公開資料 14 「21世紀におけるカウンセリングの課題」  (國分康孝) 

 学会の3代目会長として引き継ぎたいことと新しく付け加えたいことのエッセンスを語りたい。
1.引き継ぎたいこと その1
・本学会は,心理療法学会でもカウンセリング心理学会でも臨床心理学会でもない。
・カウンセリングは人をヘルプする活動,すなわち,ヘルピングアクティビティである。その援助する行動を支える理論として,複数の学問(発達心理学,教育学,臨床心理学,ソーシャルワーク,学校心理学,児童学等)がある。
・本学会はその英文表記を「The Japanese Association of Counseling Science」としている。カウンセリングサイエンス(科学)の会であり,カウンセリングサイコロジー(心理学)の会ではない。それは,カウンセリング心理学だけでなく,複数の学問によって支えているカウンセリングの会だからである。それ故に多くの職業の人が学会に参加している。
 
2.引き継ぎたいこと その2
・サイコセラピイ(心理療法)とカウンセリングは違うということを本学会では言い続けたい。日本では両者の識別がはっきりしていない。
・ロジャーズは両者を識別していない。それ故ロジャーズに傾倒している人は両者を分けない。
・サイコセラピイはパソロジカル(病的)な人,すなわち現実原則に従う能力のなくなった人,心の病を持つ人で一時的に人生の土俵から降りている人々を対象とする。ところが,カウンセリングの主たる対象は健常者(英語では問題を抱えた健常者と言う)である。健常者の定義は現実原則に則しつつ,快楽原則を満たしている人という意味である。発達課題を解けず,悩みながらも人生の土俵にとどまっている人である。例えば,6歳になったら学校に入るという課題で引っかかっている子供など。このように病気ではなく発達課題を解けなくて困っている健常者が対象である。
・実際に職業としてカウンセリングを行っている人のところに,パソロジカルの人も来るから対応はする。しかし,職業及び学問としては分ける。
・臨床心理学の教育とカウンセリングの教育は似ているところはあるが,違うものである。
 
 
*1.なぜ日本ではサイコセラピイとカウンセリングを識別しないのか
<第1の理由>
・ロジャーズから足を洗えないからである。ロジャーズ一辺倒から抜けるのに年月がかかりすぎたということである。ロジャーズの功績は大きいが,だからといってすべての問題をロジャーズの理論で解けるわけではない。ロジャーズのような現象学的立場でないカウンセリングが必要な問題もある。ロジャーズの理論も「One of them」と思わないと日本のカウンセリングの発展は遅れるだろう。この点を抑えないと本学会のアイデンティティがクリアにならない。
 
<第2の理由>
・歴史的認識が足らないからである。臨床心理士の中には,臨床心理学の一部がカウンセリングと考えている人がいる。それ故,臨床心理士はサイコセラピィとカウンセリングの両方ができなければならないと考えている。臨床心理士はクリニカルサイコロジストであって,カウンセリングサイコロジストではない。カウンセリングは援助活動であるので,看護婦も教師も弁護士も裁判所調査官もカウンセリングをする。カウンセリングサイコロジストだけがカウンセリングをしているわけではないし,まして臨床心理士だけがカウンセリングをしているわけでもない。
・アメリカのカウンセリング心理学は,1955年に臨床心理学同様,学問的地位を高めることをねらって,「ガイダンス&カウンセリング」から名称を変えたものである。臨床心理学に出遅れたが,臨床心理学からの分派ではない。出所が全く違う。
・第二次大戦後(1946年),復員兵の第二の人生を助けるために多くのカウンセラーを必要とした。復員兵のキャリアカウンセリングを担当するため多くのカウンセラーが生まれ,発達した。そして,アメリカ心理学会に「ガイダンス&カウンセリング」部会が設置された。臨床心理学の手助けをしたのではないし,臨床心理士がなだれ込んだのではない。カウンセリング心理学は臨床心理学の分派ではない。
・人工衛星打ち上げ競争でアメリカはソ連に後れをとった。(スプートニクショック,1957年) このことから子どもの適性を早期に見極め,教育しなければソ連に負けると考えるようになった。国防法ができ,あちこちの学校にカウンセラーが配属された。精神疾患を治すカウンセラーではなく,学力増進のためのカウンセラーということである。すなわち,カウンセラーは臨床心理学からではなく,別個の基盤から生まれたと言える。
・本学会も応用心理学会の相談部会が相談学会となり,その後,昭和42年に結成された。臨床心理学会から抜け出したのではない。日本でもアメリカ同様,臨床心理学とは別個に生まれたということである。

*2.サイコセラピィとカウンセリングに関する三つの考え方
(1)両者は二つの別個の輪である。
(2)両者は重なり合う輪である。
(3)サイコセラピィの輪の中にカウンセリングがある。
 
 本学会は「両者は二つの別個の輪である」という考えに立っている。両者が役割を分担し,共存する道を5,6年かけて探っていきたい。そして,本学会は,カウンセリングの守備範囲はどこか,カウンセリングに使える技法は何かという,「テリトリーと方法」の二つを提示しなければならないと考えている。
 
3.新たに付け加えたいこと
・それは哲学である。サイコセラピィでもカウンセリングでもそれを支える思想に触れる人は少なかった。これからの時代は思想の陶冶も必要である。心理学で解けない問題は思想で解こうじゃないかということである。アメリカは愛されないとダメな人間であるという考えのもと,愛を巡って落ち込んだ人がいた。「愛があるかないは関係ないだろう」とカレン・ホルナイは説いた。「千万人といえども我往かん」の思想である。思想を持たないと救われない人が続出していると提唱する人が増えてきている。アルバート・エリスもその一人。「人に好かれるにこしたことはないが,そうじゃなくてもダメ人間ではない」という一つの思想を提示した。人にかかわるカウンセラーは,自分の哲学くらい定めておかないと問題にかかれないだろうと思う。
・なぜ今まで哲学に関心がなかったか。それは,精神分析や来談者中心療法といった伝統的カウンセリングの人たちは自己の価値観を述べるのを怖がったからだろうと思う。「先生はどう考えますか?」と尋ねられ,「君は私の考えを知りたいわけですね」と語るにとどまり,自分自身を語る言葉を持たなかったのではないだろうか。最近は流派を問わずカウンセラーもセラピストも自己開示を歓迎する風潮がある。自分の価値観の開示,人生哲学も自己開示には含まれるが,そのような自己開示が必要な時代と言える。問題を抱える人を前に,ニコニコしての受容だけでは現代社会の問題に立ち向かえない。
・すべてのカウンセリングは目標を持っている。その目標は哲学がもたらすものである。特に価値論が登場する。それ故,哲学を身につける必要がある。今後のカウンセリング学会の課題でもある。
 
*上記の國分先生の言葉は,「カウンセリング心理学入門」,國分康孝,PHP新書,1998 ,36-59 に詳細が述べられている。

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