさい」と言うし,論理療法であれば,「君の考え方はおかしいよ」と迫る。交流分析であれば,「Cが足りない」と迫る。日本ではロジャーズの来談者中心療法の理論が最初に導入されたため,カウンセリングというとロジャーズの理論であると誤解し,自己主張をよくないものと思ってしまった節がある。
・実存主義のムスターカスが子供に大学の研究室で遊戯療法を行っていた。子供が「ミラーの後ろに誰かが立って僕たちを見ている気がする」と訴えた。ムスターカスはその子供を鏡の後ろに連れて行った。そこには大学院の学生が数人,ムスターカスのやり方を学ぶために立っていた。ムスターカスは子供に,「まだ気になる?」と尋ね,子供は「気にならない」と答えたため,遊戯療法を続けた。その後,ゼミが行われので,「先生は,あの時,子供が気になると答えたらどうするつもりでしたか?」と尋ねた。すると,ムスターカスは「僕は君を助けたくてここにいる。君は自分の問題を解きたくてここにいる。学生は僕のやり方を学びたくてここにいる。世の中の人は皆それぞれに自分の思いを持って生きているのである。君のためだけに生きているのではない。このように人生の事実を言って聞かせるつもりだった」と答えた。ムスターカスの思想,つまり,実存主義の思想は,子供であろうとも人生の事実を打ち出してやらないと成長しないだろうという思想であった。
・教師の中には,「右,左」と指示したり,主張したりするのを嫌がる人がいる。これは「失愛恐怖」である。子供にきついことを言って嫌われたら困るという感情である。この失愛恐怖はよほど注意しないと誰もが引っかかる心理状態である。愛がなければ生きられない,人に好かれなければ生きられないという心理状態である。しかし,教師は生徒に好かれるために仕事をし,給料をもらっているのではない。子供を社会化するために仕事をし,給料をもらっているのである。ある学校の教師の例。学級である子供がふざけたので,「そんなことばかりしていると君のお父さんのようになる」と話した。すると,その子供が家に帰って「お父さんのようになると言われた」と話した。父親はヤクザであった。ヤクザの父は憤慨し,教師を家に呼び,「ヤクザの何が悪い」と教師に迫った。教師は「○○ちゃんはとてもいい子なので,私は○○ちゃんにはヤクザになってほしくない」と答えた。何度,父親が「何が悪い」と迫っても,繰り返して,「ヤクザになってほしくない」と答え続けた。最後に,父親が「教育のことは先生にお任せします」と折れたという。この例の教師はすごい自己主張の持ち主である。何でもかんでも自己主張すればいいというものではない。ここぞという時に,自己主張してこそ意味がある。「臨床心理士でなければスクールカウンセラーになれないというのはおかしい」ということを言い続けるのが私(國分)の自己主張である。
・結論;「教師の使えるカウンセリングとは,相手の身になる優しさと打って出る強さ,つまり父性的・母性的なかかわりを上手く使いこなせるようなカウンセリングである」。学校で育てるカウンセリングを実践していく教師を,「教育カウンセラー」と呼ぶ。全国に4万の学校があるので,4万人の教育カウンセラーが生まれると,各学校に一人ずつの計算になる。すると学校は変わっていくだろうというのが仮説である。
 
3.育てるカウンセリングの各論
・各学校でワンネス,ウイネス,アイネスをおさえると「ふれあいのある人間関係」が生じ,そのため,様々な問題行動が消えていく。教師が仕事の中で,実際にやることは何か。その各論をいくつか示したい。
 
(1)構成的グループエンカウンター
・ふれあいづくりの教育技法である。
・最近,使用領域が広まり,人権意識の教育,自己肯定感の向上,進路意識の向上,学習意欲の向上など,各論的な使用法が広まりつつある。
・全国の教育委員会の8割で構成的グループエンカウンターを研修に取り入れ,教員採用試験にも問題が出題されるほど,拡がりを見せている。(千葉,神奈川)
・なぜ,このように拡がってきているのか。それは,問題を解くのに役立つ技法だからである。学校現場に使いやすいその理由は,一つ目は「構成的であるから」である。学校は時間で動くことが多いため,「5分で,1分で」などのエクササイズを使える構成的エンカウンターは使いやすい。また,グループなど,人数の枠を与えることも学校で使いやすい理由である。二つ目は「心的外傷を防ぎやすいから」である。ロジャーズのベーシックエンカウンターは時間や人数,話題などを構成しない(枠を与えない)ため,グループが荒れて,メンバーの中には心的外傷を受ける場合がある。その点,構成的エンカウンターはその名の通り,「構成」するためにメンバーの心的外傷を防ぎやすい。三つ目は「ああしろ,こうしろとリーダーが能動的に働きかけるので,教師になじみやすいから」である。ベーシックエンカウンターでは,リーダーと言わず,「ファシリテーター」と言う。受け身的であるので,教師にはなじまない。
・構成的グループエンカウンターを行うために留意することは,エンカウンターはホンネのふれあいであり,自己開示を相互に求めるので,教師自身が自己開示ができないと使いにくい。
 
(2)キャリアガイダンス
・高校3年時などに突然,キャリアガイダンスをするのではない。小さい頃からキャリアガイダンスを実施するべきである。なぜか。将来のことを考え,見通しを持つと,今,どうしたらいいかという判断がつきやすいからである。敗戦時,陸海軍のトップが相次いで自決し,一時混乱状態に陥った。直属のS少佐は「君たちはすぐに故郷に帰るように」と指示をした。しかし,21歳の見習士官は「今は混乱しているが,9年もたてば,国は元の状態に戻る。だから君たちは東京に残って学問をしろ」と主張した。確かに,昭和28年頃には見習士官の言ったとおり,国は元の状態に戻った。この見習士官は先が見えたということである。教師も,子供たちに先が見えるような教育を是非してほしい。
・精神科医ベテルハイムの話。ベテルハイムは第2次大戦時,アウシュビッツに収容された。多くの人が収容所で発狂したのは時計がないからであると考えた。確かに「クリスマスの時に連合軍が来て解放される」という噂が流れた時には,発狂する人間がほとんどいなくなった。しかし,クリスマスが来ても解放されないとわかると再び発狂する人が出始めた。その体験から,ベテルハイムは「時間の流れの中で今を生きることが大切である」と考えた。
・同じく,アウシュビッツに収容されていたフランクルの話。なぜ,アウシュビッツから生還したか。その理由をフランクルは「自分がインテリだからである」と答えた。その意味は,「私は知的階層だから,戦争が終わったら何をするかということを考え続け,100%肉体労働に埋没しなかったからである」ということであった。肉体労働をしながら,戦後,ウィーンの公会堂で「収容所の心理学」という演題で話をすることを考え続け,実際に戦後,そのことを実現させた。(混乱期であり,観客はわずか15人だったというが)
・日本で初めにキャリアガイダンスのことを考えたのは仙崎武さんだろうと思う。仙崎さんが高校で授業をしていた時,あまりにも生徒がやる気を見せないので,「そんなに勉強が嫌ならアルバイトをする自由を与えるからやりたければ外に出てもよい」と伝えた。皆,喜んでアルバイトに出かけていったという。やがて,生徒が一人,二人と教室に戻り始めたという。理由を聞くと,「高校くらいきちんと出ていないと,今のアルバイト以上の仕事には就けないことがわかった。もう少し別の仕事にも就きたいので,せめて高校は卒業したい。だから勉強を教えてほしい」ということだった。彼らはアルバイトをしたおかげで50年先の将来が見えたのであろう。このように実際にアルバイトをしなくても,将来を見える方法がある。構成的グループエンカウンターを導入したキャリアガイダンスがこれに当たるだろうと思う。
 
(3)特活に生かすカウンセリング
・運動会や学芸会はレクリェーションではなく,集団体験活動である。なぜ,学校にこのような集団体験が必要なのか。それは,集団体験が子供を育てると考えるからである。なぜ,集団体験は子供を育てるのか。「集団規範が子供を育てる」のである。
・アメリカの大学に4年間通うと何が変化するか。「宗教心が薄れる」という。なぜか。大学の規範は「論理性と事実によって話をしよう」ということである。このことを守らないと相手をしてもらえなくなる。それ故,これらが弱い宗教に関する意識が薄れるらしい。
・エンカウンターの規範は「相互に自己開示をして語り合おう」である。それ故,エンカウンターワークショップを体験すると,知らぬ間に皆が自己開示的になる。
・アメリカ社会の規範は「イエス・ノーははっきり言う」ことである。アメリカでははっきりしない人を「ドアマットのようだ」と軽蔑する。ドアマットは玄関で踏まれても何も言わないから。自分の考えをはっきりと主張することを求めるのがアメリカ社会である。カウンセリング場面をテープに撮り,教授の前で聞かせ,意見をもらう授業があった。ある場面で教授が学生にアタックを始めた。教授は「君の手がふるえだしている。なぜだ」など,アタックが益々強くなり,いたたまれなくなり,教授に「先生は,学生をやっつけすぎだ。教育は相手の力を引き出すことだと思うが,先生はそれをやっていない。先生はエンカウンターと教育を混乱しているように見受けられる」と伝えた。すると,教授は「おまえはつべこべ言っているようだが,結局は何が言いたいんだ?」と迫った。一言も答えられずにいると,「では,感情を答えろ」とさらに迫った。それについても答えられずにいると「では,いい感情か,悪い感情か,それくらいは言えるだろう」と迫ったので,「I am angry」と答えた。教授は「最初からそう言えばいいだろう。それを教育がなんだ,エンカウンターがなんだとごちゃごちゃ言っている。自分が一言で言えないくせに,クライエントにそれを要求できるはずがないだろう」と言った。その後も,教授と様々なやりとりが続き,次第に形勢が悪くなり,このままでは単位を落としてしまうだろうと思った。そこで,「疲れてきたので,少し休みたい」と教授に伝えた。すると,教授は「おまえは疲れた自分に気づいた。そして,それを自分で認めた。ベリーグッドだ。ゆっくり休みたまえ」と言ってくれた。この体験を通して,一言でものを言うという規範を学んだ。
・日本の大学を優秀な成績で卒業した人がアメリカの大学院でなかなか単位が取れなかった。その理由は,デューイはこう言っている,カントはこう言ってる,と人の話ばかりして「I think」がないからである。アメリカの学生はいくら偉い人のことを引用しても,最後には必ず,自分の考えを伝える。これもアメリカの大学の規範である。
・集団に所属して人が育つのは,その集団の規範に従っているうちに,行動が変容するからである。学校の教師は子供たちに規範を作ってやらねばならない。私(國分)は二つのことを抑えている。「挨拶」と「時間厳守」の二つは常に抑えてきた規範である。子供たちができる程度に考慮して,あまり多すぎず,やることが可能なものを提示してほしい。教師が自分の人生哲学と性格を考えて作ればいい。教師は子供たちを受容するだけでなく,規範を持って接するといい。
 
(4)対話のある授業
・心理療法家なら一対一の個別面接が上手ければそれでいい。しかし,教師は集団対象の授業が上手くなければ困る。授業が上手くなる一つのヒントが対話のある授業である。カウンセリングを生かした授業とは「聞いている人の身になって行う授業」である。筑波大学の時に「ベストティーチャー」に選ばれたことがある。その理由は,講義を受けている学生の身になって話すことを心がけたからである。若い学生には「事例」を豊富に取り入れてわかりやすく,社会人大学院生には「ハウツー」を教示し,助手などには「理論」をしっかりと伝えるように,生徒が何を求めているかを常に考えながら講義をしたからである。「黒板の文字が見えますか?」,「声が聞こえますか?」と講義の中で聞くことも,聞いている人の身になっている言葉である。
 
(5)サイコエデュケーション
・教師は一対一の面接だけではなく,思考の教育(ものの考え方の教育;人権教育等),感情の教育(気持ちを明るくする教育等),行動の教育(上手な断り方等のスキルの教育等)などが必要である。これらを総称して「サイコエデュケーション」という。文部科学省的に言えば,「心の教育」である。
・心理療法家と教師が行う一対一の面接はどこが違うのか。心理療法家は1回約50分の面接を行い,クライエントのパーソナリティチェンジをねらうものである。しかし,教師の場合はそのような面接を時間的にできないし,役割として求められるものでもない。教師は5分,10分の時間を使い,子供の症状,問題の修正をねらうものである。たとえ,短い時間でも子供にとってはカウンセリングとなる。このようなカウンセリングの方法を簡便法(ブリーフカウンセリング)という。この簡便法を使うために教師は次の三つの理論になじんでおくとよい。「精神分析」,「行動療法」,「論理療法」である。なお,心理療法としても簡便法が用いられるようになり,その場合,「ブリーフセラピィ」という。精神分析や行動療法を学びたい人は「カウンセリングの理論」が参考になる。論理療法を学びたい人は「自己発見の心理学」,「ポジティブ教師の自己管理術」が参考になる。また,リーダーシップについて学びたい人は「範は陸幼にあり」,「リーダーシップの心理学」が参考になる。

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