菜の花の沖
と、嘉兵衛はのちに「上申始末書」のなかで、右の心の動揺について書いている。
しかし、結局は、
(この艦を救ってやろう)
と、思いなおした。
難破からディアナ号をまぬかれさせることによって、日本人の心のあかるさが、ロシア人につたわるであろう。そうすれば、ロシアでの交渉もうまくゆくのではあるまいか。
嘉兵衛は、近づいてくる島が水晶島であり、その沿岸が遠浅であることを知っていた。このままではすぐ海が浅くなってしまう。艦は乗りあげて横倒しになるにちがいない。 もどる
嘉兵衛は一個の船霊のようになって、駈けだした。
あるいは、危機にある船を牛耳っている怪奇な化身になったというべきかもしれない。ともかくもなまのままの人間でなかった。なまな人間としての船長・船頭は、危機のなかの船を操ることができないのである。
危機を感じたときの船長とは、乗組員の信頼を一瞬で得、その心をつかみ、古代の族長が、音階順にならべられた銅鼓を打ち鳴らして神にささげる音を創造するように、乗組員個々に必要な能力を限度以上に発揮させ、個々に身の危険をわすれさせて動きまわらせねばならない存在である。
この場合、艦長リコルド少佐には、ややその点が欠けていたかもしれない。
嘉兵衛は、
(いい人物ではあるが)
と、先刻そのことを察していた。かれは、たがいの体をなであって話さねばならぬような不自由な言語障壁のなかで、
「この場合、艦をこうしなければならない。それも、すぐにだぞ」
というようなことを悠長に話しているゆとりがなかった。さらには、双方、たとえ日本語とロシア語に堪能であったとしても、艦について絶対的な指揮権をもつ艦長に対し、客が(正確には捕虜が)指図するなど、できるわけがない。
嘉兵衛の目の前にそびえているのが、艦首からかぞえて三本目の後 檣である。そこへ登るには、網のようなリギン(索具)がついている。
嘉兵衛は、うまれついての西洋帆船の水夫のようにそれに登った。
途中、トップとよばれる半円形の台がある。それへ両足をのせ、左手で索具を固くつかんで艦の動揺から身を守りつつ、
「ぜんぶの帆をおろせえっ」
と、さけび、腕をふって帆桁を下へおとすしぐさをくりかえし、さらには、
「碇、碇、碇、碇を入れろ」
と、叫んだ。いうまでもなく日本語の号令である。
ふしぎな現象がおこった。すべての乗組員にそれが通じたことであった。
ひとつには、暴風のもとで、しかも座礁の危険のある状況のなかで船乗りとして何をすべきで何をしてはいけないかをたれもが知っていたことである。ロシア語であろうと日本語であろうと、叫んで身ぶりをすればわかることであった。
しかしその命令を発している男が、艦長でも当直将校でもなく、捕虜にしたばかりの日本人であるということに、ロシアの水兵たちは違和感を抱かなかったのであろうか。
抱かなかったらしいことは、何人もが勇敢にマストに登りはじめたことでも察せられる。おそらくかれらは、前日から嘉兵衛を見て、ごく自然に「隊長」とよんでいたことでもわかるように、海を棲処としてすぐれた指揮能力をもつ男ということが、かんで理解できていたのかとおもえる。
嘉兵衛は、縮帆して帆桁をおろすという命令が実行されつつあるのを見とどけると、こんどは碇を投げ入れる作業をトップの上からやかましく督励した。 もどる
碇は、一つでは足りず、船体はそれをひきずって風と潮のために水晶島にむかって流された。海底は、岩石やら砂やらが入りまじって状態が定かでないが、碇掻きがわるいとは思えない。ディアナ号は、二つ目の碇をほうりこんだとき、ようやく船体が停止した。艦は、難破をまぬかれた。
それを見とどけると、嘉兵衛はいたずらを働いた少年のようにこそこそと甲板上から消えた。
リコルド艦長の名誉を傷つけては、かれの今後の指揮に支障をきたすのである。
リコルドは、嘉兵衛を優遇して艦長室に同居させていた。嘉兵衛は艦長室にもどると、荷物のなかからたばこをとりだし、煙管に詰めた。かれはたばこ盆まで持ちこんできていた。吐月峯、そして呉須の絵付のやきものに、灰まで入れてある。
疲れが、出てきた。
「波の上……か」
とつぶやいたのは、自分の疲れを舐めて癒そうとする衝動で、べつに意味のあることばではない。淡路の都志を出て以来、波の上でくらしてきた。二十三歳のとき江戸ゆきの樽廻船に乗りこんだときからかぞえると、二十一年の海上生活になる。
その間、日本列島の外縁は、ほぼまわった。もっとも、四国の土佐沖や薩摩や大隅の沖は知らない。
知りすぎている航路は、日本海である。嘉兵衛にとって加賀の沖はにが手だった。そこで何度かひどい風をくらい、逃げこむ湊もまわりにないという目に遭った。観世丸から弟たちに書き送った手紙の中にも、
かゝなだ(加賀灘)にて大風に合、しし(死し)候よ、(と)存候はゞ、あんじる事なく……
と書いている。加賀の沖で死んだと思えばいいのだ、と自他をなぐさめているのである。「何でも思いよう一つだ」というのが、嘉兵衛たち江戸期の庶民の処世哲学でもあった。
それにしても、嘉兵衛にとって「波の上」が、こんどはカムチャッカまでつづいてゆくのである。こんなひどい目に遭った噺は浄瑠璃にもない。
(えらいことじゃ)
と思っているが、いまあらためてその嘆きやら何やらが嘉兵衛の胸を襲ってきたというわけでもない。
「波の上……か」
というつぶやきは、多分に、現在の艦の状況にかかわっているかもしれない。波の上で、風がやむまで(たとえやんでも潮の様子がよくなるまで)沖懸りせねばなるまい、ということかもしれなかった。 もどる
幸い、十二日いっぱい吹き荒れた風は夜になってやや衰え、十三日の朝があけると、おだやかな西風にかわった。
順風に近い。
艦は碇を抜き、帆をひらいた。目いっぱいに、皿のように平べったい水晶島の陸地がひろがっていた。嘉兵衛が急場の指揮をとらなければ浅瀬に乗りあげて横倒しになっていたろうということは、たれの目にもわかった。
艦は、カムチャツカにむかって勢いよく帆走しはじめた。
艦長というのは、艦の頭脳であり、精神の象徴でもあったが、順調に帆走しているときは、尉 官が交代で、艦を指揮しているために、いわばひまであった。艦長が艦長室でゆったりと茶を飲んでいるときが、艦にとってもっとも幸福な時間といえるのである。
嘉兵衛も、常住、艦長室にいる。かれが室から出るのは、艦首の居住区にいる五人の仲間を訪ねにゆくときだけだった。
嘉兵衛という、リコルドにとってえたいの知れぬ異邦人で、しかも捕虜である存在が艦長室にいる。そういう男を同居させているこのロシア海軍の士官は、十分に豪胆であるといえるかもしれなかった。
(どうも高田屋嘉兵衛はいい男らしい)
と思いはじめているものの、習慣の異なる人間を同居させるのは、終日神経をつかって、やすまるひまがないのではないかと想像しうる。
が、リコルドは存外、そういう神経はつかわないほうかもしれなかった。
同室の嘉兵衛は、リコルドの目からみてもつねに上機嫌でいる。そのようにみえるこの日本の船頭が、リコルドの命ずるままにロシアに運ばれてゆくについては、生命も運命もすてきっているということを、リコルドはどこまで察していただろうか。 もどる
無明
この氷にとざされた僻地で、ひとびとの心によろこびをあたえたものは、オホーツクからの橇であった。
命令書を積み、各人への私信を積み、さらには、食糧や日用品を積んでやってくる。
この外界からの唯一の使者は、鈴をつけていた。鉄板を荒っぽく叩いて造られた鈴の列や束は、橇がゆれるたびに華やかに鳴った。自然が鳴らす物音というのは風のほかないというこの地方に、この鈴の音がひとびとにもたらすよろこびは大きかった。
ある日の午後、嘉兵衛が室内にこもっていると、窓の外をひとびとが駈け、雪の中で踊っている者もいた。
なにごとかと思って戸外に出てみると、かすかに鈴の音がきこえてくるという。
「風のむきによって、ときどききこえるのだ」
と、たれかがいったが、嘉兵衛の耳にはとらえられなかった。しかしただそれだけで、町中が桃色に色づくほどに弾みはじめるのである。
一時間後に、橇がついたときの騒ぎは、祭礼のはじまりに似ていた。さらに、その橇に、意外にもオホーツク長官のペトロフスキーが乗っていることがわかったときのひとびとのよろこびようは、すさまじいものであった。
長官に人望があるというより、外界からの使者は、官位が高ければ高いほど、ひとびとの心は華やぐのである。さらには、持ってくる品々も多く、また長官であるだけに、本国の情報も豊富であるはずだった。幸い、ペトロフスキーは温和な男で、ひとびとから好かれてもいた。
兵士たちが走り、砲廠の扉をあけて八門の砲をとりだし、放列を布いた。いつも訓練しているだけに、なかなか機敏なものであった。やがて、一発ずつ、正確に間を置いて礼砲を射ちはじめた。
(こういうときにも、射つのか)
と、嘉兵衛は感心した。かれは、西洋船が港に入るときに礼砲をうつことは知っていたが、高官の乗った橇が町に入るときにも、町の側が、礼砲をうつのである。
ペトロフスキーは、ロシア人の高級官吏によく見られる赭顔の肥満漢ではなく、リコルドに似た感じの痩身で、顔にむだ肉がなく、目が澄んで清らかな顔をもっていた。背丈はリコルドより低く、どちらかといえば小男に類するかもしれない。
ペトロフスキーが橇から降りるのと、迎えに出たリコルドが抱きつくのと同時だった。双方の感じが似ているところからみて、ペトロフスキーも海軍出身かもしれなかった。
ペトロフスキーは、顔を毛皮のフードでつつんだ少女を同行していた。あとでわかったことだが、かれの娘で、齢は十六歳だった。
ペトロフスキーとその娘は、一人の士官と数人の護衛兵を従え、まっすぐに嘉兵衛の宿舎にむかって歩んできた。
(これは、いかん)
嘉兵衛はすぐさま羽織・袴に着替え、大刀を部屋に置き、小刀のみたばさんで、入口に立った。
やがてペトロフスキーがこの地を訪ねたのは嘉兵衛に会うためであることがわかった。 もどる
ペトロフスキーのことを、嘉兵衛はその『自記』では、
「へとろすけ」
と書いている。
かれは会談の場所を嘉兵衛の宿舎にきめた。あいさつをすませ、たがいに椅子にすわると、ペトロフスキーはすでにリコルドから状況と嘉兵衛の提案をきいているだけに、すぐさま要件を切り出した。
いつもの嘉兵衛ならばそういう事務のすすめ方がこころよいにちがいないが、この時期、仲間たちを死なせて沈みきっていただけに、ペトロフスキーのやり方が押しつけがましく、強圧的にさえ感じられた。
ペトロフスキーは、すでにイルクーツクの総督が署名した松前奉行に対するロシア文の釈明書を用意している。嘉兵衛が要請したとおりに事を運ばせているのである。ただペトロフスキーはそれを見せることなく(見せても嘉兵衛にロシア文がわからないということもあったのだが)、いきなり、
「高田屋嘉兵衛さん。右の書類とはべつに、あなたに松前奉行に対する手紙を書いてもらいたいのです」
といった。
「どういう内容ですか」
嘉兵衛が問うと、ペトロフスキーは内容について一語一語言った。それを、リコルドとオリーカ少年とが、こもごもあやしげな日本語に直すのである。
という意味のことであった。嘉兵衛は、
「ばかな」
と、叫んでしまった。
「なにが無事です。何をもって、あなたは、私どもが当地で無事にすごしているとおっしゃるのですか」
我一向無事にはこれなく候。我々五人夷人一人とも六人参り候内、三人は病死いたし……。
と、激しく言い、これをもってもし「無事」だとして日本へ書き送れば、
大馬鹿者と笑はれ申すべく候。
だから日本への書状などは書かない、と嘉兵衛は言いきった。ペトロフスキーは驚き、リコルドとなにごとか話していたが、やがて嘉兵衛の機嫌をとるように、
「あなたの怒りはわかった。まことに、あなたたちはたしかに無事ではなかった。私は謝ります。なにぶん、ゴローニン以下の救出については、あなたに頼む以外にないのです。私がここでどのようにあなたに謝ったとしても、決してロシア帝国の恥にはならぬと思います」
さらに、ペトロフスキーは、フヴォストフ事件のことを詫びた。この事件があったから日本側がゴローニン以下を逮捕した、という日本側の事情についてもリコルド少佐から話されてよくわかっている、と入念に言い、また松前奉行にも同事件について謝るつもりだ、と言いかさねた。
嘉兵衛が怒りを発したのは、
──当国で無事にいる。
という虚偽の文章を相手が強いたことだけではなく、オホーツク長官の肚の中が読めたからである。
長官は、日本ゆきについては、艦隊をそろえてから行動させようとしているのであろう。であればこそ、日本への嘉兵衛の手紙を要求したのである。嘉兵衛は、ロシア側がそういう威圧外交的な案をもっているかぎり、日本に対する交渉はうまくゆかないと信じていた。
かれは、どなりたかった。
「ゆくのは、ぢあな(ディアナ)号だけでいいんだ。ぢあな号の役目は、わしらを乗せてゆく以外何もない。交渉については余計な考えをもつな。いっさいわしがやる」
と言えば、どれほどせいせいするだろう。もっとも右のことは啖呵というようなものではなく、嘉兵衛の大方針であった。この方針から一歩でも足を踏みはずせば、事が成らないばかりか、日露間がこじれてしまうということも嘉兵衛は知っていた。
ここは、怒声を発するほうがいい。もっとも嘉兵衛は、怒声以外に、どういう武器も言語も持っていなかったが。
嘉兵衛の怒りが、ペトロフスキーの考え方を変えた。なぜなら、ゴローニンを救出するための唯一のカードである嘉兵衛を怒らせてしまってはどうにもならないからである。かれは嘉兵衛の気持をしずめるべく、卓上に置かれた手を握った。さらには、嘉兵衛のいうところをよく聴き、ついには立ちあがって嘉兵衛にあらためて握手をもとめた。
「いっさい、貴殿のいうことを承知した」
というしるしであったろう。 もどる
ペトロフスキーは、すわりなおしてから、以下のようなことをいった。ごく抽象的なもので、いわば、親善のための言葉といっていい。
「ロシアにも、戦さを好む者がたくさんいます。フヴォストフ大尉のごときは、そのひとりです。しかしながら」
と、上を指さし、
「天は一つです。ロシア人も日本人も、一つの天の下に住んでいます。兄弟も同然のことです」
このことばを、オリーカ少年はあざやかに通訳した。
「こういう関係であるべきであるのに、戦さをすることは天道の御咎をうけることです。ゆくゆくは日本と交わりを結び、交易もし、世界融通の状態になりたいと思っています」
「無明長夜ということがあるわい」
と、嘉兵衛は、この夜、金蔵と平蔵にあかるい声でいった。両人とも、そのことばが「浄上和讃」にあることを知っている。
「その長夜が明けようとしているのだ」
オホーツク長官ペトロフスキーの到来と、かれが聡明にも嘉兵衛の考え方を理解してくれたことを指す。
「春も、つい沖合まで来ている。氷が融けはじめるのも遠いことではない」
この日の午後、ペトロフスキーと嘉兵衛とのあいだに意見の一致を見たとき、
「よかった」
と、ペトロフスキーは全身でそのよろこびをあらわし、さらに、かたわらの娘にも、
「この方は、日本国にあっては船頭・船持という高官だ。しかも、天を信仰している」
と、いった。
嘉兵衛が、リコルドに対しても、テン、テンという言葉をよく使うために、ペトロフスキーも知るに至っている。嘉兵衛のいうテンは、ロシア正教の神というものに近いということも、ロシア人たちは知っていた。さらにかれが、
「信心ぶかい方だ。ぜひ、この人の御人柄にあやかるようにごあいさつをせよ」
というと、娘は進み出て、嘉兵衛がおどろいたことに、抱きついただけでなく、やわらかい唇を嘉兵衛の口に押しつけ、
三度口を吸ひ申候。
ということをやった。嘉兵衛は仰天しながらも、かれ自身もそれをすべく三度娘の唇を吸った。嘉兵衛は「彼国の礼」というが、のちのちまで、こんな晴れた気持になったことはなかった、と語った。無明長夜は、状況でもあったが、かれの心のありさまでもあった。その心の暗さは、彼女が三度、かれが三度という都合六度の口づけによってにわかに明るんだといっていい。心の扉というのは、ときに、この種の衝撃によってひらかれるものであるのかもしれない。
さらに娘は、嘉兵衛に、金糸の縫いとりのついた手袋を贈った。
彼女は、部屋のすみへ行って、そこに畳んである衣類をめずらしがった。とくに嘉兵衛が日頃着用している羽二重の綿入れの袖なしを手にとったために、嘉兵衛は、
「寒い日、部屋のなかで、このように着るのです」
と彼女に着せてやり、贈りものとした。
ペトロフスキーは、親切な男だった。滞在中、かれは毎日やってきて、嘉兵衛をなぐさめた。
娘にいたっては、よほど嘉兵衛が気に入ったらしく、ほとんど終日、嘉兵衛の部屋にいて、嘉兵衛の言葉がわからないと、オリーカ少年をひっぱってきて通訳させた。
かれらは五日間滞在した。
出発の日、嘉兵衛は物を贈れるような状態ではなかったが、日本の米と酒を贈りたい、といって、ガラスの瓶を買ってそれに酒を詰め、また箱に米を入れて、ペトロフスキーに贈った。
最早別れ候後は、逢事もあるまじく、さてさて薄き契に候と落涙いたし、三度口を吸ひ、別れ申候。(『自記』) もどる
日本陣屋
嘉兵衛を陸地へ送るためのものである。小ぎれいな制服に着かえた漕ぎ手の水兵たちが乗りこんだが、これらの指揮に、異例のことながら、艦長リコルド少佐みずからがあたった。
「私自身が、タイショウを渚まで送ってゆく」
と、かれは大声でいった。嘉兵衛は、あやうく涙がこぼれるところだった。
ボートがディアナ号の黒い腹を離れたとき、嘉兵衛は多少の感慨がないでもなかったが、知らぬ顔でいた。風は東から吹いていて、この日はめずらしく晴天だった。日本暦五月二十七日の朝である。
嘉兵衛はふと、リコルドの腰に長剣がないことに気づいた。
「カピタン」
と、嘉兵衛は、日本語化したオランダ語でよんだ。艦長、船長、さらには転じて長崎のオランダ商館長をもそうよぶ。
「その腰は、どうしたんだ」
「これか」
リコルドは笑った。
といった。このことは、嘉兵衛を感激させ、その『自記』にくわしく書かれている。嘉兵衛という男が、この種のことに心を打たれるということをリコルドはよく知っていて、そのようにしたのである。いまや嘉兵衛をひとり陸に放つリコルドにとって、この日本人の物に感ずる心に頼るほかなかった。
もっともリコルドは、この機微についてはあくまでも軍人であり、艦を留守するにあたり、先任将校に万一の場合の戦闘準備についてぬかりなく指示をあたえてある。
リコルドは、長い望遠鏡を持っていた。
やがてボートが陸に近づいたとき、磯づたいに二人の日本人が歩いているのが、望遠鏡に映った。さらにはそれが金蔵と平蔵であり、何やら食物のようなものを持っている様子まで見確かめ、嘉兵衛にそのことを告げた。そのあと、
「この望遠鏡で見ろ」
と、押しつけた。
「いいんだ」
嘉兵衛は、望遠鏡をリコルドのひざの上にのせた。誠意をこめていった。
「お前さんが見た以上、わしが見たのと同じなんだ」
我に見よと申候へども、足下が見請候に間違はあるまじくとて、目鏡ハ請取不レ申。
この嘉兵衛の態度は、リコルドを安心させた。リコルドの丸腰といい、嘉兵衛が望遠鏡をうけとらなかったことといい、たがいにこの外交上の切所において信頼感の交換をしあっていることになる。
──わしの人間を見ろ。透きとおっているだろう。
と、双方が、口に出して言わないものの、この事のみを頼りに一艘のボートを漕ぎ進めている。その痛いばかりのたがいの事情を、嘉兵衛もリコルドも見きわめぬいた上で、相手をいたわっていた。 もどる
かれらがめざしたゼンベコタンというのは、奥のほうから小川が一筋、海に流れこんでいる。樹間にアイヌの家が幾戸か見えるが、村人はみな泊村に集まっているのか、人影はない。
やがてボートが、小川の河口に入り、舟底で砂を噛みつつとまった。
嘉兵衛は、とびおりた。
(日本の土だ)
という激しい思いが、足の裏から頭まで突きあげてきたが、嘉兵衛は、木場でしごとをする棟梁のようにふだんの表情でいる。
むしろ、リコルドのほうが、感情を露にした。
「タイショウ、私はこの沖まで何度もきたが、ついぞ上を踏んだことがない。何歩か、歩かせてくれないか」
と、たのんだ。
リコルドが図々しければ、勝手に上陸することもできたのである。それを、かれの虜囚であるはずの嘉兵衛に頼むあたり、すでに嘉兵衛が自分の拘束から離れた自由な日本人として認めていたことになる。
「いいよ」
嘉兵衛はいった。このあたりに役人はおらず、異国人が、鎖国の国法を犯して日本の土を踏んだところで、どうということはあるまい。
リコルドは、ボートから大きく跳んで、水に濡れた砂の上に、長靴のかかとをめりこませた。
リコルドは、百歩ほどの間を三度往復した。
ながい航海をしてきた者が、土を踏むことにどれほどのよろこびをもつものか、嘉兵衛はよく知っていた。
リコルドはリコルドで、かつてロシア皇帝の使節レザノフとその乗員に対し、幕府が上陸を禁じ、かれらのながい滞留中、ほんの小さな磯にかぎって土を踏むことをゆるしたのを思い出していたかもしれない。
(外国人に対し、これほどうるさい国があるだろうか)
という思いも、リコルドには、当然あったであろう。 もどる
リコルドの「散歩」は、金蔵と平蔵が近づいてくることによっておわらざるを得なかった。
──何か食物のようなものを持っている。
と、リコルドがさきに望遠鏡でとらえてそのように推測したのはあやまちであった。
かれらの風呂敷包みの一つは、別れにあたってかれらに与えたこまごまとした記念品───たとえばロシア製の縫い針など──が入っていた。
金蔵と平蔵は、嘉兵衛に、
「お役人にお見せしましたところ、一つのこらずロシアに返せ、というおおせでございます」
といった。
リコルドは、日本のやり方に腹が立った。
「こちらが好意をもって持たせてやったのだ。それは非礼というものではないか」
と、嘉兵衛に対し怒気をふくませていった。同時に、リコルドは日本の壁の固さに暗然とし、こんどの交渉の前途に疑いをもつた。
嘉兵衛も、リコルドの気持がわかるが、ここで同情してはなにもならないことを知っていた。
「すべて日本国の国法による御処置だ。どの国にも法はある。法は、ときに人間の気持を逆撫でするものだが、大きな交渉を前にして、そういうことに感情的になるのはまずい」
と、リコルドをなだめた。 もどる
金蔵と平蔵は、いまひとつの包みをかかえていた。黒塗りの箱に紫色のふくさがかかっている。
(大変なものを持ってきやがったな)
嘉兵衛は内心、叫びだしたい衝動とともに思った。両人のうやうやしそうな様子と包みの体裁から考えて、公文書が入っているように思えたのである。
(いこるつに、出てゆけという内容なのか)
もしそうなら──さらに嘉兵衛がこの場でひらいて文書を見てしまえば──リコルドとのあいだは決定的に決裂する。それも、こんな寒村の渚においてである。
(もしそうであっても、披かねば、このあと、陣屋へ行って、何とでもしよう。命を賭ければ、どんなに固い御方針でも変えてもらうことができるはずだ)
それにしても、
(御陣屋役人衆の軽率さよ)
と、なさけなかった。
相手のリコルドは、皇帝の艦長としても、またこのたびの使命の上からでも、ロシア帝国を代表する官吏である。それに対するこの公文書は、国書というに近い。それを金蔵や平蔵という、国家に責任を持つ必要のない身分の者にもたせてよこすなど、なんと見識のないことであろう。
嘉兵衛は、日本政府を愚かしく思った。ロシアであれ他の外国であれ、幕府はそれと接触するのに、おそれやあなどりといった無用の感情を持ちすぎる。日本も国家なら、相手も堂々たる国家ではないか。その使者は自国を愛し、自国のためには命もすてるという者たちである。
そういう相手の立場を、単に、
──異人である。
という一個の観念のもとに切りすててことさらに無神経になろうとしているのが、幕吏であった。かつてのレザノフ来航のときもそうで、レザノフに持たせる必要のない屈辱とうらみを持たせてしまい、その結果、羽子板のはねが幾度か往きかえりするうちに、嘉兵衛がロシアに連れてゆかれるはめになった。
(まだやっているのか)
という口惜しさと情けなさが、嘉兵衛にあった。
(みな、国内を見ているだけなのだ)
と、思った。ロシアにすげなくすることが、日本の勇ましさであるとかれらは思っている。そうすれば上司がよろこび、江戸の有志の世論も満足する。
(御役人衆には申しわけないが、御歴々は要するに内弁慶どものあつまりなのだ)
嘉兵衛は、なんと腰抜けが、勇ましさを気どり、かつは世間に媚びているだけだ、と思った。
嘉兵衛が、ふくさ包みを見つめて突っ立っていると、金蔵が、
「これは、お役人衆が、艦長へということでございます」
といってしまった。まずいことに、リコルドは日本語がわかるのである。
リコルドは、
「それは、日本政府から私への手紙だな」
と、度をうしなうほどの態度でいった。この箱のなかに、かれとロシア帝国がもっとも知りたいと思つているゴローニン以下についての手紙が入っていると思われたのである。
事実、この文書は、そうであった。
日本国松前奉行の名で、
ロシアは、先年のフヴォストフ事件について謝罪せよ。されば、日本国はゴローニン以下七人の者を帰国させるであろう。
というものであった。
ただし、嘉兵衛もリコルドも、中身までは推察できない(この中身について先んじて触れておく。嘉兵衛が樹てた外交方針と日本側の方針とは、割った符を合わせたように一致していた)。
が、嘉兵衛は、用心した。この箱の中の文書の内容が、吉と出ず、凶と出ることも、十分ありうる。最悪の場合は、ゴローニン以下が非業に死んだという卦が出てしまうことである。 もどる
リコルドは金蔵から包みをうけとり、あけようとした。嘉兵衛は、ひどく重い態度で、
「待った。───」
と押しとどめた。ここであけさせてしまえば、すべてが水の泡になる。
リコルドの「手記」にある嘉兵衛のこのときのことばというのは、以下のようである。
嘉兵衛はそういってから自分の手にその包みをうけとり、馬鹿丁寧に三度これを押しいただく「特別の礼」を用いた。この「礼」こそ、リコルドに対する万言の説得よりも効果的だと嘉兵衛はおもったにちがいなかった。リコルドの「手記」では、嘉兵衛はさらにいう。
べつにこちらの思うとおりに万事うまく行っているなどは、渚に足あとを印したばかりの嘉兵衛にわかるはずもないのだが、リコルドからすれば右のように言いきられてしまうと、そうかな、とふと思ったりもした。さらに「わしは半分はロシア人」というのも、嘉兵衛が、日本とロシアのいずれでもない点から調停しようという態度と立場と決意を言いあらわしたもので、嘉兵衛にまかせきっている、と言明したリコルドとしては、それを理解せざるをえない。ひきつづき嘉兵衛は、いった。
わしに、これを隊長(日本の役人)のところへ返しに行かせて貰えると非常に都合よく行くんだがね。
波が、しずかに打ちよせては、ひいてゆく。リコルドは、靴の底に砂の湿りを感じつつ立っている。かれの苦痛は、砂のかたまりでも口の中にねじこまれるに似て、はなはだしかった。
「タイショウ、何をいうのだ。これは、日本政府がわたしにあてて出した文書ではないか」
と、叫ぶこともできたはずだし、この条件に置かれた者ならたれでもそうしたにちがいない。嘉兵衛はそれを披見させず、自分が持ってゆくという。なぜそういう理不尽に耐えねばならないか。
が、嘉兵衛には、立場と構想がある。嘉兵衛が、この陸地で、いまからやらねばならないことは、対日交渉であった。いまやロシアが相手ではなく、日本なのである。
このほうが、はるかに厄介であった。
「日本」
何というふしぎな国であろう。
歴史的結果としての日本は、世界のなかできわだった異国というべき国だった。国際社会や一国が置かれた環境など、いっさい顧慮しない伝統をもち、さらには、外国を顧慮しないということが正義であるというまでにいびつになっている。外国を顧慮することは、腰抜けであり、ときには国を売った者としてしか見られない。その点、ロシアのほうが、まだしも物の常識とただの人情が政治の世界に通用する社会であった。
嘉兵衛は、そのことを考えている。
かれは、いまから泊村の陣屋へゆく。行ってからの困難については、リコルドとのいままでの交渉のそれよりはるかに越えるだろうし、その点について覚悟もしていた。
泊村の御役人の首座がたれであるかはまだ金蔵や平蔵からきいていなかったが、その人物が日本政府の公文書を金蔵・平蔵にわたしたことも尋常ではない。
(かるはずみなことをなさった)
と、嘉兵衛は感じているが、このかるはずみにうかうか嘉兵衛が乗って、ここでこの公文書をリコルドに見せたりわたしたりしてしまえば、あとで御役人がみずからの軽率を悔い、しかもそれを自分の責任にせず、御役人がしばしばやる論理でもって、町人の嘉兵衛のほうに罪をなすりつけるだろう。そのような奇妙な転嫁はたえず日本の社会ではおこなわれている。
嘉兵衛はすでに、どん底に落ちこんでしまっている以上、どういうはめになってもいいあきらめが出来あがってはいるが、しかしそれによってゴローニン問題がこじれると、何のための小一年であったかということになる。さらには、日露間に、戦争というばけものをひき出してしまうことになるのではないか。
それよりも、日本の御役人に対しては、
──重要な御文書であると拝察つかまつりましたので、とりあえずはロシアの奴輩に見せず、いったん持ち帰りました。
と、泊村の御陣屋でいえば、御役人衆の心証をよくするはずである。小国の心というのは狭溢なもので、
──嘉兵衛は、ロシア人の味方ではないな。
と見て、以後、嘉兵衛が開陳してゆく構想に安んじて乗ってくれるはずである。
このときの嘉兵衛の言葉は、リコルドの「手記」において、こう書かれている。
手続きからいって、そうしておく必要があるんだ。
さらに、嘉兵衛は、
明日になれば、わしはかならずお前さんの所に帰ってくるよ。
と、いった。帰ってくる、とはこの渚に、である。ここで合図をすればディアナ号から短艇が出されるだろう。つまりは、リコルドの艦長室に帰ってくる、ということであり、そのときにこの公文書を持ってくるよ、という意味であった。リコルドとしては、信ずべきなのかどうか。
リコルドの「手記」では、
とある。 もどる
しかし、リコルドの不安と疑惑が消えたわけではなく、こうなった以上、嘉兵衛をひたすらに信用する以外ないと自分に言いきかせただけのことなのである。
二人の間には、言語以上に、赤心と、それをあらわすためのさまざまなしぐさが、いままでも交換されてきたが、この渚の場での緊張は、リコルドにとってかつてないほどのものであった。かれは、ほとんど夢の中のような動作で、自分の胸ポケットから白いハンカチをひきぬき、力をこめてひき裂いてみせた。
ほとんど劇的な場面であったといっていい。この場合、ふつうなら「お前さんの艦に帰って来る」という保証のために、金蔵と平蔵を人質としてリコルドの手許に残すべきものであった。しかし嘉兵衛はすでに日本の陸に帰って安堵している金蔵や平蔵にふたたび不安な目を見させたくなかった。さらには「自分を信ぜよ」とリコルドに言い切っている以上、その方針をつらぬかねばならないと思い、
わしの水夫どもも、わしと一緒に部落(註・泊村)に行かせて貰いたいんだが。
と、いった。このことは、リコルドから見れば、どれほどその親友を信じているかについて嘉兵衛から試されているようにも思えたのかもしれない。リコルドは、むろん同意した。
ただしかれは帰艦してから、万一にそなえ、本格的な戦闘準備を命じた。軍人として当然の処置といっていい。 もどる
箱館好日
やがてかれらは対面のための座敷に入ったが、通詞その他日本側役人はかれらの再会のよろこびをさまたげないように、離れた場所に日本式にかたまってすわった。この日本側の心くばりに、リコルドは気づいていた。
応接掛としての嘉兵衛もまた通詞たちとともに隅にいる。元来、情の多量なかれは、こういう場面を見るのはにがてで、涙をこらえるのに四苦ハ苦した。あわせて、
──わが事は了った。
という思いもあった。去年の八月、クナシリ島の泊湾でとらえられて以来、この情景を現実のものにするために労苦をかさねてきたのである。そのことが、すでにおわり、日露間における戦いの火種も消えた。
その労苦のぶんだけ嘉兵衛の生命も削られたらしく、この日の体の調子はとくにわるかった。嘉兵衛が、自分に課した義務はすべておわった。かれは、中座を決意した。
かれは、リコルドとその配下、ゴローニンとその配下が入りまじって交驩している座へゆき、
「帰るよ」
と、いった。
──わしは涙性で、つい貰い泣きしそうだから。
とでも言えばよかったのにロシア側が誤解したほどにあっけない中座のしかただった。リコルドもおどろいたらしく、以下のように書いている。
(アバヨ、はちょっと、ひどかったかな)
嘉兵衛はふとんをかぶりながら、思った。寒気がするため、丹前を着たまま、亀が甲羅に首をすっこめたようにして臥せている。
すべてが大団円を遂げた。嘉兵衛は、ディアナ号にとっても、リコルドにとっても、あるいはゴローニンにとっても、もはや当事者ではなくなった。以後、リコルドたちは、かれらだけの輪をつくって故国へひきあげてゆくのである。
嘉兵衛は、なにやら自分ひとりだけ舞台を去ってゆく役者のように思えた。かれらの交驩の場から中座するとき、ロシア人のように大きな身ぶりで袂別の演説をするわけにもゆかず、かといって日本の婦人がよくやるようにだまって目頭をおさえるというしぐさもできない。結局は、多少おどけてみせて、アバヨと、ロシア人の仲間たちの前を通りぬけてゆく以外になかった。
(それが、日本国の船頭というものだ)
嘉兵衛は、みずからに言いきかせた。 もどる
嘉兵衛の高熱がさがらず、おふさが、つききりで看病した。彼女は、お四国の行脚のおかげで病いぬけしたのか、すっかり元気になっていた。
嘉兵衛は、病室にあっても、刻々、ディアナ号の消息を浜の者から伝えさせた。
ゴローニンとリコルドが会見した翌日、病気の嘉兵衛の代理として次席通詞の上原熊次郎がディアナ号を訪れた。口上は、あすゴローニン以下をひきわたす、ということである。
──タイショウは病気だ。
ということが、ディアナ号の水兵のはしにいたるまで伝わり、たれもが心配した。
ディアナ号は、積込み作業にいそがしかった。
何度か日本側は、江戸からの指示により、長途の航海に必要な薪水、食糧を無償であたえた。リコルドは、国際慣例にない無償というものを苦痛とした。しかし日本側の法理としては、有償にすれば鎖国の国禁をみずから破ることになってしまう。
積込み作業は、日本人漁夫の手でおこなわれた。ときに艦上にあってはミサがおこなわれていたため、作業が混乱した。ミサがおわると、ロシアの水兵と日本人漁夫が一つになって、互いに冗談を言いながら、樽を揚げたり、船艙におろしたりした。
前艦長ゴローニン少佐は、艦長室にもどった。嘉兵衛がながい期間、そこに横たわっていたベッドに腰をおろし、リコルドが注いだ帰還最初のウオツカをすこしずつ飲んだ。
逆風がしずまった日本暦九月二十九日、リコルドは出港用意の信号をあげた。
嘉兵衛は、丹前をニ重に着襲ねた異様なかっこうで、見送りのためはしけに乗った。べつに、高橋三平が奉行所の儀礼船で見送りに出た。
ディアナ号は、湾口へ曳かれてゆく。日本側が出した三、四十艘の櫨舟が、魚貫するようにして漕ぎすすむ。嘉兵衛はそのうちの一艘の艫に立っていた。
やがてディアナ号は湾口に出たとき、風の中で鳴るようにして帆を展いた。そのとき、リコルド以下すべての乗組員が甲板上に整列し、曳綱を解いて離れてゆく嘉兵衛にむかい、
ウラァ、タイショウ
と、三度、叫んだ。嘉兵衛は不覚にも顔中が涙でくしゃくしゃになった。一閑張の遠めがねを高くあげ、足もとをよろめかせながら、
ウラァ、ぢあな