評論

清岡卓行


 ミロのビーナスを眺めながら、作者は不思議な思いにとらわれた。「彼女のビーナスが魅惑的であるためには、両手を失っていなければならない」。作者はミロのビーナスを「彼女」と呼んで親しみを込めているが、これは一見真理に反しているように見えながら、よく考えてみると実は真理にかなっている逆説である。一般には、両手両足、五体満足なのが美と言われている。しかし、彼女は両手を失ったことによって魅惑的になった。なぜ、そう言えるのかを解明していくのがこの評論の目的である。また、こうしたことは「美術作品の運命」であま。「製作者のあずかり知らぬ何者かが、微妙な協力をしている」のである。美術作品は、完成した瞬間から製作者の意図から離れてしまうのだが、それなら芸術とは何かが問題になる。
 彼女は、メロス島で発掘され、ルーブル美術館に運ばれてくる間に両腕を失った。それは偶然の出来事かもしれないが、「よりよく国境を渡っていく」ように空間を越えて世界中の人に、「よりよく時代を超えていく」ように時間を越えて後代の人々に、「自分の美しさ」を認めてもらうのため、夢ではなく現実の匂いが染みついた「生臭い場所」に、あたかも、自分の両腕を「うまく忘れて」、あるいは「無意識に隠して」きたのである。彼女が両腕を失ったことは、「特殊から普遍への巧まざる跳躍」であり、「部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄」である。両手のある彼女は目に見える具体的な特定の形しか表さないが、両手を失った彼女はその手を想像することによって、あらゆる可能性を、すべてのものに通じる共通の美を獲得することができたのである。
 彼女の顔や胸や腹や背中など残存しているものは、「高雅と豊満の驚くべき合致」した「美というものの一つの典型」、「均整の美」をたたえている。これは現実の美である。それに比較して、失われた両腕は、「あるとらえがたい神秘的な雰囲気」「生命の多様な可能性の夢」がたたえられている。そこには「存在すべき無数の美しい腕への暗示」という「不思議に心象的な表現」、「微妙な全体性への羽ばたき」がある。現実には存在しないが、想像しうる無数の美の可能性を秘めているのである。
 したがって、ミロのビーナスの両腕の復元案は興ざめなものになる。なぜなら、問題になっているのは、「表現における量の変化ではなくて、質の変化」であるからだ。両手があるかないかという量の問題ではなく、両手を失った彼女への感動の質の問題である。両腕を失った彼女への感動と、両腕のあった彼女への感動とは全く質の異なるものである。両腕のある彼女は「限定されてあるところのなんらかの有」であり、両腕のない彼女は「おびただしい夢をはらんでいる無」である。両腕のない彼女は、あらゆる美の可能性を秘めている芸術そのものなのである。
 さらに、問題を突き詰めれば、失われたものが両腕でなければならなかったことである。手とは、「世界との、他人との、自己との、千変万化する交渉の手段」、それらの「関係を媒介するもの」、そうした関係の「原則的な方式そのもの」である。つまり、手は自己と外部とを結ぶパイプなのである。ミロのビーナスがそうした意味をもつ手を失ったことで、逆に時間的にも空間的にもあらゆる可能性を獲得したのは不思議なアイロニーである。


板書

1.ミロのビーナスの写真を配布し、両腕を書き加えさせる。
2.基本問題プリントをさせる。

第一段
1.音読する。
2.「不思議な思い」を確認する。
 ・彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかった。
3.「彼女」とは誰かを確認しなぜ、そのように呼んでいるのかを考える。
 ・ミロのビーナス。
 ・愛情を込めている。
4.「彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両手を失っていなければならなかった」の意味を考える。
 ・普通、両手を失っていることはハンディであってマイナス要因である。それなのに、魅惑的であるのは矛盾している。
 ・これは、逆説である。
5.ミロのビーナスが発見される経緯を確認し、発掘の諸説について説明する。
 ・発見されたとき、リンゴを持った左手が付いていたという説もある。
 ・フランス兵が地元トルコ人を説得して譲り受けたという説と、フランス兵とトルコ人が激しく争って、そのために両腕を失ったという説がある。
6.「両腕を失って」について
 1)言い換えを確認する。
  ・生臭い場所にうまく忘れてきた。
  ・無意識的に隠してきた。
 2)「生臭い」の意味を考える。
  ・現実性がある。
 3)「失う」と「うまく忘れてきた」「隠してきた」の違いを考える。
  ・ビーナスに生命があるかのように表現している。
7.「魅惑的であるために」について
 1)言い換えを確認する。
  ・自分の美しさのため
  ・よりよく国境を渡っていくために
  ・よりよく時代を超えていくために
 2)「国境を渡っていく」の意味を考える。
  ・空間を超越して、全世界に通用する。
 3)「時代を超えていく」の意味を考える。
  ・時間を超越して、未来にも通用する。
8.両腕を失ったことについて
 1)何を意味しているか。
  ・特殊から普遍への巧まざる跳躍
  ・部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄
 2)普遍」「具象」の意味を考える。
  ・普遍=すべてのものに共通に存すること。
  ・具象=形をとって現れること。その形。
 3)「特殊」「普遍」「部分的な具象」「全体性」の関係を考える。
  ・特殊=部分的な具象
    ↓↑
  ・普遍=全体性
 4)「特殊」「部分的な具象」とはどういうことか。
  ・両腕がある状態。
  ・一つの固定した、目の前の具体的な美しさ。
 5)「普遍」「全体性」とはどういうことか。
  ・両腕が失われている状態。
  ・想像できるすべてに共通する美しさ。
9.ミロのビーナスの残存している部分の魅力を確認する。
 ・高雅と豊満の驚くべき合致
 ・美というもののひとつの典型
 ・均整の魔
 ★目に見える、絶妙のバランスを保った、具体的な美しさ
10.それに対する、失われた両腕の魅力を確認する。
 ・とらえがたい神秘的な雰囲気
 ・生命の多様な可能性の夢
 ・存在すべき無数の美しい腕への暗示
 ・微妙な全体性へのはばたき
 ★目に見えない想像上の、あらゆる美の可能性を秘めた美しさ。

第二段
1.音読する。
2.ミロのビーナスの両腕の復元案に対する作者の感想を確認する。
 ・興ざめたもの、滑稽でグロテスクなもの。
3.さまざまな復元案を確認し、図示してみる。
4.その理由である「量の変化ではなく、質の変化である」について
 1)量の変化」とは何か。
  ・両腕がない状態から、ある状態への変化。
  ・物質的で現実的な量の変化。
 2)「質の変化」とは何か。
  ・両腕のないビーナスへの愛ともいえる感動に対して、両腕のあるビーナスは同じビ  ーナスではあるが全く他の対象に変化してしまう。
  ・抽象的な多様な可能性をはらんだ美しさから、現実的な特定の美しさへの変化。
 3)「両腕がある美しさ」の言い換えを確認し、意味を考える。
  ・限定されてあるところのなんらかの有
  ・両腕が有ることによって、美が限定されてしまう。
 4)「両腕がない美しさ」言い換えを確認し、意味を考える。
  ・おびただしい夢をはらんでいる無
  ・両腕が無いことによって、多くの夢を含んだ美を想像できる。
5.「芸術の名において」、あるいは第一段の「美術作品の運命」について考える。
 ・制作者の手を離れて、鑑賞者のものになる。
 ・見るものの夢に託されるもの。

第三段
1.音読する。
2.2つの問題提起を確認する。
 ・なぜ、失われたものが両腕でなければならないのか?
 ・それが最も深く、最も根源的に暗示しているものはなんだろうか?
3.「それ」の指示内容を考える。
 ・手というものの、人間存在における象徴的な意味
4.2つ目の問題提起の答えを確認する。
 ・世界との、他人との、自己との、千変万化する交渉の手段
 ・そうした関係を媒介するもの
 ・その原則的な方式
 ・そうした=世界との、他人との、自己との
 ・媒介=双方の間に立ってとりもつこと。なかだち。とりもち。
 ・その=世界との、他人との、自己との関係
 ★手は、自分と、社会や他者、自分自身との関係をつくるもの。
5.『ノンバーバル事典』で手の象徴的な意味を紹介する。
 ・例えば、握手をしたり、手振りで表現したり、自分の胸に手を当てて考えてみたりする。
6.「機械とは手の延長である」の意味を考える。
 ・機械は人間の手の働きの変わりをするものである。例えば、機織り機やワープロやなど。
 ・機械によって、人間の世界は広がっていった。
7.「恋人の手を初めて握る幸福」の例を考える。
 ・恋人の手を握ることによって、他者との愛情や、自分の愛情の深さを感じる。
8.「不思議なアイロニー」を確認し、その意味を考える。
 ・欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でる。
 ・両腕がないことは、本来ならば世界との関係を失うことになるのだが、ミロのビーナスの場合は、両腕がないことによって却って、多くの人々にあらゆる美に対する夢を与えるという形で関係ができた。



コメント

ホーム