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どうして部落は今も残っているのか? (2)

部落差別が残っているもう1つの大きな原因は、人々の差別意識です。
江戸時代には、部落の人々が部落外の人に道で出会った時に土下座をしなければならないとか、部落外の人と一緒に食事をすることができないとか、馬や牛が治療のために入る温泉にしか入れないとかいう礼儀や慣習がありました。
そういう礼儀や慣習が明治時代になって廃止され、部落の人が普通の人と同じようにふるまうようになると、部落外の人々は、「部落の人々が傲慢(ごうまん)になった」と受け止め、自分たちの誇りやプライドが傷つけられると感じるようになりました。こうした心理構造は今も残っているのではないでしょうか。
また、長い間、住むところも違い婚姻関係もなく生活していると、自然と文化や慣習が違ってきます。そのことが、部落の人は人種や民族が違うという誤解を生んできました。
また、一緒に生活するようになると、文化や慣習の違いによるトラブルが発生します。そこに、今までの差別意識が結びつくと、「やっぱり、部落の人たちは○○だ」という偏見になっていきます。
さらに、明治時代になって貧困の問題が加わると、「部落の風俗習慣は見苦しい」「部落の人々は怠け者だから貧乏なのだ」という間違ったステレオタイプが作られていき、部落の人々のマイナス・イメージはますます強くなっていきました。
また、自分の遠い遠い先祖には天皇がいるとか殿様がいるとか、「血」のつながりを自慢する人がいます。血のつながりを重視することを「家柄」意識といいます。「良い」家柄を守るためには、「悪い血」(=生物学的な血液成分ではなく、先祖の身分が低いという意味)が入ることを嫌い、「家柄が違う」という理由で自分の子どもの結婚相手を選別しようとします。
こうした家柄意識は、次第に「普通」の家柄の家にも広がっていきました。それが、部落の人々に対する結婚差別事件を生み出しました。また、日本の企業は家族的な経営をしてきたので、家柄意識は就職差別にも派生しました。

こうした問題は、個人の意識の問題でもありますが、『世間』の意識の問題でもあります。
同和問題を考える時に、「寝た子を起こすな」という人がいます。もっとひどいのになると、「今の老人が死んでしまえば部落差別はなくなる」という人もいます。これらの言葉は、自分たち若者は差別していない、差別は古くからの風習にすぎない、その風習を信じている老人がいなくなれば、部落差別はすっかりなくなってしまう、というものです。ところが、この言葉は明治30年代から使われているのです。
同和問題は、放っておけば自然となくなるものではないのです。同和問題について正しい知識を持って、自分が同和問題に直面した時に、それは間違っていると言えるようになることが大切です。

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どうして部落は今も残っているのか?

部落は江戸時代に作られたことはわかった、でも、明治時代になってもう130年にもなるのに、どうして今も部落差別が残っているのか?と疑問に思う人も多いでしょう。
部落差別が残っている大きな原因は2つあります。
1つは、明治時代以降の資本主義の発展に利用されたことです。部落を描いた『橋のない川』という小説の中に次のような場面があります。
 
小作人「番頭はん、えらく言いにくいことだすけど……」
番頭「なんやね」
小作人「新田の年貢、よそさんよかー斗ばかり高うおますのやけど……」
番頭「なんやて、年貢が高い!」
小作人「高いいうわけやおまへんけど、他の衆よりー斗ばかり多まんね」
番頭「ほな、高いいうことやないが,そやったら、田、返してもろてもええで。 うちかて、無理に作ってもらわんでもええさかい」
小作入「いえなー」
番頭「今時、田、借りたいいうもん、なんぼでもいるね。小森(部落の地名)の 連中かて、ザイショもんよか一俵はよけに年貢納めるいうてなうるさいのや, お前はん、うちの年貢高いと思うたら、いつでも返してもろうてええで……」

明治になって、身分制度が廃止され、住むところや職業の選択が自由になりました。
しかし、資本主義の発達とともに、田畑や資本が一部の地主や資本家に集中するようになり、貧富の差が大きくなっていきました。部落の人々も、職業を自由に選択できるようになりましたが、今まで保障されていた職業上の特権もなくなってしまいました。
部落の人々は、土地や資本を持っていない人が多く、田畑を借りて小作をしたり、工場で働かなければなりませんでした。さらに、江戸時代の差別意識が残っていたので、田畑を貸してもらえなかったり、高い小作料を取られたり、大きな会社には雇ってもらえなかったり、安い賃金で雇われたりしました。
また、人の嫌がる、きつくて危険で儲からない仕事に仕方なくつかざるをえなかったり、貧困に苦しまなければならなくなりました。
こうした部落の人々の待遇は、地主や資本家がより多くの富を手に入れるために、部落以外の人々に対しても、高い小作料を払わさせたり、安い賃金で雇ったりすることに利用されてきました。
『ああ野麦峠』や『女工哀史』の話を読んだ人もあるでしょう。また、利益につながらない仕事は部落の人々に押しつけられてきました。
つまり、日本の資本主義経済は、部落差別の上に発展してきたとも言えます。

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どうして部落ができたのか?

 
「部落は、武士の厳しい支配に反抗しないように、また、苦しい生活の中でも自分よりもまだ下の者がいると思わせて不満をそらすために、江戸時代に政治的に作られた」と習った人が多いのではないでしょうか。

江戸幕府は、それまで自由であった住む所や職業の変更を認めずに身分を固定する身分制度によって支配しようとしました。そして、部落は、その最下層に位置づけられました。
しかし、幕府が「○○を部落にするので差別するように」と命令しても、何の根拠もなしに差別できるものではありません。この説明では、
(a)だれが部落に組み込まれたのか?
(b)彼らはなぜ差別されねばならなかったのか?

という疑問には答えられません。

(a)については、中世において、土木工事や死んだ牛や馬の処理や皮革の生産や処刑の執行をしていた人々、御所や大きな寺社や道路の清掃の任務に従事していた人々、交通の要所で運送業に携わっていた人々、芸能で生計をたてていた人々などの一部が、江戸時代になって身分や住む場所を固定化されたと言われています。

(b)については、当時は米の生産を中心にした社会であるので、米の生産に直接間接に従事していないことや、一か所に定住するのではなく放浪の生活をしていることや、死んだ牛馬を処理する時に血を扱うので「ケガレ」ていると思われていたことが考えられます。

つまり、江戸幕府が、以前から何らかの差別を受けていた人々に対して、違う身分の者と結婚することや、職業や住むところを変えることを禁じることによって、200年の間身分として固定した地域の中で、明治以降も差別され続けた地域が、現在の部落の大部分を占めているのです。

アンケートの「同和地区の人々が差別されるようになった理由は」に対する回答では、「民衆を支配する手段として政治的に利用されたから」が最も多かったですが、これは正解です。「特定の職業についていたから」というのも間違いとは言えません。また、「特定の宗教を信じていたから」というのも、戦国時代の一向一揆に参加した人々が部落にされた地域もあるという説もあります。
しかし、「人種や民族がちがうから」というのは明らかに間違いです(もちろん、人種や民族が違うからといって差別が正当化されるはずはありません)。

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世間

「世間」についての慣用句や諺を思いつくままに挙げてみましょう。
 渡る世間に鬼はなしと思って,世間にでるが,世間の風は冷たい。
 世間は広いようで狭く,世間は黙ってはいてくれず,世間話の花が咲く。
 世間知らずは,世間ばなれしていると言う。
 世間を知り過ぎていると,世間ズレしていると言う。
 世間をさわがせて,世間沙汰になれば,世間は許してくれず,世間に顔向けができない。
 世間体をつくろって,世間の目を気にして,世間なみに生きることが一番だ。
 実に多種多様です。どれだけ,日本人が『世間』を意識しているかがよくわかります。
 アメリカの著名な文化人類学者であるR.ベネディクトは,日本人の価値観や行動様式について,「日本人の精神生活の基盤は,自分の能力や地位に応じて,“恩" と“義理" と“人情" が折り合いがつくように巧みに調整していくことにある。したがって,キリスト教を精神的バックボーンとするヨーロッパ人は,『罪』の意識にもとづく内面的・絶対的な道徳基準に従って,正しく善であると信ずる行動を積極的にしようとする。それに対して,日本人は,『世間』に対して『恥』をかくことがないかどうか,ということを基準して行動しようとする」と分析しています。
 でも,「私たち若者は『世間』など気にしていない」「『世間』を気にしているのは大人だけだ」という人も多いと思います。
 また,差別についても,「そんなことは大人がしていることで,私たちの時代になれば自然になくなる」という人がよくあります。
 しかし,君たちも親を説得する時に,「みんな言っている」「みんな持っている」という人が多いのではないでしょうか。
 この『みんな』が『世間』なのです。ということは,差別も放っておいて自然になくなるものではなく,意識してなくしていかなければならないことになります。

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六曜(ろくよう)

「六曜?月火水木金土の七曜の間違いじゃない?」と思う人が多いでしょう。でも,カレンダーをよく見ると,日にちの下に小さく「大安」とか「仏滅」とか書いてある,あれが「六曜」です。では,こんなことを聞いたことはありませんか。
                                       
          結婚式は,「大安」の日を選んだほうがいい。
          葬式は,「友引」の日は避けたほうがいい。

 六曜というのは,先勝(さきがち・せんしょう)→友引(ともびき)→先負(さきまけ・せんぷ)→仏滅(ぶつめつ)→大安(たいあん)→赤口(しゃっこう・しゃっく・せきこう)の順に日毎にサイクルします。
 六曜は,中国の唐代(618 〜 907)に考案され、日本では明治の初期に入り,中期ごろから流行したと言われています。
 「友引」に葬式をしないほうがよいというのは,死んだ人が友達を引っ張るという理由らしいが,先勝→友引→先負の順からも分かるように,もともとは「共引」で引き分けの意味だったのが,いつからか字が変わっただけだと言われています。
 「大安」は「大いに安心」という意味の漢字でいかにもめでたそうですが,本来はお釈迦さんの生まれた4月8日が本物の「大安」で,その他の60回余りの「大安」もすべてめでたいわけはありません。
 大安の日の朝に結婚して,その日のうちにアメリカ西海岸に新婚旅行に出かけたとしたら,太平洋の上で日付変更線を越えた途端に「仏滅」になってしまいます。こんな漫画もあります。

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干支

 年賀状の頃になると,イラストを描くのに,来年は何年だっけ?と考える人も多いでしょう。今年は辰(たつ)年だったので来年は巳(み)年です。これを十二支といい,子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・牛(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(ゐ)と続きます。
  
あなたは自分の生まれ年から性格を決めつけられたことはありませんか?
「子(ね)年の生まれのものは、落ち着きがない」
「丑(うし)年の生まれのものは、忍耐力がある」
「卯(う)年の生まれのものは、柔順である」
「巳(み)年の生まれのものは、執念深い」
「戌(いぬ)年の生まれのものは、正直で義理がたい」
「亥(い)年の生まれのものは、猪突猛進である」

それじゃ,子年に生まれた人はみんなチョロチョロしているのか?
丑年に生まれる人はみんな我慢強いのか?
そんなはずはありません。
これは,その年の動物の特徴を人間の性格に当てはめただけのものです。
しかも,「ねずみ」は普通は「鼠」という漢字を使います。同じように,牛・虎・兎・龍・蛇・馬・羊・猿・鶏・犬・猪という漢字を使います。これはどういうことでしょう。
十二支は,中国の殷の時代から,1年12ケ月の月の名前を記すために用いられた記号だと言われています。それを周辺の地方に伝えるため,単なる記号より覚えやすい動物名をあてたものと言われています。つまり,保育園や幼稚園で,1組をサクラ組とか2組をユリ組とか呼ぶのと理屈は同じなのです。
年を表すのに,もう一つ十干(じっかん)を使います。
十干とは,甲(きのえ)・乙 (きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戌(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)です。
そして,十二支と十干を組み合わせると新たに60までの数のかぞえ方ができます。だから,一周回れば還暦のお祝いをします。
この43番目が丙午(ひのえうま)です。「丙午の年に生まれた女の人は夫を傷つける」という迷信があります。そんな馬鹿なことはあるはずがないのですが,1966年が丙午の年で,この年に生まれた人は,前年より12万人少なく,翌年に生まれた人はこの年より29万人も多かったのです。こういった迷信は,意識的に出生を制約したり,丙午年生まれの女性が縁遠くなる誘因となったりして,大きな影響を伴うことがあります。
干支は,昔は時刻や方角を表すのにも使われ,日本人の生活と深く関係し,豊かな文化を生み出してきました。しかし,あまりこだわり過ぎると,『ステレオタイプ』や『偏見』を生み出すこともあるのです。

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業績と属性

これは架空の話です。

ある会社が高卒以上の新入社員を2人募集しました。学力テストや適性検査や面接などの入社試験の結果,4人の候補が最終選考に残りました。
A君は高卒,BさんとC君は同じ一流大学卒,D君は三流大学卒でこの会社の社長の親戚です。
入社試験の成績は,A君,Bさん,C君,D君の順でした。
採用会議の席上,X部長は,成績どおりにA君とBさんとを採用しようとしましたが,Y部長は,「確かにBさんは試験の成績は優秀だが女性だ。結婚や出産などで中途で退職してしまうかもしれない。また,A君も成績は優秀だったが高卒だ。しかも,家庭環境や生活環境もよくない。C君は今回の試験の成績はよくなかったが一流大学卒なのだから元々の能力は高いはずだ。また,D君は社長の親戚なのだから家柄は確かだ。総合的に判断して,C君とD君を採用したい」と主張しました。


採用について,X部長は入社試験の“成績" を重視したのに対して,Y部長は“性別" や“学歴" や“家柄" を重視しました。

生まれた時から決まっていて,自分の意志で選択できないもの,自分自身の能力に関係のないものを『属性』といいます。人種・民族,性別,出生順位,家柄,親の職業や経済力などはこれに入ります。
それに対して,生まれた後の自分の努力によって獲得できるものを
『業績』といいます。成績,実績,資格,技能などはこれに入ります。
どちらを重視するかは時代により場所により違いますが、現在の日本は、日本国憲法で「法の下の平等」を保障しているので,『業績』を優先する社会であると考えられます。
にもかかわらず,いくら『業績』をあげても『属性』が優先され,社会参加の機会が奪われたり社会的待遇に不公平が生じたりすることがあれば,それは『差別』であると言えます。

では,“学歴" はどうでしょう。自分の努力で獲得するという意味では『業績』に入ります。
しかし,例えば,A君はC君以上の学力を持っていたとしても,家が貧しかったり,親の理解がなくて,大学に進学できなかったとすればどうでしょう。それは本人の責任であるとは言えません。
『業績』を重視する社会では,『業績』を身につける競争に参加する機会や条件の平等が保障されていなければなりません。

このように考えてみると,現在の日本には,多くの『差別』が存在することに気がつくはずです。

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 さて,前号の正解です。実は,2人目の裁判官は,話題の男の母親です。多くの人はなんら疑問を持たずに,“裁判官=男性" と思い込んでいたのではないでしょうか。これ は,明らかに『偏見』です。
では,どうして,わたしたちはこのように考えてしまうのでしょうか。

ステレオタイプ
 
  ある男がビヤ・ホールへ入って,ビールを1杯注文した。ところが,運ばれてきたビールに死んだ蝿が1匹浮いていた。その時,男はどうするだろうか? 
 彼がフランス人なら,「こんな不潔な店には2度と来るものか! 」とマネージャーを怒鳴りつけて席を蹴って出ていくだろう。
 彼がアメリカ人なら,ボーイに別のビールをもう1杯注文し直して,そのビールを飲んで,1杯分の代金を支払っていくだろう。
 彼がイギリス人なら,ボーイに別のビールをもう1杯注文し直して,そのビールを飲んで,2杯分の代金を支払うだろう。
 彼がドイツ人なら,「アルコールは殺菌作用があるから大大夫だ」と考えて,指で蝿をつまみだして,気にしないでそのビールを飲むだろう。


 この話は,もちろん,実際に観察した結果ではなく,日本のある文化人類学者の作ったたとえ話です。例えば,フランス人は,「非常に繊細で感じやすい感性豊かな人々だ」というイメージがあるので,注文したビールに蠅が死んで浮いていたならひどく気分を害するだろう想像したのでしょう。こういうイメージは,フランスの優れた芸術・文学・音楽・絵画・映画・ファッションなどについて,私たち日本人に与えられている限られた情報から思い込んだものではないでしょうか。フランス人にも,繊細な人もいれ ば,粗雑な人もいる,というのが事実ではないでしょうか。同じように他の例も,「アメリカ人はドライでクールな合理主義者だ」「イギリス人は紳士的だ」「ドイツ人は科学的にものを考えるはずだ」という偏ったイメージに基づいているのでしょう。
 それなら,「彼が日本人なら・・・」,ちょっと想像してみてください。
 「一事が万事」という諺もあります。ごくわずかの限られた経験や情報だけで,「Yes かNoか」「all or nothing」といった極めて単純明快な考え方で,その中に気にいらない行動や考えをする人が一人でもいれば,「だから,あの人たちはみんな○○なのだ」と “紋切り型" に決めつけてしまう心のメカニズムを,『ステレオタイプ』といいます。これは,手間や努力をできるだけ軽減しようとする「最小努力の原理」「明確さへの要求」によって,最近さらに強くなっているような気がします。しかし,「どんな悪い人だって良いところもある」「どんな良い人だって悪いところもある」のが現実です。
 こうした『ステレオタイプ』が固定化して,『偏見』が生まれるのです。そして,『偏見』が具体的な行為や行動となって現れたものが『差別』なのです。

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偏見のメカニズム

1.アメリカの教育調査で次のような質問がありました。

「むかし,むかし,中国のある町に,仕立て屋をしているひとりの男がいました。そして,その男には,アラジンという名のひとりの息子がありました。ところが,この息子は,とんでもない怠け者で,勉強の方は全然ダメ。小さいころからどうも困った人間になりそうなようすでした。」
 さて,アラジンは,インディアン・黒人・中国人・フランス人・オランダ人のなかのどれでしょうか?

 多くの子供たちは,「アラジンは中国人です」と回答しました。ところが,南北戦争から奴隷制廃止に強く反対していた5つの州の白人の子供の大部分が,「アラジンはとんでもない“怠け者" なのだから,“黒人" にちがいない」と答えたのです。この教育調査がわたしたちに示唆している問題点の第1は,“怠け者" という言葉から直ちに“黒人" を連想したという点です。第2の問題点は,そのように回答した子供が,黒人に対して強い差別意識をもっている州の親や地域社会の大人に育てられてきた,という事実と関連している点です。
 このように,実際の経験より以前に,あるいは実際の経験に基づかないで,ある人やある事物に対して持つ,好きとか嫌いとかいう“感情" で,個々の人びとの差異を無視してグループ全体にあてはめられるものを『偏見』と言います。そして『偏見』は幼い頃からの環境によっても形成されるのです。この教育調査の結果が指摘している問題はアメリカ合衆国における人種的偏見に関するものですが,我々の周囲にも,あるグループに対して『偏見』を持っている例は多いのではないでしょうか。この『偏見』がどのようにして生まれ,どのようにして解消すればいいのか、これから考えていきましょう。

2.2人の裁判官が,夕食後,仕事のことについて語り合っています。

「今日の裁判の男をどうしましょうか? もし,あなたが私だったら,どのように裁きますか?」一方の裁判官が,もうひとりの裁判官に話しかけました。すると,意見を求められた裁判官は,「あなたは,そのようなことに私が答えられないということを御存知ではありませんか。彼の父親は,5年前に死んでしまったというだけでなく,彼は,私の息子でもあるのですから・・・」と答えました。
 
しばらく,このことについて,考えてみてください。2人目の裁判官は,どうして“私の息子" と言うことができたのでしょうか?話に出てきた男の父親は5年前に死んでいるのですよ!オカシイな,意味が通じないな?と思いませんか。正解は次号!

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2

あなたの人権意識度は?

あなたは,超満員の電車に乗っています。あなたの足が誰かに踏まれています。さて,あなたは,どうするでしょう。

a.「足を踏まれたのも何かの運命だ。ここは何も言わずにじっと我慢しよう」と諦める。
b.「満員電車の中で,お互い様だから仕方がない,事を荒立てないほうがいいだろう。」と我慢する。
c.「私から言わなくても,きっと気がついて,足をのけてくれるだろう。」と自然解決を期待する。
d.「足を踏んでいる人には,踏まれた人の痛みはわからないのだから,説明して,足をのけてもらおう。」と説明する。

a)のように足を踏まれていているのに運命だと諦めるか,b)のように足を踏まれているのに世間体を考えて事なかれ主義をとるか,c)のように相手の善意を信じて自然に解決するのを期待するか,d)のようにキッチリ言うか。

あなたの人権意識度は?とたずねられると,d)と答えた方がいいのだろうと分かっていても,現実にd)の行動を選ぶことができるでしょうか。d)のように言ったとしたら,「私なら我慢するのに」とか「騒がなくても時間がたてば解決するのに」とか「あの人はうるさい人だ」とか「騒ぎすぎだ」とか思われるのではないかとおっくうになってしまい,ついつい黙ってしまう人も多いのではないでしょうか。また,足を踏んでいる人の様子によって,対応をかえたりしないでしょうか。と考えると,人権とは難しいものです。これから一緒に考えていきましょう。

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はじめまして、同和教育部です。同和教育部は、同和問題を始めとして広く人権問題を考える仕事をしています。これから3年間、みなさんと同和問題や人権問題について考えていきましょう。

高校生の価値観

前回実施したアンケートの結果からいくつかについて見てみましょう。回答してくれた人は318人です。                

質問1「今の世の中では人は何によって評価されるか?3つ以内で選べ」
第1位  「学歴」 205人(65%)
第2位  「収入・財産」 144人(45%)
第3位  「職業」 103人(32%)
 上位3つは、高い「学歴」をつければ高い「収入」を得られる「職業」につくことができるというふうにつながります。反面、「性格」(103人)「思想・信条」(33人)「教養・センス」(24人)など内面的な価値はずっと低く位置づけられています。これは、人を外見で判断する現在の風潮を表しています。                 

質問2「世の中は万事お金である」という考え方についてどう思うか?」
「そう思う」「まあそう思う」 49%
「(あまり)思わない」 23%
前の質問の主語は「世間は」でしたが、みんなも同じように考えていることがという質問の答えに表れています。世の中はお金で動いている、そのためには高い学歴をつけて・・・・・と考えている人が非常に多いようです。

質問3「あなたは社会を変えることができると思いますか?」
「自分が努力しても良くすることにつながらない」「(まあ)思っている」 61%
たとえそうした社会が間違っているとしても、変えられないとあきらめてしまっている人が非常に多いことを示しています。             

質問4「あなたは生きる上で何を優先させますか?」
「社会全体よりも自分の生活の充実が先だ」「(まあ)思っている」 55%
半分を越えていて、自分さえよければという風潮を如実に表しています。これが現状なのでしょうが、すこし寂しい気がします。

世界には多くの人権侵害があります。
「戦争」、
アメリカの黒人差別や南アフリカ共和国のアパイルヘイトなど皮膚の色の違いなどを理由にする「人種差別」、
ナチスドイツによるユダヤ人差別など言語・宗教・風俗の違いを理由にする「民族差別」などがあります。
日本でも、在日韓国・朝鮮人、在日中国人・アイヌ民族に対する「民族差別」、「女性差別」「障害者差別」「部落差別」など、多くの差別があります。
ヒトラーが「もしもユダヤ人が存在しなければ、我々はそれを発明しなければならなかった」と語ったように、人間は非常に不安な状況に追い込まれたとき、何らかの形で優越感を抱いたり、好ましくない感情を持って、差別の対象を探すことがあります。
しかし、人間はそうした卑劣なことをする可能性も秘めていますが、素晴らしい行動を取る可能性も持っています。
そのどちらをも選べるのが人間です。
「民族差別」は歴史の視点を踏まえて民族性を尊重しつつ共に生きる社会を作ることによって、
「女性差別」は違いを認めた上で互いの性を生かすことによって、
「障害者差別」は同じ人間として共に生き協力していくことによって、
「部落差別」は同和問題に関心を持ち続け私たちの問題であるという認識を持つことによって、解決していきます。
これらの差別は、人間社会の歴史的発展の一定の段階において発生し、成長し、消滅する歴史的現象にほかなりません。どのような差別であろうとも、解決できないことはありません。
そこで、みなさんには、3年間で次の力をつけてほしいと思います。

1.人の痛みを感じることができる
2.何が差別なのかを見抜く
3.差別はどのようにして発生し、どのようにすれば解決していくのかを知る
4.差別に対して自分はどうするのかを判断する



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