堤防

山 田 詠 美

私は、自力で何かをするという才能に恵まれていない。それが私の劣等感を形作っている。そして、私は、その劣等感の存在を認めつつ今日まで来てしまった。後一歩というところで、私は、いつも、すべてを諦める。私には、能力以上に発揮出来ることが、何ひとつとしてないのである。
こんな経験がある。私は、まだ小学生だったと思う。海に行った。夏休みの家族旅行だったと記憶している。昼間、海水浴を楽しみ、おいしい魚を食べ、私たちは近くの旅館に泊まることになっていた。父と母、そして妹は、部屋で休み、陽均けの手入れをし、くつろいでいた。夕暮れ。私は、ひとり、海辺に出た。タ闇は、潮の匂いを濃くし、昼間、漂っていた陽気さは影をひそめていた。空気は、もう遊んでいなかった。砂は、自分たちのことに夢中で、私を受け入れる寛容さを持たなかった。私は、ぼんやりと、深い色を増して行く、沖をながめていた。自然というものは大きい、と、私は幼な心に感じていた。人の支配出来るようなちっぽけなものではないのだと思い、私は、しばし、呆然としていた。もしも、この海を支配出来るものが存在するとしたら、それこそが神というものではないだろうか。私は、そう思い、ひざまずきたいような気持でいっぱいだった。
空は海の色と同化しようとしていた。私は、自分も闇に紛れてしまうのではないかと危惧して、歩き始めた。やがて堤防に辿り着いた。もしかしたら、防波堤と呼ぶべきものなのかもしかないが、その頃の私に知識はなかった。そこだけが白線を引かれたように浮き上がって見えた。私は、定められた道を歩かなくてはならないように思い、そこに飛び乗った。闇はせまっていた。遠くの灯台には灯りがともった。私は目の前に続く白い道を歩き続けた。堤防の中程まで歩いた頃だろうか。私は、ふと、我に帰った。潮はいつのまにか満ちて来ていて、私の足許には波が砕けていた。波のしぷぎは、時折、私の頬にも当たるくらいに高く飛んだ。自分の下で波が音を立て、そして、終わりがない海が遠くに広がっていた。私は、そのことに気付いた瞬間、身動きすら出来なくなった。波は、まるで、私に手招きをしているように見えた。
落ち着かなくては。私は、自分に、そう言い聞かせた。このまま歩き続ければいいのだ。それまでと同じように、無頓着を装って歩いて行けば、登った時と同じような階段がある筈なのだ。あるいは、引き返せばいい。そうすれば、すぐに、ここから解放されるのだ。反対側は、舗装された道路だった。少し高すぎるけれど、道路に飛び降りるという手もある。私は、一所懸命、これらのことを考えた。それなのに、どうしたことだろう。私は、一歩も、前にも、後にも進めないのである。私は、この時、目に見えないものに、あやつられている自分を生まれて初めて感じていた。
金縛りに遭ったように立ちすくむ私のまわりで、時間は容赦なく流れた。潮は、ますます満ちて来て、砕け散る波は、私の頬を濡らす程だった。私は、コンクリートを砥めるように寄せる波を見て、そして、反対側の道路に視線を移した。そして、両側を意識しないように努めて、前を見た。私は、別に細い棒の上を歩いている訳ではないのだ。充分に幅のあるコンクリートの上を歩いているのだ。前に進めば良いのだ。
それなのに、どうしたことだろう。私のバランスは崩れて、体が、大きく揺れた。体勢を立て直すことは簡単なことだった。私は、体が揺れるのを感じながら、よたよたとニ、三歩、前に進んだ。何とか大丈夫。私は微笑もうとした。その瞬間である。私は、海に落ちる運命なのではないだろうか。そんなことを思ってしまったのである。海に落ちる運命にある者が、体のバランスを立て直しても、徒労に終わるのではないだろうか。そう思い下を見ると、なんだか、波が自分を呼んでいるような気持になった。手が水の中から出て、手招きをしているような気にさえなった。ああ、これで、終わりだ。私は、そう思い、何の抵抗もなく、海の中に落ちた。
激しい波の音と白い泡に気を取られて、私は、しばらくの間、ぼんやりとしていた。何が、どうなっているのか、まったく解らなかった。死んでいるのかも、生きているのかも解らなかった。落ちた瞬間、波への恐怖は、まったく消えてしまったので、私は、しばらく、海水から首だけを出して、浮かんでいた。すると、上の方から、大きな声が聞こえた。
「大丈夫か!」
上を向くと、堤防の上から、大人の男女が、私をのぞぎ込んでいた。
「大丈夫か!」
男性の方が、私に向かって手を伸ばして言った。
「はい、平気です」
「夕方に、海に飛び込んで遊ぶなんて、何を考えてるんだ」
「別に遊んでいる訳では」
「波が引いたら立ちなさい」
私は言われた通りにした。波の激しさで解らなかったが、立つと、私の腰程にしか水はなかった。私は、次の波が来る前に、男の人の手につかまり、再び堤防の上によじ登った。
「危ないわねえ。ほんとに。お父さん、お母さんは、どこに泊まってらっしゃるの?」
私は旅館の名前を言った。彼らは、私を、そこまで送ってくれた。道すがら、彼らは、私を叱り続けていたが、私は、自分が、すぐに引き上げられたことが不思議でならなかった。私は、確かに、海に呼ばれた筈だったのに。
父は、私を怒鳴り、母は呆れて、私の濡れた服を脱がした。私は、もちろん、少しも反省していなかったので、両親を、ますます嘆かせた。
「まったく。あの人たちが助けてくれなかったら、おまえは、溺れ死んでたかもしれないんだよ。薄暗い時間に、飛び込むなんて」
「飛び込んだんじゃないよ。私、落ちたんだよ」
「嘘を言うんじゃない。あの人たちが言うには、おまえは、ふらふらと、何の抵抗もなく、飛び込んだそうじゃないか」
「だから、私は、そうなる運命だったんだよ」
母が小さく叫んだので、私と父は、驚いて、彼女の方を見た。母は、半分、べそをかいたような表情で言った。
「まさか……まさか」この子、自殺するつもりだったんじゃ」
父は、ぎょっとしたように、私を見た。私は、聞いた口が塞がらなかった。そんな馬鹿な。自殺というのは、自分で、自分を殺そうとすることではないか。そんな根気のいることが、私に出来ると思っているのだろうか。自分を殺すということは、能動的な姿勢を、必要以上に発揮することである。瞬発力がいる。そして、それを爆発させるためには、私に、まったく欠けている〈自力〉というものが、まさに、必要ではないのか。
「ママ、私、自殺なんてしないよ。落っこったのは、運命なんだよ。私は、運命には逆らわない主義なんだよ」
父と母は、不気味なものを見えたのように、顔を見合わせた。
きっかけは、この事件である。私は、幼なくして、運命論者となったのである。一所懸命やりさえすれば、夢はかなうという一般論を、私は、とうに捨てていた。私にとっては、自分の考え力は、ひとつの信念であったが、他の人々には、そうは思われなかったので、私は、かなり、ハンデを背負った学校生活を送ることになった。私の運命論は、教師たちには通用せず、彼らは、私を、なんとかなるさ的反抗精神を持った危険な生徒として扱い始めていた。
たとえば、私は、よく鉄棒から落ちた。地面が、私を呼んでいるようだと思いついた瞬間、何故か、私の手は、するりとすべり、
本当に落ちてしまうのである。もちろん、教師は血相を変えて、私の側に駆け寄って来る。そして、不思議そうに、その場に座り込んでいる私に気付いて、猛烈に、腹を立てるのである。幸運なことに、私は、何度、落ちても、怪我ひとつしなかったので、ますます彼らは、私を忌々しく思ったのである。
中間試験の緊張した空気の中でも、それは変わらない。私は、急いで、問題を解こうという気にならないので、よく、時間切れになってしまうことがあった。私にしてみれば、人間が時間をコントロールすることなど、不遜きわまりないと思っていたりで、ゆっくりと問題を解いた。それが、全部、正解であったりするので、ますます教師たちは腹を立てるのである。後半の問題をわざと解かすに提出したと思うらしいのである。冗談じゃない。最後まで、解答を書く時問がなかったのは、私の才能である。才能以上のことを、私にしろと言っても無理な話なのだ。
現代国語の教師など、私を忌み嫌っていた。最初の試験で、芥川龍之介の[蜘蛛の糸」などを例文にするから悪いのである。私は、その物語にのめり込んでしまい、まったくの白紙答案を出してしまったのである。古文の試験で、どういう訳か満点を取ってしまったのも、わざわいしていた。試験の後、その教師は、私を職員室に呼び出した。
「いったい、どういうつもりなの!」
「は?」
「は? じゃないわより! あなたは、先生を馬鹿にしてるのね!」
「まさか」
「じゃ、古文で満点を取れたあなたが、何故、現国で、零点なのか、教えてもらいましょうか!」
「それは古文が退屈だったからです」
「なんですって!」
「それに比べると、現国の試験は、最高でした。古文は退屈にまかせて問題解いてたら、すぐ終わってしまったんです。でも、現国は……私、あの『蜘蛛の糸』について考えてしまって」
「どういうふうに、考えたんだか、言ってみなさああい!」
その女教師は、真っ赤な顔で、大声を出した。私は、今にも倒れそうな彼女の様子を、おもんぱかって、小さな声で答えた。
[いえ、あの、どうして、あんなに必死で、蜘蛛の糸をつかんだんかなあと不思議で……そして、その不思議なことをしようとする罪人があんなに沢山いるのが、また不可解で。罪人としての運命をちっとも、受け入れてないなあと思っちゃって。普通、あの蜘蛛の糸が切れるのって、予測出来ますよね。自分が、何も言わずに、上に登って行くたまじゃないって、解りますよねえ……」「立ってなさあああい!」
私は、一時間、廊下に立たされた。廊下を通るクラスメイトたちは、私を見て、くすくすと笑った。やがて、休み時間が終わってしまい、私は、誰もいない、しんとした廊下で、思う存分、物思いに耽った。五月だった。外から吹く風は、気持良く私の頬を撫でた。私は、校舎という器に入れられた自分に、不思議な満足感を覚えた。
その晩、私は、夕食の時に父に言った。
「パパ、人生について語り合おうよ」
家中の者が、一斉に、食べているものや飲んでいるものを吹き出した。
「語り合いたいことでもあるのかい?」
父は言った。私は、彼に、現国の試験で零点を取ったことを告げた。母は、衝撃のあまり茶碗を床に落とした。私は、それを無視して、自分が小さな頃から、考え続けている運命というものについて、話し始めた。母は、急に気分が悪くなったと言って、二階に上がってしまったが、父は、おかしそうに私を見ていた。「白紙答案を、運命のせいにしちゃいかんと思うね」
「せいじゃないけどさ。結果的に、そうなっちゃったんだもん。私、それから気になっちゃって、芥川龍之介の本を図書館で借りて、いくつかのお話を読んてみたんだけど、運命のレールを外れた瞬発力を発揮する人間がいっぱい出て来て、おもしろいんだ。私とは違うみたいだけどさ」
「その瞬発力を運命のエネルギーが押し出させると思わないのは、おまえにしちゃ不思議だね」
父は、そう言って微笑んだ。私は、父が思いもよらないことを言ったので、少しばかり驚いていた。
「そうかなあ。うーん。でも、そういう能動的な力を出すのって、私は、少し卑しいような気がする。それは、運命というより、欲望のエネルギーなんじゃない?」
「じゃ、おまえは、欲望のエネルギーが、運命の方向を変えるという事実をどう考える?」
「そんなことって、あるのかなあ」
「あるとも。杜子春が叫んだくおかあさん〉という言葉をどう思うんだい?」
「うーん」
居間で、テレビを観ていた妹が、叫んだ。
「おねえちゃんねー、すごい変人だって、先生が言ってたよお。やめてよね。妹に肩身の狭い思いをさせるの」
「あんなは、うるさいんだよ」
「おねえちゃんこそ、うるさいんだよ」
「くだんないテレビ観てないで、早く宿題やれば?」
「くだんない話をしてないで、早く、お風呂入れば?」
「もし、お風呂で、私が溺れて死んだら、あんた、一生、後悔することになるんだよ」
「宿題でノイローゼになったら、おねえちゃんこそ一生、後悔するんだよ」
「別に。そういうあんたの運命について、いっさい、私は関知してないもん」
妹が、しくしくと泣き出したので、私と父の〈大半についての語り合い〉は、途中で終わりになった。翌朝、母が、半分真剣に、私の育て方を、どこでどう間違えたのだろうかと父に訴えているのを耳にして、私は、面倒を避けて、朝食も食べずに学校に行った。
中学・高校と、私は、そういう理由で、変わった人と言われ続けて成長した。相変わらず、体育の時間には、平均台から抵抗もせずに落ち、遅刻をしても走らずに歩いて教室に入って行き、ひんしゅくを買った。けれど、決して、愛想のない方ではなかったので、友だちに困ることはなかった。私は、親友と呼べるような女友だち、あるいは男友だちを少しずつ増やして行き、悪くない日々を送った。私は、彼らに、自分の考えを押しつけようとは決してしなかったし、また、彼らも同じだった。彼らは、運命などという言葉を口に出すこともなかったし、そんなことなど考えたこともなかっただろうけれど、生きる姿勢ということでは似ていた。つまり、私たちは、自力で何かをしようとはしない人種だったのだ。
皆、ゆったりと生きていた。私は、相変わらず、よく転んだり、落ちたりしていた。色々な失敗もしでかした。けれど、私は慌てふためいたりはしない。無駄にあがいたりもしない。
天気の良い朝に、ふと、私は呼ばれているような気持になって、通学途中に別な電車に乗ってしまうことがあった。私は、知らない駅で降りて、ぼんやりとベンチに座っているのが好きだった。一、二時聞たつと、私は立ち上がり、学校に向かう。教師は、遅刻した私を、やはり叱る。私は、遅刻の理由を尋ねられて、そうしなきゃいけなかったから、とだけ答える。クラスの生徒たちが、どっと笑う。教師は、渋々、腹を立てる。私は、仕様がないので、ごめんなさいと大声で叫ぶ。もうしません。本当にしませんたら。今日の内は。生徒たちは、げらげらと笑う。私は、いつのまにか、人気者になっている自分に気付く。困ったなあ。
「だからさあ。あんたのことを、皆、ほのぼのしてるって、思っちゃうわけよ」
一番、仲の良い京子が、さも、おかしそうに私に言った。
「ほのぼのって、私のこと?」
「そうだよ。私も、時々、そうかなって錯覚しちゃう時あるもん。皆、羨しいんだよ。あんなの何事にもとらわれてない、みたいな態度が」
「そういうんじゃないんだけどなあ」
私は、困った顔をして京子を見た。私は、ただ運命に逆らわないようにしているだけなのだ。漠然とした危機感を感じると、すぐに、自分自身で選択することを放棄して、流れに身をまかせてしまうだけなのだ。ことさら、誰かに反抗しようとする気もないし、束縛から逃げようとする気も起きない。私には、人よりも立ち止まってしまう瞬間が多いだけなのだ。そんな時、私は、運命と私自身が呼ぶところのものが目の前に立ちはだかっているのを感じる。そうすると、私は、蛇ににらまれた蛙のような気分になり、手も足も出なくなる。はい、はい、解りましたよ、という感じで、両手を上げて降参してしまうのだ。
私は、今でも、時折、あの堤防から落ちた時のことを思い出す。あの白く長いコンクリートの道を隔てて、世界は二つに別れていた。海側は、あの時の私にとって運命であったし、道路側は、私と何の関わりも持たない世界だった。私は、あの瞬間、海の側に選ばれたのだ。そして、直後に、つき放されたのだ。それと同じようなことが、日常にはいくつも横たわり、人間は、常に選ばれるのを待っている。
「運命、ね」
京子は、部室で煙草を吸いながら、私の話に耳を傾けていた。
「だからさ、それに逆らうみたいに奮闘してる人を見ると、私、へえ、すごいなって思っちゃうんだ」
「そういう素直な驚きが、あんたをほのぼのと見せてるんだよ」
「そうかなあ」
「そうよ。誰が、私を、ほのぼのとした人間だと思う? 私は、あんたと違って、単に、投げやりなだけなんだ。ちきしょう」
「……何かあったの?」
私は、再び煙草に火を点けて、はすっぱな様子で煙を吐き出す彼女を不思議そうに見詰めた。
「私、ある男に夢中なのよ」
京子は、ぽつりと言った。私は、目を見開いて、おもしろそうに、彼女を見た。
「へえ、いいじゃん。なんて、それで、投げやりになるわけ?」
「だって、奥さんも、子供もいる人なんだもの」
「まずいよ、それは」「そんなの解ってるよ。解ってるから、腹立つんじゃない。どうして、あんな男を好きになっちゃったのかなあ。まったく、どうかしてる。ねえ、これを運命だなんて言ったら、私、怒るよ。男と女の間ってね、そんなちゃちな言葉で、納得出来るものじゃないんだからね」
「そういう言い方って、ないんじゃない?」
私が、京子の口調の強さに、むっとしながら、そう言うと、彼女は突然泣き出した。
「や、やだ。泣かないでよ、京子ったら」
「あたし、口惜しいよ。どうして、もっと、私、早く生まれなかったんだろ。そしたら、私、あんな女よりも先に、彼の子供を生めたのに」
「……まさか、妊娠したの?」
京子は、私のおそるおそるの質問に頷いた。彼女は、ひとしきり泣いた後で、ごしごしと涙を拭って、しばらく親指の爪を噛んでいた。私は、自分のまったく知らない世界に入り、急激に大人びた女友だちを、ぼんやり見ていた。
「彼は知ってるの?」
「昨日、言ったわ」
「なんて?」
「まさか、生めって言うわけないじゃない。私、今、彼のこと憎んでるのか、愛してるのか、わかんない。考えると、かあっとしちゃって、何も考えられなくなるの。私が、こんな思いしてるのに、あの人は家に帰ると、御飯を作って、待っててくれる人がいるんだもんね。見せしめに自殺してやろうかななんて、考えたりしてね」
「自殺?」
「たとえばの話よ。ねえ、もし、あんただったら、どうする? これも、運命だと諦める?」
「わかんないよ、そんな。でも、自殺なんて、駄目だよ。絶対に、絶対に、そんなこと考えたら、いけないよ、京子。だいたい、死ぬって、大変なことだよ。パワーいることだよ」
「馬鹿ね。死ぬより、パワーがいるのが、男と女の関係ってもんよ」
私は、言葉を失って、彼女を見詰めるしかなかった。彼女は、もがいている。私は、そんなふうに感じた。彼女は、自分を飲み込もうとする渦をなんとかしようとして、必死なのだった。そこには、立ち止まろうとする余裕も、流れに身をまかせようとする落ち着きも何もなかった。
京子は、しばらく、顔を覆ったまま無言だった。私は、彼女の背をさすりながら、尋ねた。
「京子、大丈夫?」
「平気よ。でも、限界かな。ごめんね。あんたに、こんな話しちゃったりして」
京子は、無理に笑顔を作って立ち上がった。
「帰るよ。家に帰って、頭、冷やさなきゃ」
私は、不安のあまりに息苦しさを覚えて、胸を押さえた。ドアを開けて、部屋を出て行く時の彼女を、私は思わず引き止めようとしたが、声にならなかった。彼女は、その時、明らかに向こう側の人間のように見えた。
翌日から、彼女は、学校に出て来なかった。私は胸騒ぎを覚えたが、担任教師の、彼女は病気で入院中であるという言葉に、とりあえず、ほっと胸を撫で下した。彼女の母親に、後で電話をしてみようと私は思った。
休み時間に、私や京子と仲の良い女友だちが、私の所に来て、耳打ちをした。
「知ってる? 京子、自殺を計ったらしいよ」
「ほんとなの?」
「うん。あんたも知ってたでしょ。あの子、妻子持ちとつき合ってたの」
「で、彼女、大丈夫なの?」
「そりゃ死んじゃいないけどさ。もう、あの子んちは大変よ。御見舞行こうよ。私は、また中絶したんで休んでるうかと思ってたけどさ、まさか自殺とはね。びっくりよ」
私は、足が震えて、どうしようもなかった。授業を受けるどころではなかった。私は、放課後までを上七の空で過ごした。授業の最中に、ああ、と言って、机に伏せたり、舌打ちをしたりして、またもやクラス中の笑いを誘っていたが、そんなことは、どうでも良かった。
私は、何度も、京子が、あの堤防を歩いている場面を心に思い描いた。彼女は、打ち寄せる波をどうして良いのか解らずに立ち尽くす。まるで、あの日の私のように。けれど、私のように、ふらりと落ちたりはしないのだ。自ら、海の方を向いて、飛び込んだのだ。そして、誰かが彼女を引き上げる。彼女は、こんな筈ではないという表情で、ぶら下がっている。ああ。
「おい。何だ。さっきから溜息ついたり、ぶつぶつ呟いたり。授業を受ける気がないなら、帰っていいぞ」
教師の声に、私は、はじかれたように立ち上がった。
「いいんですか。ありがとうございます!」
私は、呆気に取られている教師と、笑いをこらえているクラスメートたちを残して、教室を走り出た。
病室をノックすると、青ざめた顔の京子の母親がドアを開けた。母親の肩越しに、雑誌を読んでいた京子が驚いたように、私を見た。
[お母さん。私、大丈夫だから、ちょっと、外に出ててくれる?」
京子の言葉に、母親は頷いて、ドアを閉めた。私は、二人きりになった途端に、こらえ切れなくなって、涙をぼろぼろとこぼした。
「やだな。泣かないでよ。なんか、格好悪いことしちゃって、私。傷は全然、大したことなかっだんだけど、赤ちゃん駄目になっちゃって」
京子は、泣いている私に困惑して、明るい様子を装って、そんなふうに言った。
「なんで、こんなことしたのよ。わざわざ、自分を痛めつけるようなことして。馬鹿だよ。そんなエネルギーあるなら、生きる方に使いなよ」
「そうしてるよ」
「え?」
「手首を切った瞬間に、しまったって思ったもん。ほんと、母親とかの取り乱し様を見たら、死ぬよか生きる方が、ずっと楽だわって思ったもん。だけどさ、今のあんたの言葉、あんなの口から出たと思えないね。生きる方にエネルギー使えたってさ、ははは」
私は嘸然として京子を見た。彼女は、笑いながら泣いていたが、私は、もう涙を流す気はなかった。
「怒んないでよ。私、これ程、パワーを使ったことないわ。生まれて初めて、私が、自力でやってのけたことが、自分を殺そうとすることだったなんてね。ねえ、確かに、運命ってあるよ。そして、ちょっとばかりのエネルギーで、その方向をずらすことだって出来るんだよ。あんたの、あの海に落っこちた話、よく覚えてる。落ちる運命は決まってる。でもね、海側に落ちるか、道路側に落ちるかは、本人の力で左右出来るのよ。ねえ、解る? それが生きるって、ことなんだよ」
京子は、いつまでも笑っていた。私は、困ったように、彼女を見ていた。とりあえず、彼女は上手い方向にバランスを崩したと言うことだ。私は、ほっとして、そして、嘸然として、どうして良いのか解らずに、唇をへの字に曲げたままだった。そう言えば、学校から病院への道を、私は全速力で駆けて来たのだっけ。私のような人間でも、いざとなったら、走ってしまうということだ。あーあ。夕方まで、京子と病室で過ごした後、私は、あちこち道草を食いながら、家に戻った。タ食は始まっていて、私が不貞腐れたように、食堂に入ると、皆、私を見た。
「まったく、遅くなるんだったら、電話しないと駄目よ」
「はーい」
「おねえちゃん、変人だから、言っても駄目だよ」
「うるせえな」
「なんです。その言葉づかいは」
父は、どうしたんだと目で問いかけながら私を見た。私は、父に、久し振りにこうさそいをかけた。
「パパ、人生について語り合おうよ」
母と妹は、食べ物にむせて咳込んだが、父は、おもしろそうに口を細めて言った。
「なんだ。また運命についてか」
私は、溜息をつきながら、唇をとがらせた。
「いや、そういうんじゃなくてさ」

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